第19話 勇気を出して

 僕はテーブルを舐める炎をポカンと見つめていた。まずいと分かっているのに体が動かない。隣から悲鳴が上がって、ようやく我に返った。


「あ。っ、火……。け、消さないと……!」


 僕はセーターを脱いでバサバサとテーブルの火を消そうとする。転がり落ちたチョコが痛いと声をあげたけど、幸か不幸か誰もチョコのことを見る余裕などない。隣の二人も蛇口から出た水をすくってテーブルにまいていた。

 ぎこちない消火活動を続けているうちに、段々と火の勢いがおさまっていく。だけどほっとしたのも束の間、またガスコンロの火が爆発した。

 爆発はさっきよりも大きかった。顔の近くまで膨れた火の熱さに、僕は思わずのけぞって床に尻餅をつく。そうしてコンロを見上げれば、そこからは高い火柱が上がっていた。


「せっ……先生! 先生ー!」


 一人の子が慌てて家庭科室を飛び出していった。その際警報機を押していったらしく、聞き覚えのある警報が鼓膜をつんざく。


『火事です。火事です』シュー『二階で火災が発生しました』シュー『落ち着いて避難してください』


 警報の音にまぎれて、シューッという異音が聞こえる。すぐ目の前のガスコンロからだ。茫然と座る僕の横で、チョコが納得したように手を打って言った。


「分かったぞ。あの日の騒動で、ガス管にヒビが入っていたんだな。ギリギリの状態を保っていたけれど、さっき火を付けたタイミングでとうとう壊れてしまったんだ。もしずっと壊れていたのなら火を付けた瞬間に大爆発だったからね。よかったよかった」

「…………よかったなんて言えるかよ」


 僕は巨大な火柱が天井を黒く焦がしていく様子をぼうっと見つめて言った。モウモウとした黒い煙が上空を満たし始める。

 火を見て、残るもう一人の子が固まっている。もはや水は流しっぱなしだった。危機的状況を前に頭が真っ白になっているのだろう。僕も、同じだった。

 それでもなんとか震える足を奮い立たせて立ち上がる。彼女の肩を強く掴めば、顕著に肩を跳ねた彼女が震える目を僕に向ける。


「に、逃げよう」


 火の勢いはみるみるうちに強くなっていく。火を止めようにも、スイッチ自体が火に飲まれているため触れない。

 これ以上この部屋にいる方が危険だった。近くの教室にいる人達に知らせないと。いや、警報がその役目を果たしてくれているはずだ。今頃皆校庭に避難しているはず……。

 そう思いながらふと扉の窓を見た僕は、遠く、向かいの校舎の廊下をのんびりと歩いている生徒の姿を見つけて目を剥いた。彼らはちっとも危機感を抱いて逃げる様子がない。

 どういうことだ、と思わず呟く。

 ピコン、と携帯の通知音が聞こえた。咄嗟に携帯を見れば、そこには友人からのメッセージが表示されている。


『また誤報。最近多くね?』


 違う、と思わず声を荒げた僕に、女の子が怯えた目を向けた。

 そうかと舌打ちをする。前に千紗ちゃんが鳴らしたあの警報。あれが誤報だったことは全校生徒に放送されていた。あれから数日もたっていないうちに鳴らされた二度目の警報。今回こそ真実であると、何人が思うだろうか……。


「だ、だ、大丈夫ですか……っ!」


 僕の不安を否定するように外から声が聞こえた。遠慮がちに扉が開く。家庭科室を覗き込んだのは、雨海さんだった。

 慌てて走ってく子がいたから、と言った彼女は燃え盛る炎を見て目を丸くする。けれどすぐに首を振って、鋭く目を持ち上げた。


「ま、待ってて。今、消火器持ってくるから!」


 彼女はそう言って設置されていた消火器を持ってくる。おぼつかない手で重たい消火器を持ち上げ、消火剤を噴射した。けれどなかなか火に上手く当たらない。じわじわと範囲を広げていく火は、気が付いたときにはテーブルを伝って床にまで広がりはじめていた。


「キャアッ!」


 家庭科部の子が悲鳴をあげた。火が彼女のスカートに燃え移っている。僕はすぐさまセーターを彼女の足に被せた。熱い火が手を焼き、思わず呻く。

 火は幸いにしてすぐ消えたけれど、あまりのショックにか彼女はよろめき、ふっと白目をむいて意識を飛ばした。咄嗟に抱きとめ、肩を揺する。けれど彼女が起きる気配はない。

 床に広がった火は激しく燃えている。僕は彼女を抱きかかえ、火を飛び越えようとした。けれど助走をつけて飛ぼうとした瞬間火が大きく揺らぎ、驚いて体勢を崩してしまう。


「ぐっ!」


 足に鋭い痛みが走り、僕は倒れこむ。ズキズキと疼く痛みには覚えがあった。僕は震える手で足首を押さえる。ようやく治ったと喜んでいた、捻挫していた足首を。


「マジかよ…………」

「伊瀬くん!」


 治った直後は危ないんだからな、という友達の言葉を、この状況で思い出したくなかった。

 躊躇している一瞬に瞬く間に火は膨らんでしまう。僕達は火の壁の中に閉じ込められてしまった。


「君は早く逃げるんだ!」


 煙に咳き込みながら叫んでも、雨海さんは僕達を気にして、なかなか去ろうとしない。

 足元でチョコが震えていた。出口側は火に囲まれてしまい行けない。窓から飛び降りようかと考えた。だが下は足場の悪い砂利だ。痛む足で上手く飛び降りれるとは思えない。最悪死んでしまうかもしれないと考えると、怖くて動けなかった。


「熱いよぅ! 嫌だ、こわいよ。助けて湊くんっ」


 チョコが泣きながら僕の足に縋りつく。大粒の涙と鼻水がズボンをぐしゃぐしゃに汚す。普段なら離れてくれというところ。けれど僕はチョコを抱き上げてその体を抱きしめた。指の震えがチョコに伝わる。湊くん? とチョコの不安そうな目が僕を見上げる。

 ……よろしくね、って言われたからなぁ。


「チョコ。雨海さんと一緒に逃げるんだよ」

「え? うわーっ!」


 僕はチョコを思いっきり放り投げた。雨海さん、と声をかけると彼女は慌てて消火器を捨てて、火の壁を乗り越え飛んできたチョコをキャッチした。


「ゆ、床に叩きつけられるところだったじゃないか!」

「キャアアッ!?」


 雨海さんの絶叫が響く。彼女は目を剥いて、腕の中で喋るチョコを見つめた。当然の反応だった。いやむしろ、落とさなかっただけマシだ。


「ひっ……! ひぃっ……!」

「やあこんにちは。こうしてお喋りをするのははじめましてだね。僕はチョコ。ありすちゃんの大親友で……」

「ひいぃっ!」


 チョコの言葉は雨海さんにほとんど聞こえていないことだろう。突然目の前でぬいぐるみが喋りだす衝撃は、雷に打たれるそれに等しい。

 雨海さんと名前を呼ぶと、真っ白な顔をしていた彼女は息を飲んだように僕を見つめた。


「それはちょっと特殊なぬいぐるみなんだ。お喋り機能が付いていて…………ううん、詳しいことは後で説明する。君はそのぬいぐるみを連れて早く逃げるんだ」

「…………で、で、でも、湊くんは?」

「先に行った子が先生を呼んでくれた。先生達に助けてもらうから、大丈夫だよ」

「……う、嘘。大丈夫なら、そんな顔しないよ!」


 僕が顔に出てしまう性質なのか、それとも雨海さんが人の心を読むのが得意なのか。筋肉が引きつった頬を撫でながら僕は思った。

 大丈夫だなんて言えない。先生が来たところで、ここまで広がった火が消せるかどうかも分からない。それでも、他人をこれ以上危険に晒すのは嫌だった。


「今こそ魔法少女の出番だよ!」


 僕達の沈黙を破ったのはチョコの一声だった。雨海さんの腕の中で、大げさなくらいに大きな声を張り上げる。

 雨海さんは喋りだしたチョコに大きく肩を跳ね上げつつも、魔法少女、と小さな声で繰り返した。


「さあ君。ぼくの力で魔法少女に変身しておくれ。魔法の力でこの危機を脱するんだ!」

「魔法、少女……? まさか、ほ、本当に?」

「ありすちゃんが話していただろう。ぼくだって魔法の力でお喋りができているんだ。魔法の力は、本当にあるんだよ」

「で、で、でも、わたし、なんかが、魔法少女なんて…………」

「早くしないと湊くんが死んじゃうぞ!」


 雨海さんは体を強張らせた。震える目が、チョコから僕に向けられる。僕は慌てて眉間に力を込めた。だけど、一瞬、雨海さんには見えてしまったかもしれない。僕が目に滲ませた涙を。


「雨海さん! いいから、早く逃げるんだ。君まで巻き込まれる!」


 喉がピリピリする。煙を吸い込みすぎたせいで、頭が酷く痛かった。恐怖と苦痛が体を襲う。震える指先で床を引っ掻き、荒い呼吸を繰り返した。

 熱さで滲んだ体中の汗が、涙のようにぽたぽたと床に落ちていった。


「さあ、変身するんだ!」


 チョコが叫ぶ。雨海さんは僕を見つめる。

 怯えていたその目に、彼女は無理矢理鋭い力を込めた。


「…………伊瀬くん!」


 彼女は、逃げなかった。


「わ……わたし。決めたから。次は、次こそは、勇気を出してみるって」

「…………っ」

「だから。きっと、今が勇気を出すべきときだって、思うから……!」


 彼女は強く拳を握る。眼鏡に火の明かりが反射して、その奥の目に熱い光を揺らした。


「今逃げる方が、きっと後悔するから!」


 火で真っ赤に染まった部屋の中に、彼女の長い黒髪がなびく。すっかり火は広がっているのに、彼女は、逃げる気配さえ見せなかった。

 馬鹿、と僕は小さく呟く。ドクドクと強く脈を打って痛む左胸を、汗ばんだ手でぐしゃぐしゃに握った。

 ただの、些細な会話だったのに。こんな状況になるなんて予想していなかったのに。

 勇気出しすぎだよ、雨海さん。


 バタバタと、廊下の方から先生達のものらしき足音が聞こえてきた。

 風に大きく黒髪がなびく。彼女は天井に向かって手を突き出して、今までに聞いたことがないほどの大声で叫んだ。


「――――変身!」


 目を焼くほどの眩しい青い光が、彼女の体を包み込んだ。




 ぶわりと舞い上がった火の粉が頬を焼いた。眩しく散る灰がちらちらと空を漂う。

 光の隙間に、彼女の体が変化していく様子が見えていた。

 幻想的な青い光が、人間を溶かしていく様が見えていた。


「……………………っ」


 何度見たって、その圧倒的な存在に震えが走る。心臓が早鐘を打ち、喉がカラカラに乾いていく。

 何倍にも膨れ上がった青い光から、ボコボコとお湯が沸騰するような音がしきりに聞こえていた。ボコリ、と時折光の一部が膨れ、震える。

 膨らみの一つからズチュリと奇妙な音がして、粘ついた大きな塊が床に落ちた。

 太い触手だ。青白いそれは、床の上でビチリと小さく跳ねて、床を舐めるように蠢いた。

 ズリュ、とまた一本触手が落ちる。膜が破れるような音がして、大量の粘液が床に流れる。粘液はそのまま、意思を持っているかのように床を伝い、火の傍でジュウジュウと焦げた音を立てていた。


 三人目の魔法少女も。やっぱり、魔法少女になんてなれなかった。


 溶けるように光が消えた。その途端、焦げ臭いにおいの中に、海のにおいが広がった。

 腐りかけの魚の死骸が浮かんでいる、濁った海の臭いだった。


「うっ…………うあ」


 海の臭いがぷんと広がるその真ん中に巨大な目があった。

 それは、おびただしい触手を持った怪物だ。ぐじゅぐじゅと粘液をまとった触手の上に、ぶよりとした柔い頭部のようなものが乗っている。そこに巨大な目玉がゴロリと存在している。僕の頭と同じくらいの大きさの目玉が、まっすぐにこちらを凝視していた。


 声すら出てこない。膝がガクガクと震え、立っていられなくなったのは、煙による影響だけじゃない。

 怪物の足元で。チョコだけが何も変わらぬ明るい声で叫んだ。


「さあ、君が! 世界の危機を救うんだ。魔法少女ブルーちゃん!」


 魔法少女、という言葉を聞いた雨海さんは、心なしか嬉しそうに自分の体を見下ろした。

 今の彼女には自分の体がどう映っているのだろう。青い衣装を身にまとった可憐な少女戦士の姿に変わっていることを知って、どんな反応をするのだろう。

 彼女の巨大な目が大きく見開かれた。触手の一部がボコリと泡立って、巨大な声が空気をつんざいた。


「雖後≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠!」


 それは心臓を握り潰す激しい絶望の声だった。

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