第43話 疑惑と気付き
夏休みが終わって数日がたっていた。
九月も目前とはいえまだ酷暑が続く。カフェ『魔法少女の秘密基地』にて私は三杯目のアイスココアをこくこくと飲んで、冷たくなった唇を舐めた。
「『動物園で起こった惨劇。血に染まる水族館の水槽。夏の暑さが生み出した楽土町の悪意とは』……」
鷹さんは読んでいた雑誌のタイトルを読み上げると一気にアイスコーヒーを煽った。窓際の席で勉強をしていた私と湊先輩は顔を上げて、向かいに座る鷹さんを見る。
彼女はテーブルに雑誌を広げた。見開きで大きく載っているのは、この間動物園と水族館で起こった事件についてだった。
夏休み終盤に起こった惨事はいまだニュースでも繰り返し報道されている。この事件を引き起こしたのが『黎明の乙女』の信者達であることも特定されているようだった。
「流石にあんな大事件を起こしたんだ。『黎明の乙女』も一斉摘発されますよね?」
「ううん。残念だけど、摘発されたのは一部の信者だけだって」
「一部?」
湊先輩の問いに鷹さんは首を横に振る。飲み干したグラスの氷が溶けて、カロンと冷たい音を立てた。
「『黎明の乙女』は内部でいくつも枝分かれしてるみたい。事件を起こした数人は、教祖や団体と直接やりとりをしていたわけじゃなくて、あくまで自分達の意思で行ったことだって言って……」
「『事件に関与したのはあくまで数人の一般人』って認識だと?」
「警察はそう判断したみたい」
「んな馬鹿な話があるか」
吐き捨てるように言ったのは隣のテーブルに座る千紗ちゃんだった。
その向かいに座る雫ちゃんも勉強の手を止めて私達の話に耳を傾けていた。不安そうな顔をする雫ちゃんと対称的に、千紗ちゃんは憎らしさと嘲りが混じった複雑な笑みを浮かべる。
「黎明の乙女と警察。お互い手を組んでるんだろうよ。だから黎明の奴らがどんな悪行をしたってなあなあで済ませやがるんだ」
「こ、こんな大事件なのに……? あんなおかしな集団と手を組むとして、警察に何のメリットがあるの?」
「そりゃあれだろ雫。薬だよ、薬」
「薬?」
「あの灰色の薬物さ。大方警察のお偉いさんがその薬にメロメロなんだろ。自分達が薬を手に入れるために黎明の乙女を見逃している。……まあ『警察が薬に溺れている』という弱味も握られてるようなもんだからな」
私はふむふむと真剣に話を聞いてから、湊先輩に振り返って「どゆこと?」と聞いた。彼は優しく微笑んで「悪い奴らがおまわりさんを餌付けしてるってことかな」と教えてくれた。
灰色のお薬については皆が教えてくれたから知ってる。最近楽土町に出回っているっていう危ないお薬。そのお薬を作っているのは黎明の乙女。一つでも食べれば途端にヤミツキになってふわふわした気分になれるっていう薬。
街で不良やヤクザさんからそのお薬をもらうこともできるけれど、それは大体小麦粉を混ぜていたり高すぎたり……とあまりいいものじゃないみたい。でも黎明の乙女の信者になって仲良くなれば、安くお薬をもらえるんですって。
「…………おいしくなかったのに」
ぼそっと呟いた。前に黒沼さんがもっていたそのお薬を食べたけれど、ちっともふわふわなんてしなかったしおいしくもなかった。どうして皆お薬を欲しがるのかしら。このアイスココアの方がよっぽどおいしいのに……。
「あーあ。あの人達のことちゃんと撮っておけばよかった。黎明の乙女はこんなに悪い奴らなんですよーって写真。警察が下手な言い訳できないくらいすっごいやつ!」
「一枚も撮ってないの?」
「撮る余裕なんてちっとも…………あー、いや……ふふっ」
鷹さんは不意に目をくしゃっと緩めた。何か言いたげな顔でテーブルに広げていた雑誌をちらちらと見つめる。
「実は……あのとき一枚だけ写真を撮ってたんだ」
「あの最中に撮れたんですか?」
「ちゃんと構えて撮ってたわけじゃなくて偶然だけどね。それが自分でもびっくりするくらいいい写真でさぁ。なんと、雑誌に採用されたの!」
私は雑誌をパラパラ捲って彼女の写真を探した。けれどどれだけページを進めてもそれらしい写真は見当たらない。
結局最後まで読み終わり雑誌を閉じた。その途端、ドンと大きい魔法少女の写真が視界に飛び込む。
「きゃあっ」
「うわっ!」
隣の湊先輩と悲鳴が重なった。なんだなんだと隣の席から身を乗り出した千紗ちゃんと雫ちゃんも表紙を見て目を丸くする。
「凄いでしょ!」
雑誌の表紙に載っているのは魔法少女イエローちゃんだった。
血まみれの姿になりながらも、その目を闘志にギラギラと燃やして戦っているワンシーン。血に濡れた髪のうねりや、肌に浮かぶ汗、きらめく魔法の光までもハッキリ見える。随分近い距離で撮ったのだろう。僅かにブレてはいるが、それが逆に彼女の勇ましさを引き立てる素晴らしい写真だった。
凄いわ、と私は興奮した声をあげる。凄いでしょう、と鷹さんも熱意のこもった声をあげる。
「初めての写真が表紙だなんて凄いことなんだよ。インパクト凄いってネットでも話題になって、売れてるんだから!」
「本当に素敵な写真。すっごくかっこいいわ!」
「でしょでしょっ。迫力半端ないでしょ」
「なんて素敵な魔法少女イエローちゃんの写真!」
「最高の諤ェ迚ゥの写真だよね!」
「ん?」
「ん?」
私と鷹さんは顔を見合わせた。横から慌てた様子の湊先輩がわーっと大きな声をあげ、鷹さんにわざとらしいくらいにニコニコと明るい笑顔を向ける。
「凄いですね鷹さん! 実は写真の才能があったんですよ!」
「え……えへへ、いやー湊くんと部長くんが教えてくれたからだよぉ」
「いやいや鷹さん自身の実力ですって。はっはっは!」
湊先輩は大きな声で笑った。少し日焼けして濃くなった彼の肌に、じっとりと汗が滲んでいる。
鷹さんは照れくさそうに微笑んだ後、大きく咳払いをして顔を引き締めた。
「ま。これと黎明の乙女の証拠写真はまた別件だからねぇ。今回の事件でとんでもない連中だって分かったし。どうせあの人達また事件起こすでしょ? そのときこそ、ちゃんと写真を撮っておかないと」
「で、でも写真を撮っても警察が動いてくれるとは限らないんじゃ……?」
「確かに。開き直られてカメラごと握り潰されたらどうしようもないですよ」
「……最初から警察なんてあてにならねえよ」
「三人共、私の仕事をお忘れで?」
皆が神妙な顔で言う。鷹さんは三方からの神妙な意見を聞いて、やれやれと演技調に肩を竦めた。
「証拠写真を掲載した雑誌を出版してから警察に言えば、揉み消しようもないでしょ。雑誌だけじゃない。うちはネット記事だって取り扱ってる。これでも一定の読者がいるんだよ? 一度ネットに上げてしまえば、元記事を消されたってその存在を完全に消すことはできない」
誰かがスクリーンショットを撮ってたりね、と彼女は空中でぱらぱら指を散らす。
「私だって楽土町の住民。この街には平和であってもらいたいじゃん。ほら、最近は宗教だけじゃなくてヤクザもなんだか怪しい動きをしてるって噂があるし……。警察に仕事をしてもらわなきゃ困るでしょ」
鷹さんは溜息を誤魔化すように空のグラスに口を付けた。溶けかけた氷をガリゴリと噛み砕く。私達もそれに同意するようにそれぞれの飲み物を飲んだ。
と、ベルが鳴って新しいお客さんが入ってきた。入口へ目を向けた私は、キョロキョロと辺りを見回している澤田さんの姿を見つけてパッと顔を輝かせた。
私達に気が付いた彼は片手を上げてこちらにやってきた。元気かい? と浮かべた笑顔は今日も爽やかだ。
「あれから会っていなかったから心配だったんだ」
元気ですと答える雫ちゃん達を見て、そういえば澤田さん達もあの日一緒にいたのだと聞いたことを思い出す。お互いを心配して笑い合う皆を見ていると、安心する反面なんだか仲間外れにされたようで少し頬を膨らませてしまう。
澤田さんはそんな私に気が付いてくすくすと笑う。マスターにコーヒーを注文した後、私達が広げている勉強道具を見て感心したように頷いた。
「俺が学生の頃なんてほとんど勉強してなかったよ。偉いなぁ」
「反省会ですよ。夏休み明けテストの成績が酷かったから……」
湊先輩が肩を竦めた。皆の手元に置かれているのは今日返却された夏休み明けテストだった。
先輩の点数は七十点。そんなに悪い点数じゃないと思うけれど、普段の彼はもう少し点数がいいらしい。不満に唇を尖らせる彼はなんだか子供っぽかった。
「今年の夏休みは勉強に集中できなかったからガッタガタですよ。母さんにこの点数を知られたら、来年は受験生でしょ! なんて叱られる」
「まだテストを見せてないのか?」
「逃げてるので」
「逃げてるの」
「最近ずっと友達の家に泊まってるので」
「泊まってるの」
「母さんがテストの存在を忘れる頃まで帰らないぞ……」
「そっちの方がよっぽど怒られない?」
湊先輩は神妙な顔で足元に置いていたリュックを蹴った。彼の荷物だ。随分大きなリュックを背負って学校に行くものだと思っていたけれど、お泊りセットが入っているのかと納得する。
「千紗ちゃんはどうだった? わっ、八十点。凄い!」
「そういうお前は……五十点って。反応に困る点数だな。勉強しなかったのかよ」
「テスト範囲だと思ってたところ、一ページずつズレてたみたいで……」
「ついてねえ奴だなお前はよ」
隣の席でも千紗ちゃんと雫ちゃんが話している。ありすちゃんはどうだったの? と澤田さんに聞かれて私はふふんと胸を張った。
「じゃじゃーん!」
私は満面の笑みで三十二点のテストを澤田さんに突きつけた。追試を見事に回避した素晴らしい成績のテストだ。前日の夜九時まで頑張って勉強をした甲斐があった。
今もお勉強頑張ってるの、と私はノートを広げて彼に見せた。魔法少女のお絵描きがぐちゃぐちゃと描かれている隙間に頑張って計算した足し算と引き算の数式がちょこちょこと書かれている。澤田さんは何も言わずに私の頭を撫でて微笑んだ。
ふと彼の視線が鷹さんの持つ雑誌に向けられ、その表両の目が大きく見開かれた。
「うわっ凄い写真だな」
「でしょっ?」
澤田さんは表紙をそっと指でなぞる。魔法少女イエローちゃんの血まみれの頬を拭うように。千紗ちゃんがぴくりと眉をひそめてその様子を見つめる。彼女の視線はさっきから雑誌に注がれていた。
何故だかその顔は少し歪んでいた。
「そもそも、こいつは何なんだ?」
「急に現れたもんね。実験生物が逃げ出したとかなんとかいう噂は前から出回ってたけど、最近じゃおばけの一種だとか、地底に眠っていた新人類だとか、そんな話もあるらしいよ」
澤田さんと鷹さんの会話に私は思わずくすくす笑った。湊先輩と雫ちゃんも苦笑して肩を揺らしていた。カウンターの方で仕事をしていたチョコも引きつった声で笑っている。
実はそれって私達なのよ。魔法少女に変身して悪い奴を倒しているのは、ここにいる女の子達なのよ。そう言いたいのをぐっと堪えていたのだ。
「……どうも、それは人間が変身した姿だって説もあるらしいけど」
けれど、澤田さんのその言葉に一気に空気が凍り付いた。まさかぁ、と鷹さんが大きな声で笑った。笑っているのは彼女だけだった。
隣の湊先輩が明らかに体を強張らせたのが分かった。先輩はぎこちなく眼球を動かし、隣の席に座る雫ちゃんを見つめた。雫ちゃんも彼と同じくすっかり体を凍り付かせ、頬に大量の汗をかいていた。頬を伝った一筋の雫は、何故だか妙にドロリと粘質に光っている。
「…………そんなおかしな話、どこのオカルト記事に載ってたんですか?」
「やっぱりありえない話かな?」
「ないない。ないですって。僕の友達に言ったら絶対笑いますよあいつら」
湊先輩が上擦った声で笑う。澤田さんは細めた目でじっと湊先輩を見つめ、そうかぁと肩を落とした。
グラスの氷が溶ける。ストローが空になったグラスの底をズズッと啜る。私はすっかり飲み干したアイスココアを横に押し出しておかわりを頼もうとして、飲みすぎだよと雫ちゃんに心配された。そんな彼女は誰よりも大きいグラスで四杯目のカフェラテを飲んでいたのだけれど。
「そろそろ仕事に戻らないと」
鷹さんが時計を見て、気だるげな溜息を吐き立ち上がった。澤田さんも同意を示し彼女と同じ顔で立ち上がる。
「うちの上司も人使いが荒いんだよ。写真を褒めてくれたのは嬉しいけどさ、だからって『じゃあ次号の雑誌用写真もよろしくな』って何さ」
「あなたは何の仕事をしてるんだ? カメラマン?」
「一応編集者のはずなんだけど……。カメラも全然触らないってわけじゃないけど……けど……。あんなインパクトのある写真なんてそうそう撮れるもんじゃないんだから。締め切りだってギリギリなのに!」
「はは。どの仕事も苦労は多いな…………」
「そういうあなたは? 何のお仕事を?」
「街の安全を守る人よ」
私は大人の会話に割り込んだ。鷹さんはキョトンと目を丸くして、おまわりさんっ? と興味深そうな声を出す。さっきまで話していたおまわりさんに対する陰口なんてすっかり忘れた顔で、彼女はキラキラと輝かせた目を彼に向けた。
澤田さんはそんな視線を受けてふっと小さく笑った。彼はおもむろに紙ナプキンを取ると、そこに何かを書いて私達に差し出した。黒いインクで電話番号が書かれている。
「どんな些細なことでもお悩み相談でも聞きますよ。何かあったらぜひ、こちらにご連絡を」
彼はにこりと優しく微笑んだ。柔らかな前髪が僅かに彼の目を隠す。酷くセクシーな表情だった。胸の奥が熱くなって、私は思わず頬の内側を噛む。
強く握りしめた紙ナプキンにくしゃりとしわが寄った。
鷹さんと澤田さんが去った後、私達は勉強道具を脇に寄せて一つのテーブルに向い合せで座っていた。ふんふんと笑顔でノートに魔法少女のお絵描きをしている私以外、皆神妙な顔をテーブルに落としている。
「わたし達の正体が世間にバレるのが先か、黎明の乙女を倒すのが先か……」
雫ちゃんが重い溜息を吐いた。湊先輩と千紗ちゃんもそれにならったように溜息を吐く。私は皆の顔を見つめて、ふーっと真似をして溜息を吐いた。澤田さんの連絡先を書いたナプキンがひらと浮かんで湊先輩の膝に落ちた。
「いまいち情報も集まらないものだね。倒すべき聖母様がどういう人物かもまだ分からない」
「『聖母様』は普段信者の前に姿を現すことがほとんどないからな。直接会えるのは幹部とかそんな位の奴だけだ」
「千紗ちゃんのお母さんは会ったことあるの?」
「……確かあいつは結構上の地位についてた気がするけど」
「じゃあ会ったことがあるんじゃない?」
「さあな。会える立場だとしても、あいつは聖母様の情報を漏らすような真似はしねえ。部屋を漁っても大した情報は出てこなかった。仲のいい信者の情報や勧誘パンフレットくらいしか出てこねえ」
彼女は取り出した煙草に火を付ける。苛立ちを抑えるように乱暴に息を吸い込めば、煙草の先端がジリリと赤く灯る。
「聖母様が誰かは不明。年齢も性別も、何もかもが不明だ」
「女性じゃないのか? 聖母様、なんだから」
「だろうとは思うけど、確実とは言えない。案外男かもしれないぜ。子供かも。人間かも分からない。そこのお前ら、聖母様じゃねえだろうな?」
千紗ちゃんはカウンターのマスターとチョコに聞いた。一人は肩を竦め、一人は大きく首を横に振って彼女の問いを否定する。だったら楽なのにな、と千紗ちゃんは掠れた笑い声をあげた。煙草の灰がボロッと床に落ちる。
「黎明の乙女の犯罪はどんどん拡大している……信者の数が多いことも問題だ」
「薬を使うって信者を増やすのはずるいよ。どんなに真面目な人だって、そりゃあ入信しちゃうよ」
「はいっ、はいっ」
湊先輩と雫ちゃんが話している横で私は勢いよく手を上げた。二人は私を見て、どうぞと発言を促す。
「あのね。黒沼さんはお薬を売ってる人達を捕まえようとしているでしょう? 彼が売人さんを全員捕まえてくれるのを待てば、もう新しい信者さんも増えなくなって街も平和になるんじゃない?」
「全員捕まえるったって何年かかんだよ」
「ううん。ほら、前に話したでしょう? 黒沼さんが探すのは売人の中でも特に力の強い人達だけ。その人達を捕まえれば、連絡先とかを調べて芋づる式に仲間の売人も捕まえることができるから……」
「あー……。そういやそう言ってたなぁ」
「売人の中でも、黎明の乙女が製造している『灰色の薬』を売っている人を探せばいいんだものね。でもそれも骨の折れる作業だろうな。そもそも、その売人達はどこからその薬を仕入れて…………ん?」
湊先輩はふと怪訝そうに眉を寄せて、向かいに座る千紗ちゃんの顔をまじまじと見つめた。千紗ちゃんはそっと視線を反らし煙草を深く吸い込む。けれど気が付かないうちにフィルターまで燃えていたようで、あっつと言いながら慌てて灰皿に押し潰した。
「千紗ちゃんって今も薬売ってるよね」
「おう」
「灰色の薬も売ってたりする?」
「…………高く売れんだよ」
「君もか!」
湊先輩が盛大に溜息を吐く。いいだろ別に高く売れんだよ、と千紗ちゃんは少し慌てた様子で弁明をした。
「あたしが何のために薬を売ってると思ってるんだ。金だよ金。いい値段が付くならどんなもんでも売るよあたしは」
「そんなものどこで手に入れたんだよ!」
「あいつの部屋の押し入れで見つけたんだよ!」
「母親の私物を売るなよ!」
湊先輩の言葉に千紗ちゃんは心底嫌そうに顔を歪めて、はっと息を吐き出すように笑った。
「薬物だぜ? 私物もくそもあるかよ。どうせ団体から譲ってもらったもんだ。自分用じゃなくて勧誘用に取って置いてんだろ。せっかくタダで手に入ったもん、売らなきゃ損だろ」
「……もしかして校長先生に売ってた薬物ってその灰色の薬じゃないよね?」
「おい雫、最近の株価について話そうぜ」
「話を反らすな! ポケット見せなさい!」
「あーっ! 没収だけは! 没収だけは!」
「校長先生が黎明の乙女と関わった原因君じゃないか!」
湊先輩が千紗ちゃんのポケットに手を伸ばす。セクハラだ窃盗だと騒いでいた千紗ちゃんと取っ組み合いをしていたが、千紗ちゃんの横に座っていた雫ちゃんがあわあわ困った顔をしながら千紗ちゃんのポケットに突っ込み、そこから灰色の粉が詰まった小袋を取り出しえいと湊先輩に投げる。あーっ、と絶望の声をあげた千紗ちゃんはそのままテーブルに突っ伏した。
「極悪人どもが!」
「君にだけは言われたくない」
ふん、と千紗ちゃんは鼻を啜る。自分のポケットに袋を隠す湊先輩を恨めしそうに睨んだ。仲良しね、と笑顔で言えばテーブルの下で脛を蹴られる。
「他の売人も似たようなルートで入手してんだろ。友人や信者が家族で、そいつらから格安で手に入れた薬を売り捌いてるんだ」
「千紗ちゃんもこの薬やってるのか?」
「はっ! やってねえし。言ったろ、あたしは黎明の乙女が大嫌いだって。あいつらの作った薬なんて吸うかよ。あたしがやってんのはコカインとか大麻とかそんなもんだ」
「そっか。ならよかった」
「何もよくないよ湊くん」
雫ちゃんの言葉に湊先輩はハッと首を振った。お薬にもいろんな種類があるのね、と横で聞いていて私は思う。今度千紗ちゃんにどんな種類があるのか教えてもらおう。甘いお薬があるなら食べてみたいわとも思う。
「その薬に正式名称はない。大体は『灰色の薬』とか『幸せになれる粉』とかぼんやりした呼び方で通ってる。幸せになれる粉って呼ぶくらいだぜ? あたしは自分の幸せのために活用させてもらってるだけで――……」
不意に千紗ちゃんが顔色を変える。
パッと顔を上げた彼女は、ぴくりと鼻を引くつかせて入口へと振り返る。つられて私がそちらに顔を向けたとき、狙ったかのようにドアが開いた。
顔を見るより先に、ドアノブを掴む腕に刻まれたタトゥーが見えた。
「黒沼さん!」
「こんにちは」
入ってきたのは黒沼さんだった。彼は澤田さんとまったく同じ挨拶をする。けれど光の灯らない目の微笑みは、澤田さんの爽やかなイメージとはまるで真逆の笑みにしかなっていない。
彼はマスターにコーヒーを注文するとカウンターに腰かけ、こちらに手を振った。
「今日はなんだか少ないね。前に来たときはあと二人くらいいたと思うけれど」
ん、と首を傾げてテーブルに振り返れば、いつの間にか湊先輩と千紗ちゃんの姿が見えなくなっていた。向かいに座る雫ちゃんが妙に焦った顔でぱちぱち瞬きをしている。
ふと伸ばした爪先が固い物を蹴る。そっとテーブルの下を覗いた私は、そこに隠れる湊先輩と千紗ちゃんを見つけた。二人は揃って口元に人差し指を当て、首を横に振っている。
「どこに行ったんだい?」
「知らない!」
かくれんぼね!
私は笑って首を振った。黒沼さんは少し眉を下げ、そうかと肩を落とす。
「あの二人に会っておきたかったのだけれど」
「どうかしたの?」
「隣人くんの顔を見たくてね」
「湊先輩の?」
テーブルの下からゴンと鈍い音がした。湊先輩が机の脚に背中をぶつけたのだ。彼は大きな体をビクビク震わせて青ざめた顔をしている。
「何でもここ数日は家にも帰っていないと言うじゃないか。ゴミ出しのとき、彼のお母さんに会って聞いたよ。いくら友達の家でもって随分心配してた」
「そうねぇ。お母さんも心配しちゃうわよね」
「……それにしても綺麗な奥さんだったなぁ。優しいし、妙に色気があるし、胸もでかかったし。旦那さんが仕事に行って湊くんもいない今だったら、奥さんが一人のタイミングもあるってわけかぁ」
黒沼さんは神妙な顔で何かを呟いていた。どういう意味か分からずテーブルの下を覗き込めば、何故か湊先輩は凄まじい形相で黒沼さんの方を睨んでいた。隣の千紗ちゃんが袖を掴んでいなければ今にも飛び出していきそうだ。
「湊先輩は元気よ! 今もほら、テーブ」
「みっ、湊くんならついさっき友達の家に向かったところです。元気そうでしたよ!」
雫ちゃんが慌てて私の言葉を遮った。続けて、何か伝言があれば伝えましょうかと彼女は言った。彼女は優しい子なのだ。
「そう? なら、金髪の子に一言お願いしたいんだけど」
「はい」
「『灰色の幸せはおいしいかい?』って伝えてくれる」
「ひぇ」
雫ちゃんが目を見開いて固まった。テーブルの下で今度は千紗ちゃんが体を強張らせた。
黒沼さんはニコニコと微笑んだままだった。細長い指先がコーヒーカップをトントンと叩いて、小さな音楽を奏でた。
コーヒーを飲み干した彼は立ち上がり、意外にもあっさり店を出て行こうとする。コーヒーを飲みに来ただけだったのだろうか。私はソファーから飛び降り、彼を見送るために駆け寄った。
扉に手をかけていた彼は私に振り返り、にこやかな微笑みを浮かべたままでああそうだ、と思い出したように言う。
「ありすちゃん。君にも一つだけ」
「うんっ」
「諤ェ迚ゥについて何か知ってる?」
途端に店内の空気が変わった。
背中に視線を感じる。マスターとチョコ、雫ちゃん達の視線が私に注がれているのを肌でハッキリと感じ取った。
黒沼さんは笑顔のままだった。何を考えているのか分からない彼の顔を見上げ、私は一度ゆっくりと瞬く。
「なんにも!」
私は笑顔で首を横に振った。張りつめていた空気がぐにゃりと曲がる。黒沼さんは怪訝に片目を細め、なんにも? と私の言葉を繰り返した。
「私、諤ェ迚ゥのことなんてなんにも知らないわ」
「ん?」
黒沼さんの表情がより不審がるものに変わった。さっき鷹さんも似たような顔をしていたことを思い出す。私は彼が言っていることの意味がよく分からなかった。
最近、なんだかたまに皆は変な言葉を喋るのだ。諤ェ迚ゥ、という上手く聞き取れない不思議な言葉。私はその言葉の意味が分からない。
きっとまだ高校一年生では習わない言葉なのだ。
「ごめん、よく聞こえなかった。なんだって?」
「諤ェ迚ゥよ」
「ん……。えと。かい……?」
「ううん。だから、諤ェ…………」
私は言葉を止めた。目をしばたかせて、こくりと口内の唾液を飲み込む。
さっきココアをたくさん飲んだはずなのに妙に口の中が乾いていた。
私は頭に浮かんだ言葉を口にする。
「怪物?」
ドン、とテーブルの方で大きな音がした。私はハッと我に返って首を横に振る。
早くしないとかくれんぼがバレてしまうわ。
「し、知らない。私、なーんにも知らないわっ」
「…………そう」
「わっ」
黒沼さんの手が私の頭を撫でる。大きな手がくしゃりと前髪を梳くように撫でて、視界が髪の毛のピンク色に染まった。前髪を整え顔を上げたときには、もう黒沼さんは出て行ってしまった後だった。
ガタガタと音がする。振り返れば、テーブルの下から湊先輩と千紗ちゃんが這いずるように出てくるところだった。
「完全にバレてるって。やばいって」
「僕もう一生家に帰れないんだけど」
二人は青ざめた顔のまま床に座り込む。どうやらかくれんぼはもう終わりらしい。勝ったわね、と満面の笑顔を二人に向けると千紗ちゃんに舌打ちをされた。
「千紗ちゃんよくあの人が来るって分かったね」
「……最近耳と鼻が利くんだよ」
「聴覚過敏?」
「そういうんじゃねえ。多分……あー。あれだ。魔法少女の…………副作用」
「足音が聞こえたの?」
「足音を立てないようにしてる変な歩き方だった。怪しむだろ。それに、扉が開いたときにあいつの香りがした。煙草と血の臭い」
千紗ちゃんは鼻にしわを寄せて唇を舐めた。さっき彼の傍まで寄ったけれど、微かな煙草の香りしかしなかった。よく分かるわねと彼女に感嘆の言葉をかける。そんな私を、千紗ちゃんはまじまじと見つめて肩を竦めた。
「呑気な奴だなお前は」
「千紗ちゃんもお絵描きする?」
「……呑気な奴だな」
「これね、ピンクちゃん描いたの。可愛いでしょ」
「絵へったくそだなお前」
そんなことないわよ、と私は頬を膨らませてノートを振る。千紗ちゃんはそんな私の手からノートを取って雫ちゃんへと回した。
「お手本でも描いてやれよ」
「えっ」
けれど雫ちゃんはサッと顔を青くし戸惑いを浮かべた。千紗ちゃんが怪訝に眉を潜める。
「や……わ、わたし絵下手だから」
「この中じゃ一番上手いだろうが。何言ってんだ」
「いや、その、えっと」
雫ちゃんは妙に戸惑った顔で湊先輩へと視線を泳がせる。その視線を受け取った湊先輩も、ぎこちない表情で首を横に振った。
「その……よ、よく分からないし…………」
「はぁ? 何言ってんだ。いつも見てんだろうが魔法少女。湊お前、写真にも撮ってんだろ。姿が分からねえわけじゃあるまいし」
「……………………」
二人は黙り込んでしまった。千紗ちゃんはその様子を見て、「あ?」と眉間にしわを寄せる。
沈黙が広がった。しばらく黙っていた千紗ちゃんが、ふっと何かに気が付いたように目を見開く。
「…………おい」
「ふふん。やっぱり私が一番上手く描けるのよ。お手本見せてあげる」
私は三人の間に割ってノートを取り、ふんふん鼻を鳴らして魔法少女の続きを描いていった。
千紗ちゃんが舌を打ち私に何かを言おうとする。そんな中、湊先輩は慌てたように声をあげて、ぎこちない笑顔と共に席を立った。
「ぼ、僕もう行くよ。国光の家に行く前に買い物して行きたいんだ」
もし黒沼さんが戻ってきたら怖いし、と湊先輩は続けた。
千紗ちゃんは開きかけていた口から大きな溜息を吐き、頭をカリカリと掻いて低い言葉を吐く。
「…………あたしも煙草買いに行く」
「二人でおでかけ? なら、私も行く!」
私は言って千紗ちゃんの肩に頬を乗せた。ショッピングがしたかったのだ。駅前のデパートで可愛いお洋服やぬいぐるみを見たかった。
「雫ちゃんも行きましょ。皆でおでかけした方が楽しいわ」
「ぼくもおやつを買いに行きたいな!」
チョコがカウンターから飛び出して私に抱き着いた。脂ぎったもちもちとした腕に頬ずりをして皆でおでかけね、と声を弾ませる。
湊先輩は少し困った顔でマスターに目を向けた。マスターは静かに目を伏せ、カウンターの下から取り出した「CLOSE」の看板をコトリと置く。
「私も新しい豆を仕入れたくてね」
マスターは目を細めて笑った。
おでかけは決定だった。
「遊ぶんじゃないんだよ。買う物を買ったら、すぐ出るんだから」
「この香水バニラの香りがするわっ。あのリップも凄く可愛い。見に行きましょう湊先輩!」
「はいはいはいこうなるのは分かってましたよ。走らないでねありすちゃん」
「なああたしここより隣の店行きたいんだけど。ドン・〇ホーテ」
「も、もう少し待って。わたしもこの香水が気になっちゃって……」
私達は駅前のデパートに訪れていた。
一階には数々のコスメが並んでいる。アイシャドウ一つとっても数千円と学生には手が出せない値段だったが、華やかな色がフロアいっぱいに広がる光景は見ているだけでも楽しかった。
フレグランスショップに入って色んな香りを試してはしゃぐ。洋ナシや薔薇の香りにうっとりとする私達の横で千紗ちゃんは一人、鼻が曲がりそうだと顔をしかめてギリギリと歯を噛み締めていた。一つ二万円の香水を物欲しそうに眺める雫ちゃんに、呆れた顔を向けている。
「デパートって色々な物があって楽しいねぇ!」
「地球では香りをまとうのがおしゃれの一種なのだな。面白い文化だ」
マスターとチョコも目を輝かせてあちこちを見て回っていた。マスターは香水を手に取っては成分を店員さんに尋ね、チョコは新色のリップを試させてもらっている。
「湊先輩湊先輩。今チョコが塗ってるあの色、素敵じゃない?」
「ピンク色で可愛いね。ありすちゃんもきっと似合うよ」
「湊先輩にはこっちの赤色が似合うと思うわ」
「え、あはは。そうかな。ありがとう」
「すみませんお姉さん。この二つ試してもいいかしら?」
「僕も塗るの?」
可愛いものを見ているとついつい時間を忘れてしまう。ただただ幸せな気持ちが溢れ出してどうにも止まらなくなってしまうのだ。
皆も幸せになりたいのなら、お薬なんて飲まないでお買い物をすればいいのよ。こんなに幸せな気持ちになれるんだから。
そんなふわふわした気持ちで歩いていたからだろうか。よそ見をしていた私は、不意に誰かと真正面からぶつかった。
「あっ」
「前を見ないと危ないよ」
「ごめんなさ……あれ?」
その人の前髪がさらりと私の視界を覆う。ピンク色に黒が混じった。私はぱちりと目を丸くして、そこに立っていた黒沼さんを見上げた。
ありすちゃん、と駆け寄ってきた湊先輩が黒沼さんを見つけて凍り付いた。黒沼さんはそんな青ざめた先輩に構わず、笑顔で近付いてその肩に手を組む。
「やあ湊くん。久しぶり」
「あっ…………」
黒沼さんが湊先輩に顔を近付ける。湊先輩は顔を反らして彼と視線を合わせないようにする。黒沼さんの掠れた声が煙のように湊先輩に絡みつく。
「ご両親と喧嘩でもしたのかい? 最近家に帰ってないそうじゃないか」
「……はい。そうなんです。ちょっと母さんと、その、喧嘩しちゃって」
「あは。嘘つき」
「え」
「俺のことを避けてるんだろ?」
湊先輩がぎゅっと拳を握る。見開いた目を黒沼さんに向ければ、黒沼さんはニーッと細めた目で彼に微笑みかけた。
「ベランダで会っても君はさっさと部屋に引っ込んじゃうし。動物園の騒動の日から、ずっと俺を避けるみたいに外泊しっぱなし。そのうえ、さっきカフェにいたのにいないだなんて嘘をついて」
「なっ」
「君達が出てくるところ見てたよ」
湊先輩がザッと顔色を変えた。彼の手を乱暴に振り払い、「見てたんですか!」と声を荒げる。
二人の間の空気がひりついた。黒沼さんは笑顔のまま、低い声を震わせる。
「やっぱりやましいことがあるんだな?」
周囲の店員さん達もひそひそ話をはじめるほどに、二人の空気が剣呑に張りつめていく。
今にも喧嘩をはじめそうな空気に耐え切れず、私は思わずその間に割り込んだ。
「やめてっ。かくれんぼでズルされたからって喧嘩はよくないわ!」
「なあありすちゃん」
「あう?」
黒沼さんがドンと湊先輩の肩を押す。突然突き飛ばされた湊先輩はよろめき、代わりに黒沼さんは私を抱き寄せた。
彼の服にしみこんだ煙草の香りが冷たかった。その香りに混じって、本当に薄く別のにおいがした。
血の臭いだ。
私の見開かれた目を覗き込むように、彼の真っ暗闇の目が瞬く。
「君達は何を隠している?」
「……………………」
その目に見つめられるとなんだか喉の奥がぎゅっと締め付けられて、足が震えてしまいそうになった。
私の頬に汗が滲む。震える唇を薄く開いて、私は彼の問いに何かを答えようとした。
黒沼さんの笑顔が酷く恐ろしく見えたから……。
「うっ」
バンッと音がして黒沼さんの頭が揺れた。彼の後頭部に投げつけられた小瓶が空中で回転して、彼の髪に中身をバシャリと撒き散らす。
さっき雫ちゃんが見ていた香水だった。瓶はそのまま床に落ちて割れ、二万円もする琥珀色の液体が床に散る。
彼の後ろには千紗ちゃんがいた。小瓶を投げつけた彼女は険しい顔で雫ちゃんの腕を引っ張ると、もう片方の手でチョコの胸倉を掴み勢いよく駆け出す。マスターも三人を追うように走り出した。ぽかんとする私の横を通り過ぎる際、彼女はこちらを見て大声で怒鳴った。
「走れ!」
千紗ちゃんの言葉に弾かれたように、湊先輩が私の手を掴んで駆け出した。
私は慌てて走りながら振り返る。しゃがみ込んで呻いている黒沼さんを見て、戻った方がいいかしらと一瞬悩んだ。
けれど黒沼さんが顔を上げた瞬間その考えは消える。ぼたぼたと雫が垂れる前髪の下に浮かんでいるのは、彼にしては珍しい、怒りの滲んだ顔だった。
「おい!」
黒沼さんの声に、私はきゃあと悲鳴をあげた。恐怖半分、おかしさ半分だ。
そうか。かくれんぼの次は、おにごっこね!
「負けないわっ」
私は叫んだ。デパートの中を笑いながら駆け抜ける。
こうして私達は、黒沼さんとおにごっこをすることになったのだ。
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