第79話 久しぶり

「ありす」

「ぁ……」

「私の娘」


 ママが私に手を伸ばす。途端、弾かれたように私は駆け出した。ママとチョコに背を向けて外へと逃げる。

 背中の傷が燃えている。ドロッとした血が流れる傷口に汗がしみて、痛い。苦悶に歯を食いしばりながら、私は廊下を走った。

 背後からゆっくりと迫る足音が、とにかく怖かった。


「あっ」


 玄関の段差に足をひっかけ、私は盛大に庭に転がり落ちた。花壇に頭から突っ込んでしまう。けれど咲き誇る薔薇の花弁は、不思議と一枚も散らなかった。

 鼻孔に湿った土の匂いが満ちる。私は慌てて顔を上げ、一面に広がる薔薇達を目に入れた。

 青白い夜空の明かりが赤い花弁を照らす。

 そこではじめて、庭から薔薇の甘い匂いがしない理由を知った。

 造花だった。

 庭一面に咲き誇る薔薇は、全てが偽物だったのだ。


「帰ってくるあなたのために舞台を整えたの。庭いっぱいの赤い薔薇。ありす、好きでしょう?」


 いつの間にかママは私の真後ろに立っていた。

 甘ったるい声で優しく微笑む彼女の手には、一本の薔薇と、薔薇を植えるときに使ったらしい園芸ハサミが握られている。

 震える私の背を押さえたママは、一瞬の躊躇いもなく背中にハサミを振り下ろした。


「――――ッ!」


 鋭い絶叫が深夜の住宅街に響き渡った。

 ドパッと溢れた血が土にしみこんでいく。目の前が真っ暗になり、指先がブルブルと痙攣しだした。

 傷口を更に抉られたせいで出血が止まらない。燃えるように熱かった体が急激に熱を失っていくのを感じる。

 まずい。まずい。このままだと、死ぬ。


「ほら、早く怪物に変身しないと、死んじゃうぞ!」


 ママの肩から飛び降りたチョコが私の体を揺さぶった。ピンク色だった毛はもう、私の血液でべちゃべちゃに濡れている。


 きっと何かの間違いよ。

 これは全部悪い冗談なんだわ。

 ママもチョコも誤解をしているんだ。じゃなきゃ、大好きな二人が私を刺したりするはずがない。絶対そうだ。

 青ざめた思考は都合のいい言い訳を考える。私は目の前の希望に縋るように、必死に言葉を吐きだした。


「…………変身!」


 ぼこっと体が泡だった。心臓がドクンと脈打ち、体中が熱くなっていく。肉が膨らみ、骨がバキゴキと変形し、そうして数秒もしないうちに、私の体は三メートルはあろうかという巨大な怪物の姿に変わった。

 呼吸が落ち着いていく。人間の姿では致命傷たる傷も、怪物の姿であればいくらか耐えることができる。怪物の治癒能力のおかげで背中の出血も治まってきた。


「縺セ縺セ」


 私は震えながらママとチョコを見下ろした。どうして? と上擦った怪物の声でたずねる。

 私が怪物なのがいけなかったの?

 迷惑をかけちゃったから、私のことが嫌いになっちゃった?


「ママはありすのことが大好きよ」


 しゃきん、と音が鳴る。それはママが懐から取り出したライターだった。

 暗闇に灯る一条の光。小さな火はママが持っていた一本の薔薇に移り、仄かな火種となる。燃える薔薇は、花壇に向かって放り投げられた。

 花壇の薔薇を火が舐める。瞬く間に広がっていく炎が、倒れる私と、その目の前に立つママとチョコを明るく照らした。

 さっきの悲鳴を聞きつけ、パパが起きたのだろう。家の方から慌ただしい足音が聞こえてくる。近所の家々からも我が家の不審な様子に気が付いたらしい人々の声がする。

 人の気配が近付いてくる中。ママが掲げたままのハサミだけが、怪しく炎に揺らめいていた。

 炎の中でママは微笑んでいる。うっとりと、微睡んだような瞳で。

 その目にきっと私は映っていなかった。


「私があなたを産んだのは、全部この日のためだった」


 刃が月光にきらめく。燃えゆく薔薇の中央で、ママの白い寝巻がドレスのようにひらめいていた。

 ママの手中でくるりと回転したハサミが、その切っ先を己の腹に突き立てた。


「縺セ縺セ!」


 私は突き飛ばされたように叫んだ。崩れ落ちるママのお腹から噴き出した血が、私の体を冷たく濡らす。

 倒れるママのピンク色の髪が熱風になびいた。甘く柔らかな髪がその顔を覆う。

 その隙間。唯一見えていたママの唇が、不意に。ゾッとおぞましいほどに歪んだ笑みを浮かべた。


「キャアァーッ!」


 つんざくような悲鳴をあげたのはママだった。鼓膜のすぐ傍であげられた絶叫に、私は思わず後ずさる。そのときまた、別の場所から悲鳴が聞こえた。

 近所の人々が我が家を覗いていた。燃える炎と、その中央に倒れるママの姿に、顔色を失っている。

 ママ、と叫んだ誰かが、炎を突き破るように飛び込んでくる。倒れるママを必死に抱き起こすのはパパだった。顔中にびっしりと汗を浮かべ、震えながら私を見上げている。


「繝代ヱ」


 口に出した声はあまりにざらついていた。

 ハッと息を呑む。頭から血の気が引いていく。周囲の視線は私にも痛いほど突き刺さっていることにようやく気が付いた。

 私は今、怪物に変身しているのだ。


「ああ……なんてこと。どうして、こんなことをするの、ありす!」


 息も絶え絶えにママは叫ぶ。荒い呼吸に体を震わせ、その目から大粒の涙を流しながら、悲劇の女を演じていた。痛ましいお腹の傷からは血が流れ続けている。握っていたハサミは花壇に放り投げられ、どこにも見当たらない。

 柔らかな髪が汗ばむ頬に張り付いていた。白い肌を流れていく涙は、月光と炎に艶めき、宝石のごとく光り輝いていた。

 私でさえ本物かと思う、悲痛な涙だった。

 ママの嘆きが演技であるなど誰も気が付かない。


「縺セ縺セ」

「ママを殺そうとするなんて。……あなたはもう、私の娘じゃない」

「縺セ縺セ!」

「早く私の前から消えてちょうだい。この、怪物!」


 ゴウ、と強風が吹いた。巻き上がる炎に人々が悲鳴をあげる。私は茫然とその場に立ち尽くし、泣き叫ぶママと、その体を抱きしめるパパを見下ろしていた。

 頭の奥が熱く震えていた。体がずっしりと重い。心がギタギタに切り裂かれていくのを感じながらも、私の眼球はすっかり乾いて涙の一つも滲まなかった。


 冷たくなった思考はぼんやりと事実を飲み込んでいく。

 私達が倒すべき聖母様はおそらくママだということ。

 チョコは私の味方ではなく、ママの味方なのだということ。

 大好きなママに頭を撫でてもらえることは、きっともうできないんだってこと。


「…………」


 この気持ちをきっと絶望というのだろう。


 私は黙って立ち尽くしていた。周囲の酷い喧騒も、パパとママが何かを叫んでいる声も、遠くから聞こえてくるサイレンの音も、何もかもがぼんやりと曖昧だった。

 逃げなくちゃ。そう思うのに、重たい体は動かない。なんだか全てがどうでもよかった。いっそこのままここで、炎と共に焼け死んでも構わないと、そう思った。

 だけど突然、強烈なライトが私を照らした。

 けたたましいタイヤの音に私はギョッと振り返る。驚く近所の人々を吹き飛ばさん勢いで、一台の車が我が家の庭に突っ込んできた。アクション映画さながらの光景はあまりにも突然で、ママでさえ純粋な驚きの悲鳴をあげていた。

 皆がぽかんと呆気にとられる中、バンッと勢いよく車の後部座席が開かれる。

 そこから顔を覗かせた少年が、私に向かって両手を広げた。


「ありすちゃん!」


 湊先輩だ。


 私は一瞬息を止めて。目を見開いて湊先輩を見つめて。そして、全力で車に向かって走った。

 人々が避けていく中、触手を打ち鳴らして、燃える薔薇を蹴散らし走る。どろっと体がとろけ、視界がじょじょに低くなっていく。

 人間の姿に戻った私は湊先輩に飛びついた。彼は私をしっかりと受け止め、そのまま座席に転がる。「父さん!」と彼が叫べば、運転手が無言でアクセルを踏み込んだ。ドンッと爆発したような勢いで車が発進する。

 全開になったままのドアからパパとママの姿が見えた。二人と私の目が合う。思わずこちらに駆け寄ろうとしたパパをママが止める。その姿を最後に、車は猛スピードで私の家から走り去った。

 車は緩やかに速度を落とし、街に入る。赤信号で止まったところでようやく湊先輩が私の顔を見つめた。目にかかった黒髪を払い、彼はふっと息を吐くように笑う。


「……久しぶり」


 その言葉を聞いた瞬間ぐっと喉が熱くなった。私はまた湊先輩の胸に抱き着き、大声をあげて泣き叫ぶ。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった私の顔を、湊先輩は苦笑してティッシュで拭ってくれた。

 街の明かりが車内を華やかに染める。とっくに深夜なのに、街はいつもより騒がしかった。人々の賑やかな声、宣伝トラックのうるさい広告、信号機の電子音、パトカーと救急車のサイレン。

 ありすちゃん、と私の背中を撫でる湊先輩の声だけが、静かで優しかった。


「それで、何がどうなってるのさ」


 その声は運転席から聞こえた。

 振り返った男性が私達に身を乗り出す。彼は眼鏡越しの目をくっと細め、ニヒルに笑った。


「俺にも分かるように説明をしてくれよ」


 赤信号に照らされるその顔は。湊先輩に、よく似ていた。




 ただいま、と放り投げるように言って湊先輩は廊下を走る。ドタバタとした足音を聞いて出てきた湊先輩のお母さんは、私を抱きかかえる息子を見てギョッとした顔をする。


「何よ、二人して急に飛び出していったと思えば。その子、ニュースの子じゃない!」

「いいから母さん、救急箱持ってきてっ」


 湊先輩は私をソファーに座らせると、勢いよくシャツをめくった。「ちょっと、嫌だ……」と息子の奇行に慌てたお母さんは、私の背中の傷を見て小さく悲鳴をあげる。

 女の子なのよ、とお母さんは湊先輩の頭をすっぱたいて治療を変わる。終わった後に小さく礼を言えば、彼女は少し怯えたように笑ってさっさと部屋から出ていった。

 お母さんと変わるように湊先輩のお父さんが部屋に入ってきた。


「知らない間に、うちの息子は大冒険を繰り広げていたみたいだ」


 彼はソファーの前にしゃがんで私と目線を合わせる。見れば見るほど、彼は湊先輩とそっくりだった。

 先輩の髪を茶色く染めて、あごひげと眼鏡を足せば、お父さんと瓜二つだ。思わず「先輩とそっくりですね」と言えば、お父さんは「君もね」と笑った。


「花子ちゃんがこんなに近くに住んでいたなんて知らなかったよ」

「ママのことを知っているんですか?」

「ああ。俺と花子ちゃんは、幼馴染だった」


 山田花子。それは、ママの旧姓だ。

 懐かしいな、と目を細める湊先輩のお父さんに私は苦笑する。彼に出会うのがもう少し早ければ、私は嬉々としてママの昔話を聞いていただろう。

 今でさえなければ。


「花子ちゃんのことも後で話すとして。……俺はまず、君の話を聞きたいな。姫乃ありすちゃん」


 私は肩の筋肉を強張らせた。

 ここに着くまでの間に、彼には私達の事情を一通り説明してある。完全に飲み込めてはいないようだけれど、それでも大体の話は理解してくれたようだった。

 全てを知った上で湊先輩のお父さんは渋い顔をする。私を見つめる目には、僅かな警戒が浮かんでいた。


「正直、君が何者なのか俺には分からない。ただ一つだけ言わせてもらうと。俺は君が、湊に害を与える存在だというなら、容赦はしないよ」

「父さん!」


 湊先輩が声を荒げる。けれどお父さんは息子の声を無視し、私だけをまっすぐに見つめていた。

 柔らかい眼差しだった。けれど、眼光だけは鋭かった。視線だけで背中にじっとりと汗がにじむ、そんな威圧感があった。

 思わず怖気づきそうになる心に鞭を打つ。私は深く息を吸い込み、まっすぐに彼を見つめ返した。


「私は湊先輩の味方です」


 ふっとお父さんは表情を和らげる。

 張りつめていた緊張を解くように、彼は声をあげて笑った。


「意地悪なことを聞いてごめん。分かってたよ、君が悪い子じゃないってことくらい」

「え?」

「君は観覧車で湊を助けてくれただろう」

「…………」

「話を聞く限り、あの一回だけじゃないんだろう? 君はこれまでに何度も湊の命を救ってくれたんだ」

「……そんなこと、ないです。むしろ私の方が湊先輩に助けてもらってばかりで。私のせいで彼を余計な事件に巻き込んでしまって」

「それは違うさ。湊は望んで君に関わっているんだ。それは湊の意思であって、君の責任じゃない」


 そうだよ、と湊先輩は横でコクコク頷いた。必死な息子にお父さんはちょっと笑って、それからそっと私の手を取った。

 温かな手は優しく私の肌を包み込む。強張っていた全身の力を抜き、私はじっと目の前の瞳を見つめた。


「息子を助けてくれてありがとう」

「…………はい」


 吐息のような薄い返事は震えていた。私はぎゅっと鼻先に力を込めた笑顔を浮かべる。目頭ににじんだ涙を、乱暴に指で拭った。


 どうして、湊先輩が強い人なのかを知った気がする。

 彼の周りには強い人がたくさんいるからだ。

 目の前のお父さんのように。お母さんや、国光先輩や、涼先輩や、部長のような。優しい心を持った人がたくさんいるからだ。

 だから湊先輩も、こんなに優しくて、強い人なのだろう。


「さて。これからどうするの?」

「父さん……」

「何かしようってんだろう? 協力するよ」


 お父さんの言葉にズッと鼻を啜る。赤くなった目を瞬かせ、思考を切り替える。

 ママとチョコが味方ではないという事実を思い出すたび心臓が痛くなる。だが、悲しむのも嘆くのも後だ。二人の目的は分からない。だけどそれがいいことじゃないということは、何となく感じる。

 私が今すべきこと。魔法少女としてなすべきことは何か。


「変身薬……。そう、私は変身薬を取りに来たんです。本物の魔法少女に変身できる薬を」

「本物の魔法少女?」

「その薬はすごい力を秘めてるらしいんです。チョコが言ってたわ」

「魔法少女ね……」


 湊先輩のお父さんは神妙な顔で呟いた。その表情が何か、このときは分からなかった。

 リビングを出て玄関へ向かう私達に、出てきた湊先輩のお母さんは怪訝な顔をする。


「あなた、湊まで。また出かけるの? こんな深夜にどこに行くのっ」

「ちょっと冒険してくる!」

「はぁ?」


 説明にもなっていない説明だった。ちょっと待ちなさい、とお母さんはお父さんの襟首を掴んでぐえぇと呻き声を上げさせる。

 お母さんの目が私と湊先輩を見た。彼女は小さな溜息をついてキッチンへ消え、しばらくしてからタッパーと水筒を手に戻ってくる。


「持っていきなさい」

「え。母さん、なにこれ」

「なんだかよく分からないけど……こんな時間なんだから、お腹空くでしょう?」


 湊先輩がタッパーを開けるとお米の香りが広がった。アルミホイルに包まれたおにぎりがいくつか詰められている。

 お母さんは腕組みをして壁にもたれながら、眠たそうに目を擦る。


「三人分あるから」


 私はパッと顔をあげてお母さんを見る。彼女は少したじろいだように身を引いたけれど、ぐっと喉に力を込め、言った。


「息子をよろしくね」

「…………はい!」


 私は力をこめて返事をした。そんな私にお母さんはちょっと目を丸くして、それからはじめて笑った。

 笑った顔が、湊先輩とそっくりだった。





「ありすちゃん!」


 カフェ『魔法少女の秘密基地』の前。車から降りた瞬間、走ってきた雫ちゃんが私に抱き着いた。

 肩に落ちる雫ちゃんの涙は熱い。夜を孕んだ冷たい青髪に頬をすり寄せ、私は雫ちゃんの背中に強く手を回した。

 店内には既に皆が集まっていた。湊先輩が呼びだしたのだ。真夜中だから来てくれるか分からなかったけれど、澤田さんと黒沼さん以外の全員が集まっている。仕事が忙しいから後で来るって、と携帯を見ていた鷹さんは、私を見て「おかえり」と微笑んだ。

 ソファーにもたれて煙草を吸っていた千紗ちゃんの隣に座れば、彼女は無言で私の肩にゴスンと頭をくっ付けた。

 向かいに座る涼先輩はいびきをかいて爆睡している。急いで来てくれたのか、羽織っているパーカーの下はパジャマだった。暗闇で光るタイプだ。薄暗い店内でちょっと発光していた。「何歳から着てるやつだよ」と湊先輩に頭を叩かれているのを見ながら、ちょっと欲しいななんて思った。

 部長と晴ちゃんは眠たそうにコーヒーをちびちび啜っている。携帯をいじる祥子さんが私をちらっと見て鼻を鳴らした。

 マスターはいつもと同じカウンターから私達を静かに見守っている。


 皆の顔が懐かしかった。喫茶店の穏やかな空気が、無性に懐かしかった。

 ここにチョコがいればいいのに。

 そんなことを考える心が少し寂しくて、私は微笑を浮かべる。


「そちらの方は?」

「ああ。申し遅れました。湊の父です」

「これはご丁寧に……えっ、嘘、名刺の名前、あのカメラマンのイセさんですかっ?」

「お。知ってます?」

「この間、楽土町タウン誌の表紙写真撮られてましたよね? あのビルの写真すごく好きで! えーっ、うそ、すごい。湊くんのお父さんだったんだ!」

「いやいや。ホークス編集プロダクションさんも最近、怪物写真で有名じゃないですか。俺十一月号の特集で出てた写真すごく好きで雑誌買ったんですよ」

「見てくださってるんですか? 嬉しい! あれ、私が撮ったんですよ!」

「マジです? うわ、インターンとか募集してません? よかったらうちの湊を修行させてやってくれませんか? 御社の記事の切り込み方とか写真の撮り方とか、こいつに身に付けさせたくて……」

「おうこら。ビジネスの話は後にしてくれよ」


 千紗ちゃんの言葉に、鷹さんとお父さんはパッと顔を合わせて照れくさそうに頬をかく。


「そういえばチョコは? ありすちゃん、一緒じゃないの」

「あー……、チョコは、その」


 湊先輩が話題を切り替えるように咳払いをし、チラと私を見る。私は背筋を伸ばし、皆の顔を見つめた。


「聖母様の居場所が分かったの」

「はっ? 本当か!」

「私の家」

「……は?」

「聖母様は私のママよ」

「はぁ?」


 千紗ちゃんが目を丸くする。冗談だと思ったらしい雫ちゃんが苦笑する。

 私は笑わらなかった。その顔を見て、次第に皆の顔が強張っていく。


「私のママが聖母様。チョコは、ママの味方。私達の敵だった」


 場の空気が氷のように冷えた。絶句する皆の顔は青白い。千紗ちゃんの咥えていた煙草から、ほろりと灰が落ちた。

 家に帰った私に待ち受けていたこと。ママとチョコからされた仕打ち。背中の怪我。全てを話す間皆は一言も発さなかった。


「私はここに薬を取りに来たの。ねえマスター、薬はどこにあるの?」

「こちらに」


 マスターはカツンと踵を鳴らして立ち上がった。彼の先導に従って、私達はぞろぞろと後ろをついていく。今私から聞かされたことが衝撃的だったのか、誰も私に話しかけようとする人はいなかった。

 カウンターの裏側には扉がある。入るのははじめてだった。先には長い廊下が広がり、左右にいくつもの部屋があった。

 マスターは歩きながら、突き当たりの部屋が研究所になっているのだと説明してくれた。ドアノブに手をかけ、捻る。


「おや」


 部屋に入ったマスターが珍しく目を丸くした。後ろから部屋の様子を覗き込んでいた私達も、あっと声をあげる。

 そこは研究所のような空間『だった』。

 白いリノリウムの床に撒き散らされたカラフルな液体。散乱するガラス片と、割れたビーカー。壊れた水槽からだらりと垂れ下がる奇形の生き物の死骸。部屋には湯気が立ち込めていた。酷く甘ったるい臭いに、私は思わず咳き込む。

 研究所は荒れ果てていた。見るも無残な姿はマスターでさえも予想外だったようで、彼は深い溜息をついて顎を撫でる。


「マスター、薬はっ?」

「……残念ながら既に持ち出されたようだ」


 とある巨大なビーカーの前でマスターは言った。

 中は空だった。けれどそこには何かピンク色の液体が満たされていたのだろう。底に残った少量の液体や、床に飛び散った雫がそれを物語る。

 チョコの仕業だと悟る。私が湊先輩の家で治療を受けていたときに、ここにやってきて薬を持ちだしたのだろう。


「っ」


 じく、と足が痛んだ。

 下を見れば、私の爪先が床の液体を踏んでいることに気が付く。カラフルに混じり合った不思議な液体はボコボコと泡立って、嫌な臭いの煙を発していた。

 その上に何やら書類が散らばっている。ほとんどは液体に溶けていたけれど、何枚かは無事だった。私の隣にいた鷹さんがその一枚を拾い上げ、息を呑む。


「なにこれ」


 私は横から書類を覗き込んだ。鷹さんが見つめるものを見て、目を見開く。

 そこには一人の少女の写真が貼られていた。見たこともない見知らぬ子だ。

 中学生くらいのその子は、白い病衣に似た服を着ている。

 見覚えがある。黎明の乙女の信者が着ていた服だ。

 『魔法少女被検体4-Y』。

 写真の下にはそんな文面があった。更にその下へと視線を進ませれば、チョコが書いたらしい研究内容がびっしりと書かれている。



 鬲疲ウ募ー大・ウ阮ャ。投与1日目。

 眼球に充血が発生。軽度の頭痛を訴える。他、変化なし。


 投与7日目。

 投与前と比べ、頭部が二倍に膨れ上がる。鼻孔からの出血が止まらず。右足が壊死。常時激しい痛みを訴えるため、餌に青いミルクを加えることにする。


 投与15日目。

 頭蓋骨が破損。内臓物と体液を噴出し、死亡。(コメント:地球人に青いミルクを与えると脳味噌がコバルトブルーに染まることが判明。綺麗だね!)



「なにこれ」


 少女の写真は何枚か貼られている。ページをめくるごとに、写真に写る少女は人間であることをやめていった。人間はこんな鮮やかな緑の肌をしていない。目から溢れる体液はこんな青色をしていない。

 私は床に散らばった他の書類を拾った。たくさんの少女の写真が主だったが、ときには他の性別や年齢の人の写真も張られていた。『魔法少女被検体2-E』『魔法少女被検体8-J』『魔法少女被検体35-S』……。



 投与25日目。

 六本目の腕が生える。バランスを取れず、常に床に横たわった状態になる。泣きながら自宅への帰還を懇願するため、緑のケーキを一キログラム与える。しかし蟆城コヲに対するアレルギーがあったため、皮膚が溶け死亡。


 投与1日目。

 (コメント:こいつはだめだ!)魔法少女を揶揄する発言をしたためあの子が激怒。実験開始前に死亡。殺害の際使用したピーラーとミキサーを処分し、実験終了。


 投与35794369082949日目。

 小型宇宙船『ピンク号』に入れ、母星と地球を行き来させることで宇宙空間に起こる魔法少女の肉体変化を調査。宇宙時間にして35794369082948日目までは生存していたものの、35794369082949日目に死亡が確認される。



「…………」


 妄想じみた奇妙な文章だ。稚拙なホラー映画にでも出てくるようなその書類を、けれど私は青ざめた目で見つめていた。

 だってこれは本物の実験の文章だ。

 子供のような純粋な悪意が滲みでる文章は、見ているだけで気持ちが悪くなった。

 

「そのチョコっていうやつは、人体実験までしていたのか?」


 涼先輩が呻く。青い顔には汗がびっしりと浮かんでいた。

 魔法少女に変身するための薬。その薬を完成品に近付けるための実験。モルモット。チョコはそれを人間で行っていた。恐らく治験という目的も話さずに無理矢理信者達を引っ張ってきたのだ。多分、ママと協力して。

 ……もしかすると私達は、まだ成功例だったのかもしれない。もう少し適応率が低ければ、この子達のようになっていたのかもしれない。


 魔法少女への執着。この書類からは、それがゾッとするほど濃厚に香ってきた。

 完璧な魔法少女を作る。そのためには、子供達の命などいくら犠牲になったっていい。

 それがひしひしと伝わってくる文章だった。


「!」


 そのとき突然携帯が鳴った。

 私のだけじゃない、皆の携帯がだ。

 何事かと画面を開けば、どうやら付近の地域に一斉に何やら警報が出されていたらしい。

 地震なんて特に感じなかったけれど……と怪訝にメールを開いた私は、その内容に、更に顔をしかめた。


「火災?」


 楽土町内で火災が発生しているらしい。近隣の住民は警戒するように、との内容だった。

 火災程度で警報が鳴るものだろうかと思いながら、画面をスクロールさせ発生地を調べる。そして思わず二度見した。

 火災の発生地は、楽土町内ほぼ全域だった。


「待って。嘘でしょう?」

「祥子さん?」

「湊くん。見てよこれ」


 祥子さんが携帯を湊先輩に見せる。彼は画面を見て、ギクリとその肩を張りつめた。

 どうしたの、と私も後ろから覗き込もうと背伸びをする。ぴょんぴょん飛び跳ねていれば祥子さんが屈んで私に画面を見せてくれた。そして湊先輩と同じく固まった私を見て、また別の誰かがどうしたんだよと声を飛ばす。


「高校の近くで殺人事件が起こったって。外を出歩いてたうちの生徒が殺された」

「は! 嘘だろ、マジかよ」

「それから、この近くのコンビニで爆発事故が起こって、五人が巻き込まれたって」

「え?」

「駅前の通りで無差別殺人が起こって、三人が死んだ」

「殺人事件はさっきも聞い……は、別の事件? 何? なんで?」


 傷害、殺人、放火、窃盗。楽土町内で発生した事件が検索サイトのトップに流れている。

 注目すべきはその日時。すべての事件の発生日は、三月十九日、午前〇時。

 事件発生から今まで、一時間もたっていないのだ。


「…………」


 私達は無言で顔を突き合わせた。

 じわじわと嫌な悪寒が足元から忍び寄ってくる。

 とんでもないことが起ころうとしている。そんな気配だけが、濃密に広がっていた。


 私達にとって、最後の一日がはじまった。

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