最終章 変身しないで、ありすちゃん

第69話 思い出を作ろう!

 映画研究部のドアを開けると、女の子達がコカインを吸っていた。

 懐かしい風景だわ、と思って私は思わずニコニコ微笑んだ。


「いかれてるのかこの学校は」


 湊先輩は大股で部室に入ると、持っていた購買の袋をドサッとテーブルに落とした。千紗ちゃんがせっせとかき集めていた白い粉が空中に撒き散らされ、彼女はあーっと悲鳴をあげる。


 ソファーには雫ちゃんと祥子さんも座っていた。雫ちゃんは映画を見ながらカラフルなラムネ菓子をぽりぽり齧り、祥子さんはハリウッド女優みたいにサングラスをかけ煙草みたいな変な巻紙を吸っている。

 千紗ちゃんが「そっちはMDMA、そっちはジョイント」とそれぞれの薬物の説明をしてくれた。勉強になるなぁと私は感心する。


「学校で薬やるなって言ってるだろ。バレたらどうするんだ! 煙草にしときなさい」

「お前も倫理観狂ってきたな」


 湊先輩が差し出した煙草を咥え、千紗ちゃんは「小道具だよ小道具。撮影用の。本物じゃない」とあぐあぐ煙を吐き出して言った。

 雫ちゃんの食べているお菓子は本物のラムネで、祥子さんの吸っているものもただのおもちゃだった。テーブルに置かれたカメラは録画中の赤いライトを点灯させている。

 サングラスを外した祥子さんが録画を止め、「で?」とテーブルに疑問を投げかけた。


「部室に来たらなんとなく流れで撮影に参加させられたけど……。そもそも、あなた達何してるの?」

「何って。今お前言ったじゃねえか。撮影だよ」

「何の?」

「映画の」


 千紗ちゃんが笑う。祥子さんはくるりと目を上に向けて、大仰な仕草で溜息を吐いた。


「呆れた。呑気に映画撮影なんて!」

「えと、駄目かな……?」

「雨海さん、あなたまで。黎明の乙女のことを忘れてるわけじゃないでしょうね?」

「わ、忘れてなんかないよ。大丈夫だよ」

「映画作りに夢中になって、街で事件が起こっても気がつかない、なんてことにならないでよね。あなた達は人の命を守るために魔法少女になったんでしょう」


 今日彼女が映画研究部に来たのは、湊先輩に会うためではなく私達の状況を聞くためだったんだろうと、鋭い視線をあびながら思う。

 一応政府の人間という意識のある彼女は、とにかく人々の安全を考えている。私達魔法少女がのんきに遊んで街の平和をほうりだしているのが気に食わないのだ。

 まあしかし、彼女がそうピリピリするのも当然だった。

 あの戦いで楽土町には大きな変化が現れていたのだから。


 今、黎明の乙女は崩壊している。

 あの日の騒動は世間でも大きく取り上げられた。崩壊する建物と怪物の暴れている音が混じるシーンと、警察が壊れた建物に突入するシーンがどの局でも放送された。とうとう教団内に警察の手が入ったのだ。

 しかし。薬物売買に人身売買、その他諸々あくどい噂が山ほどある宗教団体だというのに、これといった証拠の一切が見つからなかったそうだ。薬物の粉一粒さえ検出されずじまいだった。証拠がない以上、警察は信者達を捕えることもできなかった。

 しかし警察の突入より怪物の出現よりも何よりも、信者達をパニックに陥らせた出来事がある。

 聖母様が行方不明になったのだ。


「聖母様は偽聖母といっしょに逃げて、その後の行方は誰も分かってないんだもんね……。千紗ちゃん。偽聖母ってあなたのお母さんなんだよね? どこに行ったか伝言が残ってたり、なんて」

「ねぇよ。そんな大した仲でもなかったし」

「だ、大丈夫? このままお母さん帰ってこなかったら、どうするの……」

「さぁ? そんときゃ澤田んとこにでも世話になるかね」


 そんなこと言ってる場合じゃないでしょう、と祥子さんが神経質に爪を齧った。


「柱を失った教団が今どうなってるか分かってる?」

「犯罪率が爆上がりの世紀末状態なんだろ。放火に強姦に殺人に、欲望フルスロットルの無法地帯化してきてるってわけだ」

「喜びなさい。あなたの好きなクライム映画が撮れそうよ」

「は、最高」


 教祖を失った信者達の不安が表面化するように、近頃彼らのしわざと考えられる物騒な事件が相次いでいた。楽土町の治安はどんどん悪化する一方である。

 一刻も早く教団を潰さなきゃ、と祥子さんは息を巻く。そんな彼女をなだめたのは湊先輩の柔らかい声だった。


「でも、闇雲に動いたってどうにもならないよ」


 皆の視線が湊先輩に集う。彼はいつも通りの優しい笑顔を私達に向けて、ゆっくりとした口調で語る。


「『街で犯罪を起こす信者達を止める』、『聖母様を見つけて倒す』。大まかに言えば僕達がすべき行動はこの二つ。けれど今は、下手に突っ込んでいくべきじゃない」

「どうして? 湊くん」

「ハロウィンの爆破事件でも、今回の宗教団体事件でも、怪物に変身したありすちゃん達の姿はニュースで流れていた。彼女達は市民を守ろうとした。だけど市民達にはそうは見えなかったはずだ。ただでさえ物騒な事件に敏感になっている市民の前に怪物姿を晒せば、信者達を止めるより先に、ありすちゃん達が警察に殺される」

「……じゃあ、聖母様を探すのは?」

「高校生が探せる範囲なんて、警察やヤクザに比べればたかが知れている。人探しは澤田さん達みたいな専門に任せた方がずっといいんじゃないかな」


 実際そうだった。聖母様探しも、街の犯罪を抑え込むのも、大人達が全力で励んでいる最中だ。しかし彼らが必死に取り掛かっても聖母様の足取り一つ掴めないでいるのが現状だった。

 聖母様は消えてしまったのだ。まるで、魔法みたいに。

 湊先輩の静かな指摘に祥子さんはしゅんと項垂れた。爪の先でそっとテーブルの上に散らばった白い粉をつまみ、お手上げとばかりに肩を竦める。


「それじゃあ今は何もできないってわけ?」

「いいや。僕達は、だから映画を撮っているんだ」

「うん?」


 湊先輩は言った。祥子さんは湊先輩の言葉の意味を理解できず、キョトンとした顔をする。


「祥子さん。僕はね、怪物が好きなんだ」

「うん。知ってるよ。嫌というほど」

「ぬるついた粘液も、分厚い筋肉みたいな固い皮膚も、ナイフのような牙も、全部が愛おしくてたまらない……。撮った写真で写真集も作ってみたんだ」

「う、うん」

「今度一冊あげるね」

「いらない……」


 湊先輩はニコニコ笑って「だから、怪物ばかりをただただ悪者に仕立て上げる風潮は気に食わないんだよ」と吐き捨てるように言った。

 空気がひんやりと冷えていく。気が付けば私達は身を小さく丸めて、湊先輩をこわごわと見つめていた。


「怪物だってそりゃ許されないことをしたさ。だけど信者達が行ってきた犯罪は無視して、怪物ばかり悪者にするのか? この間の教団事件のニュースだって。信者や聖母のことにはほとんど触れず、おそろしい怪物、危険な怪物、殺すべき怪物。怪物、怪物、怪物ってさぁ……。彼女達がこれまで助けた人命は無視か? はは、そもそも助けられたとも思っていないんだろうなぁ。気まぐれで殺されなかったとしか思っていないんだろう。ただ姿が少し人間と違うだけの正義の味方だっていうのに。そんな認識だから彼女達だって悩んで苦しむはめになるんだ……。たった一度変身しただけの僕でもこんなに苦しむんだ。見返りを求めるためにやってることじゃないとしても、こうも非難ばかりされちゃあ、たまったものじゃないよね……」


 祥子さんと雫ちゃんが青ざめた顔でぴとりと肩を寄せ合っている。千紗ちゃんは気まずそうにまだ長い煙草を灰皿に押し付け、私は一人黙って肩を縮めていた。

 彼はずっと優しい顔で笑っていた。ハッキリ言って物凄く怖かった。

 湊先輩はブチギレていた。


「僕達は怪物映画を撮っているんだ」

「か、怪物の?」

「怪物を正義側の生き物として撮った映画だ。悪役じゃない。世界を守るヒーローになる怪物の映画だ」


 映画だけじゃない、と湊先輩は束になった写真をテーブルに置いた。湊先輩が撮った写真だ。


「皆に、怪物は味方なんだって知ってもらう」


 その全てに怪物が写っている。けれど恐ろしい写真ではない。リラックスしたように畳で寝転んでいたり、犬を愛でていたり、毛を撫でまわされて気持ちよさそうにしていたり。これまでニュースや雑誌で見たことがある怪物のイメージとは真逆のものばかり。

 雫ちゃんがハッとしたようにいそいそと鞄からスケッチブックを取り出した。テーブルに開かれたそこには、これまた愛らしいタッチで描かれた怪物のイラストが載っている。


「絵本を作ろうと思ったの……。こ、これくらいの絵なら、小さい子も楽しめるかなって。皆に嫌われてた怪物さんが、皆を守って、お友達になっていく話」

「オオカミが主役の絵本でよくある展開じゃない」


 その通りだよ、と言いながら湊先輩は祥子さんの隣に座った。パチンと目を丸くする彼女の顔を真正面から覗き込み、真剣な顔で彼は言う。


「映画、絵本、それから写真。僕達は全員『人の心を動かす作品』を作ることができる。だから僕達は作品を作って、それを世界に流すんだ。嫌われ者を人気者にするんだよ。そうすることで、彼女達は堂々と悪事を止めに行くことができる」

「怪物だけを悪者にしようとする世間に抵抗するっていうこと?」

「そうだ」

「……できるの? 簡単に言ってるけれど、一度ついたイメージを払拭するのは難しいのよ。湊くんみたいに怪物を好きになれる人ってそんなにいないんだよ。そもそも、そんな作品を作っても見てくれる人がどれだけいるか」

「そこで、祥子さん。君にお願いしたいんだ」


 私? と祥子さんは呆けた声をあげた。ひょこっと顔を出した雫ちゃんが、もごもごと一生懸命に言葉をつむぐ。


「しょ、祥子さんってSNSで凄く有名なんでしょう? フォロワーさんがいっぱいいるって」

「あ、ああ……うん、まあ。芸能人とかほどじゃあないけれど」

「わたし達の作品をあなたが拡散してくれれば、きっとたくさんの人が見てくれると思うの」


 なるほどね? と祥子さんは少し鼻白んだように片方の目を細めた。

 SNSについてはさほど詳しくないけれど、祥子さんの拡散力が相当なものだというのは知っている。この間彼女が携帯をいじっているのを横目で見て知ったのだ。

 彼女は謙遜ぎみに言うけれど、彼女の協力があれば、少なくともこの学校の全校生徒以上の人数には作品を見てもらえるだろう。

 湊先輩が最後の一押しとばかりに祥子さんの手を握った。ビクリと肩を震わせた彼女に、困ったような微笑みを浮かべて囁く。


「お願い、祥子さん。これは君にしか頼めないことなんだ」

「えっ。あ」

「僕達には君の力が必要なんだ……」

「っ……!」


 湊先輩の低い声に祥子さんはカッと顔を赤くして、「分かった、分かったから!」と慌てたように彼の手から逃げ出した。


「き、期待通りの結果にはならないかもしれないからね! ただ非難されるだけかも。それでもいいのねっ」

「勿論だよ。ありがとう、祥子さん!」


 湊先輩はふわっと花が咲き誇るように笑った。そんな彼の笑顔を真正面から受けて、祥子さんはもう肌の色全てを赤く染め、小さい悲鳴をあげて立ち上がる。

 また状況を聞きに来るからっ、と慌てて部室を立ち去ろうとした彼女は最後にふと足を止め少し頬を膨らませたまま、ずっとそこに立ち尽くしていた私に目を向ける。


「……怪物映画を撮るって言ったって、さすがに学校で変身してたらバレるんじゃないの」

「縺ゅ?√d縺」縺ア繧?」


 やっぱりそうかしら、と怪物姿の私は笑った。

 ジャリジャリと濁った私の返事に祥子さんは溜息を吐いて、コカインよりもバレたらやばいじゃない、と言った。





「思い出を作りたいの」


 私がそう言えば、湊先輩はうん、と静かに頷いた。

 彼の目は涙の膜がはったようにツヤツヤときらめいていた。


「皆がいつか私のことを忘れちゃうのは分かってるわ。いくら記録を残したって無駄だってことも」


 変身の副作用によって、姫乃ありすという存在は日に日に皆の記憶から消えていく。それは記録媒体でも同じことだ。私に関わる記憶は全て……魔法少女のことも、怪物のことも、全てをひっくるめて跡形もなく消えてしまう。

 怪物を人気者にするための作品作りだって本当は時間との戦いだった。

 いつ消えるか分からないデータを作品に仕上げ全国に流すだなんて、無謀な挑戦なのだ。完成してからも消えるかもしれない。なんとか人を説得することができても、説得されたという記憶自体が翌日にはなくなっているかもしれない。


「それでも、思い出を作りたいの」

「うん」

「そう思うのは変かしら」

「ううん、変じゃないよ」


 湊先輩は真剣な目で私を見つめた。思い出を作っていこうよ、と言う彼の声は少し苦しそうに震えていた。

 私はズッと鼻を啜り、少し涙が浮かんだ目をぱちぱちと瞬かせた。


「楽しかったこと、皆で一緒にいたこと。忘れたくないの。ずっと覚えていたいの」

「うん」

「だから、何度でも何度でも、思い出を作っていきたいの」

「うん。分かる、分かってるよ、ありすちゃん」

「湊先輩……」

「でもバカ盛りラーメンの大食いってのはなんかちょっと違くない?」

「こういうの一回やってみたくて」


 私達の前には巨大なラーメンが置かれていた。顔の数倍くらい大きい器にドンと盛られた麺とチャーシューと野菜。白くふわふわと立ち上る湯気は、香ばしい醤油の匂いがした。

 学校近くのこのラーメン屋さんでは、学生向けに大食いチャレンジメニューがあるのだ。たまに男子生徒達が賑やかに入っていくのを見かけることがあるけれど、いまだ完食した人はいないらしい。

 私と湊先輩と雫ちゃんの前に置かれた特大ラーメンを見て、湊先輩は食べる前から苦虫を噛み潰したような顔で溜息を吐いた。


「ラーメン食べたいって言うから来たけど、大食いとは聞いてないよ。こんなの無理でしょ」

「勝負する前から諦めるなよ湊。男だろ、頑張れや」

「そういう千紗ちゃんは普通サイズじゃん」

「や、あたし小食だから」


 千紗ちゃんは小盛りサイズのラーメンを食べながら、私達を見てニヤニヤと笑う。

 その横に座るマスターとチョコも普通サイズのラーメンだ。マスクの隙間から器用にラーメンを食べるマスターの横で、チョコは意外にも普通サイズラーメンをズルズルと啜っている。「食べきれなかったらもったいないだろ」とのことらしい。正論だ。

 ありすちゃん食べきれる? と湊先輩が不安そうに私に言った。私はピンクの髪をきゅっと結んで、意気込んで箸をつかむ。


「ママのおいしい料理をいつもたくさん食べてるのよ。いけるわ!」


 とりわけ用の子供皿にラーメンを分けてちまちまと啜る。湯気で目がちょっとしょぼしょぼした。

 脂がすごく濃厚で醤油の味が思っていたよりもまろやかだ。分厚いチャーシューはとろけるように甘くて、麺に絡むとすごくおいしい。

 私は夢中になって取り分けたラーメンの一杯目を食べ終え、二杯目をもぐもぐと食べた。濃厚なスープを飲んで、ふぅと箸を置く。


「ごちそうさまでした……」

「お前二度と大食いチャレンジするなよ」


 千紗ちゃんの言葉にあうあうと目に涙を浮かべる。器にはまだ山のようにラーメンが残っていた。千紗ちゃんが容赦なく取り分け皿にラーメンを山盛りにして私の前に置き、私は涙目状態でラーメンをちまちま一生懸命に食べた。


「ちゃ、ちゃんとお持ち帰りするから……。お家で一日かけて食べるから……」

「ラーメンの持ち帰りって、相当悲惨なことになりそうだけど大丈夫か?」

「あ、ありすちゃん頑張って……。僕も頑張るから」


 ハラハラ私を見守っていた湊先輩は、決心したように腕まくりをした。ガッと箸でラーメンを掴むとぐあっと大口を開けて食べ始めた。ラーメンは瞬く間に量を減らしていく。

 流石に食べっぷりがいい。おーっと小さく拍手をする私の横で、湊先輩はチャーシューを齧り、一休みに水を少し飲み、勇ましい顔のままゆっくりと椅子に背を預け、外を見つめて「今日はいい天気だな……」なんて呟いてもう二度とラーメンを見ることはなかった。


「いや限界迎えるのが早いよ」

「流石にこの量は無理だろ! 持ち帰るから!」


 ぶよっぶよだよと千紗ちゃんが笑う。それでもラーメンの半分を食べきっていた湊先輩にすごいわと私は尊敬の目を向けた。「見て雫ちゃん。湊先輩すごい食べっぷりよ」とくるりと反対側を見た私は、黙々と麺を啜って「おいひぃ」とニコニコ笑顔を浮かべる雫ちゃんを見て唖然とした。彼女のラーメンはもう半分も残っていない。


「す、すごいわ雫ちゃん!」

「えっ?」

「あ? っお前やべえな。早すぎんだろ」

「ふぇっ」

「そうか、雫ちゃんの副作用は空腹感だから……!」

「ひぇっ」


 私達は思わず盛り上がって雫ちゃんを囲む。その様子になんだなんだと周りのお客さん達も視線を寄越し、雫ちゃんを見て小さな歓声をあげた。

 突然周囲の視線をあびた彼女はぽっと頬を赤く染め、俯きながらちるちると麺をすする。恥ずかしがりつつもそのスピードは落ちず、みるみるうちにラーメンがなくなっていく。


「あと五分よ!」

「いける。いけるよ雫ちゃん!」

「お前がこのラーメンの救世主になるんだよ!」

「何このノリ……」


 大食いメニュー初めての成功者あらわるか、とあってか店員さん達まで作業の手を止めて雫ちゃんに注目していた。

 麺をすっかり食べ終えた雫ちゃんは最後にずっしりと重い器を掴んでスープをこくこくと飲んでいく。ぷはっと最後の一滴を飲み干した彼女は、照れくさそうに真っ赤な顔で両手を合わせた。


「ご、ごちそうさまでした」


 店内は湧いた。スタンディングオベーションだった。顔を真っ赤にした雫ちゃんの顔写真が撮られ店内に張り出されることになった。大食いメニュー初の成功者となった雫ちゃんは「もうこのお店来れない……」と小さく声を震わせていた。




「ラーメンの賞金で旅行に行きましょう!」

「失敗した額と合わせたらマイナスだけど大丈夫?」


 私は湊先輩の言葉を無視して、喫茶店のテーブルに賞金の五千円を叩きつけた。雫ちゃんが頑張って獲得してくれた大金だ。

 私はふんふんと鼻を鳴らして、『旅行 楽しい』で検索をかけた携帯画面を皆に見せる。


「こないだ湊先輩と雫ちゃんが修学旅行に行ったでしょう? 来年は私と千紗ちゃんだけど、そういうのじゃなくて、皆で旅行に行きたくて」

「ふふ、そうだね。皆でちょっと遠くにおでかけとかできたら、楽しそう……」

「ハワイとか、北極とか行きたいのよ」

「五千円で?」


 五千円もの大金で一体どこまで行けるだろう。図書室から借りてきた旅行ガイドブックをふんふん眺めながら私は目を輝かせて思いをはせる。

 思えば昔からあまり遠くにおでかけなんてしたことがないのだ。初めての経験に想像を膨らませるだけで、わくわくしてしまう。


「そんなに遠くない所だったら、皆で遊びに行けそうだね。日帰りとかだったら宿代もなくていいし」

「旅行がしたいってんだろ? だったら宿代は必要だろ。安心しな。ホテルのスイートルーム一泊できるくらいの金ならあるぜ」

「えっ、本当?」

「トイチで金貸してやるよ」


 暴利だなぁ、と苦笑する湊先輩もガイドブックを取ってパラパラとページをめくっていく。私達は皆でガイドブックを見せ合って、あそこがいいどこがいいなどと言いながらはしゃいでいた。


「微笑ましいことを話してるじゃないか」


 カウンターでコーヒーを飲んでいた黒沼さんが言った。その隣には澤田さんと鷹さんも座っている。座って仕事の話をしていた彼らは、いつの間にか私達を見て微笑ましそうな顔をしているのだった。

 旅行に行くの、とこちらにやってきた黒沼さんがテーブルに並ぶガイドブックを見て言う。そんな彼の横顔を見つめるうちに私はふと思ったことを言った。


「旅行って、一緒に行ってくれる大人が必要なんじゃないの?」

「保護者ぁ? 中学までならいるかもだけど、高校生は必要ないんじゃねえの」

「でも子供達だけで旅行に行ったら、きっとパパとママに叱られちゃうわ」

「ありすちゃんのところは多分、許してくれないだろうねぇ」


 子供だけで旅行に行く、と言えばきっとパパとママは猛反対するだろう。きっとお出かけを許してはもらえないはずだ。

 助けを求めるようにチラリと黒沼さんを見上げる。けれど私が彼にお願いをする前に、湊先輩が首を横に振った。


「保護者に黒沼さんはちょっと……」

「あら、どうして?」

「不純異性交遊まったなしの顔してんだろこいつ」


 千紗ちゃんが顎をしゃくって言う。

 酷い言われ様だな、と苦笑した黒沼さんはそのままするりと湊先輩の顎を掴んだ。キョトンとする彼に艶やかな長いまつ毛をゆるりと近づけ、色っぽく微笑む。


「不純同性交遊でもいいぜ……?」

「そういうとこだって言ってるだろ!」


 顔を真っ赤にした湊先輩が黒沼さんの頬をぶった。

 ギャアギャアはしゃぐ男の子達を放っておいて、私と千紗ちゃんと雫ちゃんは揃ってカウンターを見つめ、座っていた鷹さんと目を合わせた。


「鷹さんお願い。私達を旅行につれていって!」

「勿論いいよ!」

「あれ、俺は?」

「澤田さんは黒沼さんと同じにおいがするからちょっと……」


 そんな馬鹿な、と落ち込む澤田さんの横で鷹さんはうきうきキラキラと目を輝かせていた。どこに行くの何をするの、と私達よりもよっぽどはしゃいでいる。


「楽しい思い出を作りたいの」


 私はガイドブックを胸に抱えて笑った。皆はそんな私を見て、微笑ましそうに笑った。

 このときはまだ呑気に笑っていることができたのだ。

 このときは、まだ。

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