第55話 お悩み事はございませんか?
パシャリ、というシャッター音が部屋に響く。パソコンで写真の編集をしていた父さんが振り返り、部屋の入口でカメラを手にむくれた顔をする僕を見て眼鏡を持ち上げる。
「なんだ、遊びに来たのか」
「別にぃー?」
間延びした返事をして僕は部屋の隅っこに座り込む。僕よりも背が高い本棚にもたれて、なんとはなしにそこから一冊本を取りだした。都会の街並みを撮影した写真集だ。奥付には父さんの名前が載っていた。
父さんはカメラマンの仕事をしている。雑誌の表紙写真や風景画、ブライダルの写真やモデルの写真など、それなりに活躍している人だ。僕が写真に憧れるきっかけも、父さんの影響が大きかった。
父さんの部屋は他の部屋より少し薄暗い。それは壁に大量に貼られた写真や、本棚にぎゅうぎゅうに詰まっている写真集のせいかもしれない。物がごちゃついているこの部屋を母さんは掃除がしにくいと言うけれど、この空間が僕は嫌いじゃなかった。子供のときからたまにこの部屋に遊びに来ては、父さんの写真集を眺めるのが好きだった。
「やけに不機嫌な顔しちゃって」
「そんな顔してないし」
「嘘つけよ。そうだ、文化祭の写真はどうなんだ? 撮ってるんだろ色々」
見せてみなさいよ、と父さんは仕事の手を止めて僕に振り返る。僕は無言でカメラを突き出した。
父さんは子供っぽく椅子をくるくる回しながら楽しそうに僕の写真を見ていった。「雰囲気を捕らえるのが上手すぎる」「天才」「神の子か……?」と大げさなくらい褒めてくるものだから、膨れていた僕の頬はじょじょに萎んでいく。
「特にこれなんか最高」
「……それ撮ったの僕じゃない」
「あやぁ」
父さんはワザとらしく天井を見上げて調子の外れた鼻歌を歌った。何も誤魔化せてはいなかった。
カメラに表示されているのはありすちゃんが撮った写真だった。僕と千紗ちゃんと雫ちゃんが笑顔で写っている写真。
その写真を撮られたときは笑えていたのにな、と頭の片隅に思いながら口端を撫でた。薄い唇は自分でも呆れるくらいへの字を描いている。
「誰が撮ったんだ?」
「後輩の子」
「写真部の?」
「いいや全然。それ、その子がはじめて撮った写真なんだ。カメラの使い方も簡単にしか教えてないんだけど」
「嫉妬したんだな!」
うっと僕は喉を詰まらせる。息子の不機嫌さに納得した父さんはまたくるりと椅子を回した。
僕はガシガシと頭を掻いて盛大に溜息を吐いた。抱えていた足を投げ出し、乱暴に言葉を床にぶつける。
「……そうだよ。悔しい。嫉妬してる」
「うんうん」
「年下の初心者に追い越されて嫉妬した。写真歴は僕の方がずっと長いのに。正直、その写真を見たときにムカついたんだ。最悪だろ。僕はその子の写真を上手く褒めてあげることもできなかった」
「最悪だな」
父さんはドストレートに僕の胸を抉る。もう少し息子に対してデリカシーってもんを持ってもいいんじゃないか?
けれどふとその顔は真剣みを帯びて、父親の顔付きになる。整えられたあごひでを撫でて父さんは低い声をくゆらせた。
「お前の写真だって下手じゃない。世辞でもなんでもなく、俺はそう思ってるよ」
「でもさ…………」
「最近のなんて大したもんじゃないか。去年よりも遥かに成長してる」
「え。ほ、ほんと?」
「ああ。撮りたいものができれば、こういうのは自然と上手くなるもんだからなぁ。何か興味のある被写体でもできたのか?」
僕は曖昧に微笑んだ。大好きな怪物を撮れるようになったからかな、なんて言えやしないのだ。
長年恋焦がれていた怪物に会ってからそれまで以上に写真を撮るようになった。怪物の写真がパンパンに収まった写真データが、パソコンのフォルダの奥に大量に隠されている。
ちなみにこの間家に遊びに来た国光に「エロ画像でも隠してんのかよ」とうっかり見つかりそうになったが全力で殴って止めた。僕の拳と国光の両頬を犠牲に、魔法少女の情報漏洩は守られたのだった。
「父さんも、面白いものをたくさん撮ったから上手くなったんだぞ。ツチノコとか、宇宙人とか、ネッシーとか」
「へぇ、すごいね」
「本当なんだからな。故郷の村の奥に隠された洞窟でツチノコの巣を発見したり……幼馴染と遊んでたら空に巨大な宇宙船が現れたり……クラスの男子全員で湖に行ってネッシーと戦ったり」
父さんすげー、と僕は棒読みで言いながら手元の写真集を捲る。一昨日ロンドンに行って撮ったと言っていた写真が載っていた。息子である僕の目から見ても、それは今の僕には到底撮れやしない美しい写真だった。
「お前の写真はいい写真だよ」
「うん」
「これからも練習していけば、今以上に上手くなるさ」
「うん」
「悩みがあるなら、俺でも母さんでも、先生や友人でも……。色々な人に相談してみるといいさ」
「うん」
僕はありがと、と笑った。
父さんは僕の癖っ毛の髪をくしゃくしゃと乱暴に撫で、白い歯を見せて笑うのだ。
心に満ちていたモヤが少しだけ晴れた気がした。
「黒沼さんには情熱を注いでいる趣味ってありますか」
「…………セックス?」
黒沼さんは口からぼわっと紫煙を吐き出して言った。青い煙が隣のベランダの柵からふらふらと零れて、夜の黒色に溶けていく。
そういうんじゃなくてぇー、と僕は鼻にしわを寄せて手すりに頬をくっつけた。冷たい鉄の臭いが肌に染みた。
「学生時代になかったんですか? 部活とか。熱意をもって取り組んでた趣味」
色んな人に相談してみな、という父さんのアドバイスを僕は早速実行した。
ベランダで煙草を吸っていた黒沼さんは、僕の唐突な質問に不思議そうな顔をしながらも答えてくれる。
「ん。どうだろ。……あったとして、それが何?」
「もしもですよ。例えば新しく入ってきた新入部員が、自分より遥かに才能があったらどうします?」
「嫌だなーって思います」
「嫌だなーって」
「困っちゃうな……。校舎裏に呼び出しちゃうかもな……。多分翌日にはその子退部しちゃうな……」
「どんな学生時代送ってたんですか?」
黒沼さんが息を吸えば煙草の先端が強い赤色にパチパチと燃える。
彼の声は甘ったるく。尾を引くような笑い声がその唇から零れた。
「それって君とありすちゃんのこと?」
「えあっ」
「なんだその声」
「どうして分かるんですか……」
「あの反応見てれば普通に分かるだろ。警察なめんなよ」
あなたが特別敏いんじゃ? と言いながらもちょっぴり不安になった。ありすちゃんに嫉妬していたことを僕は必死に隠していたつもりだったのだけれど。少なくとも女の子達には気付かれていない……と思いたい。
青春だな、と黒沼さんはしみじみした声で言った。煙草の煙を深く肺に吸い込み、透明な煙だけを吐く。
「湊くんは案外青春してるよな。恋の悩みに、将来の悩み。いいね、十七歳って感じ」
「……大人になったらこんなことで悩まなくなりますか?」
「なくならないよ。いつまでも」
「それは。えと。嫌だなーって思います」
僕は顔をしかめた。黒沼さんは笑った。彼の肌に這うタトゥーが、筋肉の動きに合わせて震えた。
「大人になっても悩みは同じさ。ただちょっぴり悩みの解消方法が増えるだけ」
「例えば?」
「…………セッ」
「だからさぁーっ!」
「ハハ、ハ」
黒沼さんは短くなった吸い殻を灰皿に押し付ける。そしてベランダからぐっと身を乗り出すと、手すりにぶら下がっていた僕の腕を引っ張った。
目を丸くする僕の耳元に彼の口が近付く。彼の口から吐かれた紫煙が、耳元をくすぐった。
「悩み事があるなら、遊んで発散させちゃおうぜ」
その声は酷く子供っぽく無邪気な声で、それでいて酷く大人びた甘い声だった。
「あーに。お前ら、悩み相談しにガールズバー来たってわけ」
「そういうことだね」
「めんどくせっ」
千紗ちゃんはジャーキーをガジガジ噛みながら言った。メニュー表に千円と書かれていたジャーキーである。コンビニでまったく同じ製品を百円ほどで見かけたことがあった。
僕が黒沼さんに連れられてやってきたのはガールズバーだった。
高校生の僕には馴染みのない場所……と言いたいところだけれどこの店は例外だ。『ラブドラッグ』という名前のこの店は千紗ちゃんが働いているお店なのだ。前にも一度来て酒を飲まされ、酷い二日酔いになった覚えがある。
ほぼ下着が見えている過激な衣装を着た女の子達がカウンター内で働いている。その中には明らかに十八歳以下にしか見えない子達が何人もいた。店の奥には対面接待可能なソファー席もあり、厳密にここがガールズバーと言えるかは怪しいものだった。
黒沼さんが何か言うんじゃないかとハラハラして見れば、彼は一番胸が大きく露出した子をガン見しているだけだった。警察やめちまえ。
「お前が警察だって店長にバレたらあたしが叱られるんだわ」
「まあまあ。こういう所でしか話せない、エグイ悩みもあるでしょ」
黒沼さんは笑って千紗ちゃんの手をぎゅっと包みこんだ。数枚の万札が彼女の手に握られる。千紗ちゃんはパチリと目を丸くしたあと、一転して明るい笑顔を浮かべ「VIP席へどうぞぉ」と僕達を奥のソファー席に案内した。
奥まったこの席はカウンターから見えづらい場所にある。僕達がどんな会話をしていても他のお客さんからは気付かれにくいのだ。
黒沼さんは席についてすぐ、もう一人呼ばれた女の子と楽しそうに話している。何だかんだ言って自分が遊びに来たかっただけなんじゃないかと僕はジャーキーをガジガジ噛みながら彼を睨みつけた。
「悩みってのはあの女と関係についてか?」
「……っと、うん。まあ、そうだね」
僕の隣に座った千紗ちゃんは高い酒を飲みながら言った。とりあえず頷いておく。悩みは将来のことについてというのもあったけれど、まさか千紗ちゃんを前にして「ありすちゃんの写真技術に嫉妬してるんだ」とは言えなかった。祥子さんとのことについて悩んでいるのも本当だし。
僕は祥子さんとの悩みについて話した。彼女と今後どう接していけばいいか分からないこと。好きとはいってもそれが恋愛感情かは分からず、付き合うとか言われても正直今はそんなことを考えている余裕がないこと……。
千紗ちゃんはドリンクをぐいぐい頼みぐいぐい飲みながら話を聞いていたけれど、僕が話し終えると同時にコップをテーブルに叩きつけ、鋭い目でこちらをジロリと睨む。
「お前最低」
「えっ」
「ハッキリしない態度でいつまでもうだうだしてんじゃねえよ。都合よく言ってるけどそりゃあの祥子って女をキープ扱いしてるってことだろ?」
「僕は別にそんなつもりじゃ」
「つもりじゃなくても実際そうなってんだろうが。被害者ぶってんじゃねえよ」
「うっ」
鋭い指摘がグサグサと刺さる。直球のダメージに呻く僕に、千紗ちゃんはジャーキーを噛みながら容赦ない指摘を続ける。
「曖昧な態度ばっか取って、相手の好意を否定しない自分のことを、優しい男だとでも? 笑わせる。生殺しっつうんだよそういうのは。どっちつかずが一番残酷なんだよ。断るにしろ、受け入れるにしろ、ハッキリしやがれ。もう十七だろお前。いつまでも自我を持ってない赤ん坊じゃねえんだぞこの意気地なしが」
アルコールが入った千紗ちゃんの言葉はマシンガンのように僕を撃ち抜く。流石に可哀想に思った黒沼さんが止めてくれるまで、千紗ちゃんは容赦なく僕を撃ち続けた。僕はちょっと泣いた。
ひとしきり話してスッキリしたのだろう。千紗ちゃんは満足そうに酒を飲み干し、空になったグラスをご機嫌に揺らして笑った。
「ま、聞いてた感じじゃあ別に金目当てってわけじゃなさそうだったけど。その分お前に対する執着結構やばめだったよなあの女。湊お前気を付けろよ?」
「えっ、何が?」
「そういう態度を取り続けてたらそのうち刺されるぞお前」
そういう態度って、と言いながら僕はゾッとして胸を押さえた。メンヘラ製造機っぽいし、と続ける千紗ちゃんに黒沼さんも納得したように頷いていた。なんだかよく分からない言葉だけれどいい意味でないことは分かる。
「女関係には気を付けろよ少年」
「黒沼さんが言うと説得力ありますね……」
「そうそう。何もお前のことが好きなのは、祥子ってやつだけじゃねえんだから」
「え?」
千紗ちゃんの言葉に目を丸くすると同時、彼女の携帯が短い通知音を鳴らした。彼女は画面を一瞥し、残っていた酒を一気に飲み干して席を立つ。
「悪いな、指名客が来店したみたいだから。こっちには別の奴らでも寄越しとくよ」
ドリンクごちそうさまです、と彼女は営業スマイルでグラスをコツンとぶつけて席を立つ。ソファー席にはすぐさま別の女の子がやってきてニコニコと座った。
僕はなんとなく千紗ちゃんの指名客というのが気になって彼女の背中を目で追った。入口に向かう千紗ちゃん。扉が開いて、一人のお客が店内に現れる。
ザッと僕は勢いよくソファーに隠れた。驚いた顔をする女の子達も気にせず、だらっと冷や汗をかいて店に入ってきたその人を席の隙間から凝視する。
雫ちゃんだった。
「ほ、本当にここ、わたしが来ても大丈夫……?」
「年確もゆるいんだから構わねえよ。ドリンク代くらいは入れてけよ」
「う、うん」
雫ちゃんは店内を興味半分、怖さ半分、といった目で眺めてカウンター席にこわごわと座る。黒いワンピースの裾が丸椅子からサラリと零れる。腕を擦りながら、彼女は酷く落ち着かない様子で前髪を指でくるくるいじっていた。
「飲み物は?」
「えと、ウーロン茶で」
「ウーロンハイな」
「いじめられてる……」
店内に流れる音楽はちょうどバラードに変わり、カウンターの会話も少しだけ聞き取れた。雫ちゃんはドリンクを一口飲んで息を吐き、「相談したいことがあるんだって?」という千紗ちゃんの言葉に強く頷いた。
「わたしを女にしてほしいの!」
「ブッ」
僕は飲んでいたドリンクを思い切り噴き出した。ゲホゲホと咳き込む僕を、隣に座る女の子が怪訝な顔で見つめている。顎に垂れる水滴を手の甲で拭う。ツンと涙が滲んだ目をそっとカウンターに戻せば、幸いにも雫ちゃんはこちらを見ることはなく、真剣な顔で千紗ちゃんを見つめていた。
「なんだって?」
「綺麗な女になりたいの!」
「あー……もう少し詳しく言って」
「美人になりたいの。お化粧とか、ファッションとか、そういうのを学びたくて。さっきまで家で練習してたんだけどお母さんも妹もメイクには疎いから。千紗ちゃんならきっとそういうのに詳しいんじゃないかなって思って……」
「わざわざこんな所まで来て聞きたいってなると相当なもんだな。別にいいけどよ。講師料はもらうからな」
「う、うん。頑張ります」
「だけど急にどうしたってんだ?」
「湊くんが好きなの」
ブハッ、と今度は僕も黒沼さんも同時に噴き出した。左右の女の子達はもはやドン引いている。黒沼さんは顎からボタボタとドリンクを零しながら、真っ赤な顔で僕の背を叩く。
顔が熱い。誤魔化すようにドリンクを飲んだ。甘いオレンジジュースの味が喉に絡んで、ゲホッと残った咳を吐き出した。
「綺麗になって、湊くんに好きになってもらいたいの。今のわたしじゃ彼の眼中にも入らないと思うから……」
「お前ずっとあいつのこと好きだったもんな」
「お、大きな声で言わないでっ! 恥ずかしい……」
知ってた? と黒沼さんが小声で僕に尋ねた。ノーコメントを返す。それでも僕の頭に浮かんだのは、話すときによく頬を真っ赤に染めている雫ちゃんの顔だった。
別に鈍い男じゃないつもりだ。彼女が僕に好意を寄せているんじゃないかとはずっと思っていた。ただちゃんと確認したことはなかった。「君は僕のことが好きなの?」なんてそんな自意識過剰な発言、恥ずかしくて言えるわけがないだろ。
「性格が悪いって言われるかもしれないけどね。わたし、祥子さんって人がちょっとだけ嫌いなの」
「ちょっとかぁ?」
「…………。だって、あの人急にやってきたじゃない。それなのに湊くんの隣で、我が物顔でさ」
雫ちゃんは指でグラスをつっと撫でた。綺麗に整えた爪を噛み、眼鏡の奥の目を細くする。席の隙間からそっと様子を伺っていた僕は、そんな雫ちゃんの様子を少し不思議に思った。
千紗ちゃんは雫ちゃんにいくつかのアドバイスをしていた。おすすめのヘアオイルやフェイスマスク、人気のメイク動画などなど。雫ちゃんはふんふん真剣な顔でメモを取っていく。
そうして一通りのレッスンが終わると雫ちゃんは千紗ちゃんにお金を渡し、礼もそこそこに帰っていった。
彼女が帰ってすぐ千紗ちゃんはソファー席にやってきた。深く背を埋めて唇を尖らせている僕の顔を覗き込み、子供っぽい顔で笑って言う。
「言っただろ? お前のことを好きな奴は他にもいるって」
「…………そうだね」
モテモテだね、と黒沼さんが笑顔で言った。僕は苦笑して天井のキラキラしい照明を見上げた。
悩み事を相談しに来たはずなのに。なんだか考えなければならないことが増えただけのような気がする。
色んな人に話してみたって悩みは逆に増えていくばかりで。僕の心は重くなる一方だった。
青春してるねと言われても、現在進行形で悩んでいる僕にはその言葉はあまり理解できなくて。ただモヤモヤとした形のない不安が心に広がっていくばかりで。それを振り払おうとするかのように、僕は何枚も、何枚も写真を撮った。
それから数週間が過ぎても、悩みが解決に向かうことはなかったけれど……。
「文化祭あと少しですねぇ。部長のとこは何やるんでしたっけ?」
「ラップバトルだYO」
「へー。三年生の教室からラップが聞こえてくると思ったら」
「湊くんのところは?」
「男装女装コスプレ喫茶です」
「よく申請が通ったものだなぁ」
バニーガールとチャイナ服で悩んでて。ナースもいいんじゃないか? なんて会話をしながら僕達は部室の飾りに使うお花をくしゃくしゃと広げていた。
文化祭まで残り一週間。写真部の展示準備も佳境を迎えている。普段あまり部室に来ない部員達もこのときばかりは集合し、重い台を運んだり壁に花を飾り付けたりと忙しそうに働いていた。
文化祭まであと少し。学校中が浮足立った空気に包まれている。当日はどこを回ろうか友人と話したり、どこそこの展示が面白そうだという話題でいつも教室が沸いている。
僕も国光と涼からそれぞれの部活の出し物に招待を受けていた。たまに廊下では千紗ちゃん含む映画研究部が映画を撮影しているのを見かけるし、鷹さんからは文化祭を取材したいと連絡があった。さっき祥子さんから当日は一緒に回らないかって連絡が来ていたっけ。
文化祭が近付くこの雰囲気は、やっぱり気分がわくわくしてくる。
「あ、そうだ湊くん。写真屋に行ってきてくれないかね」
「現像ですか?」
「そうそう。昨日現像を頼んでいたやつを取りに行かないとでね」
デジタルカメラで撮った写真のプリントは、自宅やらコンビニでもできる。しかし部員の中には「逆に味が出るから」とフィルムカメラで写真を撮ることにこだわる人もいた。写真部はいつもフィルムデータの現像を、学校近くの写真屋にお願いしているのだ。
歴史が長い写真屋の店内は、どこか懐かしく埃っぽい匂いがする。
店主のおじいさんは常連である僕の顔を見るとニッコリ微笑み、名前を言う前に奥から写真が入った封筒を持ってきてくれた。
礼を言い店を出ようとしたとき、ベルが鳴ったと思えば、チョコを抱えたありすちゃんが入ってくる。彼女は僕の姿を認めるとピンク色の目をツヤツヤと光らせて、奇遇ねと笑みを浮かべた。
「写真を取りにきたわ、おじいさん!」
彼女はピンク色の髪をふわふわと揺らしてカウンターに飛びつく。取ってきてもらった封筒を指で開き、束になった写真を見て嬉しそうに笑っていた。
ありすちゃんも写真を? と尋ねれば、彼女は大きく頭を振って頷く。
「せっかく撮り方を教えてもらったから。忘れないうちにいっぱい練習しておこうと思って。使い捨てカメラを買って、色々撮ってるの」
ほら、とありすちゃんは現像されたてほやほやの写真を見せてくる。いつの間に撮っていたのやら。街並みやらお花やらチョコやら僕達の顔やらが映った写真がズラリと並んでいた。僕は乾いた口内を舌で舐めて、すごいねと微笑んだ。
どれ一つとして失敗している写真はない。どれもこれも、そのまま写真集として販売できそうなほど味のある写真だった。
「実は先輩が言ってたフォトコンテストに私も出してみたの」
「えっ……。あ、そうなんだ」
「気になって調べてみたら応募締め切りギリギリだったから。結果はいつ出るんだったかしら?」
「小さいコンテストだからそんなにかからないはず……。確か、ちょうど文化祭当日くらいだったかな」
「じゃあもうすぐ。ふふ、楽しみね!」
「うん…………」
「写真を撮るのがこんなに楽しいなんて知らなかったわ」
彼女はほろほろと笑う。本当に楽しそうな笑みだった。店内に貼られた写真を見て素敵だわとうっとりと顔をとろけさせたり、アルバイト募集のポスターを真剣な目で眺めたりしている。
「バイトするかい? いつでも歓迎するよ。高齢の一人経営だと、何かと人手がほしくてね」
「素敵。あ、でも髪色が自由なところがいいのだけれど……」
「真面目に仕事をしてくれるならどんな人でも構わないよ。ピアスだろうと入れ墨があろうと、過去にどんな犯罪を犯していようが、戸籍がなかろうが、記憶喪失をしていようが。どんな人でもうぇるかむだよ」
「それは流石にもう少し気にした方がいいと思うわね!」
ありすちゃんは店主さんと仲良さげに話していた。それから写真の一枚を取り出して、僕の肩にぼすんと頭をぶつけてくる。
「湊先輩どぉ? 文化祭の展示物。自分の似顔絵を描くことにしたの」
彼女が見せてきた写真には、大きな画用紙いっぱいに描かれたありすちゃんの似顔絵らしきものがあった。ピンク色のクレヨンでぐっちゃぐちゃに塗り潰したみたいな、幼稚園児が描くような女の子の顔の輪郭。それを見るとなんだか妙に気が抜けて、僕はふっと噴き出して彼女の頭を撫でた。
「うん。可愛い可愛い」
「やった! へへ…………」
「髪の毛から描いてるんだ? 顔は最後に描くの?」
「なんかねぇ、自分の顔って意外と上手く捉えられなくて」
「ふぅん」
「私の顔はもっと可愛い気がする……」
「うん、ありすちゃんは可愛いからね。上手く描くの難しいよね」
「本当はもっと宗教画みたいに凝ったものを描こうと思ったの。でもやっぱり時間に限りがあるから。こういうのが文化祭の展示物としては一番適切かなって」
ありすちゃんは匠の顔で唇を尖らせながら言った。あどけない絵のタッチを微笑ましく思うと同時に、僕は彼女のどこかしっかりとした口調に違和感を感じていた。
副作用によってじわじわと現れていく彼女の『普通』の部分が、言葉の節々に滲んでいるのを感じた。
写真屋を出るとありすちゃんは僕の手を握ってきた。不思議に思いながら握り返すと、彼女は一瞬ぎこちなく視線を泳がせてから、ほっと安堵の息を吐いてえへえへと笑った。
文化祭の準備がどこまで進んでいるか、なんて話をしながら学校に戻る。ありすちゃんはいつもより口数が多く、それでいて話すたびにちらちらと僕の顔を伺うように上目がちになっていた。それが何とも不思議でニコッと微笑んでみれば、やっぱり嬉しそうな顔をする。
「どうかしたの?」
「ん。ん-…………湊先輩あのね。お友達と準備するのは楽しい?」
「楽しいよ。遅くまで残って、一緒に盛り上がれるから」
「そうよね。うん。へへ……そっか」
不思議な会話に首を傾げながらも、そうしているうちに校門が見えてきた。
僕達はまだ手を繋いだままだ。女の子と手を繋いでいるというよりは子供と手を繋いでいるような感覚だった。ありすちゃんも多分そうだろう。
だけど傍から見ると誤解される光景であることは間違いない。知り合いに見られたら面倒だなぁ。国光とか涼とか、特に祥子さんとか……。
「あれ?」
と、不意に門から出てきた女子生徒が僕達を見て声を上げた。ギクリとしたのも束の間、近付いてくるその子が雫ちゃんだということに気が付いた。
「二人共まだ残ってたんだ」
「雫ちゃんもまだ準備中?」
「うん。もう少しかかりそうだから、図書室の皆にお菓子でも買っていこうかなって」
学校近くにはスーパーがある。もうすっかり暗くなった空を見上げ、僕もついて行くよと彼女に告げた。先に戻って絵の続きを頑張るというありすちゃんを帰すと、僕と雫ちゃんの二人っきりになった。
途端にふと、沈黙が訪れる。
「……………………」
そうだ。彼女、僕のことが好きなんだっけ。
「い、行こうか」
「うん…………」
ただ暗い道を女の子一人で歩かせるわけにはいかないと申し出ただけだったのだけれど。今更なんとなく気まずくなって、僕は彼女を横目にちらちらと見つめた。長い髪の隙間から覗く耳が、ほんのりと赤く染まっている。
「そ、そういえば湊くんは、文化祭ずっと部活の方にいるの?」
「教室と部活を行き来って感じかなぁ」
「忙しそうだね……」
「でも部活の方は二日目にちょこっと行けばいいだけだし。教室も常にいるってわけじゃないから。そこそこ余裕はあるよ」
「……も、もしなんだけど。休憩時間に一緒に回れたりしない、かな?」
「え」
僕達の間に夜風が泳ぐ。ふわりとなびいた彼女の髪の毛から、優しいシャンプーの香りがそよいだ。
友達と回らなくていいの、と聞けば彼女は無言で頷いた。僕は唇を閉じて黙った。彼女も何も言わず、地面を靴のつま先で擦るように歩いた。
「それとも、もう誰かと回る約束しちゃったとか?」
「……………………」
頬が熱くなっているのを触れる風の冷たさで知る。彼女の誘いの意味を分からないフリはできなかった。僕が今からする返事は彼女にとって大きな意味を持つのだろうと思う。
僕は少しの間空を見上げ、地面を見下ろし、そして意を決して雫ちゃんへと顔を向けた。
その視界に、後ろからにょきっと突き出された腕が映る。
「お悩み事はございませんか?」
うわっ、と僕と雫ちゃんは揃って声を上げた。
いつの間にか背後に見知らぬおじさんが立っていた。ニコニコと笑顔の彼は僕達に薄いチラシを差し出している。ぺらぺらと風に吹かれるそれを見れば、『迷えるあなたへ』という何とも妙な文句が書かれている。
黎明の乙女だ、と僕と雫ちゃんは無言で視線を合わせた。
特には、と不愛想に言って彼の横を通り過ぎようとする。けれどおじさんは構わず僕の前に立ち塞がると、無理矢理僕達にチラシを握らせてきた。
「嘘をついてはいけません。人間は誰しも、悩みが尽きぬものでしょう」
「ちょっと、どいてください。誰ですかあなた」
「大丈夫。我らが聖母様はどんな悩みも取り除いてくださいます。学業の悩み、将来の悩み、恋の悩み。どんな願いでも我らが神に祈れば聞き届けられるのですから」
「…………雫ちゃん行こ!」
少しでも隙を見せれば終わりだ。僕は雫ちゃんの手を掴んで走りだした。夜道を駆け抜けスーパーの前まで来たところで振り向き、彼の姿が見えなくなっていることに胸を撫でおろす。
隣で雫ちゃんも息を整えていた。火照った頬に横髪が張り付いている。無意識に伸ばした指でそれを払えば、ビクッと驚いた顔でこちらを見た彼女が更に顔を赤らめるものだから、我に返る。
「ごめんっ」
「う、ううん」
嫌な人に会っちゃったね、と半笑いを浮かべながら僕はチラシを破こうと指で摘まむ。そしてふと、さっき聞いたばかりの言葉を思い返した。
悩みはありませんか? 将来の悩み。我らが聖母様は、どんな悩みも取り除いてくださいます。
「……………………」
今にも破こうとしていたチラシを、僕はそっと折り畳んで鞄の奥にしまった。
だって、そう。近くにゴミ箱が見当たらなかったから……。
「……早く買って行こうか」
「……うん」
僕達はさっきまでのことを忘れたみたいに笑ってスーパーに入った。賑やかな音楽が僕達を包みこみ、明るい照明にほっとする。
チラシは帰ったら捨てればいいと思った。
僕は、雫ちゃんもチラシを破くことなく鞄にしまっていたことに気が付いていなかった。
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