第25話 チョコちゃんの大変身

 ありす? と背後から声をかけられ、私は飛び上がった。

 暗かったキッチンの電気が付く。

 寝ぼけた目をしたママが、ブゥンと低く唸るレンジと、その前に立つ私を交互に見つめた。

 チン、とタイミングよく中に入れていた料理が温まる。カレーのいい匂いがふんわりと漂ってきた。


「こっそりお夜食? いけない子ね」

「ママのカレー、大好きなの」


 舌を出して肩を竦める。ママの目尻が、柔らかい微笑みを浮かべた。

 十一時を回った時計が静かに秒針を鳴らしている。

 パパもママも、そして私もとっくに眠っている時間だった。けれど最近私の夜は遅い。

 お勉強もほどほどにね、とママは寝室に戻っていく。

 胸を撫でおろし、温めたカレーを持って部屋に戻る。スパイスの香りが私の胃を刺激して、くぅ、と小さく音を鳴らした。

 だけどこれは私用のご飯じゃない。


「チョコおまたせ」

「やったぁ、カレーだ!」


 ピンク色のラグの上で、チョコが高く飛び跳ねた。テーブルの上にお皿を置くと、チョコはお皿に顔を突っ込んでカレーを頬張る。

 一緒に持ってきたスプーンはどうやら使わないみたい。仕方のない子、と微笑んで私は一口すくったカレーを食べる。濃厚な辛さと旨味に頬を押さえてうっとりと目を閉じた。


「うめうめ」

「おかわりもいいわよ。いっぱい残っているもの」


 ママが作るカレーは私の大好物だ。カレーの日はいつも、可愛いありすちゃんのためにと言ってママはたくさん用意してくれる。外で食べるものとは違って、ママ手作りのそれはとても濃厚で、ほっぺたが落ちそうなくらいおいしいのだ。

 チョコは丸くなったお腹を擦って仰向けに寝そべった。顔中がべたべたに汚れている。代わりにお皿はピカピカに輝いていた。


「ねえありすちゃん?」

「なあに?」

「ぼくは、いつまでこうしてコソコソしていなければいけないの?」


 そうねぇ、と私はチョコの隣で溜息を吐いた。

 チョコがご飯を食べられるのは、夜遅く、パパとママが眠った後だ。

 宇宙から来た妖精さんの存在は秘密にしなければならない。勿論、家族にだって。チョコがお喋りをできるのも動くことができるのも私の部屋でだけ。

 窮屈な生活はもう二ヶ月にもなろうとしている。チョコが不満になるのも当然のことだ。

 ゲームセンターに行きたい、居酒屋に行きたい、とチョコは積もった不満を爆発させて暴れる。静かに、とピンクのクッションを取ってチョコの口を塞ぎ、私も肩を落とした。


「私もどこか、人の目がない秘密の場所が欲しいと思っているのよ。湊先輩がね? 魔法少女の正体が人にバレるのはよくないって言うから。学校じゃ堂々と魔法少女についてお喋りができないの」

「モガーッ。モ――――ッ」

「もっとお話したいことがたくさんあるのに。どうしようかしら。いっそ秘密基地でも作っちゃう?」

「モゴ……。モッ。……オ………………」

「ツリーハウスの秘密基地なんてどうかしら! 昔絵本で見たことがあって憧れていたのよ。チョコはどんな基地がいい? チョコ?」

「ゲェッホ! オエッ。ゲーッ! …………ぼく。ぼくは、地下の秘密アジトがいいな。っはぁ」

「秘密アジト! 素敵な響きね。きっと入場には合言葉が必要なのよ」

「『山』『川』?」

「『魔法少女』『最高!』なんてどう?」

「ださっ……」

「喫茶店はいかがかな?」

「喫茶店も素敵。おいしいお茶とケーキをつついて魔法少女のお話ができるなんて、最高よ」

「ぼくはお砂糖たっぷりのケーキが食べたいなぁ」

「しかし、君は糖尿病の恐れがあると以前検査を受けていただろう。少しばかり糖類を控えた方がいいのではないかね」


 私とチョコは口を閉ざして、お互いの目をぱちくりと見つめ合った。それから声がした方向に揃って顔を向ける。

 部屋の隅に置かれたカラーボックス。その上には鏡や写真立てやぬいぐるみが置かれている。

 その中の一つにチョコと同じくらいの大きさのぬいぐるみがいる。

 湊先輩と初めておでかけしたときに取った鳥さんのぬいぐるみだ。

 長いクチバシを付けた仮面が素敵な可愛いぬいぐるみ。あれは確か、ペストマスクというんだったかしら。

 そのぬいぐるみが、カラーボックスの上に立ち上がって、私達に話しかけていた。

 その子はポカンと目を丸くする私を見て、恭しくシルクハットを胸に当てて一礼をする。


「やあ。はじめまして、魔法少女くん」


 きゃあ喋ったぁ、という私の悲鳴はご近所中に響くほどの騒音になって。起きてきたパパとママに、私はいっぱい怒られてしまった。



「というわけで。新しい仲間よ」

「はじめまして」


 放課後の図書室。私が鞄から新しいお友達を取り出すと、皆は目を丸くしてその子を見つめた。

 図書室の扉には「臨時閉館」という看板がかかっている。千紗ちゃんが勝手にかけた。

 放課後になればちらほらと勉強をしたり読書をしている人が見える図書室だけれど、その看板を下げた以上、誰も入ってくることはない。

 机の上に立ったその子はローブを引きずって歩き、一人一人を見て、礼儀正しく頭を下げていく。

 近付いてくるその子に雫ちゃんが一歩後退る。湊先輩が彼女を庇うように一歩前に出る。ポカンとしていた千紗ちゃんは更に前に進み、喜々とした顔でその子を抱き上げ、自分の鞄に突っ込んだ。


「また宇宙人か。臨時ボーナスゲットだぜ」

「だからすぐ研究所に送ろうとしないの!」

「止めないでくれAV先輩」

「最悪なあだ名をつけるな!」


 千紗ちゃんの鞄から顔を覗かせたその子は、くちばしで千紗ちゃんの手を突いた。ギャッと悲鳴をあげた彼女の鞄から飛び降り、綺麗に机に着地する。


「申し訳ないねお嬢さん。だが私はまだ解剖されるわけにはいかないのだよ。この星を堪能していないのだ」


 湊先輩は怪訝な目でその子を見つめ、何者なんだ、と問いかけた。

 ぬいぐるみの彼はじっと湊先輩を見上げる。目の部分はガラスで覆われているけれど、その向こうにあるはずの目は暗澹とした赤とも黒とも言えない色に染まっていた。そこから表情を伺うことはできなかった


「ぼくは、一人で地球に来たなんて言っていないよ」


 答えたのはチョコだった。

 私の腕から飛び降りたチョコは、その子の横に座り、愛らしく首を傾げて頬を緩める。


「宇宙旅行がブームだって言ったじゃないか。ぼくたちの故郷では、皆がよく宇宙に遊びに行く。こいつは単に星観光がしたかったらしくてね。ぼくが地球に行こうとしていることを知って、ちょうどいいからとついてきたんだ」

「宇宙船の代金も高いのでね。二人の方が安上がりだ」

「地球に着いたときからいないなぁとは思っていたけど」

「観光をしていたのさ」


 話を聞くに、彼はどうやら地球に下りて早々世界中を巡っていたらしい。小動物に憑依して海を渡り空を渡り、国々を見ていたのだという。

 北極で見たオーロラの鮮やかさ。

 ブラジルで飲んだコーヒーの味。

 パリで見かけた愛らしい恋人達。

 滑らかに語られる旅の様子は私達の頭に美しく描かれ、今すぐに飛行機に乗って世界中を飛び回りたくなった。


「昨日、日本に戻ってきたばかりだ。彼からの連絡で君達のことは存じている。改めて一度、ご挨拶をしておきたかった。ありすくん。君の部屋にあったぬいぐるみの体を借りさせてもらったよ。すまないね」

「ぼくにお土産はないの?」

「旅の話が一番の土産さ」

「えーっ。可愛い相棒を放っておいて、お菓子の一つもないの!」

「相棒…………?」

「友人だろ!」

「友人…………?」

「もーっ。まったく。魑・縺ョ縺ャ縺?$繧九∩ったら」

「繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺?$繧九∩。君は糖分の取りすぎだ。食生活を見直せ」

「二人とも、今なんて?」


 私の言葉に彼らは揃って顔を上げる。それから互いを指し、「魑・縺ョ縺ャ縺?$繧九∩」「繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺?$繧九∩」と言った。

 母星語だろうか。お互いの名前を表す言葉のようだが、地球人である私にはちっとも理解ができない。皆を振り返ってみても、全員首を横に振る。

 私はチョコを抱き上げて少し寂しく唇を尖らせた。


「チョコは、チョコって名前じゃなかったのね」

「ぼくはこの名前気に入っているよ?」

「この子にも地球での名前を考えてあげなくちゃ。チョコとお揃いの、可愛い名前」


 私はその子に目を向けた。彼は顎を引くようにクチバシを揺らすと、期待を込めた様子で私を見つめる。

 黒いローブが滑らかな衣擦れの音を立てる。そこから覗く手はふわふわとした灰色の毛が生えていた。灰色のペンギンが鳥のマスクを着けているようなイメージだ。きっと仮面の下の顔もとても愛らしいのだろう。


「そうね……ケーキちゃんはどう? 私、ショートケーキが大好きなの」

「ださくね? 食い物繋がりなら、クッキーにしようぜ。そっちの方がまだ名前っぽいだろ」

「あ……じゃ、じゃああの、プリンちゃんはどうかな…………」

「ミントはどう? チョコと合わせるとチョコミントになるじゃないか。チョコミントおいしいよ」

「盛り上がっているところ申し訳ないが」


 それぞれが好きなお菓子をあげて盛り上がっていた私達は、本人の言葉に会話を止める。彼は両手でローブの端を持ち上げた。きっと彼なりの肩を竦めるポーズだ。


「そのような愛らしい名前でなくとも。太郎や大五郎などの簡単な名前で十分なのだが」


 皆が顔を揃えて瞬く。皆の耳はちょっとだけ紅を塗ったように赤くなっていた。

 ケーキちゃんって可愛いのに、と言っても賛同は返ってこない。


「私も彼も、そのような愛らしい名前は似合わぬ年齢だ」

「……ってかマジで何歳なんだよお前ら。案外、超高齢者?」

「お見せしようか?」

「え」

「私達は人間に変化することもできるが」


 できるの、と私とチョコが声を揃えて驚いた。

 何でお前まで驚いてるんだよ、と千紗ちゃんが呆れた顔でチョコに言った。


「君宇宙船で人間に変身はできないって言ったじゃないか!」

「最初のうちは、と言っただろう。惑星に長く定住すれば可能だとも」

「聞いてないよ!」

「君が聞いていないのだ。半月もこの星で過ごしていれば、周囲の生命体の組織構造を自然と脳が学ぶはずだ。今の君なら人間の体に変身することも可能だろう」

「本当?」


 チョコの目が星のように輝いた。

 チョコは素早く机の上に置かれていた湊先輩の携帯を取ると、高速で指を動かして最近流行りのアイドルや女優を検索しはじめる。コラ、と止めようとする湊先輩の手から逃れ、机の上をちょこまかと走る。


「絶対可愛い子に変身するんだ! この恋路アヤちゃんってアイドル天使みたい! こっちの月夜見真理亜って女優さんもなんて綺麗なんだろう……!」

「こらチョコ。携帯返せよ」

「チョコッ。履歴を見ろ履歴を。きっと裸の美女がいっぱい出てくるぜ」

「いつまでもそのネタでからかうんじゃないよ!」


 顔を真っ赤にした湊先輩がチョコを持ち上げて携帯を奪おうとする。嫌々と首を振って携帯を握って離さないチョコと激しい攻防戦を繰り広げていた。


「変身できると言っても好きな体に変身できるわけがないだろう。故郷の星での姿を、地球人の体に当てはめるだけにすぎない」


 その言葉を聞いたチョコは、なんだーっ、と残念そうに叫んで携帯を放り投げた。湊先輩が慌てて携帯をキャッチする。その横で、雫ちゃんがほんの少し頬を赤く染めてチョコ達を見つめていた。

 眼鏡越しの目が、夢を見る子供のように輝いている。彼女にしては珍しい大きめの声が、急いた早口で桃色の唇を割って吐き出される。


「へ、変身って今すぐできるの?」

「興味がおありかね、お嬢さん?」

「できるんだっ」

「へえ。雫はこんなぬいぐるみの変身シーンがお好みか?」

「うん!」


 雫ちゃんは明るい声で頷いた。予想外の反応に竦む千紗ちゃんに向かって、だって妖精さんだよ、と声を弾ませる。

 その声は無邪気で。まるで幼い少女のようだった。


「妖精さんの変身は魔法少女の変身と違うんだよ。人間の姿にも魔法少女の姿にもなれるんだから。私達の変身とは違う、ちゃんとした変身をしてくれるかもっ」

「お、おう」

「まさかチョコが変身できるなんて思っていなかった……。ど、どんな姿になるのかな。男の子、なんだよね? 可愛い男の子かな。あ、でももっと大人なんだっけ。じゃあ、優しそうな顔をした大人の人になるのかな?」


 雫ちゃんは興奮した様子で言葉をまくしたてる。

 魔法少女の相棒である妖精さんは人間に変身する。アニメでもよく見たことがある。

 可愛い女の子やかっこいい男の人に変身し、ときには主人公達と共に魔法少女へと変身する。私も幼い頃は人間の男の子に変身する妖精さんを見て、仄かな恋心に頬を染めたものだ。

 雫ちゃんも魔法少女が好きな女の子。憧れていたんだわ。

 チョコ達を見つめる目は不安から期待のそれへと変わっていた。千紗ちゃんも同様に、雫ちゃんの熱意に押されつつも、期待をその目に滲ませている。


「チョコ。早速変身してちょうだい!」


 私達三人の女の子は身を乗り出してチョコ達を見つめる。湊先輩もせっかくだから、と携帯を取り出してチョコ達に向けた。変身シーンを写真に収めようというのだろう。後で撮った写真を送ってもらわなくちゃ。

 チョコ達は互いの顔を見合わせると机から飛び降りる。手を大きく空に掲げ、揃った声を図書室に響かせた。


「――――変身!」


 途端、彼らの体が光に包まれた。

 目を焼くような光に皆が思わず目を瞑る。けれど私は一人、涙を浮かべつつも、必死に目をこじ開けて眩い光を直視した。

 光のせいで詳細は分からない。けれど二人の体が急速に膨らんでいく。ぬいぐるみの形がとろけ、四肢は伸び、胴が厚みを増していく。衣服のようなものが体を包む。

 変身の瞬間が私はたまらなく好きだった。この溢れんばかりの希望に満ちた光の中に、一体どれほど素敵な人がいるのだろう。この光が消えたとき、どれだけ美しく、勇敢な、素晴らしい仲間が現れるのだろう……。

 光は徐々に治まっていく。湊先輩達も目を開け、人間の姿を形作る光に恍惚の溜息を吐いた。


 コツリ。

 光を割って杖の先端が床を叩く。

 次に白い手袋をはめた手がゆっくりと覗く。フォーマルな黒ベストをまとった胴が現れ、ハッと息を飲むほどに細く長い足が光を突き破る。

 そこから現れた人物は七十を超えた老紳士だった。

 彫りの深い顔に凛々しい眼差しが映える。僅かに銀色を帯びた瞳は、冷たい氷砂糖のようだ。

 口元は黒いマスクで隠されている。その分、露出した目元の涼やかさが強調される。

 目尻や額に刻まれたシワは決して彼の欠点にはならず、むしろ官能的な魅力を引き出した。

 彼は前髪を後ろに撫でつけた。白い手袋が髪を掻き撫でる様は、男らしくあり、かつ上品だ。灰と白の混じった髪によって彼の魅力は一層深みを増す。

 つまるところ。その人は、とても綺麗なおじいさんだったのだ。


「ま…………」


 私は赤くなった頬を両手で包む。直視をするのも恥ずかしく、思わず横に視線を反らした。

 と、ちょうどそちらの変身も終わったようで光が完全に消える。

 ありすちゃんっ。

 光から現れたもう一人が、私を呼んだ。チョコだ。

 返事をしようとして口を開いた私は、そのまま息を飲んで、目を見開く。


 頭が光っている。

 大きな顔はお餅のように丸かった。その中にポツンと乗った小さな両目は、ゴマ粒みたいに小さく、瞼の肉に埋もれている。

 低い鼻頭には脂が浮き、額にも浮いたそれはテカテカと照明の光を反射している。薄い髪の毛が額にへばりついて波を打っていた。

 ハートマークがプリントされたTシャツと二段状のフリルスカートは、私が幼い頃に着ていたものとよく似ている。デザインも、そしてサイズも。

 肉厚の腕がシャツに食い込み、袖を裂く。大きく突き出したお腹はシャツから飛び出て素肌を晒している。スカートから覗く太い足にはすね毛が絡まっていた。


「ありすちゃん」

「…………チョコ?」

「ぼく、人間になれたんだ!」


 そう言って。四十代程度に見えるおじさんは、にっこりと私に微笑んだ。

 薄い唇が開き、ニチャリと黄ばんだ歯が覗く。ガタガタの前歯は大きく隙間が空いて、数本が欠けていた。


「い、イケメンに変身するのが定番じゃないのかよ!」


 小さな悲鳴が沸く。振り返れば、皆が顔を青くしてチョコ達から距離を取っていた。

 人間の姿になれたことに感極まったのか。皆、と叫んでチョコは彼らに抱き着こうとした。けれど皆はまた悲鳴をあげて、机の周りをぐるぐると回る。それをチョコが汗を振りまいて追いかける。鬼ごっこだ。

 ぽかんとそれを見つめていると、息を切らしたチョコが私を見て、ありすちゃん、と大声で叫んだ。


「きゅ」


 太い腕が背中に回される。厚い胸肉に私の顔がぶよりと埋まった。汗と加齢臭が混じったチョコの香りが広がる。精一杯の喜びを表現したハグは私の気道を物理的に塞いだ。


「きゃーっ!」

「……………………」

「あ、ありすちゃん?」

「……………………?」

「気をしっかり持ってぇ」


 慌ててチョコから私を引きはがした雫ちゃんは、そのまま顔の前で手をふるふると振る。私が反応しないでいれば、彼女は私とチョコを交互に見つめ、泣きそうな顔で目を潤ませた。


「そ、想像していた姿とはちょっと違ったのかもしれないけど」

「……………………」

「元気だして。ねっ……ねっ!」


 想像? そう。彼女はきっと、チョコが想像していた姿とは少し違ったと言いたいのね。

 確かに目の前にいるチョコは、私が思い描いていたイメージともかけ離れている。

 少年でも青年でもない。顔立ちもスタイルもイメージしていた人とはまるで違う。

 丸くて低いお鼻も、ぷよぷよのほっぺも、大きなおなかも、盛り上がったおへそも。全部、全部…………。


「可愛い!」


 私は雫ちゃんの腕をほどき、チョコに飛びついた。目を丸くした雫ちゃんの顔が一瞬見えたけれど、視界はすぐ肉のお布団に埋め尽くされる。

 もちもちとしたほっぺに頬ずりをして、私は胸の奥から沸き上がる興奮を口にした。


「なんて可愛いの。天使みたい! お肌もお腹ももちもちぷにぷにで、マシュマロかしらっ。つぶらな瞳がお星さまみたいね……」


 そうだろうそうだろう、とチョコは嬉しそうに私を抱きしめてくるくると踊る。足が床から浮き、ふわふわとスカートが泳いだ。

 ありすちゃん? と背後から湊先輩が私を呼ぶ。頬を紅潮させている私と対称的に、彼の顔はまだ僅かに青い。頬を掻き、躊躇うように唇を舐めた後、彼は小さな声で言う。


「えーっと……」

「うん?」

「…………彼がどういう人に見えている?」

「チョコ?」

「うん」

「どうって……素敵な男性よ」

「具体的には?」


 私はチョコに抱き着いたまま、彼の顔を見上げた。こちらを見下ろす彼と目が合う。

 優しい微笑みにこちらも笑みを返してから、私は湊先輩の問いに答える。


「ブタさん?」

「んっ」


 湊先輩がぐっと喉を詰まらせたような声を出す。ブタさん、と繰り返すように言ったチョコは、そのイメージを頭の中で広げ、満足そうに笑んだ。

 クマさんかも。と私は別のイメージも付け加える。おいしいハチミツをお腹いっぱい食べたクマさんが草原でお昼寝をしている。ハチミツの甘い匂いに釣られてやってきたウサギさんやリスさんが、山のように膨らんだおなかを見て、山登りを始める……。


「パパによく似ているわ!」


 チョコは私が元々想像していた人とはかけ離れている。

 けれど、私のパパによく似ていた。

 お洋服を丸く押し上げるぽよぽよのお腹がパパとおんなじだ。クリームパンみたいな柔らかい手も。何より、顔は全然違うけれど、私をニコニコと見つめてくる微笑みが一番よく似ていた。

 チョコの大きなおなかに抱き着くと安心する。はしゃぐ私達を見て、それ以上何かを言おうとしていた湊先輩は、片頬を引き上げるような苦笑を浮かべて後ろに下がった。


「繝斐Φ繧ッ縺ョ縺ャ縺?$繧九∩……いや、ここではチョコだったか。何だねその衣装は」

「一番身近な人間の格好を参考にさせてもらったのさ」

「サイズが狂っている。寸法を取れ」

「日本では今ミニサイズの服が流行りなんだよ。そっちこそ、堅苦しい格好しちゃって」

「衣服を肉で引き裂くのが流行りとは」

「なんだよ文句? ……あ、人間になっても可愛すぎるぼくの姿に嫉妬してるのか。やだ、照れるな」


 チョコは頬を赤らめ、首を傾げて目を瞬かせる。千紗ちゃんがうっと口を押さえてチョコ達から顔を反らし、その背中を雫ちゃんが心配そうに撫でた。


「でもこれで、ゲームセンターにも居酒屋にも行き放題だ」

「この体を維持するのは力が必要だ。くれぐれも気を抜いて、人前で本来の姿に戻らないように」

「だいじょーぶだって! 再開の祝に、今夜は飲みに行こうぜ!」

「一人で行ってくれ」


 そう言って紳士さんは口元のマスクを直す。どうしてマスクなんてしているのだろうと私が首を傾げると、その視線に気が付いたらしい彼がふっと目元を緩めた。

 黒いマスクは一切その奥を透かさない。彼の口元は黒に覆われて何も見えない。


「恥ずかしながら鼻から下の造形が上手くいかなくてね」


 彼はもう一度マスクを直しながら言う。


「人間の形を保てなかったのだ。私の口は今、故郷の星での形に近い」

「へぇ…………」

「それに、こうして肌を隠すことが妙に落ち着くのだよ。ぬいぐるみに入っているとき、仮面で顔が隠れていたからだろうか」

「どんな口をしているの?」

「この星の言語では説明できない。一目でも見れば、ショックで脳味噌が傷つくかもしれない」

「見てみたいわ!」

「素晴らしい好奇心を持ったお嬢さんだ」


 早速彼のマスクを剥がそうとした私を、後ろから雫ちゃんが止めた。彼女は青い顔で首を振っている。

 だから私はもう片方の腕を伸ばした。それを今度は湊先輩が止めた。両側から腕を塞がれた私は、今度は思いっきり首を伸ばそうとする。二人と私の拮抗勝負をチョコが楽しそうに眺めて笑った。

 そうこうして騒ぐ私達の横を、千紗ちゃんがひょいっと入り込む。


「え、めっちゃ気になる」

「あ」


 湊先輩と雫ちゃんがぽかんと口を開ける前で、千紗ちゃんの細い指が、簡単に彼のマスクを下ろした。




「――――……んぇ?」

「いい夢は見れたかな?」


 机から体を起こすと、頬の乾いた涎がベリッと剥がれた。

 口元を拭いながら起き上がった私は、向かいで本を読んでいる紳士さんの姿を見た。彼の周りには十冊以上の本が積まれ、細かな埃が周りを揺らいでいる。

 頭が痛い。ズキズキと疼く不快感に、私は唸った。


「見えたのは一瞬だったからね。それくらいで済んで、何よりだ」


 紳士さんはそう言って微笑んだ。本の山に隠れて、隣の席でチョコが寝ていることに気が付く。

 いびきをかいて寝ているチョコは『ゆめを叶える女の子』という絵本の上に突っ伏していた。涎がべちゃべちゃに絵本を汚している。

 ふと壁を見た私は、時計が壊れているわと思った。ついさっき見た時刻から一時間もたっていたのだ。けれどすぐ、その考えが間違っていることに気が付く。私はきっと意識を失ってしまっていたのだ。


「私、眠っちゃったの?」

「ああ」

「あなたのマスクの下の記憶がないわ」

「目にした瞬間、全員が倒れてしまったからね」

「もう一回見てもいい?」

「今夜を棺桶のベッドで過ごしたくないなら、やめた方がいい」


 背中が痛くなりそう、と私は伸ばした手を引っ込めた。

 椅子で眠っただけで体が痛い。柔らかいお布団でなければ、素敵な夢は見られない。

 私は彼が読んでいる本をじっと見つめた。表紙に描かれたシンプルなコーヒーのイラストが見える。『珈琲の歴史』と綺麗な文字で書かれたそれは、私が読めば十分も持たず眠ってしまいそうだ。


「食事とは興味深いものだ。肉も魚も我が星には存在しなかった。飲み物も面白い。『水』とは何なのか、ぜひ調査したいものだな。それを利用した、緑茶、紅茶。牛乳? 地球の生物は、不可思議なものを摂取するのだね」

「あなたの星の食事ってなぁに?」

「豈堤黄や鮗サ阮ャ縺秘」ッ。若い世代では蜈ア鬟溘>も人気があったな」

「地球のご飯はおいしい?」


 そう言うと彼は少し考え込んでから、自分が読んでいた本の表紙を見た。


「ブラジルで嗜んだコーヒーはなかなか素晴らしい味だったよ」


 彼は透明なカップを持ち上げ、透明なコーヒーを飲む動作を見せた。

 その仕草はあまりにロマンチックだった。本物のコーヒーがあるわけじゃないのに、香ばしい豆の香りが図書室の中に広がった。

 バーのマスターみたい、と私は思う。ロマンスグレーの髪も服装も香るいい匂いも。ただの図書館が彼がいるだけで渋いバーに様変わりする。


「マスターはどう?」

「……ああ、名前かい?」

「あなたにピッタリだと思うの」

「マスターとは地位や職業を示す言葉だろう? 人名にするには、いささか無理があると思うが」

「でも似合うわ」


 私は彼に身を乗り出した。

 白い手袋越しに彼の手を包む。肌には触れられない。彼の体温も分からない。

 彼は本を置いて私の目を見つめ返した。面白い子だ、とマスクの下から声を吐く。

 私は微笑んで、マスター、と彼を呼んだ。彼は否定の言葉を言わず、黙って頷いた。


「…………そうよ。『マスター』よ!」


 ガタン、と皆が飛び起きる音が響く。椅子を弾いて飛び起きた千紗ちゃんは、いまだに状況がよく分かっていない顔でキョロキョロと周囲を見回し、怪訝に眉を寄せている。雫ちゃんと湊先輩も寝ぼけた目を瞬かせていた。


「んぁ? え、なに、なに」


 私は千紗ちゃんの腕を掴み、ぶんぶんと大きく振って興奮の声をあげる。

 妙案を思いついたのだ。私達の抱えている問題を解決する案を。


「私達が誰の視線も気にせず魔法少女について語れる場所。喫茶店を作りましょう! おいしいお菓子とお茶を出す、素敵な喫茶店!」

「…………喫茶店を作る? っつったって、学生に作れるわけねえだろ」

「そこでマスターの出番なの」


 私はマスターの背中を叩いて胸を張った。皆が首を傾げる中、マスターだけはなるほど、と顎に手を当てて頷く。


「大人である私なら、店を経営することができると」

「その通りっ」

「ふむ……。旅の道中で経営学の書籍をいくつか読んだ覚えがある。準備が必要だな。講習を受けて衛生資格を取得しておくべきか。いや、それよりもまず店舗だな。一から作るのか? どこかの喫茶店を買い取る方が早いとは思うが。あくまで表向きの喫茶店であって、本来の目的は君達の秘密基地なのだろう。ならば経営と両立させる方法も考えなくては」

「ん? んぅ。……んー。うん、その通りね」

「何も理解してねえのに相槌打つんじゃねーよ」


 決まりね、と私は立ち上がって飛び跳ねた。チョコも立ち上がり、両手を上げて万歳をする。

 私とチョコは手を取って図書室の中をくるくると踊り出した。

 魔法少女の秘密基地。夢のような響きが現実のものになると思うと、いてもたってもいられなかった。


「喫茶店の名前も決めないといけないわ」

「『エンジェルチョコちゃんのスイートマジカル喫茶』はどう?」

「素敵ね」

「看板メニューは『チョコちゃんとのチェキ』」

「とっても素敵ね」

「帰りは、チョコちゃんの情熱的な投げキッスでお見送り!」

「チョコったら最高!」

「最悪の間違いではないかね?」


 そうと決まればやることは山ほどある。素敵なお店を見つけて、メニューを考えて、お店の中を飾り付けして……。

 ああ、楽しみ。


 皆が観客となって見つめる中で。私とチョコはそうして疲れるまで踊り続けて、未来の夢に思いを馳せた。

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