第82話 しあわせなおはなし

 はじめまして、わたしは山田花子。

 魔法少女を目指す、可愛い女の子!

 ある夏の夜、流れ星に乗ってやってきた妖精さんと約束をしたの。いつかわたしは魔法少女になって、世界の平和を守るんだって。

 でも、今のわたしはただの女の子。

 完璧な魔法少女になるにはまだまだ修行が足りないわ。

 だから決めたの。妖精さんが戻ってくるまでに、たくさん努力をして、魔法少女にふさわしい女の子になるって!


 さあ花子ちゃん。頑張りましょう。

 いつか素敵な魔法少女になるために。

 皆から称賛される魔法少女になるために。


 山田花子の魔法少女になるための大計画!

 【ステップ1。母親を殺して、村を出よう!】






「山田さんおはよぉーっ!」


 降り注いだ牛乳がわたしの黒髪をビタビタに濡らした。

 わたしはパチリと顔を上げ、机の前に立つクラスメートの女子達を見上げる。彼女達は牛乳瓶を手にキャハキャハと、わたしの白く染まった頭を笑っていた。

 ロッカーに一週間放置されていた牛乳はむっと鼻を突くような嫌な臭いがした。


「あら……」


 暇つぶしにお絵描きをしていたのだ。けれどノートに一生懸命描いていた魔法少女のイラストは、真っ白に汚れてぐちゃぐちゃになってしまった。

 仕方なくノートを閉じ、牛乳を洗い流すためにトイレへと向かう。教室を出てすぐ女子達のアハハという甲高い笑い声が、扉を貫いて聞こえていた。

 セーラー服から牛の乳臭さが香る。すれ違う生徒達が、鼻をしかめて怪訝にわたしを見つめていた。女子トイレの手洗い場で制服を脱ぎ捨て、ばしゃばしゃと水に浸けて洗う。結局牛乳臭さは取れず、びしょ濡れになった制服を着て、午後の授業を出ることになりそうだった。冬の寒さが身にこたえる。


 濡れたセーラー服を着て、鏡を見る。そこに映る自分の顔を見る。

 幼い時分よりスラリと伸びた手足。長く伸びた黒髪は背中にまで垂れ、大きく膨らんだ胸がセーラー服の生地を押し上げている。

 ニコリと微笑めば、鏡の中のわたしも微笑んだ。雪のように白い肌の中、唇は、まるで紅を塗ったかのように赤く燃えている。


 わたしは十四歳になっていた。




「山田さんは怒らないの?」


 ガコンと開いたゴミ箱から大量の埃が舞い上がる。

 わたしはゴミ袋を新しいものに付け替えながら、隣で箒をはく男子に首を傾げた。


「今朝もまた、女子達にいじめられていたじゃないか」

「あれっていじめなの?」

「いじめだろ。こないだだって、川に突き飛ばされたり、トイレに閉じ込められたりしたんだろう? 立派ないじめさ」

「でも、わたしのお母さんの方がもっと厳しいのよ。慣れてるわ」


 掃除の時間だった。わたしとクラスメートの男の子は、外階段の掃除を任されていた。彼は名を■■くんと言った。正直今は、どんな名前だったか覚えちゃいないのだけれども。

 わたしは普段教室では誰とも喋らない。けれど掃除の時間ばかりは、こうして彼とお喋りをすることもあった。彼はクラスの人気者だった。賢く、話が面白く、何より顔がハンサムだからだ。

 常にクラスの中心にいるような彼と、教室の日陰者のわたしがこうして喋るのは、掃除の時間くらいしかなかった。


「山田先生は厳しすぎるんだ」


 彼は苦笑ぎみに言った。

 山田先生、と呼ばれて大人達に慕われているわたしの母。けれど実際、子供達の多くはわたしの母を嫌っていた。

 母はわたしほどでないにしろ、子供達をよく叱る。厳しすぎるのだ。いくら子供達の為を思った叱責といえど、素直にそれをありがたがる子供などいない。

 大きくなってわたしは、周りの子供達がわたしの母のことを「鬼ババ」と呼んでいることを知った。


「……そういえば知ってる? この村がダムに沈むかもっていう噂」

「ええ、知っているわ」


 変わった話題に頷いた。それはこの村の大人も子供も、誰もが知っている噂だった。

 ××村がダムに沈む。

 それは全て、数年前の流星群が原因だった。


 この村は流星群によって壊された。

 流星群は一晩で村人の約四割を殺した。田畑は焼かれ、平和だったこの村は一瞬で地獄になったのだ。

 村がダムになるという噂が出てきたのは数ヵ月ほどたった頃からである。

 村長は何も言わなかったが、スーツを着た偉そうな都会人が何度も村に訪れているのを見れば、皆察していた。

 この村はもうボロボロだった。故郷に見切りをつけ、都会に引っ越す若者も多くいた。この先限界集落になっていくであろう村を無理に維持していくより、いっそダムにでもして、人の役に立てたほうがいいだろうという話であるらしかった。


「俺は村を出たくないな。都会はどんな所か想像もできないから、怖いんだ」

「わたしは今すぐにでも村を出たいけど」


 都会にはきっと何でもあるのだろう。

 甘いケーキも、可愛いぬいぐるみも、素敵なお洋服屋さんも、たくさんのアニメが見れるテレビだって。こんな何もない田舎に住み続けるより、そっちの方がずっといい。

 わたしはぼんやりと伊瀬くんのことを思う。

 カメラが好きな少年は、都会で何をしているのだろう。


 伊瀬くんは村を出て行った。頭の怪我を治すため、都会の大きな病院に移ることになったのだという。

 流れ星がぶつかったショックか、彼の意識はいまだ朦朧としているようで、わたしに引っ越しの挨拶もしてくれないまま都会に行ってしまった。あの様子では、わたしのことも、宇宙人のことも、忘れてしまっているかもしれなかった。

 彼は都会に行けていいな。ズルいな。わたしも連れて行ってよ。こんな所に置いて行かないでよ。

 母はこの村を離れたがらないだろう。最後の最後までこの村で、わたしを支配し続けるはずだ。ダムに沈むったって下手すれば何十年後の話か知れない。わたしは一刻も早く母から離れてこの村を出ていきたかった。

 都会に行ったらきっとわたしはもっと可愛くなれるのに。髪をピンクに染めることだってできるのに。可愛いふわふわのドレスを買うことも、お化粧品を買うことだってできるのよ。

 あの子のようになりたいの。


「都会に出たら、わたしはきっと、魔法少女らしくなれるんだから」


 都会への夢を馳せるわたしの横で、■■くんは一瞬怪訝そうな顔をした。

 彼は少し躊躇ったあと、低くなった声でわたしに言う。


「その……魔法少女とかそういうのさ、言わない方がいいんじゃない?」

「どうして?」

「俺達もう中学生だぜ」


 苦い薬を飲んだように彼は顔をしかめた。箒の柄にあごを乗せ、肩を竦める。


「魔法少女を夢見ていいのは子供だけだろう。俺達はもう大人みたいなもんだぜ。いつまでも乳臭いことを言っているから、女の子達も君をいじめるんだ」

「…………」

「普通の女の子でいれば、きっと皆も友達になってくれるさ。恋人だってできる。君は綺麗なんだから。だからそろそろ、そういう夢は卒業し、て……」

「…………」


 わたしはジッと真正面から■■くんを見つめた。彼はサッと顔を青く引き締めて、気まずそうに視線を逸らす。

 それ以上彼は何も言ってこなかった。


「ゴミ、捨ててくるわね」

「あっ」


 わたしはまとめたゴミを両手にゴミ捨て場へ向かう。待てよ、と慌てた彼が追いかけてきて、二つとも抱えてくれた。


「いいよ、いいよ。寒いだろ。ゴミ捨て場の方は、風が強いから」

「寒いのは慣れてるわ。いつもお母さんに裸で外に放り出されているんだもの」

「えっ」

「今夜もきっと外に出されてしまうわね。さっき返ってきたテスト、十点だったから」

「…………」

「あら、なぁにその顔」


 ■■くんの顔は赤くなっていた。彼は驚きに丸くなった目でわたしを見つめ、何度も瞬いている。


「裸で外に?」

「嘘じゃないわよ。お母さんは本当に厳しいんだから。■■くんもきっとうちの子供だったら、わたしと一緒に素っ裸で外に出されてるんだから」

「…………へぇ」


 彼は低い溜息のような声を出した。わたしも溜息を吐いて、澄んだ冬の空を見上げた。

 今夜は雪が降るらしいと、誰かが言っていたっけ。



 裸で外に出されるのが何度目か、もう覚えていない。

 今夜もわたしは外に放り出された。わたしはいつものように軒下にしゃがみ、空から降ってくる雪をぼんやりと見上げているのだった。

 いつもこうして母が許してくれるのをじっと待つ。数分後か、数時間後かは分からない。母の気分で変わるのだ。

 けれど今日は違う。母は家にいない。急用ができたからと、泊りがけで街へ行っているのだ。

 だからわたしは夜が明けるのを待っている。朝がきて、母が帰ってくるまでを。


「ズッ」


 十四にもなれば分かっていた。他の家では躾だからといってこうして冬の外に子供を放り出したりしないことを。

 流星群が壊したのは村だけではなく、わたしと母の仲もであった。

 元々仲良し親子とはいえないわたし達だったが、あの流星群の晩が、わたし達の亀裂を更に広げてしまったのだ。

 母はわたしが夜に家を抜け、伊瀬くんに怪我をさせたことが許せなかった。

 あれ以来母の躾はより苛烈になった。毎日叱られぬ日はなかった。


 一番嫌だったことはわたしの部屋が地下室になったことだ。

 床下収納の更に奥、我が家にはそこに地下室があったのだ。父と母が家をたてるとき、より物を収納できるようにと増やしたらしい。

 単に収納場所が増えれば便利になるだろうという意図で増やしたらしい部屋が、まさか娘の軟禁部屋になるとは当人達も思っていなかっただろう。

 家を抜け出そうとしてもすぐ分かる。躾のための怒鳴り声も地下ならば響かない。なるほど確かに地下室というのは、躾ける側からすれば理想的な軟禁部屋だった。

 そこに娘の意思など一つもないが。


「寒い……」


 わたしは知っている。勝手口に鍵がかかっていないこと。母がかけ忘れたのかわざと開けていったのかは知らないけれど、家に入ろうと思えばいつでも入れることを。

 けれどわたしは外にいた。体力の限界を迎えるまで、ここで空を眺めていようと決めたのだ。

 あの流星群の夜からずっと、わたしは暇さえあれば夜空を見上げていた。いつ繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺|?$繧九∩が宇宙から戻ってくるか分からなかったから。

 伊瀬くんがいなくなった今、あの約束を覚えているのはわたしだけ。

 魔法少女になるという約束。

 わたしはいつまでも、宇宙から繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺|?$繧九∩がやってくるのを待っている。


「ほ、本当に裸なんだな」


 他人の声にハッと顔を上げた。

 いつの間にか、庭先に■■くんが立って、こちらを見つめていたのだ。


「どうしたの。こんな深夜に」


 わたしはキョトンと立ち上がる。素足で雪を踏み、妙に顔を赤くしている彼の元に行った。


「……君の話を思い出してさ。本当に裸だったら、今夜は寒いだろうと思って」


 彼は言って着ていたコートをわたしに貸してくれた。温かな衣服をまとってはじめて自分の体が相当冷えていたことを知る。凍り付いていた肌がじわじわと溶けていくようで、ほっと安堵の息を吐いた。

 わたしは別段彼が来たことに驚いてはいなかった。何故なら、伊瀬くんと同じだと思ったから。もっと幼かった子供の頃、彼もカメラを手にこの屋敷に迷い込んできたことを思い出したから。

 あのときのように、■■くんも迷い込んでしまったのかと思っていたのだ。


「先生は?」

「今夜は街へ行ってるの」

「酷いお人だ。じゃあ、家に入れないの?」

「……星を見ていたいの」


 わたしの言葉を彼はどう解釈したのか知れなかった。ごくりと唾を飲んだ彼は、冷えたわたしの手を取って、自分の元に引き寄せる。


「綺麗なものが見たいなら、ここよりおすすめの場所があるんだ」

「なぁに?」

「水中に沈む星空」


 妙にロマンチックな言葉と共に彼は微笑んだ。わたしはふっと笑って、「素敵」と微笑んだ。

 甘い砂糖でコーティングされた言葉の裏に気付けるほど大人じゃなかったのだ。


「行こうよ」


 優しく微笑む■■くんの目がやけにギラギラしていたことも、その唇から溢れる吐息が獣のように生臭かったことも、わたしは最後まで気が付かなかった。



「森の奥に湖があるのを知っている?」

「うん」


 わたし達は森の中を歩いていた。村のはずれにある、木々が生い茂った場所である。

 森の奥には湖があった。と言っても、濁った水が満ちているだけの汚い湖だ。子供達の遊び場にもならないどころか、魚一匹泳いでいない。

 湖の底にはたくさんの隕石が沈んでいる。村に落ちてきた流星群を、皆で集めて湖に沈めたのだ。大人達はそうして湖へ向かう道に立ち入り禁止の柵を立てた。忌々しい流星群を、記憶からも消し去りたいというように……。

 けれど今、わたしと■■くんはそこへ向かっていた。立ち入り禁止柵の根本。そこに穴が開いていた。大人は難しくとも、女子供ならばギリギリ通り抜けられそうな大きさの穴だ。

 迷いなくそこをくぐって向かった先。木々が晴れて視界が開けたとき、わたしはあっと声をあげて目を見開いた。


「星空だ」


 湖が青く光り輝いていた。

 鮮やかな青色をした水。その中で何かがキラキラチカチカと輝いている。幻想的な光をぼうっと見つめるうち、それは底に沈んでいる隕石の輝きだと分かった。

 沈んだ石が発光しているのだ。その光が湖を青く見せているらしい。

 石の成分のせいなのか、あれほど濁っていた水はすっかりと澄み渡り、魚までもがあでやかに泳いでいる。

 湖はまるで、星空のように美しかった。


「この間来て、湖が光っていることを知ったんだ。誰かに見せたくて。ね、綺麗だろ」

「うん……本当に、綺麗」

「水もうまいんだよ」


 彼は湖の水をすくって飲んだ。あまりにもうまそうに飲むものだから、わたしもならって水を口に含んだ。

 その途端、ぶわっと舌先に幸福が広がった。

 わたしはびっくりしたまま水を飲み込んだ。冷たい水が喉を通り、胃に落ちていくのをしっかりと感じ、ぶるぶると体を震わせた。


「お、おいしい」


 それはたまらなくおいしい水だった。

 甘いのだ。それも、自然な甘さじゃない。伊瀬くんの家ではじめて食べたケーキの味よりも、台所からこっそり拝借して食べた砂糖の味よりも、うんと甘くて幸福な味がした。

 いや、しかし。これに似た味をわたしは知っている。どこで食べたのだったろう。何を食べて、この味を感じたのだったっけ……。


「まだ寒いだろう」


 ■■くんは微笑んでわたしの横にしゃがみ込んだ。湖に夢中になっていたわたしは、そこでふと違和感に気が付く。

 彼の手がわたしの腰に触れている。怪訝に横の彼を見上げれば、うっとりと微笑む彼の顔が間近にあった。


「ここは都合がいい場所なんだ。ロマンチックだし、誰も来ない」

「ええ、そうね?」

「二人であたたまろうじゃないか」


 彼がわたしを突き飛ばす。わたしは開いたコートの上に、裸を差し出すように横たわった。驚きに目を丸くするわたしの上に、彼が大きくのしかかる。

 何をするの、とわたしは静かに呟いた。分かってるだろ、と彼は服を脱いで笑った。

 わたしを拘束する彼の手は燃えるように熱かった。今は、冬だというのに。


「や、やめて」

「はは、今更可愛い子ぶってんなよ。裸で俺に近付いてさ、ここまでついてきた時点で同意ってことでしょうよ」

「嫌。あっちに行って!」

「そう言わずに楽しもうぜ? 田舎の娯楽といえば、いじめとセックスくらいだろ」


 湖が風にちゃぷりと揺れる。村人が沈め損ねた石がいくつか、砂の上で青く光っていた。

 ■■くんのあごから滴る汗がわたしの肌を濡らしていく。彼は興奮にぎらついた笑顔を浮かべ、粘ついた声で笑った。


「散々優しくしてやったろぉ?」


 体に走った痛みにわたしは呻いた。わたしの上で、彼の体がゆらゆらと動く。腹の奥がナイフで刺されたように痛かった。

 わたしは彼に何をされているのかよく分からなかった。

 保健体育の授業中はいつも寝ていたから。


「将来は魔法少女になるんだとか、宇宙人と会ったんだとか……メルヘンチックなことを言うのはもう卒業しなって。言っただろ? 俺達中学生なんだよ。現実見なきゃいけない歳なんだよ。そういう空想じゃなくてさ、リアルな楽しみ見つけようぜ」


 メルヘン、と掠れた声で繰り返した。わたしの上にまたがってうごうごと蠢く気味の悪いクラスメートを、茫然と見上げていた。

 空想じゃないわ、とわたしは苦痛の喘ぎの隙間に言った。震える手足をばたつかせ、爪で地面を引っ掻いた。


「本当よ。宇宙から来た妖精さんと約束したの。わたしはいつか、魔法少女になるのよ」

「だからさぁ。やめろってそれ言うの。萎えるわ」

「悪い奴をやっつけるの。世界の平和を守るのよ」

「……あー、まあなれるかもね。ほら、テレビ局にでも入ったらさ。アニメを作る人として、山田さんも魔法少女のイラストでも」

「わたしは」

「あ?」

「わたしは本物の魔法少女だ!」

「ゴガッ」


 指先に触れた石を掴み、全力で振り下ろす。石の先端が■■くんの額にぶつかり、彼の体からガクンと力が抜けた。

 彼の体を突き飛ばす。立ち上がったわたしは、彼が正気に戻る前に、その頭を掴んで湖に思い切り沈めた。


「世界を守るのよ。正義の味方なの。可愛い衣装を着て、可愛いピンク色の髪をして、誰よりも強い魔法の力でたくさんの敵をやっつけるの。メルヘンな妄想なんかじゃない。わたしは本当に魔法少女になるんだ。約束したんだ」


 わたしは怒鳴り続けた。湖に沈めた■■くんの口からはゴボゴボと大量の泡が出るばかりで、返事は聞こえなかった。

 わたしは彼がごめんねと謝ってくれるまでその頭を湖に押し込め続けた。持っていた石で何度も彼の頭を殴る。血は湖の中に広がると、青いモヤのように広がって消えた。


「わたしは魔法少女なんだ!」


 誰も来ない森の奥は、彼が言っていた通り、いくら叫んだって誰も来なかった。

 彼の口から泡も出なくなった頃、怒鳴り疲れたわたしは彼を岸に引っ張り上げた。彼は白目を剥いて痙攣していた。上半身も下半身もよく分からない液体でべしょべしょに濡れていた。


「■■くん?」


 苦しそうに痙攣しながらも、彼は笑っていた。鼻から鼻血を垂らし、おぅおぅと奇妙な鳴き声のような声を上げている。

 このまま放置して帰ってしまおうかと、わたしは立ち上がる。ズキズキと痛む太ももを血が伝った。

 必死に抵抗したせいで全身が汗だくだった。頬をダラダラと流れる汗を拭う。

 その拍子、握っていた青く発光するその石が唇に触れた。

 舌先を石が掠めた瞬間、わたしは白目を剥いてその場に倒れた。


 目が覚めたのは夜明の頃だった。

 起き上がればパキパキと関節が鳴る。何故か流れていた鼻血を啜る。痺れる目を擦るうち、わたしはぼんやりと昨夜の記憶を思い出してパチリと瞬いた。

 横には■■くんが倒れている。彼はまだ生きていた。けれど一目見た瞬間「あ、もう彼は駄目なのだな」と悟った。だらだらと流れる涎を指で拭ってやり、昨夜までの元気だった彼に頭の中で別れを告げた。

 わたしの右手にはまだ石が握られていた。朝になれば発光は弱まり、薄白い石へと変わっていた。

 昨夜この石を舐めた瞬間の衝撃がよみがえる。わたしはおそるおそる、慎重にその石をもう一度舐めてみた。


「ギャ!」


 途端体中を貫いたのは痺れるような幸福。

 湖の水を飲んだ瞬間の幸福を、何倍にも凝縮したような味に、わたしは打ち震えた。

 同時に、思い出したのだ。この味をどこで味わったことがあるかを。


「……おんなじだ」


 繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺|?$繧九∩がわたし達にくれた宇宙のお菓子。青いミルクと緑のケーキ。それととってもよく似た味だったのだ。

 そのときふと思いついた考えに、わたしは目を輝かせた。湖の底に沈むたくさんの石を覗き込む。

 使えるかもしれない。

 朝日に光る水面にわたしの顔が反射する。それはキラキラと眩い、輝くような笑顔であった。


 わたしは完璧な魔法少女になるため村を出たい。

 その計画に、この石を利用するのだ。




「ヒロポンとあ! 昔、とあう製薬会社が発売ひていたおくちゅりです!」

「…………」

「現在は、いほーな薬物として、厳しくとりしまらえていゆ物えす! 戦時中はへいたいしゃんのやる気をだすためぃ、いっぱいちゅかっていたそーです! 覚醒剤や、大麻など、そーゆー薬物ぁ中毒性があるから、一回でも使っちゃうぉ、大変だそーです! やめられなくなっひゃいまちゅ!」

「……はい、■■くんありがとうございます。音読はそこまでで結構ですよ」

「あい!」


 ■■くんはあれ以来おかしくなった。

 宇宙から降ってきた隕石には、地球上でいう薬物と似たような成分が含まれていたらしい。それも相当強力なものが。その成分が大量に染み出た水をたらふく飲まされた■■くんは、脳に深刻なダメージを負ったのだ。

 変わり果てた彼を皆が嘆いた。教室の人気者が一夜にしていなくなってしまったのだから、当然のことだった。


「はなぉちゃん! あそぼ!」

「駄目よ■■くん。まだ授業中でしょう」

「あそぼ! やだ、あそぼ!」


 彼はわたしにだけ懐いた。クラスの女子達はそのことにいい顔をしなかった。おかしくなってしまったとはいえ、人気者だった彼がわたしなんかに靡いていることが気に食わなかったのだろう。


「おい」


 放課後の女子トイレは夕日のオレンジ色に染まっていた。

 体育館裏の古いトイレは、汚くて誰も近寄らない。わざわざやってくる人など、よほど切羽詰まっている人か、いじめのために呼び出された人くらいのものだった。

 いじめグループのリーダー格である彼女は一人、わたしと向かい合って立っていた。他の子はいなかった。それは、彼女が密かに■■くんに好意を寄せていたからかもしれなかった。

 わたしはポケットにだらりと手を突っ込みながら彼女を見つめていた。何かご用かしら、とも問わなかった。彼女の言いたいことなど分かり切っている。


「お前さ――モガッ」


 だから、わたしは彼女が何かを言う前にその口に右手を突っ込んだ。正確には、握っていた小石をじゃらじゃらと口内に放り込んだ。

 隕石を細かく砕いた小石である。彼女はそのいくつかを飲み込んだ途端、プツッと鼻血を出してその場に座り込んだ。


「えぁ」


 しょわしょわと漏れた尿が彼女のスカートを汚す。彼女は汗だくになった体を痙攣させながらも、必死の形相でわたしを見上げていた。


「おぁ。おぁえ……。あ、あたしに、何ひた」

「すごい。まだ喋れるのね」

「あにひたんだよぉ」

「わたし、あなたと仲良くなりたいの」


 わたしは彼女の前にしゃがみ込む。濡れたスカートの下に手を差し込み、彼女の下着に手をかけた。緊張のせいか、隕石の成分のせいか、白い太ももはびっしょりと汗ばんでいる。

 おかしくなった■■くんと何度かそういうことはした。練習をしたのだ。今後のために。

 わたしのこれからの計画には、たくさんのお友達が必要だった。お友達の作り方をわたしは学んだ。 


「あ、あにするの」


 怯えた顔をする彼女に向けて、わたしはにこやかに微笑んだ。


「お友達になりましょう」


 田舎の娯楽といえば、いじめとセックス。

 それから薬物くらいのものである。




 わたしにはお友達ができた。最初は一人、次は五人、次は二十人、とその数はどんどん増えていった。

 皆がわたしを囲んで笑う。花子ちゃん、花子ちゃん、と人懐っこい笑顔で甘いお菓子とキスをねだるのだ。

 わたしを訝しむ『普通の子』を狭い部屋に連れ込む。甘くておいしい飴玉を食べさせて、ズボンやスカートをちょっとまくってやれば、その子達はわたしの『お友達』になった。

 母は気が付かなかった。大人達も気が付かなかった。気付きかけた教師は、体育館の裏に連れて行ってわたしのお友達にした。

 気が付けば、村の子供達は皆わたしのお友達になった。 


「お食べ、お食べ、飴玉を。おいしい飴よ。ほっぺたが落ちちゃうわ」


 トイレの床にばらまいた石のかけらを、女の子達が一心不乱に這いつくばって舐め取っている。わたしはそれを微笑ましく見つめながらも、使い切ってしまった今日分の石に溜息を吐いた。


 隕石は湖の底にたくさん沈んでいる。けれどそれにしたって、数には限りがある。

 繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺|?$繧九∩が宇宙から戻ってくるのが何年後か分からない。それまで石を温存しておかなければならないのだ。

 混ぜ物をしてかさ増ししなければ。しかし、何と混ぜるかが問題だ。石を細かく砕いて粉末にしたものを色んな粉と混ぜて実験をした。小麦粉、砂糖、塩……色々と試してみたが、相性がいいものがなかなか見つからない。

 薬物と相性のいい粉はどこにあるのだろうか。

 どんな粉でも、試してみなければ。



 墓参りの日のことである。

 年に一度向かうお父さんのお墓には、鮮やかな白い花が添えられていた。

 手を合わせたわたしが目を開けても、なお母は墓に手を合わせ続けていた。いつまで祈るんだと呆れる頃に、ようやく母は顔をあげて立ち上がる。

 わたしが小さい頃に父は死んだらしい。覚えてもいないほど、幼い頃の話だ。毎年わたしは母に連れられ、知らない人の墓に祈りを捧げている。


「花子」


 神妙な声にわたしは顔をあげた。隣に立つ母は、わたしを見下ろして珍しく微笑んでいた。

 風に母の髪が揺れている。豊かに降り注ぐ日光が、母の黒髪を艶やかに光らせていた。


「私はあなたのお父さんと約束したのです」

「うん」

「あなたを立派な人間に育ててみせると。父がいない分、二人分の愛情をあなたに注ぎ続けると」

「うん」


 父がいなくなる前を思い出したのか、母の目尻は水分に潤んでいた。粘膜に滲んだ涙がつやりと光っている。

 わたしはそんな母の隣で、じっと父の墓を見つめて、母と揃いの黒髪を風に揺らしていた。


「愛していますよ」

「うん」


 母がわたしの手を握る。殴られず、叩かれず、ただ母と手を繋いだのは、きっと幼い頃以来だった。

 涙を零す母の隣でわたしはじっと墓を見つめ続けた。供えられた花の白さに、スンと鼻を鳴らす。

 父と母はわたしに、この白い花のように純白に育ってほしかったのだろうか。


「わたしもお母さんを愛しているわ」


 それはきっと。わたしが生まれたその瞬間から、叶わぬ願いだったのだ。



 夜。草木も眠り、母も深い眠りについた時刻。暗い部屋の中でわたしの目だけが爛々と輝いていた。

 わたしの横で母が眠っている。今夜は一緒の部屋で寝たいとわたしがねだったのだ。口元に手を当てて起きないかを確かめてみるが、起きる気配は微塵もない。

 夕食のお茶に混ぜた睡眠薬はよく効いていた。

 部屋を出て外に出る。寝巻で向かうは、昼に行ったあの墓場である。真っ暗な夜に包まれた墓場は、昼間とは違いよそよそしい冷たさでわたしを歓迎した。

 丁寧に掃除されたばかりの父の墓。その墓石をゴトゴトと動かした。女一人の力ではなんとも重労働だったが、汗を滲ませながらもようやく目当てのものを引っ張り出す。

 骨壺である。そっと蓋を開ければ、灰色の遺灰が詰まっていた。わたしの父だ。

 持ってきた石の粉を骨壺にぶちまけた。手で適当にかき混ぜれば、遺灰と薬物の混じった灰色の粉ができる。

 指ですくった粉を一口、舌先で舐めてみた。


「!」


 ぶわっと口に広がる幸せ。とろとろと脳がとろけそうな快楽に、わたしはブルリと身を震わせた。

 全体的な量は増えたのに薬物の効果がちっとも薄れていない。体中に広がる痺れるような幸福に、わたしは思わず感動の涙を一滴、骨壺に垂らした。

 抱きしめていた骨壺に頬ずりをする。冷たい陶器の質感は、まるで父の死体に頬ずりをしているようだった。


「お父さん」


 わたしはこのとき初めて父を想った。子供のためになってくれた父に、心からの感謝を捧げた。

 宇宙の薬物と遺灰は相性がいい。それはとても素晴らしい情報だった。

 この村の墓地は広い。数年前からうんと拡大されたのだ。

 あの夜降り注いだ流星群によって村人の約四割が死亡した。

 混ぜ物にする材料は、たくさんある。




 全てがバレたのはそれからまた数年がたった日のことである。


「花子」


 それは突然だった。母の鋭い声が、屋敷中に響き渡った。

 宿題をやっていたわたしはビクリと肩を強張らせた。恐怖を感じ振り向けば、すぐ背後に、鬼の形相をした母が立っていた。

 何かと聞く前に拳が飛んできた。顔面を強く打ったわたしはその場に引っくり返る。鼻血をだらだらと流しながら、わたしは目を丸くして母を見上げた。


「聞きましたよ」

「え?」

「あなたが、『お友達』と何をしているのか!」


 ああ! と頭の中でわたしは叫んだ。

 バレてしまったのだ。わたしが『友人』と呼んでいたクラスメート達と何をしているかを。

 母の顔はどす黒い怒りに染まっていた。膨れ上がった面からは今にも鬼の角が生えてきそうだと思った。

 潔癖な母はわたしを許さないだろう。きっともう、永遠に地下室に閉じ込められて、二度と外に出れないのかもしれなかった。


「…………」


 そう思うと、不思議と心が穏やかに凪ぐ。キィンと耳鳴りがして、母の怒号が遠くなった。

 そうだ。何も変わらない。わたしがすべきことに、計画していたことに、何一つ支障はない。


「汚らわしい。この、売女。恥知らず」

「…………」

「お前には失望した。お前を産んで育てたことは、私の人生の汚点だ」」

「…………」

「お前はもう私の娘じゃない!」

「そう」


 わたしは笑った。母が一瞬、狼狽えたように後ずさった。

 畳の上にわたしの黒髪が波のように広がっている。肌を照らす白い日光は、場違いなほど穏やかだった。


「さよならね、お母さん」


 母は重苦しい溜息を吐いてわたしに背を向ける。怒りのせいか、涙のせいか、その肩がぶるぶると震えていた。

 わたしは音もなく立ち上がる。ポケットに隠していた石をそっと握る。

 震える母の肩に手を置いた。

 母が振り返る。彼女は何故か、縋るような表情を浮かべていた。

 わたしは母の頭に拳を振り下ろした。



「おはよう」


 暗い地下の部屋で目が覚めた母は、ハッと青ざめた顔でわたしを見つめていた。

 自分の手足を拘束するロープ、わたしの地下部屋から一歩も出られぬだろう状況を、その賢い頭で理解したのだろう。

 ロープを限界まで伸ばしても届かない位置に置いた椅子、そこに座ってわたしは母を見下ろしていた。

 いつもと立場が逆だった。


「花子」


 母は茫然とわたしの名を呼んだ。

 母が母親としてわたしの名を呼んだのは、それが最後だ。



 山田先生が行方不明になったという話は一瞬で村を駆け巡った。

 村人は天涯孤独になったわたしを憐れむばかりだった。誰もわたしの家を調べる者はいなかった。駐在さんでさえ家の玄関をちょっと調べたくらいで、地下室の存在にも気が付かなかった。良くも悪くも、ここは田舎だった。

 わたしの母は村人の中で死んだ。

 母は二度と日の光を浴びることなく、数十年のときを地下で過ごした。



 わたしが母を閉じ込めたのは地下室だ。わたしの部屋として、母が管理していた軟禁部屋。

 お友達に協力してもらい部屋の周りを檻で囲んだ。常に監視を置いて、母が部屋から一歩も出られぬようにした。食事も排泄も睡眠も全てをその部屋で行わせた。

 母が退屈しないよう、檻の前で様々なショーをしてあげた。魔法少女ごっこと称したコスプレショー、添加物と着色料だらけのお菓子パーティー、男女数名の友達を呼んで行うセックスパーティー。

 母は最初こそ怒っていた。けれど次第に、涙を流して地上に戻りたいと懇願した。猫なで声でわたしを懐柔しようとし、そして最終的には気が狂った獣のようになった。

 「花子さん、花子ちゃん」とわたしを呼ぶ声は、歯がボロボロになるにつれて「はなおひゃん」になって。そして最後は「はにゃお」になった。

 ばにゃほ。はぁほおぉ。はにゃほ。

 花子。花子。花子。

 ここから出して、花子。


「わたしはお母さんを恨んじゃいないの」


 いつか、わたしは母に言った。

 その頃には母はもう檻の中で呻くばかりになって、ミイラのような姿でわたしを見上げるだけだった。檻の中に入って母の隣に寝そべっても、抵抗一つしてこなかった。


「産んでくれたこと、本当に感謝しているわ。この世に生まれていなかったらわたしは魔法少女の夢も見ることができなかった」

「はにゃお。は、ばにゃお」

「前にお友達がわたしに言ったの。君が歪んでいるのは、お母さんの厳しい躾が原因なんだろうって」

「あぅ。おお。おぉ……」

「それもあるのかもしれない。でもきっと、お母さんが優しい人だったとしても、わたしは今と同じ子に成長していたの」


 わたしの幼少期は悲惨らしい。わたしの母はおかしいらしい。だからわたしは『歪んだ子』になってしまったらしい。

 けれどわたしの生き様に、過去はまったく関係ない。

 どんな場所に生まれようと、今とまるで同じわたしに成長していただろうと思うのだ。


「愛してる」


 母を愛している。だから、死んでほしくないと思う。ただ村を出ていくのを反対されるだろうと思ったから、こうして閉じ込めているだけなのだ。

 母の黒々とした瞳から涙が零れた。透明な涙が唇に伝うのを見て、わたしは母の唇にキスをした。

 垢と汚れだらけの粘ついた口に、わたしの赤い舌を潜り込ませる。頬で舐めていた流星の欠片を、そっと母の口内に渡してやった。最後のプレゼントだ。

 母は泣いた。きっと、嬉しいからだろうと思う。

 母に罪があるとしたら。それは、わたしという人間をこの世に産み落としたことだ。


「私、ここを出ていくわ」


 母から離れ、私はようやく大人になった。

 十八歳のときの話だ。

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