第65話 雫ちゃん奪還大作戦

 祥子さんの白い肌が汗で湿っている。

 彼女は頭痛を堪えるように頭を押さえ、重苦しい溜息を吐き出した。


「つまり……あなた達怪物は自分を魔法少女だと思い込んで戦っていたってわけ? 悪者を倒して世界を守ろうとする正義のヒーローだったってこと?」

「うん」

「覚醒剤吸ってる? それとも大麻?」


 私は身を竦め、膝の上でお菓子をむさぼっていたチョコを抱きしめた。

 澤田さんの横で煙草を吸っていた千紗ちゃんが「コカインしかやってねえよ失礼だな」と濃厚な煙を吐いた。


 魔法少女、怪物、宇宙人、倒すべき敵である黎明の乙女……。長々と魔法少女の説明を聞いた祥子さんはぐったりと疲れ切った様子で天井を仰ぐ。


「ただ暴れているだけにしては変な動きだと思っていた。目的でもあるのかとは思っていたけど。だけどまさか、『国を守るために』捕らえようとしていた怪物の目的自体が『国を守ること』だったなんて……」

「人は見かけによらないってことだね」


 澤田さんがジョークを飛ばした。誰も笑わなかった。彼が言うとそのジョークはジョークに聞こえない。


 映画研究部の室内はうっすらと白く煙草の煙が揺らいでいた。ジーッ……とプロジェクターから刺す青い光が壁を照らしている。その光の中に紫煙がゆらゆら泳ぎ、白雪のような埃を光らせていた。


「それで? 正義のヒーローのつもりでした。悪意はありませんでした。そんなことを言って許されたいってわけ?」

「まさか! 自分が何をしてきたのかちゃんと分かってるわ!」

「分かってる上で街を壊して、人を傷つけてきたの?」

「っ。そ、それは」

「あなた達の事情は分かった。だけど、だからって私が怪物の監視をやめることはない。これ以上被害が広がるのを見過ごすわけにはいかない」


 祥子さんはソファーからぐっと身を乗り出して私を睨みつけた。皮膚を切り裂きそうなほど鋭い眼光だった。たった十八の少女のする目じゃない。


「仕事熱心な女だな」


 不意に煙草の香りが強くなった。と、私の真横にドカリと千紗ちゃんが座る。

 大きく広げた足に肘をつき、苦くて大人っぽい笑い声をくゆらせ、チロリと舐めるように祥子さんを見つめ返す。


「あんたの親元だった怪物特殊対策本部は怪物の記憶をスッパリ消しちまってる。政府側の人間で現状怪物の存在を記憶しているのはあんたくらいなもんか?」

「……ええ。多分ね」

「いくら国の人間ったって、あんたは武器も権力もない小娘だ。たった一人。それでもあたし達に首輪を付けて管理しようっていうの?」

「当然よ。怪物の勝手な行動で市民が傷つけられるのを見過ごすわけにはいかない。あなた達がすること成すこと、全て私が監視するつもり」

「なるほど」


 煙草の先端がトンと灰皿を叩く。長く伸びていた灰がほろっと崩れ、灰皿から一筋の煙を流して消えた。


「じゃあ、今回はあんたも協力してくれるってことね?」

「は?」

「監視ってことは近くにいるんだろ。じゃあ、雫救出作戦も協力しろよ。黙ってじっと監視してるよか効率いいだろ」

「はぁっ?」


 祥子さんが上擦った声を出した。よっぽど千紗ちゃんの言葉が予想外だったのだろう。横で聞いていた私だってそうだった。

 と、千紗ちゃんの首がぐるりと私の方に向けられて思わず身を竦める。


「でどうすんの?」

「う?」

「雫を助けるんだろ。どうすんの。教室乗り込んで話し合いでもすんの」


 金色の髪がサラリと私の肩をくすぐった。

 私はしどろもどろになり、汗の滲む手でチョコをキツク抱きしめる。クッキーを口いっぱいに頬張っていたチョコはぐぇっと呻き声をあげた。


「黎明の乙女の施設内に潜り込めないかなって思うの……」

「潜り込む?」

「雫ちゃんを説得して連れ出してあげたいの。それもし他にも騙されてる人がいたとしたら、その人達も一緒に助けてあげられるでしょう?」


 何となく。私は雫ちゃんが学校に来ていないだろうと察していた。彼女の家に行っても出て来てくれるかどうか分からない。ならば直接本拠地に攻め込むのが、一番確実に雫ちゃんに会える方法だ。

 しばし考えこんでから千紗ちゃんは無言で私の背中を叩いた。手の平の形をした熱がじわっと背中に滲む。痛みに悶える私の横で、千紗ちゃんは大きな声で笑った。


「あたし達は仲間を助けるため黎明の乙女に潜入する。怪物特殊対策本部、現責任者であるショーコ様はあたし達の専属監視役をお勤めされるんだろう? 一緒に潜入してくれるよな」

「調子に乗らないで! 私はあなた達が街に被害を出さないよう見張るだけ。あなた達の手伝いをするってわけじゃ……」

「あっそ。なら湊に手伝ってもらおっかな」

「だ、駄目!」


 彼女は途端に表情を変える。湊くん、という言葉は祥子さんに何より効いた。はくはくと赤い唇を震わせ、肩を大きく怒らせた。

 そんな彼女の反応に千紗ちゃんが唇だけで笑う。私の膝に座るチョコと、壁際に立つ澤田さんも小さく笑った。


「潜入作戦か。面白そうじゃないか」

「澤田も行くか?」

「うーん、俺は黎明の乙女と何度か取引をしたことがあるからね。顔が割れてるかもしれない。パスしとくよ」

「じゃ、成功を祈っとけよ」

「そうする。ま、ピンチになったら合図でも寄こしてよ。すぐ向かうからさ」

「頼もしいね。……で? 祥子は?」


 祥子さんは千紗ちゃんを睨んで、しばし悩み、それから長い長い溜息を吐き出した。


「…………潜入はいつ?」





「明後日だ」


 ローテーブルに一枚の紙が叩きつけられる。可愛らしいタッチのイラストが描かれたコンサートの宣伝ポスターだった。

 一見単なるポスターにしか見えないそれだったが、しかし端に書かれた主催者名が「黎明会」なるものだったり、裏に書かれた紹介文の中に「演奏後は聖母様からのお言葉もあり……」などと妙な言葉が並んでいた。

 風圧でローテーブルに広げていた他の書類がバサバサと畳の上に落ちてしまう。千紗ちゃんと祥子さんが話し合っている横で私はそれを拾って整頓した。「黎明の乙女十月新規会員」「前期報告書③」「十一月スケジュール」など明らかに部外者が見てはいけない資料ばかりだ。千紗ちゃんが母親の金庫から勝手に盗んできたものだから。


 放課後、私達が訪れたのは千紗ちゃんの家だった。

 彼女の部屋で私と千紗ちゃんと祥子さんの三人はローテーブルを囲んでいる。さながら女子会のようだが、テーブルに並ぶのはお菓子ではなく重要資料の数々だ。


 千紗ちゃんの母親が黎明の乙女のメンバーであることは既に聞いていた。幹部の一人であること、千紗ちゃん本人も子供時代によく集会に連れられていたことも。

 魔法少女達の中でも特に黎明の乙女を嫌悪している様子の千紗ちゃん。しかし組織の情報を得るのに一番都合がいいのも彼女の家であるというのは、なかなかの皮肉だと思った。


「場所は黎明の乙女の施設内……。なるほど、ここに潜入するってわけね」

「雫ちゃんもきっと来るはずだわ。ここで彼女を探して、説得するのよ」

「んにゃ。説得なんて無理だろ」

「えっ」


 私と祥子さんはポカンと口を開けた。千紗ちゃんはそんな私達の反応に顔も向けず、書類に目を落としたまんま、いいかい、と喋る。


「部室では適当に話を合わせたけどよ。宗教にハマった人間を説得しようって、まずその大前提が間違ってる」


 ザリ、と千紗ちゃんの指が書類の表面をなぞる。乾燥しているのかささくれができていた。

 窓から入るそよ風がゆらゆらと部屋に揺らめく。壁にかかった真新しい書道の掛け軸が薄い体を震わせ『聖母様を信じる者は救われる』という言葉がそよいでいた。


「宗教に落ちた人間を説得できるのは教祖かカウンセラーくらいだ。心理学を学んでもないただのガキが説得しようったって無理な話。宗教は心の根っこに絡みついてくんだから」

「それじゃあどうするの?」

「新興宗教相手に頭脳戦を挑むのは無茶だよな」

「だったら何。力技でいくつもり?」

「察しがいいじゃん」


 呆れ半分の祥子さんの言葉にまさか千紗ちゃんは頷いた。

 彼女はそのまま投げ捨てていた鞄をたぐり寄せる。何をするのかと見ていれば、彼女はそこから小さなカボチャを取り出した。

 濃いオレンジ色のそれにギクリとする。黒い目と口が描かれているのを知れば、とうとう私はギャッと悲鳴をあげてその場から飛びのいた。


「そ、そ、それ!」

「大暴れするぞ」


 忘れもしない。というかあの騒動から数日もたっていない。それはハロウィンの夜に私達を散々苦しめたあのカボチャ型爆弾だった。

 千紗ちゃんが言うにそれは澤田さんからもらったらしい。警察が回収しきる前に澤田さんが、何かに使えるのではないかといくつか拝借していたのだという。改造を加えたおかげですぐに爆発することはないらしいが。それでも爆弾を無造作につかむ姿を見ていると、心臓が嫌な汗をかく。


「正攻法で雫を連れ出すのは難しい。でも会場で事件が起こって、パニック状態になったらどうだ? 混乱に生じて引っ張り出せるんじゃないの」

「事件って。まさか、爆発騒ぎを起こすつもり!?」

「それだけじゃない。怪物も二体出現させる」

「な…………」

「爆発事故と怪物。二つも事件が起こればあの連中だって大パニックを起こす」

「そんなの、一体どれだけの人が死ぬと思ってるの!」

「別に命は取らねえよ。爆弾は人気がない所に設置するし、変身だって加減する」


 くあ、と千紗ちゃんは大口を開けてあくびをした。血の気が多い作戦に茫然とする私と祥子さんを置き去りにして。犬歯でやわく唇を食んだ千紗ちゃんは、私達の表情に気が付くとアメリカンな仕草で片眉を上げる。

 血気盛んだなぁ、とお菓子をもりもり食べていたチョコが言う。その言い方はまるで若者の熱を羨ましがる中年のそれだった。


「黎明の乙女のメンバーには警察官やお偉いさんもいる。圧がかけられてるせいでこれまでキチンとした調査はあまりできていなかった。だけど爆発レベルの騒ぎが起これば流石に放ってはおけないだろ。それに」

「それに?」

「当日は聖母様が来る」


 彼女は「聖母様のお言葉」と書かれた文章を指差した。私の喉がきゅっと細くなる。梅干しを食べたときみたいな酸っぱい唾が舌にじわっと滲んだ。


 聖母様。新興宗教黎明の乙女のトップである人間。聖母とは言っても男であるか女であるかも不明の不思議な人物。私達が倒すべきラスボス。

 信者ですら一部の人間しか聖母様の顔を見たことがない。それほど存在を秘匿されている聖母様がこの日は珍しく大勢の前に姿を晒すのだ。


 ある意味この日こそ、私達が黎明の乙女を壊滅させる最大のチャンスなのかもしれない。


「黎明の乙女をぶっ飛ばすぞ」

「っ」


 ぶわっと心臓に熱い風が吹き抜けるようだった。私は大きく目を見開き、ドクドクと脈打つ心臓を強く握りしめる。

 体中を駆け抜けるこの熱は緊張であり、恐怖であり、そして何より興奮だった。

 黎明の乙女をとうとう倒せるかもしれないのだ。


「ねえ、これ潜入なんでしょ?」

「あ?」

「せめてその髪色くらいどうにかしたら? 目立つよ」


 祥子さんは私と千紗ちゃんの髪を指して言った。露骨に嫌そうな顔をする金髪の千紗ちゃんの横で、私はピンク色の髪を指で摘まんで苦笑する。確かにこれは潜入捜査には不向きだ。

 帽子でいいだろと千紗ちゃんは壁にかかった帽子を指して平坦な声で言った。私はふとその指が差した壁を見て、そこにかかっている掛け軸を見て、目を細める。


「……千紗ちゃん。あのね、書道セットってある?」

「あの女の部屋にならあるけど。何?」

「ちょっとやる気入れようと思って」


 千紗ちゃんは怪訝な顔をしつつも母親の部屋から書道セットを取ってきてくれた。ありがと、と受け取ったそれを開けば墨汁の匂いがツンとする。「一球入魂とでも書くの?」とからかう祥子さんに「うん」と頷いて、私は蓋を開けた墨汁を頭の上にひっくり返した。


「は」


 ビタビタと流れる冷たい墨汁が髪を濡らす。鮮やかなピンク色がどんどん黒く染められていく。皆の呆気にとられた視線を浴びて、私はザクッと前髪を指でかきあげた。墨汁で湿った髪からボタリと黒い水がしたたった。


「雫ちゃんを助けに行こう」


 私はもう大人になった。魔法少女の現実を知った。

 大好きだったピンク色からは、そろそろ卒業のときがきているのかもしれなかった。

 千紗ちゃんはしばし私を茫然と見つめ続けてからボソリと「掃除手伝えや」と墨汁で汚れた畳を見下ろして言った。





「ふぅ……。はーっ。……ふぅ」


 緊張で口から胃が零れてしまいそうだった。

 次の、次の日。明後日が来るのはあっという間だった。黎明の乙女のコンサート当日。私は今その会場にいるのだった。


 黎明の乙女の本拠点。そこからそう離れていない大学の大講堂のような場所だった。中央にステージがあり、それを半円に囲むようにたくさんの椅子が並んでいる。

 最後列の一番端側に私達三人は座っている。ここからは他の座席がよく見えた。空席はほとんどない。賑やかなざわめきを聞く限り、信者が六割、一般参加者が四割といったところだろうか。

 私は震える唇を噛み締め、首筋に滲む汗を手の甲で拭った。じっとりと頬が汗ばんでいる。そんな火照った肌に不意に冷たいドリンクがピトリと触れて、私は「ミギャンッ!」と奇妙な悲鳴をあげた。


「だから、そんなにそわそわしてたら目立つって。髪染めた意味ないじゃない」


 それとも目立ちたいの? と祥子さんがドリンクを私に手渡して呆れた顔をした。

 ドリンクは受付横のカフェで売られていたものだ。苺シロップをサイダーで割ってフルーツを飾ったおしゃれな飲み物。SNSに上げればそれなりに反応をもらえそうだった。

 シャグシャグ苺を齧りながら私は自分の黒い前髪を指でつまむ。あの後ちゃんと洗髪料を買ってきて染めたのだ。

 ベッタリと深い黒色に染まった髪はなんだか落ち着かない。生まれつきの髪も明るめの茶色だった。こんなに黒くしたのは人生初だ。


「ありがと」

「いいわよドリンク一杯くらい」

「それもだけど。私達に協力してくれて……」

「は?」


 祥子さんが鋭く私を睨んだ。細い指がドリンクの安っぽいプラスチック容器をベコリとへこませる。身を竦ませる私に舌打ちをして彼女は「あなた達のためじゃない」と言った。

 祥子さんが来てくれたのはあくまで監視のためだ。私達の行動が一般人に被害を出さないために。たった一人になってしまった怪物特殊対策本部の使命感もあるのだろう。


「あなた達がこれからも活動を続けるとしたら、必ず湊くんに協力を仰ぐでしょう? 彼を危険に巻き込むわけにはいかないの。私があなた達を監視する一番の理由は、あなた達が湊くんと接触するのを防ぐためよ」

「……大丈夫だよ。もう、湊先輩にはあまり関わらないようにするから」

「本当?」

「うん」


 関わるも何も湊先輩はきっともう私に話しかけてこないだろうと思う。だって私は国光先輩を殺したのだ。彼の大事な友達を殺したのだ。

 変な子だった私を受け入れてくれた。いじめられている私を助けて、夢を応援してくれた。度が過ぎるほどに優しい湊先輩でもあの夜の出来事を受け止めることはできなかった。

 きっともう私と湊先輩は友達ではいられない。


「私は監視を続ける。少なくとも湊くんがあなたのことを忘れるまで」

「…………そっか」

「忘れてしまえば、もう彼があなたを助けにくることもない」


 私は曖昧に微笑んだ。ズキッと痛む胸の疼きを無視して。


 突如ヴーッとサイレンが鳴った。会場の照明が徐々に暗くなっていく。

 私の右横の席で、帽子を顔に被せて爆睡していた千紗ちゃんが起き上がった。彼女は自分の膝の上で爆睡していたチョコを雑に私の膝に押し付け、眠たげな目をショボショボと擦ってステージを見つめる。


「始まんぞ」


 祥子さんと私も顔を前に向けた。閉じられていた分厚いカーテンがゆるりと開いていくのを、妙な緊張感と共に見守っていた。

 黎明の乙女のコンサートがはじまった。




「んふっ」


 祥子さんが思わずといった様子で吐息を零して、パッと口を覆って気まずそうに咳払いをする。私はその横であはあは声をあげて笑っていた。視線の先はステージ上で漫才をする信者の二人に向けている。

 コンサートは思っていたよりもずっと面白かった。

 讃美歌が歌われるだけかと思えば他にも色々な出し物があった。ダンス、マジック、漫才……。

 宗教じみた説教がいつはじまるのかと構えていたものの一向にそんな気配はなく、せいぜい「幸せに生きよう」「夢を諦めないで」と前向きな言葉が述べられるばかりで、特段怪しさは感じられない。


 もっと宗教に絡んだ話をされるものだと警戒していた。それが蓋を開けてみればただの楽しいイベントなのだったから拍子抜けしたというかなんというか。

 そっか。雫ちゃんが黎明の乙女に入ったと聞いて焦っていたけれど。こういうイベントに参加するだけなら焦る必要はなかったのかも……。

 あれだけ緊張していたはずなのに私はすっかりリラックスしていた。はーっと笑いの余韻を引きずった溜息を吐き、涙を拭う。


「黎明の乙女って思っていたより楽しいのね」

「それが狙いに決まってんだろ馬鹿」


 ドンと右隣から拳で座席を叩かれた。千紗ちゃんが酷く恐ろしい目で私を睨みつけていた。


「『宗教』に対する敷居を下げるのが目的だよ。最初っから本性を剥き出しにしてぐいぐい迫れば、新しい信者の獲得なんてできねえだろ」


 宗教をなんにも分かってねえなと千紗ちゃんが溜息を吐いた。私はムッとして分かるもんと文句を言う。けれど千紗ちゃんは首を振り、私と祥子さんとチョコ三人にまとめて言い聞かせるように頷いた。


「宗教と聞けば大抵はまず警戒心を抱く。でもな、宗教ってのはお前らが思ってるより身近に絡んでるものなんだ。例えば……ありす、お前今年初詣行った?」

「ふふん。おみくじ大吉だった」

「そうかい」

「パパがムビョーソクサイ? のお守り買ってくれた」

「それも宗教だよ」

「えっ」

「クリスマスを祝うのも宗教。盆に先祖を迎えるのも宗教。意識してないだけでお前らもとっくに宗教にどっぷり浸かってるんだよ」


 黎明の乙女だって本質は同じだ、と千紗ちゃんは言った。私と祥子さんは黙って彼女の話を聞いていた。

 漫才が終わったらしい。特大の笑い声が弾けた後に、会場を巨大な拍手が満たしていた。


「新しくできた宗教だからなんとなく信じられない。宗教団体ってなんとなく怪しい響きがあるから嫌い。そんな『なんとなく』が新興宗教を拒絶する。だけど逆にいえばそのなんとない拒絶感さえ取っ払えれば、人はあっさり宗教に好感を示すんだ…………」


 ふと会場の照明が落ちた。

 千紗ちゃんが言葉を止める。彼女の目が鋭くなったのを見て、私と祥子さんはもう一度ステージに顔を向けた。

 袖から一人の人間が出てきた。分厚いローブに身を包んだその人は、長い裾をズリズリ床に引きずって歩く。

 聖母様、と誰かが呟いた。私達は凍り付いたようにステージ上のその人から目を離すことができなかった。


「――――人は誰しもが幸せになる権利を持っているのです」


 澄んだ声が会場を包んだ。高い女性の声だった。静まり返った空間に讃美歌のように美しく声が響き渡る。

 幸せになる権利がある。誰もが望みの自分を目指す権利がある。私達はそんなあなた達を支えていきたい。そういった言葉を彼女は滑らかに、あんまりにも丁寧すぎる口調で述べていた。

 それは一種の神々しささえあった。すっかり暗くなった空間でスポットライトの艶やかな光だけが眩しかった。ステンドグラスを透かしたような光に包まれるその人は美しかった。

 短い時間だった。けれどその分一言の重みが強かった。話し終えたその人がゆるりとローブを下げて深々とお辞儀をすれば、わっと盛大な拍手が沸いた。信者だけではなく一般の参加者もが感銘を受けた顔で一生懸命に手を叩いていた。

 けれど千紗ちゃんの話を聞いた後の私は、その光景に薄ら寒さを覚えていた。祥子さんも同様のようだ。さり気なく腕を擦り、眉間にしわを寄せている。


「……このイベントの目的は、最初に抱いていた宗教への抵抗を減らすことにある。悪徳な宗教団体の厄介な点は人の価値観を歪ませるってことだ。気づかぬうちに精神を浸食し、そいつの倫理観をゆっくりと狂わせる」

「……………………」

「黎明の乙女がいい宗教団体だっていうならそもそも人死になんて出てねえよ」


 前方の席に座っていた幾人かが感極まった様子で立ち上がって拍手をしている。それにつられたようにまた近くの人が立ち上がって、少し照れ笑いをしながら拍手をしている。最初は警戒した顔をしていた一般参加者が今は笑顔で手を叩いてステージから去る聖母様を見つめている。

 一体今日は何人の信者が誕生するんだろうね。そう小さく吐かれたチョコの言葉に、私達は誰も返事をすることができなかった。


「あっ!」


 突然祥子さんが声を上げた。前方の席を見つめる彼女の視線を追えば、立ちあがった信者達の隙間から、青みがかった髪をした少女らしき後ろ姿が見えた。雫ちゃんだ。

 小休憩のアナウンスが流れたのは同時だった。途端、トイレに向かう人飲み物を買いに行く人で通路が混みあう。雫ちゃんが立ち上がり会場を出て行ったのを見て、私達も慌てて追いかけた。

 廊下に出ると、雫ちゃんらしい人影がスタッフ専用扉の先に消えていく姿が見えた。迷いなく私達も後を追って扉を開く。


「ここは関係者以外立ち入り禁止ですよ」


 しかし。私達はちょうどそこから出ようとしていたおじさんに見つかってしまった。

 おじさんは私達を見下ろし「もしかして撮影しようとでも?」と怪訝な顔をする。興味本位で忍び込んで動画を撮ろうとする人もいるのだろう。

 あうあうと焦る私に次第に目を吊り上げていくおじさんは、ふとその横を見てパッと目を丸くした。


「あれっ! 千紗ちゃん?」

「んあ?」

「や、懐かしい。覚えてるかい? 君が子供のときによくお話ししたっけね。あのとき君が作ってくれた折り紙の鶴もまだカウンターに飾ってあるんだよ」

「…………ああ。お久しぶりです、ヤマダサン!」


 千紗ちゃんが人懐っこい笑顔を浮かべた。祥子さんが驚いたように二度見をする。私は千紗ちゃんがヤマダサンの胸元に視線を向けているのを見て、彼の胸元に「山田」と名札が付いているのを見てほんのりと苦笑した。


「わあ久しぶりだ。嬉しいなぁ。小学生以来かな?」

「すみません。学業や部活に集中しようと思って」

「コンサート見にきてくれたの? そういえば君も何度か披露してくれたことがあったよね」

「えっ。千紗ちゃん、ショーとかしてたの?」

「内部限定のちょっとした芸をね。ぼく、君の芸を見るのが本当に好きだったなぁ。あ、そうそう。そのときの小道具もまだ取ってあるんだ。確かこっちの部屋に……」


 懐かしいなぁと何度も繰り返してヤマダサンは私達をどこかの部屋へと案内してしまう。雫ちゃんを追いかけるわけにもいかず、私達は彼についていくほかなかった。

 ついたのは狭苦しい倉庫だった。次の出し物用のパイプ椅子なんかを引っ張り出した後ヤマダサンは棚から一つダンボールを取り出した。中を見た千紗ちゃんがぐっと喉を詰まらせたのが、隣に立つ私だけには分かった。

 それは古びた犬の首輪だった。


「ね。千紗ちゃん、これ付けるの大好きだったよね」

「…………はは」

「君のお母さんは君を犬に見立てて遊ぶのが好きだったものね。君も好きだったろ。ぼくも大好きだった。君のわんちゃんごっこ。ワンワン吠えて芸を披露してくれたよね。ね? 可愛かったなぁ。これね、君のために買っちゃったんだ。首輪。でも買ってすぐ君来なくなっちゃったから。結局付けられなくってさ」


 ヤマダサンはニコニコ笑って首輪を千紗ちゃんの首に付けた。うんピッタリと微笑むその頬には異様なまでに朱が差していた。

 千紗ちゃんは静かに笑って黙っていた。私と祥子さんは、ただ顔を青くして二人を見つめることしかできなかった。


「大きくなったねぇ千紗ちゃん」


 電話が鳴った。ヤマダサンの携帯だった。どうやら次の舞台の準備があったらしい。一言二言話したあと彼は私達に頭を下げて部屋を出て行った。

 しばしの沈黙の後。祥子さんが呟いた。


「……よく分からないけど。あなたが黎明の乙女を嫌う理由は、ちょっとだけ分かったかも」

「どっちだよ」


 千紗ちゃんは吐き捨てるように笑った。妙に大人びた笑い方だった。

 祥子さんは彼女の首輪を見て「似合うじゃない」と言った。皮肉か本心かは分からなかったけれど、確かに少し武骨なその首輪は千紗ちゃんによく似合っていた。

 彼女は一瞬嫌そうに顔をしかめたが。ふっと息を吐くように笑い爪で首輪を引っ掻き、


「だろ?」


 とハンサムに笑った。



 ダンボールの中には必要なくなった小物を適当に放り込んでいるらしかった。元の場所に戻しておこうと手に取った私は、そこから飛び出していた資料のタイトルをふと目にする。

 ダンボールが私の手から落下する。下にいたチョコが下敷きになりフギャッ! と悲鳴をあげた。


「おい、どうした?」

「……………………」

「ありす?」

「あ。あ、これ。タイトル。なんで?」

「タイトル?」

「『魔法少女』って……」


 資料に大きく書かれたタイトル。魔法少女という単語に、私は大きく目を見開いた。


 魔法少女。その単語がここで出てくるのはおかしかった。

 だって魔法少女の存在を知っているのは私達だけだ。怪物が魔法少女に変身していると思い込んでいたという事実。それを握っているのは私達だけだ。

 それ以外の人間は「怪物」のことは知っていても「魔法少女」については知らないはず。

 その単語が黎明の乙女の資料に書かれているなんてありえなかった。


「誰か来るっ」


 祥子さんが上擦った悲鳴のような声を上げた。

 廊下から足音らしきものが聞こえてくることに気が付き、ハッと慌てて部屋を出た。廊下の先に逃げようとする。しかし、その先にあった扉からも話し声が聞こえて思わず立ち止まる。

 前方からも後方からも人がやってくる。他に逃げられそうな部屋はない。瞬間的な焦りがザッと頭を冷やした。

 そんな私の横で。千紗ちゃんがふーっと溜息を吐いたかと思うとポケットからスイッチのようなものを取り出す。チョコが呑気に大きな目をぱちくりと瞬かせて聞いた。


「それなぁに?」

「起爆スイッチ」


 千紗ちゃんが呆気なくボタンを押した。

 その直後、さっきまで私達がいた倉庫が爆発した。

 扉を突き破る勢いの爆炎、爆風。遠くから上がる悲鳴と間髪入れずに機能するスプリンクラー。

 風に乱れた髪をぐしゃぐしゃにして茫然とする私と祥子さんを振り返り、千紗ちゃんはクンと鼻を尖らせて「大暴れすっか」と笑った。

 私は気が付く。千紗ちゃんの機嫌が相当悪いことに。その原因はおそらく、首元のその首輪にあるのだろう。


 千紗ちゃんが廊下に飛び出した。ダンッと手を床に突いて四つん這いになった彼女は、私の瞬き一回の間に巨大な獣の姿へと変わっていた。ブチンと固い音がして、引き裂かれた首輪が彼女の獣毛に引っかかる。

 ちょうど廊下の向こうから現れた信者達が千紗ちゃんの姿を目撃して悲鳴をあげた。彼女はそれを笑うように喉を震わせ、巨大な声で吠える。


「繧エ繧エ繧ヲ」


 逃げ惑う信者達。それを追いかけて廊下を駆けていく千紗ちゃん。引きつった顔をする祥子さんの腕を引き、私も慌てて走り出す。


「――――変身!」


 私は叫ぶ。体中がカッと熱を持ち、変形していくのが手に取るように分かった。

 恐怖に竦んだ祥子さんの手を、安心させるように強く握りしめた。


 雫ちゃん奪還大作戦のはじまりだ。

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