第44話 デパートでおにごっこ
エスカレーターを走っちゃいけないわ、ってママに言われていたことを思い出した。
私達はエスカレーターを駆け上がっていた。ダンッダンッと段を踏み鳴らすように走る私達を、お客さん達が何事かと怪訝な顔で見つめる。
スカートが風にはためく。前髪が暴れて視界をピンク色に隠す。体の内側が燃えるように熱くなって、肌が汗に湿る。
苦しい息を吐き出して、それでも私は笑った。
楽しかったのだ。おにごっこなんて子供のとき以来だった。
懐かしい気持ちに自然と頬が笑む。私以外の皆は、一様に頬を引き締めた固い表情をしていたけれど。
きっとおにごっこよりかくれんぼ派なのだろう。
「追いつかれそうだな」
「早く早く。もっと急いで、ありすちゃん!」
肩に乗ったマスターとチョコが声をあげる。二人はいつの間にかちゃっかりぬいぐるみ姿に戻って、息一つ乱さずのんびりとこの状況を楽しんでいるのだ。
振り返れば黒沼さんの姿がすぐそこにあった。エスカレーターを二段飛ばしどころか三段飛ばしで、あっという間に駆け上がってくる。見開かれた目はギラギラと輝き、私の顔を凝視していた。
二階に辿り着いた私達はお店の中を突っ切るショートカットをしてまでデパート内を駆け回った。商品が崩れる音がする。棚から物が落ちる音がする。店員さん達に驚愕の目を向けられ、ときには怒声をかけられる。そのたびに湊先輩が泣きそうな声で必死に謝罪の言葉を叫んだ。
足は止まらない、止められない。だけどこのままじゃすぐに追いつかれてしまうだろう。既に最後尾で顔を真っ赤にしてへふへふ舌を垂らしている雫ちゃんなんて、今にも倒れてしまいそうだった。
「あっ」
思った直後に雫ちゃんの手が黒沼さんに捕まった。あ、あっ、と雫ちゃんは目を白黒させて体をバタつかせる。黒沼さんはビクともしなかった。通り過ぎるところだったワインショップの、店頭に並ぶお酒の瓶が二人の振動でカタカタと揺れる。
捕まった、と私は声をあげる。真っ先に反応したのは千紗ちゃんだった。彼女はザッと脇に視線を走らせると、棚から焼酎瓶を取った。くるりと体を反転させた千紗ちゃんはその勢いのまま黒沼さんの肩めがけて焼酎瓶を振り下ろす。
けれど黒沼さんは片腕で瓶を受け止めた。そのまま簡単に腕を払い焼酎瓶を転がすと、ギョッとする千紗ちゃんの両手首を掴んで自分の元に引き寄せた。
「観念してもらおうか」
黒沼さんは平然としていた。腕の痛みなど何も感じてないような顔だった。片手に雫ちゃんを、片手に千紗ちゃんを捕らえているというのに、二人がいくら暴れようと彼の腕は振りほどけないらしい。
カーペットを敷いた床に焼酎瓶がゴロゴロと転がっていく。その瓶が雫ちゃんの足にぶつかった。と、彼女は意を決した様子で大きく口を開く。
「き……きゃーっ、痴漢!」
「は?」
突然雫ちゃんが叫んだ。黒沼さんだけでなく、残る私達もが目を丸くして彼女を凝視する。
一生懸命に絞り出したのであろうその声は酷く震えていた。おそらくその声を聞きとれたのも近くにいる数人くらいなものだろう。
それで十分だった。
「あんた何やってるんだ!」
近くにいたお客さんの一人が黒沼さんを後ろから羽交い絞めにした。それを見ていた店員さんも加勢して黒沼さんの肩を掴む。突然の第三者に黒沼さんは驚愕の表情を浮かべ、雫ちゃん達から引き剥がされた。
嫌がる女子高生二人を捕らえるタトゥーにピアスをした男。その姿はどう見ても怪しい人のそれでしかなかったのだ。
大丈夫かい、と雫ちゃんに声をかける人もいた。雫ちゃんは礼を言うが早いか、千紗ちゃんの手を取って逃げ出そうとする。
「このっ…………」
黒沼さんがそれを見逃すはずがない。彼はあっという間に周囲の人々を振り払った。細身の彼のどこにそんな力があるのか分からない。私は目を丸くして、また二人に手を伸ばそうとする彼を見た。その指先が雫ちゃんのなびく黒髪を掠める。
黒沼さんの顔面をワインボトルがぶん殴った。
「ゴッ」
彼の鼻を思いっきり殴ったワインボトルは、そのまま壁にぶつかってガシャンと割れる。飛び散った大量のワインが倒れる黒沼さんに降り注いだ。
ワインボトルを振りぬいたのは湊先輩だった。二人が捕まりそうになったのを見た彼が、咄嗟に手元にあったボトルを掴んですっ飛んで行ったかと思うと、そのまま黒沼さんの顔面を打ったのだ。
走れ、と湊先輩が叫ぶ。唖然と立ち尽くしていた私達はその声に慌ててまた駆け出す。騒然とするワインショップの声を後ろに聞きながら、湊先輩は青い顔で唇を震わせていた。
「お前やるじゃねえか!」
「か、顔に当てる気はなかったんだ。狙いが外れて……」
私の頬にワインがかかっていた。舌を伸ばしてぺろりと舐めれば、酸っぱいような苦いようななんともいえない複雑な味がしてきゅっと頬をすぼめる。
「ありすちゃん、それお酒だよっ」
「五万円のボトルって書いてたのよ。どんな味か気になっちゃって」
「ごまっ!」
「あたしがさっき投げつけた香水は二万だったなぁ」
「にっ……!」
被害総額、と呟く湊先輩の顔は青を通り越して真っ白だった。横でそれを聞いている雫ちゃんもへふへふ言いながらどんどん顔を白くしていく。
千紗ちゃんはそんな二人に笑いながら鼻を引くつかせた。汗ばんだ頬を拭い、不敵にニヤリと笑む。
「必要経費だろ」
「何がっ…………」
「考えなしに香水なんか投げたわけじゃねえ。言ったろ、最近鼻が利くって」
「え?」
「近付いてきたらすぐ分かる」
前を見たまま彼女はひくっと鼻を鳴らした。私と湊先輩は振り返る。すぐ後ろに、凄まじい形相で私達を追いかけてくる黒沼さんの姿があった。
私と湊先輩は凍り付く。黒沼さんは顔からダラダラと血とワインの混じった赤い液体を流し、額に血管を浮かせてこちらを睨みつけている。
鬼の形相とはまさに今の彼を言うのだろう。
「湊ぉ!」
「ひぎゃっ」
名指しで怒鳴られた湊先輩が飛び上がる。思わず立ち止まりそうになった湊先輩の手を引っ張り、千紗ちゃんが曲がり角を曲がる。
「こっちだ」
曲がった先にあるのはスタッフ専用の通路口だった。ちょうどどこかの従業員さんがカードをかざして扉を開けようとしている。
千紗ちゃんはまっすぐそこに突っ込んでいき、驚く従業員さんを押しのけて飛び込んだ。私達も後に続く。背後でゆっくり閉まろうとしていた扉がまた乱暴に蹴り開けられる音がした。後ろでまた従業員さんの悲鳴が上がる。振り返る余裕はなかった。
部屋の中を、通路を、休憩室を走り抜けて進む私達を皆が驚いた顔で見つめている。先頭の千紗ちゃんはひくひく鼻を鳴らしてあちこちを駆けていた。多分、物音を聞いて逃げ道を探っているのだろう。匂いを嗅いで、黒沼さんがどこから追ってくるか探っているのだろう。私達が嗅ぎ取れない香水とワインの香りも、千紗ちゃんには感じ取れる。
不意に千紗ちゃんが足を止めた。見れば、前方から警備員さんが怖い顔をして私達の方へとやってくる。
千紗ちゃんは即座に身をひるがえして近くにあった部屋に飛び込んだ。私達も慌てて飛び込んで、雫ちゃんが鍵をかける。直後扉を強く叩く音と、開けろ、と怒鳴る黒沼さんの声が聞こえた。
物が乱雑に詰め込まれた部屋だった。倉庫らしい。空気は埃っぽく、どうやら長いこと使われていない部屋のようだ。
窓を見つけた千紗ちゃんが鍵を開けようとする。だが錆びついた鍵はまるで動かない。湊先輩も手伝ってなんとか鍵は開いたものの、ガタついた窓は僅かにしか開かない。
「もう来ちゃうよっ!」
入口の扉が殴られ軋む音を聞いて、雫ちゃんが悲鳴をあげた。私と雫ちゃんは窓際に寄って身を寄せ合い、震えることしかできなかった。
湊先輩がそんな私達を見て真剣な眼差しをする。彼はああもう、と悪態をついたかと思うと、近くに積まれていた埃っぽい布をぐるぐる拳に巻いた。
「算段があるんだろうな!」
湊先輩は思いっきり窓ガラスを殴った。
バリバリとガラスが砕ける。ここは三階。下に見えるのは駐車場。とめられた車の屋根にガラス片が散っていくのを見ながら、おう、と千紗ちゃんは笑って雫ちゃんの手を取った。
千紗ちゃんはぐっと雫ちゃんの体をお姫様抱っこで持ち上げる。重そうによろめきながらもなんとか窓枠に押し上げ、
「雫、変身だ」
「えっ?」
キョトンとする雫ちゃんをそのまま窓から押し出した。
雫ちゃんが目をぱちくりさせたまま落下していく。その顔は段々驚愕に変わり、彼女は大きな悲鳴を上げた。
「キャーッ、へんし、へんっ。変身! 変身! 変身!」
彼女が叩きつけられる寸前その体が青い光に包まれる。半分だけ魔法少女ブルーちゃんに変身した彼女は、車の屋根に背中をバンッと叩きつけ、ぐぇっと呻いた。
よし、と千紗ちゃんが飛び降りる。ブルーちゃんの体の上に容赦なく。踵で顔面を踏まれたブルーちゃんは白目を剥いたが大したダメージは受けていないようだった。魔法少女は頑丈なのだ。
ブルーちゃんはあうあう半泣きになりながらも残る私達を受け止めようと手を伸ばしてくれた。湊先輩が私を窓に押し上げる。
そのとき扉が勢いよく開け放たれた。ぎらついた目をした黒沼さんが部屋の中にズカズカと入ってくる。
まずい。このままだと、湊先輩が捕まっちゃう……!
「チョコ、マスター!」
私は肩に乗っていた二人を思いっきり投てきした。投げるタイミングを誤ってチョコは勢いよく床に叩きつけられた。マスターは投げられる直前で私の手を蹴り、その勢いに乗せて黒沼さんの顔に飛びついた。
黒沼さんはすぐマスターを引き剥がそうとした。が、爪を立てられてビクッと肩を震わせる。マスターは彼の顔にしがみ付いたままこちらに目配せをする。早く行け、と言うのだろう。
私は窓から飛んだ。ブルーちゃんの体の上にまっすぐ落下する。目をつぶっていたから何も見えなかったけれど、落ちた瞬間、ぬめる生温かい肉に包まれるような感触がして驚いた。すぐに目を開ければ、そこにはキラキラと青く輝く魔法少女がこちらを不思議そうに見つめているだけだったのに……。
マスターと、顔を赤くしたチョコを抱えた湊先輩も飛び降りた。彼はブルーちゃんに抱きとめられるように無事着地する。
「お、いっ?!」
三階の窓から黒沼さんが顔を出す。彼は私達を見た瞬間、その顔を驚愕に凍らせた。
彼とブルーちゃんの視線がかち合った。みるみるうちに双方の顔が青く染まっていく。ブルーちゃんが咄嗟に腕を振り魔法を飛ばした。少量の水を飛ばす簡単な水鉄砲だ。
黒沼さんはあっと目を丸くして素早く顔を引っ込めた。水は窓ガラスの下にぶつかって、壁を流れ落ちていく。
「い、行こっ!」
変身を解いた雫ちゃんが言った。また走りながら、ふと私は振り返る。
壁を流れていく魔法の水は、何故だか黒っぽい墨のように見えたのだ。
おそるおそる窓から顔を覗かせた黒沼さんは辺りを見回して、駐車場を走り去る私達を唖然と見つめていた。彼はまだ三階にいる。ここに下りてくるまで時間がかかるだろう。
もうおにごっこは終わりね。少し残念に思って溜息を吐いたとき、黒沼さんがぐっと窓ガラスを掴んだのが見えた。
彼は一息に窓枠に飛び上がった。そして、そのまま躊躇なく飛び降りたのだ。
私は悲鳴を上げた。けれど黒沼さんは見事に車の屋根に着地して、大したダメージを受けた様子も見せずに地面に降り立った。
「嘘だろ…………」
同じ光景を見たらしい湊先輩が唖然と呟いた。ゆらりと立ち上がった黒沼さんがこちらを見つめている。残暑の陽炎に照らされて、黒い髪がジリジリと揺れていた。酷な暑さの中で、その鋭い目だけがどこまでも冷たく、おそろしい。
ゾッと背筋を駆け上がった恐怖にたまらず背を向ける。随分と離れているのに、背後から地面を勢いよく蹴る音が聞こえた気がした。
「っ」
千紗ちゃんが急に方向を変える。街の中へ逃げ出そうとしていた彼女は、すぐ隣にあった建物の中にまた飛び込んだ。私達も慌ててその後に続く。
彼女が行きたいと言っていたディスカウントショップだった。五階建ての建物の内、三階までがお店になっていて、残りの二階が駐車場になっている大きなお店だ。
それぞれの階に食品やら家具やらおもちゃやら……と物が雑多に溢れている。ごちゃごちゃとした店内はお客さんで賑わっており、楽しげな音楽と混ざって耳がうるさかった。
「あいつ、どこまでも追いかけてきやがる。このままじゃ街に逃げたってすぐ追いつかれる」
「ここに、逃げても、同じだよっ。さっきと同じ……。建物の中なんて、もっと逃げ道がない!」
「でもさっきの店より武器は多いぜ」
千紗ちゃんの言葉に雫ちゃんが不思議そうに首を傾げた。千紗ちゃんはひくっと鼻を引くつかせ、入口に視線だけを向けて舌を打つ。見ずともまた黒沼さんが近付いてきているのだろうことは私達にも分かった。
エスカレーターを上り、そのまま駐車場にでも向かうのかと思えば彼女は三階に降りたった。
「このまま逃げ続けててもらちが明かない。こっちの体力が尽きるのが先だ」
彼女の視線は雫ちゃんに向いていた。ケホケホと咳き込んでいた雫ちゃんは恥ずかしそうに目を反らした。汗みずくの赤い肌に黒髪が張り付いている。
限界なのは私達もだった。呼吸がさっきからちっとも落ち着かない。湊先輩だって気丈に振舞っているけれど、その手足は疲労に震えていた。
千紗ちゃんは額の汗を何度も拭った。しとりと濡れた頬からぽたりとまた一つ汗が落ちる。
「ここで迎え撃つ」
「迎え撃つっ?」
「この店は物が多いだろ。武器になりそうなものはいくらでもある。そこのボールだって投げれば目くらましくらいにはなるだろ……多分」
私はぐるぐると周囲を見渡した。確かにここは物が多い。おもちゃのバスケットボールに煙草、モデルガン、お洋服、パーティーグッズ。何でもござれだ。
ボールは投げれば目くらましができる。モデルガンは構えれば相手が怯む。お洋服を着替えれば相手の目を誤魔化せる。パーティーグッズのクラッカーを鳴らせば驚かせることができる。
どれも武器になるわ、と私は声を弾ませた。子供だましにしかならないだろ、と湊先輩が呆れた声で言った。
「それでもここであいつを何とかしない限り、あたし達は確実に捕まる。子供だまし程度でも騙せれば上々だ」
「…………分かった。なら、どうやって彼を退けられるか考えないと」
「ちっ」
湊先輩の言葉に答えず千紗ちゃんはまた舌打ちをした。彼女は靴が並ぶ棚の後ろにパッと身を隠す。私達はエスカレーターへ目を向けた。そこには誰の姿もない。だが下の階から物凄い勢いで上がってくる誰かの足音が聞こえてきた。
慌てて私達も隠れる。雫ちゃんはおもちゃコーナーに隠れ、チョコとマスターはぬいぐるみが並ぶ棚に座って紛れ、私は近くにあったカーテンをくぐった先の通路へ飛び込む。隣にいた湊先輩の袖を咄嗟に掴んでいたようで、彼も私の隣で息をひそめていた。
そっとカーテンを捲って様子を伺う。予想通り、黒沼さんが店内をぐるぐると歩き回っている姿が見えた。額から血とワインが混じった真っ赤な液体を流す彼の姿は鬼のようだ。彼を見たお客さんが小さく悲鳴を上げる。それでも彼は構った様子もなく、ただ鋭い視線を周囲に巡らせているのだった。
「早く武器を探さなくちゃ」
「そ、そうだね」
何故か湊先輩はぎこちない顔で笑った。視線が泳いでいる。その目の先は、私達が飛び込んだ通路に並ぶ商品に向けられていた。
ここは多分おもちゃコーナーの一角だった。見たことのない形のおもちゃがたくさん並んでいる。サンプルとして飾られていた商品を手に取れば、湊先輩はビクッと肩を跳ねて私の持つおもちゃを凝視した。
「それ武器にするの……?」
「ええ!」
ブンッと勢いよくおもちゃを振る。適当に取ったものの、なかなか手にフィットして持ちやすい。棒状の形なのも攻撃をするのにピッタリだ。
「これピンク色でとっても可愛い」
「そうですね」
「こんな形のおもちゃ初めて見たわ。不思議なおもちゃ。どうやって遊ぶのかしら……」
「湊先輩は分からないです」
「あらそうなの。じゃあ、明日学校に持って行って先生に聞いてみましょ」
「やめろ!」
おもちゃを振っていればどこかのスイッチを押したようでブブブブと震えだす。なんだか生き物みたいで可愛らしい。凄い機能ね、と湊先輩に振り返れば彼はもはや顔を覆って私を見ていなかった。
「なんて名前のおもちゃかしら」
「何かよく分からない物です」
「『ナニカヨクワカラナイモノ』ちゃんね」
「はい」
「湊先輩も武器を持つといいわ」
「ありがと…………」
「これ、ハチミツ」
「いやちが…………ありがと」
また適当に取った商品を彼に渡す。透明な液体が入った筒状の容器は握りやすそうで武器になりそうだ。彼は複雑そうにそれを見下ろし溜息をつく。トロトロと揺れる粘性のある液体……多分新種の透明なハチミツだ。
私はナニカヨクワカラナイモノを構え凛々しく通路を覗いた。隣で湊先輩もハチミツを持って立つ。まだ疲労が抜けていないのか、彼の顔はまだ真っ赤だった。
「さあ、行くわよ!」
通路を歩いていた黒沼さんが足を止めた。彼の視線はぬいぐるみが並ぶ棚に向かっていた。可愛い猫のぬいぐるみが並ぶ棚に二つ違うぬいぐるみが紛れている。チョコとマスターだ。
黒沼さんはチョコをひょいと持ち上げまじまじとその体を眺める。ぬいぐるみのフリをしたチョコは動けない。黒沼さんは指でピンク色の毛を撫で、怪訝に眉をひそめた。
けれど、彼は視界の端に横切った何かにパッと顔を上げる。通路を横切ろうとしていた千紗ちゃんに気が付き、彼はチョコを放って彼女を追いかけようとした。千紗ちゃんが勢いよく振り返り、迫る黒沼さんを見て息を吸う。
「ガウ!」
彼女の口から零れたのは獣の声だった。威嚇の声が空気を震わせ、黒沼さんの足を一瞬だけ止める。その隙に千紗ちゃんは思い切り地面を蹴った。
たった一足。だが彼女の体は人間の跳躍を無視したレベルの距離を飛んだのだ。黒沼さんの目が大きく見開かれる。
彼には見えていただろうか? 千紗ちゃんは靴を履き替えていた。彼女の足には随分と大きすぎるスニーカー。
それは地面を蹴った瞬間にビリビリと底が破け、彼女の素足を覗かせていた。キラキラとした光をまとう白い肌は、彼女の一部分である足だけが魔法少女に変身していることを示していた。
「今だ、倒せ!」
千紗ちゃんが怒鳴る。その言葉の直後、黒沼さんの横にあった棚がぐらりと大きく揺れた。
バラバラと大量のぬいぐるみが降り注ぐ。彼はギョッとし、咄嗟に肘で棚を押さえた。
棚は止まる。だが、その上から降ってくる二つのぬいぐるみの存在にまでは気が付かなかったようだった。
「おりゃっ」
「ぐっ!?」
棚の上に乗っていたチョコとマスターは、そこから飛び降りたと同時に人間の姿に変身した。そしてまっすぐ黒沼さんの体の上に落下したのだ。
マスターの骨ばった膝が彼の肩甲骨を抉り、チョコの豊満なボディが彼の腰に直撃する。黒沼さんは口から唾を吐いてその場に倒れ込んだ。
くそ、とそれでも悪態をついて彼は起き上がろうとする。振り向きざまに背中に乗る何者かをどかそうとした彼は、そこに何も乗っていないことに気が付いて目を丸くする。ぬいぐるみ姿に戻ってコロリと転がったチョコとマスターは、散らばる大量のぬいぐるみに紛れこんでいた。
「ざまあねえな」
倒れた彼を馬鹿にするように、わざと彼の前に姿を現した千紗ちゃんが笑う。黒沼さんは弾かれたように起き上がり駆け出した。千紗ちゃんほどでないにしろ、その反応速度はとんでもないものだった。
ギャッと悲鳴をあげた千紗ちゃんが踵を返して駆け出す。また地面を蹴って大きく前にジャンプする彼女を黒沼さんが追いかける。
けれどその手が彼女の背中を掴む寸前、黒沼さんの足元にピンとロープが張った。
棚の陰に隠れていた雫ちゃんが、おもちゃコーナーにあった縄跳びで通路に足止めを作っていたのだ。黒沼さんの膝がまっすぐそのロープに突っ込んでいく。
「バレバレなんだよ!」
だが黒沼さんの長い足は容易くロープを飛び越えた。気が付いていのだろう。必死にロープを引っ張っていた雫ちゃんは上空を飛ぶ黒沼さんをぽかんと見つめ、その顔に焦りを滲ませる。
黒沼さんの足が床に着地する。そして、そのまま思いっきり滑った。
「っ、え……ガッ!」
「よし!」
ガッツポーズをして雫ちゃんの後ろから湊先輩が現れる。彼が持っているハチミツは半分以上がなくなっていた。床がぬるぬるした液体で汚れている。後で掃除が大変だろう。
ハチミツを持つ湊先輩を見て千紗ちゃんがこらえきれずに噴き出す。雫ちゃんが何とも言えない表情を浮かべて顔を反らす。湊先輩は二人の視線を受けてガッツポーズをそっと解くと、気まずそうに唇を尖らせた。
「流石湊先輩、そういう道具の扱いには慣れてるな」
「うるさいよっ」
「み……湊くん…………」
「やめ、雫ちゃ、そんな目で僕を見ないで。ちが……ああもう、クソッ。ありすちゃん!」
その言葉を合図に、私はカーテンをくぐって飛び出した。
「任せて!」
武器を振り上げる。ピンク色のナニカヨクワカラナイモノが私を奮い立たせるように猛烈に振動していた。千紗ちゃんの笑い声が一層大きくなって、雫ちゃんがわーっと大声で叫ぶ。
後頭部を打ち付けた黒沼さんは、痛みに顔を歪めながらも立ち上がろうとしていた。向かってくる私を見て、ハッと表情を引き締める。私も凛々しい表情を作り、力強くナニカヨクワカラナイモノを構えた。
これで彼の頭をぶん殴ってやるのよ。それともほっぺを引っ叩けばいいかしら。口に突っ込む? ううん、目に刺してやるのがいいかしら!
彼に叩きこむ一撃を考えながら私は足を踏み出す。
床に撒かれていたハチミツのことはすっかり忘れていた。
「あ」
体が勢いよく仰向けに倒れる。逆さまになった視界に、ぽかんと口を開く湊先輩達の姿が映る。誰も私を支える時間なんてなかった。
前に投げ出された足は勢いをつけて加速する。その爪先が、黒沼さんの股間にズドンとぶち込まれた。
「う゛っ!」
「ぎゃんっ!」
悲鳴が二つ重なった。一つは床に頭を打った私の声、もう一つは何故か湊先輩の声だった。
湊先輩はゾッと顔を青くさせ前かがみになっている。両隣の千紗ちゃんと雫ちゃんも口を覆って私の後ろを見つめていた。頭の痛みにぐすぐす泣きながら私もゆっくり顔を上げる。
黒沼さんは横向きに倒れていた。股間を押さえ、ぶるぶると体を震わせている。顔中にびっしょり脂汗をかき、その顔色を赤くしたり青くしたりと忙しい。
「ぎっ、ぃ…………! ぐ……! っ……!」
「どしたの!」
一目で相当痛がっていると分かる悶え方だった。黒沼さんがこんなに苦しそうな顔をしているのなんて見たことがない。一体何があったというのだろうか。
近付いてみても彼は立ち上がらない。ちょんちょんと頬をつついてみれば、前髪の隙間から彼の目がゆっくりとこちらを睨む。真っ赤に充血した目に涙がたまっていた。
「黒沼さん、大丈夫?」
彼の口が緩く笑む。緩慢に瞬きをすれば、その眦からぼろりと一粒の涙が零れた。ひゅーひゅーと掠れた呼気の中から、か細い声がぼんやりと聞こえる。
「…………こ」
「『こ』?」
「……………………殺す」
「はわわ」
壮絶な怒りの声が私に向けられた。血の気が引くほど冷たく、心臓が燃えるほどに熱い激情だった。そんな巨大な感情を向けられて私は、呆けた声を出すことしかできないのであった。
「すみません! ごめんなさい! 失礼します!」
「あっ」
そんな私の両脇をひょいと持ち上げたのは湊先輩だった。彼は急いで黒沼さんから私を引き離すと、すみません本当にすみません、と何度も謝罪しながら脱兎のごとく駆け抜ける。
私はぽかんとしたまま彼に運ばれていたが、ハッとして倒れている黒沼さんに目を向ける。正確にはその近くに転がって震えているナニカヨクワカラナイモノに視線を向ける。
「待って先輩。あのおもちゃが欲しいのよ。戻ってちょうだい」
「無理に決まってるだろ!」
「ちゃんと自分のお小遣いで買うわ! お願い。もう名前も付けたの。お家に連れて帰ってリボンを付けてあげるの。おやつもあげるのよ」
「バイバイしなさい!」
「ああっ」
無常にもおもちゃと私の距離は離されていく。ブブブと震えるおもちゃは、まるで私に別れを告げて手を振っているようにも見えた。
「ナニカヨクワカラナイモノ――――ッ!」
手を伸ばしてすすり泣く私を見て、馬鹿な子だよとチョコが言った。
エスカレーターで降りようとした湊先輩が、そこに人だかりができているのを見て足を止めた。どうやら私達の騒ぎに気が付いた人達が何事かと野次馬状態になっているらしい。
方向を変えて私達はエレベーターに向かった。ちょうど三階にやってきていたエレベーターに乗り込み、ほっと息を吐いてボタンを押そうとする。
その瞬間、向こう側からガンッと扉を無理矢理こじ開ける手が現れた。
「逃げ、るな、よぉ……?」
無理矢理開いた扉の向こうから、黒沼さんがニコリと微笑んでこちらを見つめていた。
赤い血が垂れる蒼白の顔にぎらついた目。汗がだらりと垂れて、彼の首元を濡らしている。
それはもう、言葉に言い表せないほどに、私達を恐怖に陥れる顔だった。
「キャーッ!」
「あはは」
「イヤーッ!」
私達は抱きしめ合って悲鳴を上げる。黒沼さんは笑いながらエレベーターの中に入ってきた。
扉がゆっくりと閉まっていく。もう駄目だ。負けちゃったわ、と追い詰められた私は強く目を瞑った。
「っ、逃げろ!」
湊先輩が黒沼さんに飛びかかった。彼の胸倉を掴んだ彼は、そのまま黒沼さんをエレベーターの壁にダンッと押し付ける。
私達が茫然としていると、湊先輩はまた逃げろと叫んだ。雫ちゃんがハッとして私と千紗ちゃんの手を掴み、閉まる寸前のエレベーターをこじ開けるように抜け出す。
黒沼さんが外に出ようとするのを湊先輩は必死に止めていた。彼の手でボタンが押され、私達の目の前でエレベーターの扉が閉まる。四階、五階、と上階へ進んだエレベーターは屋上で止まった。
「どうしよう、湊くんが……!」
雫ちゃんが唇を震わせてへたり込む。その横で千紗ちゃんは呑気にあくびをして、首をコキコキと回した。
「あいつなら一人でなんとかするんじゃね?」
「相手はヤクザなんだよ!? は、早く助けに行かないと……」
「また逃げ回るのか? あたし、もう足が限界なんだけど。お前もだろ」
雫ちゃんは千紗ちゃんの言葉に黙りこくる。その通りなのだ。
それでもどうしようどうしようと焦る彼女の肩を私は叩いた。
「私達なら大丈夫よ」
千紗ちゃんと雫ちゃんが目をパチリと瞬かせた。チョコとマスターも私の足元から、怪訝そうにこちらを見上げる。
「大丈夫って、何?」
「鬼さんがいなくなっちゃったから、おにごっこはもうおしまい。次の遊びをしましょう」
「……かくれんぼ。おにごっこ。で、その次は?」
私はニッコリと笑って彼女の問いに答える。
答えは勿論。幼い頃から私達が大好きなあの遊びだ。
「魔法少女ごっこ!」
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