第74話 変身しないで、ありすちゃん

 ありすちゃんのことを、皆が忘れはじめている。



「おい湊、あそこにいるのお前の彼女じゃない?」


 昼休みの終わり。移動教室に向かう最中、涼の言葉に僕は足を止めた。

 ラウンジのテーブルに二人の少女が座っている。彼女達はテーブルに置いたノートにせっせと何かをかいていた。三年生と二年生の色違いのリボンが揺れているのを見ておや、と思う。

 席取っといて、とノートを涼に押し付け僕はラウンジのテーブルへと近付いた。


「何してるの?」

「湊くん」


 振り返った少女二人、祥子さんと雫ちゃんが揃った声を弾ませた。

 二人が一緒にいるのは珍しい気がする。何をしているのかと見てみれば、テーブルに広げたスケッチブックにどうやらお絵描きをしているようだった。

 可愛らしいタッチで描かれているのは僕のイラストだった。隣に雫ちゃん、千紗ちゃん。更に隣に祥子さんが手を伸ばして自分のイラストを描いている。黒、青、黄色、茶色、と髪の色がカラフルだ。


「絵本を作りたくて……。皆との、これまでの思い出を」

「私は偶然通りかかっただけ。監修してあげてるのよ。暇だから」


 花の色に迷う雫ちゃんに、そこは白が映えるわよと時折祥子さんが指示を出す。

 仲良さそうでなによりだと、僕は二人を見てニコニコと笑った。白は難しい色だと思ったけれど、彼女は上手く白を使って、花を美しく仕上げていた。


「この絵本をありすちゃんにプレゼントしたいなと思ってるの」

「ありすちゃんに?」

「うん。思い出を残しておきたいってあの子言っていたでしょう。喜んでもらいたいの。わたしが描いた絵本で、ありすちゃんを少しでも笑顔にできればいいなって」

「……すごくいいアイデアだと思う。ありすちゃん、きっと喜ぶよ」


 ありすちゃんはきっとはしゃいでくれるだろう。絵本を抱きしめて、何度も何度も繰り返し読んでは毎回はじめて読んだみたいに感動に頬を赤く染めるのだ。ありすちゃんの笑顔を想像するだけで、胸があたたかくなる。

 雫ちゃんはありすちゃんを描きはじめていた。顔を描いて、それから髪をぬろうとする。クレヨンを探りながら、雫ちゃんはニコニコ僕に聞いた。


「ありすちゃんの髪って何色だったっけ。茶色?」

「ピンク色だよ。桜の花みたいな、優しいピンク……」


 僕はふと顔をあげた。祥子さんも顔をあげて、横に座る雫ちゃんを見た。

 雫ちゃんの顔は青かった。眼鏡の奥の瞳を茫然と見開いて、僕達を見つめていた。


「…………思い出せなかったの」


 その指から茶色いクレヨンがこぼれおちて、スケッチブックの上を転がった。

 あんなに目立つ髪の色を、忘れるわけがないのに。




 移動先の教室に入ると既に授業ははじまっていた。

 遅刻だぞ、と先生に軽く叱られ席に着く。隣の涼がニヤニヤと僕を肘で小突いた。


「どうしたんだよ。彼女と喧嘩でもした?」

「……まあそんなとこ」


 適当に話を合わせた。けれど僕の顔を見た涼はふと笑いを消し、筆箱から何かを取り出した。

 くしゃくしゃに丸められた紙だ。ゴミかと思ったが、涼はぼそぼそとした声で喋りながらその紙を開く。


「お前、遊園地とか好きだっけ」


 しわだらけのそれは遊園地のペアチケットだった。楽土町でも人気の遊園地である。

 僕は軽く眉間にしわを寄せ、気まずい目で涼を見つめる。


「ごめん……涼と二人きりで遊園地デートはキツイかな……」

「ちげえわボケ」


 机の下で足を蹴られる。冗談だよ、と笑う僕につられて笑いながら、涼はチケットを僕の前に差し出した。


「これで彼女と仲直りしてこいよ」

「ありがとう……」


 思わず受け取るも、僕は申し訳なさに眉を下げる。

 チケットの日付は十二月二十四日。クリスマスイブだ。


「いいのか? これ自分と彼女さん用だったんじゃないの」

「気にすんなよ。今は彼女より、友人を大事にしたいんだ」

「涼……」


 涼は爽やかな微笑みを浮かべた。僕はもう一度礼を言いながら、こいつまた彼女にフラれたんだろうなと察した。

 先生の声が遠くに聞こえる。いまいち授業に集中できず、ノートの隅に落書きをしてしまう。僕が描く怪物の絵は、やっぱり雫ちゃんほど上手くはない。

 ペアチケット。せっかくもらったからには誰かを誘って行きたいところだけど……さて誰を誘おうか。祥子さん? 雫ちゃん? それとも千紗ちゃん?


「……ふっ」


 ぼんやりとかいていたノートの落書きを見て、僕は思わず笑ってしまった。

 相手はもう決まっているみたいだ。

 ノートの隅。そこに、ぬいぐるみを抱いてニコニコ微笑むボブヘアーの女の子が描かれていた。




 放課後の教室にありすちゃんはまだ座っていた。

 夕日が彼女をオレンジ色に染めている。誰もいなくなった教室でたった一人。彼女はぼんやり俯いていた。


「ありすちゃん」


 ピク、と彼女が顔をあげ、僕の顔を見て微笑した。彼女が見ていた携帯がそっと机に伏される。

 僕は教室に入り彼女の前の席に逆向きに座った。彼女の机に肘をつき、正面からその顔を見つめる。桜色の目が夕日のオレンジに透けて綺麗だった。


「まだ帰らないの?」

「す、少しお昼寝しちゃって。今起きたの」

「嘘、携帯見てたでしょ。漫画かなにか? 僕にも見せてよ」


 僕は微笑みながら少し強引に言ってみた。彼女が見ていたものを知りたかったのだ。だって、彼女があんまりにも寂しそうな顔をしていたから。

 ありすちゃんはぎこちなく笑って誤魔化そうとした。けれど彼女は誤魔化すのが下手だ。観念したように差し出された携帯をひっくり返せば、僕は彼女の憂鬱の理由を察する。


「……みんな私達のことが大好きみたい」


 検索サイトのトップニュースに怪物を非難するニュースが載っていた。

 開いてみればそれは映像のようである。再生すると、静かな教室に硬質なアナウンサーの声が響いた。

 映像の中で炎が揺らいでいる。

 一昨日、二丁目の公園近くで発生した大規模な火災の映像だった。炎の中で三体の怪物がごうごうと吠えている。一体は触手のまとわりついた怪物であり、一体は巨大な狼に似た怪物であり、一体は巨大なタコに似た怪物である。


「『怪物、またしても大暴れ。住宅三棟が全焼』……ねぇ」


 煽情的なニュースタイトルに眉をしかめた。酷いタイトルだ。だってこの事件、真犯人は他にいる。

 黎明の乙女に所属している信者の女だ。住宅街のゴミ捨て場に火をつけたのだという。逮捕された女は「してはいけないことをしてみたかった」というあまりに幼稚かつおぞましい理由をへらへらと述べていたらしい。検査によれば、微量の薬物反応が出たとかなんとか。

 ありすちゃん達は逃げ遅れた住民を助けるため変身しただけだ。こんな書き方、まるで彼女達が放火の犯人みたいじゃないか。


 コメント欄は非難轟々の嵐だった。スクロールするたび眉間のしわが深くなる。

 しかし途中で、僕はふと指を止め、一つのコメントをまじまじと見つめた。


「ありすちゃん。これ」


 でも怪物がいなかったら病院危なかったんじゃないの。

 それはたった一つの、一見不思議なコメントだった。


「……そうよ。あのとき、隣に病院があったの」

「うん。窓から患者さんが大勢こっちを見てたよね」

「お母さん達がいっぱいいたの。お見舞いに来てたお父さんや子供も。たくさん……」


 火災現場の近くには産婦人科病院があった。大きな火の手は、その病院さえ飲み込もうとしていたのだ。

 何人もの赤ちゃんがそこにいた。入院中の妊婦さんや、すぐに動けない人が大勢いた。だからありすちゃん達は必死で病院に火の手がいかないようにしていたのだ。炎に皮膚を焼かれ、苦悶に顔をしかめてまでも。

 ニュースのコメントを読み終えた僕は、SNSを開き火災事件について検索をかけてみた。ズラズラ流れてくる非難のコメントの中に、いくつか毛色が違うコメントが紛れていた。


『入院中で動けなかったけど、怪物が偶然壁になってくれたおかげで助かった……。運がよかった!』

『友人の赤ちゃん無事産まれたってー! 出産中に病院に火が付いてやばいと思ったけど、怪物の飛ばした水がかかって火が消えたんだって。たまにはいいことするじゃん』


 炎に囲まれて泣いている子供がいる。炎がとうとう子供に襲いかかろうというときに、狼の怪物が飛び込んで子供の服を咥えて逃げる。慌てている父親の足元にぽとっと子供を置き、怪物はまた炎の中へと戻っていく。

 そんな映像が既に一万回以上拡散されていた。また別の投稿では、変身した雫ちゃんが放つ水鉄砲が公園の木々に燃え移ろうとしていた火を消す動画が流れ、こちらも数千回シェアされている。


「うおぉ」

「わっ、わっ、すごい。どんどん伸びてる!」


 見ている間にもシュンシュンと増えていく拡散の数字に僕達は思わず唸った。

 非難のコメントは多い。けれど同じくらい、怪物を擁護するコメントも増えていく。


「気付いてくれた人もいるのかもしれないよ」


 怪物が皆を助けようとしていることに、気が付いた人もきっといる。

 ただ恐ろしいだけの存在じゃないと、世界の悪役ではないと、そう思っている人もきっとこれから増えていく。


「怪物の写真もたまってきたからいつでも発表できる。雫ちゃんの怪物絵本もそろそろ完成しそうだって。千紗ちゃんの映画はいつ公開するか、後で一緒に話し合おう」

「うん」


 ありすちゃんはぼんやりと返事をして鼻を啜った。その視線は携帯に流れるコメントに注がれている。

 嬉しかったんだろう。

 報われない努力を続けてきた。それが今、少しでも認められてきていることが。本当に嬉しかったんだろう。

 ありすちゃんは瞬きを繰り返して涙をこらえ、それからふと僕に向き直って首を傾げた。


「ところで、私に何か用事があったんじゃないの?」

「ああ、うん。実はこれなんだけど」


 忘れかけていた本来の用事を思い出す。僕は鞄から二枚のチケットを取り出した。彼女はチケットをしげしげと眺め、これは? という目で僕を見上げる。


「一緒に行かない? 涼からペアチケットもらったんだ」

「遊園地に? クリスマスイブ? ……私とでいいの?」

「君とがいいんだ。どうかな? 他に用事があるとか、家族と過ごすとかだったら、いいんだけど」

「行きたい! 遊園地、絶対に行きたいわ!」


 ありすちゃんは食い気味に身を乗り出して言った。はずみでチョコが膝から転がって、床でいびきをかいていた。

 ありすちゃんは宝石のように目を輝かせていた。浮かべた笑顔は可愛らしかった。ハチミツをたっぷり溶かしたホットミルクの最初の一口目みたいに、甘ったるくとろけてしまう笑みだった。


「毎年パパとママと三人ですごしてたの。友達とすごすクリスマスイブなんてはじめてよ」

「いいの? 今年は家族と一緒じゃなくて」

「二人共、私が友達といるとすっごく喜ぶの。ありすに友達ができたーって。だから大丈夫。それになにより、私が湊先輩と遊びたいの!」

「そっか……うん。僕もありすちゃんと遊びたいよ」

「嬉しい。ずっとちっちゃい頃に行ったきりだったの。ジェットコースターにメリーゴーランド。パレードも見たいわ! ソフトクリームとポップコーンを食べてね、写真もいっぱい撮りたいの……」


 オレンジ色の声が弾む。夕日の中に、彼女の楽しそうな声はキラキラと輝いた。

 眩しい笑顔に僕は目を細める。彼女の言葉一つ一つに頷き、笑い、この瞬間の幸せを噛み締めた。


「きっと楽しいクリスマスイブにしようね」


 うん、と頷くありすちゃんの笑顔は眩しかった。

 この笑顔を守り続けることができるなら、僕はそれで十分なのだ。






 クリスマスソングを聞くとどうにも嬉しくなってしまうのは。幼い頃、枕元に置いてあったプレゼントを思い出すからだろうか。

 十二月二十四日、クリスマスイブ。僕は待ち合わせの二十分前に駅で彼女を待っていた。

 楽しみで少々早く来すぎてしまった。手持無沙汰にカメラをいじりながらふと周囲を見ると、周囲にカップルの姿が多いことに気が付いた。

 クリスマスイブといえば恋人とデートというのは定番だ。今日の僕達ももしかしたらそう見えるのかな、なんて思ったり。


「湊先輩!」


 噂をすれば彼女の声が聞こえた。

 改札の方、人ごみから駆けてくるピンク色の髪が見えた。僕は手を振って、声を出そうと口を開けて……。

 その瞬間、心臓がドクンと跳ねた。


「ごめんなさい、待った?」

「やあ湊くん!」


 彼女と、彼女の腕に抱かれたぬいぐるみのチョコが挨拶をする。けれど僕は返事を返せずぼんやりと二人を見つめていた。

 何も言わぬ僕を彼女は不思議そうに見上げた。瞬きをすれば、瞼を濡らす繊細なパールのアイシャドウがキラキラと艶めく。


「どうかした?」

「…………いや、綺麗だなと思って。ドキドキしちゃった」

「わーっ! ほ、褒めてもキャンディしかあげられないわよっ」

「くれるんだ」

「はいイチゴキャンディ」

「ありがとう。……白い服って珍しいね。似合ってるよ」

「最近、白色がお気に入りなの」


 彼女はその場でくるりとターンした。もふもふした白いコートの下、同色のワンピースの裾がふわりと広がる。オールホワイトの服装はピンク色が大好きな彼女には珍しく、けれどとても似合っていた。

 ホワイトのブーツをコツコツと鳴らして彼女が隣に立つ。ヒールのおかげで、いつもより顔の距離が近かった。眩い笑顔がよく見える。


「じゃあ行きましょ」


 彼女は僕の手を取った。僕の心臓がまたドキンと痛いくらいに大きく跳ねる。

 ……どうかこの鼓動が彼女に伝わりませんように。そう強く願う。


「楽しいクリスマスイブにしようね」

「うんっ!」


 

 花が咲き誇るように笑う彼女を見て、僕は思う。

 この笑顔を守り続けることができるなら、僕はそれで十分だ。

 ……だから、守らないと。



 ドリームランドというのが遊園地の名前だった。

 以前動物脱走事件が起こった動物園と水族館に隣接している遊園地だ。残念ながら動物園と水族館の方は閉鎖されてしまったものの、遊園地はかろうじて生き残っている。

 『夢いっぱいのドリームランドへようこそ!』と書かれた看板をくぐれば、賑やかな笑い声と音楽が僕らを包み込む。隣の彼女は目にいっぱいの光を瞬かせて、わぁっと小さな歓声をあげた。

 園内のマップを見て、さてどこから回ろうかと話し合う。アトラクション一覧に目をやる僕達の横で、おじさんの姿に変身したチョコはふんふんと鼻息荒くフードマップを凝視していた。


「シュガーワッフルにハニーバターパイ、スモークチキンにグリーンビールだって!? 素晴らしいラインナップだこと!」

「チョコったら。今日は食べ歩きに来たわけじゃないのよ?」

「そんな呑気なこと言ってられるかいっ。ぼくは今日、腹がはちきれるほど飯を詰め込むって決めてるんだい!」


 彼はマスターからもらったお小遣いを握りしめ、「後でまた会おう!」というが早いか食べ歩きの旅へと向かってしまった。ぶるんぶるん揺れるお腹を見送ってから、僕達は互いの顔を見合わせ肩を竦める。


「こないだ、マスターの健康診断でオール要検査って出たらしいからちょっと心配かも」

「宇宙人にも高血圧とか糖尿病とかあるのかな?」

「……チョコがいないと本当に二人っきりね」

「……そうだね」


 僕と彼女はじっと顔を見合わせて、それからえへへと揃いの笑顔を浮かべた。


「どこに行きたい?」

「全部!」


 僕達は子供のようにわくわくと園内を歩き始めた。

 ドリームランドはまさに、夢のように楽しい場所だった。

 乗り物に乗って絵本の世界に飛び込めるライド型アトラクション、お姫様や王子様になりきれる豪華なお城、悲鳴と恐怖が響き渡るホラーハウス、どこまでもどこまでも高く舞い上がる気球型アトラクション……。

 僕達は二人共、子供時分にもどったように無邪気に笑って遊園地を回っていた。

 きゃあ、あはは、という笑い声が青空を突き抜けてポーンと高く飛んでいく。

 コーヒーカップ、続けてジェットコースター。ぼさぼさになった頭のまま僕達はソフトクリームを食べる。


「ジェットコースターってあんなに速いのね! まだ胸がドキドキしてるわ……」


 彼女ははふはふと興奮冷めやらぬ様子でソフトクリームを食べていた。夢中で喋りながら食べるものだから、口中べたべただ。ハンカチで拭ってあげれば「ありがと!」と言って数秒もせずまた口中を汚していた。

 アトラクションに乗って、色んな写真を撮って、たくさんお喋りをすれば、時間はあっという間に過ぎていく。来たのは昼前だというのに、もう夕方だ。だんだんとオレンジ色に変わってい空が眩しくて目を細めた。


「あ、クマさん!」

 

 彼女の声に振り返った僕は、広場にやってきたカラフルなクマのきぐるみを見た。

 たしかドリームベアという名の、遊園地のマスコットキャラクターだったか。手に持つたくさんの風船が、色とりどりに青空の下で揺れていた。

 子供達が彼にむらがり風船をねだる。パンチをされても背中に飛び乗られても突進されてもせっせと風船を配っている姿を見て、大変だなぁ……なんて思う。けれどふと横を見れば、そこにもそわそわとドリームベアに目を輝かせる同年代の子供がいるのだった。


「一緒に写真がとれるみたいだよ。撮ってあげようか?」

「ううん。私が撮りたい! 湊先輩クマさんのとこ行ってきて」

「僕が行くのかぁ」


 ちょっと照れながら子供達の後ろに並び、ドリームベアとツーショットを撮ってもらう。

 懐かしいなぁ、僕も小さい頃はきぐるみと写真を撮ってもらっていたっけ。と少年時代の思い出に浸る。まあ今は子供達に群がられたせいかハアハアと荒い呼吸が聞こえてくるドリームベアに「お疲れ様です……」とねぎらいの言葉をかけてしまうくらいには大人になってしまったが。

 ねぎらいへの礼か、単に運がよかったのか、僕がもらったのはちょっと特別な赤いハート型だった。散りばめられたラメが夕日にキラキラと光ってよく目立つ。

 いいなー、という子供達の声に照れながら彼女の元に戻れば、彼女が一番「いいなぁ!」と声を張り上げるものだから、思わず笑ってしまった。


「はい、どうぞ」

「くれるの? ありがとう!」


 ハートもらっちゃった、と彼女は宝物をもらったみたいにふわふわ風船を泳がせスキップをした。コツン、ココン、とヒールが幸せな音楽を奏でる。

 やっぱり恋人というよりは妹みたいだ、と思ってちょっと笑う。

 本人がそれを知ったら「失礼な!」とやっぱり子供っぽく頬を膨らませて怒りそうだけれど。


 コツ……とヒールの音がやむ。僕は彼女の視線を追って、「あ」と声をあげた。

 道端に子供が二人座り込んでいた。小学生くらいの女の子と、幼稚園くらいの男の子。姉弟だろうか。

 しかめっ面でじっと地面を見つめている姿は、遊んでいるようには見えない。周りを見ても保護者らしき人は見当たらなかった。

 二人に近付こうとした僕の横を、それより早く、ヒールがコツコツと駆け抜けた。


「もしもし、こんにちは!」

「え、……こんにちは」


 彼女がにこやかに子供達に話しかけた。子供達はびっくりと目を丸くし、それから不信感のこもった視線を僕達によこす。

 急に話しかけてごめんなさい、と彼女はニコニコ人懐っこい笑みを崩さないまま話した。


「何を見てるのか気になっちゃって。何を見てたの? アリさん?」

「別に、何も……」

「今日は遊園地に遊びに来たの? 二人で?」

「ち、違くて。パパとママもいる。家族で来た」

「そっか、二人はお買い物に行ってるのかな。それともどっか行っちゃった?」

「あのね、あたし達が遊んでたら二人が迷子になっちゃったの。大人なのに」

「あらそっちが。……二人とも迷子センターで君達が迎えに来てくれるのを待ってるかも。場所分かる?」


 子供達は首を振る。じゃあ迎えに行ってあげようか! と彼女はニコニコ笑って言った。

 僕が迷子センターの場所を調べ、三人が後ろをついてくる。最初は不安そうだった子供達もだんだんと緊張をほぐし笑い声をあげていた。

 彼女は子供と接するのがうまかった。カラフルな道を見つけて「赤色のタイルだけを渡ろうゲーム」をはじめたり、空の雲を見て「あれがアイスクリームの材料だって知ってた……?」と深刻な顔をしたり。

 子供達は思わずゲームに参加したり、んなわけないじゃんと言いながら好きなアイスの味を話しあったりして笑っていた。彼女が女の子にあげたハートの風船が、ふわふわキラキラと夕方の風に揺れていた。


「湊先輩は何味のアイスが好き?」

「うーん、チョコミントかな」

「私はイチゴ味!」


 子供達と手を繋いでニコニコ歩く彼女を見て、思わず笑みがこぼれる。

 子供っぽいという認識は間違っていたのかもしれないな。

 少なくとも出会ったときより。彼女はずっと大人になっていた。



「君は子供と接する仕事が向いているのかもしれないね」


 結局迷子センターには行かなかった。両親の方が子供達を見つけてやってきてくれたからだ。女の子にあげた風船がキラキラ光って目印になっていたらしい。

 子供達と別れた後メリーゴーランドの列に並びながら言った僕に、彼女はキョトンと目をまるくする。


「向いてるかしら? 自分じゃよく分からなかったけど……」

「あの子達があんなに笑顔だったのは君のおかげだよ。君は子供を笑顔にするのが得意なんだ」

「ふへへ、そうかしらっ。将来の夢の候補にしてみるのもいいかも?」

「おっ、いいじゃん。保育士さん? 小学校の先生?」

「ううん、カメラマンとして子供達の笑顔の写真をいっぱい撮るの!」


 せっかく写真が得意だって分かったんだもの、と彼女は鞄から取り出したカメラを手にニコニコ笑った。微笑ましさに唇が緩む。彼女にカメラを教えたのが僕だということが、なんだか誇らしかった。

 メリーゴーランドの順番が来ると、彼女は一番白い馬を選んで「この子がいい」と飛び乗った。僕もその隣の馬に乗れば、どことなく懐かしい音楽が流れてメリーゴーランドがくるくる回る。

 すっかり濃紺色になった空の下、メリーゴーランドの中だけはオレンジ色のライトが眩しく光って、まるでここだけ違う世界を切り取ったみたいだった。

 みなとせんぱぁい、と隣の彼女が手を振っている。僕はカメラを構えてシャッターを切った。彼女の笑顔が一枚の写真に切り取られる。彼女は笑って、自分もカメラを構えて僕に向けてきた。

 僕達はこの幸福の一瞬を、何枚も何枚も切り取って笑っていた。




「すっかり暗くなっちゃったね」


 夜のパレードも終わった。キラキラとした夢の時間も、そろそろ終わりが近付いている。

 家に帰ろうとする人々が増えてきた。あまり遅くならないうちに彼女を家まで送り届けなければいけないが。さてどうするかと隣を見れば、寂しそうに潤んだ瞳とパッチリ目が合った。


「最後に観覧車だけ乗っていこっか」

「うんっ!」


 僕の提案に彼女はこくこく頷いた。名残惜しいのは僕だって同じだった。クリスマスイブなんだ、もう少しくらい楽しんだっていいだろう。

 この時間帯はきっと夜景が美しい。観覧車の行列は長かった。けれどうんざりはせず、彼女ともう少し一緒にいられるという喜びが胸を満たしていた。


「ねえ知ってる? この観覧車のてっぺんで告白をしたカップルは、一生を添い遂げる仲になれるんですって」

「へえ、ロマンチックな話だなぁ」


 クリスマスイブ、観覧車のてっぺんで告白。それはきっと忘れられない思い出になるに違いない。

 観覧車に並ぶ列にはカップルの姿も多かった。心なしか緊張した様子の男女もいて、僕は思わず心の中で彼らの告白の成功を祈る。

 おねえちゃーん、と声がして振り向けば、後ろの方にさっきの迷子達が両親と共に並んでいた。僕達はニコニコと彼らに手を振る。


「パパとママも昔、デートで来たんですって。観覧車のてっぺんで告白をしたらしいのよ。私が子供のときも、この観覧車に乗せていたんですって」

「いいなぁ、思い出の場所なんだね」

「……なんだか話してたら寂しくなっちゃった。また家族で観覧車に乗りたかったなぁ」

「なに言ってるの。またいつでも来ればいいじゃん」

「パパとママはいつまで私のことを覚えていられると思う?」


 背中に氷を当てられたようだった。スッと冷えていく頭に、彼女の言葉がじんわりとしみる。

 ゲホ、と誤魔化すように咳ばらいをして、僕はしばしの沈黙の後に言った。


「忘れられたって一緒に来れるよ。それに、家族の思い出の場所なんだろ? ここに連れてくれば、きっとお父さんもお母さんも君のことを思い出してくれるさ」

「本当に?」

「本当に」

「……たとえば湊先輩が私のことを忘れても、私とまた一緒にここに遊びに来てくれる?」

「忘れないよ」

「そう」


 彼女の最後の相槌は透明だった。冷たく突き放すような、そっけなく縋るような、複雑な感情がその二文字に込められているようだった。

 思わずその顔を見ようとしたけれど、タイミング悪く順番が来てしまう。スタッフさんの案内でカゴに乗り込んだ。

 向かい合わせに座れば、彼女はもう話の余韻を引っ込めて、ニコニコ外を景色を楽しんでいた。


「すごい。どんどん高くなる。きっと富士山よりも高いわよ!」

「そうだねぇ」

「エベレストにはギリギリ負けちゃうけど……」

「富士山にも厳しいかもねぇ」


 僕達はてっぺんに着くまでの間、なんてことのない会話を楽しんだ。

 今日の思い出。冬休み前のテスト結果が散々だったこと。この間映画研究部で見せてもらった映画が面白かったこと。最近撮った写真で一番のお気に入りはどれか。

 話して、笑って、二人で窓からカメラを構えて夜景やお互いの姿を撮って。新年を迎えたら何をしようか、次の写真コンテストには何を出そうか……そんな先の話をたくさんした。


「もうすぐてっぺんね」

「そうだね」


 てっぺんが近付くにつれ、自然と会話が減っていく。僕達はどちらともなく相手の顔に視線を向け、照明にぼんやりと照らされる肌を見つめていた。


「私。今日ずっと、湊先輩に言いたかったことがあるの」


 彼女の言葉に僕は居住まいを正した。向けられた声は真剣で、その表情は緊張に張り詰めていた。

 じっと目をつむり、それからゆっくりと開く。こみあげる不安を飲み込み、意識した柔らかい表情を作り上げる。


「……うん。なぁに?」


 観覧車のてっぺんで告白をすれば一生を添い遂げるカップルになれる。

 彼女に聞いたばかりの噂をふと思い出す。あの噂は友人同士でも有効なのだろうか。一生を共にできる親友になれるのだろうか。それともやはり恋人でなければ無効なのか。

 緊張のせいで指先がジィンと震えていた。知らず背中が強張り、力を抜こうとしてもまったく上手くいかない。


「湊先輩」

「うん」


 彼女の微笑みはいつもよりずっと大人びていた。

 それは何かを達観したような瞳だった。何かを覚悟したような色だった。

 観覧車がてっぺんに着いたその瞬間。

 桃色の唇が開き、言った。



「――――私の名前を覚えてる?」



 返事ができなかった。

 僕は重たい石を飲み込んでしまったかのようにぼうっと口を開けて、微笑む彼女を見つめていた。

 心臓ばかりがバクバクと張り裂けるように鼓動していた。


「……覚えてるよ」


 声が震える。

 笑って誤魔化そうとしたけれど、引きつった呼気しか出てこなかった。


「当たり前だろ。僕と君がどれだけ長い時間、一緒にいたと思ってるんだ」

「じゃあ、言ってよ」

「君の名前は」

「うん」

「名前…………」


 言えるに決まってる。だってずっと君の名前を呼んできた。昨日も、一昨日も、その前も。出会ってからずっと君の名前を呼び続けてきたじゃないか。ド忘れだってできっこない。

 呼べる。当然だ。呼べるに決まってる。

 ほら、湊。言えよ。早く。彼女が待ってるじゃないか。呼んでやれよ。早くしろって。

 呼んであげてよ。いつもみたいに。

    ちゃんって。


「ごめん」


 僕はぐしゃっと顔を歪めて項垂れた。

 分からなかった。思い出せなかった。言えなかった。

 だから僕は今日、一度も彼女の名前を呼んでいない。


 待ち合わせ場所で君の姿を見つけたとき。彼女の名を呼ぼうとして「   」と透明な音だけが口から吐き出されることに気が付いた。

 僕だけは彼女を忘れないという根拠のない自信がどこかにあったのだと、ショックを受けてはじめて気が付いた。

 だって一番は僕だ。彼女と最初に友達になったのは他の誰でもない、僕だ。

 春に出会って、それからずっと傍にいた。君は僕を好いてくれていたし、僕も君のことが好きだった。それなのに。

 ずっと一緒にいた君の名前をどうしても思い出せないんだ。■■■ちゃん。


 茫然とする僕を、彼女は静かに見下ろして微笑んでいた。怒りもしない、泣きもしない。優しい微笑みがだけど余計に僕を苦しめた。


「私の名前、姫乃ありすっていうの」

「ありす」

「そう。ありすちゃん」

「……ありすちゃん」


 呼んでみた名前は驚くほどしっくりこなかった。はじめて呼ぶ名前みたいにそっけない。

 けれど彼女の言っていることは本当なのだろう。僕はずっと彼女のことをありすちゃんと呼んでいたはずなのに。


「変身するたび皆の頭のなかから私は消えちゃうの。名前の次は、顔かな? はじめは何とか思い出せても、そのうち思い出すことすらできなくなるんですって」

「…………」

「最後は私自身が私のことを忘れちゃうみたい。記憶喪失ね。でもその方がいいわ、きっと。皆が私を忘れてさみしいっていう気持ちも、いつかは忘れることができるもの」

「…………」

「私はそれを承知で魔法少女を続けているの。一度決めたことは最後までつらぬくわ。大丈夫、私は最後まで負けないんだから! ……ね、だから」

「…………」

「そんなに泣かないで」


 両目からボロボロと溢れる涙をとめることができなかった。

 僕は顔を真っ赤にして泣いていた。食いしばる歯の隙間から嗚咽をもらし、過呼吸になりそうなほど浅い呼吸を繰り返す。

 あまりに哀れな姿だったのかもしれない。心配そうに立ち上がったありすちゃんが僕の背中をさする。その小さな手の感触がどうにも耐え切れなかった。

 バッと顔を上げ、彼女の肩を強く掴む。驚く彼女の顔をまっすぐに見上げ、涙まじりの声を震わせる。


「ぼ、僕が頑張るから」


 涙を何度も飲み込んだ。殺しきれなかった嗚咽がこぼれてしまう。

 ぐしゃぐしゃの顔を繕うこともせず、彼女に思いを吐き出した。


「僕が戦う。チョコから薬をもらって、変身して戦うよ。君達がもう二度と変身しなくていいようにする」

「なに言ってるの、無茶よ。そんなことをしたら湊先輩死んじゃうわ」

「変身するから副作用が進むんだろ? なら変身しなければいいじゃないか。そうすれば僕はまだ、君のことを覚えていられる……」

「ねえ、泣かないでよ…………」


 頭の奥が煮えたぎるように熱い。こんなにも言いたいことが溢れているのに、喉が詰まって上手く言葉を吐きだせないのがもどかしい。

 僕に変身の素質はない。彼女達のように戦い続けることはできない。

 分かってる。そんなこと、僕自身が一番分かっているんだよ。


「き、君といたいんだ」


 なにを撮っているの?

 空を撮っているんだ。


 はじめて会ったときにした会話を覚えてる?

 あのときのことを僕はまだ覚えている。変な子だなぁと思っちゃってごめんね。君はちょっと不思議なところもあるけれど、その不思議さが自然と僕達を引き付けて、魅了されたんだ。君はとても素敵な子だった。


「行かないで」


 変身しないでと何度も言った。

 だって君が変身すれば皆が傷ついた。街が壊れて、死体が増えて……だから変身してほしくなかった。

 でも今は違う。

 君は変身の意味を理解した。そして変身するたび苦しそうな顔をした。自分の身を削って皆を助ける、本物のヒーローになった。

 変身してほしくなかった。

 君の笑顔を消したいわけじゃなかった。


「忘れたくないんだ」


 これ以上僕の記憶から君を消さないで。わがままな願いだと分かっている。だけど僕は君の名前も、顔も、思い出も、全部全部覚えていたいんだ。

 コンテストに写真を出すんだろ? 将来はカメラマンになるんだろ? 成人したら一緒にお酒でも飲みに行こうよ。大人になってからも一緒に写真を撮りに出かけようよ。

 ずっと一緒にいようよ。これからも一緒に笑っていようよ。

 だからさ。

 だから、もう。



「……変身しないで、ありすちゃん」



 ありすちゃんの大きく見開かれた目から、音もなく大粒の涙があふれた。


「あ」


 彼女は驚いたように頬に触れる。その指の上を、幾粒もの涙が静かに流れ落ちた。

 取り繕うように浮かべかけた笑みは、形を残す前にぐしゃりと歪む。白かった顔が真っ赤に染まり、彼女は泣き声をあげてその場に崩れ落ちた。

 座り込む彼女の体を抱き寄せる。僕よりもずっと小さな体は、僕よりもずっとずっと熱かった。


「忘れられたくないよぉ」


 彼女の手が僕の背中に縋りつく。

 叫ぶような声が反響して、彼女の頬から流れる涙が、僕の肩を濡らしていた。


「覚えてて。忘れないで。大人になっても、いつまでも、私のことを覚えていてよ」

「ありすちゃん……」

「いやだ。やだ。やだよぉ」

「ありすちゃん……。あ、ありすちゃ……」

「わああぁぁん」

「っ…………!」


 彼女の慟哭は激しかった。一生分の涙を流すかと思うほど、大粒の涙が熱く頬を濡らしている。それは僕も同じようで、頬を流れる涙は次から次へとあふれだす。


 深い悲しみに嘆く僕らをよそに、観覧車はただゆるやかに回る。キィキィと小さく揺れるカゴは、まるでゆりかごのようだった。

 この瞬間に時が止まってしまえばいいのにと強く願う。

 そうすればきっとありすちゃんは、これ以上世界から忘れられない。


 ずっと一生を添い遂げるカップルになれるんだったら、僕達の願いだって似たようなものじゃないか。ずっと一緒にいられる友人にしてくれたっていいじゃないか。

 神様、頼むよ。どうか今、僕達の願いを叶えてくれよ。

 なあ神様……。


「ありすちゃん」


 神様なんて結局、どこにもいないのだ。

 不意に足元が大きく揺れて。その直後、観覧車の電気がブチンと消えた。

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