第78話 ハッピーバースデー

 三月十八日。午後四時過ぎ。

 僕達はありすちゃんの家の前で、お互いを肘で小突き合っていた。


「おい雫チャイム押せよ」

「で、でももしお昼寝とかしてたら迷惑かもだし……」

「だよね。起こしちゃうと悪いよね」

「お前も押せねえのか湊」

「じゃあ千紗ちゃんが押してよ!」


 チャイムを誰が押すかで僕達は言い争っていた。左右から千紗ちゃんと雫ちゃんがぎゅうぎゅう僕の腕を引っ張るものだから、袖が伸びに伸びている。帰ったら母さんにブチ切れられること間違いなしだった。

 何故こんなことになっているのか。というのも、ありすちゃんの両親に会うためである。

 彼らに渡したい物があったのだ。


 クリスマスイブの大騒動。押し寄せるマスコミや近隣住民の目もあって、僕達はありすちゃんの家に来れなかった。

 しかしあれから数ヵ月がたった今。ありすちゃんの家はすっかり静かになっていた。

 マスコミの姿はどこにもない。家中に貼られていた中傷ビラも、剥がし損ねた何枚かが風にひらめくばかり。以前来たときは薔薇が咲き誇っていた庭も今は何も咲いておらず……ありすちゃんの家は、怖いくらいに静まり返っていた。

 家までは来た。あとはチャイムを押すばかり。だが最後の一歩がどうしても踏み出せないでいる。今更何をしに来たんだと言われるかもしれない。そう思うと、どうにも不安になってしまうのだ。


「ジャンケンで誰押すか決めよ。じゃあいくよ。最初は……」


 血迷ってきた僕達はジャンケンをはじめる。一回目で勝負がついても「これ三回勝負だから」と言い訳をして時間を稼ぐ。

 僕達は気が付いていなかったが、話し声というものは、閑静な住宅街によく響く。それは当然、家の中にいても聞こえるものである。

 ジャンケンの勝敗がつく前に玄関の鍵がガチャリと開いた。ぬっと突き出た顔が、固まる僕達を見つめていた。


「君達は」


 頬のこけたその顔がありすちゃんの父親であると、一瞬気が付かなかった。

 怪訝なその目が僕に止まる。以前泊まりに来た男だと思い出したのだろう。暗かった目にふと光が灯った。


「どうぞ、上がって」

「……お、お邪魔します」


 僕達は顔を見合わせそろそろと玄関に足を踏み入れた。最後に入った雫ちゃんが、玄関の扉を閉める。

 背後で閉まる扉の音が、やけに重たく耳に響いた。




 暗いな、と思った。

 僕達はリビングに通された。照明は明るく、窓からは夕方の日が眩しく差し込んでいる。にもかかわらずどことなく薄暗い空気が部屋に漂っているようだった。

 出されたコーヒーは濃く苦かった。けれど砂糖もミルクも入れずに飲む。熱い液体を喉に流しながら、僕達は向かいに座るありすちゃんの両親の様子を伺った。

 二人共酷い顔だった。テレビに映っていたときよりも、更に顔色が悪い。


「君達も娘のことを怪物だと思っているのかな」


 彼らの痛ましさに目を細めていると不意にお父さんが言った。僕はハッと目を丸くした。虚ろな目の奥に、深い警戒心が込められている。

 いえ、と考えるより先に言葉が口を突いて出てくる。


「ありすちゃんは僕達の友達です」


 千紗ちゃんと雫ちゃんも頷く。その反応に嘘くささはない。本心から思っていることなのだから、当然だった。

 二人は僕達の反応を信じてくれたのだろう。僅かに表情を和らげ、無礼な物言いを詫びた。


「最近すぐに気が立ってしまって。ごめんね、せっかく来てくれたのに」

「いえ、そんな……」


 おそらくこれまでにも心無い訪問者がいたのだろう。ありすちゃんの友達だ、知り合いだ、なんて言って根掘り葉掘り情報を聞き出そうとする人達が。

 僕は話題を変えるようにテーブルに視線を落とした。僕達が来る前から、そこには何冊ものアルバムが積み重なって置かれていた。懐かしい形のビデオテープや絵本なんかも。それを見ると、なんだか胸の奥がズキズキと痛んだ。

 さっきまで二人でそれを読んでいたのだろう。ありすちゃんとの思い出を、懐かしんでいたのだ。


「ずっと夢を見ているみたいな気分なの」


 ふとお母さんが言った。

 彼女は微笑を浮かべたまま、アルバムをぺらぺらと捲っていた。


「あの子がいなくなった日から、ずっと頭がぼんやりしているの。私はまだベッドの中にいて、長い夢を見ているんじゃないかって思う」

「…………」

「ありすの顔まで、思い出そうとすると何だかぼやけるの。一気に頭がおばあちゃんになったみたい」

「え……」


 彼女が捲るアルバムを見て、僕の心臓がドキッと跳ねた。

 ありすちゃんの小さい頃からの写真がたくさん並んでいるアルバム。けれどその中にいくつか、誰も写っていない写真が紛れていた。不自然な風景写真だった。まるで写っていた人物を後から加工して切りぬいたみたいな。

 ありすちゃんの副作用が、彼女の両親にも影響してきているのだ。


「私達には本当に娘がいたのかしら、とさえ思ってしまうの」


 あなた達が娘さんを忘れているのはストレスのせいじゃなく本当のことなのだ。もしもそう言えば、この優しい二人はどれほど悲しむことだろうか。

 千紗ちゃんがテーブルの下で僕の足を小突く。僕は頷くように、顎を少しだけ引いた。

 僕達が何をしに来たのかご両親は分かっていないだろう。だから僕は、あの、と声をあげた。


「お二人に持ってきたものがあるんです」


 鞄から取り出したものをテーブルに置く。それは二人が見ていたものほど厚くはなかったが、一冊の小さなアルバムだった。

 二人はぼんやりした顔のままそのアルバムを捲った。その瞬間、二人のぼやけていた意識がアルバムの写真に吸い寄せられたのが分かった。


「これまでの僕達の思い出です」


 それは僕達と共に過ごすありすちゃんを撮った写真集だった。

 これまでに撮ってきたたくさんの写真から、ありすちゃんがまだ消えていない写真を選んでまとめたものだ。学校や喫茶店にいるときのありすちゃんの笑顔が、そこに収められている。

 ページを捲るうち、どんどん二人の表情が変わっていく。息を詰めて夢中で写真を眺めている。水気を滲ませたまつ毛が、夕日を反射してキラキラときらめいていた。

 他にもあるんですよ、と僕達は鞄から取り出した物をどんどんテーブルに並べていく。千紗ちゃんが撮った短編映画、雫ちゃんがありすちゃんを主人公にして描いた絵本。

 全部ありすちゃんのために作った作品だ。

 だから僕達はこれを、彼女の両親に渡したかった。


「あの子、学校にいるときはこんな顔をしていたのね」


 お母さんがぽつりと言った。


「凄く楽しそう。ほら、こんなに笑って」

「ああ本当だ。そうか……ありすは、君達といるのが楽しかったんだなぁ」


 お父さんとお母さんの指が、アルバムの中の娘を愛おしそうに撫でる。きっと二人の指に伝わっているのは紙の触感じゃない。愛する娘の頬の柔らかさを、そこに感じているのだろう。

 青ざめていた肌はすっかり薔薇色に染まっていた。二人は静かに肩を寄せ合い、ほろほろと笑った。


「娘と友達になってくれてありがとう」


 二人の目から涙が落ちた。

 いくつもの雫が、音もなくテーブルに落ちていく。

 僕達は何も言わずただ頷いた。ぐっと拳を握りしめ、つられて泣いてしまいそうになるのを賢明に堪えた。

 僕達はありすちゃんの友達だ。

 これまでも、これからも、ずっと。


「……ね、お夕飯食べて行かない? 今日はね、とっておきのカレーを作ろうと思っていたの」


 しばらくして顔を上げたお母さんが言った。今日はじめて聞く、晴れやかな声だった。

 温かな朱色に染まった頬が柔らかく笑んでいる。そうして笑った顔はありすちゃんにそっくりだった。


「実は明日はありすの誕生日なの」

「そうなんですか?」

「毎年あの子が大好きなカレーとケーキでお祝いをしてるの。あの子は、生クリーム入りの特製甘口カレーが大好きだった……」


 懐かしむようにお母さんは言う。僕達は顔を見合わせて、カレー大好きなんですと笑った。

 手伝おうとキッチンに来た僕達をいいのいいのとお母さんがリビングに追いやる。お父さんが僕達にありすちゃんのアルバムを見せながら思い出を語る。

 コトコトくつくつ鍋が煮える音。漂うカレーの匂い。お母さんの鼻歌。お父さんの優しい話し声。

 胸がジンとしみるほどあたたかく幸福な空間だった。ありすちゃんをこの居場所に戻してあげたいと、強く思った。

 その夜に食べたカレーは、濃厚でとってもおいしかった。



「二人共元気になってよかったね」


 星の明るい夜だった。星明りに照らされた帰り道を、僕達は横並びに歩く。風は冷たいが、体は内側からほかほかと温かかった。

 ニコニコ笑う雫ちゃんに僕も微笑んだ。僕達のプレゼントが、ありすちゃんの両親の心を少しでも癒すことができていればいいなと思った。


「……あ? おい、これ間違ってね?」


 ふと、鞄から携帯を取り出そうとした千紗ちゃんが言った。

 彼女は鞄から一本のビデオテープを取り出した。僕達のものじゃない、ありすちゃんの家にあったものだ。

 テーブルを片付ける際に誤って混入してしまったのだろう。雑多に物を詰め込んでいたせいで気が付かなかった。

 ありすちゃんの家を出たのは大分前だ。返しに行かなくちゃ、と振り向きかけた僕を、千紗ちゃんが止める。


「まあ待てよ。タイトル見てみなって」

「タイトル?」


 背面にマジックで書かれたタイトル。『魔法少女ピンク』の文字を見て、僕は僅かに目を丸くした。

 それは、ありすちゃんが魔法少女に憧れるきっかけとなったビデオだったはずだ。


「何だかんだあたしこのアニメ見たことないんだよ。バイト先のレンタルコーナーにも置いてねえし」

「わたしも、どんなのか気になってたんだ……」

「返すのは一回見てからでも遅くないだろ」


 二人はそわそわとビデオテープを見つめていた。ありすちゃんが散々言っていた作品を前に、気になって仕方ないのだろう。

 ここからだと僕の家が一番近い。父さんの部屋にこのタイプを再生できるデッキがあったはずだと言えば、二人は目をキラキラさせて僕を見た。僕は苦笑しつつも二人を家に連れて帰ることにした。

 ビデオが気になるのは、僕も同じだった。


「ただいまー」

「お、お邪魔します」

「っす」


 母さんは僕が連れてきた二人を見て少し驚いていた。事情を話して父さんの部屋を借りると言えば、よそ行きの顔でニコニコ笑って二人を部屋に案内する。僕をキッチンに呼んでお茶を運ばせながら「どっちが恋人なの?」と無邪気に聞いてくる母さんに、乾いた笑いを返してスルーする。

 部屋に戻ると二人は既にビデオを再生する準備を終えていた。そわそわする二人の横に座り、リモコンを取る。

 ざらついたノイズ。とぎれとぎれの音声。古めかしい音楽が流れ、画面に一人の女の子が映る。

 魔法少女ピンクの上映が始まった。



 再生が終わったとき。真っ暗になった画面には、ぽかんと口を開ける三つの顔が反射していた。

 僕達は何とも言えない顔でお互いを見つめていた。そのうち千紗ちゃんが脱力したように肩を竦め、呆れた声をあげる。


「そりゃビデオ屋に置いてないわ。これ、ただの自作ビデオじゃねえか」


 そう。『魔法少女ピンク』は魔法少女シリーズのアニメじゃなかった。一人の女の子が魔法少女のコスプレをして敵をやっつける。ただの自作映像だったのだ。

 アニメというかほとんど実写である。可愛いピンク色の衣装は自作、敵はハリボテ、魔法のステッキもお手製、魔法の必殺技もCG。そして何より唯一の登場人物である女の子は、僕達がよく見た顔だった。


「これ、ありすちゃんだよね?」


 その子の顔にはありすちゃんの面影があった。髪はまだ茶色くて、画質も随分荒いから分かりにくいけれど。幼い口ぶりで一生懸命に魔法の言葉を叫ぶその子は、魔法少女ごっこをして遊ぶときのありすちゃんそっくりだった。

 最後まで映像を見た僕達は、なぁんだと気が抜けた声で笑った。

 魔法少女ピンクに憧れて魔法少女を目指した……つまりは、幼い頃からの夢をずっと追いかけていたということなんだろう。大きくなって夢を諦めそうになっても、何度もこのビデオを見返して、幼い頃のあの情熱を思い出してきたんだろう。


「そろそろ帰るね。晴から、プリン買ってきてって頼まれちゃって」

「うん。あ、待って二人共。家まで送るよ」

「いーっての面倒くさい。代わりにそのビデオ、後で返しに行ってくれや」


 二人を玄関まで見送ってから部屋に戻る。父さんはまだ帰ってきていない。

 僕はなんとなくもう一度そのビデオを見てみることにした。三十分程度の短くも、自作映像にしては長めの映像。

 さっきはただ驚いてしまったけれど。改めて見れば、力をかけて作ったのだとよく分かるビデオだった。ハリボテや舞台セットは確かに稚拙だけれども、細部まで丁寧に作られているおかげで、そこまで安っぽさは感じられない。盛り上がるシーンでは思わず声が出てしまう程度には面白い。

 ありすちゃんは本当に魔法少女が好きなんだなとよく分かった。

 幼い魔法少女ピンクは魔法の言葉を一生懸命叫んでいる。その瞳はまるで、星を散りばめたようにキラキラ輝いていて……。

 …………あれ?


「お、何見てんの」


 扉が開いて父さんが帰ってきた。おかえり、と言って僕はまたテレビに顔を戻す。


「ちょっとね。友達のホームビデオというか」

「ふぅん」


 僕はしばらくビデオを流しっぱなしにしていた。父さんが鞄を置いたり、椅子に座る音が背後に聞こえる。

 そろそろ自分の部屋に戻ろうかとリモコンを取ったとき。唐突に、後ろから手を掴まれた。


「父さん?」


 僕はなんてことない態度で振り返る。

 そして、このときの父さんの顔を、しばらくの間忘れることができなくなった。


「……花子ちゃん?」


 その名前が誰なのか僕には分からない。

 けれど父さんにとっては大切な人なのだと、その表情で悟った。

 父さんはゾッとするほど緊張に張り詰めた顔をしていた。


「お前これどこで手に入れた」

「え……。と、友達の家……」


 父さんは険しい目でビデオを凝視している。その横顔は大量の汗で濡れていた。

 こんな父親の顔を見たことなどなかった。初めて見るほどの険しい表情に、胸が不安の鼓動を奏でる。


「思い出した。そうだ。なんで忘れていたんだ……」


 父さんはぶつぶつと呟きながらクローゼットを漁り出した。服や荷物が次々放り出され、床に積もって小さな山となる。

 突然の父親の奇行に僕はうろたえた。とうとう発狂してしまったんだろうかこの人は、と思っていると、父さんは呟くような声で僕に聞いた。


「湊。お前、星尾村に行ったろ」

「う、うん」


 あの村のことを忘れるはずがない。

 聖母様の実家、老婆の山田さん、遺骨から作られた薬物。濃厚に煮詰められた悪意が隠されていた星尾村。

 後日、父さんにそれとなく村のことを聞いたときは「特に面白いものもない退屈な村だよ」なんてへらへら笑っていたけれど。


「災害が多い地域は、その災害にちなんだ名前が付けられるって知ってるか。あの村は俺が住んでいた頃はまだ別の名前だった。それが、とある災害をきっかけに星尾村って名前になったんだ」

「とある災害?」

「流星群の衝突だよ」


 僕は無意識にズボンを握った。口の中にたまった長い唾液をごくりと飲み下す。

 父さんの話はなんだか覚えがあった。頭の中にパチパチと瞬いた光が、過去の記憶を呼び起こす。

 学校に降ってきた流星群を思い出した。


「あの日、局地的に降った流星群が村を半壊させた。村人の約四割が死亡する大災害だった。俺も、その場にいたんだ。飛んできた流星群の欠片が頭にぶつかった」

「ぶ、無事だったの」

「ほとんど燃え尽きる寸前の欠片だったのが幸いしたよ。だけどそのショックで、事件当時の記憶はぼんやりとしか覚えていない。しばらくして引っ越しで村を出ることになって、余計に思い出す機会はなくなっていた」

「だから、聞いても答えてくれなかったんだ……」

「ああ。でも、思い出した。今思い出したんだ」


 なあ湊、と父さんが言った。


「父さんは昔ネッシーと戦ったことがあるんだ」

「は?」

「村の隠された洞窟でツチノコの巣を発見したこともある。幼馴染と遊んでいたら空に巨大な宇宙船が現れたこともある」

「ちょっと。急に何言ってんだよ」


 僕は呆れた目で父さんを見た。

 お調子者なところがある父さんは、よく冗談を言って僕や母さんを笑わせようとしてくる。小学生の頃から昔から似たようなジョークをたくさん聞いてきた。中学生になる頃には、はいはいすごいすごい、とあしらうようになってきたけれど。

 前にも同じことを聞いた覚えがある。確か僕がありすちゃんの写真技術に嫉妬して悩んでいた頃、父さんの部屋に来たときにも聞かされたっけ……。


「真剣な話じゃなかったの? 冗談を言うのはやめてよ」

「父さんは小さい頃、宇宙人と写真を撮ったことがあるんだ」

「だからやめてって……」

「湊」


 クローゼットから父さんが出てくる。その手には、分厚い埃をかぶった本が握られていた。

 父さんは無言でそれを捲る。どうやら相当昔に撮った写真を適当に挟んだアルバムのようだった。どれも拙い写真ばかりだ。子供の頃、それもまだ幼いときに撮ったような写真しかない。

 けれど最後のページが開かれた瞬間、僕は息を呑んだ。体を雷が直撃したような衝撃に、頭が真っ白になった。

 弾かれたように顔を上げる。父さんは真剣な顔で僕を見つめていた。


「父さん、まさか」


 僕の反応に、父さんはちょっとだけ笑った。

 古めかしい写真。そこには、幼い父さんと、ありすちゃんに似た女の子と。そして、ピンク色の触手をうねらせた宇宙人が写っていた。


「俺だってたまには本当のことを言うよ」




***


 三月十九日、午前0時ちょうど。

 十五歳から十六歳になったその瞬間、私は懐かしい我が家の前に立っていた。


「久しぶりの我が家はどう?」

「……うん」


 暗闇にぽつんと立つ家は出たときと何も変わらないように見えた。

 ピンク色の壁と白い屋根。ニュースで見たときは壁に大量に貼られていた中傷ビラもどこにもなく、小石が投げられて割れていた窓もすっかり直っている。

 私はゴクリと唾を飲んで玄関までの道を歩く。庭には満開の薔薇が咲き誇っていた。けれど緊張のせいで、花の甘い香りはまるで感じない。

 マスコミも、誰もいない。静かな夜だった。


「ねえありすちゃん。君は、逃亡生活は無計画だって言ってたけど、嘘だったんじゃないの」

「嘘?」

「こうして長いこと逃げ続けていれば、皆が自分のことを忘れてくれるって思ってたんじゃないの」

「何の話かしら」

「数ヵ月の逃亡中に、副作用によって世間は少しずつ君のことを忘れていく。マスコミが一人もいないのがいい例だ。世間から完全に自分の存在が消えた頃になれば、君は堂々と聖母様探しにも行けるし、怪物に変身して黎明の乙女の悪事を止めることもできる。湊くん達は君のことを忘れて、魔法少女の戦いから逃れることができる」

「…………」

「君は自分を忘れてもらうために逃亡生活を送っていたんだろ」


 私は腕の中のチョコを見下ろして「さぁね」と小さく微笑んだ。

 それからまた家に向き直り、そっと玄関の扉に手をかける。チョコの魔法で鍵は開いていた。音もなく開いた扉の向こうから、懐かしい我が家の香りがした。

 遠い県外に身を潜めていた私は今日、久しぶりに楽土町に戻ってきた。チョコの完成した薬を研究所に取りに来たのだ。我が家に寄るのはついでである。一目だけ、パパとママの顔を見たかったのだ。

 だって今日は私の誕生日だから。


「…………」


 私はキュッとキャップをかぶり直す。パパとママのことだ、この時間はもう寝ているだろう。こっそり寝室に忍び込み寝顔を一目見るだけ。それだけだ。

 そろそろと廊下を歩く。階段を上って二階に上がろうとしたところで、ふとキッチンから私の大好きなカレーの匂いがすることに気が付いた。

 今日はカレーだったのだろうか、と何気なく暗いキッチンに顔を覗かせる。


「ありす」


 そこで私は、ぼんやり立っていたママと目が合った。

 体が凍り付く。ひゅっと掠れた息を吸い、私は咄嗟に踵を返して逃げ出した。

 けれどママの反応の方が早かった。ママは突き飛ばされたように私を追いかける。流しに手がぶつかり、お玉が転がり、まな板や包丁が床に飛び散った。キッチンを出れもしない所で、ママの細い手が私の腕を掴む。


「ありす」


 茫然とした声でママは呟いた。私を抱きしめる腕が震えている。

 はらりと私の頬に落ちたママの髪からは、優しく甘い匂いがした。


「私の娘……」

「ま、」

「私のありす……!」

「ママ」


 ママは私を罵倒しなかった。この怪物、と怒鳴らなかった。

 私が何者であるかを知っているはずなのに。私のせいで散々酷い目に遭ったというのに。ただただ強く私を抱きしめるばかりだった。

 ママの目から溢れた涙が、熱く私の頬を濡らした。

 その瞬間。ずっと我慢していた感情が、胸の奥から込み上げた。


「う……あ。あああぁ!」


 私はママにしがみ付いた。頭の奥がピリピリと痺れて、喉の奥がたまらないほど熱くなった。

 声をあげて泣く私を、ママは強く抱きしめていた。痛いくらいの抱擁が心の底から幸せだった。

 会いたかった。

 ずっと、こうやって抱きしめられたかった。


「ママ。ママ。ママ!」


 ありす、とママは私の頬にキスをした。

 それだけで全てが報われた気がした。

 逃げている最中の苦しみも。皆が私を非難する声も。冷たい視線も。

 全部、この瞬間の幸福が打ち消してくれた。


「会いたかった」


 窓から差し込む月光が、私とママの髪を白くきらめかせていた。埃が光を散らしながらゆっくりと空中を泳いでいる。

 ズッと鼻を啜り、涙の滲んだ目で私はママを見上げる。再会の喜びは十分に堪能した。次は、伝えるべきことを話す番だった。


「ず、ずっと秘密にしてたことがあるの。パパとママに言わなきゃいけないことがあるの」

「いいのよ。言わなくていいの。分かってる」

「私ね。私。本当はね」

「知ってるわ。ママはあなたのことなら何でも知ってるの。あなたが今日帰ってくることも」

「本当?」

「だって今日はありすの誕生日だもの」


 ママの指が私の髪を撫でる。まどろんでしまいそうな心地よさに、私はまた涙を落とした。

 怪物のことを、魔法少女のことを、全て話そうと思っていた。けれど説明の言葉は出てこず。代わりに出てきたのは、ただ母親に甘える子供っぽい声だった。


「……ママの作ったカレーが食べたい。ケーキにろうそくを立てて、お祝いしてくれる? 」

「ええ」

「それからね。家族三人の写真も撮りたいの。リビングに飾るのよ」

「そうね。あなたの誕生日だものね」


 そんな誕生日を過ごせたらどんなに幸せだろうか。

 パパとママが私を祝福してくれる。頬についたクリームを拭って、優しい顔で笑ってくれる。

 幸福な白い光の中で、私はただ両親の愛に無邪気に笑うのだ。

 それができたら。ああ、どんなに。


「あなたが生まれた日のことはよく覚えてる」

「……うん」

「あなたに出会えて私は幸せよ」

「うん」

「あなたに出会うことが、私の夢だったのよ」


 柔らかい日だまりのような病室で、赤ちゃんだった私を抱き上げるママの姿を思う。

 きっとその瞬間に全てが始まったのだ。

 ママの夢も。私の夢も。


「誕生日おめでとう」


 私は涙に濡れた目でママを見上げた。

 優しい微笑みは、ハッとするほどに美しかった。

 月光の柔らかい光に照らされたママは、ほろほろと泣きながら私を見下ろしている。

 全てを包み込んでくれるような愛情に満ちたママの顔を見て、私は微笑みながら思った。


 まるで、聖母みたいだわ。



「愛しているわ、ありす」



 サク、と背中から音がした。

 私はふっと目を丸くして振り向いた。

 背中に、包丁が突き立てられている。


「あ……?」


 私はぼんやり目を瞬かせて包丁を引き抜こうとした。けれど手足に力が入らない。私はその場にすとんと座り込み、茫然と背中から流れてくる血の冷たさを感じていた。

 あれ?

 なに、これ?


「ハッピーバースデー! 今日が君の、生まれた日になるんだ!」


 チョコが私の背中に抱き着いている。彼はピンクのぬいぐるみ姿のままで、背中に突き立てた包丁の柄を握った。

 布の手が包丁を引き抜く。そこではじめて激痛が走り、私は絶叫した。首から下げていたカメラがガシャンと血の中に落ちる。

 ほとばしった血にチョコの笑顔が真っ赤に染まっている。私は顔中に脂汗を滲ませたまま、ハッとママを見上げた。ぬいぐるみが動いていることを誤魔化さなければいけないと、とにかくそう思ったのだ。

 けれど、ママはチョコを抱き上げて微笑んでいた。ぬいぐるみが動いているというのに、ちっとも驚いた顔をしていなかった。


「もう、待ちくたびれたわ。ずっと待っていたのよ」

「ごめんごめん、待たせたね。でも君も言ってくれればよかったのに。人間はあっという間に年を取るんだって!」


 チョコはママに頬ずりをして笑う。その笑顔を見た途端、私の脳裏にふとこれまでチョコに言われてきた言葉がよみがえった。

 魔法少女にしてあげる。

 ぼくがこの星に来たのは元々、一人の女の子を魔法少女にするためなのさ。

 そういえば。チョコは一度も「ありすちゃんを」とは言っていなかったっけ。


 ゆっくりと広がっていく血だまりの中。私は蒼白の顔でママ達を見上げた。

 月光に照らされる二人の姿。ピンク色の髪をしたママと、その肩に乗るマスコット。

 それはなんだか、大好きな魔法少女のワンシーンにそっくりだった。


「やっと私の夢が叶うのね」


 ママはうっとりと囁いた。幸せそうな笑みは、無邪気な少女のようだった。

 チョコが笑う。高らかな声が、暗闇に響き渡った。


「さあ、魔法少女になろう。山田花子ちゃん!」

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