第42話 不思議の国のありすちゃん
誰かが私の名前を呼んでいる。ありすちゃん、と泣きそうな声がする。その声に目を開けようとして、瞼が開かないことに気が付いた。
頭が痛い。返事をしようとしても口が開かない。痺れて動かない指先は、何かぬるい液体に浸っている。
あれ。私、何をしていたんだっけ。
今まで何があったんだっけ……。
ああ、そうよ。
私。私が、
『ありすちゃん』になったのは……………………。
私、姫乃ありす。世界で一番可愛い女の子!
好きな色はピンク色。ママの作る甘いお菓子が大好き。ぱっちりおめめと明るい笑顔がチャームポイント。
将来の夢は魔法少女になること。
妖精さんの不思議な力で、可愛い魔法少女ピンクちゃんに変身するの。
世界の平和は私が守ってあげるんだから!
本当は魔法少女になんかなれないって、分かってるのにね。
「んむ?」
昼休み。サンドイッチに齧りついた途端、ぷちっと口の中で何かが潰れた。
昼休みの教室はおいしそうな匂いに満ちている。この中学校には給食がない。色とりどりのお弁当箱を持った生徒達が友達と机を囲み、ランチタイムを楽しんでいた。
私は教室の真ん中の席に座ってお弁当を広げていた。ピンク色の小さなお弁当箱にはママが早起きして作ってくれた料理が詰まっている。
ハムとチーズで作った薔薇、ひよこちゃんの顔を覗かせた茹で卵、ハート形のにんじんさん……。中でも一番好きなのは苺ジャムたっぷりのサンドイッチ。
けれどとろける甘さの中に感じた不思議な食感に思わず動きを止めた。隠し味でも入れてくれたのだろうか、と口を離せば、とろーっと口から黄緑色の糸が引いた。
「きゃっ」
サンドイッチの中には芋虫さんが挟まっていた。悲鳴をあげてサンドイッチを机に放り投げる。断面から一匹の芋虫さんと、半分になった芋虫さんがコロンと転がり落ちた。まるまると太った芋虫さんは白いクリームにまみれ、もにもにと机の上を這う。
「あなた、どこから来たの?」
びっくりしたわ、とドキドキする胸を押さえて芋虫さんを指でつつく。柔らかな体がきゅっと丸まった。
口の中に残っていたサンドイッチをゴクリと飲み込む。半分になってしまった方の芋虫さんをじっと見つめて目に涙をためた。
うっかりしていたせいだわ。可愛い虫さんを殺しちゃった!
きっとこの二匹はお友達だったのよ。もう一匹の芋虫さんも、お友達が死んで悲しんでいるはずだわ。
机を見ると、もう一匹の芋虫さんが机の端から落ちそうになっているところだった。
慌てて手を伸ばす。転がり落ちた芋虫さんがぽてんと手の平に乗っかった。ナイスキャッチ。
「ねー、姫乃さんマジ? お弁当に虫入れてんの?」
引くわ、と声をかけてきたのは隣の席に座る女の子だった。
隣の席といっても私の席と彼女の席の間は一メートル以上離れていた。彼女だけじゃない。私の机を中心に、皆の席との間には人二人が余裕ですれ違えるくらいの距離が開いている。この教室を上から見れば、ドーナツ状に広がったたくさんの席の中央に、ぽつんと私の席だけが目立って置かれているだろう。
昼休みになるといつもこうなのだ。三分もたたないうちに皆が席をガタガタ移動させる。戦の際の布陣ね、と授業で習った知識を思い出して少し嬉しくなる。これは私がキングということかしら。クラスの王様ね、ふふん。
「ゲッ。齧ってんじゃん、キモ……」
「アボカドと間違えた系? どっちも緑だもんね分かる。視力検査してきなよ」
「虫って案外栄養豊富だから、どっかの原住民は食べるらしいよ」
「どっかってどこ?」
「北極でしょ」
彼女と一緒にお弁当を食べていた子達が適当なことを喋ってあはあはと笑う。
そんな彼女達の会話を他のクラスメートも聞いていた。彼らはお弁当を食べる手を止めてこちらをじっと見つめている。
けれど私がそちらに視線を向ければ、皆ふっと顔を背けてまた自分の友人達と楽しそうに語らうのだ。
「姫乃さんってさぁ出身どこだっけ?」
「出身? とうきょ」
「不思議の国じゃなかった? おとぎ話の中でしょ多分」
「ぱ…………」
「からかうのやめな! 言わせてあげるなよ……。分かってる。キャベツ畑からだよね」
「ま…………」
「檻付きの病院じゃないの?」
パパは郊外の方に住んでいたの。ママも遠くの田舎出身だって聞いたことがあるわ。
そう言おうとしたのに彼女達の言葉はマシンガンのように連射され、私の言葉はちっとも届かない。
私は仕方なく口を閉ざし、お友達と一緒にご飯を食べようと鞄を開けた。
けれど鞄の中をいくら探っても友達は出てこない。中に入っているのは筆箱と財布と携帯。それだけだ。
「何探してんの?」
「チョコはどこ?」
親友のチョコがどこにもいないのだ。
私が子供のときにママが作ってくれたぬいぐるみのチョコ。いつもあの子と一緒なのだ。勿論学校でお昼を食べるときだって。
口にサンドイッチを近付けてあげれば「おいしいねありすちゃん!」と口元をベタベタにして喜んでくれる。チョコは小食だから、ほとんど減ったようには見えないのだけれど。
チョコはどこ? ともう一度言った。すると教室は一瞬静まり返り、それからわっと空気が爆発したような笑いに包まれた。
女の子達だけでなく、離れた席に座っていた男の子達も笑っている。彼らは細めた目をこちらに向け「出たよチョコちゃん」と上擦った声で笑う。
「皆チョコがどこにいるか知ってるの?」
皆に尋ねた。だけど誰も答えてくれない。
視線を誰に合わせても逸らされる。彼らはくすくす笑いの余韻を残してまたお弁当箱をかきこんだり、廊下に出て行ってしまう。
「チョコはどこ? あの子はどこに行ったの? ねえ、チョコを見なかった? 私の親友なの」
私は一人一人に目を合わせてチョコの居場所を尋ねた。
隅の方に固まって静かに本を読んでいた子達は戸惑いながらも首を横に振ったし、ゲームをしていた男子達には邪魔だと肩を押しのけられた。眠っている子を起こして尋ねれば舌打ちをされ、楽しそうに笑っていた子達は話しかけた途端に無言になった。
初夏の風がぬるく私の首を撫でた。肩にかかる茶色い髪がそよそよとなびく。
今朝、黒板消しの粉をなすりつけられた汚れが付いたままのスカートを握り、私は教室中をくるくると歩き回った。
「昼ご飯食べてる最中に埃立てないでくれますかー」
「あっ」
不意に誰かから背中を押された。
床に倒れ込んだ。肘を思い切り打ち付ける。じんわり広がる痛みに悶えながらも慌てて手を開くと、そこにはまだ芋虫さんがもにもに動いていてほっとする。
振り返っても、そこにはニヤニヤ笑ってこちらを見下ろす女の子達しかいなかった。誰が背中を押したのかなんて、分かるわけがない。
「友達を探してるの?」
そう質問されて私はカクカク頷いた。チョコ探しに協力してくれると思ったのだ。
けれど彼女達は誰一人立ち上がる気配さえなかった。甘く楽しげな笑い声が教室に響く。
彼女達の黒髪が窓ガラスに反射して白っぽく光った。
「散歩でもしてるんでしょ」
「チョコは勝手にどこかに行ったりしないわ。お行儀がいい子だもの」
「じゃトイレじゃない?」
「チョコはトイレに行かないのよ」
「案外いたりするかもよ。足を滑らせて、便器の中に落っこちちゃってるかも」
「あなた、チョコをトイレに落としたのっ?」
なんでそうなるのさ、と言いながらもその顔はいやらしく笑っていた。周りの子達もふるふると肩を震わせている。
ジーンと足の先が冷えていく。自分の体が酷く小刻みに震えるのを感じた。
目の前で大口を開けて笑っていた彼女がふとそんな私を見つめ、にったりと粘ついた笑みを向ける。
「なぁに? おこっ――――」
パァン。と私は彼女の大きく開いた口に平手を打ち付けた。
思っていたよりも巨大な音が響き、周囲にいた子達がビクッと体を跳ね上げる。
けれど当の本人は目を白黒させているばかりだった。その喉が反射的にゴクリと唾液を嚥下する。
私の手から転がり落ちた芋虫さんごと。
「ゲェッ!」
彼女は椅子から転げ落ちて胃の中のものを吐き出した。
水っぽい吐瀉物が床にビタビタと落ちる。ご飯粒やミートボールに混じって、黄色い胃液に汚れた芋虫さんが床の上を這っていた。
周囲から悲鳴が上がる。何喧嘩? 虫? 虫がなに。食べたって? 誰が? ほらあそこ……。
さざ波のように話し声が広がっていく。誰もが私を見て、嫌そうに顔をしかめる。
彼女に近付いて、その足元にしゃがみこんだ。酸っぱい臭いが足元から立ちのぼる。彼女の顔は色んな体液でぐしゃぐしゃだった。私の顔を見た彼女はさっきまでの強気な笑みをすっかり消し、怯え切った顔で悲鳴を上げる。
「意地悪はよくないことよ」
「……………………」
「悪いことをしたらごめんなさいって言うのよ」
「ぁ…………」
「言えないの?」
「ごっ! ごめ…………さい」
「……うん、許してあげる! 仲直りしましょっ」
私は手を差し伸べた。彼女は茫然と私を見つめるばかりで、手を握ってはくれなかった。
蠢いていた芋虫さんが私の上履きに乗りあげる。死ね、と落書きされた文字の上でうごうごしている芋虫さんが愛らしくて、その緑色の体を摘まんで持ち上げる。
「お友達に会いたいわよね」
指先からぬるく柔らかな感触が伝わってくる。むっちりとした肉厚の芋虫さんを、食むように咥えて一息に飲み込んだ。
誰かがあっと声をあげた。それっきり教室は無音に静まり返る。私が教室中をゆっくりと見回せば、皆はシンと固まったまま私を凝視して動かなかった。
「うふふ」
私は教室を出て廊下を歩く。チャイムの音が校舎に響いた。教室に戻る生徒達とすれ違うように、私は女子トイレへと足を踏み入れた。
三つある個室の一番奥。扉を開けば、便器の中にチョコがいた。
引き上げた体は水を吸って酷く重い。ずっしりと濡れたピンク色の体を抱きしめれば、ツンとしたアンモニアの臭いが鼻を付いた。
「見つけたわチョコ」
やあ、見つかっちゃった。
「こんな所にいるだなんて。あなたは泳ぎが得意だったかしら?」
ぼくは泳ぐのが大好きなのさ。水を見かけると、すぐに飛び込んじゃう!
「お昼休みが終わっちゃった。ママのお弁当、ほとんど食べていないの。お腹が減っちゃうわ」
可愛そうなありすちゃん。でも唇が濡れているよ。何を食べたんだい?
「何を…………」
唇を舐めた。酸っぱいような甘いような、妙な味が舌先に滲んだ。
何を食べたのだったかしら。サンドイッチの味じゃないわ。もっと変な味。なんだか気分が悪くなるような、変わった味。
そうね。
そうよ。
そうだわ。
私は芋虫を食べたんだわ。
「…………お゛えっ」
便器に頭を突っ込んだ。酸っぱい胃液が喉を逆流する。
床に放り投げた
「――――ありすさんは少し自我が強い子なのだと思います。個性が強いのはいいことですが、強すぎる個性を他人に押し付けるのはよろしくないかと。……ああ心配なさらないで。いじめなんて、そんなこと。ちょっとお喋りがエスカレートしてしまっただけですよ。あの年代の子にはよくあることです。お母さまもお若いですし、最近の子のそういった空気も経験したことがあるでしょ? ……え。あっ! すみません。とてもお若く見えまして。てっきり私と同じくらいかと……ああいえ、その髪で判断したわけでは。綺麗な色をなさって。……それで話を戻しますが、ありすさんはいじめを受けてはいません。昼休みなんかあの子を中心に囲んで皆でお喋りをしているんですから。ええ……ええ……。教師の目線から申し上げますと、ありすさんにはもう少し皆に合わせて地に足の着いた考え方をしていただいて…………」
私はママと手を繋いで帰り道を歩いていた。
そよ風がママのピンク色の髪を泳がせる。繋いだ手はあたたかく、ニコニコとママの顔を見上げた。
あの後。トイレにいたところを先生が探しに来た。私はそのまま指導室に連れていかれ、長いお話をされたのだ。だけど話の内容はとっくに忘れてしまった。私が何を答えたのかももう記憶にない。
先生はそれからママのことも呼び出した。私は退屈になって廊下でチョコとお喋りをしていたから、ママと先生が何を話したのかはちっとも聞いていないけれど。
こうしてママが学校に来てくれるのは何度目かしら。先生は私のママのことが好きみたい。よく学校に遊びに来てもらうの。いつも長いお喋りをしているのよ。私が学校でどんな風に過ごしているのか、知りたいんですって……。
「ママが学校に来てくれる日は大好きよ。一緒に帰れるんだもの」
「ありすったら。ママは呼び出しを受けて学校に行ったのよ。これで何回目?」
「帰ったらおやつが食べたいわ。今日はお弁当が食べられなくて……」
通り過ぎるお店やカフェからいい匂いが漂ってくる。店頭に並ぶ可愛いカップケーキを眺めていると、お腹がぐぅと鳴き声をあげた。ママが困ったように笑って、鞄から袋に入ったクッキーを取り出す。私は飛び跳ねて甘いクッキーに舌鼓を打った。
と、ふと私はとある服屋さんの前で足を止めた。
ショーウィンドウにキラキラとした可愛いピンク色のお洋服が展示されている。私は目をきらめかせて、ママの腕を引っ張った。
「ママ見て。魔法少女っ!」
どうやら現在放送されている魔法少女のアニメとコラボした商品らしい。
テレビで応援している魔法少女の衣装を目の前にして、私はガラスにべったりと張り付いた。ピンクのドレスにラメ入りレースが映える。なんて可愛いのかしら!
「あのね! これは魔法少女モモちゃんの衣装なの! チョーカーに付いた桃のコインが光って変身するのよ。必殺技はクリティカルピーチアタックって言ってね。桃のスイーツが大好きな女の子でね。それでね」
「分かってるわ。ママも、モモちゃん大好きだもの」
私は毎日魔法少女のアニメを見ている。週末に放送されたものを直接見て、残りの六日は録画したものを繰り返し。
一緒に見ましょうと家事をしている最中のママを誘うから、ママもいつも私の隣に座って同じアニメを見ているのだ。
私が興奮して捲し立てる魔法少女の話をママは頷きながら聞いてくれる。話の内容は過去にさかのぼり、去年放送されていた魔法少女のアニメから、さらにその前に……と変化する。
「でもやっぱり一番のお気に入りは……」
「魔法少女ピンクちゃん?」
「うん!」
魔法少女ピンクちゃん。それは私が一番大好きな魔法少女だ。
ピンクの衣装と、ふわふわの髪と、キラキラ光る素敵な魔法。
私が魔法少女にハマるきっかけになった一番最初の魔法少女。随分古い作品だからか街中ではまったく見かけず、ママが持っていたビデオくらいでしか見ることができないけれど、その作品を初めて見たときの感動は今でも忘れられない。
魔法で戦う女の子。可愛い衣装に身を包んだ、かっこいい女の子。
私はそれに、パチパチと星の粒が頭の中で弾けるような、目の前が真っ白になるような、そんな凄まじい衝撃を受けたのだ。
「私もいつかピンクちゃんみたいな魔法少女になりたいの」
「そうね。ありすならきっと変身できるわ」
「将来は絶対に魔法少女になるのよ! どんなピンチがこの世界に訪れたって私がいれば大丈夫。魔法の力であっという間に敵を倒してあげるんだから。今はまだ変身できないけれど、きっともうすぐ妖精さんが現れてくれるもの。
毎晩お星さまにお祈りをしているのよ。魔法少女になれますようにって。もう十四歳なんだからいつ魔法少女になってもおかしくないわ。皆は私のことをからかうんだけどね、それでも私は絶対魔法少女になれるから。だからね…………」
「…………ありす?」
ふと黙ってしまった私に、ママが不思議そうに首を傾げた。私はガラスに指を這わせたままじっと魔法少女の衣装を見つめていた。
乾いた唇を開いて、私は呟く。
「――――本当は魔法少女になんかなれないって知ってるの」
ジ――――ッ。と。頭の中に砂嵐が流れていた。
強い眩暈が襲って、思わず目の前のガラスに額をぶつける。
ショーウィンドウの魔法少女の衣装がボロッと枯れて崩れた。
「魔法なんてあるわけがないじゃない」
額からピリッと音が鳴って皮膚が裂けた。ダラーッとだらしない涎みたいに流れた血が私の茶色い髪を赤く染めていく。
ガラスには街を歩く人の姿が反射していた。スーツを着て歩いていたおじさんの足が急に折れ、膝から下の足だけがスーツのズボンを引っ張って歩き出す。足だけになったその生き物はアスファルトにズリズリとすりおろされて灰色の粉になった。
アスファルトの割れ目からたんぽぽが生えてくる。黄色いたんぽぽは肌色に変色してしわだらけの老婆の手に変わり、地面に散らばる灰色の粉を必死にかき集めては甲高い声でママを呼んでいる。
「世界がピンチになることなんてない。他の惑星からモンスターがやってきて世界を滅ぼすなんてありえない」
鼓膜の奥からカメラのシャッター音が鳴りやまない。耳をひっかくうちに熱い血が滲んで私の手を汚していく。
空から異音が聞こえて振り向いた。いつの間にか真っ暗になった夜空に、目が潰れそうなほど眩しい星が輝いて、大量のUFOが浮かんでいた。そこからチョコとそっくりのぬいぐるみが何匹も飛び降りて、地面で潰れて青色のミルクを撒き散らす。
「全部テレビの中にしか存在しないの。全部嘘なの。私は現実が見えていないの…………見えてる? だって分かるの。本当は分かってるの。私は知ってる。知ってるのよ! どれだけ頭がおかしいことを言っているかってこと、ぬいぐるみをお友達だって言い張るのは変だってこと、だからいじめられてるってこと、先生がどうして私を叱るのかってこと。全部分かってる。私は夢なんて見ていない……」
ケホ、と咳をした。喉の奥に何かが引っかかっていたから。
上顎を舐めるように何かが喉奥から這い上がる。黒くてべたついた触手がズルリと口から零れた。
キラキラと光る光が街を真っ白に染めて消していく。
ふと最後にもう一度ガラスを見れば、そこに私の姿は映っていなかった。
「分かってるの。妖精さんなんているわけがない。私は魔法少女にはなれない。全部夢の話だって! 私は、私は……ありすは!」
「ありす」
ぱちりと目を瞬かせる。
ガラス越しに、ママが後ろから私を抱きしめている姿が映っていた。
振り返れば心配そうな顔が私を見下ろしている。その後ろには、いつもと何の変哲もない街の様子が広がっていた。
さっきまで見ていた不思議な世界はどこかにいってしまった。
「よく聞いて、ありす」
「ママ」
「ママはね、あなたの夢がどんなものでも応援してあげたいの」
眠りに落ちるときに見る夢のような優しい声だった。
長いピンク色の髪が垂れて、私の茶色い髪の毛と絡まる。
「魔法少女になれないだなんて私は思わない」
「……………………」
「あなたの夢は空想のものなんかじゃない」
「でも」
「妖精さんだって本当にいるのよ? 見たことあるもの」
「…………本当?」
「ええ。昔お友達と遊んでいるときに空から落っこちてきたのを見たことがあるもの」
ママはそう言っておどけた顔で笑った。優しい手が私の頭を撫でる。だから本当に妖精さんはいるのよと繰り返すように私に告げる。
「ありえない夢だなんて思っちゃ駄目よ。どんな夢だって諦めなければきっと叶うわ」
「本当に?」
「あなたの夢や見た目を他の子がどれだけからかったって、ママは最後まで応援するわ」
「どうして?」
「あなたの母親ですもの」
きゅっと喉の奥が震えた。私は振り向いて正面からママに抱き着いた。
スンとわざとらしく鼻を啜れば、頭の奥が一瞬だけ痛む。自分がさっきまで何を考えていたのか、何を思っていたのか……全てがモヤのようにとろけて消えていく。
ああ、本当に。私はさっきまで何を考えていたんだったかしら?
「あのね。私、もっと魔法少女みたいになりたいの」
「これ以上もっと可愛くなっちゃうの?」
「この衣装を着てみたいわ。新しいリボンが欲しいの。髪をピンク色にして学校に行きたいわ」
「お洋服ならいくらでも買ってあげる。一緒に綺麗なリボンを見に行きましょう。これから美容院に行って髪もピンクに染めちゃいましょ」
「先生に怒られるかしら?」
「今更じゃない」
「……ふふ、そうね」
皆からどれだけ夢を否定されたって、一人でも信じてくれる人がいればどんなに幸せかしら。
ママの言葉が心に染みて、私の頬に涙が伝う。
「ママ」
「なぁに。ありすちゃん」
「大好き」
「私もよ」
私はどれだけ馬鹿にされたって魔法少女になるって夢を諦めないわ。
だから他の誰かが私と同じように夢を否定されていたら、私がその人の夢を応援してあげる。
どんな夢だって諦めなければ叶うのよ。
この世界には。叶えちゃいけない夢なんて一つもないんだから……。
「大丈夫よ。可愛いありす。あなたは絶対に魔法少女になれるんだから。私はいつまでもあなたの夢を応援しているわ。だからあなたも自分を信じて。ありす。私のありす。ありす……………………ありすちゃん!」
私は飛び起きた。
目の前にいた湊先輩と顔がぶつかりそうになって、彼がビクッと肩を跳ね上げる。
「よ、よかった。起きたんだね」
「……………………?」
よかった、と湊先輩が鼻を啜る。彼の顔は赤くなっていた。
泣いているの? と潤んだ目尻を指で拭ってあげれば、何故か彼の頬は余計に赤く染まった。よく見ればそれは血だった。彼の顔は所々に血が点々と付いているのだ。
見下ろした自分の手が真っ赤に染まっている。手だけじゃない。シャツもスカートもぐしょりと赤い血で濡れている。驚いて辺りを見回せば、私は赤い水たまりの上に横たわっていたのだと知った。
「う」
頭がズキズキする。吐き気も酷い。
一体何が起こったの。
「大丈夫? 痛いところは? 意識はハッキリしてる? 自分の名前は言える?」
「何があったの」
「それは…………その、校長先生が、君にぶつかって」
「校長先生?」
ふと地面をまさぐった手が何かに当たった。見れば、私のすぐ横に元・校長先生だったものが倒れていた。
赤い血がドクドクとそこから広がって、私の服や、傍にしゃがむ湊先輩の膝を濡らしている。
ぼんやりとしていた意識がじょじょに鮮明になっていく。遠くから悲鳴や足音が聞こえ、青ざめた顔で立ち尽くす千紗ちゃんと雫ちゃんがいることに気が付く。
私はもう一度校長先生を見た。真っ赤な体は奇妙な人形のように見えて、不思議と恐怖は湧かなかった。
頭が痛い。
「私?」
「え?」
「私のせい?」
湊先輩は笑って首を横に振った。ぎこちない笑顔だった。
頭が痛い。
「違うよ」
「私が殺したの?」
「違う。校長先生は自分で死んだんだ。君は何もやってない。校長先生はちょっと悩みを抱えていて、そのせいで……」
「私が怪物になったせい?」
湊先輩が息を飲んだ。
「校長先生が悩んでいた理由を知ってるわ」
「あ、え」
「私が怪物に変身したから学校は大変なことになったのよ」
湊先輩の顔は、何故か青ざめていた。男らしい眉毛が険しく顰めらている。大量の汗が彼の肌に浮かんでは雨のように流れ落ちた。
彼は信じられないものを見るように私を凝視していた。
その後ろに立つ千紗ちゃんと雫ちゃんも大きく目を見開いて私を見下ろしていた。
頭が痛い。
「私の触手が皆を押し潰したの」
「ありすちゃん」
「私はたくさんの人を殺したの」
「ありすちゃん」
「だから校長先生を殺したのは私なの」
「ありすちゃん!」
湊先輩が怒鳴った。鋭い声が空気をつんざき、千紗ちゃんと雫ちゃんが怯えたように肩を揺らした。
彼は力強く私の肩を抱き、険しい顔のまま声を震わせた。
「君、
私は湊先輩に微笑んで返事をしようとして、
「おえっ」
胃の中のものを全部吐き出した。頭が割れるように痛かった。呻き声をあげて吐く私を見て、湊先輩は慌てて背中をさすってくれた。
頭痛がだんだん治まってくる。私はゆっくりと深呼吸を繰り返して、それからもう一度湊先輩を見て。
「……なぁに湊先輩? そんな顔して、どうしたの」
「えっ?」
スカートが汚れていた。赤色と黄色の液体が付いたスカートを見下ろして、どうしてこんなに汚れているのだろうと首を傾げた。
近くに可愛いお洋服屋さんがあったはずだ。早く買いに行かないと、と私は立ち上がって病院の出口へ向かう。
待てよ、と慌てて私を追いかけてきた湊先輩が腕を引っ張った。
強い眼差しにはいつも彼から感じる優しさを微塵も感じなかった。
「誤魔化さないでくれ! さっきの話の続きは!」
「話?」
「教えてよ。君はどこまで知ってるんだ、ありすちゃん!」
私は歩を進めながら記憶をたぐりよせる。そうするうちに自然と口元が笑みを描く。
さっきの話の続きも何も。私は、何も話した記憶なんてない。
「お話しなんてしてたかしら?」
ぬるい風がシャツを揺らす。張り付いた血が冷えて、夏だというのに少し寒かった。
空は青くてどこまでも広い。降り注ぐ日差しが、立ち尽くす湊先輩達の姿をジリジリと揺らしていた。
ねえ湊先輩。私は今日、何をしにここに来たんだっけ。
私が笑顔で尋ねても。湊先輩はすっかり顔を青くしたままで、何も答えてはくれなかった。
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