第12話 わたしを助けて

 ねえあなた。魔法少女にならない?

 そう言われて最初に思い出したのは、幼い頃の自分だった。


 あたしは魔法少女になりたかった。

 休日の朝、テレビでは子供向けの番組が放送される。その中に組み込まれていた魔法少女物のアニメは当時の子供達に絶大な人気を誇る有名番組だった。幼稚園や小学校では、クラスの皆が魔法少女のことを話し、デタラメな魔法の呪文を唱えていた。

 あたしも昔は普通の子供だった。無邪気に友達と魔法少女について語り、魔法のドレスを着て、魔法のステッキを振っていた。ドレスは本当は先週母親に買ってもらった地味なワンピースだったけど。ステッキは本当は公園で拾った木の枝だったけど。

 友達が魔法少女に憧れる理由は様々だった。ただ可愛いから、という子もいた。魔法が使えたら素敵だから、という子もいた。


 あたしは魔法少女の、どんなところに憧れていたんだっけ。

 朝、畳に座って、テレビにかじりついていたことを覚えている。

 ピンクの、イエローの、ブルーの、鮮やかな色をまとって戦う少女達に痺れ、歓声をあげては母親に怒られていたことを覚えている。

 可愛いお洋服を着ていたからだろうか。違う。

 不思議な魔法を使うことができたからだろうか。違う。

 あたしが彼女達に抱いていた憧れは、そこではなかった。




 犬飼さん。と誰かがあたしの名前を呼んでいた。

 瞼がやけに重かった。息苦しさを感じて酸素を吸おうとすれば、喉の奥からゴポゴポという水音が聞こえた。口の中が酸っぱい。全身が気怠い。

 なにがおこったの。

 うっすらと開いた瞼の先に人影が見える。視界はあいまいな輪郭しか拾えない。ただその影だけでも、その人が、酷く震えていることは分かった。

 ボーッと波の音のような耳鳴りが響いている。周囲の音がくぐもっていて、よく聞こえない。誰かが何かを言っている。何を言っているのだろう。あたしは、何をしているのだろう。

 そうだ、デートをしていたのだ。恋人と。



 中学生に上がった頃から人並みに恋愛に興味があった。当時から適当な男に声をかけ、手っ取り早く付き合っていた。

 今の奴は二年間付き合っている恋人だった。大学生だという彼は中学生のあたしからすると大層大人に見えて、映画のようなドラマチックな恋愛ができるのではないかと思ったのだ。けれど彼はよく言えば優しくて、悪く言えばつまらない男だった。

 あたしは刺激的なことが好きだ。楽しいことが好きだ。だからこんな退屈な奴とは続かないだろうと思った。実際、こっそり別の奴とも付き合ったことが何度かある。服装が派手で、性格も弾けた、あたしに似た男達と。

 だけど結局一番長く付き合ったのは、つまらない男だと思っていたそいつだった。刺激的なことを望まない付き合いというのは、浮気やら暴力やらが伴わない、穏やかで安定した時間だった。


 最初は、だらだらと関係を続けていただけだった。だけど二年も期間を共にすれば、あたしにだって情がわいてくる。

 こいつと一緒にいるのは、嫌いじゃなかった。

 秋の海に共に行ったときの、冷たい水の感触を足に覚えている。話題の映画を見に行ったとき、あたしよりも号泣していたぐしゃぐしゃの汚い顔を覚えている。カフェであいつの飲み物を一口もらったときの、舌がとけそうなほどの甘さを覚えている。

 相変わらず退屈だった。だけど、あたしはその退屈に付き合っていた。

 退屈が嫌ならいつでも別れられた。だから本当に嫌になるまでは付き合ってやろうと、ずっと、ずっと思って。それでもあたしは彼の隣にいた。

 つまらなくて、優しい奴だった。遠くへ行きたいと願うあたしに、どこまでもついていってあげるよ、と優しく笑っていた。

 煙草が苦手だというから、仕方なく量を減らしてやった。ついでに薬も減らしてみようと頑張ってみた。言葉にせずとも夜遅くに働くことを心配してるようだったから、次の場所では昼にできる仕事を探してやろうと思った。

 遠くで暮らすとき。傍にこいつがいるのならば、生活が便利になるだろうと思ったからだ。

 そうしてしばらく暮らした後で、金でも奪って捨ててやろう、なんて考えていた。



 濃い血の臭いがする。胸元の服が水をかぶったように濡れている。あたしの血だ。こんなに大量の血を流せば助からないだろうとも思った。

 どうして自分が血を流しているのか理解できないけれど。死ぬのは嫌だな、と思った。だって頑張ったのだ。引っ越して、新しい場所で生きるために、必死でお金を集めて。必死で自分を変えて。頑張った。それなのに。

 ぼんやり曇る視界に、ピンク色の髪が映る。頭のおかしいあの女があたしを見下ろして微笑んでいる。あたしは何も考えず、ただそいつの服に手を伸ばした。


「たすけて」


 そう言ってから、馬鹿だな、という言葉が自身の脳に浮かぶ。

 助けて、なんて言葉は飽きるほどに聞いてきた。薬物を売った客や、暴力をふるった相手、目の前のこいつにだって、助けてと、何度も言われた。あたしは彼らを助けなかった。誰が助けるかと馬鹿にした。

 今更、自分がその言葉を口にできる権利なんてなかった。

 なのに彼女は微笑んだまま、あたしの手を取って、こう言った。


「助けるわ。だって私、魔法少女だもの」


 その言葉が、本物の魔法みたいにあたしの心を軽くしてくれたこと、きっとこいつは知らない。無責任なそいつの言葉は、やけにあたしの胸を熱くした。

 なんとなく思い出した。あたしが魔法少女の、どこに憧れていたのか。

 世界を守るその姿に憧れていた。正確には、世界を守れるほどの強い力を持っているところに憧れていた。「助ける」という無責任な言葉を否応なしに飲み込むことができる、圧倒的な力。

 強い力があれば。誰だって倒すことができるから。宇宙から来た敵も、面倒くさい客も、喧嘩を売ってくる奴も、気に食わない母親も。全員を倒すことができるから。


 もしも魔法少女になったら。もしも強い力を手に入れることができたら。お金や立場やら年齢やらをなんにも気にせず、どこでだって自由に生きていける。一人で生きていくことができる。

 そうなったら、あたしはもっと簡単に遠い街へ行って、新しい場所で、新しい人間になって、新しい生活をして。幸せな人生を歩んでいきたかった。


 …………だけどやっぱり。そのときに一人だと退屈かもしれないから。

 退屈しのぎとして恋人の一人くらいなら、ずっと傍においてやってもいいかなって。

 そう思っていた。




***


 夜空にきらめくピンクの髪は、魔法みたいに愛らしい。

 ふんわり横に広がったミニスカートが夜風にはためき、すらりと伸びた生足がロマンチックに覗く。下着が見えてしまわないかと不安になる? 侮るなかれ! 魔法少女は夢を見せるものであって、下心を散らすものではないのよ。

 そよぐ夜風が頬に心地よかった。トラックは大きな橋の上を走っていた。滑らかに整えられた道を、タイヤが軽快に回る。車の数は少ない。時折幾台かとすれ違うばかりだ。けれどすれ違うたび、向かいの車の運転手は大きく目を見開き、ハンドル操作をもたつかせる。その視線はどうやら、トラックの屋根に立つ私に向けられているようだった。


「魔法少女が可愛くて、びっくりしちゃった?」


 荷台の屋根には穴が開いている。私が変身して壊した。アルミ製の屋根は人間の力では壊せないだろうけれど、魔法少女に変身した私にとっては、紙を破くようなものだった。

 屋根の上から荷台の中を覗き込む。横たわる千紗ちゃんと湊先輩がこちらを見上げていた。二人の眼差しが私を射抜く。「助けて、魔法少女ピンクちゃん!」と、そう言っているのだろう。

 魔法少女ピンクちゃん! この世界のどんな人よりも強くて、優しい、可愛い、世界一の女の子!

 浮つく気持ちのままスキップをすれば、屋根が大きく軋んだ音を立てた。可愛い靴で踏みしめた屋根が、ボコリとへこむ。老朽化が進んでいるのだろう。買い替えが必要よ。

 お兄さん。トラックを止めて。千紗ちゃんの具合が悪そうなの、酔ってしまったのかもしれないわ。そこのファミレスでお茶をしましょう。

 私は思いっきりジャンプしてトラックの前に立ちはだかる。両手を広げ、運転席に座る彼に向けて叫んだ。


「さあ、車を止めて!」

「うわああああ――――っ!?」


 私はトラックに跳ねられた。

 速度を一切落とさなかったトラックは、そのまままっすぐ私に直撃した。転んでしまった私の腕を、トラックのおうとつが齧る。私の体はそのままズリズリとトラックに引きずられた。

 キャー、と悲鳴をあげてトラックの壁を抗議の拳で叩く。助手席側の壁に穴が開いた。その穴から車内を覗き込むと、運転席にいた彼がハッとした様子でこちらを見つめ、目を見開く。


「なんて乱暴な運び方をするの!?」

「うわっ!? わああぁっ! わああああ!」


 気が狂ったような悲鳴をあげて男性はアクセルを踏み込んだ。トラックが一気に加速する。壁を掴んでいた私の指が外れ、体がゴロゴロと後ろに転がっていく。

 トラックの後ろを走っていた乗用車にぶつかって、ようやく私の体は止まった。振り返れば、運転手の男性と助手席に乗っていた女性が目と口を大きく開けて、驚愕の表情で私を見つめていた。


「驚かせてごめんなさい! 魔法少女の戦いの真っ最中なの。少しだけ我慢してくださいな」


 アクセルを踏み込んで急加速したトラックは、みるみるうちにその姿を小さくしていく。全力で走っても追いつけないかもしれない。私は乗用車のフロントに爪を立てた。ガラスが割れ、男女が悲鳴をあげて道路に飛び出す。そのまま車を持ち上げた私は、思いっきりトラックに向かって投げつけた。

 まっすぐ飛んだそれはトラックの荷台にぶち当たった。大きな音がして、荷台の角がへこむ。衝撃に大きく揺れたトラックは、制御できず急速に速度を落としていく。私は全力で走った。全速力の車には追い付けずとも、頑張って走れば並の車よりは速く走ることができる。徐々にトラックと私の距離は縮まっていく。そして私は道路を蹴って、荷台へ飛びこんだ。


 両開きのドアに大穴を開ける。大破したドアは飛び込んだ衝撃で根元の番が外れ、バラバラになって道路を転がっていった。荷台の中は乱暴な運転のせいでめちゃくちゃだった。家具があちこちに転がり、出口付近で千紗ちゃんと先輩がぐったりと倒れている。その横でチョコが二人の体を揺さぶっていた。

 大きく開いた出入口から吹き込んでくる風が、髪をなびかせる。床に散っていた木屑が舞い上がる。またトラックが揺れて、荷台の家具がガラガラと床を滑り始めた。椅子とテレビが外に転がって、道路をバウンドしながら壊れていく。

 私は先輩と千紗ちゃんの拘束を引き千切った。変身さえすればこんなバンド一つ、容易く壊すことができる。


「私に捕まって。ここから出るのよ!」


 その瞬間、またトラックが激しく揺れた。千紗ちゃんの体がずるりと血で滑って、車から落ちそうになる。先輩が慌てて彼女の体を抱きかかえた。けれど後ろから滑ってきた小さな椅子が彼の背中にぶつかった。


「あっ」


 軽い衝撃は、けれど彼のバランスを崩すには十分だったらしい。

 よろめいた彼の体が車の外に放り出される。ぽかんと大きく口を開けていた彼は一瞬で顔を青くして、腕の中の千紗ちゃんを強く抱きかかえた。私も咄嗟に飛び上がって、二人に手を伸ばす。

 ふと下を見た私は、足元に地面がないことに気が付いた。遠く下に、水が見える。真っ黒な海だった。


「ぐっ!」

「キャアー!」


 だぷん、と重い音がして私は海に落ちた。ゴボゴボと透明な泡を吐き出して、必死にもがき水面へと顔を出す。口の中が生臭くてしょっぱい。水をばしゃばしゃと叩いて私は周囲を見回した。

 夜の海は暗い。海と陸の境界さえ分からぬほど真っ暗で、ただ月光にぼんやりと波が白く光るばかりだ。彼らの姿が見当たらない。


「湊先輩! 千紗ちゃん! チョコ!」

「ここだよぉー!」


 チョコの声が聞こえたのは、予想もしていない頭上からだった。

 パッと顔をあげた私は驚きの声を漏らす。橋の欄干に彼らがぶらさがっていた。

 湊先輩が片腕で千紗ちゃんを抱え、もう片方の手で欄干を掴んでいる。その頭の上でチョコが楽しそうにはしゃいでいた。

 身を張って女の子を守る姿はなんてかっこいいのかしら、と私は思わず胸をときめかせた。けれど遠目から見ても先輩に余裕がないことは分かる。欄干を掴む手は激しく震え、落ちるのは時間の問題だろうと思った。


「大丈夫よ先輩。私が受け止めてあげる! 下は海だから、落ちたってなんの問題もなゴポ。ゴポポ。ガボ」


 途中から言葉が上手く吐けなくなって、舌先がとてもしょっぱくなった。あら? と首を傾げているうちに鼻に水が入ってきて、頭の先がとぷんと水に浸かる。どうやら私は溺れているらしい、と海に沈みながら気が付いた。

 慌てて手足をばたつかせて水面に上がる。けれどまたすぐに体が沈んでしまった。なんだかとっても体が重かった。水に濡れた魔法少女の服は、まるで重りのようだった。


「た、た、助けて!」


 バシャバシャと猛烈な水しぶきをあげながら私は助けを求めた。先輩はこちらを見下ろして、なんともいえぬ複雑な表情を浮かべている。

 足が底につかない。ここの海は、一体どれくらい深いのかしら。上手く泳げないわ。死んでしまう!


「千紗ちゃん! 溺れちゃうわ、助けて! ピンチなの! …………あら」


 だぷだぷと海が揺れる。泡立つ波が私の頭を沈めては、からかうように水面に浮かす。

 恐怖に体が強張っている、だけど顔の筋肉だけはどうしても制御が効かず、笑みを隠すことができなかった。


「そう、そうよ。これってとてもピンチだわ。ピンチなのよ!」


 魔法少女はピンチのときに目覚めるものだと相場が決まっている。私のときだってそうだった。

 だから今この瞬間こそ、千紗ちゃんが変身する舞台なのだと思った。

 魔法の言葉を唱えるんだ、とチョコが言った。湊先輩の手が滑って二人の体が落ちそうになる。なんとかギリギリで体勢を立て直すものの、震える先輩を見ればもう一分ももたないだろうと分かった。


「千紗ちゃん!」


 私は叫んだ。肺から吐き出す叫びは思いのほか大きく響き、夜の空気を震わせる。


「誰もが一度は世界を救うヒーローになる夢を見るはずよ。あなただってそうじゃないの? 一緒に魔法少女になりましょう。世界を救うには私一人だけじゃ駄目なの。あなたの力が必要なのよ! 皆を救うのよ。世界も、誘拐された子達も、あなたの彼氏さんも、あなたも!」


 手が疲れてきてしまった。段々頭をあげているのが辛くなってきて、気が付けば水の中に鼻まで沈んでしまう。

 私も、そして湊先輩も限界だった。

 先輩の手が欄干から外れた。二人とチョコの体が真っ逆さまに海に落ちていく。ひゃあ、と悲鳴をあげたのはチョコだろうか。

 私には彼らを助ける力が残っていなかった。伸ばした手は途中で力が抜けて、暗い海に沈んだ。頭がだぷんと水に浸かった。

 少し離れたところに彼らも落ちたのだろう。波が大きく揺れ、白く泡立った。


 聞こえないはずだった。

 だけどそのとき私の耳に、確かにその言葉が聞こえた。

 変身、という短い言葉が。


 真っ暗だった海が、突如黄金色に輝いた。

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