第72話 乳白色の幸せ

 奇妙な格言には覚えがあった。黎明の乙女の施設に潜り込んだあのとき、壁や受付に貼られていたポスターにまるで同じ文言が書かれていたのだ。


「……どういうこと?」

「…………」

「ここは楽土町じゃないのよ。離れた村に、なんで黎明の乙女の言葉があるのよっ」

「分からないよ! ……父さんは何も言ってなかった。こんなものがあるなんて、一言も」


 湊先輩は動揺に目を泳がせていた。無理もない。今回旅行先を星尾村に決めたのは、彼のお父さんの意見があったからだ。

 彼のお父さんの故郷であるという星尾村。楽土町と何も関係ないはずの村で発見してしまった、宗教団体黎明の乙女の格言。

 関係などあるわけないと思い込んでいた二つの街が、この瞬間、一気に繋がりを持ってしまったのだ。


「……もう少しここを調べましょう。詳しいことは、外に出てからよ。鷹さん達にもこの紙を見せるの」


 私はなんとか呼吸を整えてパキッと固い声で言った。

 こんな暗くて息苦しい所で悩んでいたって仕方ない。今の私達には外の新鮮な酸素が必要だ。考え事をするにも、パニックを落ち着かせるためにも。

 とにかく今は情報を集めようと思う。紙だけでなく、この部屋には他にも情報が落ちているかもしれない。狭い空間だ。そう時間はかからないだろう。


 私はもう少し机を調べることにした。勉強机にはいくつか引き出しがある。下段から一つずつ開けていくと、ほとんどが空の引き出しの中で、最後の一段だけ妙な引っかかりがあった。中に何かが詰まっているらしい。

 隙間から見えたのは大量の紙束だった。バコッと半ば強引に引っ張ると、引き出しの中から大量の紙が飛び出して宙を舞った。

 それはお手製のテスト用紙のようだった。達筆な手書きの問題文がびっしりと書かれている。イラストに描かれた花壇にチューリップの花はいくつ植えられているか、大正天皇が崩御された際元号をめぐって引き起こされた事件の名は何か……。小学校レベルから高校レベル程度まで問題は様々だ。

 問題文の達筆さに比べ、解答欄に書かれた文字はお世辞にもきれいとは言いがたい文字だった。正直点数は悪い。私と同じくらい……いや、もしかすると私よりも頭が悪いかもしれない。心なしか採点のペケマークも苛立ったように赤い尻を跳ね上げていた。


「うげ」


 テストを何となく裏返して息を詰まらせる。おびただしいほどの格言が書き殴られていたのだ。解答欄の文字と同じ筆跡で、私の夢を叶えましょうだの、世界はきっと夢と希望で溢れるでしょうだの。見ているだけで、モヤモヤと胸が苦しくなる。

 表面の問題と、裏面の異様な落書き。しばし考えてからとりあえず数枚を拝借しておいた。

 引き出しをしめようとしたとき、その奥にまだ何かが詰まっていることに気が付いた。テスト用紙が挟まっているのだろうかと覗き込んだけれど、どうも違う。

 小壺だ。妙なところに妙なものを隠すな、と思いながら蓋を開け中を覗き込んでみる。


「あ……白い石」


 小壺には灰色がかった砂がたっぷり詰まっており。その中に白い石がいくつも埋まっていたのだ。

 指でつまんで取り出してみれば、それは石というよりも乾燥した木の枝に似ていた。スカスカとして軽い。固いけれど、少し力を込めればパリッと砕けそうだった。

 これが例の石なのだわと直感的に思った。願いを叶える魔法の石。ずっと探していた不思議な石。

 けれど、あれほど石に抱いていた思いはすっかり消えていた。今はただ異様なほどきな臭いこの家に対する恐怖ばかりが増していく。

 山田さんの家は。星尾村は。一体、何なんだ……?


「うわっ!」


 背後から聞こえた湊先輩の悲鳴と、ドサドサ物が落ちる音に私は慌てて振り返った。

 転がった彼のライトが壁際を照らしている。そこには本棚があった。しかし中に詰まっていたらしい大量の本は今、転んだ湊先輩の上に散らばっていた。


「やだもう。何やってるの?」

「はは、ごめん。一冊見てみようと思ったら、他の本まで落ちちゃって」


 本棚にも本がみちみちに詰まっていたらしい。ザッと見えたタイトルも、小難しい勉強用の参考書ばかりだった。漫画も絵本も一冊だってない。タイトルを見るだけで頭が痛くなってくる。

 湊先輩の手を引っ張って立たせた。その拍子にトンと背中を本棚にくっ付けたとき、ふと私は違和感を感じて振り向いた。


「湊先輩。ねえ、見てこれ」

「何だこれ……壁に穴?」


 今の衝撃で少しずれた本棚。その後ろに、ぽっかりと開いた黒い穴が見えたのだ。本を吐き出し軽くなった本棚を、湊先輩が横に押す。

 するとその奥から現れたのは穴というよりも、通路だった。真っ暗な道の先。数歩進んだその先に黒い扉があるのが、ライトの光に映っていた。

 私達は数秒の間ぽかんとその通路を見つめていた。それから湊先輩が乾いた笑い声をあげ、おかしそうな声で言う。


「地下の隠し部屋に、隠し通路だって? 何だよこの家。本当に忍者屋敷じゃないか!」


 忍者屋敷なんて楽しそうな場所でないことは私も湊先輩も分かっていた。

 私は何かに突き動かされるようにそっと暗い通路へと足を踏み入れた。ありすちゃん、と湊先輩がためらいながら後をついてくる。

 黒い扉のドアノブを掴めばひやりとした冷たさが指を震わせた。私はふ、と顔をあげて扉を凝視する。


「……ありすちゃん」

「うん」

「開けるの?」

「開けるわ」


 私はドアノブを掴んだまま固く言った。開けなければいけない気がするの、と鋭い声を繰り返す。

 黒い扉の向こうから生ぬるい風が吹いてくる。幻覚だ。だってここは地下室で、風なんて吹いていないはずだから。それでも私の肌は、濁った風の臭いを感じていた。ドロドロと煮詰まった恐怖の臭いがする。

 この先には何かがある。

 恐怖に今にも心臓が張り裂けそうなのに。私はどうしてだか、この先へ進まなければならない気がしていた。


「僕が開けるよ」


 私の意思が固いことを悟った湊先輩が前に出た。私を背に隠し、緊張した面持ちで扉の先を睨む。

 行くよ、と短い言葉を吐いた直後。彼は扉を開けた。




 腐ったミルクの臭いがした。


「…………あ」


 白い。

 とろけるように、まろやかに、白い。

 それは、乳白色で満たされたおだやかな部屋だった。


 壁も床も天井もすべて、乳白色のペンキがべったりと塗られていた。部屋の中は明るい。壁にかかったライトが優しく光っているからだ。

 部屋の中には大量のぬいぐるみやクッションが溢れかえっていた。他にも絵本やつみきが散らばっている。全て、色は白い。

 部屋の中央には小さなベビーベッドが置かれていた。天蓋から下りるたっぷりのレースカーテンがベッドを白く囲んでいた。

 幸福な部屋だった。まるで、生まれたての赤ちゃんのために用意したような、そんな部屋だった。

 地下室の奥に眠っていたのは、そんな不思議な部屋だった。


「酷い臭いだな」


 湊先輩が顔をしかめる。そう、この部屋が幸福なのはその見た目だけ。部屋に漂う香りは酷い悪臭だった。

 分厚く塗られたペンキの白色に混じって、所々茶色や黄色や赤色の汚れがついている。

 ぬいぐるみやクッションはどう見ても製造から数十年は経過しているデザインだ。すっかりくたびれ、汚れきっている。


「…………」


 ありすちゃん? と湊先輩が止めるのも聞かず私はふらりと部屋の中央に歩み寄った。その先にはベビーベッドがある。

 近付いてもおぎゃあという鳴き声は聞こえなかった。寝ているのだろうか、それとも。

 分厚いカーテンを指で払う。レースカーテンを一枚一枚、慎重に剥がしていく。すると、ぷぅんと嫌な臭いが強くなった。腐ったミルクと、小便と大便の臭い。

 最後のカーテンを開いたとき。私はベビーベッドに横たわるそれを見た。

 ベビー服を着た老婆の死体だった。


「…………っ!」

「うわ!」


 思わず腰が抜けそうになった私を湊先輩が支えてくれる。けれど彼の手はギュウッと痛いほど私の肌に食い込んでいた。彼の目も、ベビーベッドを凝視して震えている。

 ベビーベッドには大量のシーツと白い石が転がっていた。そのどれもが糞尿で汚れている。

 老婆が着ているベビー服は、おそらく通常サイズのものを切って縫い合わせたのだろう。酷くツギハギだらけで、これまた酷く汚れている。

 服から覗く老婆の手足は骨と皮ばかりに細かった。垢で肌はてらてらと真っ黒。ぽかんと開けっ放しの口に、歯はもう一本も残っていない。

 ベビーベッドに眠る老婆の死体。それはあまりにも異様な光景で、ジーン……と脳味噌が真っ白になっていくような恐怖が込み上げてきた。


「出よう。出よう、ありすちゃん」

「…………」

「見ちゃだめだ。ありすちゃん。出よう、ほら」


 湊先輩が強引に私をカーテンの外に連れ出した。繋いだ手は汗でびっしょり濡れていた。彼はそのまま白い悪夢の部屋から私を連れ出そうとして。

 そしてぬいぐるみの山から飛び出してきた何かに襲われた。


「あっ!?」

「あ――――っ! ああぁ――っ!」


 オバケだと思った。

 それはボサボサの髪を振り乱して暴れる。細く伸びた爪で何度も湊先輩を引っ掻き、開いた口から涎を撒き散らす。ズタズタに裂けた服から伸びる手足は木の枝のように細く、何故かたくさんの歯型がついていた。

 私は腰を抜かして絶叫した。喉が赤く痛むほど、胃から悲鳴を振り絞る。張りつめていた恐怖が爆発して、パニックに陥っていた。

 湊先輩も同じくパニック状態になっていた。彼は悲鳴をあげ、けれどぐっと奥歯を噛み締めたかと思うと、次の瞬間には全力で目の前の何者かを殴ろうと拳を振りぬいた。


「っ! あっ? お、お母さん……っ?」


 けれど湊先輩はビクッと途中で拳をとめた。目を白黒させ、目の前の人間にきょとんとした声を出す。泣きじゃくっていた私も、その言葉にひくっと喉を震わせながら顔をあげる。

 ボサボサの髪、血走った目、やせ衰えた四肢。けれど面影は残っている。

 その人は、本物の聖母と共に逃げたはずの偽聖母。千紗ちゃんのお母さんだった。


「ここから出してください!」


 彼女は絶叫する。一体何日水を飲んでいないのだろう。ガサガサの声は砂漠の砂よりも乾燥しきっていた。

 彼女はすっかり見違えていた。悪い方に。約一ヵ月前に聖母様と逃げだした彼女がなぜここにいるのだろうか。こんな姿になって。


「……せ、聖母様が私をここに連れてきたのです。隠れ家があるからと。慣れ親しんだ家なのだとおっしゃって。そろそろ様子を見に行かなければならない時期でもあるからちょうどいい。しばらく身を隠していた方が安全よと……。けれどあの方は私をここに連れてくると同時に閉じ込めた。そろそろ薬の材料が切れることだからと言っておりました。材料とは一体何のことなのです? なぜ私はこんな地獄に閉じ込められたのですか? あれから一体何ヶ月がたったのです。私がここに来てから一体どれほどの月日がっ?」


 聖母様と偽聖母様が失踪してから一ヵ月程度しかたっちゃいない。たった一ヵ月を半年かそこらと誤解するほどに彼女の精神は追い詰められていた。

 彼女はたどたどしい説明を何度も繰り返す。隠れ家、慣れ親しんだ家、様子を見に行く……。支離滅裂でいまいち掴み切れない発言も、繰り返されるうちにだんだんと輪郭を濃くしていった。

 ありすちゃん、と隣に座る湊先輩が呼んだ。彼は険しい顔をしていた。きっと私の顔も同じ表情になっていることだろう。


「これは、あくまで自論なんだけど」

「……うん」

「この家に住んでいたのは山田さん一人じゃない。この家に住んでいた人間は二人だった」


 湊先輩は眉間にしわを寄せ、鋭く空中を睨んでいた。


「山田さんには娘がいた。その子は、心か体か何か知らないけれど、問題があった。山田さんは娘をさっきの座敷牢に閉じ込め育てていたんだ。……けれどあるとき娘が抵抗して、逆に山田さんを閉じ込めた。娘は定期的にこの部屋を訪れ母親の世話をしていた。彼女が死ぬまでずっとね」


 娘がこの部屋を作ったんだろう、と湊先輩は壁を撫でる。ざらついた土壁の汚れが指につく。さきほどの座敷牢の壁とは少し材質が違う。

 この部屋は後から娘が増築したのだろうか。自分の母親を閉じ込めるためだけの部屋として。

 千紗ちゃんのお母さんは壁に背をつけすすり泣いている。私と湊先輩はその向かいに座っていた。ベビーベッドの方を向くのが怖かったからでもある。あそこから漂ってくる異様な空気から、少しでも離れたかった。


「村の人達は山田さんが急に消えたと言っていたけれど、間違いだ。彼女はずっとここにいた。ただ、誰にも見つけられなかっただけだ」

「…………」

「大きくなった娘は村から離れ都会に出た。そしてそこで名をあげた。彼女は周囲から慕われる立派な人間になり、こう呼ばれるようになった」

「……聖母様」


 最後の言葉は私が言った。湊先輩はまつ毛をゆるりと瞬かせて頷いた。

 ここは。さっきの座敷牢は。聖母様の実家なのだ。


「ベッドで死んでるあのおばあさんが山田さんなのね? いつ死んじゃったの。聖母様は、いつから山田さんを閉じ込めていたの?」

「さぁ。僕が言ったのは半分以上妄想でしかないから。……ただもしこの妄想が正しいのだとすれば、山田さんも聖母様も、それぞれ少なくたって一年以上は閉じ込められていたんじゃないかな」


 湊先輩は言った。私に配慮してマイルドな言い方をしているんだろうなと思う。一年どころじゃないだろう。もしかすると五年や十年閉じ込められていたっておかしくない。

 日の光もささない悪夢みたいなこの部屋。私だったら三日閉じ込められただけでも、気が狂ってしまうだろうに。

 それが、一年以上。


「千紗ちゃんのお母さんをここに閉じ込めた理由は?」

「途中で仲違いしてしまったのかも。計画の邪魔になって、閉じ込めて餓死させようとしていた? いやでも、ううん」

「薬って? 材料って?」


 ぽんぽん出てくる疑問を湊先輩にぶつける。彼だってまだ何も分からないだろうに。それは……と彼が思いついた返答をしようと口を開きかけたとき。ふと鼻に異臭が香った。

 千紗ちゃんのお母さんがふと顔をあげて、私達の後ろを見た。


「あ」


 私達は振り返った。

 目の前に老婆の顔があった。


「にゃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー」


 赤ちゃんの鳴き声を引き潰したような絶叫だった。ささくれだったその声が、目の前の老婆のニチャニチャ糸を引く口から発せられている。垢だらけの黒い顔の中で、目の黄色と口内の赤色だけがクッキリ浮かんでいた。

 ベビーベッドで死んでいたはずの老婆だった。

 死んでなかった。まだ、生きていたのだ。


「ぁーーーーーーっ。ぁゃーーーーーーーっ」

「ゴッ」


 老婆が拳をまっすぐ湊先輩の頭に振り下ろす。その手には石が握られていた。細腕から想像もできぬほどの力に、湊先輩はガクリとその場に崩れ落ちる。

 二発目が振り下ろされる寸前、私は咄嗟に湊先輩の体を抱き寄せた。


「あっ。いや。やだ……」


 悲鳴は情けない掠れ声にしかならない。あまりの恐ろしさに体中からストンと力が抜けていた。ぐったりと気絶している湊先輩の体が重く、立ち上がることもできない。なんとか後ずさりをしてもすぐ壁に背中が当たる。

 ガチャン、と金属音がして老婆の体が揺れた。骨ばった拳が鼻先を掠める。

 老婆の足に頑丈な足かせが付いていることに気が付いた。ベビーベッドにくくりつけられた鎖がピンと張っている。しっちゃかめっちゃかに暴れる彼女の手は、壁にピッタリ背中をくっつけた私達にギリギリ届かない。


「こ、来ないで。あっち行って!」


 けれど本当にギリギリだ。限界まで体を壁に寄せても、湊先輩の靴を老婆の爪がカリカリと引っ掻いている。少しでも身動ぎをした途端に、老婆は私達を引きずり寄せることだろう。

 振り返って千紗ちゃんのお母さんを見たものの、彼女は恐怖に失神していた。やせ細った白腕にクッキリと浮かぶ歯型を見て、胃の奥からじわじわと吐き気が込み上げてきた。

 ここに食べ物らしきものはない。恐らく老婆は、千紗ちゃんのお母さんを食べようとしていたのだ。約一ヶ月間の間ずっと。


「あっ」


 足を掴まれた。

 考える間もくれず、老婆は部屋の中央へと私の体を引きずっていく。咄嗟にできたのは湊先輩を壁際に押しつけることだけだった。

 逃げることもできずズルズル引きずられていく。やめて、と泣き叫んでも老婆は止まってくれなかった。太ももに刺さる爪が痛くてたまらない。


「いやっ……縺ゅ≠縺ゅ▲!」


 咄嗟に変身の言葉を叫ぶ。集中しきれない状況でも、辛うじて両腕を触手に変えることができた。

 目の前で人間が怪物になったのだ。けれど老婆は一切反応を見せず、赤黒い歯茎で触手に噛みついた。重い激痛が走る。歯茎はヂュウヂュウと吸い付くように触手をむしり、老婆の口端から血のように粘液がしたたった。

 唖然とする私に老婆が血走った目を向ける。あっ、と思った直後。私は老婆に押し倒され、首を絞められた。

 ビクンと体が痙攣する。


「ばにゃっ。ばにゃ。ばにゃほっ」

「っ!」

「はあお。はにゃぉっ。はぁほおぉ」


 反射的に吐き出した息が涎とまじってぶくぶく泡になった。

 老婆は奇声を発しながら私の首を絞め続ける。必死に抵抗した。触手を地面に打ち付け、足でその体を蹴飛ばそうとした。けれど老婆の体は夢中で私にしがみ付いて、首に込める力をだんだん強くしていくばかりだ。

 視界が真っ赤になっていく。老婆の奇声も、しだいに聞こえなくなっていく。 


「はにゃほ」


 老婆の目が私の顔を覗き込んで何かを言った。その目がツヤツヤと悪夢みたいに輝いていた。

 彼女の後ろに誰かが立っているのが見えた。


「はにゃ、ッ」


 ぽんっ! と音がして老婆の頭がへこんだ。


「え」


 首の拘束が緩み、流れ込んできた酸素に思い切り咳き込んだ。

 涙のにじむ目を何度も瞬かせる。ぼやける視界にバタバタと痙攣する老婆の体が映っていた。頭はもう人間の形をしていない。スイカ割りの後みたいになった老婆の背後に、拳を振り上げるおじさんがいた。


「チョコ」


 パパとよく似たぽよぽよのお腹が小刻みに痙攣していた。干しブドウみたいにつぶらな瞳がギラギラと妙な光り方をしていた。チョコは食いしばった歯から血を垂らし、凄まじい形相で老婆をぶっていた。


「ン――――ッ!」


 チョコが手を振り上げておろすたび老婆はどんどん人間じゃなくなっていく。私は喉からぐるぐると変な音が鳴るのを聞きながら、好きなお菓子のことを考えることにした。ぐちゃぐちゃに潰れた苺ムース。靴底で踏みにじったカスタードクリーム。産毛が生えたミルフィーユ。

 今踏みつぶされた頭蓋骨から飛び出したのはカラフルなゼリービーンズだ。■■■じゃない。


「ありすちゃん」

「…………ヂョゴ」

「怖かったねぇ」


 血だらけになったチョコが『終わってしまった』老婆を捨てて、涎を垂らす私を抱き上げた。ぬるついた手が背中を優しく叩く。チョコにしみついた血の臭いが気持ち悪いとはどうしても言えなかった。

 むちゃくちゃになった老婆から苺ソースが溢れていた。それは白い床と混じり合うと、可愛いピンク色に見えた。

 私の大好きな色だ。


 足音が聞こえてきた。ありすちゃん、湊くん、と血相を変えた鷹さん達が飛び込んできて、部屋の惨劇を見て一層顔を白くする。雫ちゃんが甲高い悲鳴をあげて、その場に力なく座り込んだ。


「何があったの……」


 鷹さんの質問に私は何も答えられなかった。

 聞きたいのは、こっちの方だ。





「また来いよぉ」

「はい。近いうちにまた、必ず」


 車が角を曲がれば、バックミラーに映っていた手を振る村長さんの姿も見えなくなった。

 鷹さんがハンドルを回す。誰も喋らぬ静かな車内に、彼女の声だけが低く響く。


「澤田と黒沼を連れてもういちど村に行ってみるよ。星尾村について、もう少し詳しく調べておきたいから」


 みんな疲れたでしょう、寝てていいよ。と鷹さんは言ってくれたけれど、私達は全員目を開けたまま窓の外をぼんやりと眺めていた。

 時々タイヤが小石を踏む音だけが一番うるさかった。次にうるさいのは、三列目のシートに横たわっている千紗ちゃんのお母さんがぶつぶつ呟く声だった。

 千紗ちゃんのお母さんは少し壊れてしまっていた。集会所で起こしたときからずっと同じ様子で、千紗ちゃんの声にさえ反応してくれなかった。地下室での出来事が原因か、信愛していた聖母様からの裏切りが原因か。とにかく病院に連れて行ってみないことには、聖母様に関する情報も聞けそうにない。


「肝試し、すごかったねぇ。ぼく本当に肝が冷えちゃったよ!」


 私の膝に座るチョコだけがニコニコ場違いな声をあげていた。彼は暗い車中を見回し、アメリカンに大きく肩を竦める。


「何をそんなに怖い顔してるのさ? あのおばあさんの死体はちゃんと隠しただろ。地下室への道だって、目隠しの魔法を強力にかけておいたさ。もし何かの拍子で村人があの部屋を発見したとしてもぼくがちゃちゃっと記憶をいじって消してあげるよ。宇宙パワーは万能だからね!」


 山田さんの家に隠されていた地下室のことを、村人達は誰も知らないでいる。知らせないことにしたのだ。知ったってパニックになるだけだし、チョコが殺人を犯したことを知られるのはまずいから。

 地下への道にはチョコが幻覚魔法をかけた。老婆の死体も『宇宙パワー』で隠した。目の前で見ていた『宇宙パワー』の処理方法を思い出し、こみ上げる吐き気をぐっと飲みこむ。

 チョコの手はピンク色の毛に戻っている。拳を濡らしていた赤い血はもうどこにもない。


「楽しい旅行だったねぇ」

「…………そうね」


 私はニコニコ笑うチョコの頭を撫でた。ゆるりと視線を泳がせ、灰色の空の下に広がる田んぼをぼうっと見やった。

 ほんの少し窓を開ければ、冬をまとった風が、冷たい土の香りを運んできた。

 それなのに。私の鼻の奥には、あの腐ったミルクの臭いがこびりついて離れないままでいる。

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