第64話 世界から忘れられる君

 ■月■日。てんき:ハレ。

 きょうは、とてもすてきな一日でした。


「ごめんなさい」


 あたまが痛いからがっこうをおやすみしたいの。そう言ったのは、あさごはんのホットケーキを食べているときのことでした。あまいシロップとろとろのホッ■トケーキに、のうこうホットミルク、いちごとキウイのフルー■ツサラダ。マ■■マが作ってくれるあさごはんはとってもおいしいのです。

 パパとママはわたしを心配して、がっこうに電話をしてくれました。もちろん頭がいたいのはウソです。私ははじめてがっこう■をサボってしまいました。


「ごめんなさい」


 かわりにたくさんお手伝いをしました。おふろとトイレそうじ、おへやのそうじきがけ、庭のお花さ■■んたちへ水やり……。ママはとってもよろこんで、私のだいすきな苺のケーキを作ってくれました。おいしかったです。

 ケーキをた■べながらまほう少女の■アニメを■見ました。『魔法少女少女ピンク』はわたしが一番さいしょに見たまほ■■うしょうじょの作品で、いちばん大好きなアニメです。とってもむかしのアニメなのでテープがガサガ■サできれいに見れないけれど、とてもとても面白いのです。


 わたしはまほうしょうじょになるのがゆめだったのでした。


 夜ごはんはだいすきなカレーで■す。ママの特製濃厚甘口カレーはせかいいちです。お■か■わりをしました。その後はお風呂にはいって、パパとママと人生ゲームであそびました。一等になれてうれ■しかったです。

 いつもよりおそくまで起きていたかったけれど、ジュウニジになるころにはもう寝なさいとおこられちゃい■■ました。パパとママのほっぺにおやすみのキスをして、わたしのほっぺにもおやすみなさいの■キスをしてもらって。ニコニコお■へやに行■くと、チョコはもうベッドでぐうぐういびきをかいて寝ていま■■した。

 私はそれをみて、べっどのしたにかくしていた袋をとります。ホームセンターでかった長いロープがはいっています。

 つく■えにのります。てんじょうにロープ■をむすびます。わっかを作■ります。首■をつっこみます。

 準備が出来ました。


「ごめんなさい」


 私は机を大きく蹴って飛びました。

 いい夢が見れるといいなと。最期に、そう思いました。

 さよなら、可愛いありすちゃん。きっといい夢を見れますように。


 ■月■日。姫乃縺ゅj縺。





「────ありす!」

「げぽっ」


 口から酸っぱい吐瀉物が噴き出した。生臭い胃液の臭いに眩暈がする。

 肩が痛かった。ママの爪が食い込んでいるからだった。胸がドクドクと痛むのはママが心臓マッサージを繰り返したからで、泣きじゃくるママの唇がゲロで汚れているのは私に人工呼吸をしてくれていたからだ。


「あ、ああ。よかった。ママよ。分かる? ああ、ああ、よかった」


 私は横になっていた。吐瀉物で黄色く染まったカーペットに頭をくっつけ、天井でブラブラ揺れているロープの切れ端を眺めていた。

 首元に手を当て、ロープが途中で切られていることに気が付く。傍らに落ちているハサミを見て、状況を悟る。

 私の自殺はママに止められたらしい。


「死なないでありす。お願いだから。ママを一人にしないで……」


 ママの涙が私の体を濡らす。私は青を通り越して真っ白になった母親の顔を見て、声をかけようとしたけれど、吐くのに忙しくて声を出すこともできなかった。

 しばらくの間私を抱きしめていたママは、ようやく落ち着いてくると何も言わずに私の身支度を整え始めた。清潔になった私の腕を引き、自分達の寝室へと連れていく。隣のベッドではパパがいびきをかいて眠っていた。娘の危機にまったく気づかぬ様子の父親を見て、ほんの少し可笑しくなって笑ってしまう。喉からは血の味がした。

 ママのベッドに横になる。ふわふわお姫様みたいなピンク色のシーツに、私とママの揃いのピンク色の髪が広がる。繋がれた手の拘束は強くて、夜中にこっそり抜け出すことなどできそうになかった。

 ママのベッドでママと一緒に眠る。そんなことをするのは、子供のとき以来だった。


「夢を見たのよ」


 唐突にママが言った。枕元に並ぶぬいぐるみ達が黒い目で私達を見つめている。

 窓から覗く夜空には小さな星が点々と光っていた。


「誰かがママを呼ぶ夢。『早く起きて。ありすちゃんが大変だよ』って呼ぶ声。それで目が覚めたのよ。気のせいだと思ったのだけれど、妙に胸騒ぎがして」


 私の視線はぬいぐるみの山に向けられていた。ママのベッドをいろどる可愛いその子達の中に一つ、僅かに身動ぎをするピンク色の毛が紛れている。私の部屋で眠っていたはずのチョコはまるで最初からここにいましたよと言いたげなすまし顔でそこに座っていた。


「ママ」

「なぁに」

「私も夢を見たのよ」

「どんな夢?」

「魔法少女になって世界の皆を守る夢」


 私の声は酷くしゃがれていた。言葉を発するたび、砕いたガラスを飲み込むようなジャラジャラとした痛みが走る。何度も唾を飲みこんで痛みを誤魔化し、必死に言葉をつむぐ。


「幸せな夢だった」

「素敵。それはきっと、正夢なのよ。あなたはいつか絶対に素敵な魔法少女になれるのよ」

「長い夢だった」


 ママの手が私の背中を撫でる。子供をあやす、温かな手だった。私は喉からくすぐったい笑い声をあげてママの胸に抱き着く。

 顔を見られたくなかったからだ。絶望したこの顔を、ママに見られたくなかった。


「大丈夫よありす。あなたの夢は絶対に叶う。ママはあなたのことをいつまでだって応援しているわ」

「ありがとう、ママ」


 私はきっともう二度と夢を見ることはできない。

 私はもう、死んでしまいたかった。




「今日は学校を休んでもいいんじゃない?」


 鞄の中からチョコが言った。私は答えず、通学路を歩く。

 既に一時間目がはじまっている時間だった。朝方賑わうこの道も今はほとんど人通りがなく、私のスカートがそよ風に吹かれているだけだった。


「ママも心配していたじゃないか。お家でゴロゴロしよう! お昼の連続ドラマ、結構気になる続きだったんだ。殺し屋と仲良くなった女子高生があの後どうなったのか気になって気になって……」

「静かにしてよチョコ」


 私の言葉にチョコは不満げに鞄を内側からボスボスと蹴る。不自然に膨らむ鞄を胸元に抱え、私は低い声でチョコに告げた。


「ぬいぐるみは普通喋らないから」


 チョコはそれきり何も言わなくなった。シンとした鞄を手の平で軽く叩き、私はまた通学路を進む。

 線路に差し掛かったところでカンカンとけたたましい音が鳴る。踏切が下がり、遠くから電車が近付いてくる走行音が聞こえてきた。


「……………………」


 普段何人かが立ち止まっている踏切。でも今ここにいるのは私だけだった。

 カンカンカンカン。うるさい音が、鼓膜を引っ掻いて脳味噌にしみていく。鞄の中にいるチョコは外の景色が見えていない。周囲の住宅は窓がしまっていて誰も外に出ていない。

 こんな踏切一つくぐり抜けたって。きっと誰にも気づかれやしない。


「っ」


 プーッと背後からクラクションが鳴った。

 息を飲んで振り返った私の背後を、電車が轟音を立てていつも通りに通り過ぎていく。

 車が踏切待ちをしていた。高そうな車だった。暗いガラスの向こう側で、運転手さんがにこやかに手を振っている姿が見えた。

 澤田さんだった。



「学校に行くところだろう? 送ってあげるよ」

「どうも!」

「あ、ありがとう……ございます」


 鞄から飛び出したチョコが私の膝の上でにこやかに笑った。

 車内はミントの香りがした。さっぱりとした匂いは澤田さんの爽やかな雰囲気とよく似合っていた。澤田さんはガムボトルを差し出して「食べる?」と聞いてきた。けれど開けてみると中に入っていたのはミントガムではなく、白い錠剤の粒である。


「ラムネ?」

「ううんお薬。元気になれる」

「……………………」

「はは冗談、捕まるような代物じゃないよ。市販の精神安定剤。今の君には必要かと思って」

「えっ」

「偶然ここを通りかかったとでも思った? 様子を見に来たんだよ、君の」


 チョコが薬をボリボリむさぼって、まずいと顔をしかめて全部ティッシュに吐き出した。お菓子だと思ったのかと澤田さんが笑う。

 澤田さんの指が滑らかにハンドルを動かす。五本の指、そのどれもが傷だらけだった。欠けた爪にかさぶたのできた節、血のにじむ絆創膏に、剥がれかけの皮。

 全てあのハロウィンの夜にできた傷だった。

 あの夜からまだたった数日しかたっていない。


「あの晩君の様子がおかしいことには気が付いていたさ。だけどあの夜は色々なことがあった。黒沼と俺は街の被害を押さえるのに忙しかったし、鷹も湊くん達のフォローに必死だった。逃げるようにあの場から立ち去った君の様子を見に来るまでに相当時間がかかってしまった」

「っ、あ……」

「薬抜き中のジャンキーみたいな顔しちゃって、まあ。死なないでいてくれてよかったよ」

「でもありすちゃん、昨日自殺しようとしてたんだぜ。まったくたまったもんじゃないよ」


 チョコの発言に私は慌てて「違うの」と叫ぼうとした。けれど言葉は喉につっかえて出てこず、ぎこちない表情で澤田さんを見ることしかできなかった。


「あ…………」


 汗で手の平がびしょびしょだった。スカートの裾に手を擦り付け、違うのよ、と私はぎこちなく笑って誤魔化すようにチョコの吐き出したお薬を口に入れる。唾液で少し溶けた薬が舌に苦かった。


「あの夜は。あっ、あの夜は、本当に、色々ありましたよね」

「大変だったよねぇ」

「大変でした……。魔法少女に変身したって、街中の爆発を食い止めるのは大変だったもの。本当にね。あは、は」

「……ありすちゃん?   んゃちすりあ」

「魔法少女。そ、そう。魔法少女。かわいかったぁ。イエローちゃんはやっぱりとっても足が速くてね。びゅんびゅん街中を駆け回って、皆を助けて、その牙と爪で、ね? ねぇ?」

「いなゃじぎすみの、りすく」

「ブルーちゃんだって凄かったわです! じゅるじゅるの触手がとっても綺麗でね! 千切れてもすぐ体がくっつくから。死んでも大丈夫ですよきっと。火に強いのね。たくさんの水でアッという間に炎を消しちゃってね?」

「いーお」

「魔法少女ピンクだって! 諤ェ迚ゥだもの! 皆をどんどん押し潰して殺しちゃって犯人の弟丸さんまで追い詰めちゃって国光先輩を殺しコロ殺しちゃ殺してね! ね! 死んじゃった! 国光先輩が私の姿を見て死んじゃった! 殺しちゃわたし殺し殺しねえ! あはは! 魔法少女ピンクのかわいい! 魔法少女の怪物が」

「?んゃちすりあぶうょじいだ」

「んぶオッ」


 ほっぺたが丸く膨らんだ。赤信号で車が止まった途端、私は助手席から飛び出して道路に転がる。胃の中身を全てビタビタと下水道に吐き出した。ほとんど何も食べていないから出てきたのは色の薄い水だった。その中に溶けかけの錠剤が大量に沈んでいた。


      君はよく吐くねえ


 澤田さんが何かを言っている。耳鳴りが酷くて何を言っているのか分からない。

 止まったのは街中のようだった。突然車から出て吐く私を、通行人が嫌な顔で避けていく。

 鼻水と涙とゲロで顔をべしゃべしゃにしながら私は背中を痙攣させていた。吐くものがなくなっても気持ち悪さは変わらなかった。震えながらも顔を上げた私は、ビルの大型ビジョンに流れる怪物のニュースを直視した。


「ひ」


 ハロウィンの日に暴れる怪物を収めた映像だった。

 巨大な獣がゴウゴウと唸り声をあげて街を駆け抜ける、タコのような触手をしならせて粘液をしたたらせる巨大生物、そして真っ黒な体をドロドロと粘つかせて咆哮する人型の触手の怪物。

 私の目に飛び込むその映像は。あまりにも醜悪で、見るに堪えない映像だった。

 ダイジョウブデスカ。誰かがそんな声をかけて私の顔を覗き込んでくる。具合が悪そうな私を心配する通行人の人だと思う。涙でぼやける視界の中で、徐々に人が私の周りに集まってくるのが見えた。


「大丈夫? どうしたの」「水いりますか?」「ありがとう。いやぁ、どうも車酔いをしたようで……」「どーしたの。どーしたの」「早く死ねよ」「可哀想に。まだ気持ち悪い?」「お前なんで生きてるの?」「蜒輔ヮ蜿矩#繧呈ョコ縺励◆縺ェ」


 私は悲鳴をあげて蹲った。頭を抱え、ガチガチと歯を鳴らして地面に額を打ちつける。突如絶叫して土下座をする私に周囲がどよめく。澤田さんがギョッと慌てるのが空気に伝わってくる。


「ごめんなさい! ごめんなさい!」


 謝ったって。土下座したって、私のしたことがなかったことになるわけじゃない。

 私は全部気が付いてしまった。自分がしてきたことを。醜悪な怪物に変身して街を、人をたくさん殺してしまったのだということを。

 気が付かなかった? どうして? こんなに大事なことを、何故今まで一度も知らないままでいれたの?

 長い悪夢を見ていたことにようやく気が付いたような気持ちだった。

 十五年と数ヵ月の人生。私は今このとき、自分に初めて自我が生まれたのかもしれないと、そう思った。


「――――なに往来で土下座してんだよ」

「あえ」


 不意に腕を引っ張られた。強制的に顔を上げることになった私は、ドロドロになった視界でそこに立つ千紗ちゃんの姿を見た。

 呆れ顔で私を見下ろした彼女は、そのまましゃがみ込んで、涙と鼻水と土でぐちゃでろになった私の顔にハンカチを擦りつけてきた。青いハンカチはミントの香りがした。後ろで澤田さんが片眉を上げて苦笑していた。


「こんな所で土下座なんかするなよ。目立ってしゃあないだろ。澤田もさっさと止めろよな……あ、それともそういうプレイ?」

「ちさちゃ? 何で、ここに」

「あ? ずっと後部座席で寝てたろうがよ。登校中に車見かけてさ、せっかくだからあたしも乗っけてもらおうと思って」


 彼女は顎をしゃくって澤田さんの車を差した。私は少し驚いた。彼女がいたことにも気が付いていなかった。気が付かないほど、俯いて歩いていたからだろうけれど。

 私は震える腕を伸ばして千紗ちゃんに抱き着いた。涙に濡れた頬を彼女の胸にすり寄せる。彼女は驚いて怪訝そうに舌打ちをしたけれど、私の体を突き放すことはなく、何があったんだよと気だるげな声で言った。


「ひっ。ごめんなさい……ごめんね……。ひぐ。っ、めんなさ……」

「何なの今日? いつもとまるで別人じゃんか」

「千紗ちゃん」

「あぁ?」

「し、死にたい」


 千紗ちゃんが目を見開いた。死にたい。と私はもう一度言った。

 心からの願望だった。胸のあたりが燃えるように熱かった。


「死にたい。もう全部終わりにしたい」


 毎日幸せだった。大好きなパパやママやお友達と会って、学校へ行って、魔法少女に変身して戦って、おいしいおやつを食べて……全部全部楽しいと思って生きていた。

 だけど今、私の人生に未来はなかった。自分がしでかしてきたことに気が付いた今私に明日を生きる資格なんてないと思った。

 逃げてしまいたい。許されたい。

 もう生きていたくない……。


「……おい、行くぞ」


 ベシッと千紗ちゃんが私の頭を叩く。けれど共に彼女が言った言葉は、私を否定する言葉ではなかった。そのまま腕を引かれてずるずると車の後部座席に放り込まれる。呆気に取られ涙が引っ込んでしまった。

 どこに? と視線だけで問えば、彼女は私に目もくれず答えた。


「あたしはお前を責めに来たわけじゃない。見せたいものがあったんだ」

「見せたいもの?」


 やあまいった、と澤田さんが頬を掻きながら運転席に戻ってきた。そこの自販機で買ってきたらしい飲み物を私と千紗ちゃんに放る。千紗ちゃんにはブラックのコーヒーを、私には超激甘と書かれたカフェオレを。


「俺も千紗ちゃんから話は聞いている。映画研究部の作品をありすちゃんに見せたいんだってさ」

「ああ。……昨日いくつか作品のチェックをしてたら、気になる映像があってよ」

「ど、どういう作品? コンテストに応募する作品? 私、アドバイスなんてできないわ」

「そういうものじゃない。お前が映っていたはず・・の映像作品だよ」


 私は首を傾げた。膝に座るチョコも揃って首を傾げた。彼女の意図がいまいち掴めない。だが映っていた『はず』という妙な言葉が、一番心を不安に逆撫でた。

 ヤクザを足に使うなよ、と澤田さんは千紗ちゃんと同じブラックコーヒーを一口飲んで、低く喉を震わせるように笑った。車が発進する。私はカフェオレを一口飲んで、少し黙ってから千紗ちゃんの肩を指でつつく。


「ね、交換しない?」

「お前ブラック飲めないだろうが」

「だってこれ甘すぎて……」


 口がベタベタしちゃう。そう言う私を見て、千紗ちゃんは少し驚いたように目を丸くした。それからフッと片頬を引き上げ、「本当に別人だな」と笑った。


「ゲロ付きそうだからぜってえやだ」

「えぅ……」


 学校に着くまでの間ほとんど会話らしい会話はなかった。学校から少し離れた駐車場に車を止めたところで澤田さんの携帯が鳴る。先に向かっているように言われ、私達は先に映画研究部へ向かうことにした。

 今朝は出会いが多かった。そしてそれは、まだ終わっていないようだった。


「お」


 前を行く千紗ちゃんが立ち止まった。彼女の視線の先、校門の横に立っている一人の女子生徒を見て私は息を飲む。私達に気が付いた女子生徒が嬉しそうに笑ってこちらに駆け寄ってきた。

 祥子さんだ。

 綺麗な笑顔にゾッと鳥肌が立つ。思わず逃げようと後退った私の腕を、あっという間に迫ってきた彼女の手が力強く握りしめた。


「やっと見つけた! ……ああ、今日は湊くんと一緒じゃないの? 残念」

「何の用だよ」


 千紗ちゃんが彼女の手を引き剥がす。敵意を込めた目で祥子さんを睨み、その喉からゴルゴルと威嚇の音を立てた。

 普通なら怯えて距離を取るだろう威嚇にも、祥子さんはむしろくすくすと嘲るように笑うばかりだ。


「喧嘩っ早くて困っちゃう。その姿でも獣っぽいのね、あなた」

「なっ」


 私達はギョッと目を剥いた。その言葉は彼女が千紗ちゃんの正体を知っているということを示していた。

 空気がひりつく。一気に警戒心を膨らませた私達に、祥子さんはのんびりと携帯を取り出してみせた。動画が再生されている。

 そこに映っていたのは街中を走る私の姿だった。しかし次の瞬間画面に激しいノイズが走ったかと思うと私の姿が大きく膨れ上がる。そしてあっという間に私は真っ黒な怪物の姿に変身した。


『螟芽コォ縲るュ疲ウ募ー大・ウ繝斐Φ繧ッ繝√Ε繝ウ!』

「随分可愛らしい魔法少女・・・・ね?」


 祥子さんがわざとらしく笑う。手前、と千紗ちゃんが犬歯を剥き出しにして唸り声をあげた。

 動画は自動で再生されていく。街中で変身する私の姿、千紗ちゃんや雫ちゃんが変身している姿が流れていく。


「監視カメラ、個人の携帯……。今の時代、人の記録って結構残るのよ。完全に自分の存在を消すことはできない」

「監視カメラね? そんな映像をお前はどこから手に入れたんだ? 警備会社におねだり・・・・でもしたのかよ」

「パパからもらったの」

「パパ活か?」

「国があなた達に関心を持たないと思ってた?」

「……あ?」

「怪物特殊対策本部。国が密かに設立した、巨大怪物の接触・交戦・捕獲・処分の全てを担当する機関」


 ピクリと千紗ちゃんの肩が跳ねた。その隣で私も身を固くした。

 湊くんには言ったけれど、と祥子さんは緩やかに説明を続けた。


「政府公認機関のメンバーの一人に華白勝敏という男がいる。彼には娘がいた。十八歳のその娘は怪物が初めて出現したこの北高校に送るにはちょうどいい人材で、かつ怪物と最も身近で目撃されることが多い伊瀬湊という少年とも以前に交流があった」

「……お前はお国の人間ってわけか。華白祥子」

「話が早くて助かるわ」


 国、と私は茫然と呟いた。急に話の規模が大きくなってついていくのに精一杯だった。けれどこの状況がまずいのだということはハッキリと理解している。

 澤田さん、黒沼さん、鷹さん。あの三人と出会ったときも皆が焦っていたことを思い出す。ヤクザ、警察、編集者という私達を脅かす存在である彼ら。あの人達が味方になってくれたことで皆がどんなに安心していたか……。

 だけど今目の前にいる彼女は国の人間だ。これまでに出会った人達の中で、最も強力な存在だった。


「な、何をしに来たの」

「あなた達に引導を渡してあげようと思って」

「は」


 彼女が携帯に指を滑らせる。画面に『パパ』と書かれた電話番号が表示された。パパという軽い言葉と裏腹に、ひとたび彼女が通話を始めれば、おそらく繋がるのはさきほど言っていた国の機関というものだろう。

 千紗ちゃんが思わず一歩前に出る。けれど彼女は唸るばかりで変身をすることはない。私だって同じだった。この時間に人通りはほぼなくなっているとはいえここは校門である。校舎からふと視線をやれば簡単に見えてしまうような場所で、変身することなどできなかった。


「動かないで。校門の周囲は現在包囲されている。今朝、パパに頼んだの。あなた達の捕獲を開始するように。これ以上被害が広がる前に」


 私はハッとして周囲に視線を巡らせた。辺りに人の気配はない。けれど気配を消すくらい特殊訓練を受けてきた人間なら可能なのかもしれないと血の気が引いた。校門の陰、植木の裏、建物の後ろ。そこらじゅうに何人もが隠れ、今にも私達に襲いかかろうとしている想像が浮かび、ゾッとする。

 隣で千紗ちゃんは怪訝に顔をしかめていた。祥子さんはそんな私達を見て楽しそうに笑う。


「これでも、あなた達への接触は慎重に行ってきたつもり。湊くんがいるもの。下手に手を出して彼を傷付けられたらと思うと迂闊に行動に移せなかった。……だけど今回の件で理解した。私は間違っていた。こちらがどう動こうと優しい彼は結局自らを危険に晒して傷付いてしまうのよ。そうして今回の惨劇が起こった。湊くんの友達は怪物に殺された」

「っ」

「もっと早くあなた達を殺しておけばよかった」


 祥子さんの指が通話ボタンを押した。止める間なんてなかった。冷たいコール音が鳴り、青ざめる私達の前で通話が繋がった。


「パパ。今よ!」


 グアッと緊張感が胸からせりあがる。私はギクリと身を固めて周囲を見やった。きっと今にそこの木陰から放たれた銃弾が私の胸を貫くだろう――――。

 だけど。そう思ってから数秒がたっても。銃弾はおろか、人ひとりさえそこから飛び出してくることはなかった。


「……パパ?」

『祥子、どうしたんだこんな時間に。授業はどうした?』


 閑静とした場に、彼女のパパさんの声がぼそぼそと携帯越しに聞こえてくる。のんびりとした声に険しい顔をするのは祥子さんだった。


「何言ってるの。部隊は? 校門の傍で待機させておくって言ってたじゃない」

『部隊? 何の話だ。寝ぼけてるのか?』

「寝ぼけてるのはそっちでしょ! 何やってるの。怪物特殊対策本部の一員でしょう? 私の目の前に今、奴らが二体も……」

『怪物? 何だそれは。お前の夢の話か?』

「はっ?」

「いねえよ。お前が言うその特殊なんちゃらって奴らは、この辺には一人もよ」


 最後の言葉を吐いたのは千紗ちゃんだ。彼女はクンと鼻を鳴らし、風に運ばれてくる匂いを嗅いでいた。

 鼻が利く彼女は近くの人の存在も気が付く。彼女が誰もいないというのなら、それは本当のことなのだ。


「あなた達、パパに何したの!」

「何もしてねぇって」

「嘘よ!」


 強制的に通話を切った祥子さんは、うってかわって凄まじい剣幕で吠えた。鋭い目が私を捕らえる。ビクッと恐怖に立ちすくむ私をターゲットにしたらしい彼女は、酷い敵意を持ってこちらに歩み寄ってくる。


「こんな所で騒いじゃ授業中の皆に迷惑がかかるだろう?」


 後ろから絡みつくような声がした。祥子さんが足を止め、パチリと瞬く目を私の背後に向けている。

 振り返るとそこには澤田さんがいた。彼は私と千紗ちゃんの顔を交互に見た後、祥子さんの目をじぃっと見つめて微笑んだ。人の好い笑みにもかかわらず、そこにはどことなく不安な響きがあった。祥子さんもそれを感じたのかさきほどまでの剣幕を控え、僅かにたじろぐ。


「もっとお喋りしやすい場所に移動しようか」

「ちょ……あ、あなた勝手に学校に入らないでください。ここの人じゃないでしょう?」

「固いこと言わずにさ。俺達に付いてくれば、君の知りたいことが知れるかもしれないぜ?」


 澤田さんの言葉に祥子さんは戸惑いを浮かべた。千紗ちゃんが肩を竦め、先頭を歩く。私達がそれについていけばしばらくしてから祥子さんも最後尾をついてきた。向かった先は映画研究部だ。


「さ。千紗ちゃん、早速上映してくれよ」

「あー……まあね。喋る前に見せた方が早いわな」

「ちょっと。話の続きは? 何なのよ!」


 千紗ちゃんは文句を言う祥子さんを無視してDVDをセットした。真っ暗になった部屋のスクリーンに投影された映像を見て私は思わず「あっ」と声を上げた。文化祭のときのメイキング映像だった。

 前にも一度見た記憶がある。懐かしさが込み上げると同時に、どうして今この映像を流すのかという疑問が浮かぶ。それは祥子さんも同じようだった。

 しばし映像が流れる。文化祭のときは、皆で仲良くこれを見て笑っていたことを思い出す。だけど映像を見続けるうち、私の顔はみるみる青ざめていった。

 再生が終わる。千紗ちゃんが部屋の電気を付ける。神妙な顔をしているのは澤田さんと千紗ちゃんだけで、私はすっかり真っ白になった顔のまま立つこともできず椅子に項垂れていた。


「わ」


 カチカチと歯を鳴らして。私は震える言葉を吐きだす。


「私がいない」


 映像には私がいなかった。一度も映っていなかったのだ。

 文化祭で見たときは確かに私が映っていたのに。今見た映像の中に私が映っているシーンは一つもなかった。

 映像が乱れているというわけじゃない。まるで存在ごと消えてしまったように、私がいた空間にだけぽっかり何もなくなっていた。湊先輩が空に喋りかけ、無音の返事に笑顔を浮かべるシーンがいくつもあった。


「とうとう気が付いたんだね。ありすちゃん!」


 声を上げたのはチョコだ。私の膝の上にぴょこんと立ち上がったチョコが、今日一番の大きな声で叫んだのだ。祥子さんが悲鳴をあげて腰を抜かす。チョコはそんな彼女も気にせず、私の顔をまっすぐに見て喋る。


「これが君の本当の副作用さ」

「ほ、本当の副作用?」

「僕自身このことに気が付いたのはつい最近さ。なにせ君はこの副作用とあまりに相性がピッタリだったからね。『普通になる』ことこそが副作用だと思い込んでしまったんだよ」


 マスター達も気が付いたらしい、と澤田さんが横で言う。さっきの電話はどうやら黒沼さん達との電話だったようだ。喫茶店で黒沼さんと鷹さんと湊先輩もマスターに聞いたというのだ。

 私の真の副作用について。


「写真や動画から君の姿が消えていく。教師やクラスメートに存在を無視される。そしてそこの祥子ちゃんのパパさんの記憶からは怪物という存在自体が消えていた。これは全て君が発生させている現象だ」

「私が?」

「姫乃ありす。いいや、魔法少女ピンク。君の副作用は『認識障害』」

「認識……?」

「『姫乃ありすという存在に対する認識を消す』。それが君の副作用。君は『姫乃ありすのおかしな部分』を無意識に消した結果、強制的にまともな思考を手に入れた。そして今も無意識に世界から『姫乃ありす』という認識を消していっている。だから君は記録媒体にも残らない。人の記憶からも消えている」

「えっ。あ、え?」

「つまりね魔法少女ピンク。君は、世界から忘れられてしまうんだよ」


 ジャジャーン! とチョコは両手を広げて言った。呑気で愉快なその声は、凍り付いたこの空間にはあまりに不釣り合いだった。

 私の震えは止まらなかった。


「わす……。忘れっ、られちゃうの?」

「ぜーんぶ! 忘れられちゃう。これまで君がしてきたことさえ全部。怪物という存在すらもなかったことになってしまう」

「皆から?」

「パパも、ママも、もしかしたら僕からも」

「忘れられるの」

「雫ちゃんにも。千紗ちゃんにも。湊くんにもね」

「……………………」

「君は皆の中から消えるんだよ。ありすちゃん!」


 忘れられる。皆の中から私が消える。世界から私が消える。

 突如として突きつけられた事実に、私はぽんやりと口を開けて、黙っていることしかできなかった。

 あまりに深い絶望に飲み込まれると、人は何も考えられなくなるのだと知った。


「俺は今日。君の意思は変わらないのかどうかを聞きに来たんだ」


 シュボッと暗い空間に火がともった。澤田さんがライターを付けたのだ。彼は煙草を咥え、深い紫煙を吐き出す。

 校内は禁煙だと嗜める人は誰もいなかった。沢田さん自身、この空間で息が詰まっていたのだろう。くゆる紫煙の青白さだけが暗い部屋の中で鮮やかだった。


「これからどうする。魔法少女を続ける、それともやめる?」

「やめる、って」

「変身するたび副作用の進行はどんどん進んでいく。ならばもう変身しなければいい。そうすれば完全に止まるとはいかなくとも、進行速度を押さえることはできる」


 魔法少女を諦める。そんなの人生で一度も考えたことがなかった。

 青い紫煙が空中に揺れる。澤田さんは濃厚な煙を吐いて、戸惑う私ににっこりと笑って。

 そして衝撃的な言葉を吐いた。


「ちなみに雨海雫が黎明の乙女に入ったよ」

「えっ?」

「さっき電話で聞いたんだ。せっかくだから、君達にも伝えておこうと思ってね」


 おはよう、今日はいい天気だね。まるでそう言ったかのように軽やかな声は、私にそれを理解させるのを少し遅らせた。

 嘘だろ、と真っ先に言葉を理解して驚愕の声を上げたのは千紗ちゃんだった。


「なっ。何でだよ! あいつだって黎明の乙女がどんな場所か知ってるだろっ?」

「驚くことでもない。彼女はよくよくストレスを抱え込む子だった、見ていて可哀想になるくらい。どういう形であれ君達は宗教団体との距離が近すぎた。むしろ今までよく我慢していた方だよ」

「…………畜生!」


 千紗ちゃんがテーブルを蹴る。凄い音が鳴って、上に乗っていたDVDや煙草のケースがバラバラと落ちた。澤田さんはそれに反応一つ返さずにまっすぐ私だけを見つめていた。


「いいんだよ、どんな道を選んだって。これを機に魔法少女を解散して別々の道を歩んだっていいだろう。何も黎明の乙女全員が悪人ってわけでもない。あの子だって何だかんだ楽しくやっていくかもしれない。映画製作に精を出すもよし、写真コンテストに力を入れるもよし、数年後の受験に向けて勉学に励むもよし……。魔法少女のことを綺麗さっぱり諦めて普通の女の子に戻ったって、俺は別に何も言わない」


 私達にはたくさんの選択肢があった。魔法少女を諦めてここで全部終わりにするという道もあった。

 私の存在はいつ世界から忘れられる? もう変身をしないと誓えば、私はこれからも皆の記憶に残って生きていくことができるだろう。

 魔法少女をやめるか、続けるか。


「……ねえチョコ。もしも私の存在が世界から忘れられたら。今まで死んだ人が生き返ったりするの?」

「いいや。あくまで消えるのは『その事故を引き起こしたのは姫乃ありす』という過程だけさ。結果は変わらない。壊れた建物は壊れたままだし、死んだ人間も死んだまま」

「じゃあ……私が消えても、私が助けた人は生き続けていくのね?」

「そうだよ」

「だったら私は変身する」


 おい、と千紗ちゃんが声を上げる。その隣で祥子さんも複雑そうに眉根を寄せていた。澤田さんだけが静かに私を見つめている。

 私はそんな皆に微笑んだ。膝に抱えたチョコがぶるぶると震えている。それは私の体が震えているからだと、すぐに気が付いた。


「雫ちゃんがもし騙されて入ってしまったのだとしたら、助けに行かないと」

「分かってんのか? 変身するってお前……最後には存在がまるごとなかったことになるんだぞ?」

「でも、きっとこれが私にできる唯一の罪滅ぼしだもの」

「はぁ?」

「いくら謝っても、罪を償おうという意思を見せても。私の存在がなかったことになるなら意味がないでしょう。……ならせめて私という存在が消える前に、一つでも巨大な悪を倒したいの」


 そうだ。結局私の目的は最初から変わらない。

 魔法少女であろうとなかろうと。これまでの私が全て消えようと。醜悪な怪物に変身していようと。胸にあるこの思いだけは、最初から最後まで変わることはない。


「私は姫乃ありす」


 世界を救うヒーローになりたかった。

 私はこのときはじめて、『本物の魔法少女』を夢見ることができた気がした。


「魔法少女を夢見た女よ」

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