第13話 魔法少女イエローちゃん

 海が光り輝いていた。水中にパチパチと黄色い光が弾け、水中に浮かんでいた生ゴミや魚の死骸を美しく照らし出す。

 私は目を丸くしてその光を見つめていた。たまらなく美しい光景に息さえ止めていた。だけどすぐに苦しくなって、肺から空気を吐き出してしまう。ゴボボボ、と大量の泡が目の前を覆い、光が見えなくなってしまう。

 腕を掴まれたのはそのときだった。

 私は海から引っ張り出された。ザバリと白い飛沫が暗い夜に広がる。飲み込んでいた水を肺から吐き出した。前髪から滴る水が星明りにキラキラと光っていた。


「助けるわ、なんてかっこいいこと言っといて。お前が死にかけてどうすんだよ?」

「千紗ちゃん…………?」


 目の前にいる千紗ちゃんが柔らかい笑顔で私を見つめていた。

 青白かった肌に血色が戻っている。濡れた金髪が水の光にきらめいている。海の光は次第に収まって、ただその中心にいる千紗ちゃんだけが輝いていた。魔法の粉を振りかけたように、その髪の先が、肌が、夢のような光の粒をまとっていた。

 彼女は私を引っ張ったまま泳ぎ始めた。片方に私を、片方に湊先輩とチョコを抱えているというのに、足だけで器用に進む。陸についた途端彼女は私達を放り投げた。べしゃりと背中から地面に落ちた湊先輩が、咳き込みながら顔をあげ、千紗ちゃんを見て息を飲む。


 彼女の姿は魔法のように変化していた。

 パサついていた金髪は絹のように滑らかに、剣のように鋭い瞳は凛々しさに満ち、荒れていた唇はほんのりと艶めいて。

 汚れていた制服は霧散し、鮮やかな黄色のドレスに身を包んでいる。私と似ている、けれど少し違う、彼女の魅力を引き出した服。動きやすそうなボーイッシュに、リボンとフリルの甘さをほんの少し加えた美しいドレス。

 魔法の光をまとって輝く新たな彼女の姿は、どこからどう見ても完璧な魔法少女だった。


「これが…………あたしなのか?」


 千紗ちゃん本人も自分の姿が変わっていることに目を丸くした。

 私はぼうっと熱を持った瞳で彼女を見つめる。感動の涙が溢れ、大粒の雫が地面に落ちた。


「やっぱり、私が思ったとおりだったのね……!」

「これが、魔法少女ってやつかよ。はは、まさか本当のことだったなんて」

「あなたは魔法少女イエローちゃんなのよ、千紗ちゃん。これから私と一緒に世界を救うヒーローになるのよ」


 衝動のままに握った彼女の手は熱かった。彼女は戸惑ったように肩を竦め、不安に揺れる瞳で私を見つめる。


「あたしみたいな奴が、世界を守ることなんてできるのか?」

「そうじゃなければ、変身なんてできないわ」


 私は最初から彼女が魔法少女になれる人間だと分かっていた。千紗ちゃんは魔法少女になることができる。世界を救うことができる。

 ちゃんとした理由なんてない。ただ心のどこかでそう思っただけだ。

 でも私の勘が外れることはない。だって私は、小さい頃から、魔法少女になることが決まっていた女の子なのだから。


「私を助けて。一緒に戦ってちょうだい。イエロー」


 私が言えば、千紗ちゃんは目を見開いた。

 数秒の沈黙の後、彼女は優しい顔で笑う。


「…………助けてやるよ。だってあたし、魔法少女だからな」



 あの、と声がして私と千紗ちゃんは振り向いた。二人分の視線を受けた湊先輩は笑えるくらい大きく肩を跳ね、声を震わせる。


「お取込み中のところ悪いけど……トラック、どうにかしなくていいのかな」


 私はパッと顔を上げた。とうにトラックの姿は橋から消えている。私達が溺れている間に随分と遠くに逃げてしまったらしい。追いかけようにも、どこへ行ってしまったのか見当もつかない。

 不意に千紗ちゃんが鼻をひくつかせた。周囲を見回した彼女は、一方へまっすぐ指を伸ばす。


「こっちだ」

「分かるの?」


 彼女は微笑み、自分の鼻をつつく。


「妙に、匂いを感じるようになってるんだ。焼けたタイヤのにおいやガソリンのにおいがよく分かる」

「でも、車はいっぱい通っているのよ。そんなにおいだけじゃ……」

「あいつの匂いも感じるんだよ」


 私はまねをして鼻をひくつかせる。鼻孔に感じるのは生臭い海のにおいだけだ。ガソリンのにおいも、人間のにおいも、ちっとも分かりはしない。

 私の様子を見て千紗ちゃんが肩を揺らす。溜息を吐くように静かに、彼女は続けた。


「これでも恋人だ。あいつの匂いを、あたしが間違えるもんか」


 私は彼女を見て瞬いた。彼女の言葉に含まれたたっぷりの愛情に、胸がとろけてしまいそうになる。千紗ちゃんがハッとして、恥ずかしさを誤魔化すように首を振った。犬のように雫が飛んで、金色の髪が揺れた。


「行くぞ! 速くしないと、あいつに逃げられる」

「…………ちょ、ちょっと待って。イエローちゃん」

「なんだよ?」

「三分だけ休憩しない?」


 私は疲労に震える足をさすりながら微笑んだ。溺れかけたときに体力のほとんどを消耗してしまった。今の私にはトラックを追いかけることも、ましてや走ることさえも難しいだろう。

 千紗ちゃんは眉根を寄せ、大きな溜息を吐いた。彼女が私に文句を言おうと口を開いたそのとき、横から飛んできた声がそれを遮った。


「大丈夫だよ、ありすちゃん。ここは千紗ちゃんに任せるんだ」

「うおわっ!?」


 足元からの声に千紗ちゃんがぴょんと飛び上がる。目を丸くした彼女は足元を見下ろし、言葉を発するチョコを見て更に目を見開いた。


「ぬいぐるみが喋って…………!? …………っ、……………………いや」


 彼女は黄色に輝く自分の衣装を見下ろして、今更か、と吐息のような笑いをこぼした。

 チョコは構わず、座り込んでいた湊先輩の肩に乗り、甲高い声で叫び続ける。


「彼女の力なら、トラックを追いかけることなんて簡単だ。ここは魔法少女イエローとぼく達に任せてくれ!」

「ちょ、ちょっと待ってくれよチョコ。僕達? まさか僕も、あのトラックを追いかけるのか?」

「ああ。だって彼と言葉が通じるのは、今は君だけだろうしさ」


 私はチョコの言葉に首を傾げた。言葉が通じるとはどういう意味だろう。男同士通ずるものがある、という意味だろうか。恋人である千紗ちゃんともまた違う観点から見れるものがあるのかもしれない。


「……ああもう、分かったよ! あたしが行ってやる」


 慌てている先輩の肩を千紗ちゃんが掴む。ビク、と震えた先輩はゆっくり振り返り、間近にある彼女の顔を見てごくりと唾をのむ。千紗ちゃんは自信に満ち溢れた顔で笑った。


「ごちゃごちゃうるせえ。黙ってついてこい」

「ひっ……わ、うわっ!」


 千紗ちゃんは湊先輩の手を掴むと、大きく息を吸って、地面を蹴った。たった一歩。だけどその瞬間、彼らの姿が私の目の前から消える。

 激しい風圧が草を舞わせ、私は思わず後ろにのけぞった。パチパチと瞬きをして目を見開く。遥か遠くに千紗ちゃんと先輩の姿があった。千紗ちゃんはまた一歩足を踏み出す。そのたった一歩が、とんでもない速度を生み出して、彼女の体を前へと進めていった。

 凄い、と思わず呟いて小さくなっていく彼女の姿を見送る。なんて速いのだろう。変身した私の二倍、いや三倍、いやいやもっと。とんでもないスピードの彼女は、瞬く間に私の視界から姿を消した。

 頑張れ、と私はもはや聞こえないであろう声を彼女に向けて張り上げる。頑張れ、千紗ちゃん。頑張れ、魔法少女イエローちゃん! キラキラ光る私の声援が彼女の力になるように、精一杯の声を張った。


「…………あら?」


 ふと足元を見て、私は首を傾げた。

 千紗ちゃんが地面を踏んだちょうどその地点に。大きな獣の足跡が残っていたから。




***


 彼女は咆哮をあげていた。

 最初はただの唸り声だった声は、次第にその大きさを増していき、爆発するような声量となって夜の空気を振動させた。

 夜の街を走る彼女は雷に似ていた。とんでもない速度が一瞬にして駆け抜けていくのだから。きっとカメラを構える人の前を横切ったって、彼女の姿は残像にしか残らない。

 僕は彼女の後ろにいたから。その声の悲痛さがジンジンと胸に響いてくる。何度も叫ぶせいで声はざらつき、酷く熱を持っていた。彼女の喉は無事だろうか、なんてことを思う。

 彼女は何度も叫ぶ。あまりに辛そうなその声に、僕は涙を滲ませないように眉間に力を入れた。嘆いているのだろう。本当は胸が張り裂けそうなほどに悲しかったのだろう。

 僕の心には圧倒的な悲しみが浮かんでいた。けれど、恐怖と興奮も混在していた。

 僕はただ、彼女に落とされないように、必死でそのにしがみついていた。


「ガア、ァ鬨吶@縺溘↑縲ゅ≠縺溘@繧帝ィ吶@縺溘↑縲ゅ♀蜑阪?縺薙→繧剃ソ。縺倥※縺?◆縺ョ縺ォ縲りィア縺輔↑縺??ゆサ翫?縺雁燕縺ッ縺ゅ◆縺励′螂ス縺阪□縺」縺溘♀蜑阪§繧?↑縺??ょ━縺励>莠コ縺?縺」縺ヲ諤昴▲縺ヲ縺?◆縺ョ縺ォ縲よエ苓┻縺輔l縺ヲ繧九?? 縺雁燕縺後◎繧薙↑縺薙→繧偵☆繧倶ココ髢薙□縺」縺ヲ縲√←縺?@縺ヲ繧よ?昴∴縺ェ縺?h縲ゅ≧縺昴〒縺励g縺??ゅ♀鬘倥>縲ゅ≠縺溘@繧り脈繧偵d繧√k縺九i縲√♀蜑阪b縺昴s縺ェ螳玲蕗霎槭a縺ヲ繧医?ゆコ御ココ縺?縺代〒蟷ク縺帙↓縺ェ繧阪≧繧ォォォ!」


 何を言っているのか僕には一つも分からなかった。

 犬飼さんは、大きな怪物の姿に変貌していた。

 それは、巨大なオオカミに似ていた。


 車より一回り大きな体には、ガサついた毛が生えている。大きく裂けた口に尖った爪。獰猛に道路を走るたび、アスファルトには鋭い爪跡が残る。毛から香る僅かな獣臭だけで、僕の体はビリビリと痺れ、圧倒的な威圧感に押しつぶされそうだった。

 大きさも異様だが、それ以上に彼女を怪物とたらしめるのはその眼球だった。この獣は左右に三つずつもの眼球を揃えているのだ。大中小と並んだ目玉がギロリと前を睨む姿は、恐ろしい、ただその一言に尽きた。


 サグサグと固い毛の隙間に指を這わせ、必死で彼女にしがみつく。彼女がガパリと口を開け咆哮をとどろかせると、濡れた唾液が飛び、僕の首を濡らした。びっしょり浮かんでいた汗と混ざり、僕の腹にしがみつくチョコに垂れる。


「うううっ!」


 写真に撮りたい、という欲求が浮かぶ。けれど今日はカメラを持っていない。それにこの速度ではカメラを構えることなどできなかっただろう。

 前にも、変身したありすちゃんの背に乗って街を駆けたことがある。だけどそのときと今とではスピードが比べ物にならない。

 気が付けば、前方の遥か遠くにトラックらしき影が見えた。けれどそれは僕が数度瞬きをした瞬間、眼前に近付いていた。猛スピードでトラックに追いついた犬飼さんは、大きく口を開ける。


「ゴガア」


 ビリ、と布が裂けるような音がして、犬飼さんの口が更に広がった。耳元まで裂けた口にはびっしりと剣のような牙が生えている。彼女は大きな口から血を流し、トラックの後輪に噛みついた。

 タイヤに詰まっていた空気が弾け、爆風が僕の頭をぶん殴った。ハンマーで叩かれたかのような衝撃に息が止まる。けれど犬飼さんはちっともダメージを受けた様子はない。続けて荷台に噛みつき、頑丈なアルミの壁を簡単に食いちぎった。

 バランスを崩したトラックは完全に制御が効かなくなっていた。左右に揺れたトラックは建物の壁に激突して止まる。衝撃音が響き、よく分からない破片が飛び散った。

 ガクンと犬飼さんの体が止まり、僕は転がるように地面に落ちた。

 トラックの左側は激突した際に大破していた。ボロボロになった荷台から荷物がいくつか滑り、地面に転がっていく。


 彼の安否を確認するため僕は急いで運転席へ行こうとした。だけど数歩進んだところで足を止める。運転席からよろめきながら降りる彼の姿を見たからだ。降り立った彼はすぐさま荷台の方へ早歩きでやってきた。


「千紗!」


 けれど、怪物を見た男性の顔がサッと青ざめた。喉奥で悲鳴を飲み込み、彼は目の前の恐怖に凍り付く。

 犬飼さんが地鳴りのように低く喉を鳴らす。固い毛がぞわりと波打って、彼女の感情の昂ぶりを示した。それが喜びなのか憎しみなのかは、僕には判断ができないけれど。

 男性は顔を真っ白にさせ、今にも倒れそうだった。衝突の際に打ったのだろう。額からはダラダラと血が流れ、肌には擦り傷ができている。痛そうだ。だけど男性はそんな傷に構う様子を一切見せず、言った。


「そ、そ、そこから離れろ! 千紗に手を出すな!」


 柔らかな雰囲気をたたえていた彼のはじめての叫び声は、目を丸くするほどに力強かった。

 僕と犬飼さんは荷台の傍にいた。荷台の隅には彼女が齧り取った大穴が開いており、怪物が頭を突っ込めば楽に中へもぐりこむことができる。彼は中にまだ自分の恋人がいると思い込んでいるのだ。まさか目の前の怪物が彼女だと、想像するはずもない。

 男性は落ちていた大きめの石を拾い、こちらに構える。巨大な怪物に対してそれは酷く滑稽なものだったけれど、僕も犬飼さんも笑うことはできなかった。


「…………キュゥン」


 子犬の鳴き声がした。犬飼さんの大きな目が、今にも泣きだしそうに歪んでいた。

 それをチャンスと受け取ったのか、男性は石を投げる。それは犬飼さんの額にぶつかり、彼女は小さく鳴き声を上げた。

 男性はもう一つ石を拾って構える。けれど僕が慌てて犬飼さんの前に飛び出せば、彼は目をみはって腕を下ろす。


「君は…………。そ、そいつから離れろ! 危ないぞ!」


 キュウ、とまた犬飼さんがないた。僕は彼女の思いにつられて泣きたくなるのをぐっと堪え、目の前に立つ彼に感情を吐き出した。


「どうしてあなたはそんなに優しいのに、彼女のことを傷つけるんだ」


 離れなさい、と男性はまた言った。どうしようもない感情が胸を満たす。

 だってあなたは優しい人じゃないか。ほんの少ししか話していない僕にだって分かるくらい、あなたは優しい。それなのにあなたは自分の恋人を殺しかけた。彼女を泣かせた。そしてそのことを理解もできていない。


「あなたは犬飼さんと幸せになりたいんだろう? だったら、なぜ彼女を傷つける。彼女の思いにどうして気が付かない!」

「君は、何を言って…………」

「こんなに悲しんでいるじゃないか!」


 怪物が唸り声をあげ、苦しそうに体を震わせる。涙をこらえていたのかもしれない。けれどその反応を見た男性はその顔を恐怖に歪め、思わずといった様子で石を投げてしまった。

 恐怖に手元が狂ったのか。あっ、と男性が声をあげる。飛んできた拳大の石は狙いを外れ、まっすぐ僕の頭めがけて飛んできた。


「ガァウ」


 背後から熱い吐息が吹きつけた。目の前に何かが素早く伸びてきて、石を空中で砕く。目をみはる僕の眼前に、鋭利な爪が光って、ゆっくりと下がっていく。

 僕は思わず振り返った。巨大な体の毛がぶわりと震え、彼女は震える声で咆哮する。


「縺ェ繧薙〒」


 怪物が男性にとびかかった。

 一瞬で距離を詰め、一瞬で口をガパリと開け牙を光らせる。

 遅れて、強烈な突風が周囲のゴミ箱や木の葉を巻き上げた。その風を感じるまで、僕も、そして今にも食われそうな男性も、彼女が動いたことに気が付かなかった。

 怪物の牙が男性に近付く。けれどその寸前で、鋭い牙が黒い煙に包まれた。サラリとした砂のような黒煙が晴れると、その牙は普通の人間の歯に変わる。するりと腕を包めば、毛が生えていた太い獣の腕が細い人間の腕に変わる。煙から飛び出た獣……だったはずの犬飼さんは、女の子の姿に戻り、男性の唇に噛みついた。

 犬飼さんが男性の胸倉から手を離す。彼は恐怖からかへたりこみ、ぽかんと呆けた顔で犬飼さんを見上げていた。仁王立ちで背を向ける彼女の顔は僕からは見えない。


「千紗?」


 呆けた声で男性は言う。犬飼さんは何も言わず、黙って一度だけ頷いた。

 彼女はしゃがみ、男性と目線を合わせた。彼は僅かに体を強張らせたけれど、少し逡巡したあとにそっと手を伸ばし、彼女の頬をそっと撫でる。


「千紗」

「うん」


 騒ぎに気が付いた近隣の人々が人気のないこちらにやってくる気配があった。大破したトラックからはゴムが焼けたような臭いが漂い、僕達の間をすり抜けていく。

 僕は二人の静かな会話を聞きながら、ただ黙っていた。僕が口を出す権利はない。腕の中でチョコが「トドメをさすんだ」ともぞもぞ暴れていたけれど、彼の口をそっと手で塞ぎ、何も言わせない。


 怪物が恋人の姿になったのを見て、彼はなにを思っているのだろう。これまでずっと騙されてきたのかもしれないと思っただろうか。幻滅し、恐怖しただろうか。

 そんなことはないはずだ。

 だってあの愛おしそうな表情を見ていれば、誰だって分かる。


「あたしはずっと幸せになりたかった」


 犬飼さんは静かな声で言った。聞いたことがない、穏やかで優しい声をしていた。


「分かってるよ……。だから、俺は君を救おうとしたんだ! 聖母様の元へ連れていって、これまでの悩みもこれからの悩みも、全部なくしてあげようと……」

「今のお前じゃ、あたしを幸せにはできないよ。つまらない奴は嫌いなんだ。お前もよく知ってるだろ?」

「…………だから、聖母様に」

「それが! それが嫌なんだって、どうしてわからないんだ!」


 犬飼さんの荒げた声は鋭く刺さった。後ろでそれを聞いている僕でさえも、驚き肩を跳ねる。

 分かれよ、と犬飼さんは吐き捨てるように熱い言葉を放つ。

 夜の中に、彼女の声がキンキンと響く。


「聖母様、聖母様、聖母様! お前はちっとも自分の力であたしを救ってくれようとしない。他人の力に頼ってばかりで、ちっとも自分の手を伸ばそうとしない、そんな奴のどこを好きになる!?」

「千紗…………」

「つまらないんだよお前! 軟弱で、いつもへらへらしていて、それにだってうんざりしてた。お前みたいな奴に救われるくらいなら、あたしは幸せになれなくたっていい。一人でいいんだ。お前はいらない。どっかいっちまえよ!」


 それが彼女の本心でないことを僕は分かっていた。拒絶の言葉は激しい悲しみで濡れて、痛々しく胸を刺す。たまらなくなって僕はチョコを強く抱きしめ、自分の足元に顔を落とした。泣いているの、とチョコが言う。僕は目頭を震わせ、黙って首を横に振った。

 僕やありすちゃんや犬飼さんがどれだけ説得しても、彼に響いた様子はなかった。きっともう手遅れなのだ。僕達が何を言ったって、彼の心はもう出来上がってしまっている。


「あたしはお前が大嫌いなんだよ!」


 犬飼さんが一番、彼のことを救いたかっただろうに。


 ドン、と強く犬飼さんは男性の胸を突き飛ばす。彼は悲しそうな目で犬飼さんを見つめ、動こうとしなかった。千紗、と名前を呼んで彼女に手を伸ばす。


「譚・繧九↑!」

「ひっ!」


 彼女が痙攣したかと思うと、口が大きく裂け、犬のように鼻が突き出した。口元だけを怪物に変身させた彼女は、鋭い威嚇の声を飛ばす。

 本能的な恐怖に男性は背を向けて走り出した。僕達から離れた遠くへと姿を小さくしていく。犬飼さんはそれを見送って、ようやくこちらを向いた。

 彼女は怒りの表情を浮かべていた。けれど彼に背を向けた途端、眉根が下がり、その目がくしゃりと歪む。ボロリと涙がこぼれ、あとからあとから出ては顎から滴っていく。

 嗚咽をこぼさないよう、白くなるまで噛み締められた唇を見て、僕は思わず溜息を震わせた。目がじんわりと熱くなり、喉の奥が震える。

 僕からすれば、犬飼さんと彼の間にどれだけの物語があるのかなんて分からない。だけど今、確かに一つの恋が終わったのだ。

 一人の不良少女の人生を大きく変えた、一つの優しい恋が。


「……………………千紗!」


 声が聞こえた。

 僕は顔を上げ、目をみはる。逃げていた男性が立ち止まり、何かを決心した様子で振り返っていた。

 犬飼さんもハッとして立ち止まる。後ろから、男性が走って戻ってくる。彼女は涙で顔をくしゃくしゃに歪めたまま、男性の名を呼んで振り返ろうとした。

 飛び込んできた怪物が男性の体をはね飛ばした。


「っ!」


 僕は咄嗟に犬飼さんの頭を抱きしめた。彼女は驚き、けれど同時に聞こえた衝突音に動きを止めた。


「繧?=縺」縺ィ隕九▽縺代◆!」


 ゴボゴボと泡立った声が耳を不快に撫でる。総毛立つ思いに身を震わせ、近付いてくるそれに僕は視線を合わせた。怪物姿のありすちゃんが、僕達に手を振って駆け寄ってきたのだ。

 波打つ触手の色は肌色へと変わっていき、徐々に膨らみを消し、元の人間の形に戻る。表皮についていたゴミや血が剥がれ落ち、地面に奇怪な模様を作った。


「莠御ココ蜈ア縺薙%縺ォ縺?◆縺ョネ。…………街の人が騒がしい方向を選んで追いかけたのよ。やっぱりありすちゃんの推理は完璧! ところで、あの男の人はどこ?」


 声が人間のそれに変わる。あくまで無邪気に微笑む彼女を、僕は青ざめた目でじっと見つめた。彼女の背後の地面にじわじわ広がる血液を、その上に倒れる人の姿を、どうしても直視したくなかった。

 腕の中で犬飼さんが息を震わせるのが分かった。彼女は男性がはねられる瞬間を見ていない。だけど衝突音から、何が起こったのかをなんとなく理解してしまったようだ。小さな声が僕に質問する。


「何があったんだ」

「……………………車が」


 粘ついた唾液を飲み込みながら、僕は嘘を言った。本当のことを言っても大して変わりはなかっただろうけど。

 あっと思う間もなく、彼女が乱暴に僕の腕を引きはがした。その両目で倒れるその人を見る。犬飼さんは大きく目を見開き、ただ一つ、大きな溜息を吐き出した。

 ありすちゃんが僕達の視線を見て振り返る。倒れる男性を見て、キャア、と高い悲鳴をあげる。急いで駆け寄って介抱しようとする姿はどうしたって、自分が加害者なのだとは微塵も思っていないものだった。

 悲鳴が大きくなる。駆け付けた誰かも血に横たわる彼を見つけたのだろう。救急車を求める声が大きくなる。僕はぼうっと痺れた頭で立ち尽くしながら、もう手遅れだよ、とどこか冷静に考えていた。

 ふと、男性の近くの地面に携帯電話が落ちていることに気が付いた。ぼんやりしたまま拾い、画面を開いてみる。けれどロックがかかっていて開けなかった。


「それ、あいつの」


 気の抜けた声で犬飼さんが言った。震えるように伸びた手に、僕は思わず携帯を渡す。彼女はロック画面を見て、デタラメな数字を押した。当然解除されることはない。

 しばし黙って、彼女は数字を選ぶように画面に指を這わせる。ゆっくりと、四つの数字が入力される。0、7、2、7…………。

 カチリとロックが解除されて、僕は思わず身を乗り出した。犬飼さんはじっとホーム画面を見つめ、電話を開く。履歴には幾人かの名前が載っていた。彼女はそのうちの一つを叩く。音をスピーカーにし、コール音を響かせた。出ないかと思った。だが数コールの後、相手が電話を取る。


『……………………あれ、ちぃちゃん?』

「ミユ?」


 ミユと表示された彼女は、ガールズバーで行方不明になった、あの女の子だった。

 久しぶり、元気にしてた? なんて気楽な声が聞こえてくる。犬飼さんはそんな言葉を一蹴し、どこにいるんだ、と冷たく問う。


『どこってぇ、えっとどこだっけ。施設? あれ、病院だったっけ。あ、老人ホーム? ちぃちゃんもこの番号知ってるってことはあのお兄さんと知り合ったんでしょ? ってことはトラックの中か。もうすぐこっち来るのかな? やっばいよ。ここ、なんでもあるの。おもちゃも酒もあるよ。超楽しいよ。あと十分もしたら聖母様へのお祈りの時間なんだけどさ……』

「……店長心配してたぞ。急にいなくなって」

『あー、ごめん! 来たの急だったからなぁ。最初は誘拐されたー! と思ってビビったけど、なんて言うの、選ばれただけだったから。この世界から救済されたの。楽しくて連絡する暇なくて。ごめんごめん。救済! 夢をね、叶えてくれるんだよ。哲学の極地にたどり着いてさー! 一緒に来た子達はみんな赤ちゃんになっちゃって。知ってる? 哺乳瓶につまっているのは魂なんだよ? 母親の魂は娘になるのだから、つまり娘は存在せず、母という存在のみが胎盤を通じ転生を繰り返しているの。分かっちゃったな! 真紅は白と混ざると望ましい色になり、甘い砂糖が脳味噌のシナプスを変更してくれる。つまり、つまり! そういうこと! つまりなんですよね、りりさん。元気? うふふ、心配しないで。生きてるからさ! 世界と宇宙との交信を果たすべき年数は三十年なんですって』


 すべてが手遅れだと僕達は悟った。誘拐された子達が今どこでどうしているのか突き止めたところで、もう元に戻るすべはないのだと知った。

 ミユ、と犬飼さんは彼女の名を呼んで尋ねる。


「今幸せか?」

「ええ、とっても!」


 それを聞いた瞬間犬飼さんは通話を切った。静かに目を閉じ肩を震わせる。僕は彼女にかける言葉が見つからなかった。

 携帯のホーム画面には写真が貼られていた。男性と、犬飼さんが、そっくりの顔で笑っている写真だった。

 犬飼さんはそれを見て、泣きそうな顔で微笑んだ。


「お前もパスワード、あたしの誕生日じゃんかよ…………」




 ガールズバーのスタッフからはじまった連続誘拐事件。犯人は死亡し、被害者計十名は最後まで行方不明のまま終わりを告げた。

 事件はいずれ風化していく。だけど今も日本のどこかで、誘拐された子達が薬漬けにされている事実は変わらない。街に広がる薬物の売買も終わらない。また似た事件が起こり、また被害者が生み出される未来は、きっと遠くない。


 僕達は、何ができたというのだろう。

 結局僕達は誰も救えなかった。







「お兄さん、おいしいクッキーはいかが?」


 購買途中の廊下で僕は不良に絡まれた。

 壁に足をダンとくっ付けて、僕の進行を邪魔する犬飼さんは、ニヤニヤと子供っぽい顔で笑っている。短いスカートから思いっきり足を伸ばしているものだから、今にも下着が見えてしまいそうだった。


「あ、結構です」


 僕は無言で彼女の足を掴み、そっと床に下ろす。そのまま彼女の横を通り過ぎて立ち去ろうとすれば、後ろから苛立った様子でゲシゲシとかかとを蹴られた。普通に痛い。


「ぼ、暴力! 先輩に暴力をふるうのはやめてください!」

「たった一歳で強気になるなよ?」

「君はむしろ強気すぎるんだよ」


 適当な会話をして立ち去ろうとしても、彼女は今度は僕の裾を握って離さない。思わず廊下を見回して周囲に助けを求める。昼休みだから廊下を通る人はたくさんいた。だけど皆明らかに僕と視線を合わせてくれない。さっと顔を反らしては、そそくさと廊下を過ぎていく。

 犬飼さんがポケットをごそごそと探る様子を見ながら僕は内心、まずいな、と冷や汗をかいていた。彼女が言う『クッキー』とはありすちゃんに食べさせたという例のクッキーだろうか。まさか白昼堂々、こんな人目のある中でそんなものを取り出すのか。


「…………ごめんっ! 僕は絶対、おどされたってそういうものには手を出さないって決めてるんだ!」

「は?」

「え?」


 彼女があまりにもきょとんとした声をあげるものだから、僕も目を丸くして彼女が取り出したものを見つけた。小さな包みにリボンで包装されたクッキーだ。端にバーコードが貼られている。購買のお菓子コーナーに同じものが陳列されていることを、僕は知っていた。

 やべ、と思わず口を押えて視線を逸らす僕に、犬飼さんは段々と眉をつりあげる。ガツンと脛を蹴られ、呻き声を上げてその場にうずくまった。


「あー、あー、そうですか。お前には結局あたしがそういうやつにしか見えないってことだな?」

「ぐっ……ち、ちが…………ごめ…………んぐ」


 喋っている最中に口の中にクッキーが放り込まれる。サクリ、と噛んだそこから香ばしい甘さが広がった。おいしい。草っぽい味なんてちっともしない。


「お礼だよ」

「え?」

「お前、あたし達を助けようとしてくれただろう。それから…………蹴ったりして悪かった。ごめん、ありがとう」


 僕はぽかんと口を開けて彼女を見つめ、固まった。最初はツンと唇を尖らせていた彼女は段々顔を赤くし、最後には耐えきれなくなったように背中を叩いてくる。いって、と声をあげ、僕は思わず笑った。犬飼さんもつられて笑った。

 ふと、初めて会ったときよりも、心なしか彼女の笑顔は柔らかくなっていることに気が付いた。

 それはとても綺麗な笑顔で。僕はその表情を、写真に撮りたいと思った。


「――――奇遇ね二人共!」

「うっ」


 ありすちゃんの声がして、背中にドンと何かがぶつかって僕は顔を床に打ち付けた。視界をさらりと鮮やかなピンク色の髪が覆う。

 僕の背中に乗ったありすちゃんはきゃっきゃとはしゃいで足を振った。人の体の上ではしゃがないでほしかった。周囲から刺さる視線に頬を染めながら、僕はゆっくり起き上がって、僕にまたがったままのありすちゃんの顔を見る。彼女は購買で買ったらしい苺ミルクを片手に、甘い声を弾ませた。


「ちょうどよかった。あのね、お話がしたいと思っていたの。これから私達魔法少女がどうやって活動していくか決めなくちゃ。中庭でお茶会をしながらお話ししましょう! 拠点となる場所も決めたいわ。どこがいいと思う? 私としては、そうね、千紗ちゃんの映画研究部がいいと思うのだけれど。おいしい手作りのお菓子もあることだし!」

「あ、あのねありすちゃん。犬飼さんの部室は駄目だよ。一応映画研究部なんだから、部活の邪魔をするのは……。それにお菓子も手作りのものは迷惑をかけちゃうだろ」

「じゃあどこがいいかしら。ねえ、千紗ちゃんはどこがいい?」

「というか、早くおりてくれないかな? ああもう、犬飼さんも、笑ってないで助けてくれよ!」


 お腹を抱えて爆笑していた犬飼さんは、涙をぬぐってしゃがみこむ。倒れた僕達に視線を合わせ、彼女は肩を竦めていった。


「『千紗ちゃん』か『犬飼さん』か、どっちかに統一させてくれ。左右からバラバラに言われると混乱するんだよ」


 僕とありすちゃんははたと動きを止めて顔を見合わせた。パチクリと丸い目を瞬かせ、でも千紗ちゃんは千紗ちゃんよ、とありすちゃんは言う。

 犬飼さんを見れば、彼女はいたずらっぽいニヤニヤとした笑みで僕を見つめていた。僕はむっと唇を尖らせ、溜息を吐く。


「分かった。助けてくれ、千紗ちゃん」

「はいよ」


 満足そうに言って、千紗ちゃんはありすちゃんの体を軽く押す。あー! と大げさな悲鳴をあげてありすちゃんはコロコロ転がり、壁に激突して額を押さえて悶えた。

 千紗ちゃんが伸ばした手に掴まると、途端に勢いよく引っ張られた。僕は慌てて立ち上がった。鼻がくっつきそうなほどの距離にいる彼女の顔は、強気にニヤリと笑っていた。


「あたしは刺激的なことが大好きなんだ。馬鹿らしいけど、楽しそうじゃん。魔法少女」

「……気に入ったようでなによりだよ」

「コカインよりも強い刺激になりそうだし」

「それは……体験したことがないから、分からないけどさ」

「それに…………刺激的な毎日を過ごしていたら、あいつのことも早く忘れられそうだからさ」


 言葉を止めて彼女を見た。彼女は変わらぬ笑みのまま、けれどその言葉だけに僅かな哀愁を滲ませていた。

 僕は一度目を閉じ、もう一度開いて、彼女に優しく微笑んだ。

 忘れられそう、と言っても彼女がこの先、あの人のことを忘れることはないのだろうと分かっていた。


「楽しませてくれよ、魔法少女。やばい刺激で、あたしをぶっ飛ばしてくれ」

「ああ。ぶっ飛ばしてやるよ」


 だけど僕は彼女に合わせてそう言った。千紗ちゃんは目を丸くして、声をあげて笑った。

 仲良しね、と転がったままのありすちゃんが、僕達を見てニコニコと笑っていた。


 二人目の魔法少女は、元気いっぱいで、とっても強い、黄色い髪をした女の子だ。

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