第60話 怪物が好きなんだ

「湊くんどう? 私の今日の服。……ねぇ、聞いてる?」


 午後四時である。

 僕が慌てて携帯から顔を上げると、目の前に祥子さんの不機嫌な顔があった。

 彼女はそのまま僕の手元を覗き込み、送られたばかりの文字に目を通して眉をしかめる。


「『何かあったらすぐに教えてね』って、誰に連絡してるの?」

「あ、いや」

「どうせまた、ありすちゃんなんでしょう?」


 今日は私と遊ぶんでしょ、と祥子さんは僕の腕にするりと指を絡めてきた。豊満な胸が腕に柔らかく当たる。多分わざとだ。

 今日の彼女は魔女っ娘さんのコスプレをしていた。見慣れた制服を脱ぎ捨て、代わりに着ているのは体に吸い付くような紺のロングワンピース。太ももから裂けるように長くスリットが広がり、そこから白い肌が艶やかに見え隠れしている。随分とセクシーな衣装だった。


 今日は十月三十一日。ハロウィンである。

 あちこちから笑い声と舌打ちと愚痴と酔っ払いの声と話し声がひっきりなしに聞こえてくる。さっきから目の前を悪魔やらシスターやらコスプレをした人達が通り過ぎていくし、至る所でお菓子が配られているらしく、空気が甘ったるかった。

 パンプキン・ハロウィンと銘打たれた今夜の大型イベント。午後七時からはパレードも開催されるとあって、既に場所取りをしている人もいた。

 トリックオアトリート。お菓子をくれなきゃ、イタズラするぞ。

 お菓子が欲しいとか、恋人を見つけたいとか、友達と遊びたいとか。皆そういう目的で街に訪れているんだろうなぁと思う。僕はどれでもなかった。僕が今日、というよりここ最近考えているのは連続爆破事件について、ただそれだけである。


「どうしてコスプレしてこなかったの?」

「どれがいいか迷っちゃってさ」


 今日だって本当は直前までありすちゃん達と共に街の見回りをしようと考えていた。そう何度も約束を反故にされちゃ祥子さんが可哀想だと叱られなければ、ここには来ていなかっただろう。そんな状況だったからコスプレのことをすっかり忘れてしまっていたのだ。

 自分の格好を見下ろした。オーバーサイズの白パーカーに黒のスキニー。明らかな普段着である。コスプレで盛り上がる街中では、逆に浮いていた。近所に買い物に出てハロウィンの渋滞に巻き込まれた人、と言われた方がしっくりくる。


「でもほら祥子さん、見て見て」

「フード被ったって何も……? なぁに、その黒い点々。目?」


 目深にフードをかぶればそこに黒い丸が二つ現れる。黒い紙を切って目として張り付けたのだ。流石に少しは何かしなきゃまずい、と家を出る間際慌ててくっ付けたものである。


「じゃじゃーん、オバケのコスプレです。なぁんて」

「……………………」

「……ご、ごめんなさい」


 祥子さんはちょっと唇を尖らせてから、「ん」と僕の腕にもたれかかった。ギリギリ許容範囲だったようだ。こんなんでいいのか。


「祥子さんも凄く可愛いよ」


 ツンと尖ったとんがり帽子を指先で持ち上げて言った。祥子さんは華やかな笑みを綻ばせた。

 ビルの電光広告に時刻が表示されている。夕方であるにも関わらず空はすっかり暗かった。


「時間大丈夫? 遅いとお父さんが心配するんじゃない?」

「今日は平気。パパ用事があって、帰りが遅いの。バレなきゃ大丈夫」


 そういう問題かなぁと思いつつも僕は曖昧に微笑んでおいた。彼女がそうやってお父さんをいい加減に扱っているのを見るとほんの少しだけ嬉しくなる。三年前の強制的な別れの際、彼女のお父さんに言えなかった文句を代弁してくれているようで。

 お父さんの用事って何時までかかるんだろう。バレなきゃ平気ったって、あんまり遅くならないうちに帰してあげなくちゃな……。


「そこの学生二人。ちょっとお話いいかな?」


 突然肩を叩かれ、僕と祥子さんは驚いて振り返った。真っ先に目に入った警察の制帽にギクリとする。

 けれどよく見れば、その人がかぶっている制帽は近くの店で売っている安い偽物である。今にも下着が見えそうなほど短いミニスカから伸びるのは筋張った男の足……。というかそもそもよく見なくてもその顔は友人の涼の顔そのものであった。


「ハピハロ」

「トリトリ」


 略した合言葉を挨拶代わりに、ミニスカポリスの格好をした涼がウィンクをする。その背中から顔を覗かせたのは囚人服を着た国光だ。

 二人も来てたんだ、とポケットの中に用意していたミントキャンディを渡した。しけてんなゴデバのチョコくらい寄越せよ、と文句を言いながらも二人はキャンディを口に放りこみリスのように頬を膨らませる。


「学校の奴ら結構来てるな。さっき田中が織田信長の格好して歩いてたぜ」

「二人は警察と囚人のコスプレ? 似合ってるじゃん」

「ちげえよ。『美人妻シリーズ~プリズン・ポリス~』のコスプレだよ」


 こないだ皆で見たAVじゃないかと脳内でつっこむ。確かに言われれば結構似ていた。あれはストーリーが凝ってて結構よかったな……。

 二人はカゴを持っていた。だが中に入ってたのはお菓子ではなく、たくさんのカボチャである。


「煮付けでも作るの?」

「ゲームだよ。知らない?」


 国光がカゴいっぱいのオレンジ色カボチャを手に取り、ほくほく顔で説明をした。


「イベント開催地のあちこちにジャック・オー・ランタンが隠されてるんだ。この黒いカボチャのマークが描かれたやつが対象な。集めた合計数に応じて景品がもらえる」


 そういえばそんなものがあるって聞いたっけ。

 国光は自身のSNSを見せた。ジャック・オー・ランタンを見つけるたび新しい投稿をしているようで、履歴にはズラリとオレンジ色のカボチャの写真が並んでいる。涼の投稿も同じだった。


「一等は十万円! なかなかの大金だろ。二等でも五万円だぜ。三等はお菓子詰め合わせ」

「急にしょぼいな……」


 ありすちゃんなら喜びそうだけど、と思いながら今日の人の多さにちょっと納得がいった。賞金目当てでゲームに参加している人も多いだろう。


「やっぱ人手が多いほどいいじゃん? クラスの奴らにも声かけてるんだけど、よかったら湊くん達も協力して……」

「嫌」


 国光の提案を拒否したのは祥子さんだった。思わず固まる涼と国光に構わず、彼女はニコニコと微笑んだまま首を横に振っていた。


「で、でも祥子先輩。協力してくれたら金がもらえるんですよ?」

「嫌」

「分け前は賞金の三割……いや四割でどうだ」

「駄目」

「祥子パイセン今日めっちゃ服イケテるじゃん。チョベリグすぎて俺のテンアゲがパーティーピーポーなんですけど」

「無理」

「……ウッス」

「私達は二人で宝探しするから」


 ッサーセン! と涼と国光はにこやかな顔で祥子さんに頭を下げ、どさくさに紛れて僕の両脛を蹴っていく。

 涼は「今夜はお楽しみですね」とねっとりした小声で僕の耳元に囁き、国光は「このリア充がよ!」と反対側の耳元で大声で叫んだ。僕は国光の頭を引っ叩いた。


「でも涼も国光も、夜遅くまで遊んでないで早めに家に帰るんだよ」

「なんだお前母ちゃんかよ。言われなくても明け方までには帰ります」

「明日じゃねえか。……いや本当にさ。最近色々物騒だし」


 不思議そうに首を傾げる二人にごにょごにょと言い訳をする。

 ハロウィンの盛り上がりの中で、やっぱり僕の心はどうしても爆破事件のことを忘れられなかった。ただでさえ今日はこんなにも人が多い。爆発が起こればひとたまりもないだろう。

 ありすちゃん達が見回りをしているといっても、その目が行き届かない範囲は広い。僕もただ遊ぶばかりではなく、彼女達の範囲外を見回ろうと思っていた。


「とにかく。気を付けて遊ぶんだよ」

「分かったよママ」


 涼と国光に別れを告げ二人きりに戻った途端、祥子さんはまた無言でピッタリ僕に体をすり寄せてきた。


「賞金十万円だって」

「僕達もやってみる?」


 うん、と言う前から祥子さんは既にSNSでジャック・オー・ランタンの発見情報を検索していた。


「十万円もあったら旅行に行けるかもね」

「どこへだって行けるさ。行きたい所があるの?」

「……遠い場所。誰にも見つからないくらい遠くだったら、どこでもいいかな」


 予想外の返事に僕ははたと口を閉ざした。遠くを見る彼女の鼻筋が、白く光りに照らされている。


「今日はいっぱい遊ぼうよ、湊くん」

「…………うん」


 僕は祥子さんが差し出した手を取って微笑んだ。

 ハロウィンの明かりが、繋がる手を温かく照らしている。




「あった、七つ目!」


 七つ目のジャック・オー・ランタンは木の枝に引っかかっていた。ジャンプをして取れば、すごいすごいと祥子さんが無邪気に拍手をしてくれる。

 午後七時。僕達は、ハロウィンの夜を存分に楽しんでいた。


「結構順調に見つかるねぇ。でも皆もっとたくさん見つけてるのかな?」

「ううん。四つくらいしか見つからない人が多いみたいだよ。街中に散らばっているけれど、他の参加者にすぐ取られちゃう」


 そんなに見つからないものなのか、と少し驚いた。僕達は今のところ特に悩むことなくジャック・オー・ランタンを見つけられている。祥子さんが場所に検討をつけ、そこで見つけたものを僕が取る。

 祥子さんは強運の持ち主なのだろうかと思っていれば、彼女はニンマリと携帯を僕に突き出した


「実は皆に教えてもらったの」


 彼女が見せたのはもうすっかり見慣れた例のSNSである。

 魔女服姿の彼女が少しセクシーな自撮りと共に「ハロウィンゲーム参戦中!」と投稿していた。「時計塔の裏にありましたよ」「衣装可愛い! さっき靴屋さんの店先で見かけたなぁ……」「コーヒー屋さんのレジにありました! 魔女さんですか? 魔法かけられた~い!」と何件ものコメントが寄せられている。なるほど、こういう協力体制も策の一つなのか、と感心する。

 見ているうちに新たなコメントが一件寄せられた。「広場の噴水近くにありましたよ」というものだ。

 幸運にも広場は近い。広場に近付くうち、妙に大きな声が聞こえてくる。


『――――をよろしく……。――――しくお願いいたします。皆様の清き御一票が、楽土町の未来を大きく変えるのです! 当選の暁にはこの街で暴れる……を駆除し……。りがとうございます……カツトシをよろしく……どうか一票を…………』


 噴水の前に選挙カーが止まっていた。スピーカー越しの声は巨大だったが、周囲の喧騒に掻き消されて声は聞き取りにくい。なんたらカツトシという名前以外の情報が入ってこなかった。

 とりあえず噴水に近付こうとしたところで、後ろからぐっと祥子さんが僕の腕を引っ張った。


「こっちには多分ないよ」

「え? でも」

「人が多すぎるから。もう取られちゃったと思う」


 祥子さんは繰り返し僕の腕を引っ張った。その笑みは、なんだか引きつっている。

 なおも選挙カーからの声は聞こえてくる。喧騒の中を縫うように。


『――――をよろしく……。――――しくお願いいたします。りがとうございます……カツトシをよろしくお願い……カツトシを。どうぞ、このカシロカツトシを!』

「…………華白?」

『祥子?』


 僕が思わず振り返って選挙カーを見たのと、その車の上に立つ人物が僕達を発見したのは同時だった。スピーカー越しに名前を呼ばれた祥子さんが、ビクンと肩を跳ね上げる。

 選挙カーに書かれた名前が視界に入る。カシロカツトシ。華白勝敏。華白。僕の隣にいる祥子さんの苗字は、華白。華白祥子……。

 車の上に立つ男性の顔を見て僕はあっと声を上げた。その顔は三年前に僕を玄関先で叱ってきた、彼女の父親の顔だった。


『祥子! お前、こんな所で何……あ、いや。失礼。華白勝敏を、どうぞ応援よろしくお願いいたします。ありがとう……』


 選挙カーからお父さんが降りてくる。祥子さんはパッと踵を返して逃げ出そうとした。けれど人ごみの多さにもだもだとしているうちに、とうとうその肩が後ろから掴まれる。


「祥子、何してる!」

「いたっ……!」

「ちょっと、やめてください!」


 僕は思わずお父さんの腕を掴んだ。けれど真っ赤な怒り顔を間近に見て思わず足が引ける。高圧的な険しい表情は、僕を見てより一層険しくなった。


「お前っ。よりによって、この男と……!」


 お父さんの怒りが僕に向かう。握られた拳に、殴られるのかと思わず目を瞑る寸前、祥子さんが僕の前に飛び込んだ。


「湊くんに近付かないで!」

「お前。その男が何者か分かってるのか!? 指示を出すとき以外、必要以上に接触するなと散々言っただろう!」

「ただ遊んでるだけよ。それもいけないのっ?」


 二人の会話は所々よく分からなかった。それでもみるみるうちにお父さんが不機嫌になっていくのは、その真っ赤な顔を見ていれば分かる。

 いいから来なさい、とお父さんが彼女の腕を掴もうと手を伸ばす。彼女の青ざめた顔を見て、考える間もなく足が動いた。


「だぁっ!」


 思わず。咄嗟に。二人の間に飛び込んだ。その拍子に彼女のお父さんに頭突きをしたのは偶然かわざとか自分でも分からない。

 ガチンと目の前に星が散る。お父さんと僕の体が大きく揺れた。なんとか地面を踏みつけ、祥子さんの手を引いて走り出す。


「逃げよう!」


 どいてください、と言いながら走れば周りの人々も何事かとざわめきながら道を開けてくれる。後ろから祥子、と彼女の名前を呼ぶ声がしたけれど、足を止めることはない。


 ふと、行く先の道から賑やかな音楽が聞こえてきた。

 こうこうと明るく光るカボチャランタンを手に、仮装をした小学生くらいの子供達がケラケラ笑いながらやってくる。その後ろには中学生、高校生、そして大人達と、仮装をした集団が道路の真ん中を歩いていた。

 そうだ。七時からパレードをやっているんだっけ。

 僕達はパレードの中に潜り込んだ。人々の間を縫うように向こう側へ抜けてから振り返れば、僕達を見失った祥子さんのお父さんが、キョロキョロ辺りを見回している姿が遠くに見えた。


「大丈夫?」

「うん…………」


 祥子さんはへなへなとその場にしゃがみ込んだ。僕もしゃがんでその顔を覗き込めば、彼女は両目を潤ませて鼻を啜っていた。慰めるように背中を擦る。

 あの人お父さんだよね。議員さんだったの? 指示って? お父さんに頭突きしちゃってごめんね……。


「少し休もうか? そこのコンビニで何か買ってくるよ」


 言いたいことは色々あった。けれど僕はただ彼女に微笑んだ。彼女は無言で小さく頷く。

 とにかく彼女を休ませよう。そう思って僕は立ち上がる。けれど結局、彼女に飲み物を買ってくることは叶わなかった。


 シューッという異音が聞こえた。


「えっ? わぁっ」

「なぁにしんちゃん。それ、どうしたの」

「わかんない。けむりすっげー。ニンジャのやつみたい……」


 子供のはしゃぐ声が聞こえた。パレードの中で歩いていた子供が、小さなジャック・オー・ランタンを手にして笑っている。

 異様なのは、そのオレンジ色の塊から、白い煙が噴き出していること。

 ボンッと爆発音がしてカボチャが四方に弾け飛んだ。


「わあっ」


 子供達が驚く。カボチャの破片を顔に浴びたその子達は、目をぱちくりさせてからケラケラ楽しそうに笑った。

 直後。その笑い声を掻き消すほどの、巨大な爆発音が辺りに響き渡る。


「ギャア!」


 大人の悲鳴が響いた。ドォンと腹の底に響く爆発音が空気を揺さぶった。

 唖然としたまま顔を上げれば、向こうのビルとビルの隙間から、激しい黒煙が立ち上っているのが見えた。

 爆発だ。


 周囲に小さなざわめきが広がる。困惑と不安を顔に浮かべていた人々は、続いてもう一度大きな爆音が鳴った瞬間、一気に悲鳴をあげて逃げ出した。


「湊くん!」


 祥子さんが僕の腕を取る。私達も逃げよう、と彼女は皆が逃げる方向へ進もうとした。

 僕は振り向き、さっき出てきた広場からも悲鳴が上がっていること、白い煙が揺らいでいるのを見て、彼女の手を振りほどき、携帯を取り出した。


「先に行って」

「なっ」

「広場に戻らないと。君のお父さんも、まだいるかもしれない」

「あ……危ないよ! パパなんてどうだっていい。行ったところで何ができるの!?」


 ありすちゃん達に来てもらうんだ。彼女達に変身してもらえば、爆発の被害を食い止めることができるかもしれない。

 ……そんな説明ができたら苦労はしない。


「湊くんが危険なことをする必要なんてないよ。消防士さんやおまわりさんに任せればいいじゃない。誰に電話しようとしてるの? ねえ、誰? ……もしかして、またありすちゃん?」


 正解だからこそ咄嗟に反応できなかった。

 僕の表情を見た祥子さんはみるみるうちに表情をなくす。冷たい眼差しが僕の顔をまっすぐに射抜いた。


「こんなときにもあの子なの? わ、私と一緒にいるのに。私じゃなくて、あの子の心配?」

「違うよ! 僕が彼女に連絡するのは……その…………」

「私は君の一番じゃないの?」


 彼女の声が冷ややかになっていく。ボロッと大粒の涙がその瞳から零れた。

 思わずその雫を拭ってやろうと伸ばした手を、彼女の手が力強く握る。


「湊くんは! 私より、怪物・・の傍にいたいの!?」

「――――は?」


 乾いた声が出た。

 サァッと頭から血の気が引いていく。

 今、彼女は何と言った?


 祥子さんが僕の腕を強く引く。衝撃に強張っていた体はあっけなく彼女に引きずられた。

 悲鳴や怒号がどんどん後ろに通り過ぎる。爆発音を背に聞きながら、祥子さん、と僕は叫んだ。


「君は何を知ってるんだ」

「……………………」

「どこまで。彼女達のことを。何で?」

「……………………」

「どうして知ってるんだよ」

「……………………」

「祥子さん!」


 彼女は何も答えちゃくれなかった。

 困惑していた僕は、しばらくして彼女が足を止めた場所を見て、更に頭の中がパニックになる。

 暗い夜の中でもチカチカ眩しく、それでいてぼんやりとした怪しさが漂う建物の前だった。高級感ある外装に光るネオン。ご休憩とご宿泊という二つの文字。

 ラブホテルである。


「はっ? えっ?」


 防音の効いた建物には爆発騒ぎが聞こえていないようで、受付もシンと静かなものだった。茫然としているうちに彼女はズカズカと歩き部屋までたどり着いてしまう。

 部屋の中に入った途端、彼女は扉を勢いよく閉め、僕の唇にキスをした。


「んんっ!」


 しっとりと甘く濡れた唇が僕の唇を食む。背骨が扉に押し付けられて痛い。反対に、体の前面には柔らかな祥子さんの体が押し付けられている。

 頭の奥がカァッと熱くなる。硬直する僕から体を離した祥子さんは、そのまま僕の体を引っ張って、いかにもといった巨大なベッドに僕の体を突き飛ばしその上に跨った。


「ちょっと! 祥子さん! 本当に何……!」


 僕はギクリと固まる。祥子さんが勢いよく服を脱いだからだ。

 魔女の衣装が眩しい白肌を滑り、ベッドの下に落ちる。露わになったのは燃えるように赤い下着だけを身にまとった彼女の素肌である。

 祥子さんは固まる僕の唇にまた吸い付いた。花の毒に似た香りは、彼女の肌から香るものだろう。甘い香りが僕の脳をくらくらと痺れさせた。熱い舌が僕の口内に潜り込む。舌先を吸われるたび僕の指先がビクリと震えた。目が潤んで彼女の顔がぼやける。水音が耳を犯す。

 ゆっくり彼女が顔を離せば僕達の間に透明な糸が引いた。

 僕はもう言葉も出せず、荒い呼吸を繰り返すだけだった。


「全部知ってるの」


 甘くしっとりと濡れた声は、酷く色っぽく僕の鼓膜を震わせた。


「怪物の正体は君のお友達。姫乃ありす、犬飼千紗、雨海雫。あの三人なんでしょう?」

「…………は」


 僕は大きく目を見張った。震える指先が、祥子さんの腕に強くめり込む。けれど彼女は顔色一つ変えずに僕を見つめていた。


「君は誰だ」


 掠れた疑問の声は、それが自分の声とも分からぬほど低かった。

 彼女は胸元に垂れた髪をかきあげる。濃茶の髪の毛の下に、僕が渡した紫のネックレスが揺れていた。


「君はもっと警戒心を持った方がいいよ」


 ベッド脇に転がる僕の靴が拾われる。交差する紐の裏側に彼女は指を入れた。そこから引っ張り出されたのは、爪の先程度の大きさの小型機器だった。盗聴器だ。

 息を飲む。いつからだ、と思う。いつから会話を聞かれていた?

 魔法少女の話は、いつから彼女に筒抜けだった?


私達・・の調査は常に慎重だった」


 祥子さんの声はさっきまで隣にいた女の子の無邪気な声とはまるで違う、酷く冷静で大人びた声だった。


「国が急遽設立した怪物特殊対策本部は全てが手探り状態から始まった。怪物の出現方法、目的、生態……調べていくうちに私達はとある人物に辿り着いた。

 最初に怪物が出現した高校の生徒。怪物の近くで最も多く目撃されている一般人、それが伊瀬湊、あなただった」

「…………」

「国は君への接触を図ろうとした。けれど十七歳の君に対し、大人が不用意に近付けば怪しまれる。ならば誰が適任か? 君と歳が近く、警戒されず、親しい関係を築けるのは誰?

 君と歳も近く、元恋人であった女。そんな人間が役人の娘にいたとしたら、それを使わない手はないでしょう」


 彼女の首元でネックレスが揺れる。キラキラと光を反射して、周囲を紫色に光らせていた。


「怪物特殊対策本部のメンバーの一人は華白勝敏。私はその娘、華白祥子」

「君は、国の……」

「そういうことなんだよ、湊くん」


 頭の中、少し昔の記憶が揺らめくように燃える。

 マスターがいつか言っていた。魔法少女を狙うのは宗教団体、警察、ヤクザ、政府の四つであると。

 動きがないから楽観視していた。けれど違う。彼らは動かなかったわけじゃない。気づかれないよう慎重に監視していたのだ。


 華白祥子。僕の元恋人。

 今は僕達の敵としてやってきた、政府の人間。


「……それで、君は僕をどうするつもり? 思春期の男が期待するような展開にはならないみたいだけど」


 僕の声は尖っていた。彼女を嫌いになったわけじゃない。けれど、敵意を示す必要はあった。

 ここに連れ込んだのも誰かの命令だろう。外に逃げれば、彼女のお父さんあたりでも待ち構えているのかもしれない。


「頼むよ。ここから出してくれ」


 それでも僕は行かなければならなかった。今は怪物を捕らえるだとか、僕から怪物の情報を聞き出そうだとか、そんなことをしている場合じゃない。外では爆発騒ぎが続いているのだ。


「今だけでいい。解放してくれたら、必ず全てが終わった後にここに戻ってくる」

「……信じられないよ」

「本当だ。君は怪物のことを誤解してるんだ。後で彼女達のことをちゃんと説明するから……」

「湊くんは嘘ばっかりつくじゃない!」


 鋭い声が空気を裂く。僕はギョッと目を丸くした。

 何故って彼女が泣いていたから。


「政府なんて知らない。パパのことだって、楽土町のことだって、私にはどうでもいい!」


 彼女は泣きながら僕に縋りついた。そこには敵意も、僕を捕らえようとする意志も見えない。ただ、つれない恋人に縋るそれだった。


「国から、パパから、伊瀬湊を監視するように命令を受けた。……だけど私は指示を出されたとき以外も君と一緒にいる」

「え?」

「私は私の意思で動いている。私が君に触れているのも、あの女の子達に必要以上に接触しているのも、全部私がやりたくてやったこと」

「な、なんで」

「君が好きだから」


 祥子さんの目がまっすぐに僕を見つめた。その頬をほろほろと流れる涙はダイヤモンドみたいに光り輝いていた。


「湊くんは優しい人だから。あの子達のことさえ守りたくて協力しているんでしょう。でもそれじゃあ、あなたのことは誰が守ってくれるの?」

「それは……」

「誰にでも優しくしないで。……世界なんてどうでもいい。私は湊くんだけを救えれば、それでいい」


 祥子さんは涙をこぼして僕に抱きついた。熱い胸の奥から、ドクドクと脈打つ鼓動が聞こえてくる。


「ずっと私と一緒にいて」


 祥子さんが縋り付くようにキスをした。重なり合う唇は熱く、境目が分からなくなるほどにとろけていく。

 服の上を彼女の指が滑る。指先は腹を撫で、へそから下へとゆっくり降りて、ベルトを外す音が聞こえた。


「…………くっ」


 ビク、と指が跳ねる。その上に彼女の手が重なる。絡み合うお互いの指が酷く熱かった。服が捲れ、汗ばむ腹に彼女の肌が触れた。

 ああそうか。彼女は僕をここに閉じ込めておきたいのだ。

 外の爆発騒ぎに僕がじっとしているはずがないと理解している。僕が怪物を呼んで危険に身を投じるつもりなのだと分かっている……。

 胸の奥が激しく脈打っていた。代わりに、頭の奥はすぅっと冷たく冴えていく。


「――――やめてくれ!」


 彼女の体を引き剥がした。明らかな拒絶に彼女は目を見開き、酷くショックを受けた顔をする。

 込み上げる罪悪感を飲み込み「君とはできない」と冷たく言葉を吐き捨てた。


「な、なんで? ……私のことが嫌いになった?」


 僕は無言で乱れた衣服を直す。愕然とする祥子さんを横に電話をかける。

 ありすちゃんの携帯にかけたけれど、出たのは澤田さんだった。固く引き締まった声は、少し早口だった。


『無事だったか』


 電話の向こうからは小さな悲鳴やサイレンの音が聞こえてくる。状況は? と僕は短く問いかけた。


『爆発が立て続けに。一つや二つの騒ぎじゃない。火が飲食店のガスに引火して火災も発生している』

「ありすちゃん達は?」

『三人ともここに』

「僕もそっちに行きます」


 簡素に現在の場所を告げると電話は切れた。

 立ち上がろうとする。けれど祥子さんが僕の腕を掴んで離してくれなかった。


「行かないでよ」


 悲痛な声だった。それでも無言の僕に、彼女はカッと顔を赤くして怒鳴る。


「どうして危ない目に遭おうとするの? 他人ばかり心配して、ちっとも自分の心配なんてしない。それが私を悲しませるってどうして分からないの?」

「……違うよ」

「何が違うのよ!」

「僕は君が思うような人間じゃないんだ」


 僕は彼女の離れない手を力強く掴んで、その体をベッドに押し倒した。

 白いシーツに彼女の長い髪が広がる。驚きに見開かれた目が僕を見上げて、僅かに揺れた。

 ジンと痺れるような沈黙が広がった。空中にふわふわと浮いていた埃が枕元に落ちるのを見て、僕は静かに言葉を吐く。


「怪物に興奮するんだ」

「…………へ?」


 空気が変わる。どこか間の抜けた風が僕達の間に吹き抜ける。僕の言葉はあまりに予想外だったようで、祥子さんはとぼけた顔をして瞬きをした。


「僕は祥子さんのことが好きだ。昔は君と手を繋ぐとドキドキしたし、初めてキスをしたは何度も夢に見るほどだった。…………でも、今は、分からないんだ。人間の女の子を前にしても、本当に好きかどうか分からない」


 緊張に指の股が汗ばんでいた。胸の奥からドッドッと張り裂けそうなほどの鼓動が聞こえてくる。

 祥子さんは困惑していた。無理もない。突然こんなおかしな話をされて、理解できる方が難しい。


「か……怪物にって? 女の子を好きになれないってこと? 男の人が好きとかでもなくて……人間じゃなくて、怪物が好きってこと?」

「…………うん」

「い、意味分かんないよ。そんなわけないじゃない。あんな気持ち悪いものが好きだなんて。逃げたいからって嘘つかないでよっ」


 彼女は半ば笑うようにそう言った。その言葉に、首の後ろがカッと熱くなる。


「本当だよ!」


 僕の大声に祥子さんがギクリと体を強張らせた。彼女の困惑に構わず、僕は胸の奥から噴き出す感情をただただ吐き出した。

 声が興奮に濁っていく。緊張と焦り、それから滲み出るドロリとした欲望が僕の喉を震わせていた。


 祥子さんや雫ちゃんから恋慕を向けられて、それでも僕が応えないのは、恋愛について考えられないからだというわけじゃない。人間の女の子を愛することができなくなっていたからだ。

 好きだと言われてときめいても、押しつけられる胸の柔らかさに息が止まっても、キスをされて心臓が弾んでも。怪物の隣にいるときほどの興奮を感じることはできない。

 好き、愛している、付き合いたい、キスをしたい、いやらしいことをしたい。

 そんな気持ちを、僕は怪物にしか抱けなくなっていたのだ。


「き……君にとっての男っていう存在が、女の子に恋をして、手を繋ぎたがったり、キスをしたがったり、セックスをしたがるのと同じように。僕は。あの怪物に、同じことをしたいと思っている」


 昔は純粋に憧れていた怪物に。大きくなって、実際に触れて……誰よりも一番近くで見守るうちに、僕の欲望はドロドロと煮詰まってしまった。もう取り返しがつかないほどに巨大な感情になってしまった。


「ありすちゃん達のことを守らなきゃと思う。街の人達を守りたいと思う。……でもそれ以上に、僕は怪物が好きだから。だから彼女達の傍にいる」


 ブルーちゃんのぬめる巨大な目玉にキスをしたいと思う。イエローちゃんの鋭い牙に噛まれ痛みを感じたいと思う。ピンクちゃんの触手を食みその体を味わってみたいと思う。


「僕は怪物を愛しているんだよ……っ!」


 一度口から吐き出した欲望は止まらない。言葉は次第に燃えるような熱を帯び、こめかみが興奮にぴくぴくと痙攣していた。

 体の奥からじわじわと水気が生まれていく。たまらない興奮が汗や涙となって、体の表面に滲みだす。


 ふと我に返れば、祥子さんはすっかり青ざめていた。白くなった頬に張り付いた髪を払うと、その体は一瞬怯えたように跳ねる。

 指先が興奮でぴくぴくと震えていた。体の奥から込み上げる熱は、額の汗となって、僕の顔を怪しく濡らす。


「……あの頃の優しい湊くんは、もうどこにもいないんだよ」

「み、みなとく」


 僕は彼女を突き飛ばすように立ち上がった。彼女が自分の意思で動いているというのなら、建物の外には誰もいないはずだった。

 お金だけを残して、急ぎ足で部屋を出る。時間を食ってしまった。早くありすちゃん達の元に急がなければ。


 足早にホテルを出ればやはり遠くからはまだ悲鳴が聞こえていた。何かが空に揺れている、と目を細めてみれば、それが炎の揺らぎであることにゾッとする。街が燃えているのだ。


「待って!」


 けれど走り出そうとすれば、声が背中にかかった。

 振り向けばやっぱりそこには祥子さんがいた。顔は涙に濡れて化粧が剥がれかけている。急いで着たのだろう服だってまだ乱れていて、下着の肩紐が露わになっていた。

 ぐしゃぐしゃな顔のまま彼女は僕に飛びついた。彼女のまつ毛の縁を濡らす涙の粒が、星のようにきらめいていた。

 行かないで、と彼女は何度目か分からない言葉を吐いた。胸が苦しかった。あれだけの言葉を吐いたのに。それでも彼女はまだ、僕を死なせまいと止めてくれるのか……。


「嫌だよ、湊くん。行かないで。一緒にいてよ! ねえ、湊く……」


 僕は祥子さんの肩を掴み、その唇に口付けた。


 数秒にも満たないキスだ。唇を柔く触れ合わせるだけの、あっさりとした挨拶のようなキス。

 だけど僕が口を離せば、祥子さんは腰が抜けたようにその場に崩れ落ちる。


「…………あ」


 その顔はじゅわりと真っ赤に染まっていた。夢を見た乙女のような反応だった。

 ロマンチックにとろけた顔を見ていると、胸の奥がゾクリと震える。


「ごめんね」


 行かなくちゃ、と僕は低い声で言った。

 へたり込む彼女の服を軽く直して最後に一度だけその頬を撫でる。彼女は黙って俯いて、それ以上何も言ってはこなかった。

 僕から彼女にキスをしたのははじめてかもしれないと、ふと思う。


 柔らかな感触が残る唇にそっと指先で触れた。

 甘い余韻を振り払うように首を振って、僕は改めて進む道の先へと顔を上げた。

 雫ちゃんがいた。


「あ」


 名前を呼べなかった。それは、そこに立っている彼女が、あまりにも青い顔をしていたからだった。

 高級そうな滑らかなマーメイドワンピースは、裾を強く握られたせいでくしゃくしゃだった。艶やかにウェーブした髪は、彼女が震える一歩を踏み出すごとに、不安定な波のように揺らぐ。

 彼女の顔は凍り付いたワインのように冷えていた。ハッキリと見開かれた目は険しく、赤い紅を塗った唇は激しくわなないている。

 押し殺す胸の内に揺らぐ激情が、僕にまで伝わってくるようだった。


「よ、様子を見に来たの。遅かったから。爆発に巻き込まれていないか心配で」


 ほろっと溶けてしまいそうな、小さな声だった。

 彼女は幾度も視線を泳がせる。僕の背後、ラブホテルのきらめくネオンと、座り込んでいる祥子さんの姿がその瞳にハッキリと映っている。

 さっきのキスも、彼女には見えていたことだろう。


「…………と、友達だって言ってたよね」


 雫ちゃんの目は潤んでいた。いまにも涙が零れそうで、けれど必死にそれを堪えている悲しい顔で、彼女は僕に言う。


「友達だって言ってたよね。文化祭のとき……ありすちゃんが一番だって、今は恋愛のことを考えられないって。だ、だからわたしは、そういうことならって納得して……」


 誤魔化せなかった。弁明なんてできなかった。震える雫ちゃんと、ぼんやりこちらを見上げる祥子さんの姿を交互に見て、サーッと頭が冷えていく。


 ドンッと巨大な爆発音が周囲を揺らした。

 爆発は僕達のことなんか待ってはくれないようだった。

 またどこからか聞こえてくる悲鳴に、僕は思わず雫ちゃんの手を取ろうとする。


「いやっ!」


 だけど、僕の手は彼女に払われた。雫ちゃんはハッと目を見開いて、戸惑うように首を横に振った。


「先に行って。わたしも、すぐに追いかけるから」

「…………ごめん」


 彼女の肩は震えていた。それを撫でてやることさえ僕には許されないことだと分かっていた。

 僕は彼女から目を反らし、走り出す。

 少しの間を置いて、後ろをゆっくりついてくる雫ちゃんのヒールの音が聞こえてきた。


 パチパチと焦げ臭い音がする。近づくほどに大きくなる悲鳴に、僕は必死で唇を噛み締めた。

 今年のハロウィンは最悪なものになりそうだ。

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