第2章 世間
第24話 僕は普通の人間だった
「あなた、神様は信じてらっしゃる?」
玄関を開けた瞬間、笑顔が二つ浮かんでいた。
パンフレットを胸に押し付けられる。誰かがクレヨンでぐちゃぐちゃに塗りつぶしたような笑顔の子供達の絵が描かれた表紙には『幸せになれないあなたへ』という文字が大きく書かれていた。
玄関先に立つ宗教勧誘のおばさん二人の笑顔は、絵の子供達とそっくりだった。
「すみません。こういうの、ちょっと」
「パンフレットだけでもご覧になって。あなたの悩みを、きっと解決してくださるから」
「このマンション勧誘禁止なんですよ」
入口に書いていませんでした? と尋ねても、おばさん達はニコニコと笑んだまま何も喋らない。
血色のない白い手が、ぐいぐいと僕にパンフレットを押し付ける。端がぺこりと折れてしまったのを見て、あ、と思わず手を伸ばした。
しまったと顔を上げたときにはもう遅い。おばさん達の笑顔が一歩分、僕に近付いていた。
「あなたの心に不浄はないかしら? あるでしょう? あるわ。ええ、ええ勿論。悪く思わないで。人間であれば誰しもが穢れを持つものよ。学生さん? なら猶更。さぞ不浄が溜まっていることでしょう。多感な時期ですもの。親に友人に学校に世間。あなた達は常に抑圧されている。自分自身を吐き出す場所なんてどこにもないのよ。その欲望を解放してみたくはないかしら? 思い切り望むがままに自分を解放してみたいでしょう。誰にも否定されず、肯定を得たいと思うでしょう。私達の会はそれを叶えることができるの。どうかしら。詳しい話は、集会でお話ししているの。一度参加してみませんこと? おいしいお茶とお菓子もあるの」
玄関を開けたことを後悔していた。
母さんについて行けばよかった。さっき家を出たばかりだから、夕飯の買い出しはあと三十分はかかるだろう。父さんも、まだ会社からは帰ってこない。
パンフレットを握る手に汗が滲む。指に挟んでいたシャーペンを手持無沙汰にくるくると回し、おばさん達の話を考えるフリをした。
どうやってこの状況を切り抜けられるかな。ろくに相槌を打ってさえいないのに、おばさん達のマシンガントークはどんどん勢いを増していく。
靴のつま先が、じりじりと玄関に近付いてくる。必死に食いとどめようにもおばさん二人の圧力には勝てない。玄関を開けるんじゃなかった、と僕が何度目かの後悔をしていたときだった。
バガン、と激しい音が鳴る。
突然の轟音に、僕もおばさん達も、言葉を止めて飛び上がった。
音は隣の部屋からだった。ギイィ、と玄関の扉が軋む悲鳴をあげている。扉を蹴り開けた長い足が、ふらふらと揺れて一度部屋の中に引っ込んだ。
暗い玄関からぬるりと腕が伸びてきた。骨ばった指先に挟まった煙草から辛い紫煙が流れ、おばさん達が咳き込んだ。
「うるさい」
地を這うような掠れた声と共に、男が顔を出した。マンションの隣人の、
眠たげに目を瞬かせた彼は、驚く僕とおばさん達を交互に見つめ、僕が握るパンフレットを見て納得いった様子で鼻を鳴らす。
最近このマンションで悪質な勧誘が続いているという注意書きはエレベーターの壁にも玄関にも貼ってあった。知らぬ住民はいない。
「朝っぱらから神様の話?」
もう夕方ですよ、と心の中で呟く。
長い前髪の下から覗く濁った目が僕のパンフレットを見つめ続ける。おばさん達は標的を増やしたようだった。黒沼さんにパンフレットを向け、ニコニコと笑む。
無理矢理突き出さないのは彼の吸う煙草の煙が苦手だからだろうか。それとも、首筋や腕に這う炎のような形をしたタトゥーを見てだろうか。あれは何と言うのだったか。確か、トライバルタトゥーという名前だったっけ、と前にベランダで煙草を吸っていた彼本人に聞いたことをぼんやり思い出していた。
「あなたもご興味がおあり? 私達の神は、人々の悩める思いを全て肯定し、解放してくださるの」
「上司を殺したいって思いも解放できんの」
「ええ勿論。どんなお仕事をなさっているの?」
「銃と薬物にまみれたお仕事」
チカチカと廊下の照明が点滅して、パッと明るくなった。青紫色に沈んでいた空気が白く輝き、黒沼さんとおばさん達の顔をマネキンのように照らした。
「毎週水曜日に集会を行っているの。よかったら、ぜひいらして」
「ありがとう。考えときます」
黒沼さんは笑顔でパンフレットを受け取って外に放り投げた。四階分の高さをバサバサと舞ったパンフレットはそのまま地面に落ちて軽い音を立てた。
目を丸くしたおばさん達は慌てた様子でエレベーターへと走っていく。黒沼さんはひらひらと手を振ってそれを見送った。
「あ、あの。ありがとうございます」
「気を付けな。最近変な人が多いんだから」
黒沼さんは緩やかに煙草を吸って、紫煙を吐く。冷たく濃厚な煙が辛く僕の髪の毛にまとわりついた。
勉強頑張って、と言って黒沼さんは口元だけで微笑んだ。濁った目はそのままだった。正直言って胡散臭かった。
僕は微笑んで玄関を閉める。隣の人は多分危ない人だから気を付けなさいよと母さんが言っていたのはいつのことだったろうか。
部屋に戻った僕は『勉強』を再開した。と言っても、ノートに書いている文字は英語でもなければ、数式でも何でもない。そもそもノート自体、学校に持っていくノートではない。
ノートには数枚の写真が貼ってある。ぬらりと光る触手を持った怪物の写真。僕が撮った、魔法少女の写真だ。
僕は、怪物を観察して、その生態についてをノートにまとめていた。
「『魔法少女ピンク』。黒い人型の怪物。体は触手が集まってできていて、腕や触手で攻撃してくる。一番力が強い。皮膚が頑丈でナイフも銃弾も通らない。耐久力が高い? でも体が重いから、水に浮かぶことはできないみたいだ。粘液は平常だと問題はないが、稀にコンクリートさえ溶かす毒物に変化する。硫酸に似ている。またビームのようなものを出すことがある。体内の熱を放出している? エネルギーは? ……、…………。不明。
『魔法少女イエロー』。巨大な獣の怪物。狼に似ている。目玉は六つ。爪や牙が鋭く、嗅覚も優れているなど、性質も獣に似た部分が多い。スピードは車以上。瞬発力や攻撃力に優れている。けれど投げられた石でダメージを負っていたことから、おそらく銃やナイフの攻撃は有効だろう。
『魔法少女ブルー』。巨大な軟体生物。触手でできた部分はピンクと同じだが、ピンクのそれよりも筋肉はなく、柔らかい。巨大なタコのような形をしている。体は固体というよりは液体に近いようで、スライムのようにいくらか変形させることも可能。物理的な攻撃は通じる。だが回復能力が凄まじく、些細な怪我ならばあっという間に再生することができる。
『チョコ』。……………………チョコ。ぬいぐるみに入った宇宙人」
僕は疲れた目頭を押さえて天井を仰ぐ。ここ最近ずっとノートを書いていたからだろうか、頭が鈍く痛んだ。
こんなノートを誰かに見られたら、笑われてしまう。父さんにでも見られたら、俺も子供のときはよく妄想してたよ、と微笑ましく言われてしまうかも。……いや。でも一緒に張っている怪物の写真を見れば、案外皆悲鳴をあげてくれるかな。父さんなら、夢が叶ったじゃないか、と一緒に喜んでくれるかも。
ああそうだ。僕は昔、怪物ノートを作りたい、だなんて無邪気に両親に語っていたっけ。大好きな怪物を記していく怪物ノート。いつか本物に会えたら作るんだ、と言っていたそれを、ようやく今、作ることができたのだけれど。
「…………夢が叶ったんだよな」
怪物が好き。いつか本物の怪物に会ってみたい。そんな幼い頃に抱いていた僕の夢。
だけど実際に怪物が現れてみれば、純粋に喜べるわけじゃない。
何だって想像するのと現実に起こるのとでは訳が違う。例えば、ライオンが大好きな子供がいたとして、ライオンの檻に放り込まれてさあ大好きなライオンくんですよ、と言われたところで真っ先に感じるのは恐怖だけだ。
同じだ。怪物だって安全な場所から見つめ想像するから嬉しいのであって、いざ現実に現れ、ましてや街を破壊する様子を間近で見せつけられれば、普通は恐怖しか感じないのだ。
「分からないなぁ、もう」
今では、自分が本当に怪物を好きだったのかもよく分からない。
もしかして本当は怪物なんて好きでもなんでもなかったんじゃないだろうか……とさえ思う。
僕の世界はこの数ヵ月で変わった。平和だった街はおかしくなり、ただの空想上の生き物だったはずの怪物が現実に現れ、普通の人間である僕は何故か事件に巻き込まれ。
ノートを閉じて、深く溜息を吐く。
魔法少女、怪物、変な人が増えたおかしな街。
唯一正常な人間である僕は。一体、どうすればいいのか、分からなかった。
「あ、っべ。ジャージ忘れた。ちょっと湊くん」
「予備なんて持ってきてないからね。貸せないよ」
「今日パジャマ持ってきてる?」
「なんで?」
体育の授業前だった。教室で騒がしく着替えをしている最中に、友人の
「パジャマパーティーしましょうって約束したじゃない。酷い人ね、忘れちゃったの?」
「え、言ったっけ。ごめん」
「まあ俺の頭の中の約束だけど。……ごめんごめんごめん先行かんとって。置いていかないで」
さっさとジャージに着替えて体育館へ向かう僕を、慌てて着替えた国光が追いかけてきた。下は誰かの予備を借りたらしく他人の名前が書かれたジャージを穿いていたが、上は制服のシャツのままというおかしな格好だった。
明日は休みだろ、と体育館に着いてすぐ国光が言った。僕は頷いた。今日は金曜日だ。
「俺んち、ちょうど親も姉ちゃんも出かけて今日は帰ってこないから、パーティー会場にできんの」
何人か呼んで騒ごうと思って、と言ってから国光は近くにいた友人の
彼は体育館倉庫から勝手に取ってきたバスケットボールをダムダム打ちながら飛んでくる。
「何、何、何」
「今日俺んちでパジャマパーティーしない?」
「は? めっちゃ可愛いパジャマ買ってく」
「フリルとレースごってごてのやつ?」
「暗闇で光るやつ」
国光と、同じく友人でありクラスメートである涼の馬鹿々々しい会話を、勝手に話が進んでいくなぁ、と僕はぼんやり眺めていた。
二人は他のメンバーを探すために体育館を駆け回る。五時間目の体育は隣のクラスとの合同授業だった。共通の友人が多くいるクラスだ。メンバーはあっという間に集まる。
「悪いけど僕、他にやらなきゃいけないことがあるんだ」
「まあまあ。たまには部活も勉強も、お休みしちゃえばいいじゃん」
「いや……そういうわけにも」
「俺映画見たい。去年やってたアクション映画」
「あ、じゃあピザ頼む? コーラも買ってこうぜ特大のやつ」
「湊飴ちゃん食べな。おばあちゃんの愛味」
「うわ、ちょ、突っ込むな」
断ろうとした口の中に飴を押し込まれる。酸っぱい梅の味がした。
口を窄めて飴を舐めている横で、友人達もお揃いの顔で飴を舐める。向かいでお喋りをしていた女子が僕達を見て笑って、先生来たよ、と言った。
慌てて飴を噛み砕くガリゴリという音は勿論教師にバレて、一番飲み込むのが遅かった涼が頭を叩かれていた。何食ってるんだ、という問いかけに、愛です、と巨大な声で叫び返した涼は罰として腕立てを二十回行っていた。
周囲の笑い声につられて笑いながら、断るタイミングを逃してしまったことに気が付いた。
本当はさっさと家に帰ってノートの続きを書きたかったのだけれど。
「……………………」
けれど、隣でやけにテンション高く笑っている国光を見ていると、誘いを断ることもできなかったのだ。
放課後、母さんに友人の家に泊まる旨を伝えた。晩御飯は大好物のハンバーグなのに、と言われて大分悩みつつも謝る。時には、好きな物を犠牲にしても優先すべきものがあるのだ。ハンバーグ……。
五人でぞろぞろと街に出た。パジャマを買い、ついでにちょっと気になる服を見て買って、ついでにちょっと気になるゲームセンターに寄って、僕らは盛り上がりつつ本命のレンタルビデオ店に向かった。
そこまではよかったんだ。
「真っ先にアダルトコーナーに入るな!」
店に入ってまっすぐアダルトコーナーに向かった国光達を急いで追いかけた。
暖簾をくぐれば左も右もいかがわしいパッケージの商品ばかりが並んでいる。僕は顔を真っ赤にして、近くで商品を物色していた涼の肩を揺すった。涼は僕の顔色を見てニヤニヤと笑い、焦げ茶色の髪を揺らす。
「湊くんったらまあ純情ぶっちゃって。ビデオ屋と言ったら向かう先は一つしかないでしょ」
「アクション見たいって言ってたじゃないか」
「それはそれ。これはこれ」
「そもそも借りられないだろ。十八歳にもなってないんだから」
涼は聞いているのか聞いていないのか曖昧な顔で、クンと鼻を鳴らしてすまし顔をした。
アクション映画とコメディ映画に挟んで大量のアダルトビデオを持っていく。と、レジに並ぶ直前で彼はそれをそっくりそのまま僕に渡してきた。
「じゃ、湊先輩あとは任せた」
「え」
「会計よろしく」
「は?」
「何のためにその服買ったと思ってる? 学生に見えないようにだろ!」
「ふざけんな」
涼は僕が着ている服を引っ張って言った。さっき服屋で買った服を、そのまま着ていこうぜと言ったのは、制服を隠すためのようだった。
無理だと首を振る僕に、背高いから大学生に見えるって、と他の友人達は無責任に言う。
「身長なら涼の方が高いだろ!」
「え、涼いくつだっけ。三メートル?」
「180」
「ほら、僕より二センチも高い!」
「誤差じゃん」
俺は愛らしい顔立ちだから、なんて恥ずかしそうに言う涼の足を蹴る。渡された会員カードに書かれた名前は彼のお兄さんの名前だった。確か今は大学生だったはずだ。
適当そうな店員しかいないからバレないよ、と彼らは言う。確かに店内を見る限り、歩いている店員は髪が真っ赤だったりピアスがちゃらちゃら揺れていたり、眠そうな顔で仕事をしている人ばかりだった。レジでこちらに背を向けて作業をしている女性の店員も、明るい金色の髪をしている。
僕は文句を言いながらも諦めて肩を落とし、胸を張ってレジへ向かう。制服は隠れて見えないはずだ。堂々としていれば、怪しまれることもない……はず。
バクバクと緊張に震える心臓を隠し、僕は平然とした顔でレジに商品を置く。けれど精一杯取り繕った表情は、金髪の店員がこちらに振り返ったと同時に霧散した。
「うぐ」
「あ? 湊じゃん」
金髪の店員が千紗ちゃんであることを知った僕は、これが夢か幻であることを強く願った。けれど彼女の胸元に付けられた「犬飼」という名前が、僕に現実を叩きつける。彼女は僕とDVDに交互に視線を向け、最高に楽しそうな顔で笑った。
「ば……バイト変えたの…………」
「昼のバイトも探してたんだよ。ここ、金髪でもオッケーだったからさ」
「あ、そ、そうなの…………」
「商品お預かりしますねぇ。えーっと、『マジックミラー号に轢かれて異世界転生』が一点、『大ボリューム! 冒頭インタビューシーン一時間! 本編三分!』が一点、『大人気。マジックミラー号に轢かれて異世界転生2』が一点。え、続いたんだこれ」
「やめて……読み上げないで……」
死ぬほど顔が熱い。千紗ちゃんはニヤニヤと笑いながらレジを進めていく。確実に遊んでいるのだ。友人達が隠れている背後の方から憐みの視線がひしひしと伝わってくる。後で全員一発ずつ殴ってやろうと決めた。
「湊先輩、こういうのが好きだったんですね」
「違うから。やめて。こういうときだけ先輩って呼ばないで」
「これもオススメなんですよ…………」
「そっと最終処分って書いてる箱から商品を取らないで。在庫処分させないで」
適当な中古のDVDを千紗ちゃんは勝手に商品に加えていく。『触手っ子』と書かれた安っぽいパッケージの商品だった。五十円以下だった。
赤髪の店員が仕事を終えてレジに戻ってくる。彼が僕をじっと見つめてくるものだから、心臓が跳ねる。文句でも付けられるのだろうか。騒がしくしていたから、店員に絡む嫌な客だと思われたのだろうか。
「犬飼さん。レジはもう一人で大丈夫? お客様の年齢確認はした?」
意外と丁寧……!
千紗ちゃんは彼に見えない角度で僅かに顔をしかめてから、大学生でしたよ、と笑顔で嘘をついた。
赤髪の店員はそう? と頷いてから僕に笑顔で会釈をする。僕はパッと俯いて素早く会釈を返しながら、申し訳ないと罪悪感を抱いていた。
千紗ちゃんから商品を受け取って彼女にも小さく会釈をする。彼女はニコニコと笑っていた。絶対後日色々言われるだろうな、と思うと気が重かった。
「もう絶対借りないからな!」
「悪かったよ。まさか、同じ学校の子が働いてるとは」
「ううううう」
「ほ、ほら、ピザの味好きなのえらばせてやるからさ。何がいい?」
「ステーキ&ガーリックシュリンプ」
「容赦なく一番高いの選びやがる」
国光の家に着いて、僕らは早速騒ぎ始める。保護者がいない友人の家というのは、とにかくはしゃいでしまうものだった。ピザを食べながら、借りたばかりのアクション映画を見て盛り上がる。
うるさかった。けれど皆で馬鹿騒ぎをするのは久しぶりで、楽しかった。
思えば最近はずっと気を揉むことばかりだった。
怪物という恐ろしい存在に何度も命の危険を感じ、個性的な女の子達に振り回され、世界を守るという壮大な試練を与えられて。
そうだ。僕はまだ、高校二年生なんだ。悩みなんて、進路とか将来とか人間関係とか、そんなものでしかなかったのに。
急に世界を守るだとか、怪物だとか、おかしなものに巻き込まれて。本当はずっと苦しかったんだ……。
「湊。こっちとこっち、どっちがいい?」
考え込んでいると不意に目の前に二本のアダルトビデオを突き出された。アクション映画はいつの間にかエンドロールを迎えていた。顔を赤くしながらも片方を指差すと、やっぱり見るんじゃん、とからかわれる。
ビデオが再生されると全員から歓声が上がった。冒頭のインタビューシーンにさえきゃあきゃあと悲鳴をあげる。何だかんだ言いつつ僕もテレビに顔を向けていた。
僕達は男子高校生。僕も思春期の男子なのだ。そりゃあこうして目の前で映像が流れていれば、見てしまうものだろう……。
「……………………?」
けれど。映像が進むにつれ、僕は違和感を感じて首を傾げた。
映像は綺麗だ。女優さんもとても可愛い。
だけど皆が楽しそうに歓声を上げるその中で、僕の心だけが、トンと冷めていたのだ。
「うっ。ぐっ……ひぐ」
「まさかAVで泣くはめになるとは……」
「マジックミラー号で魔王倒せるとは思わなくない?」
「名作じゃん。これ絶対ハリウッドいけるって」
「圭介起きてる?」
「死んでる」
「もうほとんど寝ちゃったなぁ。タオルでもかけてやってよ」
「バスタオルでいいかな。てか俺ももう限界。寝るわ」
「俺が家主だぞ、ベッドにスペース残し……おいおいなんでもう二人も寝てんだよ、三人目行こうとするなよ。みっちみちだよ」
夜はあっという間に過ぎていく。気が付けばもう夜中の一時を過ぎていた。
はしゃぎすぎて体力の限界を迎えた皆はとっくにベッドに転がり、ソファーでビデオを見ていた国光もこくこくと船を漕ぎだす。彼にタオルをかけてやった僕は、もう起きているのが自分だけであることに気が付いた。
僕も寝ようか、とビデオを止める。袋に仕舞おうとしたところでまだあと一枚DVDが残っていることに気が付いた。千紗ちゃんに押し付けられた中古の商品だ。
元々見る気はなかった。けれどせっかくだ。僕はコップに新しくコーラを注いでDVDをセットする。
しかし中古になるだけのことはあった。表紙が安っぽいなら、映像も安っぽい。演技も撮り方も下手くそだ。僕が撮った方がきっと綺麗に撮れるだろう。
しばらく笑いながら見ていると、本命らしい触手が出てきた。CGを使っているらしい。何故かこの触手だけは作りがよく、リアルな不気味さが、安っぽい世界観とまるで合っていなかった。
多分。国光や涼達ならばここまで見たところで、馬鹿らしいと再生を止めるだろう。
「……………………」
手に持ったコップがちゃぷんと揺れた。コーラの炭酸はすっかり抜けている。
熱い手をコップの水滴が濡らす。じっとりと首筋に滲んだ汗が、背中を伝っていく。
僕はじっとテレビを見つめ、ごくりと大きく唾を飲み込んだ。
「なにこれ、気持ち悪」
「うおおおお!」
「うるさっ」
背後から声をかけられて飛び上がった。慌てて振り返れば、寝ぼけた目を擦りながら国光が怪訝そうに僕を見下ろしていた。
「あ、お、起こした?」
「こんなのあったっけ?」
「押し付けられたやつ。一枚残ってたからさ……」
「あー。中古のやつ。……なんかグロくね? キモイわ。これ。お前にやるよ」
「いらない、いらないって」
断るも、国光はデッキからDVDを取り出し僕の鞄に突っ込んだ。そのまま二度寝をするかと思ったが、彼は身を起して僕の隣に腰かける。適当なDVDを取り出して再生するも、彼は大きなあくびを繰り返して眠そうに目を擦る。
「眠いんだろ? 寝なよ」
「や、今日めちゃくちゃ楽しかったからさ。寝るのが勿体なくて」
「それは分かるけどさぁ」
「湊、元気出た?」
僕はぴたりと動きを止めて、国光を見た。
「…………うん」
「そっか。ならよかった」
「あのさ」
「ん?」
「もしかして、僕のため?」
国光はくしゃりと鼻先にしわを寄せて、子供っぽい顔で笑った。
「最近元気なさそうだったから」
国光はそう言った。その言葉で唐突に、僕は今日の集まりの真意を理解した。
僕のためだ。
疲れを表には出していないつもりだった。だけど国光には、僕が悩みを抱えていることが分かっていたのだ。きっと、他の奴らも。
遊んでいる間僕はずっと笑っていた。日頃の不安や悩みをすっかり忘れて。
胸の奥がじわりと熱を持つ。
彼とは一年生の頃からクラスが同じだった。長い付き合いではないけれど、短い付き合いでもない。少なくとも、僕が隠していた悩みに気が付くくらいには、仲がいい友人だった。
「国光、ありがとう」
「何一人で悩んでんだよ。困ってんなら、相談しろって」
「…………国光」
「んー?」
「お前は元気出た?」
今度動きを止めたのは国光の方だった。
なにがぁ? とのんびりとした声で言う。けれどその顔は笑っていなかった。
「俺、落ち込んでるように見えた? うそ。やだ、恥ずかしいわ」
「無理にテンション上げようとしてるのくらい、見れば分かるよ。朝からずっと沈んでたじゃん」
「…………なんで分かんの」
「友達だから」
彼が僕の悩みに気が付くほどに仲がいいと言うならば、それはこちらも同じこと。
国光は溜息を吐いて頭を掻きむしった。テレビの明かりがぼんやりと彼の肌を白く照らす。顔を上げた彼は、困ったような、子供っぽい顔で笑った。
「今日親いないって言ったじゃん?」
「うん」
「関西の方に腕のいい病院があってさ。今日、姉ちゃんそこで手術だったんだ」
「病院? お姉さん、どこか悪いの」
「美容外科。姉ちゃん、こないだ顔怪我してさ」
「えっ?」
「こないだ商店街で騒ぎがあったときそこにいたんだよ」
冷えた空気の中に、場違いな嬌声が響いている。
頭の奥がジリジリと焦げ付くように痺れた。熱い塊を喉に飲み込んで、乾ききった喉に痛みを走らせる。
頭の奥で何度も同じニュースが再生されていた。
商店街で発狂する通り魔が振り回す包丁。突如現れた災害のような怪物。
多数の死者と負傷者が生み出された悪夢の一日。
「怪物が飛ばした瓦礫が頭に当たったんだ。眉間から、右頬にかけて大きな傷ができちゃったの。結構目立つ傷でさ。……やっぱさ、皆気になっちゃうもんなんだよね。コンビニの店員も電車で向かいに立った奴も、皆一瞬姉ちゃんの顔見るんだもん。何も言わないけどさ。でも何か言ってるんだよね、頭の中で。姉ちゃん部屋に閉じこもるようになって、毎日泣いてたんだ。だからさ、手術で目立たなくしようって。父さんと母さんが決めて。で、手術してきた」
「…………どうだった?」
「無事終わったってよ。でも、完全には治せなかったって。薄い跡はどうしても残るみたい」
「……………………」
「変な話してごめんな?」
僕は黙って首を横に振った。国光はテレビを見て笑っていた。けれどその笑顔が空元気であることくらい、誰にだって分かる。
「ほーんと。最近物騒でやんなっちゃうわよ。つか漫画みたいじゃね? 怪物ってなんだよっつー話じゃん。最初に出た出たって言われてたときも俺ニュースでしか見てなかったからさ、正直合成とかCGだと思ってた。世界中が俺にドッキリでも仕掛けてんじゃないかって。でも。実際に知ってる人が怪我したってなってさ。あ、本当にいるんだって思った。なんか、一気に来た感じなんだよ。なんだろ。上手く言えないけどさ…………ちょっとキツイかも」
笑って話していた国光は、返答のない僕に目を向けてギクリと固まった。
「なに泣いてんの」
「泣いてない」
泣いてんじゃん、と彼は力強く僕の背を叩く。僕はゲホゲホと咳き込んで、弾みで目から一粒落ちた涙の跡を拭った。潤んでいた目にさり気なく指を当て、滲んでいた水分を払う。
「ごめん」
「え、何急に謝ってんの。こわ……」
こいつ、と僕は怒った顔をしてから笑い声をあげた。引きつった喉から溢れる声はどうしても震えていて、それが上手く隠せていたかどうかは分からない。
僕が謝ってなんとかなる話じゃない。僕が謝る必要もない。
それは分かっているけれど。
「平和な街になるといいよな」
国光は消えそうな声でそっと呟いた。ほんの僅かにその声は震えていた。僕はその言葉に頷いて、また鼻の奥のツンとした痛みを感じていた。
ベッドから大きな音がして僕達は飛び上がる。振り向けば、ベッドから蹴り落された涼が呻きながらハッと目を開けて、僕と国光を見ていた。
なんでAV見て泣いてんの、という言葉に、僕達は顔を見合わせて、ぎこちなく笑った。
家に帰ってノートを開いたものの、あまり筆は進まなかった。
ザラザラとした黒鉛を指でなぞり、黒くなった指先を擦りながら、ぼんやりと怪物の写真を見つめる。しばらくしてからノートを書く手を止め、大きく伸びをした。
爪先が鞄にぶつかる。鞄が倒れ、中身が床に散らばってしまう。僕はふとその中に入っていたDVDを見て、苦笑した。そういえば国光に押し付けられてそのままだったっけ。早いところ捨てておかないと。親に見つかったらまずい。
「……………………」
ぼくはDVDを拾い、そのまま少し考えてからパソコンを立ち上げた。普段写真の編集をするときくらいにしか使わないそれに、DVDをセットする。
流れたのは見覚えのある安っぽい映像だ。ぶよぶよとした醜い触手が画面いっぱいに映し出される。触手ばかりが目立っていて、女優さんの姿もほとんど映っていない。
僕はじっと画面を見続けた。キモイわぁ、と批判をしていた国光の言葉が脳裏をよぎる。
そのとき。ヴー、と携帯が震えた。僕はビクンと肩を跳ね上げ、体勢を崩して椅子から転がり落ちた。
「ちょっと湊? 大丈夫ー?」
「だっ! っ。っで。いっ、じょうぶ! 平気!」
部屋の外から飛んできた母の声に慌てて答え、ズキズキと痛む頭を押さえる。
携帯を見れば届いていたのは涼からのメッセージで、内容は「マジックミラー号ハリウッド化決定だって」というどうでもいいものだった。
胸の動悸が治まらない。驚いたせいか、汗の滲む全身が熱かった。
ベランダに出て夜風に当たる。涼しい風を肌に当て、ほうと僕は息を吐いた。
「君も煙草?」
「ギャア!」
僕の悲鳴が夜の住宅街にこだまする。
隣から、冷たい煙草の煙が香った。目を向けた僕は隣の部屋、ベランダの手すりに寄りかかってこちらに手を振る黒沼さんを見る。
ご近所迷惑、と微笑みながら彼は煙草を一本差し出してきた。すみません、と言って僕は煙草の煙から身を引いた。
「勉強は順調?」
「はい、まあ」
「分かんないところがあったら、お兄さんが教えてあげる」
「ありがとうございます」
「勿論勉強以外も教えるよ。夜遊びの方法とか、いけないこととか」
大麻の栽培の仕方とかですか? なんて言葉が一瞬頭に浮かんだ。
ありがとうございます、と適当に礼をして部屋に戻ろうとした。けれど彼は続けて紫煙を絡ませた言葉を吐く。
「エッチなビデオを見るときの注意点とか」
「えっ」
「鏡を見てきた方がいい」
酷い顔だと黒沼さんは笑った。部屋の明かりに、彼の腕のタトゥーが静かに浮かんだ。
全身が一気に熱くなった。僕はろくな返事もせず、慌てて部屋に駆け戻る。熱を冷ますために外に出たというのに、余計に汗をかいていた。
「ち、違う、違うってば」
誰に何の言い訳をしているのかも分からないまま、口から独り言が零れる。
途中で止まったままの動画をカチカチと操作する。消そうと思ったのに、指が滑って動画を最大画面で開いてしまう。
人間の臓物に似たピンク色の触手が這っている。青白く浮いた血管が脈動し、皮膚から垂れた半透明の粘液が床を汚している。奇妙な鳴き声をあげて芋虫のように体を震わせるそれは、完全に怪物だった。
黒沼さんは勘違いをしている。僕が見ていたのは確かにAVだけど、映像は稚拙だし、グロテスクだし、ちっとも興奮するようなビデオじゃない。
国光達だってこれを気持ち悪いと言っていた。僕はただ、押し付けられたビデオを処分する前に確認していただけなのだ。こんな気持ち悪い怪物が出てくる映像なんて、普通興奮しないだろう。
気持ち悪くて、グロテスクで、おぞましい。
そんな生き物に。
「…………そんなわけない、だろ」
ビデオを消した。画面が暗くなった。途端映ったギラギラと光る目に、驚きの声をあげた。
獣のように輝く目と、口元に浮かぶ歪んだ笑み。真っ赤な顔は汗で濡れ、眉に険しいしわが寄っている。
酷く興奮したそれが僕の顔だと、咄嗟には理解できなかった。
「っ!」
椅子が倒れる。思わずよろめき、壁に背中を打ち付ける。
湊? とまた部屋の向こうから母さんが呆れた声で僕を呼んだ。けれど大丈夫? という言葉に今度は返事ができなかった。
胸が、ドンドンと早鐘を打っている。肌が白くなるほどに強く胸を掴んでも、興奮は収まらず、痛みなんてちっとも感じなかった。
「ぼ、僕は。人間、なんだ。普通なんだ」
想像と現実は違う。
現実で怪物を前にしたところで、僕の胸には恐怖ばかりが生まれていた。きっと自分はそんなに怪物が好きではないのだろうと思った。
…………それは、最初の頃の話だ。
何度怪物に出会った? どれだけ怪物の傍にいた?
僕の恐怖は薄れ、怪物を目の前にしても、さほどパニックにならなくなった。恐怖は段々小さくなっていた。
恐怖がなくなれば。押さえつけられていた憧れが、喜びが、爆弾みたいに弾け飛ぶ。
「普通……………………」
理解した瞬間、バクンと心臓が跳ねた。痛みさえ感じるほどの鼓動に思わず呻き、床に崩れ落ちる。
ああ、そうか。
怪物が人を殺すという恐怖に隠れて、心が分からなくなっていた。だけど今理解した。理解してしまった。
僕は怪物を嫌いになんてなれていなかったんだ。
それどころか。前よりも、ずっと、ずっと、怪物を愛してしまっているのか。
「はは」
僕は人間だ。
魔法少女でもない。
怪物でもない。
だけど僕も、普通じゃない。
「…………普通ってなんだっけ」
僕は自嘲的な笑みを浮かべ溜息を吐いた。じっとりと濡れた吐息は熱かった。
僕はマウスに指をかける。
映像が、また再生された。
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