第59話 爆、爆、爆発

「期待はしてなかったけど。やっぱり、手がかりなんて残ってないか」


 太陽の位置が高い正午近く。私と澤田さんは公園にいた。昨日爆発があったあの公園である。

 何か犯人の手がかりでも残ってやしないかと澤田さんが言ったのだ。黒沼さんと鷹さんはそれぞれ自分の仕事に忙しく、公園に来たのは澤田さんと、学校をさぼって手伝いに来た私だけだ。

 といっても出入口には規制線が張られ中に入ることはできない。警察の姿はなかったが、白昼堂々潜り込むのは難しく、周辺をうろうろしながら公園の中を覗き込むくらいしかすることはなかった。元滑り台であった瓦礫の山がぽつんと寂しそうに風に吹かれている。


「ありすちゃんはどう。何か見つけた?」

「あ、銀色ビー玉みっけ。きらきら!」

「なかったかぁ」


 すすけた瓦礫の上にカラスが下りてきて鳴いている。道路の方からゆっくり車がやってきて、大きな声を張り上げている。どこかの家から赤ちゃんの泣き声が聞こえてきた。


『――――をよろしく……。――――しくお願いいたします。皆様の清き御一票が、楽土町の未来を大きく変えるのです! 当選の暁にはこの街で暴れる怪物を駆除し……。りがとうございます……カツトシをよろしく……どうか一票を…………』


 空高く響く選挙カーの声にニコニコと手を振って、あの車はいくらで買えるのかしらなんて考える。あれに乗って『姫乃ありすです! 魔法少女です! 応援ありがとう、ありがとう!』と言いながら走ることができたら楽しいだろう。皆も魔法少女に向けて笑顔で手を振ってくれるはずだ。


「まあ手がかりがあっても全部持ってかれてるだろうとは思ってたけど」

「じゃあどうしてここに来たの?」

「本命がこれから来るんだよ」

「本命?」

「生き証人ってやつかな」


 澤田さんの言葉に首を傾げていると、公園の前に一台の車が止まった。

 運転席から下りてきたのは弟丸さんだった。駆け足でやってきた彼はお疲れ様です、と澤田さんに深く頭を下げる。


「運転ですか。どちらへ……」

「や。今日は足で呼んだわけじゃない。たまには部下の労をねぎらってやろうと思ってさ」

「え? は、はぁ」

「カフェでも行こうか。近くにいいところがあるんだ」


 澤田さんは彼を連れて近くのカフェに入る。二人はコーヒーを、私はデラックススーパー生クリーム山盛りココアを頼んだ。

 弟丸さんは澤田さんがコップを傾けるのを見てから一口舐めるように飲む。それは緊張を必死で解そうとしているだけの、形式的な飲み方でしかなかった。


「そう緊張するなって。ヤキ入れようってわけじゃないんだ。ただ仲良くおしゃべりがしたいだけだよ」

「……兄貴のことですか」


 こちらが尋ねるよりも先に彼の方から切り出した。澤田さんが頷けば、弟丸さんはやっぱりと言いたげな顔で視線を泳がせる。


「さっきの公園を見ただろ。昨夜爆発が起こったんだ。昼間だったら、一人か二人は子供が巻き込まれて死んでただろうな」

「また爆発が……」

「何かお前の方で気になることでもなかったか?」


 私はココアをじゅーっと吸いながら納得がいった。

 楽土町の街に起こる連続爆破事件。その容疑者として浮上しているのは兄丸という、青桐組元組員である男。そしてその男が怪しいと言い出したのは目の前の弟丸さん。

 現場を見るよりも彼に直接話を聞いた方が得られる情報は多そうだ。


「気になることというか……実は昨日の夜、サツらしい奴にも話を聞かれたんです」

「へぇ?」

「キャバで飲んでたら隣の酔っ払いが話しかけてきて。タトゥーとピアスが目立つチャラい奴でしたけど、なんというか雰囲気が鋭かった。多分サツですよ。酔ってるのもフリだったんだろうな」


 黒沼さんのことだと私達は一瞬視線を噛ませ合った。澤田さんが鼻から抜けるような息を吐き、で? と話の続きを促す。


「何聞かれた?」

「兄貴のこととか、爆弾の話とか、そんなんです。世間話の中に潜り込ませるように聞いてきたもんだからついいくつか話しちまった。……やっぱあいつらも疑ってんすかね、兄貴のこと。爆弾魔だって」

「ま、実際怪しかったんだろ? 兄丸は」


 はい、と弟丸さんは躊躇うように声を震わせる。難しそうな会話をする大人達の横で、私はグラスのアイスをしゃぐしゃぐほじって食べながら、さっき拾ったビー玉をテーブルに転がして遊んでいた。


「兄貴はいつも俺の面倒を見てくれていました。兄貴分だからってだけじゃなく、一人の人間として俺と接してくれていた。俺の妹も兄貴に懐いて、よく一緒に遊んでくれるような、そんな人だったんです」


 彼の目の前に置かれたコーヒーはほとんど飲まないうちに冷めてしまっている。和やかなカフェの中で、私達の会話だけが異質だった。


「あれ? と思ったのは組を抜けた頃からです。話すときに挙動がおかしいとか、話しかけてもぼんやりした返事が返ってくるとか、そういう……小さなことなんですけど、チクチクした違和感があって」

「あとは何だ。本棚だっけ?」

「はい。なんたら理論だの方程式だのよく分かんねえ本ばっか読んでるのは前からでしたけど。最近増えた本は『危険物取扱試験』だの『火薬について』だのとかそういうのばっかりで。……や、別にそういうの買うの自体は悪くないんですけど。今のタイミングでそっち系統の本を増やしてるのは、なんか、おかしいじゃないすか」

「まあなぁ」

「なんか不安になっちまって。エロ本入ってるから開けるなって普段言われてる棚をこっそり開けてみたんです。……あるのは本じゃなかったんですよ。釘とか、鉄球とか、そういうのが瓶に詰まって入ってて」

「鉄球?」


 澤田さんはパチリと目を丸くして、私が握っていたビー玉をひょいと取り上げた。天井の照明にツヤツヤとビー玉が光り輝く。銀色の表面に歪んだ澤田さんの顔が映っていた。

 公園で拾ったのよ、と私はアイスクリームを飲みながら言った。瓦礫の広がる公園の光景を思い浮かべたのだろう。弟丸さんはサーッと顔を青くし、震える唇を手で覆う。


「あ、あ! やっぱり! 兄貴!」


 大きな声を上げて彼は頭を抱えた。ああそんな、と悲しい声を絞り出して鼻を啜る。

 心配して寄ってきた店員さんに澤田さんはコーヒーのおかわりを頼み、案外手がかりが残ってたんだな、と笑みを浮かべた。私はココアをストローでちゅーっと吸って、おもちゃが奪われてしまったことに頬を膨らませた。

 ビー玉だと思っていたのは鉄球だったらしい。兄丸さんの部屋に隠されていた鉄球。爆発が起こった公園に残されていた鉄球。その二つを結び付けるのは簡単だった。


「あ……あの事故が、兄貴をおかしくさせちまったんだ」


 事故、と澤田さんは繰り返すように言った。


「兄丸が組を抜けたのは確か怪我が原因だったな」

「はい…………」

「あいつとはたまに話す仲だった。だけど組を抜ける頃のことはあまり知らなくてね。忙しい時期だったから。よかったら、改めて教えてくれないか?」


 弟丸さんが鼻を啜る。深く頷いて、彼は重たい言葉をのろのろと吐き出すように語りだした。


「兄貴は商店街を歩いてるときに事故に巻き込まれたんです。今年の春頃のことでした。突然現れた怪物に巻き込まれて、大怪我を負った」

「怪物…………」

「足を悪くして上手く歩けなくなった。兄貴は将来有望な組員だったのに、その事故のせいで兄貴の未来はなくなった。自暴自棄になっちまったのかも。半ば強引に組を抜けて、それからは家で一人、ずっとだらだら過ごしてるんですよ」

「なるほどね……」

「お、俺は。兄貴が少しでも前向きになれればいいと思って、家に様子を見に行ってたんです。事故から時間がたつほど段々元の兄貴に戻って嬉しかった。このまま時が兄貴の心を回復させてくれると思ったんです。でもそんな、なんで、爆弾なんか」

「お前が言った、自暴自棄ってやつなのかもな」


 澤田さんは煙を吐くように言った。それから一度私の顔をチラリと見やる。私は怪訝な顔のまま彼に首を傾げた。兄丸さんは商店街で事故に遭ったらしい。諤ェ迚ゥというのが何のことかはよく分からないけれど。

 …………諤ェ迚ゥってなぁに?


「兄丸はできるやつだった。知識も腕前も。人より才がある奴だったよ。……だからこそ一度道を踏み外せば、途端に厄介な敵になる。それにしても、よりによって爆弾を作るとはねぇ」


 兄貴、と弟丸さんは赤くなった鼻を啜った。苦しそうに澤田さんを見上げる目から、ボタリと大粒の涙が一つ零れる。


「俺は。あ、兄貴が道を踏み外そうとしてるなら、それを止めてやりたい。兄貴はいい人なんです。お願いします、澤田の兄貴! どうか。どうか兄貴のことを、助けてください……」


 弟丸さんはテーブルにゴツンと額をぶつけるように頭を下げ、ぶるぶると大きな体を震わせた。

 澤田さんはゆっくりと口元を手で覆い、悲しむ部下に慈しむような視線を向ける。


「兄丸は今でも青桐組の仲間だ。どんな些細なことでもいい。俺にあいつのことを教えてくれ。弟丸、俺達の手で、兄丸を正しい道に戻してやろうな」


 けれど彼の隣にいる私には隠れた口元が見えていた。ニタリと愉悦に歪んだ、人を化かすときの狐に似た笑顔。

 私はちょっと身震いをして、グラスの底に溜まった最後のココアを飲み干した。


「兄貴……っ!」


 嗚咽がテーブルの上にいくつも零れ落ちていく。私は身を乗り出して、震える弟丸さんの背中を擦ってやりながら、決意を両目に込めて頷いた。

 彼のことは、私達が救ってやらなければと思うのだ。

 魔法少女として。




「…………は、元青桐組組員。年は三十五。香川県出身で家族構成は父母と弟が二人。好きな食べ物は花山屋のきんつば。週に一回は購入していくんだってバイトの子が話してくれたよ。読書が趣味で週に三度ほどカフェヤマダで本を手に過ごしている姿が目撃されている。ちなみに長い髪の女がタイプらしくて、よく店員をナンパしてるって弟丸が愚痴ってた、ははは。青桐組に来たのは大学卒業とほぼ同時期。組で主に任せていたのは風俗店の経営で……」


 後日、喫茶店にて。涙ながらの弟丸さんや周囲の人々から聞いた兄丸さんの情報を、澤田さんはつらつらと述べていた。

 次々兄丸さんの個人情報が漏洩されていく。感心したように目をぱちくりさせる鷹さん達の横で、黒沼さんは不服げに唇を尖らせていた。


「よく調べたもんだねぇ」

「いやぁ。おまわりさんには敵いませんよ! 俺の得た情報なんてとっくに知ってただろうに! あ、そうだこれ兄丸の部屋の合鍵ね。おまわりさんにあげる。サービス」

「何故持ってる」

「よく遊びに来るからって弟丸が本人からもらってたらしいよ。借りて複製しました。家主がいないときに遊びにでも行ったら?」


 澤田さんはニコニコと笑って言った。皮肉である。黒沼さんが得た情報は澤田さんの得たものの半分もなかった。警戒されたせいで、上手く情報を集めることができなかったのだ。

 北風と太陽作戦ってやつ? と鷹さんが苦笑した。皆は怪しい初対面の黒沼さんよりも、見知った同じ組員である澤田さんの方に情報を渡したのだ。その二人がこうして情報をすり合わせているとは思っていないだろうけれど。


「で、どうするの? 大体の行動範囲が見えてきたけど。早速捕まえに行くの?」

「いいや。まだ疑惑が深まっただけで、決定的な証拠が掴めたわけじゃない。逮捕するなら慎重にいかないと」

「のろのろしてる間にまた爆発が起こったらどうするの?」

「証拠不十分で帰した結果、行方をくらまされて、更に深刻な爆発を起こされても困るからな」

「結構面倒なんだねぇ」


 不満そうな鷹さんに黒沼さんも同意とばかりに肩を竦めた。


「周囲から聞き取れる情報には限りがある。本人からも直接話が聞ければいいんだけど」

「澤田が行ったらいいんじゃない。元お仲間なんでしょ?」

「あいつは親しい人間にこそ本当の秘密を話さないタイプだ。初対面の方がお喋りになる。……ところでさっきも言ったけど、あいつは結構女好きらしくてね」

「ふぅん。行きつけのキャバ嬢に賄賂渡して話の内容でも聞き出す?」

「いいや。雫ちゃんちょっと手伝ってくれない?」

「はぇ?」


 あんまりにも唐突に名前を出された雫ちゃんが目を丸くする。澤田さんはぐっと彼女の肩を引き寄せ、肩に垂れる髪を指ですくった。


「弟丸に兄丸の好みを聞いてるんだ。長い黒髪ウェーブの綺麗系がタイプなんだって。君が化粧をしたら、きっとあいつ好みの美人になると思うけれど」

「え、あっ? わたしが彼とお話をっ?」

「そう難しいことはない。カフェにいるあいつとちょっとお喋りをすればいいだけさ」

「お喋りって言ったって…………」

「黙って微笑んでいるだけでいい。美人を前にすれば誰しも自然と口を開いてしまうものだからさ」


 澤田さんの指がさり気なく、けれどほんの少し力を込めて雫ちゃんの肩を掴む。細やかな脅しだ。

 雫ちゃんは青ざめた顔で震えた。けれどふと彼女の視線が横にいる湊先輩と噛み合う。湊先輩は小首を傾げて柔らかく彼女に微笑んだ。それが応援になったのか、唐突に雫ちゃんは決心した目で頷く。


「わ……わたし、やります!」

「え、本当っ?」


 勢いを付けて立ちあがった彼女を、皆が驚いた目で見つめた。

 彼女は緊張気味に顔を赤らませつつ、チラチラと隣に座る湊先輩に視線をやった。


「わたしもメイクを覚えたいし。綺麗な人になる方法を知りたいし……やってみなくちゃ。何も変わらないもの」

「やる気になってくれてよかったよ。それじゃあ早速、百貨店にでも化粧品を買いに行こうか」

「は、はい」

「ヒールも買っておきたいよね。服も、流石にその制服で話しかけるのは難しいし」

「……え? もしかして今日の話?」

「善は急げと言うだろう」


 唖然とする彼女の肩を抱いて澤田さんはニコニコと席を立つ。百貨店に向かおうとする彼に、「化粧なら俺もぼちぼち詳しいんだ」「あたしもこいつの顔いじりたい」と黒沼さんと千紗ちゃんがついて行く。

 残されたのは化粧にとんと詳しくないメンバー達であった。普段適当だから、と肩を竦める鷹さんはともかく、湊先輩やマスターやチョコは化粧のけの字も知らなそうだ。ちなみに私は化粧が下手そうだからという理由で置いて行かれた。失礼しちゃうわ。前に一度お母さんのポーチからこっそり口紅を拝借したときは、ちょっとほっぺにはみ出したくらいでちゃんと塗れたというのに……。

 そうこうして時間を潰していると喫茶店の扉が開く。高いヒールをコツリと鳴らし、美しい女性が入ってきた。他のお客様が来るのは珍しいわね、なんてぼけーっと考えていた私は、しばらくそれが雫ちゃんであることに気がつかなかった。


「ただいま。ど、どうかな。変かな」

「誰かと思ったわ!」


 私の言葉に雫ちゃんははにかんだ。笑う拍子に体が揺れれば、背中に柔らかく広がるウェーブの髪が宝石のように艶めいた。

 彼女の髪は独特な色合いをしていた。黒髪とも青髪ともできる複雑な色合いの髪は、何かオイルでも付けたのかしっとりと柔らかくなり、ふわふわとウェーブがかけられている。動くたびその表面にキラキラとした光が散って、海の表面に散る太陽光のようだった。

 体の曲線に滑らかに沿う黒のワンピースはシンプルだが繊細なレースのデザインが施されたものだ。少し高いヒールとよく似合っている。


「うぅ。やっぱり落ち着かない。……眼鏡だけでもしちゃ駄目?」

「駄目に決まってんだろ」


 初めてのコンタクトに居心地の悪そうな顔をしながら彼女は何度も瞬きを繰り返す。マスカラを塗ったまつ毛はぐっと力強い濃さで上を向いていた。

 濃い目の化粧は彼女を大学生か……見ようによっては社会人レベルの年齢にまで見せてくれる。よく似合っていた。カウンター席にあぐらをかいて座った千紗ちゃんが、ふふんと満足気に顎をしゃくる。


「可愛いって。だから弄んな。なぁ、湊も可愛いと思うだろ?」

「うん。凄く似合ってるよ」

「ひぇっ…………あ、えと、コンタクトの方がいいのかな?」

「どっちも素敵だよ。眼鏡をかけた君も、外した君も、両方綺麗だ」


 雫ちゃんは耳まで赤くして俯いた。お前そういうところだぞ、と千紗ちゃんが溜息を吐くと、湊先輩は「だって女の子を可愛いと思ったときは素直に褒めろって、黒沼さんと澤田さんが」と慌てて言った。


 とにもかくにも目的は兄丸さんとの接触である。勢いが消えないうちに、と澤田さんを先頭に私達は彼がいるというカフェへ赴いた。

 広いカフェだった。夜が近い時間だったがまだ人も多く、賑わっている。コーヒーの香りが壁にしみついていた。

 兄丸さんは二階の隅の席に座っていた。彼の姿を見たのは初めてだった。眼鏡が似合う線の細い優男である。どうも元ヤクザには見えないが、人は見た目だけで判断できるものじゃない。彼はときおりコーヒーを啜りながら、分厚い本を黙々とめくっていた。

 私達はそれぞれバラけて座り、彼の席がギリギリ見える位置から様子を伺うことにした。私は湊先輩と千紗ちゃんと一緒に兄丸さんのすぐ後ろ席に座り、雫ちゃんが彼に接触する様子を眺めようとした。

 コーヒーを手にコツコツとヒールを鳴らして雫ちゃんがやってくる。黒髪が動きに合わせて揺れ、華やかな光を振りまいていた。さてどう話しかけるのかと見ていれば、彼女の鞄からハラリと落ちたハンカチが兄丸さんの足元に触れた。兄丸さんはハンカチを拾って雫ちゃんを見上げる。その途端彼の目が大きく見開かれた。好みの女性に目を奪われたのかもしれない。


「あの、落としましたよ」

「あら」


 兄丸さんの手からハンカチを受け取って、どうもありがとうと雫ちゃんは微笑んだ。しかし彼女は歩みを進めることはなく、ふと彼が読んでいた本のタイトルに目を向けて尋ねる。


「それもしかして『麒麟の生贄』ですか?」


 兄丸さんは少し目を丸くしてから、嬉しそうに頷いた。


「よく知ってますね」

「本を読むのが好きなんです。嬉しい。その本を読んでる人、周りにいないから」


 雫ちゃんは微笑みながら彼の隣に座る。感想を誰かと言い合いたかったの、と言う彼女に兄丸さんも柔らかく微笑んだ。どうやら上手く接触できたようだ。読書が趣味の兄丸さんに同じく本好きの雫ちゃんを当てたのは大正解だったらしい。

 初対面であるのに関わらず二人の会話は盛り上がっていた。好きな本についてから始まった会話は、そのうち読書におすすめのカフェ話へと変わり、そのうちお互いの趣味や生活の話へ変わる。

 雫ちゃんは思いのほか自然と話せているようだった。彼の言葉一つにコロコロ笑ったり、静かに微笑んだり、上手くやっていた。演技も軽く教えておいてよかったよ、と千紗ちゃんが呟いた。

 一時間ほどがたち、雫ちゃんはそろそろ行かなきゃと席を立った。上手くいってもいかなくても一時間。それが限度だと最初に雫ちゃんは言っていたのだ。

 兄丸さんは少し名残惜しそうに目で彼女を追いつつも、軽く手を振るだけで彼女を見送った。ヒールを鳴らし雫ちゃんが店を出てから五分後に私達も席を立つ。それからまた十分後に澤田さん達も店から出た。


「どうだった?」

「緊張で倒れるかと思った!」


 路地裏のコインロッカーに寄りかかり、雫ちゃんは真っ赤にした顔を手で扇ぎながら言った。


「上手くやれてたぜ。お前、結構演技いけるじゃないか」

「いつ正体がバレるかってヒヤヒヤだったよ。殺されるんじゃないかって思った」

「で? その頑張りに見合う情報は手に入れられたかよ」


 雫ちゃんは頷き、彼本人から得た情報の数々を述べていった。彼がよく行く店や最近の行動、趣味嗜好に来週の予定……。黒沼さんが急いでメモにペンを走らせていく。


「ありがとう。助かったよ」

「わたしなんかがお役に立てたのなら。…………ええと」

「どうかした?」


 澤田さんが雫ちゃんの顔を覗き込む。彼女は躊躇うように視線を揺らして、そっと手元から折り畳まれた紙ナプキンを取り出した。さっきのカフェのものである。開けばそこには電話番号らしきものが書かれていた。


「今度また話したいって言われて…………」

「軟派な野郎だこと!」


 千紗ちゃんが雫ちゃんの手から携帯を取った。電話を開いた彼女は画面に指を走らせ、番号を入力すると雫ちゃんに放り投げるように携帯を返す。発信コールを鳴らす携帯にわたわたする雫ちゃんに、千紗ちゃんが鼻で笑った。


「行って来いよ。親しくなっといた方が、今後も便利だろ」


 もしもし、と携帯の向こうから声が聞こえる。雫ちゃんは息を飲んで、戸惑った視線を私達の間に泳がせた。誰からも手助けが得られないことを悟った彼女は、口内に溜まった唾をごくりと飲みこみ、覚悟を決めた強い口調で相手に話しかける。


「あの。次にお出かけする話ですけれど……」





「トリックオアトリート!」


 カボチャの帽子をかぶったお兄さんが道を行きながらキャンディをばらまいている。地面に落ちたキャンディを小学生くらいの子供達がケラケラ笑いながら拾っていた。私もその輪に混じり、一緒にきゃあきゃあはしゃぎながらカラフルな包みを拾う。


「私苺味がいい! ピンク色がいいわ!」

「おねえちゃんイチゴ好きなの?いいよ。オレンジ色のとこうかんしよぉ」

「わぁい、やった!」

「何遊んでんだお前はよ」


 千紗ちゃんが私の後頭部をぶっ叩く。私の手からコロコロ落ちたキャンディを、チョコがしゃがんで拾い集めた。子供達はチョコのニタニタとした顔を見て、ギトギト脂に光っている額を見て嫌な顔をして逃げて行った。


「ハロウィンだもん」


 十月三十一日だった。街から人間の姿は減り、代わりに吸血鬼やキョンシーやゾンビといった異形の姿が溢れている。

 酔っぱらった人達がお菓子を配って歩いている。キャンディにチョコレートに、カラフルなお菓子を前に私はどうしてもそわそわと浮ついた気持ちになってしまうのだ。隣でメイドさんのコスプレをしているチョコも同様だった。


「ハロウィンだもん、じゃねえよ。今日は何の目的でここに来たか覚えてんのか」

「ハロウィンを楽しむため……」

「街の見回りだよアホタレ」


 街にはいつもよりもうんと人が溢れている。もしも今日街中で爆発があれば、とんでもない惨事になるだろう。いざ爆発が発生したときは私達が魔法少女に変身して被害を食い止める予定になっていた。


「それと、兄丸さんの追跡ね」


 カメラの設定を確認しながら鷹さんが言う。その横で腕組みをしている澤田さんが頷いて、顎を持ち上げるように遠くを見た。

 彼の視線の先。暗い空の下でもピカピカとオレンジ色の光を放つカフェの窓際が見える。そこで本を読みながら温かな飲み物を飲んでいるのは雫ちゃんだ。長いまつ毛をパチパチと瞬かせながら、時々肩に流れるウェーブに巻いた髪をかきあげる。

 彼女は今日、兄丸さんとデートをする約束があった。彼から誘われたらしい。勿論彼女の本当の目的は、デートではなく彼の監視である。いつ彼が爆弾魔だという証拠を出すか、その瞬間に私達で取り押さえることができるか、新たな爆発を起こされる前に逮捕できるか。全ては雫ちゃんにかかっていると言っても過言ではないのだ。彼女も表面上落ち着いていてもやはり緊張しているようで、さっきから本を読んでいるようでまったくページが進んでいない。

 私まで緊張してくる。ドキドキする胸を押さえて深呼吸をしていると、鷹さんが明るく笑って、鞄から取り出した小さな箱を私達にくれた。蓋にはカボチャの絵が描かれている。


「そんなに緊張しないで。はい、これプレゼント」

「何かしら…………わっ」


 蓋を開けると、ポンッとバネが弾むように中からピエロのイラストが飛び出してきた。その奥にはチョコレートが入っている。素敵なビックリ箱だった。

 私はうわぁと歓喜の声をあげ、チョコレートを口に放り込んだ。とろとろと甘くておいしい。


「ちょっとはハロウィンっぽいことしたいじゃない? 頑張ろうね。今日は湊くんがいなくて、不安かもしれないけど」


 チョコレートの甘みが広がる頬が、ちょっとだけ酸っぱくなった。チョコレートを飲み下し、私はこくこくと頷く。

 今日。ここにいるのは私と千紗ちゃんと雫ちゃん、それから鷹さんと澤田さん、最後にチョコとマスター、以上である。黒沼さんは仕事の用があるからとこの場を澤田さんに任せて来ていなかった。

 湊先輩は先約をしていた祥子さんの元へ行っている。本当はこちらを優先しようとしていたらしいけれど、流石に何度も約束を破るのはよくないと言われて、ごもっともだと反省して向かったのだ。それでも彼は彼らしく、携帯に何度も『何かあったらすぐに教えてね』『いつでも電話してね』『寒いから温かい格好するんだよ』『風邪引かないでね』とメッセージが届いていた。

 ニコニコ笑顔マークを一つ返して携帯をポケットにしまう。今日くらい彼にはこちらを気にせず自由にしてほしい。せっかくお友達と遊んでいるのだから。


「…………来た」


 不意にマスターが言う。私達が揃って顔を上げたのと同時、雫ちゃんの隣に兄丸さんがやってきたのが見えた。

 しばらくすると彼女達は店から出てきた。夜道をゆっくりと進む二人の背中を見ながら、鷹さんがイヤホンのように付けていた受信機のスイッチを入れる。少し背伸びをして耳を寄せると、掠れたノイズ交じりの雫ちゃんの声が微かに私にも聞こえてきた。


『まずはどこへ行くの? 』

『近くに綺麗な水族館があるんだ』


 つけるぞ、と澤田さんが短く言った。私達は不審にならない、それでいて彼らを見失わない距離を保って後をつけていく。幸いにも今夜は人が多い。大勢でつけていても、人ごみに紛れて気付かれにくい。

 私達の追跡がはじまった。



「カボチャ探しをやってるんですって」


 時刻は午後七時を過ぎるところだった。

 雫ちゃん達を追いながらも、私はハロウィンのお話をしてふんふんと興奮して手を振った。持っているのはさっき配られていたチラシである。

 街中に散らばったジャック・オー・ランタンを集めて景品をゲットしよう! という今夜限りのイベントが開催中らしい。三等がお菓子の詰め合わせであることを知り、私は何とかカボチャを見つけようと意気込んでいた。ちゃんと仕事をしてくれよ? と澤田さんが苦笑ぎみに肩を竦める。

 分かってますよぉ、と私は返事をして笑った。仕事をしつつちゃんとハロウィンも楽しみたいのだ。


「ハロウィンだって楽しみたいじゃない。ねぇマスター?」

「同意しよう。人間の文化を学ぶいい機会にもなることだ」

「そういえば、マスターが外に出てくるのなんだか珍しいわね」


 私は隣を歩くマスターに笑った。今日の彼は老紳士の姿に変身して外に出ているのだった。喫茶店の外にいるのが何だか物珍しい。燕尾服が似合う彼は今夜ばかりはコスプレをしているようにしか見えず、さっきから道行く若者達が一緒に写真を撮らせてくれないかと何回か話しかけてくるのだった。


「マスターもハロウィンを楽しみたかったの?」

「いいや。私はただ、君がそろそろではないかと思ってね」

「ん?」

「妖精である自分の役割を果たす頃合いではないかとね」

「んん?」

「間もなくだ」


 言っていることはさっぱり分からなかった。マスターはそれ以上何も言わずに、一度だけちらりと私を見て、視線を前に戻す。手に持っていた大きな傘がコツンと地面を叩いた。


「あ、ねえ見てあれ。ピカピカしてる車だ。ハロウィン仕様?」

「ただの選挙カーだっての」


 道に落ちていたお菓子を拾ってむさぼっていたチョコが声を上げた。彼が指差す方を見れば、広場に選挙カーが止まっていた。

 車の上で、偉そうな顔をした男性がスピーカー越しにキンキン声を張り上げている。その声は若者達のハロウィンを祝う声に掻き消されたり、ときにはヤジを飛ばされたり、またはノリとテンションだけで応援されたりしていた。


「ハロウィンでも演説をするのね」

「むしろ今日だからじゃない? 若者に顔を覚えてもらえるし。ノリで投票してくれるかもしれないし」


 ふぅん、と鼻を鳴らしながら私はあの選挙カーの人が、この間公園の前を横切った人と同じであることを思い出した。


 夜が深まるにつれ、人も多くなる。バカ騒ぎをする皆の中にちらほらとパトカーの赤いランプや制帽を被った警察官の姿が多く見えてきた。

 連続爆破事件によって警察の警戒は相当強まっているようだ。イベント事だから、という理由だけでここまで多くの警察が駆り出されているわけではないだろう。歩きにくくて敵わないなと澤田さんと千紗ちゃんは文句を言うけれど、一般人の私達としてはありがたいことである。

 それでも街中の人々は、爆弾のことなんてほとんど知らない顔をして騒いでいた。公園の爆発以来目立った爆発が発生していないからだろう。そもそもこれまでの爆発自体、僅かな怪我人が出たくらいで大したニュースになるほどでもない。


 と、澤田さんの電話が鳴った。黒沼さんからだった。もしもし、と携帯を耳に当てる彼の横で背伸びをして、零れてくる黒沼さんの声を何とか耳に拾う。


『そっちはどうだよ。何か動きは?』

「何も。楽しくデートを続けていらっしゃるよ」

『いいねぇ……。俺もこんなコソ泥みたいな真似してないで、美女とホテルにでも行きたいもんだ』


 ため息交じりに吐かれた言葉と、聞こえてくるガサゴソと物を漁る音。私が思わず黒沼さん泥棒中なの? と聞けば、携帯の向こうからは笑いをこらえるような咳が聞こえてきた。

 私は澤田さんの手に飛びついて携帯を奪い、彼に説教を言った。


「悪いことはいけないのよ」

『大丈夫。兄丸くんと俺は友達だから。お友達の家を探るのは悪いことじゃあないんだよ』

「そうなの?」

『そうだよ。普通だよ普通』

「…………騙されないからね?」


 黒沼さんは今度は声を出して笑った。「君は賢くなったね」と優しい声で言った。からかわれているのかどうなのか、よく分からなかった。

 通話する私の前を、仮装した女の子達が横切った。ピンクやイエローやブルーの可愛い衣装がピカピカと光っている。数年前に放送されていた魔法少女のアニメのコスプレだ。


「兄丸さんの家にいるの?」

『情報収集だよ。合鍵をもらったろう? こんなときでもないと色々調べられないからな』

「勝手に人のお家に入るのはよくないんだからね」

『分かってるさ……にしても妙だ』

「何が?」

『聞いていた部屋の内装とまるで違う』


 違う? と怪訝に眉をしかめた澤田さんが私の手から携帯を奪い返す。柔和だった目が一瞬でピリッとした鋭さに変わった。


「どういうことだよ」

『本なんて一冊もないぞ。鉄球が詰まった瓶なんてものもどこにもない』

「見下ろしてるだけだろ。もっとしっかり探せよ」

『どころかまず棚がない。レイアウトが全然違うぞ』


 片付いた部屋だな、と感心したような声が聞こえてきた。澤田さんは大きな溜息を吐き、呆れたように首を振る。


「どうせ弟丸の態度で勘付いて、隠し場所を変えたんだろ。床下収納とかないのか?」

『お前警察の捜査力なめんなよ。とっくに探して、見つからなかったわそんなん』

「鉢植えの下とかテレビ台の下とか見た?」

『あったわ』

「馬鹿め」

『いやこれ絶対普段使ってないとこだろ。凄いカビの臭い。うわ、何だこれ梅酒? 何年前のだよ。絶対腐っ』


 途中で黒沼さんの声が消えた。盛大な爆発音に掻き消されたからだった。

 突然耳元で唸った爆発音に澤田さんが思わず携帯を放り投げる。地面にガシャンと落ちた携帯の通話は切れていた。


「……えっ?」


 一部始終を聞いていた鷹さんが真っ青な顔をして慌てて黒沼さんに電話をかける。けれど電話はコールすら鳴らず留守番電話に繋がった。


「黒沼さん……? ど、どうしちゃったの。何があったの!?」

「…………分からない」


 澤田さんは茫然と呟く。拾った携帯を鋭く睨む彼の額から一滴の汗が落ちた。

 彼は我に返るとすぐ別の部下へと連絡を入れようとした。だけどそれを遮るように、背後から千紗ちゃんの声が飛んでくる。


「おい。ちょっと待て」


 振り向けば、彼女は目を大きく見開き、黄色い眼球をキョロキョロ落ち着きなく周辺に泳がせていた。鼻を犬のように引くつかせ、ぐるると喉奥から唸り声を零す。


「何か聞こえる」

「え?」

「変な音がする。空気が抜けるような……なんだ? シューッて音が」


 彼女は珍しく狼狽えた様子だった。人込みの中、気がつけば雫ちゃんと兄丸さんの姿が見えなくなっていた。私は千紗ちゃんを宥めようとその肩に手を伸ばす。

 けれどその指先が触れる前、彼女は勢いよく振り返り、すぐ近くではしゃぐ大学生のグループへと目を向けた。彼らは何かを持って笑っている。その方向から私の耳にも、シュウ……と空気が抜けるような異音が聞こえてきた。


「しゃがめ!」


 その声を放ったのは誰だろう。

 次の瞬間。目の前で爆発が起こった。

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