第26話 終了の挨拶
白いカップを持ち上げれば、コーヒーの深い香りがふわりと広がった。
一口熱い液体を飲み込むと、僕は思わず目を見開いて声を上げた。
「うっま!」
「ふふ」
カウンターに立つマスターが微笑んだ。磨いていたグラスを置く。曇り一つないガラスに、同じくコーヒーを飲んで驚いている千紗ちゃんと雨海さんの顔が映っていた。
普段コーヒーにはミルクを入れている。だが今日ばかりはそれが勿体なく思えて、僕はブラックのコーヒーをごくごくと飲み干した。
「こんなにおいしいコーヒー、初めて飲んだ!」
「気に入ってもらえたようで何より。やはり、豆の挽き方一つとっても風味は変わるものなのだな」
コーヒーの香りがカウンターの木目に染みる。ぼんやりとした暖色灯はそこまで明るくない。店自体、路地裏にあるためか、まだ夕方だというのにまるで夜のような雰囲気を感じる。
コーヒーを飲む千紗ちゃんが店の隅に置かれていたレコードをいじっている。前の店主が長年使っていたというレコードは多少のノイズがあったけれど、深みのある豊かなジャズがこの店によく似合っていた。
僕達がいるのは、とある喫茶店だった。年季の入った壁や天井はシミや細かな亀裂が走っているものの、穏やかな明かりに仄かに照らされるそれは、むしろレトロ感があっていい。店内に染みついた煙草の香りも、重厚な雰囲気に彩りを添えている。
「それにしても、二週間でオープンは早すぎだよなぁ」
千紗ちゃんが言った。それには僕も同意して頷く。真新しいメニュー表を取り、その表紙に書かれた店名を見て笑う。
『魔法少女の秘密基地』。
それがこの喫茶店の名前だった。そのままだ。
喫茶店を作ろうという話になったのが二週間前。喫茶店がオープンしたのが今日。正直、あまりに展開が速すぎる。
どうやら『都合よく』閉店する予定だった喫茶店があり、『都合よく』それを買い取ることができ、『都合よく』経営に必要な資格が取れたため、『都合よく』開店ができたらしい。
飲食店の経営には詳しくないが、どう考えても二週間でオープンというのは不可能だ。そもそも彼らは戸籍がない。カフェを経営する以前に問題は山積みなはずなのに、そこは一体どうしたのだろうか。
空になったカップを握り、そっとマスターの顔色を窺った。それなのにマスターはまっすぐ僕のことを見つめていたから、ドキリと心臓が跳ねる。
黒いマスクの上の目がまっすぐに僕を射抜いている。ロマンスグレーの髪と、バーテンダーのような服装の彼は、この空間にしっくりと馴染んでいた。飲食経験がないどころか、つい先日人間の体を得たばかりの生物とはとても思えない。
しばらくの沈黙の後、マスターはニコッと優しく微笑んだ。マスクに隠された口元が怪しげに蠢く。大量のミミズが体をうねらせるような動きだった。僕は顔を青くし、暗い木目の浮いたカウンターに顔を落とす。
この間友人達と見た映画の内容を思い出す。宇宙人が攻めてくるパニック映画だ。宇宙人の指から伸びた触手が人間の脳味噌を直接いじって、都合よく操ってしまうのだ。
もう一度彼の顔を見る勇気はなかった。そうだ、彼は宇宙人なんだから。
視線から逃れるために、僕は近くの本棚にあった本を適当に取って読み始めた。週刊のニュース誌だ。表紙を開いた僕は、まっさきに飛び込んできたニュースに顔をしかめる。
どうやら気を紛らわせることなどできなかったらしい。
カラーの見開きで千紗ちゃんの写真が載っている。勿論人間の姿であるわけがない。
変身した巨大な獣になった彼女の写真だ。この間の銀行強盗の際に撮られた写真だろう。
巨大な体と六つの目玉が付いた獣の姿は、写真越しに見ても凄まじい威圧感があった。大きな口を開けて吠える彼女の周りを、人々が必死の形相で逃げている。静止画だというのに、阿鼻叫喚の悲鳴が聞こえてきそうなほどの、恐ろしい写真だった。
『真昼の悪夢。楽土町の闇に迫る』と銘打たれた記事だ。楽土町に現れた怪物について事細かに意見が述べられている。写真も記事もかなり煽情的なものだ。
けれど七月中旬の現在、そんな記事は街にありふれている。
ニュースでは怪物の映像が流れるたび、どこかの実験施設から逃げ出した新生物か、宇宙人でか、獣の突然変異か、と毎回議論が繰り広げられる。けれど結局これといった結論は出ず、また一週間もたてば同じ議論が繰り返される。
怪物とは何なのか。それについて、一向に進展はない。
当然だ。一体だれが、この怪物の正体を、ただの人間の女の子であると見破れるだろうか。
「…………ん」
ページを捲れば記事には続きがあった。けれど怪物の話ではない。ここ最近、楽土町で起こった事件についてが述べられている。
誘拐、銀行強盗、放火、傷害事件……。楽土町内で多様の犯罪が発生していることに、筆者は疑問を抱いていた。読者の僕も首を傾げる。
僕達が住む楽土町は、東京の中でも比較的平和な街だった。犯罪は少なく明るい人が多い街で、『笑顔の多い街トップ10』というバラエティ番組の妙なランキングにも上位入りしたことがある。
昔、従兄弟のお兄ちゃんが治安の悪い街に住んでいた。明星市というその街は毎日殺人が起こっていると言われ、ニュースでその街の事件が流れるたび、お兄ちゃんが巻き込まれているんじゃないかと幼い僕は泣きながら電話をかけたものだった。
同じ日本でも犯罪都市のように物騒な所があるのだと、平和な楽土町に住んでいてよかったと、胸を撫でおろすことも多かった。
それが今では、そうも言えなくなっている。
「おかわりはいかが?」
後ろから聞こえた声に振り向く。メイド服を着たチョコがニタニタとした笑みを浮かべて立っていた。本人的には可愛らしく笑っているつもりなのだろう。
引きつった笑顔で頷けば、チョコは新しいコーヒーを入れて持ってきてくれた。ミルクと砂糖と愛情を入れるか聞かれ、どれもいらないと首を振れば、何故か愛情ビームだけを注入される。眉間にシワを寄せて飲んだコーヒーは、それでもおいしかった。
チョコは僕が見ている雑誌を覗き込み、怖いねぇ、と体を震わせた。メイド服のボタンが弾みで弾け、どこかに飛んだ。
「湊くんたら、真剣な顔で読んじゃって。真面目だねぇ」
「住んでるところの話だしね。……でも、それよりさ」
「うんうん」
「写真」
「うん?」
「この写真も上手いよ? けど怪物の魅力を引き出しきれていない。もっと魅力を引き出す写真が撮れたはずだ。このカメラマンも怖かったんだろう、腰が引けてる。惜しいな。僕だったらもう少し動きのある写真が撮れ…………」
ふと僕はチョコを見た。彼は笑顔を消し、ドン引きしていた。
僕はニッコリと微笑み、入れてもらったばかりのコーヒーを飲み干して「おかわり」と言った。「トイレが近くなるぞ」と隣で雨海さんに絡んでいた千紗ちゃんが言う。
「分からない。分からないわ。こんなに苦いものの、どこがおいしいのかしら……」
「さっきから黙ってると思えば。角砂糖四つも入れて、梅干しみたいな顔でまぁチビチビ飲みやがって」
「わたしもお砂糖とミルク入れた方が好きだよ……。わたしが飲むから、ホットミルクでも頼んだらどう、かな」
「本当? マスター、ホットミルクをちょうだい。ありったけのハチミツもね!」
「おい雫。こいつがいつ糖尿病で死ぬか賭けようぜ」
「や、やだよ…………」
僕は彼女達の会話をぼうっと聞いていた。
魔法少女の仲間として僕達が知り合ってからしばらくがたった。最初はぎこちなかった彼女達も、共に過ごすうちにいつの間にか距離が近付いていた。
ちょっと不思議なありすちゃん、不良というか最早半グレの千紗ちゃん、真面目で大人しい雨海さん。一見合わなそうな三人だけれど、『魔法少女』という奇妙な体験の前では、そんなもの何のハードルにもならないらしい。
ピンク色と金色と黒色の髪が、彼女達の笑い声に合わせてふわふわと揺れる。楽しそうに笑う彼女達を見ていると、微笑ましい気持ちになる。
「日に日に楽土町に事件が増えている。ゆゆしきことよ。これ以上街に涙が増える前に、私達魔法少女がなんとかしなくちゃいけないわ」
「お前らゆゆしきって漢字で書ける?」
「…………えーっと、お湯って文字をつなげて、湯湯式……」
「えっ。わ、分からない……」
「ははは。馬鹿しかいねぇ」
「この新聞を見て! 連続放火魔ですって、怖いわね……。私達で犯人を懲らしめてやりましょう!」
話している内容はあまり可愛くないけれど。
僕は無言でコーヒーを啜った。苦みのある液体を舌に転がして、苦い思考と一緒に飲み込む。
魔法少女達の目的は、「世界を守ること」だ。
とは言え、モンスターは現れず、宇宙から侵略者がやってくることもない。彼女達が倒す相手は既にこの世界に存在している悪者……つまり、犯罪者だ。
銀行強盗を倒す。傷害事件の犯人を倒す。それは言ってしまえばほとんど警察ごっこだった。少年探偵団、民間人警察、正義感溢れる一般人。ただちょっと変なのは、魔法の力で変身できること。
人間と戦う魔法少女なんて変なものだな、と思った。まあそもそも、変身した姿が怪物の時点で、「魔法少女」と呼べるのかも怪しいけれど。
僕はまたコーヒーを飲んで記事を読む。『銀行強盗の犯人は結局見つからず……』と、不甲斐ない警察に対する批判が述べられている。可哀想に。警察も、まさか犯人が骨すら残さず消滅してしまったとは思わない。
魔法少女が誕生したのをきっかけとするように、楽土町では事件が頻発していた。これから先彼女達が活動する回数はどんどん増えていくことだろう。
雨海さんはともかく、ありすちゃんと千紗ちゃんが変身したときの対策を考えなくては。犯人はいいとしても一般人に被害が出ることは避けたい。特にありすちゃんには、もっと周囲を見て行動することを教えないと…………。
ふと僕は思考を止めて目を瞬かせた。
自然と、犯人が死んでもいいと考えている自分がいることに気が付いたからだ。
カラン。と小気味よい入店ベルの音が鳴る。僕達は揃って入口に顔を向けた。
一人の疲れた顔をした女性が立っている。彼女はマスターに促され、窓際のテーブル席に座った。
喫茶店は今日がオープンだが、オープンの今朝から、僕達が学校を終えた夕方まで、まだお客さんは来ていなかったらしい。路地裏にひっそりと佇んでいるうえ、特にチラシを配っていたわけでもないのでそんなものだろうとマスターは言っていたが。
初めてのお客さんだ。マスターよりも、チョコやありすちゃん達の方がそわそわと彼女を気にしている。当の彼女はマスターが運んだレモン水を一息に飲み干し、爽快に息を吐いた。
「ああ、生き返る!」
今日はさほど暑い日ではなかったが、彼女の顔にはびっしょりと汗が滲んでいた。オフィスカジュアルな白シャツが汗で肌に張り付いている。うなじに張り付いた髪をうっとうしそうに払い、ポニーテールを揺らした。
マスターが汗を拭くようにと渡したタオルで豪快に首の汗を拭いた彼女は、頼んだアイスコーヒーに口を付けて、驚いた様子で目を見開く。なみなみ入っていたコーヒーは一瞬で空になった。
「うわ、おいしっ!」
「それはなにより」
「雰囲気がいいお店ですね。この通りにこんな所があるなんて知らなかった」
「本日がオープンなのでね」
「えー、うそっ! …………あの、店長さん。記念にこのお店の写真撮ってもいいですか? てか、取材させてくれませんか?」
「取材?」
彼女は重そうなトートバッグを探ると中から一眼レフカメラを取り出した。お、と思わず身を乗り出してしまう。いいカメラだということは一目で分かった。
「私、ホークス編集プロダクションの
「編集プロダクション……。ふむ。取材とは?」
「弊社では主にゴシップ誌を扱っているんですけれど、私はライフスタイルコーナーの一角を担当してて。こちらの喫茶店を、隠れた名店喫茶としてぜひ紹介したいんです!」
編集プロダクションさんですって。何それ。出版社みたいなものだよ。とひそひそありすちゃん達が話している。彼女達の姿さえ目に入っていないのか、その鷹さんという女性は猛烈な勢いでマスターに迫っていた。
しかしマスターはいたって静かに首を振る。テーブルのアイスコーヒーの氷が溶けて、カロンと揺れた。
「申し訳ないが。取材はご遠慮願いたい」
「えっ」
「うちは『秘密基地』なのでね」
忙しいのは嫌だなぁ、とチョコが呟いた。
ここは表向き喫茶店なだけで、本来の目的は魔法少女達が秘密事を話すための場所なのだ。人気が広まっては元も子もない。多少のお客さんさえ入ればそれでいい。経営についてはまあなんとでもなるのだろう。彼は宇宙人だから。
断られた鷹さんは明らかにショックを受けた顔でテーブルに突っ伏した。けれどそこで、視界の端に映ったチョコにギョッとして顔を上げた。そしてようやく僕達の存在に気が付いたらしく、恥ずかしそうに姿勢を正す。
「やだ、お客さん! あは……。こんにちは」
照れを隠すように彼女はこちらに手を振ってくる。ありすちゃんが大きく手を振ってこんにちは、と大声の返事を返した。
「学生さんにも人気なんだ。その制服……このあたりの高校…………北高校?」
「分かるの? お姉さん、物知りなのね」
「そりゃあ。北高校って、今有名だし」
有名だなんて、とありすちゃんは頬を赤くするけれど、その有名がいい意味じゃないことを知る僕は苦笑した。
鷹さんは静かに微笑んでいたけれど、ふと何かに気が付いたように目を丸くして、突然勢いよく立ち上がった。
「…………北高校の生徒さん!」
驚く僕達に近付いてきた彼女は、一番近くにいた雨海さんの手を取って顔を近付ける。雨海さんは可哀想なくらい肩を大きく跳ねて、焦った顔で僕の方へ視線を向けた。
「あのね。お姉さん、お願いがあるんだけどね」
「え。あ、あの……」
「あなた達の学校に、ちょろっと取材がしたいの。それで、校長先生に話を付けてほしくてね」
「えぅ」
「校長先生も忙しいとは思うけど、三十分もかからないから! 巻きでいくからさ……」
「ちょ、ちょっと待ってください。急に僕達にそんなこと言われても困ります!」
僕は立ち上がって、彼女達の会話に割り込んだ。雨海さんの肩を掴むと、彼女はきゅっと肩を縮めて僕を縋るように見上げた。
「あっ、そうよね。私はホークス編集プロダクションの鷹 めぐみと言って……」
「名前は聞こえてたんだよ。なんだお前。雑誌の取材がしたいなら、直接学校に電話しろっての」
「駄目なの。何度かけても、今は忙しいからって取材拒否されちゃってさ。でも、生徒から直接訴えてもらえれば、聞いてくれるかもしれないでしょ?」
「断られてんなら諦めろや」
「そこを何とか!」
彼女は諦めが悪かった。必死に何度も頭を下げて頼み込む。雨海さんが泣きそうな顔で首を振っていることにさえ気が付いていない。
「楽土町、いや日本中を騒がせているあの怪物! それがはじめて出現した高校なんて、ぜひとも取材したいじゃない。校長先生から直接話を伺えれば、新情報が手に入るかも……。うちの雑誌と私がトップに躍り出る大チャンスなんだよ!」
意気込む彼女は一度席に戻り、鞄から取り出した雑誌を手に戻ってくる。千紗ちゃんがそれを受け取ってパラパラ読むのを横から覗いた。
一度も見たことがないマイナー雑誌だ。彼女が担当しているというコーナーも、随分小さなコーナーで、ぽつぽつと花屋や本屋を紹介しているばかりの地味なものだった。この喫茶店が掲載されていたとて、来客数が増えることはなかったと思う。
「『鷹の目のように鋭く情報を逃さない』ホークス編集プロダクション。まだ一年目の新米とはいえ、編集者の一人であるこの私がビックニュースを記事にできれば、スピード出世間違いなし!」
「一年目? なんだ。そんな苗字してっから、編集長か何かだと思った。それとも親族のコネ入社か何かか?」
「いや。就活でどこの出版社もことごとく落ちたんだけど、この会社だけ苗字がウケて受かったの」
「あっそ」
「侮ることなかれ。このホークスの名にかけて、いいネタを逃しはしないんだから」
どうだか、と千紗ちゃんは呆れていたけれど、僕は内心鷹さんの潜在能力に舌を巻いていた。
記事にしようと息巻いているその怪物本人とまさか今話しているだなんて、彼女自身気が付いていないだろうに。
観察眼というか、運がある人なのかもな、と彼女達の会話を聞く。
「こっちのメリットは? タダ働きさせようってんじゃないだろうな」
「そうだね。えっと……うちの雑誌に載せてあげる。街角スナップのところに、喫茶店の可愛い学生さん達、って」
「はぁ? んだそれ。誰がやるか……」
「校長先生に会わせてあげればいいのね!」
勢いよく立ち上がったありすちゃんが喜々とした表情で言った。ぽかんとする僕達を置いて、彼女は任せて、と鷹さんの話を快諾する。
「本当? いいのっ?」
「ええ。可愛く撮ってね。窓際の方が綺麗に映るかしら?」
文句を言おうと立ち上がりかけた千紗ちゃんを慌てて雨海さんが止める。千紗ちゃんはしかめっ面をしつつ、溜息を吐いて椅子に座った。雨海さんは不安そうな顔で僕を見つめる。薄く微笑んで、肩を竦めた。
僕達を置いて話は進んでいく。彼女をカメラに収める音がカシャカシャと響く。
多分、ありすちゃんが校長先生の所に直接言ったって、話は通らない。彼女がしっかりとした説明をできるとは思えないからだ。千紗ちゃんだって面倒なことをわざわざするとは思えない。雨海さんも多分、他の先生達に忙しいからとかなんとか理由を付けて帰されるのがオチだ。
結局僕が行くしかないのだろう。
「よし撮れたっ。どうかな? いい感じに撮れたんじゃない?」
「わぁ! ね、雫ちゃん見て見て!」
「…………や、躍動感がある写真、だね」
写真を見た雨海さんがぎこちなく笑い、千紗ちゃんが爆笑した。
僕も気になって、カメラからデータを転送された鷹さんのスマホを覗き込む。途端僕は大声で叫んでしまった。
「も、勿体ない! どうしたらこんなにいいカメラでこんなにブレッブレの写真になるんだ!?」
「え。そんなに駄目?」
「まず被写体を狙う位置が違う! もう少し移動して、角度は上からじゃなくて下から……ああもう、貸してください! 教えますから!」
「あ、ありがとう?」
「いいですか!? まずはですね…………」
何かはじまったよ、と千紗ちゃんが言って隣の雨海さんが微笑む。ありすちゃんはさっきからずっとポーズを決めてキメ顔のまま動かない。
僕は鷹さんにカメラの指導をしながら、頭の片隅で、いつ校長先生に話をしにいこうかと考えていた。
期末試験が終わった七月中旬。
明日は一学期の終業式だった。
「それじゃあここで待っててくださいね」
「オッケーオッケー」
校庭を囲うフェンスの向こう、鷹さんは明るい笑顔で何度も頷いた。
終業式当日、式が始まる少し前だ。校長先生に話を通すのは式が終わってからだというのに、鷹さんは待っていられない、と既に準備万全で待機していた。
部外者の彼女は敷地内に入ることができない。しかしこうしてフェンスの向こうでカメラを首から下げそわそわしている女性というのも、十分怪しい。どうか僕が戻ってくるまでに、彼女が警備員さんに捕まっていないことを願う。
「式が終わったら僕があのピンク髪の子と一緒に校長先生に話に行きますから。無事に話を通せたらいいんですけど、無理なときは無理ですからね?」
「うんっ、ありがとう! あー、インタビューの内容もっかい確認しとこ。『この学校には秘密の生物実験室があるんじゃないですか?』と……」
「分かってるのかな……」
チャイムが鳴った。終業式が始まる。見つからないよう待っていてくださいね、と念押しして僕は急いで教室に戻った。クラスメートに合流して体育館に向かう。
朝に簡単なホームルームをやった後は、終業式をやって終了。昼頃には帰れるスケジュールだ。体育館は既に生徒の声でざわつき、皆が夏休みの予定を和気あいあいと話している。
「湊。終わったらクラスの奴らでカラオケ行くんだけど、どうする?」
「本当? 行きた…………あー、ごめん。ちょっと用事あってさ」
「えー、女子も来るのに?」
「ごめんってば。夏休み誘ってよ」
「海か山行こうぜ。バーベキューしよ」
近くに並ぶクラスメートと適当に談笑しながら時間を潰していると、舞台に校長先生が上がっていく姿が見えた。話し声はしばらく止まない。先生達が何度か声を張り、三度目でようやく体育館は静かになる。静まった体育館にマイクのハウリングがキィンと響いた。
「……えー。明日から夏休みに入ります。生徒の皆さんは、決して気を緩めず、北高校生徒としての意識を持ち、事故や事件に遭わないよう気を付けるとともに、また……」
週に一度の集会で見るたび、校長先生はどんどんやつれていく。舞台に立つ彼は萎びた老木に見えた。
四月にはまだ堂々とした姿で、気難しそうな顔を生徒達に向けていたのに。今ではその威厳などとっくに失われている。
「『チャンスの神様には前髪しかない』という言葉を皆さんはご存じでしょうか……。チャンスは一瞬しかない。若き皆さんは、これからの人生においてチャンスが到来したらすぐに掴めるよう……」
校長先生の話は長いしよく分からない。その上、最近の校長先生はぼそぼそと聞き取りずらい声で喋るものだから、生徒のほとんどは聞いてなんかいない。周囲を見てみても、隣とこっそり喋ったり、立ったまま寝ていたり、と自由なものだった。
一年生の列の方にピンク色と金色が見える。千紗ちゃんはあくびを繰り返し、堂々と携帯をいじっていた。ありすちゃんはニコニコと笑顔で校長先生を見つめている。けれど多分話を聞いているというよりかは、集会が終わった途端に話しかけるタイミングでも伺っているのだろう。
斜め前に視線を向ければ、隣のクラスの前方に並ぶ雨海さんの背が見える。ぼうっと話を聞いていた彼女は視線を感じたのか振り向き、僕と目が合うと少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「御年五十にもなるとチャンスなどそうないものだと思っていました。幸運は砂のように指をすり抜けてしまう……。皆さんもご存じのように、近頃本校では凄惨な事件が起きました。教職員に対する批判はいまだ続き、私の家にもマスコミが押しかけるせいで、妻子は私に冷たい非難を向けるばかりです……」
夏休みは、何をしようかな。
そりゃ魔法少女の活動に巻き込まれていくとは思うけれど、それ以外にやりたいことは、僕にだっていっぱいある。
「しかし最近、私はチャンスの神様の前髪を掴むことができました。この年で新たな居場所を得ることができたのです。落ち込んでいる私を励まし、支えてくれる良き仲間ができたのです……。彼らは私に様々なことを教えてくれました。現代は、誰もが否定されて生きている。人の目を気にして、自分の意思を押し殺し、苦しみながら生きていると。しかし彼らはこうも教えてくれました」
国光達を誘って街に遊びに行こう。最近父さんがハマってるキャンプに夏休みくらい付き合ってやろう。来週従兄弟のお兄ちゃんの画展があるから、それにも絶対行かなくちゃ。そういえば部長に動物園で写真を撮ろうと誘われていたっけ。文化祭用に写真も集めないと……。
「『我慢などしなくていい』と!」
ビクリと体が跳ねた。突然の大声に目を丸くする。
話を聞き逃していた僕には、それが校長先生の声だとすぐに気が付かなかった。
「自分の欲を押し殺してはいけない。人の目を気にして、したいことを、やりたいことを諦めるような人生であってはならない! 私はあなた達に後悔してほしくないのです。どんな願いだって夢だって、必ず実現できるということを、知ってほしい!」
体育館がどよめいた。皆が校長先生に注目している。熱く喉を震わせて語る校長先生は、さきほどまでとはまるで……いや、これまでだって一度も見たことがなかった。
校長先生は真剣な眼差しを僕達に向け、感極まった様子で目に涙さえ浮かべていた。「いいぞーッ」と男子の誰かがふざけた声で応援して、ドッと皆が笑う。誰かが口笛を吹いた。困惑していた体育館の空気が一気に明るくなる。
演台を叩いていた校長先生はふと中に手を突っ込んで、筆箱を取り出した。「誰の忘れ物だよ」と五組の男子が声を上げると、「俺のじゃん」と一組の方から声が飛ぶ。生徒達はまた笑った。
「目の前のしがらみを乗り越えなさい。世間の目に負けるな。あなた達の中に眠る夢は、ナイフのように鋭いのだから。全ての抑圧を切り裂いていけ!」
校長先生は演台に筆箱をひっくり返すと、カッターナイフを握り、誰もいない舞台に向かってぶんぶん振り回した。
滅多に見られない校長先生の姿に生徒達はアハアハ笑っていた。夏休み前で気が緩んでいるのは生徒だけじゃないのかもしれない。「マスコミがなんだーッ、保護者がなんだーッ」と叫んでいるのを見るに、相当ストレスが溜まっていたのだろう。
視界の端で。同じく笑ったり怪訝な顔をしていた先生達のうち数人が、慌てた様子で舞台に走っていくのが見えた。それを見ても、顔を真っ赤にした校長先生がカッターの刃を出しても、僕達は笑い続けていた。
だって最初に誰かが笑ってしまえば、体育館はもう笑うための空気にしかなっていなかったから。仄かな不安が浮かんではいたけれど、誰もそれを指摘することはできなかった。
まさかね。いや、そんな。ちょっとしたパフォーマンスでしょ。
まさか。
「どんなに否定されても、できっこないと言われても、迷惑をかけると言われても、やめろと言われても。決して夢を諦めないで! 君達はやれる! 何だって! できる!」
「何してるんですか、校長!」
「どんな夢だって叶えられる!」
校長が自分の喉にカッターを突き立てた。
あはは、と誰かの笑い声の残りが一瞬響いて。それから体育館は、シンと静まり返った。
時間が止まった。舞台に駆け上がった先生達も、その場で足を止めて校長先生を見つめていた。その喉にまっすぐ突き立てられたカッターをポカンと見つめていた。
誰もが動けない中で。校長先生だけは、ほっと安心した顔で笑った。
ぴゅうっと笛に似た音がして、その喉から細い血の噴水が噴き出した。
ドッと湧き出した生徒達の悲鳴が体育館を震わせた。
振り返った生徒の肩が僕の肩にぶつかる。何人もの生徒が出口に向かって逃げ出し、僕は人の洪水によろめいた。
近くの女子が泣きだしてその場に蹲る。隣にいた男子がよく分かっていない顔で笑い、困ったように辺りをキョロキョロ見回す。舞台の上にあがった先生達が悲鳴をあげ、何かを喚いている。仰向けに倒れた校長先生の体が痙攣していた。ぴゅっぴゅとリズミカルに少量の血が吹きあがっているのが見えた。
「……………………」
人の少なくなった体育館を見渡して、僕は前列の方で蹲って震える雨海さんの姿を見つけた。ポカンとした顔で舞台を見上げ続けている千紗ちゃんの姿も。
ゆっくりと視線を動かせば、ありすちゃんと目があった。
彼女は大きな目を丸くしたまま僕を見つめていた。大きく開いていた口がふっと笑みを描き、何かを言った。
周囲の悲鳴に掻き消されて聞こえなかったはずだけど。僕は確かに、「事件よ」と弾む声を聞いた気がした。
今になって思えば僕らはあまりにも悠長すぎたんだ。
世界なんてもう。ずっとずっと昔から、狂い始めていたのに。
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