第11話 誘拐犯


「――――ありすちゃん」


 耳元で声がして、私は目を開けた。

 チョコの光る目が私を覗き込んでいる。ピンク色の毛が、風にそよいでいた。

 私は床に寝そべっていた。床は、ガタガタと揺れている。地震かしらと慌てて飛び上がろうとした私は、そのままバランスを崩して顎から前のめりに転がった。

 手足が上手く動かない。疑問を浮かべて体を見下ろした私は、手足を縛る結束バンドを見て首を傾げた。


「はひ?」


 なに? と口にしたつもりが、まるで声が出てこない。そこでようやく口元の違和感に気が付く。口が布のようなもので縛られていた。

 倒れたまま私は周囲を見回す。薄暗い空間に、タンスやらテーブルやら段ボールが積まれている。

 またガタンと足元が揺れた。すぐ近くで車の走行音がする。

 そこで私はようやく、ここが車の中だということに気が付いた。


 さっきまで私はベンチに座っていたはずなのに。他の皆はどこにいるのだろう。

 床に顎をくっつけて、芋虫みたいによじよじ床を進む。荷台の奥に、湊先輩と千紗ちゃんが眠っていた。二人も同じく結束バンドで拘束されている。

 二人の体を頭で小突いた。起きてちょうだい、と言葉にならぬ声で呼びかけていると、湊先輩が呻き、ゆっくりと瞼を開ける。


「…………?」


 起き上がろうとした彼が転ぶ。転んだ拍子に千紗ちゃんの顔に後頭部をぶつけ、二人分の呻き声があがる。

 二人の目がぱっちりと開いた。彼らはキョロキョロと辺りを見回し、その表情を険しくする。

 家具らしき物が詰まった車、ということは引っ越しトラックだろうか、と私は考えた。もしかしたら私達は荷物と間違えられたのかもしれない。

 私は運転手さんに存在を知らせようと、運転席側の壁を頭でドンドンと叩いた。車が止まり、エンジンの音が消える。

 それからすぐに荷台の扉が開いて、誰かが入ってきた。


「おはよう。いい夢見れた?」


 あの男性だった。

 千紗ちゃんと先輩が大きく目を見開く。私は体を揺らして、私達は荷物じゃないわ、と彼に告げた。


「わはひはひは、ひもふひゃなひわ」

「はは、何言ってるかさっぱりだ。……ううん、思っていたより早く起きちゃったな。やっぱりパックジュース一本じゃ効き目薄いか」


 んん、と千紗ちゃんが声を張った。ガタガタと大きく体を揺らし、彼女は暴れる。不安と焦燥が彼女の目に浮かんでいた。

 男性は彼女の前にしゃがみこんで、その頬を撫でた。


「ごめんね千紗、床に寝させちゃって。引っ越し用の家具、ベッドは引っ越し先で探そうとしてただろ? トラックにはまだ積んでないからさ」

「ん――! んんん!」

「それからもう一つ謝ることがあってさ。ごめん。二人で貯めた三百万。あれ勝手に引き出しちゃった。……ああ、別にパチンコとかそういうものに使ったとかじゃないから安心してほしい。ただ募金に使うだけだから」


 千紗ちゃんは何かを言っている。けれど言葉は布に吸われて聞こえない。

 痛い? と男性が彼女の口に巻いていた布を急いで外す。涎に濡れた布が、べたりと床に落ちた。


「お……お前、何してんだよ! ここどこだよ!」

「えっとね、まずここはトラックの中。ほら半月前に中古で買ったろ? 忘れた?」

「覚えてるよ! 引っ越し用のやつだろ。二人で揃えた家具だって積んである。それは分かってんだよ。そうじゃなくて、この拘束は何だ? 何であたしはここに転がされてんだよ。引っ越しだって、今日の予定じゃないだろ」

「ごめんごめん。俺だって、こんな急にお前を引っ越させるつもりはなかったさ。ただお友達を二人も連れてきてくれたものだから。これは、三人まとめてあそこに連れていったら、喜んでもらえるぞ! と思って……」


 私には二人の会話がよく分からなかった。引っ越し用のトラックって何のことだろう。千紗ちゃんが言っていた、遠い所に行きたいっていう話と関係があるのかもしれない。彼女は恋人さんとどこかに引っ越そうとしていたのかしら。

 千紗ちゃんはジタバタと暴れる。真っ赤な顔には汗が浮かび、薄い色をした金髪が張り付いた。それだけ暴れても、体はほとんど動かせず、芋虫のようにくねくね動いているだけだったけれど。


「わ、訳わかんねえよ。どこに連れていこうとしてるんだ。こんな縛り方して、まるで、誘拐みたいだしさ……。……はは、まさかお前がミユ達をさらった犯人だったりしてな」

「なんだ。知ってたの」

「え」


 男性が立ち上がると、床が軋んだ音を立てた。荷台の隅に古びたタンスが置かれている。彼が一番上の引き出しを引っ張ると、パンパンにつまっていた中身が溢れて床にこぼれた。結束バンドとガムテープが私の足元に落ちる。

 ゆーふぁいはん、と湊先輩がくぐもった声で呟いた。誘拐犯、と言ったのだろう。けれど男性は悲しそうに眉を下げた。


「誘拐じゃない。救済さ」


 静かな声には、かすかな熱が潜んでいた。


「大学生になって友達に連れられて夜遊びをするようになってさ、怪しい仕事とか、男女関係とか、悩みを抱えている人をよく見かけるようになってしまった。そんな中で千紗に会って、『薬に逃げる人』の存在を知った。彼らは今の人生にどうしようもない苦痛を感じている。地獄から少しでも逃れようと、薬に手を出してしまう。俺は彼らが可哀想で仕方なかったよ」


 薬に逃げる人。そう言われた千紗ちゃんは、僅かに表情を歪めた。

 男性は語り続ける。大きく手を振り上げ、口からは唾を飛ばす。悲しそうに、それでいて恍惚を浮かべた顔で彼は続ける。


「彼らは救われるべき人達だ! 俺はただ、彼らに手を差し伸べてあげただけだ。彼らに本当の夢を与え、幸せにしてくださる場所へ、案内してあげただけだ! ……この街だけでも救われなければならない人間はたくさんいる。探すのは、簡単だったよ。千紗の連絡先にいっぱい載っていたから」

「お、お前、あたしの携帯見たのか!」

「パスワードが誕生日なのは、危険だから変えた方がいい……と言いたいところだけど。俺的には、そのまま使ってほしい気持ちもあるなぁ。ふふ、俺の誕生日なんて、可愛いんだから」


 男性は緩やかな笑みを浮かべる。対して千紗ちゃんは首を振って、彼の言葉を必死で否定した。

 あたしが何をやってるか知っていたのか。そんな言葉に、男性は軽く頷く。


「恋人のことなら、なんだって知りたいものだから。お前がどんなに頑張ってお金を貯めていたのか、俺はちゃんと知ってるよ。本当に頑張ったね」

「あ、あたしは知らない。お前が何をしたのか知らない。教えてよ。何がしたいんだ。これから、あたし達をどうする気なんだ、殺す気か!」

「まさか。聖母様のところにつれていくのさ!」


 突然出てきた『聖母様』という単語に、千紗ちゃんと先輩は体を強張らせた。意味を理解している顔じゃない。だけど酷く不安に歪んだ顔で、男性を見上げる。


「聖母様は慈悲深い方だよ。あの人は世界中の人々の苦悩を取り除き、幸福を与えるために活動なさっているそうなんだ。

 俺も、困っている人を助ける仕事につくのが夢だった。だから聖母様と出会ってその思いを聞いたとき、なんて素晴らしいお人なのだろうと感銘を受けた。ぜひ自分も聖母様の元で、人々に幸福を与えようと決心したんだ。

 今まで連れて行った十人も最初は反抗的だったけれど、共に過ごすうちに、聖母様をお慕いするようになったよ。君達もきっとそうなる。楽しみだね。

 千紗。お前もあの人の元へ行けば、必ず幸せになれる。これまでの苦労は報われるんだ。

 三百万は会費として募金しよう。元々生活費と引っ越し代として貯めていたお金だろう? 新しい住居は聖母様が用意してくださるから、問題ないよ。実は大部屋に憧れていたんだ。確か一部屋に十人だったはず。同室の人達と仲良くしようね。

 素敵な場所だよ。天国みたいな所だ。抑圧されていた自身を解き放って、ただ望むがままの夢を叶えることができる、最高の……………………千紗?」


 千紗ちゃんの見開いていた目から、大粒の涙が零れ落ちた。

 くしゃくしゃに歪んだ顔は子供っぽく。今の彼女からは、私や先輩に向けていたときの鋭さは、完全にはがれていた。


「夢って、なんだよ。お前は、あたしの夢を、何だと思っているんだ」

「ど、どうしたの、泣かないで」

「宗教かよ。いつハマったんだよ。あたしと出会ってから? 出会う前から? 頭おかしいよお前。どうしてそんなことになっちゃったんだよ」

「お前の夢なら知ってるよ。自由になりたいんだろう? 新しい場所で生まれ変わりたいんだって、いつも言ってたじゃないか」


 大丈夫だよ、と男性は彼女を抱きしめようとする。

 けれど千紗ちゃんは彼の手を拒絶した。


「聖母様が、お前の夢を叶えてくれるよ」

「そんな奴知らねえよ! あたしは、お前と夢を叶えたいんだ!」


 ビリビリと空気が震える。彼女の悲痛な叫び声は荷台の中に響いて、私の胸を締め付けた。

 涙交じりの苦しみの声。それに対して、男性は、ただ優しく微笑んで。

 胸ポケットから、灰色の粉が入った小瓶を取り出した。


「俺なんかよりもっと、お前を幸せにしてくれるはずさ」


 千紗ちゃんは彼の言葉に愕然と目を見開いた。縋るような表情から色が消える。絶望の一色だけが彼女の顔を覆った。男性は彼女の顎を持ち上げ、その口に瓶を逆さまに突っ込んだ。

 灰色の粉がその口に落ちていく。驚愕した彼女は頬を膨らませて粉を吐き出そうとしたが、苦しそうに咳き込むだけで、粉は出てこなかった。


「これは『幸せの粉』だそうだよ。万病を治し、心を豊かにしてくれるんだって。俺が連れて行った子達も皆、この粉を飲ませてから随分優しい顔をしてくれるようになった。……ええと、適量はどれくらいだったかな。自分はまだ飲んだことがなくて。最初は千紗に飲ませてあげたいと思ってたからさ、えへへ」


 男性は瓶を床に置いた。空っぽになった瓶から、僅かな砂がぱらぱらと零れる。


「千紗、幸せ?」


 千紗ちゃんの喉が大きく痙攣する。彼女は背を丸め、口からボタボタと涎を垂らしていた。粉は全て胃に落ちたようだった。

 男性の膝から灰色の粉が落ちる。雪のように微かに降ったそれは、暗い床に落ちると、すっかり見えなくなった。


「目的地は遠いんだけどさ。高速走るの苦手なんだよね。もうしばらくかかると思うけれど、ちょっと我慢してね」


 湊先輩が布越しに何かを叫んで、体を揺らして暴れた。けれど男性は我慢してくれとだけ言って荷台を下りる。先輩は全身を震わせて、青い顔で千紗ちゃんを見た。

 千紗ちゃんは体を丸めて黙っていた。顔が真っ白だ。不安そうな目を揺らして私を見る。瞳孔が膨張と縮小を繰り返す。狂ったように跳ねまわる指が床を引っ掻く。不意に彼女の体が大きく痙攣し、鼻から一筋血が流れた。

 湊先輩がくぐもった声で叫ぶ。彼の目が私の後ろに隠れていたチョコを見つける。


「ヒョコ! おひ、ヒョコ!」

「なんだい、うるさいなぁ」

「…………っぷは。こ、このバンドを外せ、早く!」


 チョコに口枷を外してもらった湊先輩は、凄い剣幕でチョコに指示を出す。手足を必死に揺らし拘束を解こうとしているものの、バンドは彼の肌を傷つけるだけで、一向に外れる気配はない。チョコは私の口枷も外し、ぴょんぴょんと飛び上がってハサミを探し始めた。

 私は這いずって千紗ちゃんの傍に向かった。ぷんと嫌な臭いが鼻をつく。彼女は絶えず嘔吐を繰り返していた。さっきまではオレンジジュースの酸っぱい香りが混じった黄色い胃液だったけれど。今吐き出しているのは、真っ赤な血だ。彼女の口から滝のように血が吐き出さされている。

 鼻からは鼻血が流れているせいで、彼女の顔半分は真っ赤に染まっていた。苦しそうにえずいて、頬を涙で濡らす。

 千紗ちゃん、と彼女の名前を呼んで近付けば、彼女は縋るような目で私を見つめた。そして後ろで拘束を解こうと必死な先輩と、ハサミを探して歩きまわるチョコを見て、目を見開く。


「……ぬいぐるみが、動いへる…………はは……おかひな幻覚」


 あたし死ぬんだ、と彼女は声を震わせた。こぽりと血の塊が口から吐き出される。ぷちぷちと妙な音がしたかと思えば、彼女の耳から鮮やかな色をした血が流れはじめた。


「が、がんばっらのにな…………」


 彼女が言葉を言えば。ツンと酸っぱい血の臭いが、いっそう濃く香った。


「お金ためへ、遠くに行きたかった……あらひ、母さんとうまくいかなくてひゃ。ずっと遠くに逃げたいっへ…………。あ、あの、あの人、あたひの夢、応援ひてくれたの。へへ。だから二人れお金ためて……」

「犬飼さん! しっかりするんだ。今病院に連れていくから……!」

「知らにゃいまちに行って、一からじんせい、やりなおふんだ……。今度は、ひゃんとした仕事についてさ。薬もやめるんら。がんばっへ、減らせるようになっらんだ。あとちょっとで……やめられたのに…………ひ。ひ。すご。このくしゅり、やばいぉ。あひゃま、こわれゆの……わひゃるよ」

「犬飼さん! クソッ、まだハサミ見つからないのかよ! 犬飼さん、犬飼さん!」

「ね。どんな仕事……ひようか…………。どんなへやに、しよーか……いっひょにおりょうりひて…………ごはんらべて………………ねえ…………。おまへと、いっしょ、なら……なんらって…………しあわへだよ……………………」

「あ……あああああ! 駄目だっ。だめだめだめだめ…………」


 隙間風が聞こえる。けれどよく聞けば、それは彼女のか細い呼吸だった。千紗ちゃんはそれきり、言葉を発しなくなった。

 ハサミがないよう、とチョコが言っている。荷台にある家具の全てを開けたところで、刃物が見つかるとは限らないのだ。


 ありすちゃん、と先輩が静かな声で言った。私は彼の顔を見る。蒼白になった顔の中で、目だけがギラギラと輝いている。彼は酷く険しい声で一言だけ呟いた。


「変身しろ」


 いいの? と私は聞いた。さっき不良さん達と喧嘩しようとしたとき、彼は変身するなと言ったのに。


「…………変身した君なら、こんな拘束簡単に壊せる。今動かなければ犬飼さんが死ぬ。君だけが彼女を救えるんだ」

「千紗ちゃん、なんだか具合が悪そうだものね。酔っちゃったのかしら? 分かったわ。変身して、車からおろしてあげる」

「……くれぐれも忘れないでくれ。君が変身してすべきことは、彼女を助ける。それだけだ。それ以外に何もするな」


 そんなに念を押さなくても分かっている。先輩は心配性だわ、と私は肩を竦めた。

 すぐ下ろしてあげるからね、と千紗ちゃんの隣にしゃがんで言う。潤んだ目の彼女は、さっきからぼそぼそと何かを呟いていた。

 口元に耳を近付ける。血の臭いを絡みつかせた小さな声が、縋るように、私に言った。


「たすけて」


 私は起き上がって、彼女の顔を見下ろした。血と涙でぐしゃぐしゃになった白い顔。

 彼女に殴られた痛みや、鼻を流れる鼻血の味を不意に思い出す。

 私は大きな目で彼女を見下ろし、微笑んで言った。


「助けるわ。だって私、魔法少女だもの」


 私は息を吸う。たった一言。変身、と声を張った。

 途端体が光に包まれて。私は、拘束が弾ける音を聞く。

 誰かが、悲鳴をあげた気がした。

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