第17話 スケッチブック

「あ」


 彼女達がパッと顔を上げ、僕達に気まずい視線を向けた。その顔には覚えがある。僕を階段から突き落とした、あの子達だ。

 家庭科室の扉に大きく貼られた『立ち入り禁止』の文字が目に入る。少し視線を下げれば、彼女達が手にしているヘアピンが鍵穴に差し込まれているのも見えた。


「それ本当に開くのか?」


 千紗ちゃんの言葉に彼女達は素早くヘアピンをひっこめた。行こ、と彼女達の青いラインが入った上履きが埃を踏んで、踵を返そうとする。

 けれど、犯罪じゃんね、と笑う千紗ちゃんの言葉が彼女達の足を止めた。一転きつく細められた目が僕達を睨む。


「あんたたちに言われたくないんだけど」

「は?」

「思い出したよ。あんたら、今いろいろ言われてる人達だ。映画研究部が乗っ取られたって本当の話だったんだ」

「……………………」

「それからピンクの頭した奴も。精神病院に住んでるって話もマジなやつ? 煙草に、宗教まがいの勧誘とか、完璧に狂ってんでしょ」

「…………お前らだって人を階段から突き落としただろうが。殺人罪だろ」


 死んでないから、と千紗ちゃんの手を掴む。彼女の腕の筋肉が震えていた。止めなければ、今にも飛びかかっていきそうだった。空気がピリピリと険しくなっていく。

 困ったな、と乾いた唇を舐めて一触即発の彼女達から視線をそらした。板が折れ『家庭科室』の庭の文字の途中で途切れてしまっている教室プレートや、『消火栓』の火の点々が取れて『消人栓』になってしまっている消火栓箱をぼうっと見てから改めて視線を戻しても、剣呑な空気は和らぐわけがない。


「家庭科室は使えないのかしら?」

「知らないの? 家庭科室は工事が後回しになってて、まだ壁とかが壊れたままになってんの。今家庭科の授業は着物の着付けや茶道の時期だから、家庭科室は秋まで使わないんだって」


 そういえばそんなことを担任が言っていた気がしないでもない。工事の人も大変だなぁ、とだけ思って、そんな情報はすぐ忘れてしまっていた。

 ならば何故彼女達は家庭科室に入ろうとしているのだろう。それも、どう見たって不法侵入だ。そう思っていると僕の疑問に答えるように一人が言った。


「部活やれないと困るでしょ。うちら、家庭科部だから」

「そんなん、手芸でもやっときゃいいだろ」

「飽きるほどやったよ。でもいつまでたっても工事後回しにされてるから、うんざりしてんの。ケーキとか作りたいのに!」


 一ヵ月だよ、と彼女達は憤りをあらわにした。好きに部活ができないのはストレスもたまるだろう。僕だって一ヵ月写真を撮ることを禁止されたら、同じ気持ちになるだろうし。

 これ以上ここにいても無駄な喧嘩をしてしまうだけだ。帰ろうか、と僕は二人に向かって言った。千紗ちゃんは僕の話を聞かず、女の子達を睨んでいた。ありすちゃんは、そこにいなかった。


「家庭科部ってお菓子を作っているの?」


 彼女はいつの間にか女の子達の横にいて、喜々とした声を弾ませていた。

 うわ、と驚いた声をあげて飛びのこうとする彼女達をありすちゃんは逃がさない。扉にかかっていた手を力強く握り、大げさなくらい間近で顔を覗き込む。女の子がひくりと喉を振るわせたのが、ここからでも分かった。


「甘くておいしいお菓子を作り放題? 最高! 私、お菓子が大好きなのよ。プリンに、クッキーに、ブラウニー。私のママもお菓子作りが得意なの。よく、私の大好きなショートケーキを作ってくれるのよ。いつか自分でも作ってみたいって思ってたんだから」

「は、はぁ?」

「ねえ、私もあなた達のお友達になりたいわ。入部届はどこにあるかしら?」

「…………ねえ、本当なにこいつ。やばいんだけど」


 部活希望をするにしたってタイミングというものがあるだろう。空気が読めないありすちゃんの言動は、ただ彼女達の苛立ちを膨らませるばかりだった。目が吊り上がる。怒りを込めた棘のある言葉が彼女に振り下ろされる。


「うちは協調性のない部員はお断りなの。なんなんだよマジで。あんた、本気で気持ち悪い! 触んなキチガイ!」

「キチガイ? 誰のこと?」

「…………ちょっとそれは言いすぎじゃないか」


 僕はたまらず彼女達に言った。ジロリと鋭い目に睨まれたけれど、気圧されることなくぐっと顎を引く。


「確かにありすちゃんはちょっと変わってるし、奇抜な見た目だし、空気の読み方が独特なところはあると思うけれど」

「お前それフォローしてんの」

「でもだからって、悪口を言われていいわけじゃない。そんなに言うのは言いすぎだ!」


 確かにありすちゃんは変わっている。変わっているけれど、だからいじめようっていうのは、あまりに乱暴だ。

 ありすちゃんの背中に貼られていた悪口や、廊下の埃で汚れた靴下を思い出し、胸が痛む。その痛みに似た罪悪感を彼女達が感じてくれればいいと思った。結論として、それは無理みたいだったけれど。


「……や。先に絡んできたのはそっちからだし。あしらってもしつこく絡んでくるなら、強く言わないと意味ないでしょ」

「それは……僕達の方から言い聞かせて、二度としないようにするから」

「信用できないな。そもそもあんたは何? この子達の飼育係でもしてんの。それとも、

あんたもおかしい奴? それっぽいなぁ。全員、頭いかれてそうだし」

「さっきっから、ごちゃごちゃ馬鹿にしてきやがって……!」


 千紗ちゃんが獣のように喉を唸らせ、肩に力を込めた。

 突然。手にもしゃもしゃとした固い毛のような感触がする。驚いて目を下げた僕は、掴んでいた千紗ちゃんの片腕が黒い獣の手に変わっていく様子を見て飛び上がった。


「わ、ギャッ。千紗ちゃん……っ!」

「一発ぶん殴ってやる!」


 彼女の片腕はすっかり獣のそれに変わってしまった。手の平にちくちくと毛が刺さって少し痛い。背中に隠れた彼女の腕が女の子達に見えないよう、全力で押さえつける。彼女が僕の手を振りほどけば、獰猛な爪が女の子達を切り裂いてしまう。

 全体重を込めて押さえているというのに、彼女の腕がじわじわと持ち上がっていく。このままでは怪物であることがばれる。まずい……!


「きゃっ」


 ガタンと物音がして、張りつめていた空気が途切れる。音がした方向。廊下の角に雨海さんが、ぶつけた足を擦って座り込んでいた。


「あら。こんにちは、図書委員さん」


 ありすちゃんが呑気に声をかける。顔を上げた彼女は、僕達の視線に気が付き、みるみるうちにその顔を青くする。


「あっ。あ、あ、あの。あ、あ、あ」

「誰?」

「わたわたわたた、わたしはあの、の」

「はぁ?」

「こ、こ、こ、声をっ! ほんのちょっとだけっ、控えて、もらえると…………ごめんなさい……」


 図書室が近いので、と雨海さんは付け加えるように言った。僕は首を傾げる。図書室の前を通るといったって、ここで話していた声は図書室に迷惑をかけるほどの大声ではなかったと思うけれど。

 女の子達は雨海さんに顔を向けた。ごめんねぇ、と謝っているもののその言葉は単なる上辺だけの謝罪だ。この喧嘩をやめようとする意志は少しも感じられない。


「おい湊、手離せよ」

「離したらどうするんだ?」

「あいつらをぶん殴る」

「それこそ殺人罪だ。駄目だ」


 チッ、と千紗ちゃんが小さく舌打ちをする。怪物の本気の力で人を殴ったらどうなるか。少なくとも多分、女の子達の首から上はなくなる。殺人罪というのは決して冗談じゃない。


「だけどお前もむかついてるだろ。散々嫌なこと言われてさ」

「だとしても殺していい理由にはならないだろ」

「いい子ちゃんかよ」


 千紗ちゃんは吐き捨てるように言った。ざわざわと手の平を彼女の毛が引っ掻く。しかし僕の話を聞いてくれたのか、次第にその腕は人間の腕へ戻っていった。

 ほっと安堵して、手の力を緩めた。途端千紗ちゃんは僕の手を振りほどいて、壁を思いっきり殴った。止める間もなかった。

 壁を叩く拳の衝撃に悲鳴をあげ、直後鳴り響いた警報に更に大きな悲鳴をあげた。


『火事です。火事です。二階で火災が発生しました。落ち着いて避難してください』


 危機感を抱かせる警報音。その警報は僕のすぐ横から聞こえてくる。僕は固まって、警報機のスイッチを押し込む千紗ちゃんの親指を見つめた。


「ちょっとぉ!?」

「ははは! おら。早く逃げねえと、先生が来ちゃうぜぇ?」


 彼女の高笑いが廊下に響く。ヘアピンを落とし、慌ててこの場から逃げ出そうと女の子達が背を向けて走り出す。その背中めがけて飛び込んだのは千紗ちゃんだ。廊下を蹴った彼女は、鳥のように高く飛んで、そして、その靴底を逃げる二人の後頭部にめりこませた。


「ちょっと――――!」


 叫ぶのは二度目だった。その場に倒れる女子二人の悲鳴と千紗ちゃんの爆笑の声が、僕の声を掻き消す。

 階段から誰かが駆け上がってくる足音が聞こえた。先生の声だ。ハッとして、僕は慌ててありすちゃんと雨海さんの手を引っぱって逃げた。ひょこひょこと足を庇いながら、無理矢理逃げた。先を行く千紗ちゃんは廊下を走り、図書室の扉を豪快に開けて中に逃げ込んだ。僕達も急いで中に飛び込む。

 今日も数人ほど勉強や読書をしている子がいた。彼らは突如響く放送に天井を見上げてざわつき、鞄や本を手にして、逃げ出そうかどうか迷っている様子だった。けれど飛び込んだ千紗ちゃんがジロリと彼らを睨めば、全員が一分以内に図書室から消えた。


「ははっ! 見たかよ、あいつら。綺麗にすっころびやがって……いっだ!」


 腹を抱えて笑う千紗ちゃんの頭に拳骨を落とす。痛みに悶えた千紗ちゃんが涙目で僕の胸倉を掴んできたが、僕は怒りの表情を変えることはない。いまだサイレンがうるさい中で僕と千紗ちゃんは大声で怒鳴りあう。


「殴るなって言っただろうが!」

「殺さなきゃいいって言っただろうが!」

「そんなこと言ってない! ああもう。警報まで押しちゃってさ……」

「あれ以上長引いていたら余計ひどいことになると思ったから、さっさと終わる方法探してやったんだろ」

「だからって他に方法があるだろ!? 怪我もさせて。なんだって、そうすぐ暴力に走るんだよ」

「ムカついたからだよ」

「こっの……ばかっ。ばかばか。バーカ!」


 罵倒の言葉が喉までぐっとこみ上げてきたのをこらえ、幼稚な言葉で彼女を叱る。ガキかよ、と千紗ちゃんは唇を尖らせた。

 そうしているうちに、サイレンが止まり、さきほどの警報は誤報だったという放送が流れ始める。千紗ちゃんは雨海さんへと顔を向けた。


「で、お前は? あー、誰だっけ。湊を家に送ってった奴か」

「わ、わ、わたしは、あ、雨海雫っていいま……」

「リボンが青いってことは二年生?」


 雨海さんは小さく頷いた。貫禄ねえーっ、と千紗ちゃんがからかうと、雨海さんの耳が赤く染まった。先輩なの、とありすちゃんが驚きの声をあげる。

 貫禄があるかないかで言えば、確かに雨海さんには二年生らしい貫禄がない。下手をすれば一年生と誤解されるだろう。多少前に傾いた背中や、髪のカーテンに隠れる表情が、彼女をそう思わせてしまう。


「図書委員? あたし達に何の用だったんだよ」

「え、あ…………声が響くから……図書室で勉強している人達が、こ、困ると思って」

「嘘だろ」

「えっ」

「そりゃ騒いでたっつっても、大した大声じゃなかっただろうが。ここまで聞こえやしなかったはずだ。本当は何をするつもりだった?」

「……先生を、呼ぼうかと」

「チクるために?」

「違う!」


 雨海さんが予想外に大きな声で叫ぶ。ハッとしたように口を押えた彼女は、肩を震わせて視線を泳がせた。


「…………純粋に、止めたかったの! もし喧嘩になるようだったら大変だと思ったから。これ以上見ていられなくて」

「だからって先生呼ばれても、迷惑なだけなんだよな」


 ふーっ、と千紗ちゃんは長い溜息を吐いた。煙草を咥えていないのに紫煙の幻が見える。


「呼んで、どうなると思う。喧嘩は駄目だぞーって注意されて終わりか? んなわけない。全員まとめて指導室送りにされて、夜になるまで解放されやしないんだ。今日の騒ぎに関係ない成績や普段の態度のことまでねちねち説教される」


 彼女の体験談か。妙に具体的な愚痴を吐いて、千紗ちゃんは笑う。


「そうなったら。先生を呼んだお前にも恨みがいくに決まってる。あしらえんのか?」

「……………………」

「関係ないのに口出してくんなよ。迷惑なんだ」


 雨海さんは俯いて黙ってしまう。スカートを強く握りしめる手は、力が入りすぎていて真っ白になっていた。震える肩が痛々しく、僕は思わず彼女に手を伸ばそうとする。

 と、廊下から足音が近づいてきた。僕が振り返ってすぐ、扉が開いて一人の教師が入ってくる。


「おー、人いたか。さっきの放送。あれな、誤報だったから。気にしなくていいから」


 誤報ですか、と言えば先生は頷いた。


「それがなぁ。倒れてた女子二人がなんかギャーギャー言ってるんだけど、生徒がいたずらで押したって言うんだよ。金髪と、ピンク色の髪の女子生徒。お前ら、そんな子見かけた?」


 僕と雨海さんは顔を見合わせてから後ろを振り返った。そこで、ありすちゃんと千紗ちゃんの姿がないことに気が付いた。


「あとそれから男子も一人いたって聞いたな」

「しっ、知らない、ですっ」


 ギクリと頬を引きつらせた僕の隣で、雨海さんが首を横に振る。そっかぁ、と首を傾げる先生に僕はおそるおそる尋ねた。


「あの。その倒れてた子達って……」

「指導室で話を聞いてるところ。妙に興奮していて上手く状況を聞けなくてね。あの様子だと、しばらくはかかりそうだ。可哀想に」

「…………いやぁそうなんですか。大変だなぁ。はは」

「んじゃ。お前達も早めに帰りなさいよ」


 そう言い残して先生は去っていく。扉が閉まった途端、僕は盛大に息を吐いてぐったりとカウンターにもたれかかった。

 ありすちゃん達の名前を呼ぶ。しかし返事はない。代わりに聞こえたのは、紙の擦れる小さな音だった。


「ねえ見て。魔法少女の相棒が喋るほうきだなんて、とっても面白いと思わない?」

「この魔法の言葉も面白いぞ。『レイニー・レイニー・アンブレラ』だってよ。空から雨を降らせるんだってよ。アフリカに売り飛ばそうぜ。水は貴重品だ」


 カウンターの下から声が聞こえる。覗き込んでみれば、二人は床に寝転がっていた。彼女達の髪色は先生に見つかれば一発でばれる。それにしても、なんて反射神経で隠れているのやら。

 二人は何やらきゃあきゃあ言いながら一冊のスケッチブックをめくっている。


「なんだいそれ?」

「湊先輩も見てちょうだい。とっても素敵な絵よ!」


 渡されたスケッチブックにはたくさんの絵が描かれていた。

 喋るほうき、小さな黒猫、光り輝く魔法陣、そして戦う少女達。キラキラと輝く衣装に身を包んだ少女達は、可愛いモンスターに向かって何か呪文を唱えている。

 魔法少女がモンスターと戦う絵。その上の方には、小さな丸い文字で『魔法少女レインちゃん』というタイトルがふられていた。


「キャ――――!」


 キンと高い悲鳴が鼓膜をつらぬいた。僕の手からスケッチブックがひったくられる。それを大事そうに胸の前で抱えた雨海さんは、眼鏡越しの目を潤ませて、驚く僕に顔を近付けた。


「見た!?」

「えっ。あ、これ雨海さんの……」

「どこまで見たの!」

「…………魔法少女レインちゃ」

「いや――――っ!」


 雨海さんは顔をタコみたいに赤くしてその場に蹲ってしまった。

 どうやらこれは彼女にとって見られたくないものらしい。そんなに嫌だったのか、と彼女の反応を見て僕は眉を下げた。

 戸惑う僕の前で、カウンターから飛び出してきたありすちゃんが雨海さんの前にしゃがみこんだ。


「やっぱりあなた、魔法少女に憧れているんじゃない!」


 ありすちゃんの頬は上気している。興奮した声音で彼女はまくしたてた。


「素敵な絵ね。あなたのイメージする魔法少女、とっても可愛い。この子は自分をイメージしたのかしら? 水を操る魔法って素敵よね! 衣装も宝石みたいにキラキラしているわ。こういうお洋服が着たいの? 変身したらこういう子になりたいのかしら」


 雨海さんは俯いたまま顔をあげない。反応がないにも関わらず、ありすちゃんの口からは次々と夢にとろけた言葉がこぼれていく。


「魔法少女って素敵よ。強い力で、どんな敵でも倒せちゃうんだから。世界中の人を助けられるんだから。かっこいいヒーローになれるの。私、あなたは向いていると思うのだけれど……」

「…………なれないよ!」


 雨海さんの声がありすちゃんの言葉を遮った。最初、それが本当に彼女の発した声なのかと疑うほどに、その声は激しいものだった。


「なれないよ。わたしは、誰か一人だって救えないんだもの!」


 雨海さんが顔を上げる。僕はその顔を見て、ギョッとした。

 雨海さんは、大粒の涙を零して泣いていたのだから。

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