第30話 真夜中のおはなし
夜十二時。パパとママの寝室も真っ暗に静まり返っている時間。
客間に敷かれた布団には湊先輩が眠っていた。そして私は客間に忍び込んでいた。正確には、眠っている先輩の上に覆いかぶさっていた。
カーテンの隙間から差し込む月明かりが彼の顔を青白く照らしている。目の下にまつ毛の影ができている。こうしてまじまじ見てみると私より長いんじゃないかしら、と頬を膨らませて彼のまつ毛を指でつついた。
うぅん、と先輩が唸る。何度か頬を突けば、彼の目がぼんやりと薄く開いた。
「湊先輩」
「ん……? …………。うおっ!?」
目を開けた湊先輩は、自分の上に乗っかかっている私を見てビクリと肩を跳ね上げた。
頬をぴっとりと彼の胸元に当てる。眠れないの、と小さな声で囁いた。
「お友達が家にいるってだけでなんだかドキドキしちゃうの。いつもはベッドに入ったらすぐ眠っちゃうのに。こんなに起きているなんてはじめて」
「お…………」
「ふふ、心臓が凄くドキドキしている音がするわ。湊先輩も緊張しているの?」
「わ……分かった。分かったから。離れて。お願い」
湊先輩は首を振って私の肩を押しのけた。ニコニコと微笑む私を見つめて溜息を吐いた彼は、ささっと私の体に掛け布団をぐるぐる巻いて、優しく頭を撫でてきた。
「じゃ、おやすみ」
「ま……つれない人」
「もうお部屋にお戻り。子供はもう寝る時間だよ」
「十五歳はもう大人よ!」
「静かに! ……とにかく戻りなって」
「じゃあ、だっこして」
「は?」
「お姫様抱っこ」
私はコテンと首を傾けた。湊先輩はぽかんと目を丸くしてしばらく黙ると、俯いてガシガシと髪を掻く。
彼は私の体を抱いて立ち上がった。あまりに簡単に持ち上げられるものだから、力持ちね、とはしゃいだ。彼は無言だった。
廊下はシンと静まり返っている。静かにね、と小声で忠告する彼にくすくすと笑いながら頷いた。こんな時間に起きているのがバレたらパパとママに叱られちゃうものね。
無事に私の部屋に辿り着く。けれど扉を開けた彼は「うおっ」と驚いた声を出して立ち止まった。何かおかしい物があったかしら、と私も部屋を見る。
なんてことのない普通の部屋だ。ピンクと白の家具が溢れる、この家の中でも一番お姫様みたいに可愛い部屋。
湊先輩はおそるおそるといった様子で部屋の中に足を踏み入れ、きょろきょろと辺りを見回す。彼の視線を追えば、壁にびっしり貼られた魔法少女の写真やポスター、棚の上にずらりと並ぶ魔法少女のアイテムが私の目にも映る。
何かおかしいところがあるかしら、と改めて首を傾げた。
湊先輩が私をベッドにおろす。そのまま踵を返そうとした彼の服を掴む。
「行かないで」
まだ行ってほしくなかった。振り向いた彼に縋るような言葉をかける。
「今夜はまだ夢を見ていたいの」
私は小鳥のさえずりのような声で囁いて、そっと彼の体にもたれかかった。耳にかけていた髪がハラリと落ちて頬にかかる。
まだ眠りたくないとき、私はよくこうして甘える。だってそうすると、パパもママもしょうがないねぇと嬉しそうに微笑んで添い寝をしてくれるんだもの。
窓から月光がとろとろと差し込んでいい塩梅だった。添い寝をして少しお話しをしてくれれば、大層幸せな気持ちで眠ることができるだろう。
けれど湊先輩の反応は望んでいたものじゃなかった。彼は、もうすっかり見慣れた、困ったような笑みを浮かべた。私の体をぐっと押し返し、黙って首を横に振る。
「君は何をしようとしているの。こんな時間に、僕を呼んで……」
「絵本を読んでほしかったの」
「はっ? 絵本?」
「眠れない夜は、ママがよく絵本を読み聞かせてくれるのよ」
お気に入りの絵本がある。それを湊先輩に読み聞かせてほしい、お喋りもしてほしい。
せっかくおとまりをするのだから。私はもう少し、湊先輩と遊びたかった。
じっと黙っていた彼は突然肩を揺らして笑った。喉仏を動かしてくっくと低い笑い声を零す。鼻にかかった溜息を吐いた彼は、静かな視線を私に向けた。
その表情は妙に大人びていた。
「なんだか分かった気がするよ」
「何を?」
「君がどうしてそんな子になったのか」
彼がベッドの縁に腰かけた。私に向ける眼差しは柔らかだった。その眼差しはパパやママととてもよく似ているけれど、同時にどこか、違うもののような気がする。
「今日見ていた分だけで分かる。君のご両親は相当、君のことを愛しているんだな」
「当然よ。パパとママは、私のことを世界一愛しているの。自分の子のことが嫌いな親なんていないもの」
「…………愛しすぎなんじゃないかな」
ギシリとまたベッドが軋む。湊先輩が僅かに身を乗り出した。彼の細長い指がシーツを躊躇うように引っ掻く。
「きっと君の基盤となったのは、君のお母さんだ。見れば分かるよ。あの人は君とよく似ている。ちょっと変わっていて、ピンク色が好きで、甘い物が好きで、可愛い物が好きで、そして多分魔法少女のことも好きだったんだろう。彼女が幼い君に見せた『魔法少女』の作品が全てのはじまりだ。君はそのときから魔法少女という存在にとらわれ続けている。
お母さんもただ、娘に自分の好きなものを見せたいと思っただけなんだろう。まさかこんなに狂ったようにハマるだなんて思っていなかったはずだ。
それでもお母さんは君のことを止めなかった。君の異常な執着を、深い愛情で受け入れている。君が「普通」から外れていこうとも愛すると誓ったんだろう。
お父さんだってそうだ。あの人だって君に随分と甘い。これまでも君を何度も止めようとして、正そうとして、結局一度も止められないまま今に至っている。今の君を受け入れて愛している。
二人とも「今の」君を愛している。君を無理矢理矯正しようとしない。素敵なご両親だよ。
でも、君にとってはそれでよくても、周りにとっては必ずしもそうじゃない。酷なことを言うけれど、君が行った行動で傷ついた人間だって大勢いるんだ。
ありのままの君を肯定することは、愛情とは言い難い。本当に君を愛しているのなら、時には無理にでも君に現実を見せないと」
「…………湊先輩はたまに難しいことを言うわ」
と私は唇を尖らせて腕を組んだ。
湊先輩はちっとも笑わず、まっすぐに私を見つめて続ける。
「ありすちゃん。君はいつも、夢を見ている」
「うん」
「夢を見るのはいいことだ」
「うん」
「君はずっと『魔法少女になる』という夢を追い続けていたから、その願いを叶えることができた」
「うん」
「でもね」
湊先輩はそこで一度言葉を区切り、改まった表情で私をまっすぐに見つめた。
「『現実』が見えていないと、『夢』を見続けることだってできないんだ」
私は頷いて、そのまま首を傾げた。何が言いたいのかちっとも理解できない。
私は彼の言う通り、ずっと魔法少女になることを夢見ていた。夢見る可愛い女の子。
だけど、現実っていったい何の話かしら。私はちゃんと現実の世界に生きているのに……。
「君はもう少しだけ大人になった方がいい」
「私はもう大人だって言ってるじゃない」
ムッと尖らせた唇を彼に向けた。なんだかお説教をされているみたいだ。どうしてそんな風に言われなければならないのだろう。
大人だもん、と私は拳を振り上げた。けれどそれをおろす前に彼が私の手首を掴む。押しても引いてもびくともしない。
「何するの? 離して」
「いいかいありすちゃん。好きでもない男の所に、夜に遊びに行っちゃいけないんだよ」
「湊先輩のことは好きよ。お友達だもの」
そうじゃないよ、と湊先輩は言った。
そのまま彼がそっと私の腕を押せば、体は簡単に仰向けに倒れる。枕に髪の毛が広がった。
目の前に湊先輩の顔が近付く。私の鼻先と彼の鼻先がトンと触れた。私達の目がじっと互いを見つめ合う。
十秒間の沈黙が続く。けれど彼の癖っ毛がくしゃりと私の額を撫でるから、くすぐったくて、とうとう耐え切れずに笑ってしまう。負けちゃった! と言えば彼は怪訝な様子で目を細めた。
「にらめっこでしょう?」
私は笑って彼の拘束から抜け出そうとした。けれどいくら手首に力を込めたって湊先輩の体はビクとも動かない。私はキョトンとして湊先輩を見つめる。
彼の指がサリサリと私の手首をなぞった。低く淡々とした声が私の耳に落ちてくる。
「君は……こうして変身さえしなければ、僕に力で簡単に負けてしまうんだ。もしも僕が悪い人だったらどうする? 君は簡単に殺される。酷い目に遭って泣いてしまうかもしれない。そんなことをされる想像はできているの?」
「酷いこと? なぁにそれ。湊先輩が私に酷いことをするわけないじゃない。だって、友達なんだもの」
「ありすちゃん」
彼は咎めるように言った。低く掠れた声がいつもの彼の声と違う。私は目をぱちぱちと瞬かせて彼を見つめることしかできなかった。
手首を掴む彼の指は節だっている。せり出した喉仏が、彼が喋ると上下する。
不思議ね。お友達の男の子達に囲まれている彼を見かけるとき、綺麗な顔立ちの彼はあんまり男の子っぽく見えないのに。こうして改めて見つめる彼は、男の子にしか見えないんだから。
「夢を叶えるまでは、ただ夢を見ているだけでいい。だけどその先はただの憧れや夢だけじゃ走れない。君はあんまりにも現実が見えていない。君はもう少し現実を知らないと。常識を身に着けるんだ。周りを見ずに突っ走ってるだけじゃ、世界中の人を救うことなんてできないよ。考えて動くことを覚えなければ、救うべき命まで殺してしまう」
「殺してしまう?」
「君が持つ力は、一歩間違えば兵器にだってなってしまう。世界を救うつもりが、世界を壊すはめになる。だから、常識を身に着けるんだ。してはいけないこと、やってはいけないことを死ぬ気で覚えるんだ。夜に軽々しい気持ちで異性の寝室に遊びに行ってはいけない。怪しい人を見かけてもすぐ一人で話しかけに行ってはいけないよ。ストローで人の目を刺したりしちゃいけない」
「…………どうして?」
「それがどうしてか分からないうちは、君に魔法少女に変身する資格はない」
私の頭がカッと熱くなった。湊先輩を睨み、その胸を膝でドンと押す。目いっぱいに力を込めたのに彼の体はほんの少し揺れただけだ。それがなんだかあんまりにも悔しくて、目に涙が溜まる。
「分からないわ」
ふわりと淡く部屋が明るくなった。よく見れば、私の体の周囲に、小さな光の玉が浮かんでいるのだ。じわじわと体の四肢が熱を持つ。腕の先が光に包まれて、緩やかに形を変えていく。
湊先輩がハッと目を見開いた。私の体を見つめ、一転して焦った顔をする。
「ありすちゃ……っ」
「私のどこが悪いって言うの。だって変身できているじゃない。悪い人達だってちゃんと倒しているじゃない。これ以上ないくらい立派な魔法少女なのに、どうしてそんな酷いことを言うの……」
光が段々強さを増していく。部屋はまるで真昼のように明るかった。私の四肢を包む光は燃えるように熱くなって、そこの部分がずるりと形を変えていく感覚がする。
じゅるり。ぺちゃり。と、どこからか粘ついた水っぽい音が聞こえた。何の音かしら、と怪訝に思う視界の端に、何か蠢いているような影が見えた。
ピンク色の壁のいたるところが黒く染まっている。……いいや、よく見れば、黒い、粘ついた何かが壁を這っているのかもしれない。涙がたまった目では周りの景色がよく見えない。きっとこれは幻覚だ。私の不安な心が見せる恐ろしい幻覚。
「私は何を知らないの? 常識とか、現実とか、何を言っているの? 難しいことを言わないで。怒らないでよ。嫌よ」
「ありすちゃん。ありすちゃん、落ち着いてくれ。頼むから……」
嫌々と首を振る私の両頬を彼が掴む。彼は酷く真剣な顔で私を見つめた。肌にじっとりと汗が滲んでいる。その彼の背後に見える天井はもう、黒い何かがじゅるじゅると覆い隠しはじめていた。
ピンクの部屋が真っ暗になっていく。黒い何かが部屋中を埋め尽くしていく。じゅるじゅるにちゃにちゃと嫌な音があちこちから聞こえる。
その音はどうしてか、私の体の内側から、いっとう強く聞こえてくる気がした。
「魔法少女を続けて世界を守ろうとするのなら。少しでいい。現実に目を向けてほしいだけなんだ。このまま夢だけを見続けるだけじゃ、君はまた変身して人を■してしまう。周囲が見えずに突っ走って、人を謚シ縺玲スー縺励※しまう。辟シ縺肴ョコ縺励※しまう」
「いや。いや。いやっ」
「お願いだ。頼むよ。大人になってくれ、ありすちゃん……!」
「そ、そうやって人を非難するのが大人なの? 湊先輩はもう大人だっていうの? そんなのが大人なら、私、大人になんかなりたくないわ!」
どぷん。と重い粘ついた水の音が至近距離から聞こえた。ふと顔を上げれば、部屋の中はもうすっかり黒い何かに覆われていた。
湊先輩がその暗闇の中に腕を引きずり込まれる。しまった、と彼が青ざめた顔で私を見つめた。ずるりと黒いそれは湊先輩の体を覆い、暗闇の中に放り込もうとする。
「…………お取込み中?」
その声に私はハッと振り返った。すぐ後ろに立っていたチョコが、私達を見てわざとらしく口を押さえていた。
私達の声で眠っていた彼が起きてしまったのだ。寝ぼけた目をふわふわの手で擦り、眠たそうにあくびを繰り返している。
ふと我に返る。気が付けば、部屋はいつの間にか元通りのピンク色に戻っていた。体を包んでいた魔法の光も消えている。目の前の湊先輩は青ざめた肌にだらだらと汗をかき、荒い呼吸を繰り返してシーツを握りしめていた。
「ぼくがいるのを忘れていたのかい? 随分大胆な。あ、部屋を出た方がいい?」
「…………い、いいや。助かったよ。チョコ」
チョコと湊先輩の会話を聞きながら、私は素早く布団を掴んで中に潜る。素早く身を丸めてベッドの隅に転がって、すんすんと鼻を鳴らして泣いた。ああ、と困ったような湊先輩の声が布団越しに聞こえてくる。
「湊くんったら酷い奴だ。ありすちゃんに現実を見せるということが、どれだけ残酷か、君が一番よく分かっているくせに」
「だ、だって。このままじゃ周囲も彼女自身も苦しいままだろ? 僕はただこれ以上犠牲者が増えるのが嫌なだけで……」
「ふぅん?」
ありすちゃん、と湊先輩がベッドの上に乗る。ギシリと軋んだ音がする。布団越しに背中を撫でられ、私はすんと鼻を啜る音を大きくした。
「ごめん。君を泣かせるつもりじゃなかった」
「……………………」
「そんなに潜ったら暑いだろう。出ておいで」
「……………………」
「…………生意気なことを言ったけれど、僕だって君と同じ、まだ子供だ。大人になんかなれちゃいない」
「……………………」
「できることなら、君と一緒に大人になりたいんだ」
プロポーズ? とチョコが言った。違うから、と湊先輩はそれを否定した。
「僕にもまだ知らない常識や現実はたくさんあるんだ。それを、君と一緒に乗り越えていきたいんだ」
「…………どうして?」
「それは……僕だって、夢を追いかけ続けていきたいから」
「……………………」
「皆で一緒に夢を追いかけようよ」
「いっしょ?」
「一緒だよ。僕も、千紗ちゃんも、雨海さんも」
私はしばらく黙ってから、一気に身を起こして湊先輩の腕を掴んだ。驚く彼を布団の中に引きずり込む。
薄暗がりの中で、目を丸くする湊先輩と鼻先をぴとりと合わせる。私は泣いて赤くなった目を彼に向け、唇を尖らせて言った。
「友達と一緒なら、怖くはないわ…………」
現実を見るっていうことがどういうことなのかは、やっぱり分からない。
それでも。私一人じゃなくて、湊先輩や千紗ちゃん、雫ちゃんと一緒にすることだっていうのなら。きっと私も頑張れる。
湊先輩の胸にぎゅっと縋りついて頭をすり寄せた。彼は少し戸惑ったように身を強張らせていたけれど、ふぅと溜息を吐いて、「子供体温だね」と私の背中を優しく撫でた。
私は更に強く湊先輩に縋りついた。こうしていると、とても落ち着く。
ぼんやりした眠気が徐々に私に包み、私はそのまま眠りについた。
「おはよう、ありす」
ママの声がして、私は布団の塊の中で目を覚ます。
「あらまあ。ダンゴムシさんね」
ぴょっこり布団から顔だけを覗かせれば、朝の空気が冷たく肌を撫でていく。夜とはいえ夏なのに布団に包まって寝ていたせいで、パジャマの下にびっしょり汗をかいていた。
「おはようママ!」
「フレンチトーストを作ったの。冷めないうちに早く起きていらっしゃい」
やったわ、と私は歓喜の声を上げた。ママのフレンチトーストは程よいじゅわとろ加減でとてもおいしい。甘い朝食は我が家でも人気メニューの一つだ。
「あれ、とっても甘くておいしいの。嬉しいわ。ココアもある?」
「勿論」
「ママ大好き!」
私は布団から出ようとした。けれど、布団の中から誰かが私の手をガッシリと掴む。
思わず悲鳴をあげそうになった。寸前で昨夜の記憶を思い出さなければ、声を出してしまっていただろう。私は急いでまた布団に包まって、すぐに行くわと顔だけを出してママに言った。
「湊くんのことも起こしに行かなくちゃね」
「うふ。私が起こしに行くわ。私のお友達だもの。ふふふっ」
「そう? なら、よろしくね」
ママが部屋を出ていく。私はくすくすと笑ったまま、そっと布団をめくった。
布団の中には湊先輩が隠れていた。大きな体をぎゅうっと丸めて縮こまる姿は、小動物のようで愛らしい。彼は汗をだらだら流しながらそっと布団から顔を覗かせ、ママが去ったことを確認して大きな溜息を吐いた。
「かくれんぼをしていたのね?」
湊先輩は朝なのにやけに疲れた顔で私を見て、肩を竦めて嘆息する。
「そういうところを…………。…………。いや、うん。まあ、今はいいか」
「うふふ」
「少しずつ、一緒に頑張っていこうね」
「うん」
私はあまり話を聞かずに頷いた。彼の手を掴んで、ダイニングに急ぐ。
早く行かないとフレンチトーストが冷めちゃうから。
「これを千紗ちゃんと雫ちゃんに届けてほしいの」
名残惜しくも湊先輩とのお別れの時間はやってくる。午前十時の玄関にて、私は靴を履いた湊先輩に包みを二つ渡して言った。
包みには薔薇の形に切った苺を乗せた小さなカップケーキが入っている。今朝ママが作ってくれたお菓子だ。じゅわじゅわと舌にしみるバターの濃厚な甘さが最高なのだ。
普段からママはよくお菓子を作ってくれる。今日は特に、「お友達が来るから張り切っちゃった」と大量のカップケーキを作ってくれた。張り切りすぎて、私達だけじゃ食べきれないほどに。
私はママのおいしいお菓子を千紗ちゃんと雫ちゃんにも食べてほしいと思ったのだ。冷蔵庫で取っておくのもいいけれど、そうすればせっかくのバターの風味がどんどん消えてしまう。作りたてのうちに、二人にもぜひ食べさせたかった。
「私が直接持っていきたかったのだけれど……。今日は休んでなさいって、ママが怒るから」
「昨日具合を悪くしたんだから、心配するのも無理はないさ。ちゃんと僕が届けるから安心して」
「湊先輩。また遊びに来てね。絶対よ」
昨日私の具合が悪くなったことをパパもママもとても心配したのだ。部屋で休みなさいと新しいパジャマに着替えさせられ、寝ているようにと言われた。
湊先輩をお見送りするために外に出る。私は彼の後ろ姿が見えなくなるまで何度も手を振った。彼は何度か振り返って、そのたびに少し笑って手を振り返してくれた。
それでもとうとう姿は見えなくなる。一気に寂しさが込み上げて、私は部屋に駆け込むように戻った。ベッドにうつ伏せに倒れた私を、枕元に座っていたチョコがカップケーキをむさぼりながら出迎える。
「寂しいわ。もっと湊先輩とお話ししかった」
「昨日の夜あんなにお話ししてたじゃない。十分だろう?」
「難しい話しかしていないもの。あんまり、頭に入ってこなかったわ」
「バカな子!」
昨夜はこのベッドで一緒に眠ったのに、ぬくもりなんてすっかり消えている。冷たいシーツの温度がひんやりと私の肌を冷ます。チョコがさっきからぽろぽろ落としている食べかすの、バターの香りがした。
締め切った部屋は暑い。窓を少し開ければ、今日の風は涼しくて心地よかった。目が微睡んでいく。私はあくびをして、枕に深く顔を埋めた。
「私には何が見えていないのかしら…………」
その言葉に答えてくれる人は誰もいなかった。
ただサクサクとチョコがカップケーキを齧る音を聞きながら、私は夢の国へと旅立った。
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