第63話 秘密の研究所

 葬式に着る制服は着心地が悪い。

 空はさっぱりと青く晴れ渡っている。柔らかな風が運んでくる線香の香りが、ブレザーにしみついていくようだった。


 国光の葬式には多くの人が参列していた。

 家族親戚だけでなく高校のクラス一同も参列している。部活の友人や中学校時代の友人も幾人かが参列し、一様に顔を真っ白にして拳を握りしめていた。

 父さんから借りた真っ黒の数珠は、僕にはなんだか無骨すぎた。慣れぬ数珠と慣れぬ焼香を見様見真似で行う。国光の顔は見せてもらえなかった。らしい。

 黒沼さんと澤田さんが裏で動いたらしく、国光の死は事故死として処理された。彼の死について、僕が何かを追及されることはなかった。


「国光って人望あるよなぁ。俺の葬式絶対こんな来ないっての」

「たくさん人いたね。クラスでもムードメーカーだったし」

「俺あいつに漫画貸しっぱなしなんだけど。借りパクレベルマックスかよ」


 葬儀後。僕と涼は会場から離れた駐車場の端で駄弁っていた。

 クラスメートや先生達は既に帰っていたものの、僕達はなんとなく彼の火葬が終わるまではここにいようと決めたのだ。火葬場の方から流れる煙は国光を焼いている煙なんだろうか。

 だらだら何てことない内容の会話をする。国光と行く予定だったカラオケの話とか、明後日の小テストの話とか、購買の水曜日限定コンソメポテトの話とか。

 涼はいつもと変わらない調子で喋っていた。無理をしていることは分かっていた。だけど普段通りに話そうと努力している彼を見ていると何も言えなかった。

 僕も普段通りに話したかった。だけど国光のことを話そうとすると、彼が展望デッキから落ちていくときの姿を、一瞬だけ掠めた指先の熱を思い出して胸が詰まってしまう。涙を飲み込んで頷くことしかできない僕を見て、涼は話すのをやめて気遣うように背中をさすってくれた。


「あれ。君達、国光の友達だっけ」


 後ろから聞こえた声に僕達は振り返る。喪服を着た女性が僕達を見つめて微笑んでいた。国光のお姉さんだとすぐに悟る。友人に似たその顔立ちと、薄っすらと顔に走る大きな傷が、記憶の中の情報と一致していた。

 国光のお姉さんは以前、商店街に怪物が現れたときに巻き込まれて顔に大怪我を負った。手術をしても完全に傷は消えなかった。

 家に遊びに行ったときお姉さんにも数回程度挨拶をしたことがある。改めて挨拶をすれば、お姉さんはニコニコと微笑んで、思いついたように両手を打った。


「ねえ、君達さえよかったら今から家に来ない?」

「家ですか?」

「国光の部屋から何か欲しいものとかあったら持っていってほしいの。あいつの部屋ったら物だらけでごちゃごちゃしててさ」

「えっ。い、いや悪いですよ! そんなの。もらえませんって」

「いいよいいよ。どうせもう使わないし。……それに余計なものをずっと残してても、両親が弟を思い出して泣いちゃうから。小物だけでも早めに捨てちゃおうと思ってたの」


 僕と涼は顔を見合わせて、そういうことならと頷いた。

 お姉さんに車を出してもらって僕達は国光の家に向かう。火葬の最中だというのにお姉さんが残っていなくて大丈夫だろうかと思ったが、お姉さんはいいのいいのとへらへら笑うだけだった。彼女の笑顔は国光によく似ていた。


「家族には見られたくないものもあるだろうしね。よかったらそういうのももらっちゃってよ」

「あ、はは……。はい」

「元々ごちゃついた部屋だったからさ。片付けようにも何から手を付けるべきか分からないんだ。ったくあの弟は。いつもいつも部屋片づけろって叱られてたくせに」

「はは…………」

「昨日入ったら、床にプリントとかチラシとかすっごい散乱してたの」

「チラシですか?」

「うん。化粧品の広告」


 隣に座る涼がピクリと肩を動かした。小さく居住まいを正したのか、微かな衣擦れ音が聞こえる。


「そういうの興味あったのかな」

「……お姉さんへのプレゼントにしようと思ってたみたいですよ」

「……あー。なんか、今回参加してたゲーム? の賞金で買おうとか思ってたんだってね」

「……………………」

「馬鹿だなぁ。化粧品くらい自分で買えるのに。普段馬鹿ばっかやってるのに、急にそういうことしてくるんだから」


 馬鹿すぎる、とお姉さんは何度も笑って繰り返した。ほんの少し車の速度が上がる。後部座席に座る僕達にはミラー越しにほんの少しお姉さんの顔が見えた。

 その化粧を落とす幾筋もの涙を、僕達は見ないフリをした。


 国光の部屋はそのままだった。跳ね除けられた布団も、床に散乱したプリントも、ぐちゃっと丸まって枕元に放置されているセーターも全て。明日があると信じて疑っていなかった人の部屋だった。

 何度もここに遊びに来た。国光の存在がぐっと濃く部屋の中に浮かんで、目の奥がじわりと熱くなる。


 両親に許可は取ってるから、と言われて僕達は部屋に残された。涼と顔を見合わせてから遠慮気味に部屋を漁る。と言っても新品の消しゴムやノートを少々、あとは修学旅行で友人一同揃えて買った思い出の木刀など、思い出の品を少しばかりもらうだけだけれど。


「涼は何を……いや本当何してんのお前」

「エロ本探し」


 涼はベッドの下に上半身を突っ込んで辺りを探っていた。目当てのものが見つかったのかはわわ……! と歓声を上げる彼に溜息を吐く。

 ベッドの下にも色々な物が落ちていた。遊びに行くとき彼がよく着ていたお気に入りのシャツや、前に皆で買ったお揃いのサングラス、洗い忘れの運動着……。


「あ。これ一年のときにあいつが付けてたやつじゃん。鞄にぶら下げてさ」

「流行ったよねこのキャラクター。うわ、懐かしい」

「……あーっ! 本棚のこの漫画。この前十巻まで借りて見たやつ! めちゃくちゃ面白くてさぁ。続きすっごい気になってたんだよね」

「結構昔の漫画? 本屋で見たことないなぁ」

「絶版だって。国光から借りるのが一番早いんだよな。今度続き貸してくれるって言ってたから楽しみでさぁ…………」


 ふと涼の言葉が途切れた。不思議に思い顔を上げた僕は、ギクリと息を飲む。

 涼が泣いていた。

 普段うるさい彼からは想像もできないほど静かに、その頬に涙が流れていた。手に持っていた開きかけの漫画に、ぼたぼたと涙が落ちていく。


「ごめん、湊。あのさ」

「…………うん」

「やっぱり無理だわぁ」


 涼は笑うように言って床に蹲り、抱えた膝に顔を埋めた。隙間からひくひくと零れてくる笑い声のような音が、段々と啜り泣きに変わる。


「くにみつ」


 彼は振り絞るような声で国光の名を呼んだ。僕は泣くのを堪えようと下唇を噛み締めて、けれど堪えきれなかった嗚咽を「ふっ」と零した。

 涼の隣に座って力強く彼の背中を叩く。そうしてその肩に頭をもたらせて、ズッと鼻を啜った。


「ゲホッ」

「あー……。…………」


 国光が死んだという事実が、このときになってようやく僕達にのしかかる。

 僕の友達は死んだ。もう会えない。

 僕達はボロボロと涙を流しながら、溢れそうになる泣き声を必死で堪えていた。別の部屋にいるお姉さんに聞こえないように。


 魔法少女の戦いの裏で失われてきたたくさんの命。

 その重みを僕が心から実感したのは、これが初めてだった。





「やあ、少年。寄っていきなよ」

「……黒沼さん」


 喫茶『魔法少女の秘密基地』。窓から顔を覗かせた黒沼さんが、店の前を通り過ぎようとしていた僕に声をかけてきた。いまだ包帯が取れていない彼の姿は一見、まだハロウィンのコスプレをしている人のようにも見えた。ハロウィンから既に三日はたっているけれど。

 寄る気はなかったが半ば強制的に招かれて入店する。ソファー席には黒沼さんと鷹さんがいた。他の人の姿がないことに正直ほっとした。


「今回は大変だったな」


 黒沼さんが言った。彼と鷹さんの視線は、僕の第一ボタンまでしっかりと閉めたブレザーに注がれていた。彼らは僕が葬式帰りだということを知っている。

 黒沼さんと鷹さんだけがこうして喫茶店にいるのは何故だろう。そんな僕の考えを見透かしたように、鷹さんがカメラをくるくると回しながら言った。


「ありすちゃんのことで話し合っているの」


 ギク、と体が強張った。冷たくなった指先でブレザーの裾を引っ掻く。


「ありすちゃんの……」

「湊くん。君、知ってた?」

「何を」

「全部気が付いた」

「えっ?」

「自分が怪物だということに気が付いたんだよ、あの子」


 僕は思わずテーブルを揺らす勢いで立ち上がった。青白い指先をテーブルに這わせ、狼狽えた視線を向かいの二人に送る。二人は微塵も笑っていなかった。


「ほ、本当ですか」

「嘘をつく理由はないよ」

「そ…………」

「大丈夫?」


 じっとりと背中が汗ばむ。崩れ落ちるように座る僕に、鷹さんが心配そうな声をかけてきた。

 僕は両手で顔を覆い、じわじわと浮かんでくる後悔に首を振った。


「ぼ、僕。ありすちゃんに、合わせる顔がない」


 頭の中を目まぐるしく駆け巡るのは、あのハロウィンの夜に見た彼女の泣きそうな顔だった。

 国光の死を目の前にして僕は動揺していた。弟丸さんが爆弾を作った原因が過去のありすちゃんにあると聞いて、どうしようもなく腹が立った。込み上げる怒りをありすちゃんに真正面からぶつけてしまったのだ。

 あのとき僕はなんて言ったっけ。君は怪物だと、ずっと堪えていた言葉を彼女に言ってしまったんじゃなかったっけ……。


 正直なところ。ありすちゃんの様子を気を遣うだけの余裕はなかった。それでも彼女が随分とショックを受けた顔をしていたことは覚えている。

 あの表情は国光が死んだことだけじゃなくて、自分の正体に気が付いたためなのだとすれば。僕の言葉はどれほど彼女を傷付けたのだろう。


「どうしよう……。僕、僕、とんでもないことを……!」


 情けなさと、焦燥感と、後悔が僕の頭を真っ白に染める。ぐずぐずになった心から溢れた思いがまた涙となって目尻に滲む。

 けれどそれが雫となって零れ落ちる前に、身を乗り出した黒沼さんが力強く僕の肩を叩いた。激しい痛みに意識が逸れて、ギャッと僕は悲鳴をあげる。


「泣くな」

「いっだぁ!」

「泣く時間があるなら、その時間でどうすべきかを考えろ」


 鋭い叱咤に背筋が伸びる。隣の鷹さんまでも、顔を引きつらせて思わず姿勢を正すような迫力だった。

 不思議とその言葉は、真っ白だった頭にスッとしみた。僕は潤んだ目を乱暴に袖で拭うと深く息を吐いて二人の顔をまっすぐに見つめた。


「ありすちゃんは今どうしてますか?」

「あの日から俺達も会っていないんだ。澤田が様子を見に行っているようだから、死んではいないと思うけれど」

「千紗ちゃんと雫ちゃんも、それぞれ忙しいみたいで喫茶店には来ていないの。あの日に会ったのが最後」


 それにしても、と鷹さんは乾いた唇をコーヒーで湿らせて小さく唸る。


「あの子は変身するたび自分の正体に気づきかけている節があった。何だっけ……んん。確か『普通になっていくこと』が彼女の副作用なんだっけ?」

「おかしな話だよな。副作用のはずなのに、それでまともに近づいていくって言うのもさ」

「そもそも変身の副作用なんて存在しないでほしいよね。魔法少女って言ったらやっぱり夢の存在じゃない。中途半端にリアル感出されても」

「何のリスクも存在しない完璧な魔法少女なら、もうすぐ出来上がるかもしれない」


 最後の言葉はカウンターから聞こえた。僕達が顔を向けると、カウンターで本を読んでいたマスターがパタリと本を閉じて僕達に向き直っていた。

 今日の喫茶店にいるのはマスターだけだった。しっとりとした音楽が流れるカウンターで黙々と本を読んでいる彼の姿はロマンチックな映画のワンシーンのようだった。

 コツコツと靴を鳴らしてマスターが僕達のテーブルの横にやってきた。ふわりコーヒーの香りが空気を揺らす。その香りに混じって、微かに薬品のにおいが彼からした。


「魔法少女はもうすぐ完成する」


 僕は首を傾げた。黒沼さんと鷹さんも同じような反応を示していた。

 どういうこと? とほんわりした声で鷹さんが問う。マスターは尖った鼻を覆う黒マスクを指で撫で、横目に窓を見た。窓の外には青空が広がっている。昼過ぎの心地よい天気だ。


「そろそろ君達にも語るべき時かもしれない。長い話になる。閉店後に話そうか。これから客が来るとも知れない」

「まだ昼だけど。夜まで数時間もここで待てって言ってるのか?」

「大丈夫。一瞬さ」


 マスターの言葉に僕達はキョトンとした顔をする。何を説明されるのか、夜まで一瞬という意味がどういうことか、さっぱり分からない。

 そんな僕達の前で。マスターはおもむろにマスクを外した。



「――――ハッ」


 僕は弾かれたように起き上がった。いつの間にか眠っていたらしい。

 寝起きの頭痛に眉をしかめながら何となく窓を見れば、外はすっかり暗く、夜どころか深夜になろうという時間だった。


「起きたかね」


 古木のようにずっしりと静かな声が横からかかる。顔を向ければ、テーブルの横にはまだマスターが立っていた。マスターの鼻と口を覆うマスクを見て、その下に一瞬何かがウゾリと蠢いた気がして身震いする。脳が思い出すことを拒否していた。何を見たのだっけ……。


「……あ? なに? 俺寝てた?」

「名状しがたいものを見たような気がする」


 黒沼さんと鷹さんもしょぼしょぼと目を擦りながら起き上がる。三人全員起きたことを確認したマスターは「では行こうか」と床を爪先でコツリと叩く。どこに? と鷹さんが聞いた。


「私達の研究所さ」


 研究所とはカウンターの裏側にあった。

 よく分からないまま彼の後をついて、僕達はカウンターの裏にあった扉の先へ向かった。初めて開ける扉だった。食材の保管場所やマスターの自室でもあるのだろうと思い込んでいた僕は、扉の先にあるとんでもなく長い廊下を見てギョッと目を丸くする。

 長い廊下の左右にはいくつもの扉があった。僕達がキョロキョロ視線を向けるたび、先頭を行くマスターは「そこは食材の保管室だ」「私の部屋だ」「チョコの遊び部屋だ。おもちゃと駄菓子しかない」などと説明をしてくれた。そして突き当たりの一際大きい扉を開けると、その先にあったのは体育館よりも広い巨大な空間だった。


「なんじゃこりゃ!」


 鷹さんの驚く声がキィンと空間に広がった。僕と黒沼さんも唖然と口を開いてその空間を眺める。喫茶店の入っている建物の大きさから考えると、どうやっても収められないはずの広さである。

 研究施設のような空間だった。無機質な白でまとめられたどことなく冷たさを感じる部屋だった。よく分からない機械がよく分からない音を立て、大量のカラフルな薬がボコボコと泡を吹いている。データを測定した画像が空中にポンッと現れてはすぐに消えることを繰り返し、僕の近くに置かれていた丸い檻のようなものの中には豚とウサギを組み合わせたような三つ目の動物がキュイキュイと鳴き声をあげていた。空中をふわふわと泳いで棚から棚へと移動するビーカーを見ながら、僕はマスターが宇宙人だということを再認識していた。


「すご。何ここ。何の研究をしているの」

「魔法少女の研究だ。……ああ、撮影はやめておいた方がいい。シャッター音に空気中の新細菌が反応して君の目を焼く」

「何その防犯システム」


 十個の頭があるネズミを撮影しようとしていた鷹さんは、その言葉に渋々カメラを下ろした。僕も思わず取り出そうとしていたカメラをそっとしまう。

 テーブルの上には研究結果をまとめたらしい資料が置かれていた。チラリとそこに書かれている文を読もうとしてすぐ諦めた。「蟷エ鮨「繧偵き繝ウ繧ャ繧ィ縺ェ縺阪c縲ゆココ髢薙▲縺ヲ縺吶$蟷エ繧貞叙繝ォ」という文字はおそらく地球人には解読不可能な文字だ。

 以前、マスターとチョコが魔法少女の研究を進めているというようなことは聞いていた。デメリットのない完璧な魔法少女を作りだろうという話だ。だがまさかその研究所がこんな身近にあっただなんて。


「主にチョコが研究しているのさ。私はあくまでサポート役だ」

「へぇ……意外だな。あのおっさんよりも、マスターさんの方が研究をしていそうなイメージがあったんだけど」

「チョコをなめてはいけない。あいつの腕は相当なものだ。ありす達を魔法少女に変身させたのもあいつの力だ。こういった技術面で言うならば、彼は私よりもずっと立ち位置は上だろう」


 マスターは浮いていたビーカーを一つ取った。中には濃い赤色の液体が入っている。彼は続けて真横に置かれていた檻から一匹のモルモットを取り出し、容赦なく液体をぶちまけた。あっと思わず鷹さんが声を上げる。

 僕達の目の前でモルモットの体がボコリと膨れ上がった。体の変化がはじまってからそれが治まるまでには十秒もかからなかった。あっという間にモルモットの体は鮮やかなピンク色に染まり、目は元のサイズより三周りくらい大きくなってツヤツヤと光を散りばめた。口は小さく、手足はきゅっと短く、頭のサイズは少し膨らんだ。それはまるで魔法少女のアニメに出てくるマスコットキャラクターみたいな『かわいい』を具現化したような姿だった。


「完全な魔法少女に変身する薬がもうすぐできあがろうとしている。人間を『理想の姿』へ変身させる薬だ。これが完成すれば、少女達は怪物に変身することはなくなり、思い描いていた理想の魔法少女へと容貌を変えることができる」


 きゅぅっ、とモルモットは随分可愛らしくなった声で鳴いた。直後その口からゲポッとピンク色の臓器を吐き出す。小さくなった体に収めきれなかったのだ。モルモットはコテンと頭から地面に突っ伏し、一度激しく痙攣してすぐに動かなくなる。


「まだ改良は必要だがね」


 ジーッと痺れるような機械音がどこからともなく聞こえてくる。潰れたモルモットの死骸を青ざめた顔で見つめながら、僕はこわごわマスターに尋ねた。


「ありすちゃんが『本物の魔法少女』になれるっていうの?」

「薬を投与すれば、おそらくは」


 僕はゴクリと唾を飲んだ。浮かんでいたビーカーを一つ取って、まじまじとその中身を眺める。よく見ればそれは赤色というよりはピンク色だった。あまりに色味が強いので赤色に見えてしまうのだろう。

 ムッと噎せ返りそうなほどの甘い匂いがした。下手に飲んだら、胃が痙攣して吐き出してしまうだろう。牛乳で割ると飲みやすくなる、とマスターがいつ使うのか分からない知識を教えてくれた。


「誰でも魔法少女になれる薬ってこと? 私でも変身できるのかな」

「何歳だろうと。むしろ、体が成熟した人間である方が安定した効果を得られる」

「俺も魔法少女になれる?」

「なる気なの?」

「ああ、勿論。性別も人種も種族も問わない」

「やだ、本当? 魔法少女になったときのニックネーム考えないと……」

「なる気なの?」


 すごーい、と大人二人は口を揃えてはしゃいでいた。さっきのモルモットの悲劇を直視した後だ。本気で言ってはいないだろう。


「誰でも魔法少女になれる。チョコが必死に開発したんだ。友人である少女の夢を叶えるために」


 僕は一人、その言葉を聞いてじわりと体が汗ばんでいくのを感じていた。

 この薬があればありすちゃんを救うことができるかもしれない。自分が怪物だということに気が付いてしまった彼女を本物の魔法少女にしてあげることができるのかも……。

 あんまりにも熱意のこもった目で薬を見つめていたからか、試作品をあげようかとマスターが小さな小瓶に入った薬をくれた。「一時的に力を得るが、すぐ体が耐え切れずに死ぬ」という説明に苦笑しながら礼を言う。体のいい処分係を押し付けられただけである。あとで燃えるゴミにでも捨てよう。


「ところで君達は、ありすの副作用が何かを知っているかね」


 不意にマスターが言った。機械音と機械音の間にふっと差し込まれた声は、静かな声量の割には空間に大きく響いた。

 まともになることが副作用でしょう? と鷹さんが答える。しかしマスターは首を横に振った。


「それは君達が思い込んでいた副作用だ。彼女の本当の副作用は、また別のもの」

「別のもの?」

「魔法少女ありすピンクは、魔法少女ちさイエロー、魔法少女しずくブルーとはまた違う。副作用が本来の彼女の性質に上手く一致しているため分かりづらいのだ」

「ハッキリ喋ってくれよ。つまり? 何が言いたいんだ?」

「湊くん。君は文化祭で彼女が作ったアート作品を覚えているかな」

「え? はい、勿論」


 当然覚えているに決まっている。文化祭で皆と一緒に作り上げた作品なのだから。

 あの作品は今ありすちゃんの家にあるはずだ。ご両親がいたく気に入って額縁に入れ飾っているのだと言っていた。

 チョコが写真を送ってきてね、とマスターが僕達の前に一枚の写真を表示する。そこに表示されたフォトモザイクアート。けれどそれを見た途端、僕達は揃って怪訝な色を顔に浮かべた。


「マスター。これ何?」

「君達が作ったアートだよ」

「違うよ。こんな作品じゃなかったはずだ」


 それはただ、大きな紙に写真をベタベタ張り付けただけの代物だった。

 規則性もなくただ乱雑に写真が貼られている。それはそれで素敵な作品だったけれど。文化祭で夜遅くまで残って一生懸命作ったあの作品とは似ても似つかない。


「これは僕達が作った作品じゃない」

「ほう」

「僕達の作品はありすちゃんの顔が現れるアートになっているはずだ。ありすちゃんの顔が、笑顔が、ここに現れて……。…………?」


 僕はふと言葉を止めた。パチパチと瞬きをして、何度もそのアート写真を見返す。

 おかしいな、と思う。

 このフォトモザイクアートに描かれていたありすちゃんの顔はどんな顔だったっけ。


「これ、おかしくない? 確かここにありすちゃんの写真貼ってあったよね。ほらここ」

「……写ってないぞ。見間違えたんじゃあないの?」

「絶対写ってたよ! この写真の中央にもいたって。覚えてるもの。ここにだって!」


 鷹さんは写真の一枚を指差す。僕と千紗ちゃんと雫ちゃんが写っている写真だった。中央に不自然な空間がぽかんと空いている。そこにもう一人いた気がするのだ。……いいや、いた。そこにはあの子がいた。ありすちゃんがいた。

 ありすちゃんが写真から消えている。


「魔法少女ピンクの副作用。それは決して『まともな人間になっていくこと』などではない」


 マスターはスッと短く息を吸う。顔を強張らせる僕達に、マスターの声が静かに届く。


「彼女の本当の副作用は、」





 湊くん、と声をかけられたのは帰宅途中の道すがらだった。

 振り返った僕はニコニコ嬉しそうに手を振って走ってくる雫ちゃんの姿を見てドキッと心臓を跳ね上げた。


「今帰り?」


 少しばかり上気した頬をぱたぱたと扇いで彼女は言う。今夜の彼女は白いワンピースを着ていた。柔らかな生地がふわふわと風に揺れ、彼女の白い肌をほんのりと暗闇の中に光らせていた。


「し……雫ちゃんも? こんな夜遅くまで」

「ふふ。うんっ。最近ちょっと色々忙しくて」


 今は夜の十二時だ。ちょっと色々、と言うには随分遅い時間だった。けれどどこに行っていたのかと気軽に聞ける気分ではなかった。

 雫ちゃんと会うのはハロウィンの夜ぶりだ。あの晩僕と彼女の間にも色々なことがあった。ラブホテルから出てきた僕を、祥子さんにキスをする僕を、目撃したときの雫ちゃんの絶望した顔が忘れられない。


「実は最近新しい友達ができたの。今日はその人とお茶してきたんだ」

「お友達?」

「うん。ハロウィンのとき、避難所で知り合った人。怪我を手当てしてあげたんだけど、お礼にお茶でもって誘われて」


 彼女はとても楽しそうに話してくれた。あの夜のことを忘れたんだろうかと思うほど無垢な笑顔だった。だけど僕への恨みを忘れたわけじゃないだろう。取り繕って笑っているだけかもしれない。

 喫茶店で聞いたありすちゃんの話を雫ちゃんにもしなければならない。だけどそれよりも先に僕は彼女に謝らなければならないと思った。


「しっ、雫ちゃん! その、この間は本当にごめ……」

「ううん、もういいよ」


 けれど雫ちゃんは僕の言葉を遮るようにひらっと手を振った。


「湊くんも大変だったんでしょう? あの後何があったのか澤田さん達から聞いたもの。気にしないで」

「で、でもっ」

「ごめんね。わたしもう帰るね。明日もその人の所に行こうと思ってるんだけど、朝早いから……」


 雫ちゃんは僕の謝罪を聞いてくれようとはしなかった。そのことが何よりもショックだった。

 謝罪を拒絶するほどに彼女は怒っているのだろうか。当然か。僕が今まで彼女にしてきたことを思えば。

 泣かれるよりも怒られるよりも。彼女の笑顔の方がよっぽど効いた。

 雫ちゃんは小走りに先を行く。ひらひらふわふわ揺れるスカートを茫然と見送っていると、ふと雫ちゃんが振り返って少し大きな声で僕に言う。


「湊くん。わたしこそ、ずっとごめんね」

「えっ?」

「わたしはいつも自分のことばかり考えてた。怪物のことや君のことで勝手に悩んで勝手に落ち込んでばっかり。それってとても我儘なことだってようやく気が付いたの」

「一体何の話を……」

「悩みがあったらやっぱり人に相談してみるものね。気持ちがスッとした。湊くんも、今凄く悩んでるんじゃない? 顔を見れば分かるよ。そういうときは人に相談してみるといいよ」


 僕は戸惑いながらもそうだねと頷いた。スッキリとした彼女の顔を見ながら、もしかするとどこかに悩み相談でもしに行ったのだろうかと思う。たとえばメンタルクリニックとかそういう所に。


「おすすめのお悩み相談所があるの。駅の近くだから行きやすいんだ。思っていたより、ずっと気軽にお話できるし」

「そっか。それは、よかったな」

「うん。黎明の乙女は申し込みも不要で、体験入会みたいな形で見学もできるから」

「うん…………」

「わたし達ったら誤解してたのかも。危ないことなんてなかった。ただ楽しくおしゃべりしただけだったよ」

「……………………」


 僕はふっと表情を消して雫ちゃんを見つめた。彼女が鞄から取り出したものを見て、頭のてっぺんからサーッと音を立てて血の気が引いていく。

 チラシだ。文化祭準備をしていたとき、僕と雫ちゃんが渡された、黎明の乙女のチラシ。

 彼女はそれを捨てずに持っていたらしい。


「宗教だからって身構えるのはよくないのかも。あの団体には悪い人がいるって言ったって、きっと一部の信者さんだけだよ。ほとんどの人は楽しく過ごしてるだけなんだから」

「しず。待って、雫ちゃ」

「実を言うとチラシを渡された頃から少し気になってたの。一度見てみるだけなら大丈夫だと思って……。でも行ってよかった」

「君、どこに行ってたの」


 雫ちゃんは笑う。薔薇色に染まった頬は、最近の彼女の表情の中で一番幸福そうな微笑みを浮かべていた。

 彼女の先に立つ僕の顔は、海のように青く染まっていたのだろうけれど。


「わたし、黎明の乙女に入っちゃった」


 彼女はそう言って笑っていた。

 最悪の笑顔だった。

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