第62話 私は怪物だ
プツッと音がして、何度も鳴らしていた携帯電話がようやく繋がった。
『……ゲホッ』
「黒沼さん? 黒沼さんねっ?」
爆発音が聞こえたっきり応答のなかった黒沼さんに、ようやく通話が繋がった。
聞こえてきたのは酷く苦しそうな咳払い。だけども反応が返ってきたことに安堵の涙が浮かぶ。携帯に頬を擦りつけて、私は荒い呼吸の隙間に喋る。
「あのね! 街が大変なの、聞いて。あちこちで爆発が起こっちゃったの。火もボウボウ燃えているのよ。皆はキャアーッて騒いでいるし、煙はモクモクで、ドカーンバコーンって音がうるさくて、ズドドドドッて……」
「生きてたか黒沼」
澤田さんに携帯を取られた。街の状況に私達の現在の様子。幾分砕けた口調で、彼は私が説明しようとしていた内容をあっさり十秒程度で話しきってしまう。むくれる私に澤田さんは「いいから走りなさい」と視線だけで言った。
私達は楽土タワーに向かっている最中だった。長い足をぐんっと伸ばしてどんどん先へ進む澤田さんを、私はふうふう息を切らして全力で追いかける。
タワーは徐々に近づいてくる。タワーはこんな夜でも、呑気にライトアップされてピカピカ光っていた。なんだか街中に響き渡る悲鳴も爆発音も夢のことみたいに思える。
『散々な目に遭った。部屋ごと爆発なんてさせるかよ、普通』
「侵入者も証拠も諸共ボカンと消せる。悪い手じゃないと思うぞ。ボタン一つであっという間にお部屋を綺麗に! って感じで」
『殺すぞ』
「はは、落ち着けよ。で? やっぱり目ぼしい情報はなかったか」
『いいや、見つかったよ』
ジャリ、と澤田さんの靴底が砂利を踏みにじった。一瞬彼の体に力がこもったのが分かる。すぐに体勢を立て直した彼は、それで? と黒沼さんの話を促した。
『床下からアルバムが見つかった』
アルバム? と疑問符を浮かべたのは私の肩に乗っているチョコだった。「日々の写真を保管した冊子のことだ」「そんなの知ってるやい」なんて話すマスター達の会話を横に聞きながら、私は澤田さんの顔を見上げた。
「どうしてそんな所にアルバムなんて」
『普段ろくに見ない場所だからだろう。視界には置いておきたくないが、ゴミとして捨てたくはない。そんな品を隠すにはピッタリだ』
「はあ?」
『お前が聞いた兄丸の話、そしてこのアルバム。二つを組み合わせればこの事件の真相が見えてくる』
「……分かったのか? 犯人も目的も何もかも」
『見れば分かる』
シュコッと音がして黒沼さんから写真が送られてきた。今言っていたアルバムに入っていた写真だろう。多少の焼け焦げた跡はあるものの、何が写っていたのかは知ることができた。
三人の男女の写真だった。
その写真を見て、私と澤田さんは顔を見合わせた。
楽土タワーには展望デッキがある。夜になると街の明かりが大層綺麗に見えることから普段は多くのカップルで賑わう場所だった。木々や背の高い植木にハロウィンの装飾が施され、賑やかに光っている。
けれど今この場所に人気はない。館内に繰り返し避難放送が流れていたからだ。館内に爆弾が隠されている可能性があるためお客様は落ち着いて避難を……。繰り返される放送と慌てて逃げる人々。混乱する人ごみの中をこっそり抜け非常階段を駆け上がるのは、思っていたよりも簡単だった。
展望デッキには強い風が吹き荒れている。急速に体温が奪われ、心まで冷えていくようだ。肩に乗っていたチョコが肌寒さに身を震わせる。反対側の肩に乗るマスターは身動ぎ一つせずマントをはためかせていたけれど。
し、と澤田さんが短く唇に指を当てる。足音を立てぬよう進めば、関係者以外立ち入り禁止の柵を乗り越えた先に人影があった。
スタッフではなさそうだ。手すりによりかかってぼんやりと街を見下ろす彼の口元から、ゆらゆらと煙草の紫煙が風に流れていた。
気配に気がついたのか彼はふっと振り返った。
そのときには既に、澤田さんの抜いた銃が彼に狙いを定めていた。
「動くな」
「……ああ、兄丸じゃあないのか」
銃を突きつけられた弟丸さんは、それが分かっていたかのように無言で両手をあげた。地面に落とした吸殻を靴底で踏みにじる。
「残念だがあいつは来ないよ。とっくに避難を終えている」
高層のここからは街の様子が見下ろせた。キラキラとまたたく眩しい光の海の中に、ボウッと激しく燃える炎の色が光っていた。街の至る所に、いくつも。
今夜だけでどれだけの人間が死んだのか考えたくもない。
もっと早くに気が付くべきだった、と澤田さんは口を開いた。
「楽土町で起こった連続爆破事件。爆発物に関連する本を所持していること、棚に隠された鉄球や釘、そして最近の不審な態度から、元青桐組組員である兄丸が容疑者に浮かび上がった。それを教えてくれたのはお前だ。……だけどそれは全部嘘だった。本当の犯人は兄丸じゃない。弟丸、お前なんだな」
「気が付くのが遅いですね」
弟丸さんはあっさり犯行を認めて笑った。
事前に聞いていた部屋の内装と、実際の部屋はまるで違うものだった。おそらく怪しい本や釘や鉄球というのも兄丸さんの部屋ではなく弟丸さんの部屋にあるものなのだろう。
部屋に爆弾をしかけたのもおそらく彼だ。間違った情報を頼りに私達が兄丸さんの部屋に忍び込んだところを爆発させるつもりだったのだ。
「あの部屋に遊びにいったサツのお仲間は元気ですか? 本音を言えばあんたに引っかかってほしかった。あんたはいつも下っ端の俺達に無茶な命令ばかりするから。定期的にトイレで愚痴られてるの知ってます?」
「爆弾関係ないところの暴露やめてもらえる?」
「澤田の兄貴は案外鈍いところがありますからねぇ。どうせ今回、俺が爆弾をばらまいた理由も思いつかないんでしょうし」
「確かに。でも、多少推理することはできるぞ」
「へえ、例えば?」
「妹が関係してるとか」
弟丸さんから表情が抜け落ちた。一瞬で氷のように冷え切った無表情が私達を射抜く。
ジンと背中の骨が痺れるような恐怖が全身に襲いかかった。息をするのも忘れて凍り付く私の横で、澤田さんは穏やかな声で笑っていた。
「お前には妹が
澤田さんの静かな声が風に流れていく。この強風の中、大して張り上げているわけでもないのに、クッキリと輪郭のある声だった。
私達はさっき写真を見た。そこに写っていたのは笑顔の兄丸さんと弟丸さん、そして弟丸さんに雰囲気が似た女性だ。兄丸さんと女性は揃いの指輪をかかげ、それを弟丸さんが嬉しそうに見守っていた。
「三つ下の妹さんだ。優しくお前を支えてくれる彼女のことを可愛がっていたそうじゃないか。お前も、そしてお前の兄貴分である兄丸も。お前を仲介して兄丸と妹さんは交際をはじめ、近いうちに結婚の約束もしていたようだな」
「来年の春に挙式の予定でした。もう少し話がまとまったら、勿論澤田の兄貴にも話をさせていただくつもりで」
「もう冬になるぜ? 俺はまだそんな話聞いちゃあいないが」
「言ってませんから」
「言えなかったんだろう」
スッと澤田さんが冷たく息を吸い込む。
「妹さんは死んだ。今年の春。商店街で、事故に巻き込まれて」
今年の春に商店街で起こった事故。突如現れた諤ェ迚ゥが人々を襲い死傷させたあの日。
兄丸さんと妹さんはデートをしていた。そこに現れた諤ェ迚ゥが二人にぶつかった。兄丸さんは足に大怪我を負い一生元のようには歩けなくなり、妹さんは命さえも奪われた。
兄丸さんが思い詰めていた理由。それは足を悪くしたからじゃない。自分の恋人を永遠に失ったからだった。
彼が長い黒髪の女性に惹かれるのは、妹さんの髪とよく似ているから。雫ちゃんをはじめて見たときに驚いていたのは妹さんとあまりにそっくりだったから。弟丸さんが私達に教えてくれた女性像はあまりにも妹さんの姿にそっくりだったのだ。
この事件の大元は一人の女性が死んだことからはじまった。
「だがな。関係しているとは言ったものの、妹さんが死んだこととお前が街に爆弾をばらまいた理由がどうしても結びつかないんだ。復讐目的なら怪物を倒しにいけばいいだろう。街の人間は何の関係もない」
「そうですよ。街の人間は妹が死んだことと何の関係もない。それくらい俺にも分かってる」
「じゃあどうして……」
「これは復讐なんて大それたものじゃない。ただの迷惑な巻き込み自殺だ」
自殺? と私は思わず声を上げた。弟丸さんが私を見てニッコリと微笑む。
「俺は頭が悪いから。怪物に復讐をしようと思っても、どこにいるのかも、どうやって倒せるかも分からん。何より敵討ちをしたい気持ちより妹が死んだ悲しみの方が強かった」
妹は、と弟丸さんは遠くを見るような目で語る。
「たった一人の家族だったんだ。ガキの頃に両親が死んじまって以来あいつを幸せにさせることだけを考えて生きてきた。……でももうそんな意味もない」
「生きがいを失った。だから自殺するって?」
「はい」
「わざわざ街中に爆弾をしかけて大勢を道連れにして?」
「はい」
「ふざけるのもいい加減にしろよ」
ドスの効いた声で澤田さんは唸った。彼の喉仏が膨らみ、ザラリと神経を撫でるような威圧感の声が溢れる。
「事情を聞いた上でも、お前の行動を理解はできない。死ぬなら一人で死ね。他人を巻き込む必要がどこにある。青桐組の名を汚すな」
分かってますよ、と弟丸さんは吐き捨てるように笑った。
怒りと悲しみをぐちゃぐちゃに混ぜたみたいな声は強く私の胸を打つ。
「俺自身、自分の気持ちがよく分からないんだ。あんたにどれだけ説明したって理解できないでしょう。……妹の命は理不尽に奪われた。俺が世間に理不尽なことをしたって、構わないでしょう」
理屈が通っていない話だと私にだって分かる。だけど誰よりもそれを一番理解しているのは彼自身だと思った。
人を殺したいとか一人で死ぬのが寂しいからだとか、きっとそういう理由ではない。ただどうしても消えない心のモヤを晴らせるのがこの方法なだけなのだ。だから彼は街に爆弾をばらまき、多数の死傷者を出している。
ああ。私には彼の言う諤ェ迚ゥというものが何かよく分からない。だけどその諤ェ迚ゥが現れなければ。きっとこんなことにはならなかったのに。
「死んだらだめよ!」
それでも。彼を傷付けることになろうとも、私達は彼の行動を止めるためにここに来た。彼をこれ以上好きにさせてはいけないのだ。
キッと彼を睨んで一歩近づいた。頭の中で目まぐるしく彼を説得する言葉を考える。
自殺なんてよくないわ。生きていればきっといいことがあるわよ。やり直す機会はまだあるのよ。人生を悲観するのはまだ早すぎるわ……。
「止まれ、ありす!」
「ひっ!」
ダチュンッと音がして髪の毛先が弾けた。ほぼ同時に横の木に大きな穴が開いたのを見て、目の前を弾丸が通過していったのだと気がつく。澤田さんが首根っこを引っ張ってくれていなければ今頃それが脳味噌を突き破っていたのだとも知る。
弟丸さんが取り出していた銃がもう一度私に狙いを付けていた。咄嗟に澤田さんが私の頭を掴み、地面に押し付ける。パンッと弾ける音が頭上に聞こえた。
顎を打ち付けた痛みを感じながら私はふと、さっき聞こえた悲鳴が誰のものかと疑問を浮かべていた。私の声じゃなかった。澤田さんの声でも。
澤田さんに隙が生まれた瞬間弟丸さんは駆け出していた。澤田さんがすぐさま銃を撃っても当たらない。逃げるかと思った弟丸さんは、しかし近くの植木に腕を突っ込むと、その陰に隠れていた男の子を引っ張り出した。
「動くなよ!」
銃口が一人の男の子の頭に突きつけられていた。ハロウィンの格好をしたその人は、状況をいまいち理解していない顔で目を見開いて固まっていた。
国光先輩だった。
「国光!」
鋭い声が後ろから飛んできた。タイミングがいいのか悪いのか、展望デッキに駆け込んできたのは鷹さんと湊先輩だった。
走って汗だくの顔を真っ赤に染めていた二人は、銃を突きつけられている国光先輩を見て、途端に顔色を青に染め変えた。
「お前は誰だ。知り合いか?」
「あ……お、俺はただ、屋上でジャック・オー・ランタンを探してただけだ」
「ああ、ゲームのね。放送が聞こえなかったのかよ」
「夢中になってて……。スタッフが入ってきたと思って怒られる前に慌てて隠れたら、あんただったから」
「なんだ、ただの逃げ遅れかよ」
「国光を離せ!」
湊先輩が、横の鷹さんが飛び上がるくらいの大きな声を荒げた。彼は拳を真っ白になるほど握りしめ、ガチガチと歯を鳴らして吠える。
「人質にするつもりなのか? 金でも要求しようって? だったら僕が代わりに人質になる。頼むから彼を解放してやってくれ!」
「誤解するなよ。なにもそういう目的で捕まえたわけじゃない。単に邪魔をされたくなかっただけだ」
「じゃ、邪魔?」
「あんた達に逃げる隙を与えたくなかったんだ」
弟丸さんは国光先輩を盾にしたまま懐から何かを取り出した。エアコンのリモコンのような機械だった。彼はあっさりとボタンを一つ押す。
その瞬間出入口のガラス扉が盛大な音を立てて爆発した。
ガラスの雨が横殴りに降ってくる。細かな破片はこちらにまで届き、手足の皮膚がピリッと痛んだ。
驚いた顔を向ければ、出入口のガラスが全て割れていた。風が建物の内部にひゅうひゅうと流れ込んでいる。
険しい目でそれを見ていた鷹さんがハッと何かに気が付いた。彼女の視線を送って私も理解する。扉付近に飾られていたジャック・オー・ランタンのモニュメントが粉々に砕け散っていたのだ。
「ここは妹のお気に入りの場所だった。ここから見える夜景が大層好きなんだとよく話してくれたんだよ。兄貴も毎回デートの最後は必ずここにやってくる。今夜も来てくれると思って待ってたんだけどなぁ」
展望デッキにはハロウィンの装飾がたくさん飾られていた。辺りにはカボチャがゴロゴロ転がっている。どれが最初から飾られていたもので、どれが弟丸さんが後から足した爆弾なのか見分けはつかない。
「……俺達を巻き込んでここを爆発させるつもりか」
「その通り」
澤田さんの唸るような声に弟丸さんは晴れやかに笑った。
「この連続爆破事件の目的は、俺の盛大な自殺なんだ」
ピンと張りつめた空気が息苦しかった。私達はまるで氷の彫像になったかのようにその場に固まっていた。
弟丸さんの指はリモコンに添えられている。どのボタンがどの爆弾に繋がっているのかは分からない。あの威力の爆発に巻き込まれたら私達はきっと死ぬだろう。
皆の緊張が空気越しにも伝わってくる。澤田さんも鷹さんも身動ぎ一つせず弟丸さんを睨みつけていた。どうする。どうすればいい。駄目、いくら考えても何も思いつかない……。
「あんたは妹のことが大好きだったんだなぁ」
空気を打ち破ったのは国光先輩の声だった。ハッと私達の視線が彼に集中する。
彼はいまだ銃を頭に突きつけられている。怯えているのだろうということはその青ざめた顔を見ればすぐに分かった。それでも彼は必死に喉を震わせて、弟丸さんに話しかけた。
「俺にはあんた達の事情はよく分からないぜ。だけど今聞いてた分だけでも、あんたがどれだけ妹を大切に思っていたかは分かるよ。たった一人の家族だろ? いなくなるのは辛いよなぁ」
「お前には関係ないだろ、黙ってろ」
銃口がぐっと彼の頭を小突く。恐怖にビクリと肩を跳ねつつも、国光先輩は恐怖を無理に飲み込んで言葉を続けた。
「俺にも姉ちゃんがいるんだよ。昔から喧嘩ばっかするし夕飯のからあげは取られるし、いい思い出なんてほとんどない。だけどそんな姉でも死んだらすげえ悲しいよ。姉ちゃんも多分そう思ってくれると思う」
「……………………」
「だけどもし俺が死んだとして、姉ちゃんが自棄になって周りに迷惑をかけたとしたら、俺は姉ちゃんのことを絶対許せなくなると思うな」
「……何が言いたいんだ」
「ありきたりな言葉だけど、あんたの妹はあんたがこんなことをするのを望んでいないはずだ。天国から今のあんたを見て泣いてるんじゃないの?」
「そんなこと分かってるよ。……これは俺自身のためなんだよ。俺の悲しみを慰めるだけの、俺のために起こした事件なんだよ」
「そうなんだろうな。だから、俺がこれからすることは、あんたには悪いと思ってる」
「はぁ?」
「俺はあんたより、妹さんの気持ちの方を汲み取らせてもらうよ」
国光先輩が私達を見てニンマリと笑った。無理をしたその笑顔に、湊先輩が何かを察したように目を見開く。
突然国光先輩が銃を無視して勢いよく振り向いた。弟丸さんが咄嗟に発砲した一発は、先輩の側頭部を掠めて飛んでいく。国光先輩は怪我の痛みも恐怖も飲み込んで、勢いよく拳を弟丸さんの顔面に振りぬいた。
「オゴッ」
国光先輩は、白目を剥く弟丸さんの手からリモコンを毟り取ろうとした。けれどそう上手くはいかない。二人の力は拮抗し、血走った目で互いを睨み合う。弟丸さんが構えようとした銃を国光先輩は根性だけで掴み、地面に投げ捨てた。
「逃げろ!」
慌てて加勢しようとした湊先輩に国光先輩が血走った目で叫んだ。
けれどそのとき弟丸さんの指がリモコンに滑る。ボタンの一つが押された。それは国光先輩の真後ろに転がっていたカボチャを爆発させるスイッチだったようだ。足元のカボチャがボコリと歪に膨れ上がるのを見て、国光先輩が大きく目を見開く。
閃光が走った。
激しく立ち上った黒煙が風に吹かれて消える。頭を押さえて蹲っていた国光先輩はおそるおそる顔を上げ、目の前の光景にギクリと動きを止めた。
「……よかった。間に合った」
「ありすちゃん!」
私は国光先輩の上に覆いかぶさったまま、ほっと安堵の溜息を吐いた。熱を持つ背中から血が垂れて地面に滴り落ちていく。間一髪。爆発の寸前に滑り込むことができた。
国光先輩は顔を歪めて私を見上げていた。けれどその表情は次第に違うものへと変わる。
じわりと私の指先から光が零れだす。みるみるうちに光の粒が私の体を包み込み、背中の痛みが和らいでいく。
私の体は魔法少女に変身しようとしていた。
「これ以上皆を傷付けないで」
弟丸さんが驚愕の眼差しを私に向けていた。興奮に赤かった彼の顔色が、はじめてスゥッと冷めていく。青ざめた顔に浮かんでいるのは恐怖だった。
「私は皆を救うために来たのよ。この街も、あなたの妹さんのことも」
「お、お、お前。何だよ、お前。それ。何だよ」
「あなたのことだって」
「何なんだよっ!」
魔法の力が体を満たしていく。痛みも恐怖もなくなって、ただただ溢れる愛情が体を包み込む。
ふと後ろを見れば国光先輩が茫然と私を見上げていた。その視線に応えるように微笑んで、私は弟丸さんに向き直る。
足を開いて。前を見て。大きく吸い込んだ息に、力を込めて吐き出す。
「――――変身」
舞い上がった風が私の髪を掻き乱す。視界が一面ピンク色に染まり、ふっと風が消えれば一瞬で視界が開ける。
変身する前と変わらない光景。だけどどこかキラキラと輝いて見える景色。驚きに目を剥く弟丸さんを前に見て、私はぐっと彼に顔を近付けた。
「あなたが絶望するこの世界は私が救ってあげる。もう二度とあなたの妹さんのような悲劇は起こさない。この世の全ての悲しみを取り除いてあげる。絶対にできるわ。だって私は――――魔法少女だもの!」
だからねえどうか。お願い。もうこれ以上街を破壊するのはやめて。これ以上悲しむのはもうやめて。
私は彼の手をそっと握って言った。だけど弟丸さんの顔はどんどん青くなっていくばかりだった。
「お、お前が……」
恐怖に歪み切ったその顔から一条の涙がボロリと零れる。
彼は私の目をまっすぐに見つめて言った。
「お前が! 俺の妹を殺したのか! この……怪物が!」
「…………え?」
ふっと、手に力がこもる。ほんの少しの力だった。
ボキボキメリメリと嫌な音がして弟丸さんの手がぺたんこになるなんて思ってもいなかった。
彼が絶叫する。凄まじい声に私は思わず手を離した。
私の手は真っ赤に染まっていた。
「えっ?」
あれ、と私は何気なく視線を周囲に向けた。後ろにいる国光先輩が同じく恐怖の眼差しで私を見上げていることに気が付いた。
……
「ありすちゃん」
いつの間にか地面に降り立っていたチョコが私を見上げていた。ふりふりとピンクの手を振って、精一杯の大きな声で叫んでいる。
その隣に立っていたマスターも静かな、だけど妙に通る声で私に話しかけている
「さあ、頑張れ。敵を倒すんだ。魔法の力でさっさとやっつけろ」
「大丈夫だ。恐れることは何もない」
「いつものようにビームを撃つんだよ。見応えがあって、ぼくはあれが大好きなんだ」
「恐れるな。怖がるな。君は何も変わっちゃいない」
「さあ早く。さあありすちゃん。さあ、魔法少女ピンクちゃん」
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
「縺輔▲縺輔→谿コ縺帙h諤ェ迚ゥ縺」
ブチンと音がした。脳味噌が千切れる音だった。
「っ」
鼻と口からビチャビチャと体液が溢れてくる。黒く粘ついた粘液は勢いよく流れて地面に小さな水たまりを作った。
表面がツヤリと光って曇った鏡のように私の姿を映し出す。
それは大きな怪物だった。
醜悪で気持ちの悪い、ぐちゃぐちゃドロドロとした怪物だった。
「あ?」
体内の血管を走る電車がぷちぷちと臓器を食い破って私の体を変えていく。
目まぐるしく回る目の奥の神経が万華鏡になってカラコロと悲鳴をあげていた。
白い肌と女の子の体がドロドロに溶けてサナギの中に注がれる。冷凍庫で一時間凍り付いた心臓が脈打つごとに私の体はボキボキと折れて、手足がぬるりと生々しい触手に変わった。
ピンク色の髪が抜け落ちて脳味噌から生えた触手が体の内側を破り取る。電話がかかってきたと思ったら公衆電話だから取ることもできないの。目の奥が熱く溶けて白い砂糖にピンクの着色料を塗りたくる。私の腕は私じゃなくて触手になって足がドクドクと脈を打ったら心臓が止まって脳味噌が脳味噌になって脳味噌はおいしい。砕け散った声帯をはめ直せばゴロゴロザラザラした怪物の声になって二十年がたった。子宮から聞こえる悲鳴を赤色に浸せば溺れて死んだ。「おぐ」鼻から溢れる粘液を撒き散らして虹色の視界に眩暈を添える。「えぐ」っと私は胃をからっぽにするくらい内臓を吐き出した。
「あ……」
赤ん坊の泣き声がする。
「あっ……。あ、あ!」
私は頭を抱えてビクビクと喉を痙攣させた。
目から溢れた涙さえも黒かった。
一気に脳味噌にこれまでの記憶がなだれ込んでくる。みちみちと血管が裂けるような音がして、心臓が凄まじい鼓動を奏でている。
気が付いた!
気が付いた!
気が付いた!
私は、気が付いてしまった。
「あ」
自分が、魔法少女なんかじゃなかったことに。
「――――――――!」
流れ星に当たったあの日から。
学校でも。
商店街でも。
街中でも。
銀行でも。
海辺の倉庫でも。
どこでも、どこでも、どこでも。
私はずっと諤ェ迚ゥだった。
最初から。ずっと、怪物だった。
私の絶叫が空に響き渡る。しなる触手が壁を壊す。木々を吹き飛ばし、瓦礫を飛ばす。
暴れる私を止めようと駆け寄ってきた澤田さんに触手がぶつかった。彼は激しく息を吐き出し、直後にドロッと粘ついた血を吐いた。
「蜉ゥ縺代※縲∝勧縺代※!」
濁った雫がボロボロと地面に落ちていく。零れる涙さえ巨大だった。ぼやける視界の中、辛うじてそれが見えた。
展望デッキの縁に逃げた弟丸さん。涙に濡れたその目が血走って私を睨みつけているのを。血だらけで折れた指がリモコンのボタンに近付いているのを。
――――止めなきゃ。
そう思っても。どうしても体が動かなかった。
「うおおお!」
横から飛んできた国光先輩が弟丸さんに体ごとぶつかった。
血だらけの手からリモコンが落ちて、床の上を滑っていく。
弟丸さんの体が傾いていく様子がスローモーションに見えた。
彼に巻き込まれた国光先輩も、ゆっくりと落ちていく。
私は咄嗟に手を伸ばした。……いいや、手だと思ったそれは、触手だった。
黒くぬめるおぞましい触手を、落ちていく国光先輩は茫然と見つめていた。
その先端が彼の手に届くより先に。私の耳に、国光先輩が小さく呟いた言葉が、ハッキリと聞こえた。
「かいぶつ」
届かなかった。
ふっと時間の感覚が戻る。
「国光!」
後ろから飛び込んできた湊先輩が必死に伸ばした指先も、彼に届くことはなかった。
身を乗り出して落ちかけた湊先輩を、後ろから鷹さんが慌てて引き戻す。
「…………」
私は茫然と地面に座り込んでいた。変身が解け、ドロリとした粘液の中から元の白い人間の肌が現れるのを、黙って見つめていた。
肉が地面に叩きつけられる音は聞こえなかった。
地面の音が聞こえないほど、ここは高いのだ。
鷹さんだけが手すりから身を乗り出して下を覗き込んでいた。キツク食いしばられた唇を見れば、その下に何が見えたのかは聞かなくても理解できた。
「…………」
私の隣で、湊先輩が頭を抱えて蹲っていた。拳を何度も地面に打ち付けて、髪をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
声にならぬ絶叫を何度もあげて、彼は大きく目を見開いていた。涙は一滴も出ていない。
それはかえって、胸がズタズタに引き裂かれるほど悲痛な姿だった。
「み……。……あ。……み、湊、先輩」
私は震える指先で湊先輩の背中に触れた。彼の背中は痙攣したように震えていた。
青ざめた顔で私は彼に縋る。どうしようもないほど心が壊れていた。胸の中がぐちゃぐちゃで、今すぐ誰かに助けてもらいたかった。
「湊先輩」
湊先輩は優しい人だ。はじめて出会ったときから、彼はずっと優しかった。
だからきっと助けてくれる。私を受け入れてくれる。
彼なら、彼なら。私が怪物になっていたことを全て許してくれる。
だから今だって、きっと。
「……のせいだ」
「え?」
「君のせいだ!」
湊先輩は、乱暴に私の手を振り払った。激しい悲しみに濡れた怒号が私の体を撃ち抜く。
彼の瞳を見た瞬間私の心臓が凍り付いた。
彼は、私に激しい嫌悪の目を向けていた。
「全部君のせいじゃないか。街の爆発も、国光がこうなったのも、全部君がいたからじゃないか!」
「っ…………」
「皆が死んだのは君がいたからだ。何が、人を助けたいだよ。何が、魔法の力だよ。ふざけるな。君は最初から、魔法少女じゃないくせに!」
湊先輩の剣幕に皆が固まっていた。それほどまでに、今の彼は恐ろしかった。
真っ赤になった目が私を睨みつけている。
湊先輩は、私を許さなかった。
「君が変身しているのは怪物なんだよ!」
そう言った途端、湊先輩は顔をぐしゃりと歪めて涙を流した。
彼は苦しそうな顔をして展望デッキから走り去る。鷹さんが慌てて彼を追いかければ、辺りには重い沈黙が立ち込めた。
皆が遠巻きに私を見つめているのが分かる。冷たい風が肌を突き刺していく。
それでも私は立ち上がることもできず、茫然と、空を見つめていた。
星が綺麗な夜だった。
「…………私」
私は、魔法少女ピンクちゃん。
私は、鬲疲ウ募ー大・ウ■■■ちゃん。
私は、私。私は、
「私は、」
私は、怪物だ。
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