第57話 青い春と文化祭

 文化祭開始一時間前。更衣室には華やかな笑い声が満ちていた。

 シャツを脱いで下着姿になった皆の、キラキラと弾む声が壁に響く。


「ねえ、誰かチーク持ってない?」

「持ってるよー。これ血色感自然でオススメ、昨日買ったばっかなの。貸したげる」

「わ、このフレグランス誰の? めっちゃいい匂いする」

「橋本あんた意外とスタイルいいじゃん……。おっぱいおっきいねぇ」

「ちょっと、揉まないでよ! んんっ」


 ちなみにここは男子更衣室だ。

 むさい男達が裏声ではしゃぐ地獄の男子更衣室だ。

 誰か助けてくれ。


 僕達のクラスで行うのは男装女装コスプレ喫茶だった。今考えても、なぜこんな企画が通ったのか分からない。きっと承認する人が疲れていたんだろう。

 僕はいそいそと服を脱ぎ衣装に着替える。隣ではセーラー服を着た国光とバニーボーイ姿の涼がメイクに集中していた。

 男子更衣室は女装をした男達と、男の汗臭さと香水と誰かが食べてるカップ焼きそばの臭いが入り混じってなんともカオスな状態になっている。


「おいくせえよ。窓開けろ窓」

「きゃっ、急にいたずらな風がっ」

「あ、わり……いやなんでお前下着も女物なの?」

「隣の田中さんが貸してくれた」

「そんなことある?」

「これを機に女装に目覚めてほしいって」

「田中さん?」


 僕が着たのはナース服である。コスプレ用品として安売りされていたものをクラスの女子が適当に買ってきたやつだった。女性用しか売っていなかったらしくMサイズのそれは大分キツく、着替えるのに苦労した。


「湊ー、そろそろ教室戻る?」

「あはは美脚じゃん。え、すね毛剃ったの?」

「脱毛サロン行ってきた」

「ガチだ」

「レディーの嗜みだろ! 女子の努力を馬鹿にするな!」

「してないしてない」


 まあ、なんだかんだ言いつつ僕も文化祭が楽しみではあった。それに『やるならとことん』が我がクラスのモットーである。

 完璧な女装を終えた僕達は勇ましい戦士の顔付きで更衣室を出た。廊下にいた他クラスの生徒が僕達を見てギョッとしている。


「いくわよ二年一組! あたし達の魅力、世界に見せつけてやりましょ!」


 先頭から上がる野太い声に、僕達もまた野太い声で応え、拳を空に突き上げる。

 今日から文化祭がはじまるのだ。




「……はい、というわけで。私は今北高校の文化祭にお邪魔していまーす!」

「お待たせしましたにゃんっ。こちら、愛情たっぷりラブリーパンケーキですにゃんっ」

「わぁ、ハート形でとっても可愛い! 表面が真っ黒焦げなのは、人間の心の闇を表しているのでしょうか? 深いですね……」

「すんませんミスです」


 二年一組の教室で行われる喫茶店は好評だった。

 二日ある文化祭は、今年はどちらも一般公開であった。朝からお客さんがひっきりなしに教室にやってくる。僕達は皿やトレイを手に目まぐるしく働いていた。

 お客さんの中には動画や写真を撮っている人もいた。彼らがSNSに情報を上げてくれるおかげで、更に集客が見込めるのだ。

 焦げたパンケーキを食べている女性客もカメラを回している。向かいに座る二人の男性達も興味深そうに教室内をキョロキョロ見回していた。僕は三人分のコーヒーを席に持っていき、その席に置く。


「ん、湊くん。ナース服似合うね。胸元開いてて超セクシー」

「学生の文化祭も記事になるんですか?」


 コーヒーを飲みながらその女性、鷹さんはコクコクと頷いた。

 彼女が今日やってきたのは文化祭の取材をするためだ。校内の展示物をネットや雑誌にあげるらしい。

 その向かいに座るのは人間体に変身したマスターとチョコだ。パンケーキやクレープをうまいうまいと食べ皿を重ねていくチョコの横で、マスターはマスクの下にストローを差し込んで器用にアイスコーヒーを飲んでいた。


「なるよぉ。北高校の文化祭でしょ? 結構注目してる人多いんだよ」

「ただの高校の文化祭でしか…………あー、分かった。あれですか? 怪物関係?」

「怪物がはじめて出現した場所を一目見ようと来る人が案外いるんだって。聖地巡礼ってやつ?」


 鷹さんは大きく切ったパンケーキを口に放り込んで、口端のシロップを指で拭った。

 なるほど。普段学校で生活する僕達ならまだしも、部外者は普段学校に入ることもできない。僕のように怪物に興味を持つ人が文化祭をきっかけに現地を観に来るパターンもあるのだろう。

 去年より立ち入り禁止の教室が多いのも、教師の見回りが多いのもそのせいか、と納得する。


「マスター達も来るとは思わなかったな。喫茶店の人にコーヒー出すの、ちょっと恥ずかしいや」

「恥ずかしがることはない。このコーヒーも口当たりがまろやかで大変美味い。淹れる人の腕がいいんだろう」

「はは、ありがとうございます」

「そうそう。全部おいしいよ湊くん。パンケーキおかわり!」

「チョコは何でもおいしいって言うじゃないか。……そういえば、ありすちゃんは?」

「今日は別行動。ぼくも、人間の体で思う存分食べ歩きがしたいからさ」


 僕は、膨れたお腹をさするおっさん姿のチョコを見る。ということは、ありすちゃんは今一人きり。自分の教室で作品の紹介でもしているんだろうか。

 ……一人で大丈夫なのかなと不安になる。思い出すのは、絵を破かれて泣いているありちゃんの姿だった。


「湊くんお疲れ様。代わるよ。休憩でしょ?」


 肩を叩かれハッとする。燕尾服を着たクラスメートの田中さんが不思議そうな顔で僕を見上げていた。

 時計を見れば確かにちょうど休憩の時間である。僕は鷹さん達に見送られながらいそいそ教室を出た。一刻も早くありすちゃんの所に行きたかったのだ。

 着替える時間も惜しい。ぴちぴちのナース服のまま廊下を歩く僕を皆が見ていたけれど、文化祭でテンションが上がってしまった奴だと思ってもらうことにする。生足を見せびらかしてズンズン大股で歩き、先を急いだ。

 けれどそういう、急いでいるときこそ何か用事が入ってしまうもので。


「湊くん?」

「おわ!」


 急に後ろから服を引っ張られ転びそうになる。振り返ると、キョトンとした顔の祥子さんが立っていた。

 彼女は白いワンピースのような服を着ていた。しかしその裾は破け、血のりが付着し、顔にも赤い手形の汚れがべっとりと付いている。

 彼女はニコーッと微笑むと、ワンピースの裾を持ち上げて茶髪をふわふわと揺らした。


「お化け屋敷やってるの。私の幽霊役、結構怖いって評判なんだ」

「びっくりした……。幽霊姿も可愛いね」

「ふふ。湊くんもその私服すっごく可愛いよ」

「私服じゃないんですよ」


 かわいー、と彼女はナース姿の僕にぴとりと抱き着いてくる。僕達の姿を見た一般客が微笑ましそうに笑って横を通り過ぎていく。


「今休憩? どこか行くの?」

「ええっと……」

「私も一緒に行きたい」


 別に出店を回って楽しもうとしているわけではない。後輩の教室に行って彼女の無事を確認しようというだけの時間である。そんなのを彼女が楽しめるとは思えなかった。

 どうしようかと悩むうち、痺れを切らした祥子さんが僕にもたれかかって頭をすり寄せてくる。


「ねえ、湊くん。いけない……?」

「うぉっ!」


 彼女の胸が僕の腕に押し付けられた。柔らかな感触に慌てて離れようと身動ぎすれば、彼女の熱を持った吐息が首筋をぞくぞくと撫ぜた。

 あ、とポツリ思う。なんだか空気が変わったぞと。

 祥子さんの指がするりと僕の腕に触れる。熱っぽい眼差しが僕を見上げた。

 僕は何も言えなくなって、その瞳を無言で見つめ返す。

 そんな僕達の様子を、宣伝看板を持って廊下を歩いてきた雫ちゃんがバッチリ目撃する。


「あ」


 僕と雫ちゃんの目がバッチリと合う。彼女は一瞬で顔を真っ赤にさせ、かと思うと青ざめさせ、目を白黒させながら慌てた声で「何も見てません」と叫んだ。

 逃げ出そうとする彼女を慌てて捕まえる。手首を掴まれた雫ちゃんはキャーキャー悲鳴を上げ、顔を真っ赤にしてその場にしゃがみこんでしまった。


「わたし何も見てないから。誰にも言わないから!」

「誤解だって!」

「湊くんがえっちなことしてたのもえっちな服着てるのも全然見てないから!」

「本当に誤解だ!」


 傍から見ればナース服を着た男が嫌がる女の子に迫っているというなんとも微妙な光景だ。周囲を通り過ぎていく人々の視線が痛い。

 しばらくして彼女はようやく落ち着きを取り戻す。出し物の宣伝のために看板を持って校舎を歩き回っていたらしい。


「あ、そ、そうだ。湊くんはありすちゃんの所もう行った?」

「ちょうど行こうかと思っていたところだけど。雫ちゃんも?」

「……湊くんと文化祭回ろうとしてる?」


 壁にもたれて僕達の会話を聞いていた祥子さんが、眉を吊り上げて雫ちゃんに言った。雫ちゃんは困ったように視線を伏せ、そうじゃなくて、と戸惑うように言う。


「わたしはただ、ありすちゃんが心配で。もしもまた作品に何かされてたらと思うと……」


 どうやら雫ちゃんも同じことを考えていたらしい。

 僕達は皆ありすちゃんが心配だった。あの無邪気な笑顔が曇るようなことは避けなければならないと、そう思っていた。

 今もありすちゃんが他の子達にちょっかいをかけられているかもしれない。そう思うといてもたってもいられず、僕は祥子さんに頭を下げた。


「ごめん。僕、ありすちゃんの教室に行かないと」

「えっ」


 待ってよ、と裾を引っ張る祥子さんからそっと体を離す。彼女に背を向けて歩き出そうとすると、今度は強く腕を掴まれた。


「…………いい加減にしてよ!」


 祥子さんの鋭い声に打たれ、ギョッとする。

 彼女は目に涙をためて僕を睨むように見上げていた。赤い唇を噛み、震える声を張り上げる。


「ありすちゃん、ありすちゃん、ありすちゃん。いっつもその子ばかり! 湊くんはあの子の何なの? 彼氏なの?」

「しょ、祥子さん落ち着いて。ありすちゃんはただの友達で……」

「私の告白よりあの子との友情が大事なの!?」


 彼女の声に周囲からの視線が刺さる。修羅場だ、と誰かが言って足早に通り過ぎた。

 祥子さんは怒りに歯をカチカチと鳴らしながら、突然雫ちゃんを長い爪で差した。


「私のライバルはあくまでこの子でしょ? 君を愛しているのは、私達だけでしょ!」

「ひぇっ」

「なのにどうして全然関係ない子を選んでるの? 湊くんはどっちも選ぶ気がないのっ?」


 雫ちゃんの顔がカッと赤くなる。急に好きな人への好意をバラされたら、そりゃあそうなるだろうとは思った。

 わたしは別にっ、と好意を否定しようとする彼女に、その態度見てれば誰だって分かるでしょ、と祥子さんが言い切る。雫ちゃんはどんどん顔を赤くして居心地悪そうに俯いた。


「もう私のことが好きじゃないの!?」

「……………………」


 曖昧な態度が一番最悪なんだ、とこの間千紗ちゃんに言われたっけ。

 僕がずっと最悪な態度ばかり取っていたから。祥子さんはとうとう限界を迎えてしまった。今、この場で、僕は決めなければならない。

 祥子さんを選ぶか。雫ちゃんを選ぶか。

 それとも…………。


「君はあの子のことが好きなの!?」

「好きだよ」


 祥子さんがハッとしたように口を閉ざす。その隣で、雫ちゃんも目を丸くして僕を見つめていた。

 好きだともう一度言った。さっきよりもハッキリと、大きな声で。


「僕は祥子さんも、雫ちゃんも、ありすちゃんも好きだよ。恋愛としてじゃなく、友達として」

「な」

「…………正直今は、恋愛のことは考えられないんだ」


 それが僕の答えだった。今の僕はそもそも、彼女達との恋愛について考えることができなかった。

 この答えは彼女達の心を深く傷つけるとは分かっている。僕は君達にとって優しい男にも、いい男にもなれやしない。僕は君達との友情しか考えられない。

 だって。さっき祥子さんに抱き着かれたときだって。僕は…………。


 祥子さんの顔が青くなっていく。彼女はごくりと唾を飲んで、わななく唇から溜息を零した。


「まだ。まだ、別れてくれって言われてないもの」


 別れてくれと言われていないから、私達はまだ恋人。再会したときに言われた言葉。だから僕はまだ祥子さんの彼氏であって、祥子さんは僕の彼女なのだ。

 その考えがあまりに無理のあることはきっと彼女自身も分かっている。

 それでも彼女は縋るように、僕に訴えかける。


「私達、まだ恋人でしょ?」

「…………祥子さん」

「うん」

「ありすちゃんの所に行ってくるよ」

「っ」


 縋る祥子さんの目を見て、僕はまっすぐに伝えた。酷い返事だと自分でも思う。

 祥子さんは大きく目を見開いて、それから勢いよく僕の肩を突き飛ばした。


「馬鹿!」


 彼女はボロッと大粒の涙を零し、廊下を走り去った。その背中を見送って僕はゆっくりその場にしゃがみこむ。思わず追いかけようとしてしまった自分を制するために。

 追いかけてどうする気だよ馬鹿野郎。

 行ったところで、今の僕は、彼女を傷付けるだけの存在でしかないんだ。


「湊くん」

「雫ちゃん……」

「湊くんは、今は、ありすちゃんが一番大事なの?」

「…………そうかもしれない」

「そっか」


 雫ちゃんの言葉に僕は小さく頷いた。彼女の反応も見るのが少し怖かった。それでもおそるおそる顔を上げれば。彼女は少しだけ悲しそうに唇を噛んで。けれどそれを誤魔化すように、溜息を吐いて笑みを浮かべた。


「湊くんらしいね」


 彼女がしゃがむ僕に手を差し伸べる。

 僕はなんともいえない顔で微笑んで、雫ちゃんの指先を掴んだ。




 一階に下りればありすちゃんの教室が見えてくる。何故かその廊下にはちょっとした人だかりがいて教室を覗いていた。

 やっぱり何かあったのだろうか。

 不安に駆られた僕達は、急いで廊下から教室を覗き込んだ。


「すごーい! 姫乃さん、こんなの作ってたの?」

「えへへ。凄いでしょ。頑張ったんだから!」


 不安は一瞬で霧散する。教室の隅。区切られたスペースの一角に立つありすちゃんは、作品の前で自慢げに胸を張っていた。


 彼女の横には作品が置かれていた。僕達が一緒に作ったフォトモザイクアート。

 それは巨大なありすちゃんの顔だった。

 笑顔のありすちゃんを何枚もの写真が複雑に表現している。遠くから見ればそれはなんとも可愛らしい笑顔の少女にしか見えなくて。けれど一枚一枚たくさんの人々の写真からできている。

 手伝った僕達は作品を既に知っている。それでも改めて教室に作品として飾られたそれは、完成品を初めてみるような新鮮な感動があった。


 たくさんの人がありすちゃんに話しかけていた。教室にやってきた一般客や、クラスメート達が、彼女の作品の前で足を止めていく。そのたびありすちゃんはここを頑張ったのよとか、徹夜をして仕上げたのよ、と一生懸命説明をしているのだった。

 皆の輪に馴染んでいる。

 ありすちゃんが、皆に笑顔で話しかけている。

 僕は何故だか少し泣きそうになった。廊下の壁にもたれ、はーっと長く息を吐く。


「よかった…………」


 手伝ってよかった。

 ありすちゃんに諦めさせないでよかった。

 彼女が笑っていてよかった。

 ジンと目が潤んでくる。溜息を吐いて、僕は何度も目を擦った。


「湊くんっ」


 不意に雫ちゃんが声を上げた。瞼を開けば、雫ちゃんが青い顔で廊下の先を見つめているのだ。

 その先を見れば、ありすちゃんが二人の女子に連れられてどこかへと行く後ろ姿が見える。友達と一緒に遊びに行くのかな、なんて悠長なことを言う僕に雫ちゃんは首を振った。


「あの子達お友達じゃないよ」

「え?」

「怖い顔してありすちゃんを引っ張ってたもの……」


 雫ちゃんはそう言うが早いかありすちゃん達の後を追いかけた。僕も慌てて彼女についていく。

 ありすちゃん達がやってきたのは校舎裏だった。なんともベタな呼び出し場所である。もう少し行けば部活展示を行っている部室棟があるが、この付近を通る人はあまりいなかった。


「ズルじゃんね」


 女子の声が聞こえてくる。どれだけ鈍感な人だって、敵意がこもっていると分かる剣呑な声だ。

 女子二人がありすちゃんを壁際に追い詰めていた。一触即発。今にも一方的ないじめがはじまりそうな空気。

 どうしよう、と雫ちゃんが体を震わせる。僕はしばし考え彼女にある頼み事をした。了承した彼女は急いでその場を離れる。その間にも女子達の刺々しい声はこちらまで聞こえていた。


「三日であんなの作れるわけないじゃん。ずっと前から準備してたんだ」

「ミカとかずーっと前から頑張って作ってたんだよ。なのに先生も皆も姫乃さんすごい姫乃さんすごいってそればっか。頑張ってた子に申し訳ないと思わないわけ?」

「お友達に協力してもらったの。手伝ってもらっちゃ駄目とは言われてないわ。ズルじゃないもの」


 ありすちゃんが反論しても彼女達は鼻で笑う。ズルいか正当かなど彼女達にとってはどうでもいいのだ。『姫乃さん』がやることは全てズルで、卑怯で、最低なことになる。どんなことであっても。


「友達ってイマジナリーフレンド? 実在するの? 実在するとしたらその子達も相当だよね。自分の作業ほっぽってさぁ。姫乃さんの友達とか、多分同類でしょ? 脳味噌が腐ってネジがボロボロ抜けてるタイプ」


 酷い言われようだ。思わず苦笑してしまう。

 さて、どうやってありすちゃんに加勢しようか……と僕は陰から飛び出す機会を伺った。そのとき、ハッキリとしたありすちゃんの否定が空気を切り裂く。


「私のお友達を馬鹿にしないで」


 ピシャリとした声に、彼女達だけでなく僕までも背筋が伸びた。

 ありすちゃんはまっすぐ少女達を睨みつけ、彼女にしては珍しい、鋭い声で言い返す。


「私はあなた達に馬鹿にされる資格があるのかもしれないわ。今まで散々おかしなことばかりしてきたものね。同じクラスにいたあなた達がどれだけ迷惑してきたか、最近になってようやく分かってきたの」

「……は? 資格? うける」

「でも私の友達は違う。皆はあなた達に迷惑をかけたことなんかない。あなた達に馬鹿にされる資格もない」

「つまり何が言いたいわけ?」

「私の友達に謝って」

「…………うっざ」


 彼女達が舌打ちをする。手を振り上げる。ありすちゃんは、向かってくる平手を避けようとせず、まっすぐ彼女達を睨みつける。

 その瞬間に僕は、大声で叫びながら飛び出した。


「コラーッ!」


 突然の声に彼女達が飛び跳ねる。そして、ズンズンと向かってくる僕を見てもう一度飛び上がった。サイズの合わないセクシーナース服を着た上級生男子が向かってくれば、多分誰だってそうなる。羞恥はなかった。むしろこの格好を利用してやろうという意地があった。

 僕はありすちゃんと少女二人の間に仁王立ちになった。威圧感を込めた目で彼女達を睨めば、その視線は笑えるほど左右に泳ぎ出す。


「こんな所で何してるの。いじめだとしたら、見過ごせないな」


 彼女達は互いに視線を合わせて脳内で会話する。やばい、何コイツ、目を合わせちゃ駄目なあれじゃない? そんな風に思っているのだろうことは、その表情から見て取れる。


「湊先輩……ど、どうしたの?」


 しかし彼女達はありすちゃんの言葉に目を吊り上げた。僕がありすちゃんの友達なのだと気が付いたらしい。

 僕は怯えるありすちゃんを背中に隠す。嘲笑交じりの嫌な視線をこれ以上彼女に浴びせたくなかった。


「ほらっ。友達もやっぱり変じゃん!」


 遺憾の意である。ま、否定はしない。否定したって今の格好じゃ信ぴょう性に欠ける。

 勢いづいた彼女達はギャアギャア僕達に文句を投げつける。ありすちゃんが必死に僕の服を引っ張ってここから離れるよう言った。だけど僕は動かなかった。


「君達は見た目で人を判断するの?」

「はぁ?」

「その人の一面だけを見て、全部を分かった気になるの?」

「急にしゃしゃり出てきたかと思ったら、あんた何言ってんの?」

「……昔のありすちゃんは確かに、君達にたくさん迷惑をかけてきたかもしれない。でも、最近の彼女は違う」


 ありすちゃんは変わった。自分のしていること、世間の常識、皆から向けられる目。そういうものに少しずつ気が付き始めている。それがよくとも、悪くとも。

 僕は背に回した手でありすちゃんの手を握った。彼女の手は一瞬固まった後、強く僕の手を握り返した。

 彼女の手は震えていた。


「今のありすちゃんのことをちゃんと見てほしいんだ」

「……………………」

「ありすちゃんが頑張って……たくさん努力して、少しずつ変わっている今の姿を君達に見てほしいんだよ」


 ありすちゃんは変わろうとしている。それを彼女達にも認めてほしい。

 過去の彼女が嫌いだからって今の彼女を嫌いにならないでほしい。彼女の努力を少しでいいから認めてほしい。

 変わりゆく彼女に一番怯えているのはありすちゃん自身だ。そんな彼女を僕達だけじゃなく、他の周りの子達にだって認めてもらいたい。


 湊先輩、とありすちゃんが呟く。振り返って見た彼女は、大きな目に涙を浮かべて僕を静かに見つめていた。


「…………っ意味分かんない!」


 けれど二人の少女に僕の気持ちは伝わらなかった。彼女達はより怒りに顔を赤く染め、声を荒げる。


「後々頑張れば、過去にどんなことをしてたって許されるわけ!? 私達が迷惑受けたことはなかったことにしろって!?」


 違う、と弁明しようとしても彼女達は聞いてくれない。彼女達は怒りを浮かべたまま僕の方へと詰め寄ってまた手を振り上げ。僕はせめてありすちゃんだけでも守ろうとぐっと歯を食いしばって。

 そして背後から突っ込んできた鷹さんが全てを有耶無耶にしていった。


「どーもぉ。ホークス編集プロダクションの者なんですけどぉ!」

「うわあっ!」


 突然飛び込んできた鷹さんがカメラを女子二人に構えた。レンズに彼女達のしかめっ面が反射した。

 突然の新たな登場人物に、僕以外の全員が虚を突かれたように動きを止めていた。


「お話中ごめんなさい。私、文化祭の取材をしに来てて。よかったらお話聞かせてくれない? リアルな学生さんの話を聞ければ、いい記事が書けると思うんだよね! うんうん皆仲良くお友達同士で文化祭回ってた感じ? いいねーっ、青春だ!」

「い、いや。私達友達じゃないし……」


 鷹さんの勢いに気圧され、二人の少女はじりじりと後ずさる。そんな彼女達の背をポンと叩き、両肩を抱くように後ろから顔を突き出したのは千紗ちゃんである。


「よお兄弟。いいねぇ、取材? あたしも混ぜてくれよ」

「っ!」


 言葉にならぬ悲鳴が上がった。二人分の視線がぎこちなく千紗ちゃんを見つめると、千紗ちゃんはニゴリと湿った泥濘のような、怪しい笑みを浮かべた。


「こんな所でピーチクパーチク随分姦しい声で騒いでくれるじゃねえか。近くの部室棟で映画研究部の上映会やってんだよ。あんまり騒がれると、映画が聞こえなくなっちまう」

「そ、そんなに声大きくはなかっ……」

「あぁ?」

「ひっ」


 怯える彼女達に千紗ちゃんはニタリと笑った。濁った笑みはどう見ても、これから彼女達をどこに売り飛ばそうか考えているようにしか見えない恐ろしさがある。

 カオスな状況にありすちゃんが目を白黒させていた。僕はこっそり片手にピースサインを作り、向こうの木陰に隠れている雫ちゃんに向ける。雫ちゃんは照れくさそうにちょっとだけピースをしてくれた。同じ場所に隠れているマスターとチョコもピースを返してくれた。

 鷹さんと千紗ちゃんをここに連れてきてもらうよう、雫ちゃんに頼んだのだ。

 状況判断が早い二人はニコニコ笑顔で少女達を追い詰める。ありすちゃんと彼女達の間の距離がじわじわ広がっていく。


「せっかくだ、映画でも見て行けよ。ちょうど入れ替えのタイミングで客すくねえんだ」

「わ、私達は」

「ここの高校生は映画も作っているの? 君達はどんな映画が好き? ジャンルは? 俳優は? 色々とお姉さんに教えてほしいな!」

「ご、ご……ごめんなさいっ!」


 逃げ去る彼女達はすっかり青い顔になっていた。おそらく文化祭中はもう、ありすちゃんに話しかけようとはしないだろう。

 「怖がらせすぎちゃったかな」と少し困った顔をする鷹さんに「ただ話しかけただけだろ」とおそらく恐怖心のほとんどを担っただろう千紗ちゃんが笑う。


「なあどうだ。迫力あったろ?」

「ヤクザみたいな顔してたよ。僕まで怖かった……」

「あたし主演の任侠映画も撮ったんだ。まだ役が抜けてなくてね。澤田に監修を頼んだから、本格的なんだぜ」

「それ以上適任な監修もいないと思う」

「んで、呼び付けといて何もメリットがないとは言わせないぜ?」

「う。えっと……なんか奢ろっか」

「ははっ! ジョーダン。つか、その格好見ただけでも十分笑えたからいいよ」

「この格好は記憶から消していただけると助かるんですけれども」

「一生忘れねえ」


 今暇なんだよ、と千紗ちゃんは僕達を映画研究部に誘った。僕はいまだ後ろで縮こまるありすちゃんの手を、安心させるようにそっと包み込む。


「僕達も行こうか」

「…………うん」


 映画研究部の中に僕達以外の人はいなかった。今の受付も千紗ちゃんが担当のようで、他の部員の姿もない。

 特別上映してやる、と千紗ちゃんが新しいDVDを入れた。青く爽やかな音楽が流れ出し、スクリーンいっぱいに雫ちゃんの顔が映された。


「きゃっ」


 それは文化祭のメイキング映像だった。

 難しい顔で空の写真を撮っている僕の横顔。一生懸命絵本を描いている雫ちゃん。顔中をクレヨンで汚して絵を描いているありすちゃん。そんな皆の姿が次々と流れていく。いつの間に撮ったんだと僕達は目を丸くした。


 あっという間に当日になった文化祭だけれど。改めて見てみれば、頑張って準備をしていたときの気持ちが蘇ってくる。恥ずかしさと感動の混じった照れ顔で、僕達はニコニコと笑いながら映像を眺めていた。

 皆で夜遅くまで残って写真を切り貼りしていたときのシーンに目を細める。ペンキを持って廊下を小走りしていた雫ちゃんがすっ転んでペンキ塗れになったシーンで思わず笑う。フォトアートが完成して皆で喜び合っているシーンで思わず涙ぐむ。


 青春だねぇ、と鷹さんが小さく呟いた。楽しかったなぁ、と僕は思う。

 今年の文化祭のことを。きっと僕は、一生忘れない。


「あ!」


 上映が終わった頃。突然ありすちゃんが大声を上げた。

 彼女は椅子から身を乗り出して、僕の眼前に携帯を突きつける。


「フォトコンテストの結果が出たって!」

「本当!?」


 ガタガタと椅子を弾き飛ばして彼女の携帯を覗き込んだ。『第××回フォトコンテスト結果発表』と書かれたたった一つのリンクが僕達の胸にずしっと重くのしかかってくる。

 ゴクリと喉を鳴らしたのはどちらだろう。僕はおそるおそる、リンク先を指で叩いた。

 大賞から見るのが怖かった僕達は、ページの下部から結果を眺めていく。いつの間にか皆も、僕達の後ろから固唾をのんで結果を見守っていた。


 応募賞にはどちらの名前も載っていなかった。

 奨励賞には伊瀬湊、と僕の名前が書かれている。

 その上。優秀賞に書かれている名前は。姫乃ありす……。


「……………………」


 ありすちゃんはトンと青い顔で僕を見つめた。ちっとも嬉しそうじゃない。どころか彼女の目は今にも涙が零れそうなほど悲しみに潤んでいた。

 僕がじっと彼女の顔を見つめれば。彼女は咄嗟に肩を震わせて俯いてしまう。僕は片頬を持ち上げるように笑って、そんな彼女のピンク色の頭をぐしゃぐしゃと思いっきり撫でた。


「あわーっ!」

「あははっ。……あークソッ。負けちゃったなぁ。悔しい!」

「み、み、湊、せ、せ、せんぱ」

「でも、奨励賞だぞ。ありすちゃんは優秀賞! ははっ、凄い。北高校から、二位と三位のどっちも出るなんて!」

「目が回るぅ」


 それは本心の言葉だった。悔しさ半分、嬉しさ半分。何とも形容しがたい気持ちが胸の奥からぐあっと込み上げて、どうにもたまらなかった。

 思わずぽとっと零れたありすちゃんの涙を拭う。僕はふにふにとありすちゃんの頬を摘まんで、彼女よりもずっと明るい笑顔を浮かべた。


「そんな悲しい顔しないでよ。嬉しくないの?」

「う、嬉しいに決まってるわっ」

「じゃあ喜んでよ。僕の為にも」


 ありすちゃんの写真が嫌いなわけじゃない。今も悔しいし、嫉妬しているけれど、同時に彼女が優秀賞を取ってくれたことは本当に嬉しかった。

 彼女はしばし沈黙していたけれど。そのうち唇がふにゃふにゃと緩みはじめる。引きつった不格好な笑い声をあげて、ありすちゃんは静かに喜びはじめた。


「やった……。優秀賞よ。へへ」

「二番なんだよありすちゃん。応募は何百もあったのに。狭き門をくぐり抜けたんだ」

「へへっ。ふへへへ。ふふふっ。み、湊先輩も三番」

「……そうだよね。三番。えっ、三番って結構な順位だよね」

「凄すぎるわ。凄くて凄くて…………ええと、凄いわ!」

「だよね!」


 バンザーイ! と僕達は思わず抱きしめ合って喜んだ。お互いの体を抱えてくるくる回る僕達を、スクリーンの青いライトが祝福のようにキラキラと光らせる。

 ありすちゃんのピンク色の髪がふわふわと揺れている。その毛先を指で解してやりながら、僕は彼女に言った。


「ねえありすちゃん。本気で写真家を目指してみない?」


 ありすちゃんは目をぱちくりさせた。


「写真家?」

「将来の夢が見つからないって言ってたろう? 君は写真の才能がある。撮ることが楽しいなら、そういう道もありだと思うんだ」

「…………私にできるかしら」

「できるさ」


 自信がなさそうなありすちゃんに、僕は力強く答えた。彼女の両手を優しく包みまっすぐに目を見つめる。

 ほんの少し、昔の記憶が蘇る。ありすちゃんとはじめて出会ったときのこと。写真を撮っていた僕に話しかけてくれた彼女。怪物を撮りたいという僕の夢を応援してくれた彼女。

 君ははじめて会ったとき、僕の夢を応援してくれた。皆から馬鹿にされていた僕の夢を。

 それがどんなに嬉しかったか……。


「今度は僕が君の夢を応援する番だ」


 魔法少女の物語にはもうすぐ終わりが訪れる。

 世界を救った君が、その後どこへ進めばいいのか分からなくなってしまったら、そのときは僕が彼女を引っ張っていってやろうと思うのだ。

 ありすちゃんは僕の大事な友達だから。


 ありすちゃんはすっかり元の元気を取り戻していた。超ビッグでスーパーなカメラマンになるのよとふんふん鼻息を鳴らして、サイトの優秀賞という文字にニコニコと笑う。


「そういえば最優秀賞はどんな作品なのかしら」

「ああ、そうだね。……うわっ上手い。夕日ってこんなにドラマチックに撮れるもんなの?」

「やっぱり一番の人は違うわ。ええと、お名前は…………ん?」


 そこに書かれていたのは、我が校写真部の部長の名前だった。

 さっき教室でラップバトルをしている姿を見かけたあの部長だった。


「…………あははっ!」


 僕とありすちゃんは顔を見合わせ、同時に噴き出した。ちゃっかり全てを取っていった部長に、僕の悩みもありすちゃんの悩みも飛んで行ってしまった。ああもう、あの人ったら!

 次は絶対負けないんだから、とありすちゃんは力強く言った。僕も彼女の隣でニコニコと頷く。


「皆が感動する写真を撮ってやるのよ」






 文化祭一日目が終わる、その数分前。

 喫茶店が終わり着替えた僕は、教室に戻る前にもう一度ありすちゃんの教室に寄っていた。

 彼女の作品をちゃんと見ていなかったから。製作中の大変だった時間を思い出しながら、しみじみ微笑ましい気持ちで作品を見つめていく。

 遠くから見ると大きなありすちゃんの顔でも。一枚一枚は日常風景を切り取った写真でしかない。たくさんの思い出が詰まった写真はどれも心が温かくなるものばかりだ。


「ん?」


 ふと違和感を覚えた。


 写真の数ヵ所。ピンク色でなければならない部分に、ピンクが入っていない写真が貼られていたのだ。

 貼られているのは僕や雫ちゃんや千紗ちゃんが映っている写真である。誰もピンク色を持っている人はいない。ピンクがそこにない。本来ならありすちゃんがそこにいるべきなのに。

 そこにいるはずのありすちゃんが消えていた。


「……………………貼り間違いかな」


 急いでいた。貼り間違いもあるだろう。数ヵ所程度だから、全体にさほど影響もない。

 その写真にはありすちゃんが写っていたような気がしたけれど。それもきっと、僕の勘違いだろう。

 チャイムが鳴ってハッとする。教室の片付けを手伝わなければいけなかった。

 僕は一年生の教室を出て、自分の教室へと急ぎ足で戻った。


 巨大なありすちゃんの顔を描いたフォトアート。

 この作品が綺麗にありすちゃんの顔を描いていたのは、この日が最後だった。

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