第67話 怪物VS怪物

 私は皆を助けるヒーローになりたかった。


 大量に飛び散った血が視界をおおった。弾け飛んだ瓦礫クズが口の中でジャリジャリと音を立てる。苦いコンクリートの味を舌に感じながら、私はふと、以前食べたイチゴクリームサンドの味を思い出していた。

 二ヶ月ほど前の話である。


 昼休みのラウンジは穏やかな時間が流れていた。

 日差しがあたたかな日だった。柔らかな風が雫ちゃんの髪を揺らすのが、見ていて心地よかった。偶然廊下で出会った雫ちゃんを昼食に誘って、私達は一緒にお弁当を食べていた。


「もう。どうしたらそんなに口を汚せるの?」


 雫ちゃんは私の頬にハンカチを当てて困った顔をした。イチゴクリームサンドをほおばっていた私は、指先についたクリームをぺろっと舐める。


「甘いものを前にすると我を忘れちゃって……」

「ほら、こっち向いて」

「おむ」


 ハンカチが顔中のクリームを綺麗にぬぐう。ありがと! と私はまたパンにかぶりつき、両端から大量のクリームを溢れさせてスカートに全部零した。雫ちゃんは困惑しながらまたクリームをぬぐってくれる。

 本気を出せばもう少し綺麗に食べられるのよ、と言いかけたのをぐっと堪える。だって言ったらもう雫ちゃんはハンカチで私の口を拭ってくれないだろうと思ったから。


 お姉ちゃんみたいだなって、ちょっぴり甘えていたのだ。

 雫ちゃんは千紗ちゃんとも湊先輩ともちょっと違う。優しくて、あったかくて、柔らかくて……お母さんとちょっと似てる。

 一人っ子だから兄妹に憧れていた。だからか私はときどき、湊先輩も千紗ちゃんもいないときに雫ちゃんに甘えるときがあった。


「ありすちゃんったら」


 そう言って。ちょっぴり困ったような、でもそれが嬉しいような。彼女のそんなほろほろした甘い微笑みが大好きだった。

 彼女はいつも優しく笑ってくれる人だった。




「繧ゅ≧險ア縺励※」


 魔法少女ブルーの真の姿は、巨大なタコに似ていた。

 おびただしい触手の上に乗った丸い頭部。人間の顔と同じ大きさの目玉が怪物姿の私を凝視する。

 ブルーちゃんの咆哮が会場を揺らす。ビリビリと足裏に伝わる振動に思わず飛びのけば、青黒い触手が床を叩いた。

 瓦礫が飛ぶ。柱が砕ける。呆気なく飛んだ椅子が壁に当たって粉々になる。

 一発が重い。重圧が酷い。心臓からドクドクと溢れる脂汗が黒い粘液になって流れていく。


「わあっ。わあ、天井が落ちてくる。壁が倒れてくるよぅ」

「ちょっと黙ってなさいよっ」


 慌てふためくチョコを抱えた祥子さんが、雨水のように降ってくる瓦礫を必死に避けている。

 最初こそ、私はブルーちゃんを攻撃するつもりはなかった。でもだめだ。悠長なことを言っている場合じゃない。彼女の攻撃は強烈だった。私が避けた攻撃が祥子さん達の方に向かうんじゃないかと考えると……。

 私は歯を食いしばってブルーちゃんを攻撃した。伸ばした触手が柔い彼女の頭部に当たる。しかし、柔すぎた。私の放った触手は彼女の頭を破りそのまま貫通してしまった。


「繧ョ繧」繧」ッ」


 ぎぃ、と怪物の悲鳴があがる。ブルーちゃんの悲鳴じゃない。私の悲鳴だ。

 戸惑って動きを止めた私の目の前で。魔法少女ブルーは『再生』した。欠けた肉がボコリと泡立って傷を塞いだのだ。呆気に取られる暇もなく、彼女の触手に容赦なくぶん殴られる。


 怪物にはそれぞれ特徴がある。

 チョコに聞いた話だ。私は体の頑丈さ、イエローちゃんはスピードの速さ。ブルーちゃんは回復能力。

 聞いたときは便利だなぁと呑気に思うだけだった。けれど『敵に回すと恐ろしい』という言葉の意味を今この瞬間ひしひしと噛み締める。攻撃してもすぐ体が再生するなんて、敵に回したら、厄介すぎる能力じゃないか。


「縺企。倥>髮ォ縺。繝」繝ウ縲り誠縺。縺、繧、縺ヲ」

「ギィ――――」

「蛯キ莉倥¢縺溘¥縺ェ繧、縺ョ」

「キュィ――――イィ」


 お願い雫ちゃん、落ち着いて。傷つけたくないの。

 口から零れる言葉は異質にざらついたノイズ。自分でさえも何を言っているか分からないのに、ブルーちゃんに届くわけがない。

 彼女の水っぽい眼球はずっと痙攣していた。千切れた血管のせいで白目の部分がじわじわと赤く染まっていく。口らしき部分からぶじゅぶじゅと泡立った粘液が溢れ、彼女の怒りを表現しているようだった。


「…………?」


 様子がおかしいと気が付いた。

 容赦のない攻撃。我を忘れた怒り。胃をすり潰すような凄まじい咆哮。

 魔法少女の幻覚だったとはいえ、私はこれまでもブルーちゃんの戦いぶりを見てきた。そのときと今の戦い方はまるで違う。いくら怒り狂っているからとはいえ、彼女がここまで周囲をかえりみず暴れるとは思えなかった。まるで完全に理性を失ったような戦い方だ。


 ……ふと生じた憶測に、私は目を大きく見開いた。

 薬物。黎明の乙女が生産しばらまいている灰色の薬物は、依存性が高く体への害が強い。脳味噌をとろかすその薬物はけれど無味無臭で、飲み物や食べ物に紛れていても気付きにくい……。

 雫ちゃんが黎明の乙女と関わっていたその数日間。もしも気付かぬうちにお茶に薬を混入されていたとすれば? 知らぬうちに中毒になり、その『薬への渇望』を『黎明の乙女への信仰心』と誤認してしまったとすれば?

 すべては憶測だ。けれどもしもそう考えると、短い期間で雫ちゃんが黎明の乙女に陶酔してしまったことも、今こうして容赦なく私達を倒そうとしていることも、納得がいく。


「どこに行くのよっ」


 思考を鋭い声が貫く。戦闘に気を取られていた私は、聖母様が千紗ちゃんのお母さんと共に会場を出て行こうとしている姿にそこでようやく気が付いた。

 まずい、逃げられる!

 全力で床を蹴る。足裏で椅子がバキバキと砕ける音がする。刺さる椅子の破片にもかまわず私は飛んだ。飛びかかってくる怪物を目にして千紗ちゃんのお母さんが悲鳴をあげた。

 けれどのんびりと振り返った隣の聖母様は、ローブの下から覗く口元に緩やかな弧を描いた。


 三秒。

 聖母様が千紗ちゃんのお母さんから魔法少女のステッキを奪い、小声で呪文を唱えた時間だ。


「!」


 閃光が空気を切り裂く。キラキラと魔法みたいにきらめく輝きは、寸前まで私の体があった空間を根こそぎ焼き尽くした。

 咄嗟に体を捻っていなければ、考えてから動いていれば、間に合わなかった。残滓の光だけでも物凄い熱量だ。直撃……いいや掠りでもしていたら、体の半分が抉れていた。

 ゾッと頭が冷たくなる。けれど恐れている暇さえ、今の私にはなかった。


「ッ」


 背中に重い触手が叩きつけられた。バランスを崩した私の巨体はドウッと地面に崩れ落ちる。

 衝撃に分厚い涙の膜が張った視界の向こうで、聖母様が優しい微笑みを残して会場を出て行く姿が見えた。

 追いかけようとした。だけど背中を殴打するブルーちゃんの触手は重く、立ち上がることさえままならない。祥子さんとチョコが追いかけようとしてもブルーちゃんが暴れているせいで近寄ることもできない。


「さようなら、怪物さんっ」


 少女のように可愛らしい挨拶を一つ残して扉が閉まる。

 その途端私の胸に激しい怒りが燃えあがった。


「逡懃函!」


 悔しさに吠えた。怒りに任せて殴った床がヒビを走らせる。

 目の前で聖母様を取り逃がした。あれだけ近くにいたのに。あと一歩でも近ければ捕まえられたはずなのに。倒すべき相手を寸前で取り逃がした怒りに、私は狂おしく絶叫した。

 けれど、そんな悲鳴を背後から伸びた触手が無理矢理塞ぐ。

 ハッと眼球だけを動かして振り返れば、おびただしい触手の海が私をブルーちゃんの元へと引きずり込もうとするところだった。血走ったブルーちゃんの目を見て、私は恐怖に絶叫する。


「逶ョ繧定ヲ壹∪縺帙¥縺昴▲縺溘l」


 横から飛び込んできた鋭い牙が、大量の触手をまとめて食いちぎった。

 ふっと体が軽くなる。拘束から逃れた私はすぐさまブルーちゃんから距離を取り、私の前に飛び込んできたイエローちゃんの逆立つ毛をぱちくりと見つめていた。

 カパリと口を開け、千切れた触手を床にのたうち回らせたイエローちゃんは、心臓が爆発しそうなほどの大声をあげた。


「ゴガアォッ」

「キュ―――イィ」


 イエローちゃんが吠えればブルーちゃんも吠える。

 恐怖を感じるほどの巨大な咆哮の直後、二つの怪物がぶつかった。


 牙。爪。触手。吸盤。血。脂肪。骨。臓器。

 よく分からない肉片とゼリー状の何かが飛び交う。大量の血が撒き散らされて、返り血で体を真っ赤にした祥子さんが悲鳴をあげた。

 凄まじい音が響く。怪物同士の戦いはたまらなく恐ろしかった。全身の触手をぶるぶると恐怖に震わせて、呆然と二人の戦いを見守ることしかできなかった。


 けれど先に限界を迎えるのはきっとイエローちゃんだ。

 彼女の傷はまだ塞がっていない。体を動かすたび、傷口からバケツ一杯分の血が水のように溢れてくる。血で真っ赤に染まった牙を突き立てて触手を食い破るイエローちゃんは、どう見ても気力だけで動いていた。


「闍ヲ縺励>繧医?ょ勧縺代※縲√□繧後°」


 対して、ブルーちゃんの体には傷一つなかった。

 柔い体はすぐ傷ができる。触手が千切れ血をふきだす。しかし数秒後にはあっという間に新しい触手が生まれイエローちゃんへと襲いかかる。

 脳と心臓。それさえあれば彼女は再生する。

 最初から深手を負ったイエローちゃんが倒せる相手ではなかった。


「ヒュッ」


 イエローちゃんの動きが鈍くなった瞬間、ブルーちゃんの触手が雪崩のように襲いかかった。

 いくら牙と爪が鋭かろうが、スピードが早かろうが、勝敗は最初から決まっていた。

 イエローちゃんの首に太い触手が絡みつく。二度と口を開けぬよう鼻の周りにぐるりと触手が巻き付き、そのまま彼女の体を壁へと叩きつけた。


「繝、繝。縺ヲッ」


 千紗ちゃんが死ぬ。そう思った瞬間、私はブルーちゃんに叫んだ。

 ぐちゃぐちゃと狂気に濡れた瞳は私を見てくれない。正気に戻れと言ったって、今の彼女にはきっと届かない。

 説得は無駄。ただの攻撃も意味はない。

 ならば残された方法は一つだけ。

 私は大きく空気を吸い込んだ。


「――――――――!」


 脳味噌が焼ける。

 喉奥から肉が焦げるような臭いがする。

 口の中がたまらないほどの熱を持つ。

 喉の奥がまばゆく発光していた。全身の触手がビリビリと震えて、心音がこれまでに聞いたことがないほど激しく鳴った。


 魔法少女の必殺技。

 それが、全てを焼き尽くすただのビームだと、私はもう知っている。


 光がブルーちゃんの体を照らし、彼女がようやくこちらを見た。ぷるぷると柔らかそうなその皮膚は、この熱ならば一瞬で焼き尽くすことができるだろう。

 大丈夫。心臓を残せばいい。脳を残せばいい。殺すわけじゃない、生かすためだ。

 あまりの光に祥子さんが目を覆って崩れ落ちる。チョコが両目を覆って甲高い悲鳴をあげた。

 私は大きく息を吸い込んで。ビームをブルーちゃんに向けて、口を開けて。そして、


 もう、ありすちゃんったら。


 分厚い閃光が壁を貫いた。

 爆発した空気がすべてを吹き飛ばした。椅子も、壁に貼られていたポスターも、テーブルも全部おもちゃみたいに空中へと舞い上がる。熱波が会場中に吹き荒れる。

 幻みたいに儚くて、悪夢みたいに長い時間のように感じた……。


 それから幾秒たったのか。ふっと私の体から力が抜け、目を焼くような光は消えた。ビームの残滓がパチパチと空中で弾けている。

 壁にはぽっかりと大穴が空いていた。その向こうには広い空と広い大地が広がっていた。柔らかな芝生が広がっていたのだろう地面は、ほとんどの草が吹き飛び茶色い土を露わにしていた。残った芝も真っ黒に焦げている。

 祥子さんとチョコが茫然と大穴を見つめていた。二人は乱れた髪もそのままに、視線をゆっくりと大穴の横にスライドする。

 そこにはブルーちゃんがいた。彼女の体には一切怪我がなかった。


「縺ァ縺阪リ繧、繝ィ」


 私は彼女を撃たなかった。

 雫ちゃんを撃つことなんて、私にはできなかった。


 伸びた触手が私の喉に巻き付いた。あっと思う間もなく、私はイエローちゃんの隣に叩きつけられた。イエローちゃんに絡みついていた触手までもがずるずると私に移動してくる。

 拘束がほどけたイエローちゃんが落下する。壁を滑るように落ちたイエローちゃんは、地面に倒れると同時に変身が解けた。祥子さんが慌てて駆け寄ってその体を抱き起こす。蒼白の顔をした千紗ちゃんはぐったりと目を閉じ身動ぎ一つしていない。


 けれど彼女達を心配することはできなかった。その間にも、ブルーちゃんのぬるついた触手が私の喉を締め上げてきていたからだ。

 息ができない。心臓が早鐘を打って今にも壊れそうだ。顔を真っ赤にしてぶるぶる震えながら、ぼんやり潤む目にブルーちゃんを映す。

 ブルーちゃんの濁った目には、なんにも映っていなかった。


「…………縺斐a。ナ……、……さィ」


 デロッと黒い粘液が体を滑り落ちた。触手を引き剥がそうともがいていた腕が、いつの間にか見慣れた肌色に戻っている。

 変身が解けかけていた。ゆるゆると私の体は小さくなっていく。変身が完全に解ければ怪物の全力が私に襲いかかるだろ。

 人間の細首などひとたまりもない。


「ごめっ。ん、ねぇ」

「……………………」

「めんね。しず、じずぐぢゃ。ゲポッ」

「……………………」

「ごべんね…………」


 喉から血の塊を吐き出しながら私は泣いていた。

 悲しかったから。

 雫ちゃんにここまで我慢させてしまったことが。彼女がこんなに追い詰められるまで何も気づかなかった自分が。悲しくて悔しくてたまらなかった。


「っ……。…………」


 ごめんねという言葉すら、もう掠れた呼吸音にしか聞こえない。

 ミシミシと頭の奥に響く音は多分首の骨が折れかける音だった。真っ赤に潤んでいく視界はもうブルーちゃんの姿を映すこともできなかった。

 きっと私はここで死ぬのだろう。


「…………た」


 助けて。

 誰か助けて。

 私は死んだっていいから。どうなったっていいから。

 でもせめて雫ちゃんだけは。


「……………………」


 助けて、ヒーロー。





「――――やれ!」


 銃弾の嵐がブルーちゃんの体を貫いた。

 彼女の凄まじい絶叫が高い天井に響く。触手から力が抜け、急に広がった気道に、私はゲホゲホと真っ赤な咳をした。

 突然起こった出来事に頭が追い付かない。口からだらりと血を吐きながら、私はぼうっと下を見下ろした。


 ビームで開いた大穴からはいまだ仄かな湯気がのぼっている。そこから大勢の人が雪崩れ込んできていた。

 黎明の乙女か? ……いいや違う。彼らの服は黒いスーツばかりだ。団体が着ている白い服とは真逆だ。

 重たい黒色をした謎の集団だった。服の色だけじゃない。まとう雰囲気が重々しく氷のように尖っている。状況も一瞬忘れ、私はぼんやりとその集団に目を丸くした。


 全員が銃を手にしている。前列と後列に分かれた彼らは、ブルーちゃんに向けて容赦なく銃を発砲していた。

 ブルーちゃんが甲高い声を鳴らす。金属を爪で引っ掻くような不快音に彼らの発砲がわずかに揺らいだ。その隙を狙って、ブルーちゃんが分厚い触手を振り上げる。

 しかし集団に振り下ろされる寸前。轟音と共に飛んだ一発の弾丸が触手を弾いた。


「怯むなよ」


 誰かの怒号が響く。


「背を見せるな、甘えるな、命を惜しむな」

「はい」

「ここが手前の墓場だと思って戦え」

「はい」

「青桐組の名を思い知らせてやれ」

「はいっ」


 銃声にも勝る巨大な怒号だった。

 集団のその真ん中に立つ男がドスの効いた声で仲間の背をぶん殴っている。

 ぎらついたその目が私を見つめていた。いつも涼しげな顔は今、獰猛な笑顔を浮かべていた。さっぱりとした前髪を風に揺らして。澤田さんは怒鳴るような大声で笑った。


「やぁ魔法少女。助けに来たぜ!」


 ブルーちゃんが雄叫びをあげる。もう一度澤田さんに向けて触手を振るおうとした彼女は、けれどピタリと空中で触手を止める。

 澤田さんの後ろにもう一人。その人物は澤田さんの腰にしっかりとしがみ付き、驚愕の目をブルーちゃんに向けている。黒髪を肩にふるふると揺らし、真っ青な唇を小さく開いた。


「お姉ちゃん?」


 その子はきっとそう言った。雫ちゃんの妹の、晴ちゃんだった。

 ブルーちゃんの触手が緩む。私の体がずるっと滑り落ちた。変身は完全に解けていた。数メートルの高さから落下すればただでは済まないだろう。けれどもう一度変身する気力は残っていなかった。

 体が真っ逆さまに落ちていく。酷い耳鳴りの中に、体が風を切る音がビュウビュウと混じって聞こえた。

 その中に誰かの足音が混じる。

 地面に激突する寸前。私の体を、誰かが力強く抱きとめた。


「ありすちゃん!」


 一番聞きたくて。一番聞きたくなかった声が私の名前を呼んだ。

 私は茫然と目を丸くして、私を覗き込む湊先輩の険しい顔を見つめた。

 体が強張る。私は愕然と唇を震わせて「なんで」とか細く問いかけた。湊先輩は僅かに表情を和らげて答える。


「君達を探していたらビームが見えたんだ。きっと君だと思って」

「ちが、ちがう。なんでっ? なんでここにいるの」

「君達が雫ちゃんを助けるためにここに来るって聞いたから」

「なん…………」

「どうして僕に黙っていたの」


 湊くん、とか細い声が横から聞こえた。顔をあげた湊先輩の視界の先に顔を真っ白にした祥子さんが立っている。彼女の手が力なくぶらりと下がり、落とされたチョコが「あべぶっ」と顔を押さえてコロコロ地面を転がった。

 湊先輩は祥子さんを見つめて、色っぽいほど掠れた微笑みを浮かべた。私に問いかけたものの、彼は私が黙っていた理由を既に知っているようだった。

 ごめんねと彼は祥子さんに言った。自分を守るために必死だった祥子さんの行動を受け止め、けれどそれを拒絶してしまったことへの謝罪だろうと察する。


「僕は、友達が苦しんでいることを知っていて、安全圏でのんびりするだけの人間はなりたくない」

「っ」

「怪我をしたって、傷付いたって、死んだとしたって……。それでも僕は友達を助けに行きたい。自分が犠牲になったって、代わりに誰かが笑顔になってくれれば幸せなんだ」


 だからごめん、と湊先輩は言った。祥子さんは俯いて肩を震わせて、結局何も口にはしなかった。今の彼にはこれ以上何を言っても無駄だと彼女が一番分かっているのだ。

 湊先輩は私を見下ろしてそっと目を細めた。私は静かに泣いていた。両目から涙を零す私に「怪我が痛むの?」と彼は背中を擦ってくれた。その声があまりにも優しくて、私はとうとうしゃくりあげる。


「ごめんなさい。ごめんなさい湊先輩。ずっと謝りたかったの。私のせいでたくさん傷付けちゃってごめんなさい。国光先輩を殺してごめんなさい。大変なことに巻き込んで、今まで散々私のことを守らせて、我儘ばかり言っていて、ごめんなさい」

「…………うん」

「もう二度と先輩には関わらない。これが終わったら私のことをどうにでもしていいわ。殺したっていいわ。……でも、でもでも。さ、最後に一つだけ、我儘を言わせて」

「うん」

「私の代わりに雫ちゃんを助けて」


 最低の我儘だ。叶えっこないお願いだ。怪物相手に人間の湊先輩が勝てっこないって私はちゃんと分かっているのに。

 彼は黙って私を見下ろしていた。サラリと垂れた黒髪の隙間からしんと静かな目を私に落として、それからゆっくり首を横に振った。


「嫌だ」


 そして、続けて。


「君も助ける」


 ふ、と私の喉から熱い吐息がこみあげた。見開いた目から零れた大粒の涙を、湊先輩の指が優しく拭った。

 湊先輩は私の体をそっと床に横たえた。そのまままっすぐと歩き出す。

 彼が向かう先はブルーちゃんの足元だった。澤田さんが素早く手を上げれば、銃弾の嵐がピタリとやむ。

 緊張感が張りつめた空気の中。巨大な怪物姿のブルーちゃんと人間の湊先輩が向かい合う。


「ごめんね雫ちゃん」


 ブルーちゃんは水っぽい呻き声をあげてボコボコと体を泡まみれにしていた。銃弾で体の半分が崩壊していた彼女だったが、徐々にあちこちの傷が塞がっていく。血走った目はぎゅるぎゅると痙攣している。大好きな人を前にしても彼女の正気は戻らない。

 再生が終わればまた攻撃がはじまる。

 地雷原よりも遥かに危険な場所に立っているはずなのに。湊先輩はちっとも焦らず、穏やかな顔でブルーちゃんを見上げていた。


「今まで君のことを見ていなくてごめん。傷つけてごめん。これからは、ちゃんと君と向き合いたい。話をしよう」

「キュウ、イ。ィ。イギィ」

「だからまずは、一緒にここを出よう」

「ギイイィィッ」


 湊先輩がポケットから小さな瓶を取り出した。ドロリと濃厚なピンク色の液体が揺れているのを見て、チョコが「変身薬だ」と大声をあげた。

 ぶわりと大量の泡が空中に弾けた。ブルーちゃんの再生が完全に終わったのだ。

 青黒い触手が振り上げられたのと、湊先輩が薬を一気に飲み干したのは同時だった。


「――――変身」


 湊先輩の手の中で。小瓶がバキリと砕け散った。

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