第31話 殺すべきラスボス

***


 さて、二人の家はどこだろう。


 ありすちゃんの家を離れたところで僕は立ち止まっていた。手にカップケーキの袋を下げたまま、首を傾げる。

 今が夏休みであることを失念していた。届けてほしいと言われても、そもそも二人の家を知らないことを今思い出した。

 とりあえず携帯で「魔法少女☆」と書かれたグループトークを開き、個々にメッセージを送ってみた。


「お」


 一分後に雨海さんの方から返信がきた。駅近くの公園を指定され、そこに向かうことにする。

 広い公園だった。近頃あまり姿を見かけなくなった遊具が多く残っており、近くの幼稚園から来たのであろう園児達がきゃあきゃあはしゃいで駆け回っている。心地よいそよ風が幼い笑い声を運んでいく。

 入口近くにあるベンチには、既に雨海さんがいた。携帯を確認したり手鏡で前髪を直したりとそわそわ落ち着かないそぶりだった。僕が近寄れば、パッと顔を上げた彼女が笑みを浮かべる。


「い、伊瀬くん」

「雨海さん」


 僕は彼女の隣に座る。空色のワンピースがそよ風に揺れていた。彼女の長い髪がふわりと広がる。日光に透けると、仄かに青く艶めくようにも見える。

 カップケーキを渡す。すると彼女も小さなカップに入ったプリンを渡してきた。どうも昨日妹さんと作ったものらしい。お菓子を交換して、早速パクつく。おいしい、と笑う彼女に僕も同じ言葉を返して微笑んだ。柔らかな卵の味が口の中でとろける。ほろ苦いカラメルがおいしい。


「雨海さんと一緒にいると落ち着くな」


 独り言のようにそう吐いた。まだ午前中の気温はそう暑くなく、風が涼しくて、気持ちよかった。

 ありすちゃんや千紗ちゃんといるときは何かと気を揉むことが多い。けれど雨海さんは常識的な思考の持ち主であり、人を気遣うことのできる優しい人だ。一緒にいると、一番ほっとする。

 雨海さんはゴクリと大きな音をたててケーキを飲み込んだ。丸い瞳がぱちくりと僕を見つめた。ほんの少し色の薄い目が、角度によって青灰色に光った。


「君となら、他の二人にはできない話ができるし」

「えっ。そ、それって」

「魔法少女のことなんだけど」


 そう話を切り出そうとすると、雨海さんはなぜか少し肩を落とした。咳ばらいをして、改まったように眼鏡をかけなおす。

 今のところ。「本当の魔法少女」について話ができるのは彼女だけだ。僕は周囲を気にしながら彼女に身を乗り出す。


「『悪い人を倒して世界を救う』。それがありすちゃんの目的だ」

「うん…………」

「だけど僕達が実際にやっていることは、身近な事件を一つ一つ解決していけば終わるだなんて、単純な話じゃあない」


 子供達のはしゃぐ声と、誰かが吹いたシャボン玉がキラキラ空に浮かんでいた。「平和」を具現化したようなあたたかな光景に、僕達の会話だけが異質に浮いていた。

 これまでに警察や、父母や、ニュースから得た話をまとめる。しっかりとした道筋を作り、雨海さんと共に確認する。


「以前の平和な楽土町ならまだしも、ここ最近、この街の犯罪件数はぐんと増えている」

「怪物に変身できる強いパワーがあるからって、たった三人の子供の力じゃ、楽土町の事件を全て解決できるなんてできないよね」

「うん。一つを解決しても、その間に新たな事件が二つ増えれば意味がない。いたちごっこだ。……だけど」

「だけど?」

「全ての事件にもし繋がりがあるとしたら? 楽土町で事件が多発しているのには、原因があるんだ」

「…………『黎明の乙女』?」


 僕は頷いた。

 黎明の乙女。最近勢力を高めている宗教団体。

 この間の銀行強盗といい、最近発生した事件の大半に、その宗教が絡んでいるかもしれない、というのは警察の人から聞いた話だ。


「最近発生した事件において「黎明の乙女」に所属している人物が関与していた割合は約六割。詳しく調べれば、更に増えるかもしれない」

「事件を引き起こしているのは、黎明の乙女ってこと?」

「おそらくだけれど」


 警察が注目している団体だ。まさかここまで怪しんでおいて、一つの悪事もないなんてことは考えにくい。

 何より一つ思い出すことがあったのだ。千紗ちゃんの恋人の事件。彼もまたハマっていた宗教によって、図らずも犯罪に手を染めてしまった人だった。

 宗教。聖母様。

 今思えば、彼のハマっていた宗教も、もしかすると……。


「わたし達が倒すべき敵は」雨海さんが指を絡ませる。「黎明の乙女?」


 つまりはそういうことだ。

 魔法少女が守るべき世界。僕達の最も身近な世界である「楽土町」。そしてその楽土町を脅かす敵は、ありすちゃん達が変身してでも倒すべき相手は、「黎明の乙女」。

 宇宙から来た侵略者でも、魔法の力を持った闇の組織でもない。

 カルト宗教だ。


 近くでリフティングをしていたサッカー少年の蹴ったボールが、コロコロと目の前を転がっていく。どこかのサッカーチームの名前が書かれた真新しいユニフォームを着た少年はまだ不慣れらしく、さっきから何度もボールが足元を離れて転がっていく。その横を、鬼ごっこをしている子供達がきゃあきゃあ悲鳴のような歓声をあげて走っていく。

 平和な光景を僕と雨海さんはぼんやり眺めていた。いい天気の公園でこんな話をしたくはなかった。僕だってできることならただ友達と楽しくおしゃべりをして笑いたかった。

 けれど僕達の口から零れていくのは最近話題の漫画の話でも、友達と遊びに行ったおすすめのカフェの話でもなく、高校生には似つかわしくない不穏な話だ。


「倒す…………って言っても、その団体ってどれくらい大きいの? 何人倒せばいい?」


 雨海さんは首を傾げながら携帯を取り出した。つたない指先で「黎明の乙女」と打って検索をかける。トップに出てきたものを見れば、どうやら公式ホームページがあるらしかった。

 シンプルなサイトだった。白い背景に黒い文字でいくつか項目が載っているだけだ。「活動について」「年間行事」「入会のご案内」など。高校のホームページなんかとそう変わらない。

 雨海さんは「聖母様について」という項目を開く。赤子を抱く慈悲深そうな母親の銅像写真が背景に貼られ、その上に文字がつらつらと並べられている。


 聖母様は幼き頃天からのお告げをその身に受け、自身の喜びと希望を全ての者に分け与えるべきだという使命をもって、黎明の乙女の大元を設立してくださりました。どんな夢も叶わなければならないというお言葉の元、魂の輝きが曇った者に御手を差し伸べる姿はまさに慈悲深き聖母であり……。


 数行を読んだところで僕は顔をそむけた。ぐねぐねとした分かりにくい文章を読んでいるのは苦痛だったし、パッと読んだだけでも妙に腕がむず痒くなる内容だった。

 雨海さんは真面目にも文章を最後まで読んでから次の項目に進む。「活動について」。医療従事者への支援活動や書籍の出版、ボランティア活動や募金活動。案外まともな活動をしている様子がいくつかの写真として貼られている。おじさんやおばさんばかりかと思っていたが、どうやら若い人もいるようだ。よく見れば園児くらいの小さな子供まで写っていた。


「思っていたよりも大きい団体なのかな」


 雨海さんが溜息を吐いた。僕達が考えていたよりも、この団体に所属する人は多いようだ。

 彼女の指先が幼い子供達の写真に触れる。倒すといっても、まさか子供に危害を加えることはできない。人数も多いのだ。会員を一人残らず全員叩きのめすのは無理だ。

 どうする? と彼女が僕に聞いた。僕は咥えていたプラスチックのスプーンをパキリと噛んで、その柄を指で弾いた。


「一番上を叩く」


 上? と首を傾げる雨海さんに僕は頷いた。

 巨大な宗教団体を、少しずつ倒していこうとしても意味はない。だがいくら巨大でも組織である以上、立場が上にいくほど人数は絞られていく。

 そして宗教団体である以上。トップが倒れれば、一瞬にしてその組織は瓦解する。

 僕達にとってのラスボスはおそらく。黎明の乙女の頂点に君臨する「聖母様」だ。


「組織の全員が信仰している大元さえ倒せば、それは神様が死んだも同然だ。時間がたてば新たな神様を作り上げて復活するかもしれないけれど、そうなる前に警察が一気に攻め込めさえすれば……宗教団体は崩壊する」

「そ、そっか。じゃあ、その聖母様を探してすぐに倒せば……!」

「だけど。これもまた、そう簡単な話じゃない」


 僕は唸って唇を舐めた。カラメルが付いた甘い唇と反対に、胸ににじむ思いはどこまでも苦い。


「僕達は色んな大人から狙われているんだ」

「あ…………」


 雨海さんは思い出したように目を見開いた。

 マスターが言っていた、「僕達は大勢の人間から狙われている」という言葉。それが僕達にとっての大きな枷となっていた。警察、ヤクザ、政府。笑ってしまうくらい多くの人間が彼女達、怪物、を追っている。


「聖母様を見つけようにも、どれだけ時間がかかるか分からない。探しているうちにわたし達の方が他の大人に捕まってしまうかもしれない」

「その通り。更にいえば、その宗教団体が活性化したのも、怪物が出現しはじめた時期と一致しているというじゃないか。もしかしたら黎明の乙女自体も、逆に僕達のことを狙っているのかもしれない」

「わたし達は何万もの人に追いかけられながら、聖母様ただ一人を探して、倒さなければならない、ってこと?」

「ああ。圧倒的にこちらが不利だ。逃げ隠れしながら人を探して倒すだなんて」

「もし捕まったら…………」

「確実に君達は死ぬ。千紗ちゃんも言っていたように、怪物はあまりに使い道が多い。兵器、研究、道具。何に使われたところで、おそらく酷い苦痛を味わった末に殺される。世界を守ってくれるスーパーマンや怪物を受け入れて共生していくだなんて物語の中だけだ」


 聖母様ただ一人を倒せば。宗教団体は壊滅し、楽土町に広がっていた事件はなくなり、またこの「世界」に平和が戻る。

 そうなればきっと魔法少女の物語も終わりを迎えることだろう。

 なかなかどうして骨の折れる話だけど、今の僕達に与えられた道はそれ一つしかない。


 溜息を吐いてベンチに深く背を預ける。と、雨海さんの顔を見た僕はギクリと頬を引きつらせた。その顔はすっかり青ざめ、肩が細かく震えていたのだ。

 しまった、と慌ててその肩を掴むと彼女は顕著に体を跳ねた。無理に浮かべたような笑顔が痛々しく、僕は眉尻を下げる。


「ご、ごめんっ! 無神経だった……」

「ううん。気にしないで。伊瀬くんは当然のことを言ったまでなんだから」


 目の前の考えに集中していたせいであまりに無神経なことを言ってしまったと、今更ながらに後悔する。

 雨海雫。彼女は魔法少女の中で唯一本当の姿が見えている子だから、真実の話ができる。けれどだからこそ、一番神経を削る子でもあるのだ。元より真面目で責任感が強いゆえに、一番折れやすいのだから。僕が一番彼女の心を考えてあげないといけなかったのに……。

 僕は迷わず彼女の手を取った。白く細い指先が、氷のようにジンと冷たく固いことに気が付き、よけい申し訳なさが込み上げる。


「雨海さん。無理して魔法少女を続けなくてもいいんだよ」


 彼女は何を言い出すのか、と言いたげな目で僕を見て曖昧に微笑んだ。僕は無意識に彼女の指をさすって温めようとした。滑らかな指には傷一つない。つやつやと潤っている肌はなんとなく変身したときの彼女の姿を思い起こさせて、僕はそっと目を細めた。


「心身共に傷付いてまで世界を守る義務なんてないんだ。特に君は誰よりも一番、心を傷つけてしまうんだから……」

「……ありがとう。でも大丈夫だよ」

「でも」

「大丈夫だから」


 雨海さんはそっと溜息に似た息を吐いた。眼鏡越しの目がゆるりと左右に揺れる。長い前髪が眼鏡の縁に当たって、その眼差しを覆う。


「思っていた魔法少女じゃなかったけれど、今だって、少しは楽しいと思えているもの」

「変身することが?」

「ううん。友達ができたこと」


 友達そんなに多くなかったから、と彼女は小さく笑った。


「クラスでも、少し浮いてたの。……あっ、ううん。いじめられてたってわけじゃないよ? ほら、なんていうのかな……真面目な委員長タイプって思われてたから。放課後遊びに誘われたり、話しかけられたりすることがあんまりなくて。一番お調子者の男の子だって、皆のことは名前で呼んでるのに、わたしだけ雨海さんって呼ぶの。苗字にさん付け。無意識にね。ハブられてるわけじゃないけれど、あまり馴染めていなかった」


 黙って彼女の話を聞いていた。同学年といっても、クラスは別だ。魔法少女に巻き込まれる前は話したこともない。彼女がどんな子なのかを僕はまだよく知らない。

 僕はクラスのムードメーカーというわけではないけれど、それなりに賑やかな友達に囲まれているし、女子達に誘われて放課後カラオケに行ったりすることもあった。

 彼女の例えはいまいち分からないような分かるような、曖昧な話だった。だからこそ、彼女が普段どんな思いで過ごしていたのかを理解できるよう、真剣に聞いた。


「だから、魔法少女に選ばれて嬉しかったんだぁ」


 雨海さんはパッと顔を上げて笑った。その無邪気な笑みが心底嬉しそうだったから、思わず僕の胸にじわりとぬくもりが広がっていく。


「怖いけど、嬉しいの。伊瀬くん達とこうして仲良くなれた。お友達ができた。それに、変身したときの自分は怖いけれど、凄い力が出せるでしょう。やろうと思ったことが何でもできるようになったの。わたし、不器用だから。勉強も運動も友達も、何をやっても上手くいかなくて、自信がなかった。でも最近は少しずつ自信を付けられるようになってきたの。

 今度こそ上手くいく気がするの。だから最後まで、続けさせて」


 そこまで言われてしまえばもう僕に言えることはない。「応援してる」とだけ告げれば、彼女は嬉しそうに微笑んだ。

 話はそこで終わりかと思った。けれど雨海さんが微笑んだまま、僕に優しい声を放る。


「でもわたしは、伊瀬くんの方が不思議だな」

「僕? どうして?」

「だって魔法少女に変身していないのに。こんなに怖いことから逃げないでわたし達を支えてくれるんだもの。どうしてそんなにしてくれるの?」

「僕、よくお節介だって言われるんだ」

「ふふ。うん。見ていてとっても分かる」

「だからだよ。それに僕だって、世界を救いたいと思っているんだから」

「それだけ?」


 ぽぉん。と空を高く飛んだサッカーボールが僕達の足元に転がってきた。

 サッカー少年がすみません、と手を振っている。だけど僕はサッカーボールを蹴らなかった。雨海さんがあわあわしながら思い切ってボールを蹴る。けれどボールは見当違いの方向へ飛んで行って、彼女はわーっと恥ずかしそうに顔を赤くした。


「……………………それだけ、って?」


 僕の声に雨海さんがこちらを見る。彼女は少し考え込むように視線を泳がせて、首を傾げる。


「えっと。いや、ヒーローになりたいとか魔法少女が好きだからとか、他に理由があるのかなぁ、なんて思って。前にも同じこと聞いたっけ? あはは。なんとなく言っただけで」


 ごめんなさい、と彼女はどうしてか謝る。いいや、と僕は微笑んで手を振った。

 首筋に滲んだ汗がじっとりと背中を伝う。心地よかったはずの風が、薄ら寒く肌に鳥肌を立たせる。

 は、と吐いた息が熱を持っていた。ジリジリと脳味噌の縁が焦げていくような焦燥的な不安が走る。


「僕…………、」


 何かを言わなきゃ、と彼女に顔を近付けた。雨海さんの不思議そうな目が僕を見上げた。白い頬がじょじょに赤く染まっていく。僕……、ともう一度急いた気持ちを言葉にしようとしたときその声をかけられた。


「お姉ちゃん」


 ビクッと僕と雨海さんは飛びあがった。真後ろから聞こえた声に振り向けば、そこには中学生くらいの女の子がベンチの背に顎をくっつけて僕達を見つめていたのだ。

 ショートカットの黒髪が風に揺れている。短く切られた前髪は眉毛にかかるくらいの位置だから、その下の涼しげな視線がハッキリ僕とかち合う。大きな瞳なのに凍るような冷たい眼差しに、思わず委縮して姿勢を正した。

 そこで今更ながらに、お姉ちゃんというその子の言葉を疑問に思う。じっとよく見れば、その子の目の形やちょんとした小さな鼻と口には見覚えがあった。


はる


 雨海さんがその子の名を呼んだ。晴、と呼ばれた彼女はツンとした冷たい目付きのまま、雨海さんの頬を指でストトトとつついた。


「お母さんが買い物行ってきてほしいって。トマトと牛乳、あと色々。はいメモ」

「えっ、晴行ってきてよ。なんでわたしが」

「重いし暑いし疲れるからです」

「お姉ちゃんも同じなんだよ……?」


 妹さんか、と僕は声を上げた。雨海さんから何度か聞いていた妹さんの話。けれどこうして対面するのは今日がはじめてだ。

 晴ちゃんは僕をじっと見つめしばらく考え込む。それからポンと手を打ち、納得したように僕の顔を指さした。


「『イセクン』でしょ。お姉ちゃんが、よく話してる」

「うん。僕は伊瀬湊。お姉さんの……」

「彼氏か」


 晴! と雨海さんが凄い勢いで妹ちゃんの肩を掴んだ。真っ赤な顔をする姉を無視し、晴ちゃんはしみじみとした顔で頷いている。


「伊瀬くん。聞いて。お姉ちゃんさっきまでパジャマだったの。お母さんに怒られても休日だからって言ってゴロゴロしてたの」

「晴!」

「なんか携帯見たと思ったら急に飛び上がってお出かけ用の服引っ張り出してきて。ちょっと出かけてくる、って言って五分もしないで家飛び出してさ。これはもう確定でしょ。いつも姉がお世話になっております」

「はるぅ!」


 深々と頭を下げる妹ちゃんに釣られて僕も頭を下げる。違うから友達だから、と必死に弁明しようとする雨海さんの慌てっぷりが可笑しくて笑ってしまった。こんなに生き生きとした彼女を見たのははじめてだ。

 晴ちゃんはさっきからずっとツンと澄ました無表情のまま、うぃうぃと変な鳴き声をあげて姉の頬をつついている。雨海さんはキャアキャア悲鳴のような声を上げて妹の口を塞ごうとしている。どうやら性格はあまり似ていないようだけれど、顔はよく似ていた。表情が違っても、目や鼻や口元が二人ともそっくりだ。


「顔も、声も雨海さんに似てるなぁ。左右から伊瀬くんって呼ばれたら、どっちに呼ばれたんだか分からなくなっちゃいそうだ」

「『雨海さん』って呼び方も同じでしょ? あたしもお姉ちゃんもどっちも振り向いちゃう」

「ふふ。確かに」

「晴ちゃんか、妹ちゃん、でいいよ」

「じゃあ、晴ちゃん」

「ふふん」


 晴ちゃんはなぜか胸を張って素早く姉に振り返った。パーカーを持ち上げる大きな胸が揺れる。雨海さんは何故か両頬を膨らませて妹を睨んだ。


「伊瀬くん。お姉ちゃんとこれからも仲良くしてあげてね。お姉ちゃんほら、友達少ないから。ついでにその妹のこともよろしく」


 晴ちゃんはやっぱりあまり変化していない表情のままそう言って、ぴしりと額に手を当てた。僕も笑って同じポーズを取ってみれば、彼女は満足そうに口元に小さな笑みを浮かべ、そのまま公園を去っていった。

 後に残された雨海さんはしばらく肩で息をして呼吸を整えていたけれど、そのうち真っ赤な顔をおそるおそる僕に向け、妹がごめんね、と一言小さく呟いた。


「可愛い妹さんだね」

「昔っから、元気がよすぎて!」


 疲れちゃう、と雨海さんは肩を落として愚痴る。けれどその言葉はどう聞いたって温かな優しさが滲んでいたから、僕はふふっと軽やかな笑いを零してしまった。

 なんだかんだ言って妹のことが好きなのだろう。


「あ、じゃ、じゃあわたし、買い物に行かないと」

「うん。行ってらっしゃい」

「…………あ。ねえ、伊瀬くん。これから千紗ちゃんのところに行くんだよね?」

「会えればだけどね」


 そっか、と雨海さんは頷いた。けれどまだ何か言いたげな様子でもごもごと口を動かしている。さきほどと一転して少し曇った表情に、僕は思わずその目を覗きこんでどうしたのかと尋ねる。


「大したことじゃないんだけど……あのね」

「うん」

「千紗ちゃんの様子を、少し気にかけてほしくて。昨日おでかけしたとき、彼女の様子が少し変だったのよ」

「変?」

「『ありすちゃんと千紗ちゃんのことを見ておいて』って言ったでしょ? だから二人のことを気にしていたんだけど、昨日喧嘩しているときの千紗ちゃん、なんだか様子がおかしくて。すっごく乱暴だったの……」

「それは、ええと、いつも通りでは?」

「違うよ。なんだか我を忘れているみたいっていうか、楽しそうだったっていうか」

「いつも通りでは?」

「違うってば!」


 僕は彼女達が喧嘩をしていた現場を最初から見ていたわけじゃない。途中からしか見ていないから、千紗ちゃんの様子は何も分からない。

 雨海さんはとにかく気にしてほしいの、とだけ言ってからふと僕の手に視線を向けた。彼女が気にしていることに気が付いた僕は手の平をあげてひらひらと彼女の目の前で振って笑う。

 喧嘩相手を殴ったときにできた傷は、手当てを受けて、もうほとんど治っていた。少しかさぶたができているだけで、もう痛みもない。


「痛かったでしょ? ごめんね」

「僕が勝手に飛び込んだだけさ。君達に怪我がなくて、本当によかった」

「あのとき凄く怖かったの。だから伊瀬くんが来てくれたとき、本当に嬉しかった」


 だからね、と彼女は俯いてぎゅっとスカートを握る。髪の隙間から覗く耳が、赤く色づいていた。


「あ、ありがとう。…………み、み、み。……湊、くん」


 え、と僕が思わず小さく声を上げる間に、雨海さんは弾かれたように立ち上がって駆け足で公園を去ろうとする。僕も慌てて立ち上がり、その背中に声をかけた。


「またね! 雨海さ…………雫ちゃん!」


 パッと彼女が振り返る。長い髪とスカートがふわりとひるがえり、赤く色づいた顔がキラキラと僕を見つめる。

 彼女は一瞬幸せそうな笑顔を浮かべた。その笑顔が心底綺麗で、僕はカメラを持っていないことを後悔した。


 彼女の姿が見えなくなる。ふわりと香った残り香も、風に運ばれてすぐに消えた。

 しばらくぼんやりと誰もいない公園の出口を見つめていると、またボールが視界をコロコロと転がっていく。もはや顔を覚えたサッカー少年がボールを追って出口へと向かっていく。

 もしや道路に飛び出すんじゃなかろうか、とハラハラ見ていたものの、そんな事態にはならなかった。ちょうど歩道を歩いていた女性の足にボールがぶつかったのだ。

 女性はボールを拾い、少年にそれを渡す。彼は頭を下げてお礼を言っているようだった。けれどそれからしばらくたっても彼は女性の傍を離れない。どうやら女性が少年に対し何かを話しているようだった。

 知り合いか、と視線を外そうとしてふとまた戻す。よく見れば少年の顔には困惑が浮かんでいた。しきりに首を横に振って否定を表している。様子がおかしい。

 よくお節介だって言われるんだ。そうさきほど雫ちゃんに告げた言葉を思い返しながら、僕は二人の元へ近づいた。話しかけて、余計なお世話だったとしたらただ僕が恥をかくだけだ。謝って帰ろうと思いながら。


「あの、どうかされましたか?」


 僕は二人に――主に少年に向かって――話しかけた。少年は僕がさっき公園にいた人だと気が付いたのだろう。緊張していた表情を緩ませ、サッと僕の服に抱き着く。僕は彼の肩を撫でてから、女性を見た。

 白いワンピースを着た痩躯な女性だ。端正な顔に穏やかな笑みを浮かべ、少年と僕を見つめている。「こんにちは」と囁くように吐かれた言葉は、滑らかで優しいものだった。僕も笑顔を浮かべて挨拶を返す。

 誰だろう。知らない。だけど、どこかで見覚えがある。同じ気持ちを、さっき雫ちゃんと晴ちゃんを見たときも思ったのだっけ……。

 あのね、と女性はゆるやかに言葉を吐く。細い指に明るめの茶髪が絡まって、女性の頬を包んだ。


「その子の夢を聞いたの。将来の夢はサッカー選手。素晴らしいことですね。けれどはたしてその夢はいつ叶うのでしょうね? 数年後? いいえ、数十年後? 夢は必ずとも叶うとは限らない。卵からかえったばかりの美しき夢を、この先も大事に温めることができるのでしょうか? まだ純粋に夢を抱く少年に現実を教えてしまうのはいささか心苦しいのですが、サッカー選手になるという夢を叶えられる人間はこの世界にどれだけいると思いますか? ええ、ええ。叶わない。叶えられない人の方が多いの。だけど夢を叶えることができないのはあなたのせいじゃない。この世界が狂っているからです。大丈夫。私達があなたを救ってあげます。この地獄のような現世においてただ一つの楽園。どんな願いも叶えることができる理想郷。幸福なことです。私はあなたを導いてあげます。あなたの夢を叶えてしんぜましょう」


 ぶわ、と全身の毛穴が開く思いがした。服を掴む少年の力が強くなる。頬に汗を滲ませた僕は、もはや愛想笑いさえも浮かべることができずポカンと目の前の女性を見つめていた。


 黎明の乙女だ。

 まさか。あんな話をした直後に出会うだなんて。


 女性はにこやかな笑みを浮かべて僕達を見つめている。ただ見つめられているだけなのに、そこには妙な威圧感があった。足が地面に縫い付けられたようだ。蛇に睨まれたカエルのように、僕はその場から動けない。

 これまでマンションに勧誘をしに来ていたおばさん達とどこか違う。柔らかな物腰なのに、どうしてこんなにも恐ろしく思うんだ……?


「聞こえていますでしょうか」

「……………………ま、ま、間に合ってます」


 必死に絞り出した声は少し震えていた。服を掴む少年の力だけが、僕を奮い立たせてくれる。そうだ、この子だけでも、なんとか逃がさないと。

 最大限に勇気を振り絞って、僕はパンと少年の背中を叩いた。彼は一瞬驚いてわっと悲鳴をあげたけれど、すぐに僕の意図を察した様子で公園を飛び出していった。けれど女性は彼を追いかけることなく、じっと僕の目を見つめている。ターゲットを切り替えたのだろう。

 女性がおもむろにバッグに手を差し込んだ。何かを取り出したのを見て、ビクッと恥ずかしいくらい体が跳ねる。

 それは白い袋だった。そこに書かれた文字が「御清め塩」という言葉だと気が付いたのは、その袋が僕の頭上で逆さまになったときだった。


「わっ。ぺっ!」

「いけませんね。御心が汚れている」


 頭に塩を振りかけられる。目にも少し入って、鋭い痛みが走った。思わず目を押さえて俯いている間にも女性の言葉は続く。


「心を清めることにより、己の抱いている欲望と真摯に向き合うことができるのです。雑念を捨て本心からの願いを一つ心に浮かべなさい。さすれば、『乙女の力』によってあなたの願いは現実のものとなるのです」


 何言ってんだこの人。

 涙でぼやけた視界を何度もしばたかせ、舌を突き出して口に入った塩を吐き出す。服にも塩が積もっているような気がした。汗に塩が混じって、肌がべとべとする。

 黎明の乙女を調べる気ではあったけれど、こんな急に来られても準備ができていない。ここは一度引かなければ。

 この人、やばい。


「何してんだ」


 聞き慣れた声がした。僕は鼻を啜り、顔を上げる。ようやく元に戻ってきた視界に、女性の背後に立つ千紗ちゃんがいた。

 彼女は僕達を交互に見ると、臆する様子なく女性に近付き、盛大に舌打ちをする。間髪入れずその脛を蹴りつければ、流石に女性はよろめいてその場にしゃがみこんでしまった。


「あっ。だ、大丈夫ですか……」

「馬鹿かお前。放っておけ、こんなババア」


 思わず駆け寄ろうとした僕の手を千紗ちゃんが掴む。しゃがんだひょうしに女性のワンピースには砂が付いてしまっていた。

 けれど女性は千紗ちゃんに憤慨することなく、その顔を見上げ、静かに言う。


「千紗」

「何だよ」

「本日のお祈りはもう済ませたのですか」

「誰がするかよ」

「千紗」

「……………………」


 僕は呆けた顔で二人を交互に見つめた。どう聞いても、初対面の会話じゃなかった。

 そうして見ているうちに気が付く。ツンとした鼻に、口元、輪郭。それから目元。

 二人の顔は、とてもよく…………。


「…………『母なる星の輝きよ。母なる命の灯よ。我らに救いを与えたもう。己の神秘に包まれし、真の望みを叶えんとすりゃ。イーシャア、イーシャァ、咲かんとす。イーシャア、イーシャァ、咲かんとす』」


 僕はギクリと千紗ちゃんに目をやった。突如彼女の口から溢れた妙な言葉は呪文のようで、普段の彼女の声音とはガラリと変わっていたのだから。

 彼女のぼんやりとした目玉は何も映していなかった。洞窟のように暗いその目が彼女らしくなく、あまりに怖くて、僕はぞわぞわと背中に鳥肌を立たせた。

 呪文は延々と続く。文章はめちゃくちゃだし単語も意味不明で、何を言っているのかさっぱり分からない。そんな言葉なのに、千紗ちゃんは何を見ることもなく、長い呪文をそらんじる。


「『……にて、この世に邪悪が現れしとき。赤き血潮が雨となり、死の慟哭が空に満つ。我らが乙女に夢託し。夜明けの空よりいできたる、光の乙女を忘れんと。ゆめゆめ忘れることなかれ。ゆめゆめ忘れることなかれ』。これでいいかよ、クソババア!」


 最後でガラリと声を変えた千紗ちゃんは、僕の手を痛いくらいに強く掴んで走り出した。何が何だか分からないまま僕も走る。

 繋いだ手の中でドロドロと塩が溶ける。体中にべたつく塩が気持ち悪かった。そうして息が切れるまで走った僕達は、とある家の前でようやく立ち止まる。あ゛ーっ、と苛立った様子で額の汗を拭った彼女は、同じく汗だくの僕をまた引っ張ってその家に押し込もうとした。


「え、ちょ、ちょ。ゲホッ。何。何」

「塩。おま、ゲホ、体ベッタベタ。風呂入れ、風呂」

「は? いやいや。待って……こ、ここ、人んち」

「あたしん家!」


 はぁ? と僕はその家を見上げてぽかんと目を丸くした。だって、そこはとんでもなく大きな日本家屋だったのだ。住宅街の中にあるものの、四方を囲む植木と広い庭のせいで、世間から隔たれた厳かな雰囲気のある家。

 君の家だって? と尋ねる間にも彼女は無理矢理僕を家の中に突っ込もうとする。正直なところ、ここが千紗ちゃんの家だとは思えなかった。いたずらで僕を見知らぬ他人の家に放り込んで馬鹿にする気かと思っていた。


「いいから入れよって」

「うわっ!」


 とうとう僕は玄関の中に突き飛ばされた。バランスを崩し、顔からべしゃりと床に倒れる。痛いじゃないか、と文句を言いながら顔を上げた僕は、けれどそれ以上悪態をつくことができず、目の前に広がる光景をぽかんと見つめていた。


「…………前にさ、あたしは宗教が嫌いだって言ったろ」

「……………………」

「あれ、彼氏のことがあったから、だけじゃないんだ」

「…………うん」


 玄関の先には、和風の家には似つかわしくない、大きな聖母の銅像が置かれていた。

 その隣にある掛け軸には、達筆な文字で、同じ言葉が延々と書かれていた。


 夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を叶えましょう。夢を、


「あたしの母親さぁ。宗教にハマってんだわ」


 黎明の乙女。と掛け軸の横に書かれた名前を見つめながら。

 笑い飛ばすように吐かれた千紗ちゃんの言葉に、僕は、何も答えることができなかった。

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