第29話 おいしい濃厚カレー

「ここだよな」


 そんな声で私は目を覚ました。身じろぎをすれば、頬にサリサリとした服の繊維が擦れる。

 顔をあげると目の前に湊先輩の背中が見えた。私は彼におぶわれている。どうやら駅を出たときからずっと背負われっぱなしだったらしい。

 日はすっかり沈んでいる。涼しい風が吹いて、彼の柔らかな癖毛を揺らした。振り向いた彼のまつ毛が一度まばたく。


「おはよ。具合はどう?」


 私は寝ぼけ眼を擦りながらあくびをした。具合、と聞かれて首を傾げて、そういえば気分が悪かったのだわと思い出す。

 ひと眠りしたからか気分はすっかりよくなっていた。寝起きのとろとろとした心地よさだけが体に残っている。このままもうひと眠りしたい気分だわ。湊先輩の背中は少し骨ばっているけれど、温かくて気持ちいい。

 名残惜しく思いながらも彼の背から降りる。そうして目の前を見つめて、あら、と声をあげた。私達が立っているのは一軒家の前だった。私のお家だ。


「やっぱりここ君の家だったんだ。ケーキ屋からこの家が見えてさ。もしかしたら、と思って来てみたんだけど」

「すごいわ先輩。たくさんお家があるのに、一発で分かるなんて……」

「君にぴったりのお家だからね」


 可愛いお家でしょう、と私は一軒家を見上げた。

 住宅街の中でもこの一軒家はとびっきり可愛い。なにせ壁が一面ピンク色なのだ。ピンクの壁と白い屋根。周囲のお家の紺や茶色の落ち着いた色合いの中で、いっとうキラキラ輝いているここが私のお家。

 白いフェンスの向こうに広がる庭には薔薇が咲き誇っている。赤色に近い鮮やかなピンク色。ちょっとした薔薇園のような庭から、甘やかな花の香りがふわりとこちらにまで漂ってくる。

 素敵でしょう、と私は表札の「姫乃」という文字を指でなぞり言った。まるで小さなお城のように可愛い我が家を、私はとても気に入っている。


「ありす?」


 不意に玄関の扉が開いて、そこからママが顔を覗かせた。その姿を見た途端私は笑顔を浮かべ、「ママ!」と声を上げてその元に駆け寄る。「ママ?」と湊先輩の驚いた声が後ろから聞こえてきた。

 ママに飛びついて、頬にただいまのキスをする。まあまあと嬉しそうにはにかんでママも私にキスをする。内巻きの長い髪がサラリと流れて、私の髪の毛にそっと絡み合った。お料理をしていたのだろう。晩御飯のいい匂いがする。

 ママは私を抱きしめてくるくる回ってから、湊先輩を見て不思議そうに首を傾げた。湊先輩が姿勢を正し、一度会釈をする。


「お友達の湊先輩。送ってもらったの」

「お友達とお出かけって言ってたけど……お友達って男の子だったの?」

「あのね、実はね」


 私はママの頬にぴっとり自分の頬をくっつけたまま今日の出来事をお話しした。すると、みるみるうちにママの顔が青ざめていく。そうしてついには目に涙を浮かべ、私の顔を心配そうにのぞき込んだ。


「危ない人達に囲まれただなんて……怖かったでしょうに! 気分はもう大丈夫なの? ああ、よく見れば、目が赤くなっている気がするわ!」

「さっき擦ったからかしら」

「熱もあるんじゃない? どうしましょう。四十度を超えているかもしれないわ……」

「落ち着いてママ。平熱よ」

「すぐ横になりましょう。おかゆを作るわ。リンゴもすってあげる!」

「大丈夫よママ。もうすっかり元気だもの!」


 私が何度言ってもママはしばらくおろおろと顔を青くしてパニックになっていた。ママはとっても心配性なのだ。

 見かねた湊先輩までもが大丈夫ですからとママを宥めて、ようやく落ち着く。それからママは彼を見つめ、涙声で何度もお礼を言った。


「ありがとう。あなたは娘の命の恩人よ」

「はは、大袈裟な……」


 元気そうで何よりです、と言って湊先輩は立ち去ろうとする。けれどママがその手を掴んで止めた。そのまま彼の手をじっと見つめ、悲しそうに首を振る。ママのしっとりと潤った手と比べると湊先輩の手は少し武骨でガサついているように見える。骨の形にポツポツと滲んでいる血がすっかり乾いて、彼の肌にくっついていた。


「駄目。娘を救ってくれた人に、そんな怪我をさせたままにはできないわ」


 私達を助けるため男の人を殴ったときにできた怪我だ。大したことないですよ、と彼は言うけれど、ママは頑として彼の手を離さない。


「手当てをするから上がってちょうだい。お礼というのはなんだけど、よかったら夕食を食べて行って。今日は腕によりをかけて作ったカレーなの」

「カレー!」


 ママの言葉に真っ先に飛び上がったのは私だった。ぴょんと飛び跳ね、湊先輩のもう片方の手を掴む。二人に引っ張られて湊先輩の体はぐいぐいと玄関に向かう。家の中からはカレーのいい匂いが漂ってきた。食欲を誘うスパイスの香り。お腹が思わずぐぅと鳴る。


「いや、僕は」

「ママの作るカレーは世界一なのよ! さ、上がってちょうだい」


 躊躇っていた湊先輩は、ちょっと苦笑気味に肩を竦めると、おじゃましますと玄関で靴を脱いだ。玄関に飾られたママ手作りのぬいぐるみさん達が、いらっしゃいと彼を出迎える。

 お客さんが来るなんて随分久しぶりだった。頑張らなくちゃ、とママは早足で廊下を先に進んでいく。サラサラ揺れる髪の毛がどこか嬉しそうに見えた。ママの背中を見た湊先輩は「君にそっくりだ」と私を見つめて微笑む。


「姉妹とよく間違えられるの」

「僕も最初はお姉さんだと思ったよ。本当、よく似ている」

「うふふ、嬉しい。どこが一番似ているかしら?」

「そうだなぁ。目元と、あと…………」

「あと?」

「髪の毛かなぁ」


 同じ美容院で染めているからかしら、と私は微笑みながらママの背中に揺れる髪を見つめた。

 私と同じ、いちごみるく色の髪の毛がキラキラと輝いている。



「あれ。お客さんだ」

「パパ!」


 それからいくらもしないうちにパパが帰ってきた。

 テーブルを拭いていたふきんを放り投げる。コップを並べていた湊先輩が空中でそれをキャッチして、苦笑しながらテーブルを拭く。私は両手を広げて正面からパパに抱き着いた。もちもちとしたほっぺにおかえりなさいのキスをして、ぽよぽよとしたお腹を手で叩く。

 おじゃましています、と湊先輩はパパに会釈をした。パパも会釈を返すけれどその顔は少し戸惑っている。


「伊瀬湊くん。ありすのお友達ですって」

「ありすのお友達?」


 パパは目を丸くして湊先輩を見つめる。驚きから一転、その顔はハチミツのようにとろけていく。お友達かぁ、と繰り返す声は酷く優しい。なんだか嬉しくなって私はえへえへと微笑んだ。

 私のお友達が家に来たことはあるかしら。中学校の頃はなかったはず。小学校の頃も、誘ったけれど誰も遊びには来てくれなかった。「姫乃さんの家? えっと、わたしたち友達じゃないよね……」なんて言って。恥ずかしがり屋さんばかりだったわ。

 いつでもお友達を呼んでいいからね、なんてパパは口癖のようによく言っている。学校でお友達はできた? と毎日ご飯のときに聞いてくる。

 私のお友達を初めて見たパパはとても嬉しそうだ。


 ピンクのテーブルクロスの上にカレーが並ぶ。お肉とお野菜リンゴにハチミツたくさんのスパイスを入れたママ特製の濃厚カレー。

 ルーは中辛だけれど、優しいママは私のカレーにハチミツをたっぷり混ぜてくれる。仕上げに生クリームをかければ私が大好きな甘口カレーのできあがり。辛口が好きなパパにはちょっと追加のスパイスを。

 一つのカレーでいくつも味を変えらえるなんて魔法みたいだわ、とドキドキしちゃう。今度私の魔法でカレーの味を変えられないか試してみようかしら。お外で食べるカレーは私の口にはちょっぴり辛いのだ。

 いただきます、と湊先輩はまだ少し緊張した面持ちでカレーを口に運ぶ。途端、その目が大きく見開かれた。


「うっま!」


 いい反応だった。

 パパとママが声を上げて笑う。湊先輩は恥ずかしそうに頬を染めつつも、今度はスプーン大盛りにしてカレーをすくった。おいしい? と尋ねるママの言葉にこくこくと大きく頷く。

 この前マスターのコーヒーを飲んだときとまるで同じ反応をしている。ママのカレーはおいしいでしょう、と私もカレーに舌鼓を打った。給食やレストランで食べるものよりもずっと味が濃厚で、たまらなくおいしいのだ。

 ママは料理上手なんだ、とパパも自分の丸いお腹を叩いて笑った。XLサイズのシャツのボタンが今にも千切れそうだ。結婚してから二十キロ以上太ったんだよ、という言葉には説得力がある。

 今日のご飯はうんとおいしく感じる。お友達と一緒に食べているからかしら。ぼんやり考えながら湊先輩を見つめていた私は、不意に妙案を思いついて目を輝かせた。


「湊先輩。今日は泊まっていって」

「ズッ」


 水を飲んでいた湊先輩がむせる。ゲホゲホと咳き込んだ彼は目を白黒させ、私に引きつった笑みを浮かべた。顎から滴った水が彼の手の甲に落ちる。


「このまま帰っちゃうの?」

「え。帰るつもりだけど…………」

「駄目」

「駄目なの?」

「勿体ないわ。だって、お友達が来るなんて滅多にないのよ! ねえお願い。今夜はたくさん遊びましょうよ」


 お友達とお泊り会をすることに憧れていた。パジャマを着て、好きな子はだぁれなんてお話をして……。それは勿論湊先輩も例外じゃない。ベッドで一緒に寝て、朝まで楽しいお話をするのよ。

 けれどどうしてか湊先輩は渋った様子のままだった。パパも困ったように私を見つめて、「ありす、あのね……」と何かを言いかける。


「ええ、ええ。それはとっても素敵! 娘のお友達はおもてなさなくちゃ!」


 遮るようにママがはしゃいだ声を上げた。テーブルに身を乗り出して湊先輩の肩を掴む。その頬は薔薇色に染まっていた。お風呂の用意をしなくちゃ、お布団を出さなくちゃ、と私以上に張り切って鼻歌を歌う。


「ちょ、ちょっと待ってください。流石にそれは、えっと、申し訳ないと言いますか……」

「遠慮なんかしないで。わたしもあなたが娘と仲良くしてくれるのならとっても嬉しいもの」

「えー、あー……僕は娘さんのお友達ですけど、あの、男ですし…………」

「? ええ。パパも男ね。私とありすは女の子」

「……………………」


 ちら、と湊先輩は私を見つめた。私はニコニコ微笑んで、「おままごととお人形遊びのどちらがいいかしら」と彼に聞いた。彼はしばらく黙ってから微笑んで、「ママさんとそっくりだねぇ」と言った。

 二人とも可愛い顔をしているって意味かしら。嬉しいわ。



 湊先輩が我が家に泊まることになった。ママはニコニコ笑ってお布団を私の部屋に用意しようとしたけれど、パパが客間の方が広くて落ち着けるだろうとそちらに布団を置いた。パジャマはパパのものを貸すことになったけれど、幅はぶかぶかなのに丈はつんつるてんな姿が可笑しくてちょっと笑ってしまう。湊先輩と、それからなぜかパパもむくれた顔をするものだから、不思議ねとママと顔を見合わせて首を傾げた。

 私も先輩の後にお風呂に入る。ゆったりとお風呂を楽しんでリビングに戻った私は、パパママと湊先輩がソファーに座ってテレビを見ていることに気が付いた。

 なんだか楽しそうに笑っている。何を見ているのかしら、と三人の後ろからテレビを覗き込んだ私は、そこに映る幼い自分と目があった。


「きゃあっ」


 私は思わず声をあげて頬を手で押さえる。それは、私が子供のときのホームビデオだった。

 テレビに映る私は随分幼い。まだ四つかそこらだろう。ぷくぷくと膨らんだ頬とちょんとした鼻を動かして、ホールケーキが乗ったテーブルの上に身を乗り出している。チョコレートプレートに「ありすちゃんお誕生日おめでとう」という文字がママの筆跡で書かれている。


『ありす。ありす、ほら。ビデオ。こんにちはーって』

『えー。……こんにちはぁ』

『お誕生日おめでとう。いくつになったのかな?』

『んと。よん…………』

『お誕生日プレゼントは可愛いぬいぐるみ! チョコちゃんって言うの。仲良くしてね』

『チョコちゃん?』

『そう。チョコちゃん。……ああ、違うのチョコレートじゃないのよ。甘くないの。齧らないで』


 可愛いねぇ、とビデオを見ているパパとママは笑っていた。湊先輩も微笑ましそうな目で幼い私を見つめている。私は頬を膨らませて三人の後ろでビデオを見つめていた。幼い頃の私はやっぱりとても可愛らしいけれど、それでも昔の自分を見られるというのはどうにも恥ずかしい。


「昔のありすは大人しい子だったんだよ」

「そうなんですか? へぇ、意外だな」

「幼稚園に入った頃から今みたいに明るくなったんだけどね。それまでは、ぼくやママの背中に隠れるような子だった」

「あは、可愛いですね」

「も、もう。なにを皆でニコニコ見ているのよ!」

「怒らないで、ありす。可愛い娘のビデオだもの。ずっと誰かに見せたくてたまらなかったのよ」

「盛り上がっちゃって!」


 パパとママは次はこれを見てほしいのだと新しいビデオをセットする。ふとテーブルを見れば、これから見る予定のビデオがずらりと並んでいた。私はむっと唇を尖らせて複雑な思いのまま二人を見つめる。おじいちゃんもおばあちゃんも私が生まれる前や小さい頃に全員亡くなってしまっている。兄妹がおらず親戚もいない。可愛い娘のホームビデオを見せたくても、これまで相手がいなかったのだろう。


『ママ。このアニメなぁに? おんなのこがピンクいろだよ。へんなの。……まほーしょーじょ? まほー?』

『あのね。ようちえんでね、まほーしょーじょごっこしたの。せんせいと。たのしかったよ』

『やだぁ! まほうしょうじょのスカートじゃないと着ない! ズボンなんかはかない!』

『あのね。今年のクリスマスプレゼントはサンタさんにステッキをお願いするの。魔法が使えるやつがいいのよ』

『ママ。中学校の制服はピンク色のやつがいいわ。魔法少女の色だもの。……売ってないの? じゃあ、作ってくれない? お願いよ!』


 ビデオの中で私はどんどん成長していく。幼稚園に入り、小学生になり、中学生になる。

 パパの言った通り幼稚園に入った頃から私は笑顔が増えて明るい子になっていった。そういえば魔法少女にハマったのはこの頃だった。魔法少女のプリントがされたシャツを着たり、制服にブローチを付けたり、魔法少女モチーフのシュシュで髪を縛ったり。そんな私の姿が映像に映って流れていく。

 私の人生は魔法少女と共にあったのねと胸が熱くなった。

 もはやそれを知らない時代をどう過ごしていたのかなんて覚えていない。


「ありすにお友達ができるなんて」


 パパが感慨深い声で呟いた。湊先輩が顔を上げてパパを見つめる。

 映像の中で私はいつも一人だった。運動会も文化祭もずっと一人の姿がカメラに映っている。お友達はどこにも映っていなかった。恥ずかしがり屋さんの皆は私とお喋りするのが照れくさいのだ。


「湊くん。君は本当にこの子の彼氏じゃないんだよね?」

「ち、違いますよ。ただの先輩と後輩です。友達です」

「それじゃあ、お友達の君に頼みがあるんだけど」

「はい」

「どうか、これからも娘と仲良くしてくれないか」

「勿論です」

「この子はちょっと変わったところがあるけれど……」

「そんなのとっくに知ってますよ」


 そうか、とパパは微笑んだ。湊先輩も似たような顔で笑った。

 なんだか不思議な会話をしているわと思いながら二人を見つめる。ママが振り返って私と同じ顔で肩を竦めた。

 その夜はビデオを見てお喋りをしているうちに、あっという間に時間が過ぎていった。


 そうして夜も遅くなる。

 パパもママも眠りについた真夜中のこと。

 私と湊先輩は、二人きりの部屋で、秘密のおしゃべりをすることになったのだ。

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