第73話 お別れの、少し前

 喫茶店の窓を、十二月半ばの風が冷たくノックしていた。

 カウンター席でパソコンを睨んでいた千紗ちゃんが、「終わった……」と静かに呟いた。


「え。おわ……った?」

「……終わった。多分」

「ちょっと……一回。一回通しで見てみよ」


 彼女の隣席で眠たそうに目を擦っていた湊先輩が、渋い顔でパソコンを覗き込む。

 二人がやっているのは映画の編集作業だった。皆で撮った怪物のイメージアップ映画。その最終編集を行っていたのだ。

 ソファ席でそれぞれの作業をしていた私と雫ちゃんと祥子さんも立ち上がって二人の背後からパソコンを覗き込む。千紗ちゃんの指がキーを叩き、しばしの読み込み時間の後、パッと画面が暗く切り替わる。

 ジーッ……と静かなノイズ音がしばらく続いた後。ふっと誰かが吐き出した紫煙みたいな白い文字が浮き上がる。

 タイトルは、『怪物』。



【――――蠢倥l縺ェ繧、縺ァ縺ュ……】


 ビルの屋上で怪物が吠えている。

 黒い怪物だった。体中に触手をうねらせ、ドロリとした粘液を皮膚に垂らす、おぞましい姿の怪物がそこにいた。

 ヴゥーン……。ウウゥ―――ン…………。と奇妙なノイズ音が流れている。それはだんだんと、音の外れたオルゴールの音楽へと変わっていった。

 怪物が触手をうならす。足が屋上の床を叩き割る。

 砕けた瓦礫がボロボロと落下するのをカメラが追う。地面に激突した瓦礫が砕ける。カメラがゆっくりと引いていく。そうすれば、地上を大勢の人が逃げ惑っている光景が目に飛び込んでくる。

 街には火の手が上がっていた。ゴウゴウと燃え盛る炎がビルを飲み込み、どこかから爆発音が聞こえる。

 破壊された街の中を人々が逃げ惑っていた。泣き叫び、悲鳴をあげ、絶望に顔を歪めて。

 とある少女は怪我をした姉を必死に引きずり、とある少年はカメラを構えて屋上の怪物を茫然と見上げている。

 グオオォン、と巨大な怪物の遠吠えが空気をおぞましく震わせた。

 街の遠く、建物と建物の間に。狼に似た別の怪物と、タコに似た別の怪物がまた暴れているのが見えていた。


 時折ふっと日常シーンが差し込まれる。

 皆が笑い合う高校の教室、幼稚園のお遊戯会。幼い姉妹がお絵描きをしている。

 紙いっぱいに描きこまれた可愛い怪物のイラスト。


「…………」


 しばらくは怪物が街を破壊するシーンばかりが続いていた。

 流れる怪物の咆哮がおそろしかった。人々の泣き叫ぶ声があまりに痛々しかった。

 映っているのはあくまで自分であるということも忘れて、私は手にびっしょり汗をかいて画面を食い入るように見つめていた。


「!」


 けれどシーンが切り替わったとたん、ハッと息をのむ。

 逃げ遅れた子供に襲いかかる瓦礫を、狼の怪物が牙で噛み砕いていた。別の場所では人々を飲み込もうとしていた炎の前にタコの怪物が立ちはだかって、皮膚から湯気をあげていた。

 逃げる人々はパニック状態で周りが見えていない。けれどこうして画面の外から見ていれば分かる。怪物が、一度も人間を傷付けていないことに。


 この騒動には犯人がいた。犯人はとあるビルの屋上で爆弾をしかけている最中だった。

 カウントダウンがはじまった爆弾を見つめニヤニヤとほくそ笑んでいた犯人は、背後からぶわっと巻き起こった風にふと振り返る。

 そして真後ろに立っていた触手の怪物に殴られ気を失った。


【縺ソ繧薙↑繧貞ョ医i縺ェ縺阪c!】


 カウントダウンがはじまった爆弾。解除は間に合わない。

 怪物は爆弾を掴み、空高く放り投げたかと思うと、パカリと口を開けた。

 真っ黒な口内に眩しい光が満たされる。

 ドンッと空気が震えた。怪物が放ったビームは落下する前に爆弾を焼き尽くし、凄まじい爆発を引き起こした。

 熱風が怪物の皮膚を焼く。けれど爆弾の残滓はそれだけで、あとは細かな破片がパラパラと地面に降っていくだけだった。あの威力の爆弾が地上で爆発していたならば、被害は目も当てられないほどだったろう。

 怪物は地上を見下ろす。他の怪物達によって避難と消火活動が行われていることを確認すると、怪物はゆるりと触手を振って暗がりへと消え、もう二度と姿を見せることはなかった。

 

 ジ……とノイズが走り、画面が真っ暗になる。

 最後にもう一度だけ『怪物』というタイトルが流れ、そして、それもすぐに消えた。

 映画はそこで終わった。

 エンドロールはない。暗闇はすぐに終わって、デスクトップ画面に戻った。



「――――……っ!」


 ドンッと心臓が殴られたような鼓動をあげた。

 体の内側から沸き上がる熱に汗をかき、私はバッと顔をあげて皆を見た。

 皆一言も喋らず画面に見入っていた。半ば茫然としたその顔は、熱に浮かされたように赤くなっている。見開かれた目はキラキラと輝いて、パソコンの光を青く反射していた。

 薄暗い喫茶店の中でパソコンだけがピカピカ光っている。その周囲に集う私達は、真冬の寒さなど感じぬくらい、肌を熱く火照らせていた。

 たった十分。捻った部分もないストレートな内容。それが、これほどまでに心を滾らせてくれるとは思わなかった。

 凄まじい作品だった。


「……おっ」

「おわったあぁっ!」


 勢いよくハイタッチをした湊先輩と千紗ちゃんはそのままカウンターに突っ伏した。机上に置かれていた設定資料やペンがバサバサと落ちていくが拾う様子はない。無理もない、ここ最近ずっと、二人共徹夜状態だったのだ。

 監督である千紗ちゃんと主なサポート役たる湊先輩が撮影から編集までずっと駆け回っていたのを私達は知っている。クリエイター気質の強い二人が、ああでもないこうでもないと話し合い、ときに喧嘩しときに号泣しときに励まし合っていたのを知っている。

 よかったよかった、と横で拍手をしている雫ちゃんと祥子さんだって同じだ。雫ちゃんも自分の絵本作成の合間をぬって映画用のイラストをたくさん描いてくれたし、皆のお夜食まで作って持ってきてくれたりした。祥子さんも「私あんまり関係ないんだけど」と文句を言いつつ、何だかんだ作業の経過管理を行いこんを詰めすぎている子を強制的に休ませたり、舞台となった施設に撮影許可の交渉をしてくれた。

 勿論私も一生懸命働いた。頑張っちゃおうかしら手伝えることはないかしらと皆の間をくるくる走り回って、お菓子をもらって一生懸命食べていたのだ。


「これいけるだろ。絶対うけるって!」


 世辞を抜きにしたってそれは素晴らしい出来栄えの映画だった。いまだドキドキと興奮が治まらない胸を押さえ、はーっと熱い溜息を吐く。

 洋画のアクションシーンのようなド迫力と、邦画のホラーシーンのような生々しいおぞましさは、数多の映画を見てきた千紗ちゃんだからこそ描けたものだろう。

 メインである怪物のぞっとするほどの威圧感と、神々しさ。それを包みこんで観客を夢中にさせる魅力は、怪物を愛する湊先輩だからこそ引き出せる。

 節々に差し込まれる愛くるしい怪物のイラストも必要不可欠だ。愛くるしくほんのりと不気味な雫ちゃんのイラストは、一滴のバニラエッセンスを振りかけるように、映画に細やかながらも豊かな香りづけをしてくれている。

 シーンが切り替わるタイミング、差し込まれる文字のデザイン、それらがベストなタイミングとシーンで挟み込まれる。センス力抜群の祥子さんの指摘がなければ、それは生まれなかった。

 色んな人に協力してもらったのだ。マスターとチョコにも。澤田さんと黒沼さんと鷹さんにも。晴ちゃんだって喜々としてエキストラをやってくれた。

 濃密な十分間。これを見ただけで怪物に対する見方は大きく変わるだろうと確信できる出来。

 この映画は私達だからこそ作ることができた。


「わ、わぁ……。すごい……! かっこいい……!」

「湊くんお疲れ様。お茶どうぞ」

「ありがとう祥子さん。……あー、ほんっとうに疲れた。この間なんか疲れすぎて、部室で怪物写真のチェックしちゃってさ。危うく部長に見られるところだった」

「あぁ? お前それ、大丈夫だったのかよ」

「咄嗟に『AVの編集してるから見ないでください!』って言って無事だった」

「無事じゃなくない?」

「部室での僕のあだ名がAV先輩になった話する?」

「まあお前にとっちゃこれもAVみたいなもんかもしれないけどさ……」

「雫ちゃん。もう一回再生してちょうだい、もう一回!」

「うん。……これ絶対いけるよ。きっと皆、怪物を好きになってくれるよ!」


 SNS用に短いバージョンも作ろうぜ。文面も考えなきゃ。どんな感じに宣伝する? なんて私達は頬を興奮に染め、わくわくと話し合った。


「とりあえず打ち上げでもしようぜ! マスター、酒持ってきてくれよ!」

「テキーラでいいかな?」


 新聞を読んでいたマスターがくっと顎を引くと、隣にいたチョコがニコニコとテキーラ瓶を人数分出した。未成年でしょ……と呆れる祥子さんを無視して千紗ちゃんがそれを皆に配ろうとしたとき、扉が開いて、店に澤田さん達が入ってきた。


「お。なんだか盛り上がってるね」

「映画が完成したのよ!」


 完成したんだ! と目をキラキラ輝かせた鷹さんが一番にやってきてパソコンを覗き込む。共に村に行って撮影をした彼女は特に私達の作品作りを気にしてくれていた。

 澤田さんと黒沼さんも寄ってきて、大人達が映画を見る。最初はどんなものだろうかと興味本位で覗き込んでいたその顔が、真剣みを帯びていく。見終わった彼らはうわぁっと悲鳴に似た歓声をあげて耳を赤く染めていた。その反応だけで彼らがこの映画にどんな印象を持ったのか知れる。


「ところで。あなた達は映画を見に来たのかしら? それともお茶でもしに?」


 祥子さんが聞いた。途端、大人達の顔が引き締まる。

 空気が一変する。ピリリと張りつめた空気の中、鷹さんが静かに溜息を吐いた。


「お茶をしに来れたのならよかったけどね」


 鷹さんが鞄からコトリと瓶を取り出した。今度は私達が表情を変える番だった。

 そこには白い石が入っていた。星尾村で見つけた、あの『願いが叶う石』だ。

 山田さんの家の地下室で見つけた白い石。私はそれを鷹さんに預けていた。彼女は澤田さんと黒沼さんの力を借りてその石を解析し、その結果を伝えるために今日ここに来たらしい。

 俺から説明しようか、と澤田さんが瓶から石を取り出した。広げた布の上に石と、少量の粉がサラサラと積もる。粉の色は灰色だった。澤田さんが石を軽く指で押すと、パリッと音がして簡単に砕ける。


「君達が石と言っていたこの物質は簡単に砕けて粉になる。……君達、この粉に見覚えはある?」


 灰色の粉。

 私は思わず顔をあげて澤田さんの顔を見た。彼は少しおかしそうに口元を緩ませ、私達の返事を待たずに答えを言った。


「黎明の乙女がばらまいている薬物。この粉は、その材料だ」


 誰かが僅かに身じろいだ衣擦れが聞こえたけれど、皆の反応はそれだけだった。

 心のどこかで勘付いていたのかもしれない。黎明の乙女がばらまくあの灰色の薬物。その原材料がこの白い石であるということを。あの部屋から見つかったことや、あの異様な雰囲気を考えれば……。

 願いが叶う石とはよく言ったものだ。夢を叶える団体、黎明の乙女。吸えば幸福になれる灰色の薬物。その原材料の石であるからこそ、『願いが叶う』なんて噂がたったのかもしれない。

 けれど。澤田さんの話はそこで終わりじゃなかった。


「『黎明の乙女の薬物』は、この粉と薬物成分をミックスさせて作られている。肝心の薬物成分のほうは、どんな代物でどこから仕入れているのか、何も分からないけれどね。大麻でもシャブでもない。未知の薬物だ」

「まあ薬物単品で吸うより、何かと混ぜた方が吸収率上がるってのもあるからなぁ……。それにしても、石って」

「えっと、その石が星尾村あたりの山でしか取れない鉱物だったりするんですか? だから聖母様は、わざわざ毎回あの村に石を取りに行って……」

「ううん、違うよ雫ちゃん。石はあの村じゃなくても取れる。というよりまずこれは石じゃない」

「え?」

「人骨だよ」


 へ、と雫ちゃんがとぼけた声を出す。

 澤田さんは笑顔のままで、カウンターに転がる石をコロコロと転がした。細長くて小さな石を。


「人の骨を砕いたもの……焼かれているし、まあつまりは遺灰かな。黎明の乙女は、遺灰と薬物を混ぜた代物をばらまいているんだよ」


 細長い石。

 よく見ればそれは、人の指の骨によく似ていた。


「…………ひっ」


 私は咄嗟に口を覆った。以前、黎明の乙女の薬物を口に入れてしまったことを思い出したのだ。

 隣で千紗ちゃんも渋い顔をしてコーヒーをごくごくと飲んでいる。初めて変身したとき、彼氏さんに口いっぱいに粉を詰められたことを思い出したのかもしれない。

 もう一度村に行ったんだ、と鷹さんが低く呟く。


「星尾村の墓場で山田さんの旦那の墓を調べてみたんだ。納骨されているはずの骨はなくなってたよ。胸騒ぎがして、申し訳ないけれど他の墓も調べてみた。……全部なくなってたよ。盗まれてたの。あの村の墓場に、もう骨は一つも残っていない」

「……し、信じられないっ! なんて酷いことを!」

「母親への復讐か知らないけれど、最初に薬物との混ぜ合わせを試したのは、父親の遺灰だったんだろうね。予想以上に相性がよくて味をしめたとか、そういう感じかもしれないね」


 更に残酷なことを言うと、と鷹さんは一度言いづらそうに唇を舐めて、ゆっくりと話す。


「聖母様は墓の骨がなくなった後、新しい人骨を作っていたみたい。黒沼があの地下室を調べてくれて分かったの」

「新しい人骨を作る……?」

「母親に人を食べさせていたんだ。生きてる人を連れてきて、あの部屋に一ヵ月も放置すればいい。肉は母親のご飯に、骨は薬の材料にしていたの」


 ゾッとする話に私は呻いた。湊先輩が俯く私の背中をさすってくれる。あまりにむごすぎる話に、頭の奥がくらくらした。

 鷹さんの説明に雫ちゃんは更に顔を真っ赤にして憤った。わなわなと震える彼女は、今にも怒りで姿を怪物に変え、黎明の乙女の施設にまた乗り込もうとする勢いだった。

 祥子さんが宥めるように雫ちゃんの背を叩いた。彼女は青ざめた顔で溜息を吐く。


「そんな目立つことをしているのに、聖母様はまだ捕まえられないの?」


 墓荒らし。殺人罪。薬物所持、その他諸々……。聖母様とは名ばかりで、その実質はただの犯罪者である。これだけ目立つ行いばかりしているのだ。とっくに足が付いていたっておかしくないだろうに、いまだ聖母様の足取りは掴めぬままだ。

 宇宙パワーとやらで何とかできないのかとチョコを見るも、彼は嘆息して肩を竦めるだけだった。宇宙パワーとやらも万能ではないらしい。


「偽聖母……あー、うちの母親もまだ入院してるけど、あの様子じゃ聖母の話も聞けそうにない。すっかりいかれちまってぼけーっと空ばっかみてやがるよ。献身的に尽くした聖母に裏切られたのが相当ショックだったんだろうな。実の娘より優先して人生捧げてた存在だもんな。ざまあねえよ……」

「残された信者達はどうしてるんだろうね」


 雫ちゃんがそっと千紗ちゃんに寄りそうように言った。さぁな、と千紗ちゃんは雫ちゃんにどかっと寄りかかる。深いブルーの髪とキラキラ光るイエローの髪が絡まって、カフェの照明に艶めく。

 マスターが読んでいた新聞の一面には、楽土町で発生した様々な事件が載っていた。

 聖母様がいなくなってから、信者達が引き起こす凄惨な事件は増えていくばかりだ。主だった事件は青桐組澤田さん警察黒沼さんが何とかしてくれているけれど、どうしたって討ち漏らしはある。そうなれば私達の出番だ。市民に被害が拡大する前に、怪物に変身して、死なない程度に敵をやっつける。

 彼らは場所を選ばず犯行に及ぶ。怪物の姿はどうしても一般人に晒される。そのとき、一般市民が悲鳴をあげる相手は、犯人ではなく怪物なのだ。

 皆を守るために戦っても、その皆に石を投げられる。マスコミは騒ぎ立て怪物を悪役にしたてたセンセーショナルな記事をばらまく。鷹さんはせめて自社だけでもと怪物の味方をする記事を書いてくれようとしたけれど、上司にNOと言われれば新卒の彼女にそれ以上打つ手はない。


「こんな状況でイメージアップ映画を流したって、うまくいくの?」


 チョコがぼそっと呟いた言葉は重い沈黙として広がった。

 内心、この場にいる誰もがぼんやり思っていたことだった。

 イメージアップを狙っているのに怪物のイメージは悪くなっていく一方。下手なタイミングで出来上がった映画を流したって受け入れられるかは分からない。どれだけ素晴らしい作品だろうと、見る人が最初から怪物を拒絶していれば意味はない。映画だろうと、写真だろうと、絵本だろうと……。


 英雄になりたいわけじゃない。ただ、味方だと信じてもらいたいだけだ。

 黎明の乙女という巨悪を倒すまでの間だけでいい。それが終われば後はどうされたって構わない。

 ……難しいわよね。だって、気付いていなかったとはいえ私がたくさんの命を奪ったことは事実だもの。それに酷く恐ろしい見た目をしているわ。黎明の乙女の悪事だって霞んでしまうくらい。

 皆が怪物を嫌うのは当然よ。

 可愛くて可憐な魔法少女の姿に、私は絶対になれないのだから。


「――――大丈夫!」


 ドンッとカウンターを叩く音に飛び跳ねた。パチパチ瞬かせた視界に、真剣な顔をした雫ちゃんが映る。彼女がカウンターに叩きつけたテキーラの瓶が、チャプンと琥珀色の中身を揺らした。


「大丈夫だよ……。絶対になんとかなる! なんとかしてみせる!」

「し、雫ちゃん?」

「上手くいくよ。だって、わたし達は魔法少女なんだよ。これまでたくさんの困難があって、何度も死にそうになって、それでもいつだって乗り越えてきたじゃない!」


 眼鏡越しの青い目がキラキラと輝いている。引っ込み思案の彼女は皆の視線を浴びて少し恥ずかしそうだった。けれど真っ赤な顔を隠すこともなく、彼女は必死に言葉を震わせる。


「魔法少女ブルーは何度傷ついたってすぐに立ち直れるの。街の皆がありすちゃん達に石を投げてきたって、わたしが盾になるよ! その間にありすちゃん達が、怪物は味方だって何度も叫べばいい! 少しずつでも仲間になってくれる人は増える。最後にはきっと皆がわたし達を応援してくれる」


 彼女の青い瞳から目が離せない。青い髪が広がって、吐き出される熱い思いに震えている。

 大丈夫だよ、と雫ちゃんは大きな声で叫ぶように言った。


「今が、勇気を出すときなんだよ!」


 熱い叫びがカフェの中に広がって。ジィンと空気が震える音がした。

 私が何かを言うよりも先に、祥子さんが雫ちゃんの手からテキーラの瓶を取った。蓋を開け、マスターが置いた人数分のグラスにテキーラを注いでいく。


「そうね。きっと、何とかなる。……だってあなた達は魔法少女なんだものね」


 祥子さんはツンと鼻を尖らせてそう言った。それを聞いた鷹さんがふっと笑って、グラスを一つ取る。澤田さんと黒沼さんも笑い合うようにグラスを取った。


「君達なら大丈夫。警察にもヤクザにも打ち勝った子供達だろう? 宗教団体くらい訳ないさ」

「こんなに頼もしい大人達が後ろ盾にいるんだぜ。弱気になられちゃ困るなぁ」

「パーッと、景気づけといきましょう!」


 未成年飲酒を止める大人がいない……と苦笑しながらも湊先輩がグラスを取る。それから彼はぼうっとしたままの私を横目に見て微笑んだ。いつの間にかグラスを持っていないのは私だけだった。

 私はおそるおそるグラスを取る。それから顔をあげれば、皆が私を見つめていることを知った。まっすぐな目だった。誰も、さっきまでの弱気な色は浮かべていない。

 喉の奥がぐっと熱くなる。まだお酒を飲んでもいないのに。

 ……そうね。ええ、そうね。

 これまでずっと戦い続けてきた私達なら、絶対に大丈夫。


「――――黎明の乙女を倒しましょう!」


 乾杯! と私の言葉に皆が一斉にテキーラを煽った。喉が焼けるように熱くなって、強いアルコールの香りが鼻に抜けた。

 ちっとも好きな味じゃないはずなのに。それが妙においしく感じて、私は大きな声で笑ったのだ。




「んむ」


 私は朝日に目を覚ました。どうやらソファーに倒れ込んで、そのまま眠ってしまったらしい。

 辺りに皆が死屍累々と転がっていた。マスターでさえカウンターに座って静かに目を閉じている。テーブルの上にはからっぽの酒瓶がいくつも転がって、朝日にキラキラと瞬いていた。

 頭はスッキリとしている。お酒なんて普段からあまり飲まないし、千紗ちゃんのガールズバーで飲んだことがあるくらいだけれど、私は結構お酒に強いらしい。二日酔いにもならないみたいだ。

 気分は晴れやかだった。


「……ん。うぅ……」

「あ、千紗ちゃん。おはよう」

「お……あ? 何……。誰だお前…………」


 床で寝ていた千紗ちゃんがしょぼしょぼ目を擦って起き上がる。痛む頭を押さえて呻く彼女に笑って、グラスに水を注いで渡す。


「ふふ、まだ寝ぼけてる。私よ。ありす」

「あ? ありす……? ああ……うん」


 白い喉がコクリと上下して水を飲む。寝ぼけていた目がゆるりと瞬き、次の瞬間彼女はバチッと目を開けた。

 指からグラスが滑り落ちた。ガシャンと音がして、ガラスが飛び散る。


「ありす」


 私は自分の顔から笑みが消えていることに気が付いた。


「……私、ありすよ?」

「…………ああ。し、知ってるよ。分かってる。……一瞬思い出せなかっただけだよ。魔法少女ピンク。怪物ピンク。覚えてる。覚えてるさ」

「姫乃ありすよ」

「わか…………ってる、よ」


 千紗ちゃんは何度も首を振って、ありす、姫乃ありす、と私の名前を繰り返す。寝ぼけてただけだと言って、彼女はいつも通りの笑顔を見せた。

 ……ああ、忘れられたんだなと思った。

 白々しい朝日が千紗ちゃんの顔を真っ白に照らしていた。


 姫乃ありすは、いずれ皆の記憶から消える。





「あれ、ありす。何を見てるの?」

「私が子供だったとき」


 私はテレビに向けていた顔を振り向かせ、お仕事から帰ってきたパパに微笑んだ。

 パパは懐かしそうに頬を緩め、私の隣に座る。私の膝の上でアルバムを見ていたチョコがころんと転がってぬいぐるみのフリをした。

 テレビに流れているのは懐かしいホームビデオだ。四歳くらいの自分がふくふくの頬を膨らませ、嬉しそうに誕生日ケーキを頬張っている。


「急に見たくなっちゃって」


 クッションに背を預けて口元を緩める。自然に笑ったつもりだけれど、多分上手くいっていないのだろう。隣に座るパパが心配そうな目で私を見つめているのが、気配で分かった。


「……何かあった?」

「何かって、なぁに?」

「なんだか元気がないように見えたから……。お友達と喧嘩した? もしかして、あの湊くんって男の子と?」

「ううん、違う。喧嘩じゃないの。湊先輩とはとっても仲がいいわ」

「そ、それじゃあまさか。恋の悩みだったりするのかなっ? み、湊くんとのっ?」


 パパの発言に私は思わず噴き出した。あははと甲高い笑い声をあげ、パパのもちもちした肩に額をぶつける。


「やだ! もう、パパったら。湊先輩とはただのお友達よ。そんな関係じゃないわ」

「そうなの? なんだぁ。あの子がありすの恋人だったら安心だと思ったんだけど。彼はうちのママみたいに優しい人だからね……」

「なぁにそれ。どういう意味?」

「パパはママの優しさに惚れてお付き合いをはじめたんだ。ありすにも、そんな優しい人と一緒になってもらいたいんだよ」


 確かに二人共すごく優しいけれど、と私はクスクス笑ってパパの体にひっついた。


「……ねえ。パパとママのことを聞かせて?」

「ぼくたちの話?」

「うん、聞きたいの。今」


 パパが私のことを忘れるのはいつだろう。

 もう少し時間がたてば、きっとパパとママは私のことを忘れてしまうだろう。私の顔を見たってそれが娘だと思い出すこともできなくなるのだ。

 私達はもうすぐ他人になる。その前に少しでも、二人のことをたくさん知っておきたかった。

 たとえ最終的には私自身が、全てを忘れてしまうのだとしても。


「パパとママは、同じ会社で出会ったんだよ」

「うん」

「ぼくは会社の営業だったんだ。だけどいつも契約が取れなくてね。気弱な性格もあって、いつも皆から小馬鹿にされていた。地味な見た目や、不似合いに可愛い姫乃って苗字をからかわれたりしてね」

「……うん」

「そんなある日、パパが落とした名札を拾ってくれたのが事務員をしていたママだった。彼女もぼくの噂を知らない訳がないのにね。苗字を見ても馬鹿にせず、『可愛くて素敵な苗字ですね』って笑ってくれたんだ」


 その言葉にどれほど救われたか、とパパはしみるように言った。とろけるような笑顔に、私も思わず頬をほころばせる。


「それからママはよくぼくに話しかけてくれたんだ。ママは当時から会社でも有名な美人さんでね。彼女と何度も話しているうち、自然と皆もぼくをからかわなくなった。それからぼくたちはデートをして、結婚して……そしてありすが生まれたんだ」


 パパの声はずっと優しかった。春のあたたかな日差しを思うような、優しく幸せな声だった。本当にママのことを愛しているのだろう。なんだか嬉しくなって、私はふくふくと笑う。


「今では姫乃っていう苗字が大好きだよ。この苗字がなかったら、ママにも出会えなかっただろうからね」

「私も大好きよ。姫乃って苗字も、パパのことも」

「ふふ。ぼくも大好きだよ、ありす」

「……あら何よ二人共。ママをほうっていちゃいちゃして」


 台所からやってきたママが、不意に後ろから抱き着いてきた。石鹸と甘い花の香りがした。私はきゃあきゃあはしゃいで、ママの話をしていたのよと笑った。

 二人の出会いの話をすれば、ママは照れたように顔を赤くしてパシパシとパパの背中を叩く。「だってパパったら可愛かったんだもの」と当時の記憶を思い出して照れるママの方がよっぽど可愛くて、私とパパは顔を見合わせてニコニコ微笑んだ。


「はじめてのデートでは遊園地に行ったんだよ。ほら、あの今は閉鎖してしまった動物園と水族館の傍にある……。あそこは思い出の場所なんだ。観覧車のてっぺんで告白をすれば一生を添い遂げるカップルでいられるなんて噂を試そうとしたっけなぁ」

「ありすが小さい頃もよく三人で行ったのよ。あなたったら、ソフトクリームで顔中ベタベタになって大変だったんだから」


 パパとママは微笑みながらいろんな話をしてくれた。二人の出会いの話から、小さい頃の私の話まで……。

 そうだ、とママが棚から一本のDVDを取り出した。いそいそとそれをテレビにセットする。


「ママの大好きなビデオがあるの。せっかくだから、これも皆で見ましょうよ」

「どんな内容なの?」

「これはね、ママの夢が叶った日のビデオよ」


 ふっと画面が切り替わる。

 真っ白なその映像を見て、私はあっと声をあげた。


「病院?」


 白い病室にカーテンが揺らいでる。

 ベッドの上に白い服を着たママが座っていた。その腕の中に、小さな小さな赤ちゃんが抱かれている。

 私だ、とすぐに分かった。


『あら、大きなあくび』


 柔らかい声が聞こえる。

 ママが指でふくふくとした頬を撫でれば、幼い私はもにゅもにゅと唇を動かして、またふわぁと大きなあくびをした。


『どんな夢を見ているの。幸せな夢かしら?』


 ママがふっとこちらを見る。『パパったら泣き虫ね』と笑う声と、画面外の誰かが鼻を啜る音が聞こえて、画面が少し揺れた。

 子守歌が流れている。

 ママの緩やかな声が、幸福になって降り注ぐ。


『あなたに出会えて私は幸せよ』

『んむ』

『あなたに出会うことが、私の夢だったのよ』

『あう。ぶ』


 柔らかい日だまりのような光景だった。

 清潔な白い部屋に。ママの声が柔らかく揺れる。


 ありす。かわいいかわいい、私のありす。

 生まれて来てくれてありがとう。

 ママは今、とても幸せよ。


「…………」


 無言で映像を見つめる私の頬に、つっと雫が伝った。瞬きをするたび目から大粒の涙がぽろぽろと零れていく。

 ママがそっと私を抱きしめて、パパに似て泣き虫なんだから、と優しく笑った。

 それは映像の中のママと変わらない、優しい笑みだった。


「ママには今も夢があるのよ」

「…………」

「あなたが大きく育ってくれること。立派になってくれること。それがママの夢なのよ、ありす」

「……ぼくの夢はありすが幸せになってくれることだよ。ありす、きっと幸せになるんだよ。ぼくはいつだって君を愛しているよ」


 これ以上耐え切れなかった。私は二人に縋りつき、大きな声をあげて泣いた。

 赤ちゃんみたいに泣く私を、二人の手があたたかく撫でてくれた。


「私も愛してるわ。二人のことを、ずっとずっと愛しているわ」


 ごめんなさい。二人の夢を叶えてあげることができなくて、ごめんなさい。

 大きくなった姿を見せたかった。立派になって楽をさせてあげたかった。幸せになった姿を見せて笑顔になってほしかった。

 大好きよ。大好きよ。私はパパとママのことが、いつまでも大好きよ。


「ずっと愛してる」


 だからどうか。私を忘れないで。

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