3:妄言モウゲン
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雨はあまり好きではない。
母が私を始めて殴ったその日が雨だったからだ。
秋に台風が多いこの島では珍しく、静かで穏やかな霧雨だった。
殴られるたびに頬骨が軋んだのを憶えている。
今思い出しても痛い気がして、ほんの少し恨めしくなった。
残念ながら傷痕が残るように母は私を殴ってくれなかったので、訴えるにしても時効である。
しかしそもそも彼女を敵に回そうとは思っていないし、中学を卒業するまで家を出るつもりもない。
そのような度胸はとうに捨ててしまったし、そうして私は生き延びてきたのだ。
卒業したらどうするか、私は決めていない。
そんな心持を悟られたくなくて、中学校二年生の初夏のある日、私は授業をサボった。
生徒用玄関の傘立ての中で目についた青いビニール傘を引っこ抜いて、バットでも持つように肩に背負って。
なあに、校舎裏の河原に遊びに行くだけである。どうせこの傘は開かない予定で、持っていくだけ無駄なのだが、この日は欲が出た。雨の日に傘を持つという気分を味わえたらと思ったのだ。
外は大雨で、体育館からは運動場から移動させられた男女の入り混じった声がする。ダムダムとゴムが跳ねるような音がするから、恐らくバスケかバレーか、バスケのようなバレーをやっているのだろうと勝手に推理した。
大粒の雨が両肩を伝って冬服のセーラーを湿らせる。雨が降りそうな日は決まって冬服を持参した。登校するときは夏のセーラーを着て、学校で着替えて、それから河原にサボタージュしに行くのである。雨に濡れると寒いし、夏服では下着が丸見えになってしまうからだ。
飢えた男共に今日の下着の色を晒したところで厄介ごとしか舞い込んでこない。昔からそう、相場は決まっている。
女は、弱い。
男と女を創った神という代物が存在するのであれば、何故力関係を公平にしなかったのかと詰め寄ってやりたい。
子どもが大人に勝てないのは何となく理解できるが、人間の進化の結果として何故男の方が強く発達したのだろうか。
公平な力をお互いに持つ社会では、平和にならなかったのだろうか。
生物として生き残れなかったのだろうか。
分からない。
それもこれも、所詮中学三年生の考える意味もない暴論、根拠もない憶測だ。けれど、もし女が弱いと分かっていたならば――私は男に産まれたかった。
親には逆らえなくても、女には逆らえる男に、私は産まれたかった。
「……それこそ、思ってもいないこと」
私自身、そんな度胸もないくせに。母に逆らうつもりなど毛頭ない。
この世に産まれてから十四年もの間、彼女は私を育ててくれたのである。曲がりなりにも育ての親で、血は繋がっているし、戸籍上にも母親だ。
それに、母の気持ちが分からないでもない。
愛した夫を他人に取られたならば、人を愛する者として当然に憎むことだろう。
私でも同じ立場ならきっと。
「実のない話ね」
思考を切り上げて、独り言も大概にしなければならないなと空を仰ぐ。
雨はカビの生えた餅が折り重なったような姿をした変な雲から落ちていた。目に入ると、水中で目を開けたときに視界が滲むのと同じようになる。水道水との違いは、目に入ると僅かに沁みることか。
「いっそのこと、全部溶かしてくれたらいいのに」
呟いて、穴の開いたフェンスをくぐった。
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それまで面識もなかった同級生、仲原と出会ったのはこの直後の話である。
私が「遠回りな自殺だ」と茶化すと、彼は首を大きく傾げて見せた。
私は今、雨に濡れていない。
酸性雨に浸かった冬服で身を包んでいるものの、頭上には紺の傘が咲いていた。それは飾り気のない紳士傘で、彼の右肩と鞄とを犠牲にすると、私と彼と、その両方をすっぽり包み込める位の大きさであった。
取っ手の太さから、ああ、男の人用なのだな。と判断した私は、頭一つ分高い位置にある彼の顔を見ることはせずにコンクリートの護岸を踏みしめた。
雨は止む気配を見せない。ぼたぼたと野暮ったい音が頭上で繰り返している。
「ねえ、私、貴方と話すの始めてよね」
「ああ、そうだ。俺はクソ暑い夏雨の中で冬服着て、持ってる傘を使おうともしない、髪がぼっさぼさの女なんて、今まで生きてきて一度たりとも話しかけた覚えがないからな」
「酷いなぁ、好きでこんな場所に出向いてるわけじゃないのに」
「ふーん」
「……貴方、私が女だから優しくしようとしたわけ?」
私は目の前にある白シャツのボタンとボタンの間に指を差し込み握りしめ、ぐいと一歩踏み込んだ。
この手を離さないまま意図的にバランスを崩せば、彼は私と共に轟々と唸る左手の運河へ真っ逆さま。もし実行した場合には嫌な道連れになりそうだ。虚言で口にした「遠回りな自殺」が「巻き込み系自殺」にランクアップする。その理由は周囲にかける迷惑度が後者の方が高いから。
そう。周囲にかける迷惑度が跳ね上がる。
「冗談よ。悪かったわね」
ものの三十秒で、出会ったばかりの同級生を巻き込む気が失せた私は彼のシャツから手を離した。生地が多少伸びてしまったのと、貝ボタン似のプラスチックボタンが一つ外れてしまったことに関しては謝らなければいけないだろう。
と、そこでようやく私は頭上に浮かぶ男子生徒の顔を確認した。
彼は、苦虫を煎じたものを煮詰めて煮出して濃縮したサプリのカプセルを、あろうことか噛み砕いて咀嚼してしまったような。そんな顔をしていた。つまりは変顔だ。
不意の出来事に、私は思わず吹き出してしまった。水鉄砲を発射する竹筒の如く、コンマ数秒の間に大量の唾が彼の顔面に吹きつけられる。
傘の中は大惨事になった。
言わんこっちゃないと、彼は嫌々傘を閉じた。大粒の酸性雨が彼の頬を掠めて赤くする。水濡れの鼠のような男子中学生はそんなことよりも顔を濯ぎたい一心からか、傘を手にしていない方の掌を顔にあてて上下させた。
「変な人」
「お前だけにはいわれたくねえよ」
初対面の彼の第一印象は、物好きな男、だった。
「私は咲。咲くと書いて『えみ』というの。貴方は?」
「……仲原 樺依。『白樺に依りそう』で『かい』だ。あんたと同じキラキラ輝く誇らしい名前だよ」
「そう、仲原さんというの。丁度良かったわ」
私はこの日を恨んでやまない。
彼と出会ったこの日を羨んでやまない。
「送って」
「はあ?」
「私を家まで送って頂戴。引き留めたんだから、それぐらいしてくれるでしょう?」
何故なら、生前の私にとって最も幸福だったのは、彼に出会ったこの瞬間だったのだから。
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「今日は、デザインベビーについて話し合いましょう」
「お前、毎回コメントし辛い話題を選ぶなよな」
今日も今日とて、身にならない話だ。彼と会うようになってからというもの、雨が降るたびに増水した川に赴き、いやいや引き留めにくる彼と合流して後、ぐだぐだとお喋りすることが日課になっていた。
始めの内はあたり障りのない話を――例えば、今日は前線が列島にこうかかっているから、どの向きの風が吹いてるんだとか、雨が強いのに風がないのは地形と建物の位置がどうなんだとか、そもそも雨の日に増水した川の中ではどうして生物が生き残れるのか、とか――そんな、中学校の授業に応用できるわけでもない雑学を。
それが日課になり、暗黙の了解の内に、お互いが今日の議題を持ち寄るようになった。
「デザインベビー。生まれる前に遺伝子操作をすることによって、目的の能力や病気への耐性をもった子どもを産み出す行為」
「あー、そういう定義があることは知ってるけどさ。でも実際にどうなんだろうな、遺伝子をいじるっていうのは。男の子が欲しいとか、女の子が欲しいとか、そういう範疇を超えた話だろう」
「ええそう。でもまあ、私個人の意見としては、子どもを産む時点で十分混ざってると思うけれど。だって、私や貴方が産まれたのは血の繋がらない二人の人間の遺伝子が混ざりあって、それからでしょう。そうしないと、子どもは産まれない」
千切って増えるプラナリアとは似ても似つかない。
「クラゲじゃあ、あるまいし」
「そう。それに人間はプランクトンじゃあ、ない」
知能を手放し、何も考えずに生きていくことは許されない。
雨の酸が、骨に沁みた気がした。
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その日のことだ。
土砂降りの中、いつものように彼に家まで送ってもらった私は、すぐに地獄を見た。
殴られたのである。扉を開いて、内から鍵をかけて、振り返ったら殴られた。まあ、それは良い。私にとっての問題は、その後で彼女が発した言葉だった。
「ありえない、お父さん以外の男とつき合うなんて! 『私』は私なのに! 『私』が愛しているのはお父さんだけ! それ以外の男にうつつを抜かす余裕があれば! 少しでもお父さんに愛される努力をしてみなさいよ……っ!」
「……」
母は、とっくの昔に壊れている。
それは常々実感していた。父が私を愛して、それからいなくなって後。彼女が私のことを「私」と呼ぶようになったことからも、嫌でも分かる。
母は中学校に通う「咲」のことを、自分だと思っているのだ。
自らの娘としてではなく「恵美」という自己と認識している。
お父さんは私が愛していたんだ、と。
だから、お父さんが愛した私も、「私」なんだ、と。
ちゃんちゃら可笑しいとんでも理論だが、参ったことにそれが真実であると信じて疑わないのが、彼女である。
しかし、どうしたことだろうか。彼女の口から、「私」と「お父さん」以外の単語が。何より「男」という単語が出てきたことに、私は器用にも、殴られながら目を丸くした。
彼女が言う、お父さんを唯一として愛していなければならない「私」が、うつつを抜かす「男」が現れた、と。
既に母は私が反撃するまでもなく満身創痍だった。心も身体も擦過傷だらけで、夏だからと着ている六二〇円の桃色のシャツの所々には赤い差し色が滲んでいる。
まるで染物のようだと思考する一方、一度殴られるごとに視界が鮮明になる。
そうだ。誰だ、誰の話をしている。
言葉が耳に届かない。鼓膜でも破れたか、麻痺したか。
「げほ、か、……っねえ『私』。男って誰のこと。思い出して、口に出して。『私』が忘れるはずないものね?」
「…………ほら、最近家まで送ってくれる『彼』よ」
言いながら、本日最高の一発が鳩尾に沈んだ。
給食で得た日々の栄養源が苦みを伴って逆流する。自分の靴の上に吐き出した、こんなものが胃に収まっていたのかと、思わず目を疑うそれらが鼻に衝く。
おかげで脳髄が覚めた。
彼だ。傘をさしだしてくれた、あの彼だ。
思い至ると同時に、産まれて初めて、他人の無事を心から願い、血の気が引く自分がいることに気がついた。
この状況で他人の心配をする私も、だいぶ壊れたものである。
けれど、これだけは確かだ。
私は、間違っても「私」なんかじゃあ、ない。
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――そうして、夏休みに入る前日。
カラオケに寄った帰り道。少女はまっすぐ家に帰ることなく、いつもの河原に立ち寄った。
左の手には青いビニール傘。
空には薄く雲が張っていて、太陽は西に消え、紫色の霞を照らす。纏わりつく湿気に肌が泡立つ。どうやら、小雨が降ってきたらしい。
ぽつぽつと頬に落ちる酸性雨が、皮脂を僅かに溶かした。
「…………」
少女は一人、傘をさした。
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