第75話 最後の日までさようなら

 突然観覧車が止まった。

 真っ暗なカゴの中。僕とありすちゃんは思わず顔を見合わせて、涙に濡れた目を丸くした。


「な、何。停電……演出?」


 僕達は立ち上がって外を見た。他のカゴに乗っていた人たちも、何事かと窓に張り付いて外の様子を伺っている影が見える。

 暗闇にシンと静寂が張りつめている。するとプツッとノイズ音がして、壁の非常用ボタンからアナウンスが流れてきた。


『ご乗車のお客様にお知らせいたします。ただいまセンサーに異常を感知したため、観覧車の運転を一時的に停止しております。安全確認が終わるまでもうしばらくお待ちください……』


 演出じゃないみたい、と窓ガラスにぺったり頬をくっつけたありすちゃんが鼻をすする。

 地上は明るい。大勢の人が観覧車を見上げているのがよく見えた。こちらを心配しているのだろう。友人や家族が観覧車に乗っている人もいるはずだ。


「あれ」


 駆け回るスタッフの中。その中にドリームベアがいることに気が付いた。ふわふわ揺れる大量の風船とカラフルな色のきぐるみは、大勢の中でもよく目立つ。

 繰り返し流れているアナウンス。マイクを持つ女性スタッフにドリームベアが近付いていく。

 気配に気が付き振り返った女性スタッフから、ドリームベアが乱暴にマイクを奪い取った。


『ハッピーメリークリスマスイブ! ドリームランドへようこそ子供達!』

「ぐっ」


 車内に響くハウリングに僕達は耳を塞ぐ。それは、吐き気を催してしまうほど不快な声だった。

 鼓膜を荒いやすりでザラッと擦られるような不快な音の集合体。遊園地のマスコットキャラクターには不似合いすぎるドリームベアの声に、思わず眉根を寄せる。


『今日は皆にプレゼントを持ってきたよ。本日限り、ただいま観覧車にご乗車中のお客様への、限定イベントだ』


 園内のBGMだったクリスマスソングが微かに聞こえてくる。カラフルで鮮やかな音楽の中、ガビガビとした声で話すドリームベアの存在はあまりにも異質だった。


『皆が好きだろうチョコレートやアイスクリーム、俺が大好きな大麻にコカイン。色んなプレゼントを考えたけれど、今日は好きな物をあげるより、皆が嫌いなものをこの世から消してあげようと思うんだ』

「あ、あの人はスタッフさんなのよね?」


 ありすちゃんの質問に、僕は無言の返事を返した。

 あの様子を見て「新ジャンルのマスコットキャラクターだねぇ」と無邪気に笑える人がどこにいるだろう。

 突然はじまった奇妙なショーにじわりと心臓が汗をかく。窓ガラスにつけた指先が冷たく脈を打っていた。


『夢を叶えるドリームランド、夢を見られるドリームランド。皆の夢はなんだろう? 俺の小さい頃からの夢は「世界一のお金持ちになること」だったんだ。これでもつい最近までとある会社の社長をつとめていたんだぜ? 毎日みんなと育てた大麻を売って楽しく暮らしていた』

『ちょ……ちょっと、誰っ? やめてちょうだい』

『だけどある大雨の日にやってきた怪物が全部をぶっ壊したんだ。俺以外全員死んだ、草も金もなくなった。俺の顔も怪物に潰された! マスクの下は、もんじゃ焼きみたいにぐちゃぐちゃなんだぜ』

『誰か来て。この人変よ!』

『夢をぶっ壊された俺は入院中も怪物への恨みで血の涙を流していた。そんなある日、一人のお女が俺に声をかけてきたんだ。俺の夢を叶えてあげるとそいつは言ったんだ。信じちゃいなかったよ。でも何度も話を聞くうちに、あの方は本当に俺の夢を叶えてくださるんだと理解したんだ』

『あなたスタッフじゃないでしょう。誰なの!』

『俺の夢は「世界一のお金持ちになること」。それと、「怪物を殺すこと」だ』

『あっ』


 ドリームベアがふっと手を振り、女性スタッフを突き飛ばした。地面に倒れた女性は数秒がたっても起きなかった。

 その体の周りにじわりと広がっていく真っ赤な液体を見て。ありすちゃんが引きつった悲鳴をあげた。


「ひっ……!」


 ドリームベアを中心に野次馬が逃げていく。騒がしい周囲にも、死へ向かってく女性にも目をくれず、ドリームベアはまっすぐにこちらを見上げていた。

 観覧車が止まったのは単なる事故ではないようだ。


「…………」


 汗ばむ脳味噌を、セミの鳴き声と、暑い太陽の熱が掠めた。

 僕は今年の夏を思い出していた。

 遊園地の隣にあった動物園と水族館に写真を撮りに来た日のことを。スタッフに変装して猛獣を脱走させた悪人どもの顔を。

 あのときの彼らは、黎明の乙女の信者だった……。


『俺は一足早く聖母様からクリスマスプレゼントをいただいたんだ。怪物に関する、衝撃の真実さ! 俺は怪物を殺す方法を知っている。いいや! 怪物の正体までもを、俺は知っている!』


 ドリームベアが吠える。ガビガビに擦り切れた声は、マイクを通して大勢の鼓膜を打ち震わせた。

 観覧車の停電を見た誰かが通報したのか、遊園地の周りにパトカーのサイレンが向かってくるのが見えた。観覧車の下の野次馬は、逃げる人数より興味本位で近付いてくる人数の方が多い。

 増えていく野次馬に、ドリームベアの声が爆音で響く。


『愛する街からおそろしい怪物を追い出そう! 平和な街を取り戻そう! それこそが俺からのクリスマスプレゼントだ!』


 嫌な予感がした。これ以上彼に喋らせてはいけない気がした。

 やめろ、と小さな声が僕の喉を震わせる。


『怪物の真実を教えよう。流星と共に現れ、我らが愛する楽土町を破壊し、愛する隣人の命を奪ってきたおぞましい怪物』

「やめろ……」

『あれは地球外生命体ではない。秘密の研究所で生み出された人工生命体でもない』

「やめろ!」

『怪物の名は、姫乃ありす』


 僕とありすちゃんの喉から、ひゅうと掠れた空気の音がした。


『人間だ。怪物の正体は、俺達と同じ。人間なんだよ!』


 彼の告げた言葉に誰もが言葉をなくす。

 張りつめた沈黙が膨れ上がり、一気に爆発しそうになったその瞬間。とどろいた轟音が、僕達の悲鳴ごと全てを真っ白に吹き飛ばした。

 窓の外が真昼のように眩く光り、カゴが狂ったように揺れる。何が起こったのか理解もできぬまま僕達は床に倒れた。悲鳴をあげるありすちゃんの体を、咄嗟に抱え込むことしかできなかった。

 しばらくして揺れが落ち着く。僕はそっと目を開け、無意識に止めていた呼気をぜぇっと吐き出した。


「う……、ゲホッ」


 酷い耳鳴りがする。鼓膜がぼやけ、自分の咳さえろくに聞こえなかった。隣で立ち上がったありすちゃんの顔も青ざめている。ピンクの前髪からつぅっと垂れた血が、外の眩しい光に反射してつやつやと光っている。

 ……停電しているはずなのに、何故外が明るい?

 パッと外に顔を向けた僕達の視線の先。窓の外を、火の粉が流れていった。


「なっ」


 カゴが燃えていた。僕達の数個後ろを回っていたカゴが。

 さきほどの衝撃はやはり爆発のようだった。車体の半分が炎に包まれたカゴは、歪んだ鉄骨にぶらぶら頼りなくぶら下がっている。さっきの衝撃でネジが弾けてしまったのか、今にも落ちてしまいそうだ。


 何故爆発が起こったんだ。あのドリームベアの仕業か。怪物を殺すと言っていた。ありすちゃんの名前を、どうして。

 僕は炎上するカゴを茫然と見つめて頭を真っ白にしていた。突如として大量の出来事が発生し、パニックになっていたのだ。


「風船」


 けれどありすちゃんがポソリと呟いた声に我に返る。燃えるカゴ、爆発の衝撃で割れた窓に引っかかっていた風船が、ふわりと炎の間をぬって空に飛んでいく。

 それはハート形の赤い風船だった。


「嘘。……ああ、嘘っ。そんな!」


 割れた窓から顔を覗かせたのはあの姉弟だった。

 二人は窓から必死に顔を出し、苦しそうに助けを叫んでいる。二人の後ろに両親の姿もあった。だが二人は爆発の衝撃をまもとに食らってしまったのか、ぐったりとして動かない。


『……どういうことだ?』


 ドリームベアも子供達に気が付いたのだろう。しかしアナウンスの音声には、困惑の色が滲んでいた。


『俺が狙ったのはガキじゃねえ。あのカゴに乗るのはハートの風船を持った奴だろっ? 姫乃ありす、どこに隠れやがった! 風船を持っていたのはお前だったろ!』


 ドリームベアの喚き声を聞いて、僕は弾けるようにありすちゃんの顔を見た。彼女の顔は可哀想になるほど真っ白に染まっている。

 観覧車のスタッフに協力者がいたのか何なのか。爆弾がしかけられていたカゴに乗る予定だったのは、風船を持った人物だったらしい。

 赤いハートの風船は確かに特別だった。あれは目印だったのだ。僕達はそれを知らず、風船を女の子にあげてしまった。

 僕達の好意があの家族を死の危険にさらした。


「た、助けなきゃ」


 ありすちゃんが扉に手をかける。その手は、僕が瞬きをする一瞬の間に触手に変わっていた。彼女が力任せに扉を開けると、途端に冷たい風が車内を吹き抜けた。

 出て行こうとする彼女の腕を掴む。振り返った彼女の体半分は、既に怪物へと変化しかけていた。


「ど、どこに行くんだよ」

「あの子達を助けに行くの」

「変身するっていうの? こんな所で、変身させられるわけないだろ!」

「……じゃあどうすればいいの!」


 カッとなって大声をあげれば、彼女も顔を真っ赤にして言い返した。

 びゅうっと吹く風がピンクの髪をなびかせる。同じ色をした彼女の目玉が、火の粉の色を浴びてギラギラと光っていた。


「救助が間に合う状況に見える? のんびりしてたらあの人達みんな死んじゃうわ。時間はないのよ!」


 僕だってそれは嫌というほど分かっていた。

 彼らのカゴを支えている鉄骨は爆発の衝撃で大破していた。そのうえ強風のせいで火の勢いはどんどん強くなっている。炎に飲み込まれるか、鉄骨から落ちるか。彼らの時間には限りがある。

 誰かがあの家族を助けに行かなければならない。今すぐに。


「でも、大勢がこっちを見ているんだ。隠れる場所なんてどこにもない。君が怪物だって皆にバレてしまう!」

「あのクマさんは私の正体を知ってるみたい。もう名前も言われちゃった。だったらとっくに、正体はバレてるようなものじゃない」

「姫乃ありすが君だとすぐ分かる人はいない。怪物が実は人間だの、姫乃ありすという名前だの言われても、まだよく分かっていないはずだよ。この騒動にまぎれて逃げることくらいはできる」

「あの家族を見捨てて逃げろって言うの? 私にはそんなことできないわ」

「っ、それは」

「あの家族を救えるのは私しかいないのよ!」


 バチンと頬を叩かれたような声だった。鋭い彼女の声が僕の胸に深く突き刺さる。

 僕は茫然と目を見開いて、それから弱々しく首を振った。


「……嫌だ。やだ。嫌だよっ」


 駄々をこねる子供と変わらない声をだして、僕は彼女の手を掴む手に力をこめる。

 ありすちゃんが変身してあの家族を助けに行くことは簡単だ。でもそうすれば、姫乃ありすは怪物だと世界中の人間が知ることになる。

 世界がありすちゃんの敵になるんだ。


「ほ、他に方法があるはずだ。救助が間に合うかもしれない。変身しなくたって、何か……」

「ためらっていたら、助けられる人も助けられないわ」

「……行かないでくれよ。お願いだから。ねえ、行くなよっ!」

「もう後悔したくないの。国光先輩のときみたいに」


 ギィ、と脳味噌の奥から軋んだ音がした。僕は見開いた目で、寂しそうな顔をするありすちゃんを見つめた。

 ハロウィンの夜に死んだ僕の友達。屋上から落ちていく彼に寸前で届かなかった指先のことを、色濃く思い出した。


「行かなきゃ」


 僕の手が外れたありすちゃんは、茫然とする僕に背を向け、暗い外へ出て行こうとする。

 その背中が一瞬国光の背中と重なったように見えて。瞬間、僕は彼女の肩を掴み、後ろに引っ張った。


「……だったら僕が行く」


 ありすちゃんがパッと顔をあげる。驚いた顔をする後輩の女の子に、僕は頼りがいある先輩のように勇ましく微笑んだ。

 上手く笑えたかは、分からなかったけれど。


「僕があの子達を助けに行く。君はここで待っていて」

「え……。あ、待って!」


 引き止められる前に僕は外に降り立った。細い柱を手すりに、足場と呼ぶには不安定すぎる鉄骨の上をゆっくりと進んでいく。

 僕を見た他の乗客が目を丸くしている。吹き付ける強風に胃の底をぞわぞわ震わせながら、僕は小さく笑った。

 そうだ、全員僕だけを見つめていればいい。怪物のことなんて忘れてしまえ。

 ありすちゃんを変身させたくない。でも救助を待つ時間はない。ならば残された道はただ一つ。

 僕が助けに行くことだ。


「国光」


 湊。お前、しっかりしろよなぁ。ありすちゃんのことをちゃんと守ってやれよ。

 大丈夫、大丈夫。お前ならできる。あの家族も救えるし、ありすちゃんも守ってやれる。お前はヒーローになれる男だからな。

 まあそれを言ったら俺はウルトラスーパーヒーローって感じですけど……。お前より格上ですけど……。調子乗らないでもらえる?


「はは……。妄想の中でまでうるさい」


 もし国光がいたら、そんなことを言いそうだなぁ。

 あいつは勇敢な男だった。お調子者に見えて、いざというときは他人のために、自分を犠牲にしてでも頑張る男だった。最期までそうだった。

 本人に言う機会はなかったけれど。僕はお前の、そういうところを尊敬していたんだ。

 ありすちゃんが僕を言いくるめるために使った国光という言葉は、逆に僕の勇気を押し上げてくれた。


 そして僕は、ようやく目当てのカゴに辿り着き、割れた窓に精一杯手を伸ばして叫んだ。


「助けにきたよ!」


 青ざめていた子供達の目に希望が浮かんだ。お姉ちゃんが弟くんを窓から下ろそうとしている。僕は限界まで腕を伸ばし、しっかりと弟くんを抱きかかえた。彼を一旦鉄柱の上に下ろし、次はお姉ちゃんを抱きしめる。

 手すり代わりに掴む柱は炎に炙られて高温だった。手の平がズキズキと痛む。それでも僕は歯を食いしばり、手すりから手を離さなかった。

 両親も最後の力を振り絞って窓から這い出てくる。最後にお父さんを引っ張り出した直後、炎が大きく膨らみ、カゴを包み込んだ。


「うわ!」


 仰け反った僕達の目の前で鉄骨が嫌な音を立てる。そしてとうとう、耐え切れなくなったカゴが一直線に落ち、地面にぶつかって粉々になった。


「は……」


 間一髪だった。

 鉄骨の上にぐったり座り込む両親。彼らにしがみ付いて泣く子供達。彼らを見つめ、僕はその場によろよろと膝をつく。背中が汗でびっしょりになっていることに、このときはじめて気が付いた。

 安堵に胸が満たされる。僕は彼らの無事を報告するため、僕達が乗っていたカゴの方へと振り返る。けれど扉から顔を覗かせるありすちゃんは、険しい顔で何かを叫んでいた。

 怪訝に思った瞬間。僕の足に、激痛が走る。


「…………!」


 足の甲に深々とナイフが突き刺さっていた。

 足場にしていた鉄骨。そこにぶら下がってこちらを見上げる人物がいた。

 ドリームベアだ。


「邪魔するな」


 彼はナイフを引き抜いた。燃えるような痛みに僕は絶叫してうずくまる。

 顔をあげれば、鉄骨をのぼってきたドリームベアが僕達を見下ろしていた。無理にのぼってきたためか指先の爪が何枚か剥がれている。その姿を見て、僕の顔は恐怖に青ざめていく。

 嘘だろ? まさかこの高さをのぼってきたっていうのか。怪物を殺すために。


「ハート形の風船は、誕生日の客に渡す特別な風船なんだよ」


 彼はドリームベアの頭部だけをかぶっていた。きぐるみ越しの声はくぐもっていて、ぼそぼそザラザラと掠れている。


「その風船を持っていればスタッフはそいつが誕生日だと気付く。あくまでサービスの範疇として、アトラクションに空きがあればいい席に案内されたり、観覧車では飾り付けが豪華な特別席に案内されるのさ」

「ぐ。ぅ……」

「あとは事前にそのカゴに爆弾をしかけていればいい。怪物姿じゃあ倒すのが難しくとも、人間体ならばきっと倒すことができる……そのはずだったのに。なんで、違うガキが風船を持ってんだよ」

「…………」

「なあ、邪魔しないでくれよ。どうしていつも俺の夢をお前らは否定するんだよ」


 溢れる血が僕の手を汚す。汗がだらりと背中を伝う感触をハッキリと感じる。

 ドリームベアに怯えた子供達が僕の背中にしがみ付く。その手があんまりにも小さくて、何故だか泣きそうになった。あと少し、ほんの少しだけ遅ければ、この小さな命は失われていたのか。


「夢、夢って……そんなことのために大勢の人を巻き込んだのか? こんな幼い子供達まで巻き込んで。ふざけるなよ!」

「そんなことを言われるのはもううんざりなんだよ!」


 凄まじい怒号は、僕の怒りをちっぽけに感じるほどだった。僕の喉から小さな悲鳴があがる。

 きぐるみの頭部の下。だらりと下がる彼の腕には太い血管が浮いていた。怒りに真っ赤に染まった肌は、まるで鬼のようだった。


「ずっと夢を否定され続けてきた。医者になりたい、パイロットになりたい、大人達はそんな夢ばかりを応援して、金持ちになりたいという夢を馬鹿にしてきた。どんな方法でもいいから大金を稼ぎたいと夢みるのはそんなに悪いことだったのか?」


 ドリームベアのカラフルな毛が炎を浴びてキラキラと光る。幻想的にも思える美しい光の中で、彼の怒りはクッキリとした輪郭で僕達に注がれる。


「馬鹿にされても努力し続け、一度は夢を叶えることができた。けれどその夢は怪物に破壊された。結局俺の人生、いつもいつも否定されてばかりだった」

「…………」

「聖母様に出会って、はじめて夢を肯定されたんだ。聖母様は信者の一人でしかない俺にも真摯に向き合ってくださった。俺の夢を受け入れてくれた。名の通り、本当に聖母様だった……。あそこは、誰も俺の夢を馬鹿にしてこない。変な宗教団体だと思っていたけれど、あそこはいつしか、俺の居場所になった」

「…………」

「聖母様のおかげで、ようやくまた夢を掴めるところまで来たんだ。それなのに、なぁ。まだお前達は俺の邪魔をするのか。俺の夢を潰そうっていうのかよ!」

「……受け入れるだけが優しさじゃないだろう」

「あ?」

「夢って言えば何でも許されると思うなよ。夢っていうのはな、他人を犠牲にしてまで叶えるものじゃないんだよ!」


 彼の持つナイフが炎に光る。足のズキズキとした痛みが恐怖に変わる。

 目の前の彼がおそろしかった。それでも僕は、思っていることをまっすぐに彼に叫んだ。


「人を悲しませる夢はただの悪夢でしかない。そんなもの、夢とは呼べない。呼んじゃいけないんだ!」


 新薬を開発して病気の人を助けたい。銀行強盗をして大金持ちになりたい。

 言ってしまえば、それはどちらも『夢』だ。

 世の中の人の夢、全てがいいものだとは限らない。夢は叶えるべきものだなんて嘘だ。諦めなければならない夢というものも、きっとある。


「夢を否定されてきた人達にとって、黎明の乙女は素晴らしい場所なのかもしれない。あそこは全ての夢を肯定してくれる。もう一度幼い頃の希望を思い出すことができる」

「お前……」

「それは駄目なんだよ! 僕達は現実を受け入れなくちゃならないんだ」


 小さい頃、大人達は幼いぼくたちに言った。最後まで夢を諦めないで。きっとあなたの夢は叶うわ。いつか必ず夢を掴むことはできるのよ。

 そんなのは嘘だ。夢には、諦めなければいけない夢がある。

 幼い頃のぼくが無邪気に「怪物の写真を撮りたい」と夢みていたことだって。ありすちゃん達を悲しませてまで叶える夢じゃないんだ。


「世の中には、どれだけ望んでいたって、諦めなきゃいけない夢があるんだよ!」


 黎明の乙女の信者達。彼らはただ、自分の夢を叶えたいと努力しているだけなんだ。

 ずっと夢を否定され続けてきた。希望を持ちたいという気持ちを押し潰されてきた。それを聖母様がすくいあげている。

 諦めていた夢を叶えることができるかもしれない。それは、暗い人生に垂らされた一筋の光だ。

 それを怪物が破壊している。

 そう考えると彼らにとって、怪物はまさに悪夢なのだろう。


「……分かった口をきくなよ」


 ドリームベアの静かな声に、ゾッと胃の底が冷えるような恐怖が込み上げた。

 僕はハッとして彼を見つめる。きぐるみの下。そこからだらりと下がった人間の腕は、怒りのせいで真っ赤に染まっていた。


「お前は顔を潰されたことがあるのか。数十年かけて築き上げてきた宝を、一瞬で奪われた経験があるのか? 俺の人生を知らないくせに文句ばかり。お前も、これまで俺を否定してきた奴らと何も変わらない」

「ち……ちが、僕は」

「ようやく肯定された夢を、もう二度と諦めてたまるか。何がどれだけ犠牲になったっていい。俺は、人生を取り返すためにここに来たんだ!」

「っ」

「俺は夢を叶える。自分のために、そして聖母様の夢を叶えるために!」


 それはともすれば、ひたむきにさえ聞こえる言葉だった。

 夢を否定され続け、それでも諦めることなく必死に手を伸ばす。その姿はあまりにもまっすぐだった。

 ……もしも。もしも僕が、ありすちゃんに出会っていなければ。怪物と出会う前に、聖母様に声をかけられていたとすれば。

 僕だって目の前の彼と同じように、聖母様の手を取ってしまったかもしれないな。



「――――湊先輩!」


 僕は弾かれたように顔をあげた。

 遠く鉄骨の上、おそるおそる歩いてこちらにやってくる、ありすちゃんがいた。


「バカ! 来ちゃ駄目だ!」


 ドリームベアが振り返り、ありすちゃんを見た。その瞬間僕はひゅっと掠れた息を吸い込む。

 ありすちゃんを見た瞬間ドリームベアのまとう空気が変わったのだ。

 きぐるみの目がありすちゃんを見つめる。無機質なはずの瞳に揺れる炎が、ギラギラと眩しく光っていた。

 彼の腕に太い血管が浮き上がる。握るナイフから、血がしたたった。

 僕は咄嗟にドリームベアの腕を掴んだ。


「行かせない」


 ぶあっと濃厚な殺意が僕に向けられたのを悟る。離せよ、と彼はすさまじい怒号をあげた。

 僕は、それでも彼の腕を掴んでいた。


「お前が誰かを犠牲にしてまで夢を叶えるっていうのなら。僕だって、同じことをしてやるよ」


 これからも、ありすちゃんと一緒にいたいから。


「僕はお前の夢を犠牲にして、ありすちゃんを救ってやる!」


 ドリームベアの重たい拳が僕の頬を打った。食いしばった奥歯から、ギチッと嫌な音がする。お返しに叩きこんだ僕の拳は彼のみぞおちを抉った。

 子供達が悲鳴をあげる。ありすちゃんが何かを叫んでいる。鉄骨がギイギイ揺れて悲鳴をあげる。

 汗ばむ額に張り付いた前髪が邪魔だった。ふっと視線をあげた僕は、目を見開く。炎にきらめきオレンジ色に輝くナイフがまっすぐこちらに振り下ろされるところだったから。


「ギャア!」


 スパンと一直線に腕を切られた。鋭く焼けるような痛みが走り、目の奥がチカチカと瞬く。

 涙のにじむ視界に、もう一度振り上げられたナイフが見えた。


「ぐうぅっ!」


 けれど僕は恐怖を無理矢理噛み殺した。咄嗟に伸ばした片手でナイフを掴む。

 男は驚いてナイフを引こうとした。けれど僕は彼を睨み、両手で強くナイフを握りしめる。

 大量の血があふれだす。鮮やかな色の血が、僕と彼の頭を赤く濡らしていった。


「なんなんだよ」


 ドリームベアが引きつった声をあげる。刃物を握る僕を信じられないと言いたげに、その体を仰け反らせた。


「そこまでしてあの女を庇うのか? 何がお前をそこまで駆り立てる。あれは人間じゃない。命も街も破壊する、人間の敵なんだぞ!」

「敵じゃない!」


 僕は怒鳴った。手から溢れる血が、見開いた目に流れて視界が真っ赤に染まった。瞬きさえせず、僕はドリームベアを睨み続けた。


「ちゃんと見ろよ。逃げ遅れた人を助けようとしている、瓦礫から人を引っ張り出そうとしている彼女達を、もう一度よく見てみろよ! あの子達は世界を守ろうとしているんだ。世界を救うヒーローなんだよ!」

「ヒーロー? ……馬鹿がっ。あんな気味の悪い姿をした怪物の、どこがヒーローだって言うんだよ!」


 カッとなったドリームベアが無理矢理ナイフを引き抜いた。深く切れた手の平に僕は悲鳴をあげる。

 いつの間にか炎は僕達を包み込もうとしていた。炙られるような熱に汗が止まらない。にじんだ汗に、体中の傷がズキズキと脈打った。


「世界を守るヒーローがあんな怪物の見た目をしていてたまるかよ。この闇に落ちた世界に光をともすヒーローはただ一人、我らが聖母で十分だ!」


 畜生、と僕は不甲斐なさに奥歯を噛み締めた。血の味が口内に広がる。

 どれだけ必死になったところで、怪物の真意はこんなにも伝わらないのか。目の前の男にも、下にいる野次馬達にも。

 ナイフが僕の頭上を狙う。疲労が溜まった体では避けることさえ間に合いそうになかった。

 指数本くらいは削げ落ちるだろう覚悟を決めて、僕は両手を上にギッと目をつぶった。


「だめ!」


 後ろから引っ張られ、ガクリと足が下がる。仰け反った鼻先をナイフの切っ先が掠めた。

 背中に女の子がしがみついていた。彼女は真っ赤に泣きはらした目でドリームベアを見つめ、ガチガチと歯を鳴らして叫んだ。


「何でこんなことするのっ? お兄ちゃんも、お姉ちゃんも、何も悪いことしてないよ。わたしたちを助けてくれたんだよ。なんで刺したりするの?」

「うるせえな……。そいつらは悪者なんだよ。お前みたいなガキには、分からないかもしれないけどよ」

「うそ言わないで! ドリームベアはかわいい遊園地の人気者だって聞いてたのに……。ひどいことばっかして、全然かわいくない! お兄ちゃんたちは悪者じゃない。おじさんの方がずっと悪い人じゃん!」


 子供達に人気な遊園地のマスコットキャラクター。ドリームベアの頭部は、縫い付けられた笑顔で女の子を凝視していた。

 その下の、怒りで赤い腕が伸びて、赤いナイフの切っ先がまっすぐ突き出されていく。

 眼前に迫るナイフの切っ先に、女の子が「あっ」と呆けた声をあげた。


「――――っ!」


 何も考えていなかった。ただ無我夢中で、僕はドリームベアに飛びついた。

 僕の手が、女の子の鼻先に迫っていたナイフを弾き飛ばす。鋭い切っ先は僕の指を掻っ切り、ドリームベアの足を切り裂いた。

 ドリームベアが悲鳴をあげる。バランスを崩した彼の足が、鉄骨から滑った。

 彼に手を掴まれた僕を巻き込んで。


「おにいちゃ」


 ふっと最後に目にしたものは。茫然とこちらに手を伸ばす女の子と、その後ろから悲痛な顔で手を伸ばすありすちゃんの姿。そしてそれきり、僕の体は風を切って地面に落ちていく。

 不思議と恐怖はなかった。

 ありすちゃん達が無事でよかった。そんな安堵だけが胸に広がっていた。


「国光」


 ふと思い出したのは友人の笑顔だった。

 あのとき屋上から飛び出した彼も。今の僕と同じように、笑っていたんだろうか。


 ドリームベアの狂ったような絶叫はゴウゴウと吹く風に掻き消される。

 思わず零れた涙が数滴天にのぼっていくのを見て、僕は静かに息を吐いて目を閉じた。

 どうかあの子達が無事に下りられますように。ありすちゃんがちゃんとお家に帰れますように。

 僕はもう、それだけでよかった。

 それで十分だった。


 それなのに。



「変身」



 ガクン、と体が揺れる衝撃に僕は思わず目を開けた。

 まっさきに視界に飛び込んできたのは。黒くうねる触手の群れだった。


「あ」


 僕の横で気絶したドリームベアがぶらぶらと揺れている。僕達の腕に絡みついている触手が落下を止めていた。

 僕達を必死に掴んでいたのは、鉄骨に別の触手を巻き付かせたありすちゃんだった。

 観覧車にぶら下がった彼女は魔法少女の姿に変身していた。


「ありすちゃん」


 茫然と呟く僕の頬にボタボタと垂れてくる黒い粘液は、涙によく似ていた。

 湊先輩、と。彼女が微笑んだように見えた。


莉雁コヲ縺ッ螻翫>繧ソ今度は届いた


 怪物の言葉は分からないはずだった。

 だけど僕はこのとき、彼女が言った言葉を理解できた気がしたのだ。


 ありすちゃんは僕達の体を引き上げる。鉄骨の上に戻り、気絶している両親を、それから青ざめて固まる子供達を触手に包み込む。

 僕達全員を抱えた彼女は、触手を使って器用に観覧車をおりた。

 だが地上に着いた僕達を迎え入れたのは、ズラリと並ぶ銃口の群れである。


「止まれ!」


 パトカーのサイレンがうるさい。カメラの激しいフラッシュの向こうに、興味津々な目をした野次馬が大勢いる。

 魔法少女ピンクが僅かに頭をもたげる。それだけで、周囲にどよめきが広がる。僅かに身動ぎをしただけで撃たれてもおかしくはない空気だった。

 彼女が小さく唸った。と思えば、その体に淡い光がまとい、彼女の体はゆっくりとしぼんでいった。

 溶けた粘液が黒い水たまりを作る。その中央に立つのは、人間の姿に戻ったありすちゃんだ。彼女の姿を見て人々が息をのむ。


「湊先輩、子供達を連れて行ってあげて」

「……でも、ありすちゃん」


 僕はしがみ付く子供達を見下ろして、それからまたありすちゃんを見た。彼女は寂しそうに笑っていた。

 ここで彼女と離れたら。僕達がもう一度会うことはできるのだろうか。


「やあ、随分大変なことになってたみたいだね?」


 のんびりとした声が野次馬の奥から聞こえた。人込みを掻き分けてやってきたのは、ポップコーンを抱えたおじさん、チョコだった。

 チョコは油まみれの手で立ち入り禁止のテープをくぐる。慌てて警察が彼を止めようとしているのに、不思議とその手はチョコに触れず、チョコはあっという間にこちらにやってくる。


「ほら湊くん、行った行った」


 すれ違いざまにチョコは僕の背を叩く。遠慮ない力強さに、僕の体はよろめくように警察の元へと倒れ込んだ。

 両親の元へパッと駆け出す子供達を警察が保護する。残りの数人が僕の肩や手を掴んで拘束する。逃れようとしても、警察の拘束は固かった。


「誰これ。知り合い?」


 チョコが地面に倒れるドリームベアを足で小突く。その拍子、きぐるみの頭部が脱げ、彼の素顔が大衆に晒された。

 周囲から沸き上がる驚きと悲鳴の声。僕を拘束していた警察の一人が息を飲み、たまらず少量の胃液を吐いた。


「商店街で会った社長さんじゃない! なんだ、生きてたの!」


 覚えがあった。ありすちゃんと出会ったばかりの頃、商店街へ遊びに行った際に迷い込んでしまった大麻製造会社。怪物の粘液で溶かされ壊滅した会社員の中に、社長であるという男もいた。

 ドリームベアの下から出てきた懐かしい社長の顔は、人間のものとは思えぬ形をしていた。

 周囲の喧騒に彼が目を覚ます。飛び起きた彼は状況を把握すると、だんだんとその顔を青黒い絶望に染めていった。それからすぐ隣にいるありすちゃんを見上げ、今度は怒りに顔を赤黒く染める。


「……俺の顔を返せ」

「…………ごめんなさい」

「顔も。金も、薬も、人生も。お前はいつも俺達の大切なものを奪っていく」


 男の涙混じりの声に、周囲の人々が次第に顔色を変えていった。カメラのフラッシュが止み、茫然とした視線がありすちゃんに向けられていく。

 僕はふと悟った。ここにいる人々の中にも、『怪物に何かを奪われた人』がいるのだろうと。


「お前が現れてから全部おかしくなったんだ!」

「…………」

「怪物め。悪魔め。俺達の幸せを返せ。返せよ!」


 彼の思いは鋭く周囲に響き渡る。反響する声の残滓が静かに消えたと同時、どこからか飛んできた紙屑がぽつんとありすちゃんの足元に落ちた。


「怪物」


 誰かが言った。


「お、お父さんを返せ」

「友達が巻き込まれて、足が動かなくなったんだぞ」


 空き缶が宙を舞う。中に入っていたコーヒーが、ありすちゃんの白い服を汚した。


「怪物が怖くてあの子は部屋から出てこなくなったの」

「お前が駅で暴れたせいで、面接に行けなかったんだ」

「爆発にあった彼氏の上半身がまだ見つからないの」

「死ね」

「楽土町は平和な街だったのに」

「死ねよ」

「お前がいるから事件が起こるんだろ?」

「死ね」

「死ね!」


 ゴミが飛び、投げられた小石が彼女の額に傷を付ける。チョコがきゃあっと悲鳴をあげてありすちゃんを盾に隠れた。

 ありすちゃんは変身しない。人間の姿のまま皆を見つめていた。頭から垂れてくるコーヒーが目に入りかけても、瞬きさえしなかった。


「やめてくれ! 違うんだ。彼女はおそろしい怪物じゃない。味方なんだ。僕達の味方なんだよ!」


 僕の叫びは怒号に掻き消される。暴れる僕を警察が押さえつけ、地面に顎を強かに打ち付けた。荒れる野次馬に隠され彼女の姿さえ見えなくなっていく。

 不意に動いたのは社長だった。彼は背中から新しいナイフを取り出し、空中に向かって大きく振るう。


「俺の復讐の邪魔をするな。黙っていろ!」


 皆がどよめく。社長は憤るまま、ナイフの切っ先をまっすぐ野次馬へ向けた。

 その瞬間、それまで黙っていたありすちゃんが素早く男の腕を掴んで、ナイフを自分の左胸に押し当てた。


「私が復讐相手なんでしょう」

「なっ」

「なら、あなたが刃を向けるのは私だけのはずよ」


 周囲が緊張に張り詰める。シンと静まり返った空間には、社長の荒い息遣いさえよく聞こえた。

 絶好の復讐のチャンスだった。僅かに腕を押す。それだけで、彼の願いは叶う。


「は…………」


 社長は笑って手に力を込めた。ぷつりと彼女の服が切れ、内側の肌を僅かに突く。

 けれどそれ以上男の手は進まなかった。


「はっ。は、はっ……」

「どうしたの」

「っ」

「怪物を殺すんでしょう」

「ひぃっ!」


 ありすちゃんが自ら一歩前に近付こうとする。その瞬間、社長はビクンと雷に打たれたかのように痙攣し、ナイフを落としてしまう。


「助けて! 助けてくれ! 誰か!」


 社長は絶叫してこちらに走ってくる。敵であるはずの警察に飛び込み、その場に崩れ落ちてガクガクと震えた。変な臭いがして、僕は彼が失禁していることに気が付く。

 彼はきっと思い出したのだ。自分の顔を溶かしたときの怪物の姿を。


「……そうよね。私が過去にしたことは消えない。その状態で心がどれだけあなた達の味方だと叫んだところで、見た目がこれじゃあ説得も難しいわ」


 ありすちゃんは皆に顔をあげる。警察が構える銃口に微笑み、野次馬が掲げる携帯に向けて声を張る。


「ごめんなさい。私は許されないことをたくさんしてきた。謝っても済むことじゃないのは分かってる。自分が犯罪者だってこともよく分かってる。

 それでも最後に、たった一つの我儘を言わせて。私をまだ捕まえないで。この楽土町に害をなそうとしている人を、最後に一人、倒さなきゃいけないの。

 それが終わったら自分で死刑台に向かう。だから……どうか、お願いします」


 皆の携帯がありすちゃんを映す。ライブ映像を撮っている人もいる。SNSに、動画投稿サイトに、ニュースサイトに、ありすちゃんの顔が映っている。

 ありすちゃんが怪物だと世界中の人が知ったのだ。


「信じられない話だろうけれど。私はこの世界を守りたかった。街の悪者を倒したり、事故に遭った人を助けようとしていたの。怪物に変身してね。街の皆を守るために、って同級生や先輩に協力してもらったこともあるわ。……ああでも今思えば、ただの脅しだったかもね。怖い怪物に協力しろって言われて断れる人がいるかしら?」

「ありすちゃん……」

「私……変身するなら、本当は魔法少女がよかった。子供のときからずっと夢だったの。可愛いドレスを着てリボンを付けて、魔法の力で悪者を倒したかった」

「…………」

「本当はね。皆に応援されてみたかった。だって魔法少女は、皆の応援で強くなれるものだから」


 ありすちゃんがこちらを見て、今にも泣きそうな顔をした。

 彼女はそのとき。確かに、野次馬の中にまぎれる僕を見て笑ったのだ。

 ありすちゃんが一度俯く。

 もう一度顔をあげたとき。彼女の顔に浮かんでいたのは、眩しいほどに明るい満面の笑みだった。


「私、姫乃ありす。十五歳の高校一年生。とっても可愛い女の子!」


 彼女は世界中に向けて宣言する。

 その声は可愛らしく無邪気で、そして今まで聞いた中で一番、勇ましい声だった。


「魔法少女に憧れた、怪物よ」


 変身、と彼女が言った瞬間。その全身がまばゆい光に包まれた。

 警察が誰かが思わず発砲した弾丸は、光に当たる前に溶けてなくなった。

 光の中から巨大な怪物が現れる。彼女は巨大な咆哮を天にとどろかせた。空気を激しく震わせる咆哮に誰もが圧倒され動けなくなる。


「ありすちゃん!」


 僕だけが動けた。硬直する警察の拘束を振りほどき、チョコを背に乗せ逃げ去るありすちゃんに手を伸ばした。

 走る。必死に走る。それでも怪物と僕の距離は広がる一方だった。


「嫌だ……。行くな。行かないで!」


 伸ばす手が涙にぼやけて見えなくなる。

 とっくにありすちゃんの背中なんて見えなくなっても。僕は暗闇に、何度も声を張り上げた。


「ありす!」


 大好きな友達は僕の前から姿を消した。

 それきり僕は最後まで、彼女と会うことはなかったのだ。

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