第80話 魔法少女ピンクちゃん
外に飛び出した私達を待っていたのは、地獄だった。
「…………」
すぐ近く。建物が燃えていた。たまに前を通りかかるお花屋さんだった。
赤い薔薇、黄色いヒマワリ、青いブルースター。綺麗ねと腕の中のチョコと笑って見ていた鮮やかな花達が、真っ赤な炎に包まれていた。
燃えているのは花屋だけじゃない。遠くに見える古本屋さん、その先にある小さなマンション、その先のコンビニ、その先の……。至る所から火の手が上がり、暗かった空は夕焼けのように赤く光っていた。
目の前をパトカーが猛スピードで駆けていく。彼らは私に気が付くこともなく、けたたましいサイレンを鳴らしていた。
街から聞こえてくるサイレン。狂ったように鳴り響く音は、もはやどれが救急車で消防車でパトカーなのかも分からなかった。
草木も眠る丑三つ時。そんな言葉を笑い飛ばしたくなるほど、楽土町は悲鳴に満ちていた。
「悪い夢でも見てるみたい……」
茫然と呟く私の手を、隣の湊先輩が無言で握った。
彼の体温は火傷しそうなほど熱かった。
それほど、自分の体が冷えているのだと知った。
三月十九日。日付が変わったその瞬間、楽土町内で多数の事件が発生した。
傷害、殺人、放火、窃盗。まるで示し合わせたかのように同じ時間帯に発生した犯罪は、あっという間に街をパニック状態に突き落とした。
警察の手も救助の手も足りなかった。警報に叩き起こされた人々は混乱しながら避難所に詰め寄せていた。
笑顔の多い平和な街、楽土町。
そんなものはもうどこにもない。
「……お姉ちゃん。ねえ、あのさ」
「うん?」
「お姉ちゃん達怪物……魔法少女? ってさ。分身の魔法とかも使えるの」
携帯で家族や友人の安否確認をしていた晴ちゃんが、姉の服を引っ張った。
雫ちゃんは怪訝な顔をして否定する。すれば晴ちゃんは丸っこい目をぱちくりと瞬かせ、短い前髪を揺らした。
「じゃあこれ何? 中学校で暴れてるっていう怪物の動画。お姉ちゃん達以外にも、怪物っているの?」
私は彼女達の会話に何の話かと首を傾げていた。
と、スタスタ無言で歩いてきた千紗ちゃんが、無言のままぐっと私の首に手を回してきた。彼女は私の頬にぴとりと頬を引っ付けて、目の前に携帯を突き出す。私は目をパチパチさせて戸惑いつつも、差し出された画面に視線を向けた。
画面に映っているのはとある公園の映像だった。
街灯が明るかった。チカチカと点滅する光に合わせて、撮影者の靴の爪先が明るくなったり暗くなったりを交互に繰り返している。
元が白かっただろうスニーカーは、血で真っ赤に染まっていた。
『何なんだよ』
嗚咽混じりに撮影者が言った。悲鳴をあげて走ってきた誰かがぶつかり、激しく揺れた画面が、遠く離れた所にある遊具を映す。
ブランコは引き千切られていた。滑り台は真ん中から真っ二つに折れ、砂場は大量の赤い水がたぷたぷと揺れるプールになっていた。
壊れた公園の中央に、一匹の猿がいた。
姿は猿によく似ていた。その体躯が横のジャングルジムより巨大でなければだけど。その頭部がしわくちゃの老婆の顔をしていなければ。
それは、人間と猿をぐちゃぐちゃにくっつけたような怪物だった。
『ンフッ。ンンッ。ンフンフ』
それは奇妙な鳴き声を発しながら拳で地面を叩いている。地面には、たくさんの■■が散らばっていた。ほかほかとした湯気が風に揺れている。悲鳴をあげて逃げていく人々の足が■■■を踏みつけて、スニーカーを赤く汚していた。
怪物だ、と誰かが泣き叫んでいた。老婆の怪物はその誰かに向かって拳を振り下ろし、■■■■に変えていた。
『ンンン。ンフ、ンフーッ』
『何なんだよ。なあ、何だよ』
『ンフンフンフンフ』
『何なんだよぉっ』
『ンッ!』
『ぁっ』
振り向いた怪物と撮影者の目が合った。怪物はビタンと地面を叩いてこちらに走り寄る。巨大な足はたった二歩で距離を詰め、カメラいっぱいに怪物のあんぐりと開いた口内が映った。
ブツンという音は、撮影が終了した音か、それとも撮影者が終了した音だったのか。
投稿時間は三分前だった。
「……あたし達にこんな怪物仲間がいたなんて、知らねえぞ」
千紗ちゃんは青ざめた顔で笑った。
ネットに上がっている動画はこれだけじゃなかった。
電車の中で火を噴いている芋虫のような怪物、ビルのガラス戸を叩くゾンビのような怪物、教会の壁をよじ登り中に侵入しようとしているヤギのような怪物……。
楽土町の至る所で撮影された動画や写真。そのどれもに、怪物が映っていた。
街で暴れている犯人は、怪物だった。
「こ、こんな怪物見たことないよ」
湊先輩が呻く。
この中で一番怪物に詳しい彼が言うならば、皆も当然知らないことだった。
これまで。怪物と言えば、それは私達のことだった。魔法少女になれなかった三人の怪物。それ以外に怪物なんて存在しないはずだった。
だったらこの怪物達は何者だ。どこから来た。
「宗教団体の信者達か」
カツン、とマスターの硬質な声が上から降ってきた。
後ろから伸びたマスターの指が画面をつついた。彼は一枚の写真を拡大させる。
トカゲに似た怪物が暴れている写真だ。背中にボコボコと生えているトゲがクッキリと映る。
トゲに白い布の切れ端が引っかかっていた。よく目を凝らせばそれが服であると分かる。まろやかなミルク色の柔らかそうな生地。
それは、黎明の乙女の信者達がよく着ている服だった。
「荒らされた研究所からいくつか試験薬が持ち出されている。チョコ達はおそらく、それを信者達に投与したのだろうな」
「そんなことしても、信者を怪物に変身させるだけじゃない。何のために?」
「……彼らは見た目にこだわっていたからなぁ」
「?」
私は振り返ってマスターを見た。けれどマスターは私を見ず、ぼんやりとどこか遠くを見つめていた。
マスターの横顔は鋭利に尖っていた。青い夜の光が、その肌を幻想的に艶めかせる。
人間味をなくした美貌に私は唇を尖らせた。
彼が宇宙人であることを何故か今改めて思い出したのだ。彼はチョコと生まれの同じ、宇宙人なのだ。
「……マスターはどこまで知ってたの」
「と言うと?」
「チョコのことよ。知ってたんでしょ?あの子がこの地球に来た理由も。これから何をしようとしているのかも!」
マスターは小首を傾げて冷たい微笑を浮かべた。
怒りに顔を赤くしていた私も、その微笑みに、思わず呆気に取られた。
「知らなかったと言えば嘘になる」
まるで明日の天気を聞くかのようにあっさりとした返事だった。
ぽかんと口を開ける私にマスターが顔を近づける。ロマンスグレーの髪からは、冷たい夜の香りがした。
「私は何も、君達の味方ではない。チョコの味方でもない。中立にいるのだ」
「…………」
「面白いものが見れそうな側へ付いているだけ。今は君達の側に、しかし状況によってはチョコの側に。それだけだ。チョコの情報の全てを君達に与えるのは、面白くなさそうだったからね」
回りくどい言い方をしているけれど、つまりマスターはチョコが最初から私達の味方ではないことを知っていたのだ。
目的や動機の全ては知らなかったかもしれない。でも少しくらい教えてくれてたっていいじゃない。こんなの、あんまりにも優しくない。
「マスターはドライな宇宙人ね」
「チョコの方がよっぽどドライさ」
私の文句をマスターはさらりと流した。けれどその返しが気になって、私は首を傾げる。
「チョコが? うそ、そんなことないわ。だっていつもあんなにニコニコくっついてきたような子なのよ」
「その彼に裏切られたのはどこの誰かね」
「う」
「あいつの人懐こさは上澄みだけだ。彼が聖母に加担するのも情からではない。あいつにとって、この状況はゲームなのだ」
「ゲームって……」
「舞台は地球。ランダムに選択した主人公に君の母親を選び、彼女にとってのハッピーエンドを目指すシミュレーションゲーム。街の住民に薬を与えて怪物化させているのも、ずっと君の傍で君を監視していたのも、ハッピーエンドに向かうための選択肢にしかすぎない」
「…………」
「あいつはゲームが好きなんだ」
SNSの向こうでは怪物が大暴れしてどんどん人が死んでいく。こんな惨事を引き起こしたのは、本当にチョコ達なのだろうかと、いまだに半信半疑だった。
宇宙人の『チョコ』がぬいぐるみのチョコに入って喋りだしてから約一年。けれどぬいぐるみ時代からも含めると、私がチョコと出会ってから十数年……。ずっとずっと一緒だった。そんなチョコが私を裏切るなんて、それがただのゲーム感覚だなんて、信じたくなかった。
ありすちゃん、見てくれよ。シューティングゲームで最高スコアを叩き出したんだ!
クレーンゲームってとっても楽しいね。お店の商品、全部ぼくが取っちゃうぜ。
ありすちゃん。次はあっちのゲームで遊ぼう。ほら、早く行こう、ありすちゃん!
私はじっと黙って目を伏せた。震えるまつ毛が視界の端に揺れていた。
湊先輩と商店街ではじめてデートをした春の頃。ゲームセンターで無邪気にはしゃいでいたチョコの声。
あのとき腕の中にあったふわふわとしたピンク色の毛の感触を、上手く思い出せなくなっていた。
「!」
突然、携帯が震えた。取り出した携帯の表示を見て、ドッと心臓に嫌な汗がにじんだ。
だってそれは、パパからの電話だったから。
「あんだよ、出ないのか?」
「だ、だって。パパからだから」
「へえ、そう」
「あっ!」
横から千紗ちゃんが手を伸ばし、もしもしもし? と私の代わりに電話に出てしまう。私は慌てて携帯を奪い、青ざめた頬を押し当てた。
「ぁ……。っ、…………」
声が出ない。緊張に喉が詰まって、呼吸さえも苦しかった。
長い逃亡生活の後、パパとはじめて話すのだ。
パパは私の味方なのだろうか。ママのように、私のことを本当は愛していないんじゃないだろうか。
何を言われるのか分からなくて、怖かった……。
『ありす?』
けれど。電話口から聞こえてきた声を聞いた瞬間、私の目はカッと熱くなった。
ただ名前を呼ばれただけ。それでも、その声音を聞けば、パパがどんな気持ちで電話をかけてきたのかを理解した。
優しさに満ちた、大好きなパパの声だった。
「…………ぱぱぁ」
ぐっと込み上げてきた感情を抑えきれず、私はずるずるとその場にしゃがみ込んだ。溢れ出した涙が点々と地面にしみを付けていく。
『……無事かい?』
「うん」
『寒くなかった? 風邪は引いてない? どこも怪我はしてないかい?』
「うん。うん……」
ズ、と鼻を啜って何度も涙を拭う。背中にはまだ傷が残っていたし、体のあちこちにも細かい傷はあった。けれどそんな痛みなんて、パパの声を聞けば、少しも痛くなくなった。
私が怪物になったせいでたくさん迷惑をかけられただろうに。さっきも目の前で、怪物に変身している娘を見ていただろうに。
パパはただ、普通の娘を心配する父親だった。
それがどれほど私を救ってくれたか。
『庭の火はなんとか消したよ。家の一部は燃えてしまったけれど、大したことじゃない』
「そう、よかった」
『大丈夫。分かってるよ。あの火事はありすがやったんじゃないってことくらい』
「……うん」
『きっと誰かが煙草でも捨てたんだ。事故だよ。誰のせいでもない』
「……ママは今、どうしてるの?」
無意識に握りしめていた裾にしわが寄っていた。
パパはうん、と小さく呟いて煙っぽい咳をした。
『病院で治療を受けたんだ。怪我の具合もそんなに悪くはなかった。軽く包帯を巻いてもらった程度だから、安心しなさい』
「…………」
『……ありすは、ママを傷付けてなんかいないだろう?』
「そんなことしてないわっ!」
噛みつくように言った。私は大きく首を振り、必死に否定の言葉を口にする。
「私はママを傷付けてなんかいない。怪我をさせたいだなんて、思ったこともないわ! だって、だって……」
『うん』
「…………ママが大好きなんだもの」
大粒の涙が一つ、頬を滑り落ちた。
そうだ。私はママが大好きだ。
生まれてから今までずっと一番傍にいてくれた。私のことを、優しくあたたかく見守ってくれていた、大好きなママ。
いつも笑って私を抱きしめてくれたママ。泣いている私の頭を撫でてくれたママ。おいしいご飯や甘いお菓子を作ってくれたママ。
お揃いのピンクの髪が好きだった。ママに抱き着けば香る、甘い花の香りが大好きだった。ありす、と私の名を呼んでくれるときの優しい声が本当に幸せだった。
ママがどんな思いで私を突き放したのか。ママがどんな夢を抱えているのか。チョコと二人で何をしようとしているのか。全部、ハッキリとさせたい。
ちゃんとママとお話がしたかった。
『ママはきっと疲れて混乱していただけさ。転んで怪我をしたのを、誤解してしまったんだな』
「今、傍にいるの?」
『ううん。電話のためにぼくだけ部屋の外に出てるんだ。ママは中で皆と一緒にいる』
「まだ病院にいるのね」
『いや、教会にいるよ』
「教会?」
『今夜あちこちで変な事件が起こっているらしいんだ。病院も怪我人だらけで大変でね、ぼく達は軽傷だからって追い出されちゃった。皆近くの避難所に逃げてきているんだ。これからありすのことも迎えに行こうと思って電話したんだけど……』
そういえば家の近くには教会があったはずだ。たまに通り過ぎるくらいで意識したことはないけれど、災害時には避難所としても提供されているはずだった。
パパはまだ騒動の原因が怪物であると知らないようだった。とにかく二人共無事であってくれ……と私は願って。
ふと思い出した情報に、ザッと血の気が引いた。
「千紗ちゃん!」
「うおっ、なに」
「あの、教会のっ。動画……。さっきのっ!」
「はぁ? 意味分かんねえよ。ちょっと落ち着けよ」
慌てふためく私に彼女は怪訝な顔をする。と、「もしかしてこれのこと?」と祥子さんが横から携帯を差し出してくれた。
SNSに上がっている騒動の動画。怪物は至る所で暴れている。電車で、ビルで、そして教会で……。
「この教会はどこにあるの」
祥子さんの指がタタタッと素早く携帯を叩く。数秒もしないうち、彼女は叩きだした結果を私に見せてくれた。
その教会は、家の近くにある教会だった。
『……? ああ、待ってありす。誰かが教会の窓を叩いてるんだ』
「パパ、待って」
『開けてあげなくちゃ。外は寒いだろうから』
「駄目! 今すぐそこから離れて!」
『もしもし? …………。あ』
「……パパ? パパ!」
通話が切れた。残った冷たい沈黙に、私の体から力が抜けていく。
「…………」
心臓が重たい。ふきだした汗が背中を滑り落ちていく。両親が死ぬ想像をしただけで、足が震えてちっとも動けなくなった。
どうしよう。
震える指先から力が抜け、携帯がするりと落ちていきそうになる。
「!」
バチン、と力強く背中を叩かれた。
咳き込む私の横にするりと立った千紗ちゃんが、落ちかけた携帯を空中でキャッチして笑っていた。
「楽土町の西側にいる犯罪者共はあたしが噛み殺してきてやるよ」
「え?」
「そっち側に病院があるんだ。あの女……あー、あたしの母親が入院してる病院。その付近でも怪物が暴れてるって言われてたからさ。一応、ついでに様子を見とかないとさ」
「…………」
「手分けして警護しようって言ってんだ」
いの一番に千紗ちゃんの言いたいことを理解したのは雫ちゃんだった。
わたしも、と駆け寄ってきた彼女は私に真剣なまなざしを向ける。
「東側はわたしが見てくるよ。あっち側はあまり事件が起こってないけど、火事が広がっているって話でしょう。わたし、火を消すのは得意だから」
「……じゃ、じゃあ私は」
「ありすちゃんは教会をお願い」
ぎゅっと胸を押さえて二人を見る。二人の後ろ、皆もまた私をまっすぐに見つめて力強く頷いた。
「皆を助けに行こう」
湊先輩が言った。
私はクッキリと頷いて微笑んだ。
「うん」
私達は世界を守るためにここに集まっているのだと、改めて感じたのだった。
ゴーン、ゴーンと鐘の音が鳴っている。
月光が割れたステンドグラス越しに降り注いで、薄暗い空間に虹色の光をそそいでいた。揺らぐ埃が雪のように光っている。
幻想的な空間の中央には、血だらけの異物が一つ立っていた。
「閨匁ッ肴ァ倥ヰ繝ウ繧カ繧、縲り*豈肴ァ倥ヰ繝ウ繧カ繧、……」
その怪物はヤギに似ていた。真っ白で骨ばった体から、ゴツゴツと細長い足が三つ生えている。足は一本がそれぞれ私の身長ほど長く、ゴカ、ゴゴ、ゴツン、と床を硬質に叩いていた。
口内にびっしりと生えているのは人間の歯。上あごから舌の根にまで細かく生えた歯が、さっき蹄で踏み殺した人間の死体を、すり潰して食べている。
ヤギは既に五人を殺しているようだった。
教会には悲鳴が満ちていた。逃げ惑う人々はたった一つの出口に詰めかけ、大渋滞を引き起こしている。
一人の老人が倒れた。床を滑った杖が、ヤギの蹄にぶつかる。
ヤギはゆっくりと顔を上げ、腰を打って立ち上がれない老人を見つける。ゴカン、ゴゴッ、と蹄を鳴らして獲物へと駆け寄る。
老人の蒼白な顔に、ヤギの蹄が振り下ろされようとした、そのときだ。
「縺ゅ▲縺。陦後▲縺ヲ!」
怪物の頬に拳がぶち込まれた。
ヤギの怪物はギョロッと目を剥き、真っ黒な口から泡を飛ばした。
凄まじい速度の拳は一撃でヤギの意識を刈り取る。教会の壁に叩きつけられた怪物は、メェー、と本物のヤギのような鳴き声を一つあげて、動かなくなった。
悲鳴は止んでいた。人々は皆ぽかんと目を丸く見開かせていた。黒い眼球に反射するのは、ヤギの怪物を倒した、新たな怪物。
真っ黒な体に触手をうねらせ、太い拳を握りしめる、人型の怪物。
怪物に変身した私を、皆は茫然と見つめていた。
「……遅くなってごめんなさい」
変身を解いた私は皆に振り向いた。
驚愕、困惑、恐怖、様々な顔が並ぶ中に、パパとママのぼんやりとした顔を見つけ、少し微笑む。
「ありす!」
パパの声が教会に響く。駆け寄ってきたパパは、私を力強く抱きしめた。
私の頬に、パパの涙に濡れた頬が押し当てられる。ぶるぶると震える体は熱かった。ありす、と何度もパパは私の名前を呼んだ。
「……ただいま」
私は笑顔でパパの肩に頬をすり寄せた。
おかえり、という嗚咽混じりの声はぐちゃぐちゃで。けれどそれが、やけに心にしみるのだった。
「皆さん、救助に来ました」
扉の前で湊先輩のお父さんが叫んでいる。その横では、戸惑う避難者達を湊先輩が出口に誘導していた。
教会には私と湊先輩と彼のお父さんの三人でやってきた。ここに逃げてきた人達を、より安全な場所へと誘導するためだ。
けれど人々は動かなかった。その目はまっすぐに私を見つめ、恐怖に歪んでいる。
「彼女は味方です。皆さんの安全を守るためにここにいるんです。彼女は敵じゃない、皆の味方なんです……」
二人は繰り返し声を張り上げる。けれどそれでも、人々の疑心に満ちた目は変わらなかった。
怪物に何人も嬲り殺される瞬間を見たばかりなのだ。彼らにとって、さきほどの怪物と私の見分けなどほとんどつかないだろう。
やっぱり私が来ない方がよかったのか。ここから立ち去ろうかと後退りかけたとき、パパがふと一歩前に足を踏み出した。
「……お願いします。彼らの言うことを信じてください」
「パパ?」
パパが突然皆に向かって声を張り上げた。
真剣な眼差しで皆を見て、緊張で顔を真っ赤にさせながら、震える声を張り上げる。
「僕の娘なんです。娘は、誰かを傷付けて喜ぶような子じゃありません。困っている人がいたら、すぐに助けに行くことができる、優しい子なんです」
「…………」
「今だって、恐ろしい怪物に立ち向かって僕達を救ってくれた。この子が来てくれなかったら、僕達はきっと皆殺されていた」
「……パパ」
「避難所に向かうまでの間だけでいい。信じてください、この子のことを」
「パパ」
「お願いします」
パパはその場にひざまずく。驚く私の目の前で、パパは深々と床に頭を付けて土下座をした。
私はそんな父親の姿に強く胸を握った。深く息を吸い込み、パパの隣にしゃがんで自分も同じように地に額を擦りつける。
「お願いします」
そんな私達の姿に、シンと場は静まり返っていた。長い沈黙が私達の頭を押さえつけているようだった。
呼吸音さえも目立つ重たい空気を、一つの声が破る。
「…………本当に味方なんですね?」
それは、さっき私が助けた老人だった。
勇気を振り絞って言ってくれたのだろう。震えたか細い声だった。けれどその声は静寂の中にハッキリと響いた。
「私達を助けてくれるの?」
つられるようにまた別の誰かが声を上げた。
「……味方だってんなら心強いけどさ」
「今、外はめちゃくちゃなんでしょ? でもまあ殺人鬼が襲ってきても、怪物なら倒してくれるよね」
「待てよ。俺知ってんだぜ。外で暴れてるのも怪物なんだろ? こいつも同じじゃん!」
「でも助けてくれたじゃない」
「あんたは怪物なのか? それとも、人間なのか? どっちなんだよ」
議論は白熱する。人々はそれぞれの意見をぶつけ合い、そして、最終的な答えを求めるように私を見た。
じわ、と手の内に汗をかく。私は顔を上げ、皆の視線にまっすぐ向き直った。
「私は、」
怪物だ。
人間でもあり。魔法少女でもあり。ヒーローだ。
だけど、どの立場であろうとも、変わらないことはただ一つ。
「私は世界の味方です」
私は姫乃ありす。
平和な世界を守るために、ここにいる。
皆から返事は返ってこなかった。しばし、互いの目を見つめて黙りこくっていた。
けれど誰かが意を決したように歩き出す。すると、残る全員もぞろぞろと歩き出した。湊先輩達が誘導する出口の方へと。
「…………は」
安堵の溜息が零れる。私は隣を見て、緩く微笑むパパに頷いた。
これできっとあの人たちは大丈夫だ。
だから後は、と私は顔を上げる。歩き出す人々の中、ただ一人その場に立ち尽くして動かない人の背中を見つめる。
ママのピンクの髪が揺れていた。こちらに背を向けるその顔は見えなかった。
後は、私がママとお話をするだけだ……。
「ママ…………」
「あーあ。なんだ、上手くいかなかったの」
不意に声がした。
同時に人々の歩みが止まる。彼らは視線を足元に下げ、何かを凝視していた。
その理由はすぐに分かった。人々の足をくぐり抜けて、ぽてぽてとチョコが歩いてきたからだ。
「はじめての変身は劇的に! って話だったろう? せっかく教会という素敵な舞台と、そこに現れる怪物を用意してあげたのに」
チョコは人間の姿に変身していなかった。ぬいぐるみ姿のまま、堂々と人々の中を歩いているのだ。
凍り付いた皆の視線を浴びても、ちっとも焦らず、悠々と。
「……こんな邪魔が入るとは思っていなかったのよ」
「突如現れる邪悪な怪物に殺される人間! 絶望の中現れる魔法少女! 怪物を倒した魔法少女に拍手喝采を送る人々! あーあ、予定してた演出が全部パーだ」
「本当にがっかりしちゃう。あともう何人か殺されたら、変身しようと思っていたのに」
チョコは棒状の黒い袋を握っていた。ママの前で立ち止まり、それを手渡す。
中から出てきたのは、魔法少女のステッキだった。
「ママ?」
ママは私の方を見なかった。ステッキを手に、唖然とする人々を見て、一度だけ微笑んだ。
何かを感じ取った湊先輩のお父さんが、その表情を変えた瞬間。
ママはステッキを振り下ろした。
先端から放たれた巨大な光が、皆の体を飲み込んだ。
「っ!」
嵐のような風が吹き荒れる。目を焼くほどの光に思わず目を閉じた私は、それから長い時間がたってからおそるおそる目を開けた。
そこには何もなかった。
人々が立っていた場所。そこには、誰も立っていなかった。
「…………?」
何が、起こったのか。
空中に大きな埃のようなものが舞っていた。真っ黒に焦げた灰だった。大量のそれが、ふわふわと大粒の雪のように教会内に降り注いでいる。
ふと、すぐ近くに巨大な炭のようなものが落ちていることに気が付いた。ぼんやりと眺めているうち、それが光の直撃を受けたヤギの怪物であることを知る。膨大な熱が怪物を一瞬で炭に変えたのだ。
それを知って。私はもう一度、人々がいたはずの場所へと目を向ける。
そこには大量の灰が積もっているだけだった。
この場に残っているのは私とパパ、咄嗟に床に伏せた湊先輩とお父さん、チョコ。
そして、魔法のステッキを持つママだけだった。
「ママ? 何をしてるんだい」
「ああ……やっぱりすごい力」
「ママってば」
「ふふ。魔法っていうより、まるで兵器みたい」
「何をしてるんだよっ!」
「うるさいわよ、パパ」
ママがステッキを振る。先端から飛び出した光が、パパの肩を貫いた。
私は悲鳴をあげて倒れるパパに縋りついた。肩に銃弾を貫通させたような穴が開いている。青ざめた手で傷を押さえながら、私は涙目でママを見上げた。
「花子ちゃん」
ママがその声に顔をあげた。出口に立ち尽くす湊先輩のお父さんを見て、その首にかけられたカメラを見て、パッとあどけなく顔を輝かせる。
「うそ。伊瀬くん? 伊瀬くんなの?」
「ああ……、久しぶり」
「やだ、本当っ? 子供のとき以来ね。ここに住んでたの? 奇遇ね! 今は何をやってるの?」
「カメラマンだよ。これでも、それなりに評価してもらってる。それで? 君は今、何をしてるの」
「専業主婦よ」
「大量殺人を犯して、自分の旦那を撃ち、宗教団体の教祖にまでなる専業主婦なんて聞いたことがないな」
ママは一瞬で表情をなくした。横で見ている私がゾッとするほど一瞬で、ママはその朗らかな笑みを冷たい無表情に変える。
私と湊先輩を置いて、二人の大人は会話する。張りつめた緊張感は今にも張り裂けそうだった。
「何がしたいんだ。君は一体、何者なんだよ」
「…………」
「花子ちゃん!」
「花子って呼ぶな!」
その怒鳴り声に全員が身を凍らせた。凄まじい憎悪が込められた声は、私だって初めて聞くママの声だ。
「山田花子。山田花子! なんて地味で泥臭い名前。ずっと大嫌いだった……。華やかな女の子になりたかった!」
ママの唇が痙攣している。紅を塗ったように真っ赤な唇は、怒りに噛み締めた唇からにじむ血の色だった。
鋭い眼差しが倒れるパパに向けられる。怪我の痛みに朦朧としているパパは、弱った目でママを見つめていた。
「こんなブサイク、好きで結婚するわけないじゃない」
「は」
「姫乃っていう苗字がほしかったの。だって山田より、ずっと可愛いじゃない。この男はただの付属品」
「……苗字のためって。なんだよそれ。訳が分からない。俺は、君のしたいことがさっぱり分からないよ!」
「ううん、そんなことない。伊瀬くんなら分かってくれるでしょう? 私の夢」
ママは静かに教会を歩く。靴底で血を踏みしめて、ステンドグラスに照らされるマリア像にそっと背中をもたらせた。
チョコがうやうやしげにママに試験管のようなものを渡した。
それは、濃いピンク色の薬だった。
「私には夢がある」
ママは薬の蓋を開ける。
とろりと濃厚なピンク色が、試験管の中で揺れた。
「姫乃って苗字を手に入れたのは、夢のため。頑張って料理が上手くなったのも、夢のため。素敵な奥さんになったのも、夢のため。妊娠したのも、夢のため」
長い計画を立てていたの、とママは笑う。
ふと柔らかな眼差しが私を見た。私が大好きな眼差しに、あ、と呆けた声をこぼす。
「ありす。私があなたを産んだのは、魔法少女には『世界の敵』が必要だから」
「え?」
「皆の敵になってくれてありがとう。
ママは一気に薬を飲み干した。
あっさりとしたその動きを誰も止めることはできなかった。
床に放り投げられた試験管が、ガラスの破片を散らばせた。
「変身」
ママの体が光に包まれた。眩い光が教会を満たす。
それは思っていたよりもずっと、ずっと温かくて優しい光だった。
段々と目が光に慣れて、ゆるりと瞼を開けたとき。私は目の前に広がる光景に溜息を吐いた。
「ああ…………」
なんとなく、分かった気がした。
ママがどうして私を産んだのか。
ママの夢は何だったのか。
私達の目の前。空中に、光り輝く少女が浮いていた。
「……世界は絶望に染まってしまったわ。たくさんの事件に、たくさんの怪物。楽土町は闇の世界になってしまった」
ママ。
ねえママ、みて。
まほうしょうじょのおようふく。おえかきしたのよ。
「だけど諦めちゃだめ! どんなに暗い夜にも、夜明は来るわ」
ピンクのおようふく、すてきでしょ。まっしろでふわふわのフリルをつけるの。
かみのけもピンク色なのよ。しろいリボンをね、こんなふうにくっつけて……。
ステッキはこんなかたちなの。まほうのひかりで、わるいかいぶつを、えいやっ! ってやっつけるのよ。
「私が夜明の光を灯してあげる」
みんなからあいされる、まほうしょうじょになるの。
「私が世界を救ってあげる」
×××ならきっと、素敵な魔法少女になれるわ。
ねえ、ママ。ちがうよ。わたしのなまえ、ありすだよ?
×××は魔法少女になれる。
ママってば。だぁれ、その、はなこちゃんって。
花子は、絶対に魔法少女になるの。
「私は魔法少女」
輝く少女はピンク色の輝きをまとっていた。長い髪も、キラキラの目も、可愛い衣装も、何もかも。
ずっと夢見ていた少女だった。私がずっとなりたかった姿だった。
怪物じゃない。ピンク色の、可愛い、魔法の力を持った女の子。
それは、『本物の魔法少女』だった。
「――――私は魔法少女、ピンクちゃん!」
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