第76話 世界で一番悪い夢

 怪物だ、と誰かが言った。


 冬休み明けの学校。僕は冷たい廊下を歩き、苛立ちのにじんだ白い呼気を吐き出した。

 通りすがる誰もが僕を見て噂話をしている。全身に浴びる嫌な視線に、僕はあえて露骨な怒り顔を見せて突き進んだ。悪口を言う男子を睨み、女子の好奇の視線を無視する。

 ふと窓の外を見て、見なければよかったと後悔する。校門に押し寄せている大勢のマスコミの姿が見えたからだ。無意識に零れた舌打ちに、近くを歩いていた一年生がビクッと肩を縮めて小走りに去っていった。


「…………」


 怪物の正体は姫乃ありすという人間だった。

 クリスマスイブに世間へ届けられたサプライズプレゼント。あれから日がたっても、世間は怪物の話題でもちきりだった。

 ありすちゃんを皆が恐れている。家族や友人や恋人を傷付けられた人々が彼女に冷たい目を向けている。

 それは勿論、彼女の傍にずっといた僕に対しても。


 戸を開けた途端、騒がしかった教室が一瞬静まり返った。ハッとしたクラスメート達の視線が僕に突き刺さる。

 僕は固まる皆の間を抜け、自分の席にドカッと乱暴に腰を下ろした。普段はおはようと話しかけてくる近くの席の女子グループも、今日ばかりは僕と目を合わせようとさえしなかった。


「なあ。お前、あの怪物と友達だったってマジ?」


 そんな状況でも話しかけてくる奴というのは一人か二人はいるものだ。例えばこいつのような、空気が読めないタイプのお調子者とか。

 彼は、凍り付いた教室の空気にも気付かずへらへらと笑っていた。


「あの子あれだろ? 変な一年生だって前から有名だったやつ。宇宙人みたいだなんて言われてたけど、まさか怪物の方だとはね。頭だけじゃなくて見た目までイカレてんのかよ……」


 僕は彼の話を一切聞かなかった。無反応の僕に苛立ったのか、彼は「んだよ」と携帯をいじりだす。かと思えば彼は唐突にその携帯を僕の前に突き出した。そこには動画が流れている。

 ありすちゃんの家が映っていた。

 連日ニュースで流れている、彼女の両親への突撃取材だった。四方八方から投げつけられる無礼な質問に二人共憔悴しきった顔をしている。


『娘は人間なんです。私達が大切に育ててきた、可愛い一人娘なんです』

『ありす……。お願い、どうか、帰ってきて……』


 謝罪の隙間に混じる痛切な声。ハンカチで顔を覆って肩を震わせる母親に、容赦ないカメラのフラッシュがたかれる。

 白いフェンスは誰かが投げつけた泥で汚れている。綺麗な薔薇が咲き誇っていた庭はマスコミの靴跡で荒らされている。ピンクの外壁には近隣住民が張ったらしい『ここから出ていけ』というメッセージが張られている……。

 前に彼女に連れられて彼女の家に行ったとき。あたたかい両親に挟まれて、幸せそうにふくふくと笑うありすちゃんの姿を、僕はまだ覚えている。


「娘が怪物だって気付かないもんかねぇ。怪物が楽土町をめちゃくちゃにしてるっていうのに、こいつらも反省してんの?」


 男子の半笑いが教室に響く。調子に乗った彼は、僕の机をバシバシと叩いて、唾を飛ばして笑った。


「こいつらも共犯だったりして。ほら、娘を人体実験に使った秘密研究員だとかさぁ。でっかい怪物になった娘をボタン一つで操作すんの。ビーム撃たせたり、人を踏み殺したり! やっぱこいつらが一家で街を破壊して……づっ!」


 僕が蹴り飛ばした机が男子の腹にぶち当たる。机が倒れる大きな音に、皆が一瞬悲鳴をあげた。

 愕然と目を丸くする彼を、僕は真正面から静かに見つめた。


「勝手なこと言ってんじゃねえよ」


 何も知らないくせに。

 固まる彼を無視して倒れた机を起こす。近くの女子の席にまで飛んだ教科書を拾い上げ、ごめんねと小さな声で謝る。青ざめた顔の彼女から返事は帰ってこなかった。

 教室は今度こそ完全な静寂に包まれた。僕に話しかける人はもう誰もいなかった。

 誰かが開けた窓から流れ込む風は真冬の温度をしていた。怒りに火照る僕の体温には、ちょうどよかった。

 けれどそのとき。ふと僕の顔に影がかかる。

 またか、と苛立ちながら顔を上げた僕は、僅かに下唇を噛んだ。


「ちょっと面貸せ」

「……ホームルームがはじまるまでにしてくれよ」


 僕は立ち上がって、冷たい顔をした涼の後ろをついていった。

 他の誰の言葉を無視できても。こいつのことだけは、無視などできなかった。



 もうすぐホームルームがはじまる時間帯ともなれば、部室棟の裏手になど当然誰もいなかった。

 風だけが吹く静かな空間に、僕と涼はたった二人、向かい合って立っている。


「ありすちゃんが怪物だって本当か」

「本当だよ」


 言い訳をする意味もなかった。涼の呼吸がわずかに乱れる。

 久しぶりに見た友人の顔は、今日の曇天よりも、もっと暗く陰鬱な色をしていた。


「国光が死んだとき、怪物もそばにいたのか」

「ああ」

「湊もそこにいたのか」

「ああ」

「あいつが死んだのは怪物のせいだって噂は本当か?」


 それが聞きたかったのだろう。僕は答える前に、冷たい空気を少しだけ吸い込んだ。

 涼の表情は不安気に揺れていた。怒りと怯えの狭間。僕の答えを期待しているような、聞きたくないような、そんな顔だった。


「違う。ありすちゃんは、国光を殺そうとなんてしていない」

「……本当か?」

「ああ」

「ならどうして、怪物の姿でいたんだよ」


 涼の縋るような目に僕は少し躊躇った。

 ここで全てを説明すべきだろうか。国光の死について、ありすちゃんのことについて。全てを話して、彼を納得させるべきなのだろうか。……いや。


「詳しいことは言えない。でも、ありすちゃんは国光を助けようとしたんだ。それだけは、信じてほしい」


 この距離からだと、涼の目尻にクッキリと刻まれたクマがよく見えた。暗く窪んだような眼光に、充血した目の赤さが痛々しかった。一体いつからまともに眠れていないのだろう。

 今真実を話したところで涼が受け入れてくれるかなんて分からなかった。それに、僕達の戦いに彼を巻き込みたくはないと思った。

 涼は僕の大切な友達だから。


「楽土町が荒れた原因は怪物じゃない。犯人は他にいて、怪物はそいつを倒すために戦っている。僕はその手伝いをしているんだ」


 彼は、怪物に味方をする僕のことを嫌って離れていくかもしれない。

 胸の奥にチクチクと刺さる痛みを噛み殺し、僕は涼にまっすぐな言葉を吐きだした。


「世界が怪物を嫌っていても、僕だけはあの子達の味方をするって決めたんだ」

「お前……」

「国光のことで涼が怪物を嫌う気持ちは分かる。だけど僕は、それでもありすちゃん達のことを」

「そうじゃねえだろ!」


 涼の怒鳴り声に僕はビクッと肩を揺らした。殴られるだろうか。そう思って体に力を込めようとした僕は、涼の顔を見て唖然とした。

 涼の顔は真っ赤だった。けれどそれが怒りのせいではないということを、頬をボロボロと流れる涙が教えてくれていた。


「た、戦うとか、怪物の味方をするとか、そういうのじゃなくてさ。なんでお前はそう無茶ばっかしてんだよ」


 ズッと涼が鼻をすする。乾いた風が彼の髪をなびかせて、にじむ涙をチラチラと光らせた。

 彼の手が僕の腕を掴む。セーターをめくられ、僕の腕が冷たい風に露わになった。

 ガーゼや包帯だらけのボロボロの腕は、我ながら見ていて痛々しい腕だった。


「服で隠してるつもりかよ。お前が怪我してんのなんて、俺も国光も前から気付いてたよ。心配してたんだよ。そんな理由で怪我してるなんて、思わないじゃん」

「…………」

「友達が怪我して平気なやつがどこにいんだよ。お前が無茶して死んだらどうすんだよ」

「涼」

「国光がいなくなって。お前までいなくなったら俺、どうしたらいいんだよ!」


 涼の声は、涙でべしょべしょに濡れていた。苦しそうな顔でうずくまる彼の背中に、僕は思わずそっと手を寄せる。

 激しく震える背中は、火傷しそうなほどの熱を持っていた。

 彼はこれほどの激情を抱えていたのか。

 ありすちゃんが怪物だと知ってから。今日まで。この熱をずっと。


「か、怪物が味方か敵かなんてよく分かんなかったけどさ」

「うん」

「ニュースで見たんだ。お前が落ちそうになったとき、怪物の伸ばした触手がお前を掴んだところ」

「うん」

「ありすちゃんがいなかったら。湊、死んでたろ?」

「……うん」

「生きててよかった」


 涼は自分の膝に額をくっつけて、それきり顔を上げずぶるぶる震えていた。ときおり鼻を啜る音と咳をする音が聞こえるだけで、嗚咽はよく聞こえなかった。

 僕はそんな彼の隣にしゃがんで、鼻頭にしわを寄せて地面を見つめていた。こうしなければつられて泣いてしまいそうだったから。

 濃いクマも、充血した目も、ありすちゃんに対する恨みではなく、僕を思ってのことなのか。

 生きててよかった、と涼は言った。怪物の味方をする僕への恨みは、一言もなかった。

 それだけで十分だった。


 チャイムの音が鳴り響く。僕達はパッと顔を見合わせ、「遅刻じゃん」と笑った。

 けれどその笑いは、チャイムが鳴り終わる寸前に聞こえた悲鳴にぴたりと止んだ。ゴミ捨て場の方から悲鳴が聞こえた。何やら重たいものが崩れる音も。

 おそるおそるそちらを覗き込んだ僕達が見た者は、ゴミが散乱する地面の上、頭にはまったダンボールを引っ張ろうともちもちうごめく一人の男子生徒であった。


「何してるんですか部長」

「何故俺だと分かった……!?」


 勘ですかね、と言いながら僕と涼はダンボールを引っ張った。中から出てきたのは顔を真っ赤にした部長である。「湊くんは勘がいいね」とニコニコする部長は、顔を隠していたとしても、もっちりとした豊満なボディを隠せていなかったことを知っているのだろうか。

 あたりに散らばっているのは大量の写真だった。三人がかりで全てを拾い集め、ゴミ袋にまとめ直す。どれもブレやぼやけが酷く、微妙な写真ばかりだった。


「卒業前に部室を掃除していこうと思ったのさ。放課後だけじゃ時間が足りないから、こうやって朝にも来てね。だからええと、決して君達の話を盗み聞きするつもりでは……」


 まさか人がいるとは思っていなかった。感情に任せた会話をしていた僕達は顔を見合わせ、ちょっぴり唇を尖らせた。

 さて、このまま教室に戻ろうかどうしようかと悩む。そんな僕達の思考を読み取ったかのように、部長が言った。


「君達。もしよかったら、部室の片付けを手伝ってくれないかね」

「……いいんですか?」

「協力してくれると助かるよ」


 ありすちゃんと僕の噂は三年生の間にも広がっていると祥子さんが今朝教えてくれた。僕と関わる人間は同類とみなされ敬遠される。それは部長だってよく分かっているだろうに。彼は、屈託のない笑顔をこちらに向けてくるだけだった。

 なるほど、と一つ思って微笑んだ。僕は部長のこういうところを尊敬しているのだ。


「手伝います」


 どうせ今から教室に行っても怒られるだろうし、なんて涼の言葉に乗っかるように僕も頷いた。あの冷たい教室に戻るより、授業をサボって部室の大掃除をするほうが、ずっとよかった。

 普段気にしていなかった写真部の部室は、よく調べてみれば予想よりずっと汚かった。

 ボロボロに壊れたカメラ、棚の奥でミイラになっていたコッペパン、卒業生が忘れていったジャージ。いらないものを片っ端からゴミ袋に詰め、発掘したエロ本を真剣に読みふける涼を引っ叩き、ゴミ捨て場と部室を往復する。


「そうだ。湊くん、よかったらこれをあげよう」


 不意に部長が渡してきたのはカメラだった。箱にたくさん入っているうちの一つである。この前部費で新調した最新カメラ数台と違い、部長が入部する前からあったという大分古いカメラである。


「新調したカメラばかりが人気で、古いカメラを使う部員が減ってしまったんだ。狭い部室に置ける台数も限られている。捨てるより、誰かにプレゼントしようかと思ってね」

「僕がもらってもいいんですかっ?」

「このカメラを一番使っていたのは君だからね。……そう言えば、そのカメラの現像を最後にしたのはいつだったかな」


 僕は喜々としてカメラを眺めた。データはまだ残っている。ブレブレの写真や指が写り込んだ写真を何枚か眺めてから、椅子に腰かけ本格的に写真を確認しはじめる。

 どんどんと写真を捲っていくうち、パッと表示されたとある一枚に思わず息をのんだ。画面いっぱいにありすちゃんの顔が写っていたのだ。


「うわ、懐かし」


 そういえばこのカメラ、ありすちゃんといるときに何度か拝借したことがあったっけ。

 はじめて会った頃の写真が多かった。まだ若干ありすちゃんにぎこちなく接する僕の顔まで写っていて思わず笑いながら次の写真を捲った。

 パ、と画面に現れたのは巨大な怪物の顔だった。


「!」


 倒れる怪物の顔を、間近に捉えた一枚だった。怪物の顔は一部がドロリと溶けかけている。そこから僅かに覗くのは、見知った少女の髪のピンク色だった。

 僕は思い出した。このカメラは、ありすちゃんが変身したときにはじめて持っていたカメラだ。

 大量のデータの奥に隠されていた怪物の写真。部員の誰にも気付かれないでいたのは幸いだった。

 急に飛び込んできた怪物写真は衝撃的だった。焦りと興奮で胸がドキドキと高鳴る。震える指先を押さえつつ、僕は次の写真を表示させた。

 映っていたのは。夕焼けを背にしたありすちゃんの笑顔だった。


「湊?」

「ん……どうかしたかね」


 彼女に出会った本当にはじめての一瞬を切り取った写真だった。

 流星群を撮ろうとしていた僕に、背後からありすちゃんが話しかけてきた。振り返った僕のカメラを間近で覗き込んでいた大きな目。驚いて仰け反った僕の指は、どうやらその拍子にシャッターを押していたらしい。


「あ」


 偶然にしては笑ってしまうくらい綺麗な写真だった。

 紫色に近付く空の光を浴びて微笑むありすちゃんは、眩しいほどに綺麗だった。

 今の僕が、怪物よりもずっと渇望する、ありすちゃんの写真だ。


「ありすちゃん」


 カメラに落ちた水滴を指で拭って、僕は鼻を啜った。ありすちゃんにこの写真を見せることが出来たら、と強く思った。

 もしもありすちゃんがここにいたら。僕の隣にいつものようにちょこんと座って、カメラを覗いてニコニコ笑って。きっと言ってくれるのだ。

 やっぱり、湊先輩の写真はとっても素敵だわ。


「……怪物のことを教えてくれないか」


 ふと部長が静かに言った。僕は真っ赤になった顔をあげ、湿ったまつ毛を瞬かせる。部長も涼も真剣な眼差しで僕を見つめていた。


「俺は君を悪人だとはどうしても思えない。そんな君が怪物達の味方をしようとするのには、相当の理由があるんだろう?」

「事情を教えてくれなきゃ何にもできねえよ。お前の話、教えてくれよ。それから判断するからさ」

「最後までちゃんと聞く。だから……」


 僕は鼻を啜った。涙で潤んだ目で二人を見て、唇を噛んだ。

 怪物のこと。ありすちゃんのこと。黎明の乙女のこと。魔法少女のこと。全てを話して、納得してもらえるのか。二人を巻き込むはめになるじゃないか。

 これ以上大切な人を危険な目に巻き込みたくはない。


「湊」


 でも。


「……し、信じてくれますか。僕のこと」


 助けを求めた僕に、二人は頷いた。躊躇う素振りなどいっさいなかった。

 だから僕は二人に向き直る。カメラを握って、涙を拭って。

 僕はありすちゃんと出会ってからの全てを、二人に語って聞かせたのだ。




「ゴーゴーゴーゴーゴー!」


 自転車のタイヤが猛スピードで地面をこする。涼の自転車は裏口に集まるマスコミを蹴散らして、風のように駆け抜けた。驚いた顔のマスコミは、自転車の後ろに乗る僕に気が付くとあっと声をあげた。

 まだ日も高く授業もろくに始まっていない時間。僕達は学校を飛び出していたのだった。


「要するに!」


 びゅんびゅんと風が涼の髪を逆立てる。涼の全力疾走は早かった。一緒に飛び出したはずの部長がまだ校門付近で、通したまえ通したまえとふうふうキコキコ自転車をこいでいる姿がどんどん遠ざかっていく。


「俺が今魔法少女に入ったら、グリーン担当かパープル担当ってわけ!?」

「なんで入る気なんだよ」


 負けないわよ、と誰に勝つ気でいるのか分からない声をあげ涼はペダルを踏みこんだ。眩しい太陽を浴びて地面にクッキリ浮かぶ自転車の影は、タイヤを高速でガラガラと回していた。

 かっ飛ばした自転車は目的地に着いた瞬間急ブレーキをかけた。いつものカフェである。戸を開けると、慣れ親しんだコーヒーの香りがふわっと僕達を包み込んだ。


「皆やっぱりここに集まってたんだ」


 奥の席に座っていた千紗ちゃんと雫ちゃんがパッとこちらに振り返る。魔法少女の喫茶店。僕達の集い場となったここに、今日も皆は集まっていた

 千紗ちゃんと雫ちゃんだけじゃない。澤田さん黒沼さん鷹さんの大人三人、祥子さんにSNS用の華やかな写真の撮り方を教わっているのは晴ちゃんだ。

 涼は店内のアンティークな内装に興味津々に視線を泳がせている。遅れてやってきた部長も汗だくで店内を見回していた。こんな所に喫茶店があるなどはじめて知ったらしい。


「信頼できる人を連れてきたんだ。友人の涼と、写真部の部長です」

「えっと……湊さん。俺達の信用以前に、こちらのメンバーに既に、やばい噂しか聞かない不良ちゃんとヤクザみたいな人がいるんですけども」

「ああ、千紗ちゃんと黒沼さんのこと?」

「一瞬で誰のことか理解してんじゃねえよ湊てめえ」


 警察もいるから大丈夫、と言えば涼はほっと胸を撫でおろして澤田さんの隣に座った。「どうもどうも」「や、こんにちは」と二人はにこやかに挨拶をし合う。直後鷹さんに「そっちがヤクザだよ」と言われた瞬間の涼の顔を見て、祥子さんがちょっと笑った。

 マスターが外に出てcloseの看板を出す。さて、と戻ってきたマスターは黒マスク越しに軽く顎を撫で、薄い色の目を細めた。


「さて、決起会といったところか。新参者もいることだ、改めて説明をしよう。……まずは手始めに怪物の正体を見せた方が話は早いだろう」


 マスターの言葉に千紗ちゃんと雫ちゃんが顔を見合わせる。ふと瞬きをした一瞬、彼女達の体は鮮やかな光に包まれていた。また瞬きをすれば、彼女達の体は人間のそれから変化する。巨大な獣と、海洋生物のようなそれに。

 事情は説明済みといえ、いざ目の前で変身される衝撃はすさまじいものだ。涼と部長は目を丸くして硬直し、晴ちゃんは「うお気持ちわるっ!」と叫んでまっさきに姉から距離を取っていた。


「縺ゥ縲√←繧薙↑蟋ソ縺ァ繧ゅ♀蟋峨メ繝」繝ウ縺ッ縺雁ァ峨■繝」繝ウ縺」縺ヲ莠代▲縺ヲ縺上l縺ヲ縺溘ヮ縺ォ……」

「あなたこれ一応あなたの姉なのよ?」

「まあ肉親だとしてもきもいもんはきもいんで……あっ、触手伸ばさないでもらっても?」

「縺雁燕鄒主袖縺昴≧」

「ほあ……ほああ……」

「お、おお。部長さんほっぺ舐められてるじゃないすか。懐かれたんじゃないすか?」


 僕ならともかく普通の人が簡単に受け入れられる見た目ではない。

 晴ちゃんは姉の触手を触ってベタベタした手をお手拭きで拭い、「ていうかさ」とオレンジジュースを啜る。氷を吸ったストローがズズッと音を立てた。


「なんでありすちゃんだけがニュースになるの? てっきりお姉ちゃんもすぐ捕まるもんだと思ってたのに。いつ逮捕されるの?」

「縺昴l縺後♀蟋峨■繝」繝ウ縺ォ蟇セ縺吶k諷句コヲ縺ァ縺吶°?」

「彼女達が怪物であるという証拠がいくら調べても出てこないんだよ」


 黒沼さんが疲れた顔で言った。警察と僕達の協力者という二面に挟まれて、疲弊がたまっているようだった。

 ありすちゃんの傍にいた僕達は当然疑われた。家宅捜査に取り調べ、学生相手とは思えぬ容赦のないキツイ調査は確かに行われた。

 けれど。僕達から怪物に関する情報は何も出てこなかったのだ。そう、何一つも。

 写真、イラスト、映像。携帯のやりとりから電話の履歴まで……僕達がありすちゃんと行ったやりとりは全て、平凡な学生らしいやりとりに代わり、怪物という文字も魔法少女という言葉も一切出てこなかったのだ。警察だけでなく、僕達自身が驚くほどに。

 結果として僕達は異様なまでに早く解放された。注意を向けられているものの、高校に通えるまでの自由を手に入れている。


「チョコのしわざだろう」


 マスターが言った。


「彼は君達とありすに関わるデータの大半を消去したのだ。事が事だけに、警察も慎重に動く必要がある。証拠のない学生を捕えることはできないだろう」

「チョコのうちゅーぱわぁとやらのおかげで、数ヵ月の努力も全部吹っ飛んだけどな」


 変身を解いた千紗ちゃんが乾いた笑いをこぼした。彼女が取り出したパソコンは、この数ヵ月彼女がずっと持ち運んでいたものだ。怪物を主役にした映画がそこに入っている……はずだった。

 チョコが証拠を消してくれたおかげで僕たちの秘密はバレなかった。けれどその代わり、怪物のイメージアップを図るために作っていた作品まで綺麗さっぱり消えてしまったのだ。


「あのクソメタボじじいめ……。バックアップまで消しやがって。あたしの映画も、雫がスケッチブックに描いてた絵本も、湊の家のパソコンの秘蔵怪物エロ写真も全部まっさらだ」

「適当なこと言わないで。僕んちのパソコン見たことないでしょ」

「でも消えたろ?」

「…………。…………皆で頑張って作ったデータの復元ができないのは困るよね」


 クールに微笑を浮かべる僕を千紗ちゃんは鼻で笑った。

 マスターは涼達に魔法少女の説明をした。チョコ達宇宙人の力によって、ありすちゃん達が魔法少女として戦っていたこと。黎明の乙女が起こす事件から街を守ろうとしていたこと。皆を守るために聖母様を倒そうとしていたこと……。

 一通り話を聞いた彼らは静かに黙りこむ。と思えば、晴ちゃんがスッと手をあげた。


「変身してるのは怪物なのに、魔法少女の幻覚を見せるなんてややこしいことするからこんなことになっちゃったんでしょ? 完璧な魔法少女になる薬をあげればよかったのに」

「母星で試したときはちゃんと魔法少女に変身できていたんだ。地球の空気と、薬の相性が悪かった」

「宇宙の技術とやらでありすくん達の副作用を止めることはできないのかね」

「残念ながら。副作用の一切ない薬を作るのは我々の技術をもってしても難しい」

「宇宙って可愛い子いる?」


 けんけんがくがく意見が飛ぶ。僕はそれを見て、場違いにも少し嬉しく思っていた。

 実際に怪物を目にした涼達に、やっぱり仲間にはなれないと拒絶されるのが怖かった。だけどどうやらそんなことにはならないらしい。

 怪物が好きか嫌いか。それ以前に、こうして怪物のことを理解しようとしてくれる彼らの姿勢がありがたかったのだ。


「はい。はい、質問」

「どうぞ、お嬢さん」

「聖母様の夢って何?」


 僕達ははたと言葉を止めて晴ちゃんを見た。皆の視線に晴ちゃんはキョトンとした顔をして、分厚いパーカーの袖で口元を覆う。

 だってさ、と彼女は唇をツンと尖らせて言った。


「黎明の乙女は夢を叶えたい集団なんでしょ。じゃあ、当然聖母様にだって夢があるはずでしょ?」


 そういえば、今まで聖母様の夢についてちゃんと話し合ったことはあるだろうか。

 信者達の過激な事件に隠れて、しっかりと考えたことはなかったかもしれない。「信者達の夢を叶えるのが私の夢です」なんて聖人じみたところを言いそうな聖母様でもあるけれど、その実彼女本人にだって当然夢があるはずだ。

 ふと、遊園地でドリームベアが言った言葉が脳裏をよぎる。彼は確か言っていた。自分の夢を叶えることが、聖母様の夢を叶えることにもつながるのだと。

 あれは一体どういう意味だったのだろう。


「夢っていうのか分からないけれど……。前に、わたしが黎明の乙女に入ったことがあったでしょ」


 不意に雫ちゃんが言った。皆の視線が今度は雫ちゃんに向いた。彼女は少し申し訳なさそうに頬を赤くして、それでも一生懸命に言葉をつむぐ。


「下っ端には、聖母様の夢どころか顔も名前も教えられなかったけど……それでもちょっとした噂は流れてたの。聖母様は『世界の光』を目指しているっていう噂」

「光?」


 言葉の意味が分からず皆は顔をしかめた。ただ一人、千紗ちゃんを除いて。

 千紗ちゃんは過去を回想するように視線を泳がせて、そういえば……と会話のバトンを受け継ぐ。


「黎明の乙女の言い伝えにも似たような言葉が出てくるぜ。ガキの頃、母親に何度も聞かされたんだ」

「それってどんな?」

「世界はいずれ闇に包まれる。嘆きと苦しみに満ちた暗黒の夜が訪れる。なれど世界が暗闇に染まるとき、一筋の光が降り注ぐ。希望の光が世界を満たす」

「…………」

「その光こそ。我ら、黎明の乙女」


 幼い頃から何度も聞かされたというその話は、なめらかに僕達の耳に流れ込む。千紗ちゃんの声はさっぱりしていて湿度の低い音だった。

 それなのに。その話を聞いた僕は何故だか、足元にドロリと粘ついた不安がまとわりつくような気がした。

 中二病かよ、と涼が半笑いで言う。


「闇の世界って何だよ。今の楽土町も闇みたいなもんですけど? クソ最悪な治安のせいでよ」

「……ちょっと待って」


 ふと目を丸くした祥子さんが涼の言葉に食いつく。間近に接近する花のかんばせに涼が顔を真っ赤にするが、彼女の顔は真剣だった。


「それってあながち間違いじゃないんじゃない?」

「ととととと言いますと?」

「凄惨な事件に怪物の出現。怯える住民達にとっては、今の楽土町は闇と言ってもおかしくない。聖母様の言う『闇に包まれた世界』っていうのはまさにこの状況なんじゃないの?」

「以前こそ楽土町は平和で笑顔の多い街だと謳われていたのに。近頃は街を出る人が急増している。怪物が恐ろしいから、と言ってね」

「怪物が信者達の悪事をとめているなんてほとんど誰も気付かないもんね。過激な宗教団体以上に怪物に目がいっちゃう人は多いよ。ビジュアルって大事だよね」


 祥子さんの意見をはじめとして、部長や晴ちゃんも意見を飛ばす。段々と彼らの顔が引き締まっていくのにつれ、僕も自身の表情が硬くなっていくことに気が付いた。

 一つ一つの不安が少しずつ集まって輪郭を作っていく。嫌なピースがはまって、巨大なパズルが出来上がっていく。

 左右から飛び交う皆の意見を鷹さんがノートにまとめていた。カリカリというペンの音はしばらくして止み、つまり、と彼女は固い声でまとまった意見を述べた。


「どんな夢も叶えられるという甘言で過激思想の人々を集めた聖母様は、彼らに思う存分事件を起こさせた。彼らを止めるために怪物が現れる。けれど一般市民は怪物を恐れてより恐怖するだけ……」

「うん」

「聖母様が現在姿を消したせいで信者達の事件は過激さを増している。怪物の出現回数は増えている。楽土町の闇はどんどんと強くなっている。……そこに聖母様が現れたらどうなる?」


 僕がそのときぼんやりと考えていたのは、イエス・キリストの復活だった。以前漫画で似たようなシーンがあったのを思い出したのだ。

 生前から人々に慕われていたイエス。彼が死に、世界は深い嘆きに包まれていた。そこに市から復活したイエスが姿を現すのだ。その瞬間の喜びたるや、神々しさたるや、彼が生きていた頃以上のものだったのではないだろうか。

 似たようなことが楽土町にも起こるとしたらどうだ?

 悲惨な世界に絶望する人々の前に、聖母が姿を現す。人々を包み込む穏やかな微笑み、白く光り輝く衣、差し伸べられるあたたかな手……。

 それはまるで、世界の救世主のように見えるのではないか。


「信者達は聖母が命じれば事件を起こさなくなるかもしれない。残るのはおそろしい怪物だけ。核兵器、毒、方法は何でもいいけれど、もしもそこで聖母様が怪物を倒すことができたとしたら……」

「聖母様は世界を救う光となる」


 思わず呟いた言葉に、我ながらゾッと背筋が冷たくなった。

 青ざめた顔の鷹さんがハッキリとした声で告げる。


「聖母様の夢は、『世界を救うヒーロー』ってわけ?」


 パキンと小さな音がした。千紗ちゃんが、噛んでいた爪を噛み切った音だ。

 彼女は鼻先に深いしわを刻み、心底嫌そうな声を出す。


「そういうのマッチポンプって言うんだぜ」


 自作自演、と彼女は割れた爪先でカツンとパソコンの画面を叩いた。カツン、ガツン、とその音は段々大きくなる。


「世界中から讃えられる存在になるためだけにここまで来たのか? 何十年もかけて、何人もの人生を食いつぶして」

「千紗ちゃん……」

「あたしの人生、一人のクソババアの夢を叶えるために犠牲になったっての?」


 クソがよ、と千紗ちゃんは煙草の煙みたいに苦い溜息を吐き出した。彼女は荒んだ目を僕に向け、これからどうすんだよ、と呟くように言った。

 そう、これから。ありすちゃんが怪物だとバレて、聖母様の行方も知れない今、僕達がすべきこと。


「何も変わらないよ」

「あ?」

「何も変わらない。僕達は引き続き、作品を作っていこう」


 千紗ちゃんが眉間にしわを寄せる。耐えかねた様子の祥子さんが、そっと僕の顔を覗き込んだ。


「でも湊くん。データは全部消えちゃったんでしょ?」

「また一から作ればいいだけの話だよ」

「今は街の皆が怪物を敵視してる。公開したところで、きっと皆見てくれないよ」

「強制的に見せるんだよ」

「え?」

「僕達がどれだけ声をあげても悪者だと言われるのなら。いっそ、ちょっぴり本当に悪いことをしちゃおうか」


 僕はふっと口元に微笑を浮かべて言った。


「電波ジャックを起こそう」


 空気がハッキリと変わったのが分かった。困惑と、どよめき。こいつは何を言っているんだといいたげな視線が僕に向けられる。


「作品をネットやテレビに強制的に流すんだ。そうすれば皆絶対に見てくれるだろ?」

「湊お前なに言ってんだ? 犯罪だろ」

「流す場所や時間帯はちゃんと選ぶよ。乗っ取っても大丈夫な所だけさ」

「どこも駄目だろ。ってか、そんな犯罪行為で流れたもんを見て、怪物に好感を抱く奴なんていないだろ」

「流すのは怪物の作品じゃない」


 これまで作ってきた「怪物に好印象を与えるための作品」ともう一つ。別に作りたい作品があるのだ。

 計画の内容を皆に説明する。最初は呆れた顔で聞いていた皆だったが、話が進むにつれ、その顔はどんどん引き締まっていった。

 僕の案に皆も賛同してくれたのだ。


「……そう簡単にいく話か?」


 けれど、黒沼さんが渋い顔で喉を鳴らした。


「以前と状況は変わった。世間がお前達に反感を抱くこの状況で、目立つことをしてみろ。一瞬で吊るしあげられるぞ」

「分かってます」

「死人が出るかもしれないんだぞ」


 彼の声は冷ややかだった。黒沼さんの視線は、大丈夫ですってなんて簡単に返事ができるほど穏やかなものではない。

 じっとりと背中が汗ばみ、シャツが張り付く。けれど僕はぐっと無理矢理息を吸い込んでまっすぐ返事をした。


「覚悟なら決めてる」


 黒沼さんはそんな僕をじっと見つめて、それからちょっぴり笑った。


「ならいいよ」


 思えばこのとき。覚悟を決めていたのはきっと、僕だけじゃなかった。

 黒沼さんはふぅっと短く息を吐き出す。そして一転、カラッと爽やかな笑顔を浮かべて楽しそうに言った。


「ま、安心しな。そこで警察の出番だ。暴動が起きてもお前達の命は守ってやるよ」

「俺達も協力してあげる。警察だけじゃ権力だの法令だので手を出せない場面もあるでしょ」


 黒沼さんが澤田さんの肩を組む。警察とヤクザのニコニコ笑顔に僕は苦笑した。なんともまあ贅沢でもあり、扱いづらい護衛があったものだ。頼もしいけれど。

 

「大いなる敵に挑む少年少女の物語。なるほど、実に面白いものだな」


 僕達を見守っていたマスターが不意にそんなことを呟いた。表情に特に変化はないが、マスクの下の口元がもごりと笑んだように形を動かす。

 突然、マスターが杖で床を打った。

 ビーッ! と突然の甲高いビープ音が座っていた僕達の体を跳ね上げた。


「うわっ!」


 千紗ちゃんがパソコン画面に目を向いた。どこにも触れていないのに、画面いっぱいにフォルダや写真が吐き出されていったのだ。デスクトップはあっという間に大量のデータで埋め尽くされる。

 千紗ちゃんは慌ててデータを確認した。するとその目は驚きから一変し、じょじょにキョトンと丸くなる。嘘だろっ? と彼女は喜色ばんだ声をあげた。


「データ」

「え?」

「データが全部戻ってる!」


 僕は慌てて自分の携帯を確認した。カメラから移動させてあった写真データ。チョコの手によって消えた数百枚の写真が元の場所に復元されていた。パッと顔を上げれば、同じくスケッチブックから消えたはずのイラストが復活していることに驚く雫ちゃんの顔があった。


「バックアップは大事なのだろう?」


 マスターが微笑む。

 そうだ、彼もまた宇宙からやってきた人なのだ。摩訶不思議な能力を持っているのはチョコだけじゃない。


「チョコがあの子の側につくというのなら、私は君達の側につこうじゃないか」

「マスター……」

「その方が何かと面白そうだ」


 マスターの楽しげな言葉に、僕はドキドキと熱くなる胸を押さえた。

 絶望的な状況に変わりはない。依然として問題は山積みである。

 なのにどうしてか、胸の奥から熱い思いが溢れて止まらないのだ。

 僕達なら、きっと。


「やろう。僕達みんなで世界を救うんだ!」


 そして、ありすちゃんも。



 最後の日は。もう目前に迫っていた。

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