彼女は傘をささない。
Planet_Rana
1:邂逅カイコウ
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「徒然なるままに。ひぐらし」
耳あたりの良い声が、今日も俺をそよぐ。
今日も今日とて平和な一日。それはかりそめの平和かもしれないし、偽りの現実かもしれない。カフカの変身のように、「私は実は虫でした」なんて話もあり得るかもしれないのだ。
「仲原さん。百二十六頁三段落目から読んで下さい」
「はい」
自由な幻想を打ち破られる形で現実に引き戻された俺は、教科書を手に取り指定された頁を開く。兼好法師の徒然なる作品の考察やら読みどころやらが記述された、特に面白いとも思わない説明文だった。
国語の教科書に、作者本人が書いたあとがきならともかく、現代人の批評文を載せる形式はあまり好きではない。
兼好法師が作品を書いた意図なんて、想像こそすれ、そうだったという断定などできないに決まっている。
史実に残るのは紙に起こされた僅かな言葉や尾ひれのついた人の噂。
現代ですらマスコミに踊らされる時代なのに、今はもういない大昔の人間の思考回路など読み解ききれるわけがない。
無謀だ。
それならタイムマシンを作ってインタビューしてくればいいじゃないか。
「はい、そこまでです仲原さん。このように兼好法師は――」
一仕事終えた風に席につくと、解けた緊張の糸を巻き直す。
授業は進むが話は聞かない。髪を奇抜に染めずとも、真面目そうな眼鏡を辞めずとも、思春期特有の反抗はいとも簡単に行える。生徒指導に引っかからず、ささやかな反抗期を謳歌できたならば、それは人生の勝ち組に等しいだろう。
俺は、飲食禁止の授業中に水筒の茶でも飲んでやろうかと、左手を鞄に伸ばした。
その行動が、俺の人生を歪めたきっかけである。
校舎の裏が伺える窓側の席。俺の左手には、外が望める硝子窓が床に近い下の部分に張られていた。
窓の外には少女がいた。冬服のセーラーを着た少女。
ここは学校なのだから、制服を着た髪の長い少女が見えることは珍しくない。どうせ体育をサボってそこにいるのだろう、なんて安易な考えが浮かぶに違いない。
けれど今日は風のない大ぶりの夏雨のせいで、外に出る生徒など何処にもいない。
おまけにつけ加えると、彼女は校内にすらいないのだった。
思考を停止させて、鞄に沿えた手が凍る。
幽霊でも見ている気分だった。けれど、幻というにはあまりにもリアルな目触りで、彼女はふらふらとフェンスの向こう側を歩いている。
その方向には普段と変哲もない大きな川があるのだが、どうやらそちらの方に向かっているようだった。
傘はさしていない。
「――では、今日はここまで。帰りの会ですが、今日は連絡事項もないので解散です」
担任兼国語教師である彼女の解散の掛け声と共に、俺は鞄をひっつかんで教室を飛び出した。いつもは鼻で笑っている快活男子どもを追い越して、滑りそうな階段を駆け下りる。
「廊下は走らない!」
諌める声が聞こえたが、聞こえないふりをした。
校庭を駆け抜けて普段は登ったりしないフェンスに足を掛け、いつか見た映画の主人公のように突破すると、あれからしばらく経っているにもかかわらず少女は河原に座り込んでいた。
俺は学校の傘立てから適当に抜き取ってきた傘をさしだそうとしたが、不思議なことに彼女も傘を持っている。
綺麗に纏められた青いビニール傘。買ってから一度も使われていないんじゃないかと錯覚するほど傷も曇りもないその傘を目に留めて、とりあえず自分が使っていた傘の下に入れた。
ざあざあと降る大粒の雨が俺の鞄と右半身を湿らせる。
「何してるんだお前。風邪ひくぞ」
声を掛けるも返答はなし。
さあて、そろそろ幽霊説が濃厚になってきたが、俺はそういうオカルト的思い出など微塵も身に覚えがない。つまり霊感も何もないただの中学生ということだ。
俺は実体を確かめる為に少女の頬に「ぺちり」と掌をつけた。
氷のように冷えきった肌だったが、弾力があることから生きていると判断する。
「なんだ、生きてんじゃん」
「……生きてて悪かったわね。幽霊の方がお好みだった?」
ようやく言葉を発した少女はそう言って振り向いた。
ぐしゃりと濡れた髪と対照的に、色を失った白い肌が黒い眼を際立たせる。
睫毛は短く、唇も小さい。
「邪魔よ、帰って。私は川を見ているの」
「はあ、何してるんだよこんなところで。今日は雨だ、川の水だって増えるだろう」
「遠回りな自殺って言葉知ってる?」
「学校裏でそんなことされても迷惑だ。化けて出られても困る」
「出ないよ。本の読み過ぎ」
死んだら終わり、これ常識ね。
少女はそう言って立ち上がった。俺は彼女が川の方へ行ってしまうのかと身構えたがそんなことはなかったようで、俺がさしている傘の下に入った。自分の傘を広げるよりも、紳士傘の下の方が濡れないと思ったのだろうか。
期待とは裏腹に俺の右半身はびしょ濡れだ。鞄に関してはたいしたものは入っていないので問題ないが。
「――送って」
「はあ?」
「私を家まで送って頂戴。引き留めたんだから、それぐらいしてくれるでしょう?」
「っんだよそれ、勝手に帰れって」
「いいの。放っておくと死ぬよ、私」
少女はそう言って笑った。
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名を「咲」というらしい。咲くと書いて「えみ」。
名前とは裏腹に笑顔が似合わない少女だった。
笑うと口角が歪み、八重歯が目立ち、引き攣った目元と相まって、悪魔か鬼のように見えるのである。
少女はそれを知ってか、ことあるごとに笑顔を見せた。
始めて会った雨の日も、次の雨の下でも。
彼女は雨が降るたびに授業を抜け出してあの河原に座り込んでいた。
毎度傘をさす気配はなく、三度目を過ぎた頃からはむしろ俺が来るのを待っているようにすら見えた。
妙なことに首を突っ込んだ実感を持ちつつも、俺は彼女の為に大きめの傘まで買って通い続けた。
そうして、校舎裏の河原に座る彼女の相手をしていると、あっという間に夏がやってきて、最後に話したのが夏休みの前日である。
「今日もきてたのか、雨も降ってないのに傘なんか持って」
「遠回りな自殺だって言ったでしょう?」
「またそれか」
俺は言いながら、定位置になった彼女の隣に座り込む。
護岸工事がされているブロックの上は、夏の日差しに熱せられて酷い暑さだった。ついた手を引っ込めて、横顔を覗くと、晴れているにもかかわらず、少女は青ざめているようにも見えた。
今日は体調が悪いようだ。話を早めに切り上げなければ――すっかり少女の扱いに慣れてしまっていた俺は、深く考えずに言葉を返した。
「流石に雨の下に出続ければ風邪とか引くんじゃないか? 今日は早めに帰ろうぜ」
「いつものように、日が赤く暮れてからじゃないと帰らない」
いつものようにと簡単に言いはするが、今日は終業式で早めに授業が終わったので、今は午後二時を過ぎた頃である。
話すにしてもここでは俺が干からびてしまう。猛暑にやられているいい例として、目の前の干上がった川をあげようじゃないか。
「分かった分かった、話は聞いてやるから。場所を変えよう。あーなんだ、涼しいとこ」
俺の頭の中に浮かんだのはカラオケという単語だった。勿論俺が奢る予定だ。一拍置いて、彼女は答える。
「カラオケとか良いのかもね」
珍しく、思考回路が合致した瞬間だった。
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