第68話 笑顔の君と

『これは人間を、理想の姿へと変身させる薬だ』


 脳味噌を誰かがガリガリと引っ掻いている。

 吐き出す息は燃えるように熱く。体中を巡る痛みにもらした呻き声は、人間のものとは思えぬほどしゃがれていた。


『一時的に力を得ることができる。まあ、体が耐え切れずすぐ死んでしまうがね』


 マスターはそう言っていたっけ。

 僕の体が変わっていく。

 ボキボキと骨が軋む。溶けた肉が皮膚を流れる。想像を絶するほどの苦痛に僕は血を吐き、涙と汗で顔を濡らした。けれど僕の体から出る体液は全てドロドロとした黒い粘液に変わっていた。

 研究所でもらった試薬品。その効果も、投与された実験動物の末路も、忘れたわけじゃない。

 僕の命はもってあと十分。


 黒い涙を流しながら僕は真正面に立つ彼女を見つめた。巨大な触手を打ち付けて苦しんでいる青い怪物を。

 彼女の巨大な目と視線がかち合った途端。今にも泣きだしそうなその瞳を見た途端。僕は苦痛を一瞬忘れて、ふっと優しく微笑んだ。


「…………遅くなって、ごめんね」


 僕はきっと死ぬだろう。

 それがどうした。

 ここに、けじめを付けにきたんだろう。


「雫ちゃん。今、君を蜉ゥ縺代k縺九i助けるから



 地面を蹴る。それだけで、僕の体は高く宙に舞った。

 ゴウと風を切って飛んだ数メートル。見開いた目を下に向け、ブルブルと青い巨体を揺らす魔法少女ブルーの姿を捕らえる。僕は歯を食いしばり、落下の勢いを乗せた拳をまっすぐ彼女に叩きこんだ。

 轟音が地面を揺らす。

 地震と間違えるほどの衝撃は、僕の拳から生み出されたものだった。


「ギィ――ッ」


 ブルーちゃんの触手が半分弾け飛ぶ。水っぽい絶叫を奏でた彼女が、怒りのままに触手を振るった。丸太のように太い触手が四本空気を裂いてこちらに飛んでくる。

 僕は咄嗟に走り出そうと、一歩足を踏み出した。


「!」


 ――――速い!

 閃光のように視界が進む。予想外のスピードを出した体はそのまま触手にぶつかりそうになった。その勢いのまま眼前に迫る触手を爪で薙げば、太い触手はゼリーのように簡単に切り裂かれた。二本目を歯で噛みちぎる。三本目を殴り飛ばす。

 けれど四本目。最後の触手がうねりながら僕の腕に絡みつき、骨ごと折ろうと力を込めた。

 そのとき。僕の背中から伸びた触手がブルーちゃんの触手を突き破った。


「縺阪c縺ゅ≠!」


 青い怪物が仰け反って絶叫する。溶け落ちた拘束から慌てて飛びのき、僕は自分の背中を振り返る。黒い粘液を滴らせた触手が六本、そこからぐちゃりと生えていた。


「繧上?√≠縲ゅ≠……」


 窓ガラスに僕の姿が映っている。そっとガラスに手をつけば、鋭くなった爪がガラスを引っ掻いて嫌な音を立てた。

 頭から獣の耳が生えている。白目が真っ黒になって、代わりに瞳の色が鮮やかな色味を帯びていた。口から覗く固い犬歯をそっと撫でればそれだけで指先が僅かに切れる。

 靴はボロボロに破けて爪先に引っかかっていた。足が獣のような形に変わり、硬質した爪が黒く伸びていた。

 窓ガラスにベタリと触手が張り付く。僕の背中から伸びた六本の触手だった。タコのように吸盤がついたものが二本、筋肉質で固い触手が四本。

 僕という人間に、魔法少女三人を合わせたような異形の姿。

 僕は怪物に変身していた。


「――――ッ!」


 込み上げた激情に涙が滲んだ。

 幸せだった。あんまりにも幸福すぎて胸がドクドクと激しく脈打った。

 夢を見ていた。小さい頃からずっと。怪物に会うことを、その写真を撮ることを。諦めていた夢は魔法少女達に出会って叶えることができた。そして今、僕自身が怪物に変身することができた。

 黒い涙が頬を流れ落ちる。興奮ににじむ汗が目に入ったって気にもならない。全身の毛がざわざわと震えて、触手が感激を現すように床を打ち鳴らす。

 ああ、幸せだ。

 生きていてよかった。

 今この瞬間。人生が終わっても十分だと思えるくらい、僕は幸せだった。


「せんぱい」


 獣の耳がか細い声を拾う。僕は光に満ち溢れた笑顔のまま、声がした方向へと顔を向けた。

 その瞬間。僕の笑顔は固まった。


「みなとせんぱい」


 ボロボロのありすちゃんが僕を見て泣いていた。彼女の透明な涙が、その膝に横たわる千紗ちゃんの顔に落ちていく。千紗ちゃんの白い顔はピクリとも動かない。

 澤田さんと祥子さんが愕然とした顔で僕を見つめている。二人の後ろにいる晴ちゃんはショックで顔を蒼白にして、怪物になった僕と姉を見てカチカチと歯を鳴らしていた。

 恐怖、困惑、悲しみ。僕に向けられる視線には一切喜色ばんだ感情はない。

 僕が怪物になったことを喜んでいるのは、僕だけだった。


「ッ。ァ」


 僕は、彼女達を泣かせてまで夢を叶えたいわけじゃなかった。


 魔法少女達は誰一人として怪物になることを望んではいなかった。

 怪物という存在はありすちゃん達を苦しめた。僕だけがずっと怪物に憧れて、彼女達の変身を喜んでいた。

 はじめて自分が変身して分かった。怪物になるのがどんな気持ちなのか。彼女達が今までどんな思いで戦ってきたのか。


 夢が必ずしも皆を幸せにするものだとは限らない。

 人に迷惑をかけてまで夢を叶えようとする。そんなの、僕達が倒そうとしている黎明の乙女と同じじゃないか。


「……………………」


 自分の胸を強く握りしめる。内側に燃える感情を押し殺し、僕は深く溜息を吐いた。

 この瞬間に自覚したのだ。僕の夢の成就と、僕の恋の終わりを。同時に。

 僕の夢は、『諦めなければならない夢』だと気が付いた。


「縺ゅ▲縺。縺ォ陦後▲縺ヲ縲ゅo縺溘@繧呈叛縺」縺ヲ縺翫>縺ヲ!」


 ブルーちゃんの回復した触手が雨のように降ってきた。僕は走って全てを避ける。そのまま壁に触手の吸盤を張り付かせ、爪で壁を引っ掻くように駆け上がった。壁から壁へと飛び回り、照明に爪をひっかけてブルーちゃんの体に飛び移る。

 怪物のパンチの威力は凄まじかった。轟音が鳴り響き、巨大なブルーちゃんの体が簡単によろめく。

 けれどそれは彼女も同じだ。激しい攻防の中、鋭く伸びたブルーちゃんの触手が僕の脇腹を貫く。

 僕は無理矢理彼女の触手を切り落とした。力任せに触手を引っこ抜けば、傷口からドポリと粘ついた血が溢れ出す。

 が、痛みは瞬きを繰り返すうちに和らいでいく。驚いて見れば、今できたばかりの傷は既に塞がろうとしていた。

 ブルーちゃんの回復能力だとすぐに気が付いた。イエローちゃんのスピード、ブルーちゃんの回復能力。完全にとはいかないまでも、どうやら僕は彼女達の能力を少し受け継いでいるらしかった。


 僕とブルーちゃんの殴り合いは続く。重い打撃音と砕ける瓦礫、飛び交う銃声に噴き出す血しぶき。

 ブルーちゃんの再生速度が最初と比べて遅くなってきていることに気が付いていた。こちらの攻撃が必ずしも無意味というわけではないらしい。僅かな勝機。けれどそれに笑みを浮かべることは、僕にはできない。


 バキ。


「…………ッ」


 バキ。パキ。


「繧ヲ繧ヲ繧ヲッ……!」


 顔が痛い。バキ。目が熱い。ピキ。痛い。パリ、パリ。パキ。痛い、痛い、痛い!


 変身したときから感じていた右目の違和感が、時間の経過と共に激しい痛みとなって襲いかかる。

 痛みによろけた体をブルーちゃんの触手が容赦なく叩く。吹き飛んだ体は壁に叩きつけられた。熱い息を吐きながら立ち上がった僕はふと窓ガラスに目をやって、息を飲む。

 顔が割れていた。右目から頬にかけてヒビが走っている。おそるおそる頬に触れれば、頬の一部がガラス片のように砕け落ちて悲鳴をあげた。その下にあるはずの肉はどこにもなく。ただ真っ暗闇の空洞が広がって、ゴプリと溢れた黒い粘液が顎を伝っていった。

 タイムリミットが近付いている。

 戦うごとにヒビが広がっていく。このヒビが更に広がったとき、僕の体はどうなるのだろう。

 僕の時間はもうほとんど残っていない。


「……もうやめてよ」


 しゃくりあげる声が聞こえた。僕達の戦いを見守っていた晴ちゃんが耐え切れぬ様子でブルーちゃんを見上げていた。

 彼女をここに連れてきたのは僕達だった。雫ちゃんの説得要員として連れてきてはどうかという澤田さんの提案を彼女本人が快諾したのだ。「実の姉が変な宗教はまってるなんて最悪だからね」なんて笑って。ちょっとの好奇心と、大きな勇気を引き連れて。

 彼女は雫ちゃんを心配してここに来たんだ。まさか、こんな光景を目にすることになるとは予想もしていなかっただろう。

 彼女は人並みに怪物を恐れる子だった。ニュースで流れる怪物を見て気持ち悪いと吐き捨てていたと、落ち込む雫ちゃんがいつか僕に話してきたことを思い出す。目の前で人間が怪物に変身し戦う光景を見て、晴ちゃんが逃げ出したって当たり前だった。

 それでも彼女はずっと僕達の戦いを見つめていた。最初は恐怖だった体の震えがいつしか違う震えになっていることを、周りは誰も気が付かなかった。


「もうやめてよ、お姉ちゃん!」


 だから。突然叫んだ晴ちゃんがブルーちゃんに駆け寄っていくのを、誰も止められなかった。

 妹の叫びはブルーちゃんに届く。大きな目玉がギョロリと動いて妹を見下ろした。けれど今の彼女に正気はほとんど残っていない。

 ゆるりと持ち上げられた青い触手には、殺意しかこめられていなかった。


「譎エ縺。繝」繝ウッ」


 僕は振り下ろされる触手に飛びかかった。背中から伸ばした触手で青い触手を叩き潰す。残りの触手も青桐組の銃弾が撃ち落とした。

 けれどブルーちゃんの触手は一瞬で回復する。生えたての触手が全力で僕の頭を殴った。頭蓋骨が砕けるほどの重い音が響く。脳味噌を揺らされ、僕の意識は一秒間だけ飛んだ。

 けれどこの場において、一秒の隙は致命傷だった。

 一秒後。意識を取り戻した僕は絶叫する。

 茫然とする晴ちゃん目がけ、ブルーちゃんの触手がまっすぐ振り下ろされる光景が見えたから。


 大量の血が飛び散った。


 弾けた血が僕の足元にまで飛んでくる。鉄臭い血の臭いが、僕の脳を絶望に染めた。

 広がっていく赤い血だまりを誰もが茫然と見つめている。鮮やかな赤色の海。その上に座り込んだ晴ちゃんの真っ白い頬を、ボタボタと落ちる赤色の血が汚す。

 その血は全て、晴ちゃんを庇った澤田さんの右腕から滴るものだった。


「怪我はないかい」

「あ…………」

「俺は大丈夫。慣れてるから」


 澤田さんの右腕をブルーちゃんの触手が貫通していた。ぶしゅぶしゅと溢れる血が触手と彼の右手を真っ赤に染める。震える手に握られていた銃が、ゆっくりと地面に向かって落ちていく。


「ははっ」


 澤田さんは笑った。

 落ちる銃を彼の左手がキャッチする。彼はすぐさまその銃口をブルーちゃんの眼球に定め、撃った。

 ブルーちゃんが絶叫する。水っぽく濡れた激しい絶叫は、建物ごと空気をビリビリと振動させた。

 傷口で暴れる触手を澤田さんは力任せに抑え込んだ。触手の根本にピタリと銃口を添え、ほぼゼロ距離で引き金を引く。轟音と共に彼女の柔い触手があっけなく千切れた。


「構うな。集中しろ、湊」


 彼の怒号に僕の体はビクッと跳ねた。

 澤田さんは無理に触手を引きずり出す。ぽっかり穴が開いた傷口からおびただしい血が流れても、彼は傷に一切見向きもしなかった。

 ぎらついたその目が僕を睨みつける。


「お前はけじめを付けに来たんだろ」

「ッ」

「彼女を助けに来たんだろ。ヒーロー!」


 澤田さんの言葉が何よりも強く僕の背中をぶっ叩いた。カーッと熱くなっていく胸を握りしめ、僕はブルーちゃんへと向き直る。


「縺ゅ▲縲ゅ≠縺」縲ゅ≠縺」」


 再生していくブルーちゃんの体。対する僕も体の傷は塞がっていた。けれど右目の痛みだけは健在だ。パキパキと頬から広がっていく異音に吐き気を覚える。

 黎明の乙女の大講堂。ボロボロになった空間に、ゾッとするほど大量の血液が撒き散らされている。ほとんど僕とブルーちゃんの血だった。どれだけの時間戦い続けていたのか、もう分からない。


「…………ヤ。ャ。雖後□……。ヤダァ」


 声が聞こえた。

 それは目の前から。魔法少女ブルーから聞こえた声だった。


「ゴンナ。コド。縺励◆縺九▲縺った、わけじャなイ。譎エを、キズズゲ、ダガったわけジャナイィ」


 ブルーちゃんの体が痙攣していた。たくさんの眼球が激しく縮小し、ドロドロと塩辛い粘液を流していく。

 いや、違う。涙だ。

 唖然と顔をあげた僕の前で、ブルーちゃんはその大きな目玉からボロボロと涙を零していた。


 嫌だ。こんなことしたかったわけじゃない。晴を傷付けたかったわけじゃない。

 ボコボコと泡立ったその声が、確かにそう言った。


「み。ナど、グン。お。縺企。倥>ネガい」


 彼女の触手が僕に襲いかかろうとしては逡巡したように地面を叩く。彼女は僕を攻撃しなかった。ぶるぶると悲しいくらいに震えて、涙に濡れた瞳で僕を見つめた。


「…………タスケテ」


 その言葉の直後、彼女の瞳はぐるりと上を向いた。触手が痙攣して膨らんだかと思うと、僕めがけて振り下ろされた。

 僕は避けなかった。直撃した左腕からゴキンと嫌な音が鳴る。激痛に一瞬だけ顔をしかめ、それでも次に顔をあげたとき、僕は彼女の姿をまっすぐに見つめて頷いた。


「蜷帙r蜉ゥ縺代k」


 君を助けるよ。だって、そのためにここに来た。

 僕は大きく空気を吸い込んだ。


「――――――――!」


 脳味噌が焼ける。

 喉奥から肉が焦げるような臭いがする。

 口の中がたまらないほどの熱を持つ。

 喉の奥がまばゆく発光していた。全身の触手がビリビリと震えて、心音がこれまでに聞いたことがないほど激しく鳴った。


 魔法少女の必殺技。

 魔法少女達の能力を受け継いだ今の僕ならば、それが撃てるはずだった。


 僕に残された時間は少ない。ならば、残る手段はただ一つ。

 ブルーちゃんの回復速度が間に合わないほどの強烈なビームで、彼女の力を限界ギリギリまで削ぎ落とす。

 それが今この場において、魔法少女ブルーを殺さず生かす唯一の方法だった。


 助けに来たよ、雫ちゃん。


 分厚い閃光が空気を貫いた。

 爆発した空気がすべてを吹き飛ばしていく。ゴウゴウと熱風が嵐のように吹き荒れて、皆の悲鳴を飲み込んだ。


「ッ!」


 頬に鋭い痛みが走る。肌がひび割れ、どぷりと溢れた粘液が僕の体を真っ黒に濡らしていく。

 消費される魔力があまりに多すぎる。体中がひび割れていく。膝から力が抜け、ガクガクと震え出した。

 クソッ。畜生。狙いがうまく定まらない……。


「湊先輩!」

「!」


 突然背中を強く叩かれた。崩れ落ちかけていた姿勢が安定する。ハッとして横を見た僕は、空中にうごめく黒い触手に目を見開いた。

 ありすちゃんだ。


「まだ、私だって、戦える」


 彼女はとうにボロボロだった。僕と同じくらい、立っているのもやっとだった。

 それでも彼女の目は力強くブルーちゃんを見つめていた。

 ピンク色の髪が決意になびく。


「助けを求める声に応えないなんて、魔法少女失格よ」


 ありすちゃんの手が僕のひび割れた手を掴んだ。柔らかい人間の手は、みるみるうちに硬い触手の感触へと変わっていった。

 ありすちゃんの姿が怪物へと変わる。変身のための力なんてほとんど残っていないはずなのに。きっと、気力だけで。

 彼女の口内に光の粒子が集まっていく。ありすちゃんが伸ばした触手は地面に突き刺さり、僕達の体を支えていた。


「繧上◆縺励◆縺。縲√ヲ繝シ繝ュ繝シ縺ァ縺励g」


 怪物の声は僕には聞こえない。それでもなんとなく、彼女が言った言葉を理解できた気がした。

 助けてという雫ちゃんの声。僕達はそれに応えるべきだった。

 僕達は、世界を守るヒーローだから。


「繧ェ繧ェ繧ェ繧ェ!」


 巨大なビームが空気を貫いた。僕とありすちゃんの力が混ざり合った光が、まっすぐにブルーちゃんの体にぶつかった。

 光の中で青い怪物の体が崩れていく。回復しようとしても間に合わず、崩れる怪物の体が徐々に雫ちゃんの姿へと変わっていく。狂気に血走っていた目に正気の色が戻っていく……。

 魔法少女ブルーの最後の触手が消滅したのと、僕達の放つ光がふっと消えたのは同じタイミングだった。

 タイムリミットだ。


「――お姉ちゃんっ!」


 駆けだした晴ちゃんが瓦礫の中から雫ちゃんを引っ張り上げる。服をボロボロにして倒れていた雫ちゃんはハッと起き上がり、同時に顔を蒼白にし、真っ青になった唇をわななかせて晴ちゃんから距離を取ろうとした。


「ごめんね」


 傷つけてごめん。恐ろしい姿を見せてごめん。雫ちゃんが吐いた震える『ごめんね』には多くの意味が込められていた。

 雫ちゃんの髪の毛先が浮かんで、トンと晴ちゃんの胸を突き返した。晴ちゃんが驚いた視線を向ける。その青い髪の毛先はよく見れば触手に変わっていた。

 弱々しい拒絶に晴ちゃんが顔を赤くする。と、彼女は自身を突き返す触手を力強く掴んで引っ張った。ギョッと驚く雫ちゃんの額にゴチンと己の額をぶつけていく。


「本当だよ」


 晴ちゃんは怒鳴った。怒鳴り声のくせ、怒りよりも悲しみの気持ちがひしひしと込められた声だった。

 彼女は雫ちゃんに抱き着く。「気持ち悪い。本当最低」と吐き出す罵倒の言葉と、雫ちゃんの背中に回した手のありかは矛盾していた。雫ちゃんがおそるおそる妹の頭に置いた手に、晴ちゃんはぐりぐりと頭をすり寄せた。


「お姉ちゃんでしょ」

「うん」

「怪物でも、お姉ちゃんはあたしのお姉ちゃんでしょ」


 雫ちゃんは少しだけ目を見開いて、それからふっと笑った。

 白い日差しのように優しい笑みで、彼女はその頬を晴ちゃんの濡れた頬にすり寄せた。

 お姉ちゃんだよ、と彼女は妹の頭を撫でた。心穏やかなその声を聞いて。僕は久しく、彼女のそんな声を聞いていなかったことに気が付いた。


「怪物でもいいから、どこにも行かないでよ」


 晴ちゃんのサラリとした髪を、雫ちゃんの長い艶やかな髪が包み込む。真白い肌をほろほろと流れる涙を、雫ちゃんがその指で優しくぬぐう。

 穏やかな二人の微笑みを見て、僕はほぅと息を吐いた。

 大丈夫だ。

 きっともう。雫ちゃんは、黎明の乙女に戻ることはないだろう。


「よかっ……」


 限界だった。

 グラリと視界が揺れたかと思うと、次の瞬間僕の視界はボロボロになった床を映していた。あれ、とぼやぼやする思考の中で自分が倒れたことに気が付き、起き上がろうと力を込めるも一切体が動かない。


「おい、湊っ」

「湊くん!」


 澤田さんの声と、祥子さんの悲鳴が遠のく意識の中に聞こえた。

 パキ、パキンと体のあちこちから音がする。ひび割れた皮膚から粘液がドロリと流れだしていく。

 体から力が抜けていくのを感じながらも、不思議と焦りは浮かばなかった。

 こうなることは覚悟していたんだ。


「だからまだ試作品だと言ったのに」


 マスターったら勝手に渡しちゃって、とチョコが呆れた溜息を吐く。

 ぽてぽてと可愛らしく歩み寄ってきたチョコは無慈悲なまでに残酷な言葉を吐き捨てた。


「もう無理だ。死ぬよ、湊くんは」

「な……そんな。嫌。や、やだっ」

「無理に変身なんてするからだ! 薬で強制的に魔力を引き出していた。足りない分の魔力は彼の生命力から補われていた。そんな状態で必殺技まで撃ったんだ。とっくに限界なんて超えている」

「あなた宇宙人なんでしょ? 湊くんを救う魔法があるんじゃないの? ねえ、どうにかできないの?」

「さぁ? 魔力の供給でも試してみれば。地球の漫画でそういう展開よく見るし」


 チョコは投げやりに言った。祥子さんがそんな彼に怒る。けれど倒れる僕自身、病院だとか魔力の供給だとか、そんなものが既に意味もないことを悟っていた。

 変身薬を開発したのはチョコだ。彼がこの場の誰よりも、今の僕の状態を理解している。

 だけど。適当に投げられたチョコの言葉に縋りつく人がいた。


「魔力を分ければいいのっ?」

「え」


 雫ちゃんがパッとこちらに駆け寄ってくる足音が聞こえた。彼女の白い顔が僕を覗き込む。彼女が唇を噛み締める様子が、ハラリと垂れた黒髪がカーテンのように僕の顔を覆う様子が、おぼろげに見えていた。


 彼女の必死な顔が僕に近付く。

 柔い唇が、僕の掠れた唇に吸い付いた。


 皆がハッとしたように僕達を見つめている気配があった。祥子さんが息を飲む音が聞こえる。けれどそれ以上は誰も何も言わず、そして僕自身もう指先一つ動かすこともできず、ただ雫ちゃんが僕にキスをする濡れた感触だけを静寂の中に感じていた。

 舌先に感じる仄かな鉄の味から、彼女の唇を濡らすそれが血であると知った。喉に流れていく彼女の血を思わず喉がコクリと飲み込む。


「ケホッ」


 喉が痙攣した。苦しくなって咳き込む僕の背中を、雫ちゃんが慌てて擦ってくれる。

 飲み込んだ血が熱く喉を焼く。額に苦痛の汗が滲んだ。眉間にしわを寄せれば、ギゥと細まった目からほろりと一つ涙が落ちる。

 その涙の色は美しく透き通っていた。


「っ!」

「ひゃ」

「…………あ、あれ?」


 喉がスッと楽になっていた。湿った瞬きを繰り返し、人間の形に戻った手でベタベタと体中をまさぐる。どこも痛くない。傷がない。肌を走るヒビが一つもない……。

 僕と雫ちゃんはキョトンと顔を見合わせた。


「――回復能力の供給かっ!」


 チョコが飛び上がるような大声で叫んだ。

 驚く僕達の視線に構わず、彼は研究者としての顔でぶつぶつと何事かを呟いている。


「魔法少女ブルーの特殊な回復能力。彼女の血から得た魔力が、君の回復能力を高めたんだっ。そうかその手があったのか。通常の魔力供給ではなく能力の供給によって治癒力を向上させる……!」

「え、ええと。つまり?」

「湊くんは雫ちゃんのキスで助かったってこと!」


 ぶわっと雫ちゃんが顔をあげる。彼女はそのまま、勢いよく僕に抱き着いた。柔い肌の感触をもろに感じ思わず赤面する。

 苦しいくらいの抱擁を引き剥がしはしなかった。

 彼女の熱い涙がほとほとと僕の肩に落ちていっていたから。

 ごめんね、と雫ちゃんは濡れた声を震わせた。僕は目を閉じてそっと彼女の背中を撫でた。


「僕を助けてくれてありがとう」


 その言葉に雫ちゃんは顔をあげた。そして柔らかく微笑んだ。心に染み入るような笑みだった。

 それだけで。死ぬ寸前まで頑張った甲斐があったと思うのだ。


「お姉ちゃんのキスで怪我が治る? ちょ、ちょ、お姉ちゃんこっち来てよ。こっちの人にもキスしてやりなって」

「えあっ。ちょっと晴! じゃ、邪魔しないで……。ああっ千紗ちゃん!」

「ほらキスしなキス。濃厚なやつ一発よろしく」

「あっあっあっ待って待ってキスじゃなくて血だけでもいいみたいだか……ンムーッ!」


 晴ちゃんに引っ張られていった雫ちゃんが千紗ちゃんとキスをしていた。僕のときより濃厚なやつだった。見ているのが申し訳なくなって真っ赤な顔を反らす。


「まったく。ここまでするかよ普通」

「うぎゃ」


 近寄ってきた澤田さんが僕の頭をぐしゃっとかき回す。わざわざ血だらけの右手で撫でられたものだから髪にべっとりと血が付いた。

 ボサボサになった前髪のすきまから彼を見上げ「覚悟入れてもらいましたから」と笑えば、彼は何とも言えない苦い顔で笑った。


「漢だな」

「…………はい」

「じゃあ、最後まで漢を貫き通せよ」

「はい?」


 澤田さんは煙草を咥えてひらっと立ち去る。その背を追って後ろを見た僕は、そこに立つ祥子さんを目に留めた。祥子さんは鋭い眼差しで、僕を睨むように見つめていた。

 立ち上がった僕は祥子さんと雫ちゃんを視界に入れる。二人はお互いの顔を一度見合わせ、それから揃って僕を見た。


「…………ごめん」


 頭を下げた。深々と。彼女達の足しか見えなくなるくらい。


「君達の思いに向き合わずに逃げていてごめん。君達の思いに応えられなくてごめん」

「……………………」

「本当に……ごめんなさい」


 余計な言葉はもう付け足さない。重苦しい沈黙に、背中が緊張で張りつめた。

 愛しい人に好きだと告白する気持ちは、これよりもっと重いものだろうけれど。


「……もういいよ」


 祥子さんが長い溜息を吐いた。コツンと彼女の爪先が僕に近付いてくる。


「君はもう昔の湊くんじゃない。私を好きでいてくれたときの君はもういない」

「祥子さん……」

「私が何度言ったって無駄なんでしょう? 変身して、死にかけてまで皆を助けにきたんだもんね」


 耐え切れずに上げた視界に祥子さんの顔が映る。彼女はその目を潤ませて、口元には優しい笑みを浮かべていた。

 恋人との別離で浮かべるみたいな顔だと思ったし。実際それは、間違いじゃなかった。


「変わったね湊くん」

「しょう、」


 祥子さんが僕に抱き着いた。さきほどの雫ちゃんとのときよりもずっと細やかで、力の入っていない抱擁だった。

 彼女の体は切なくなるほど熱かった。震える華奢な肩に思わず手を伸ばしかけて、やめる。

 祥子さんの体もよく見れば傷だらけだった。破れた裾、擦り傷だらけの肌。

 間近で見てはじめて僕は思い知った。彼女がどれだけ頑張ってここに来たのか。彼女がどれだけの思いで僕を守ろうとしていたのか。


「君の優しいところが、本当に大好きなのよ」


 吐息のような言葉を残して祥子さんは僕から離れた。余韻も残さぬさっぱりとした顔をして、彼女は僕に背を向ける。

 ふと中学時代を思い出した。僕の恋人として隣で笑っていた祥子さんの姿を思い出した。

 あのとき僕が彼女に抱いていた恋心だって、間違いなく本物だったんだよ。


 祥子さんは立ち去り際にポンと雫ちゃんの肩を叩いていった。雫ちゃんはちょっと驚いた様子で目を丸くして、おどおど祥子さんと僕を交互に見つめた後、意を決したように真剣な眼差しで僕を見た。


「湊くん」

「…………うん」

「か、帰ろっか」

「え」


 予想外の言葉に僕はキョトンと目を丸くする。


「だって、えっと、もうすぐおまわりさんが来ちゃうかもだし。信者さん達が戻ってきたら危ないし。皆の怪我も早く病院に行って見てもらいたいから……」

「あ、ああうん。……いやそれより。雫ちゃんは、ええと、僕に言いたいこととか、さ」

「じゃ、じゃあ、えっと」

「うん」

「仲直りの握手……しよ?」

「えっ」


 やっぱり僕は目を丸くした。

 だって彼女が一番僕に言うべきことが色々あるはずだった。罵倒して殴ってくれたって構いやしないと思っていた。

 けれど雫ちゃんは仄かに頬を赤らめて手を伸ばしてくるだけだった。困惑しながらも彼女の手を握り返す。


「ふふ」


 それだけで。たったそれだけで、雫ちゃんは晴れやかな満足そうな笑みを浮かべた。

 雨上がりの空のように、澄み切った綺麗な笑顔だった。

 僕が何かを言おうとしても、それを遮るように彼女は首を横に振る。そしてまた酷くスッキリとした顔で笑うのだ。


「湊くん」

「ん?」

「迎えに来てくれてありがとう」


 僕は静かに息を飲んだ。

 返事を吐き出すとともに、


「…………うん」


 僕もまた彼女に向けて微笑んだ。

 それだけで、僕と雫ちゃんには十分だと分かったのだった。


「じゃ。警察が来る前に、皆で逃げようじゃないか!」


 空気を読まない呑気なチョコの声が響く。皆が急ぎ足でぞろぞろと穴から外に出て行った。倒れていた千紗ちゃんも澤田さんが器用に片腕で抱えて運ぶ。幾分顔色の落ち着いた彼女は小さな寝息を立てていた。

 僕はそれを見送ってから横を見た。隣にいたありすちゃんがパチリと僕を見て、慌てて顔を背ける。気まずそうな苦しそうな複雑な表情は、彼女を随分と大人びて見せていた。


「ありすちゃん」


 彼女の名前を呼ぶと小さな肩に力がこもる。ごめんなさい、と青ざめた唇から零れる声は酷くか細かった。


「この間は酷いことを言ってごめんね」

「ち! 違うわ。私が悪いのよ。私が全部……!」

「助けに来るのも遅くなってごめんね」

「っ。あ、う」

「……困ったり、苦しんでるなら、僕を頼ってよ。助けを呼んでくれよ」

「…………ぅ」

「僕達、友達だろ」


 違う? と僕は意地悪く彼女に尋ねた。ありすちゃんは唇をわななかせ、大きく見開いた目からボロリと涙を零した。


「ち、違わないわ。私と湊先輩は、友達よ。とっても大切なお友達よ」


 うん、と僕は彼女の涙をぬぐう。ありすちゃんはじわじわと鼻の頭を赤くして、目を潤ませたまま笑った。

 それでいい。僕は彼女に泣いてほしいわけじゃない。ただ幸せに笑っていてほしいのだ。

 国光だってきっとそう言うさ。


「帰ろっか」

「……うんっ」


 僕はありすちゃんの手をとった。あたたかい手が僕の手を握り返してくる。

 ビームで開いた巨大な穴をくぐると、スッと冷たい風が僕達を洗い流す。頭によどんでいた熱が冷まされて心地よかった。

 ありすちゃんの副作用、僕の夢、聖母様、黎明の乙女との決戦……。考えるべきことはいっぱいあって、ちっとも減ってやいないのだ。


「空が綺麗ね」


 だけども今は、何も考えずに皆でいつもの日常に戻りたい。

 ありすちゃんの言葉につられて空を見上げた僕は、透き通るように美しい青空を見て、ああと息を吐いた。清々しい青空に何故だか無性に泣きたくなった。


 ありすちゃんが笑う。そんな彼女を見て、僕も笑った。

 いつまでも皆で笑っていたい。それが僕の、新たな夢だった。

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