第10話 可愛い千紗ちゃん

 粉っぽいカラフルな色の錠剤は、ラムネみたいでおいしそうだった。

 薬、と湊先輩が男の言葉を繰り返す。眉間に寄っていたしわが更に深くなる。


「被害者は全員薬中。ってことは、話はもう少し簡単になるんじゃねえの」

「どういうことです?」

「誘拐っつっても無差別な誘拐じゃないんだろう。何か狙いがあるのさ」

「薬物使用者を狙った誘拐……? 誰が? 何のために」


 ヤクザじゃねえの、と男達は顔を合わせて肩を竦めた。

 私は男の手から袋を取って、錠剤をまじまじ眺める。ピンクに、青に、オレンジに。淡いパステルカラーはとてもおしゃれで可愛い。どんな味かしら、と袋を開けてピンク色のそれを口に入れた。

 口に粉っぽい薬品の味が広がる。顔をしかめ、慌てて薬を飲み込んだ。粉っぽくてただただまずい。可愛い見た目なのに、騙された気分だわ。

 口直しに苺ミルクを飲んでいた私は、ふと視線を感じて顔をあげた。その場にいる全員が私を見てぽかんと口を開けている。


「な、何してるんだ!?」

「痛い!」


 先輩が思いっきり私の頬を叩き、背中をバンバンと叩いてきた。盛大に咳き込んだ。出てくるのは乾いた咳ばかりで苦しい。


「暴力反対! 乱暴者!」

「痛い!」


 私は眉を吊り上げて先輩の頬を叩き返す。ギャアギャア騒ぐ私達の横で、男達がおい、と大きな声をあげた。


「勝手に食ってんじゃねえ。金払え!」


 私と先輩はハッと彼らを見る。そうだ。これは彼らのものだ。勝手に人のものを食べるのは、とてもよろしくない。

 ごめんなさい、と頭を下げて、私は財布から取り出した五百円玉を先頭にいた人の手に握らせる。まじまじと硬貨を見た彼の顔が真っ赤になっていく。

 先輩が慌てて財布を取り出し、中身を見て固まった。数秒沈黙した彼は財布を逆さに振り、転がり出てきた百円玉をおそるおそる彼に握らせ、即座に距離を取る。


「……お小遣い前でして」

「いっぱいお酒飲んじゃったものね!」


 昨日の夜、千紗ちゃんのお店でたくさんお酒を飲んだ私達にお金は残っていない。数万円は学生にとっては簡単に払える金額ではなかった。ツケ、というお会計の制度を私は初めて学んだ。

 先輩が私の手を握り、ゆっくりと後ずさる。私はニコニコ笑って先輩の手を握り返した。


「君達、何してるの」


 突然聞こえた声に男達が振り返った。自転車に乗ったおまわりさんが、不審そうな目で私達を見つめている。

 その瞬間の湊先輩の動きは素早かった。彼は男達に向かって薬が入っていた袋を投げつけると、体を反転させて駆け出した。


「逃げろ!」


 地面を蹴って走る。後ろから聞こえる怒号と制止の声に、きゃあ、と弾ける歓声をあげた。

 チカチカと明かりが点滅する街を駆け抜ける。コンビニや居酒屋の明かりが眩しくて、昼間よりも明るい気がした。夜は危ないからと両親が言うから、私はあまり夜に出歩いたことはない。だから見るもの全てが新鮮で、眩しかった。

 前を走る湊先輩の黒髪が光に透けて明るく輝いている。つないだ手から激しい彼の鼓動と、熱い体温が伝わってくる。

 通り過ぎる人々が私と先輩を見る。大勢の人に注目されるのは、悪い気分じゃない。まるで有名人になったような気がして、私は微笑んで皆に手を振った。


 いったいどれだけ走ったろう。

 体力が尽きた私達は、大通りの途中で立ち止まった。顔中汗びっしょりにして咳き込む先輩の横で、私も熱くなった頬をパタパタと手で扇ぐ。


「とってもドキドキしたわ。映画みたいだった!」

「スリルと……サスペンス……かな」


 そうね、と私が答える前に、チョコが私達にだけ聞こえる小さな声で言った。


「ラブロマンスもありそうだよ」


 私と先輩はチョコの顔を見て、その視線の先へと顔を向けた。

 夜の大通りには人が溢れている。会社帰りの会社員や塾帰りの学生、友人同士にカップル。

 チョコは向かいの通りを歩く一組のカップルを見ていた。黒いライダースジャケットを着た金髪の女の子と、Tシャツを着た男性だ。二人は仲睦まじく手をつなぎ、会話をしてはお揃いの笑顔を浮かべている。

 不意に二人の視線が合い、どちらともなく顔を近付ける。

 軽く唇が触れるだけのキスを交わして、カップルははにかんだ。


「まあ!」


 真正面で行われた突然のラブシーンに、私は思わず甘い悲鳴をあげた。

 うっとりと微笑んでいた彼女の方がこちらに気が付く。とろけていた目が丸くなる。彼女は赤信号の道路に飛び込んだかと思うと、駆け足でこちらにやってきた。

 彼女が私の胸倉を掴む。張り上げた大声に、周囲の人の視線が集まった。


「お前ら、どうしてここにいるんだ!」


 私は偶然ね、と目の前の千紗ちゃんに微笑んだ。





「千紗のお友達?」


 やってきた男性が私達を見てそう言った。

 大学生くらいの人だ。キリッとした顔の千紗ちゃんと対照的に、ほんわりとした目をした、優しそうな顔をしている。

 私はその人の顔を見て、あっと声をあげた。


「あなた。この間バーで千紗ちゃんとキスしてた人ね!」


 男性と千紗ちゃんが目を丸くする。見られてたのか、と呟いた彼の頬がちょっと赤くなった。


 思い出すのはガールズバーに行った夜のこと。酔い潰れた皆を横目に、私が一人寂しくお酒を飲んでいたとき。奥の席で、千紗ちゃんはこの人とキスをしていた。

 お酒を飲んでいたから、見間違いか、夢だったのかもしれないわと思っていた。けれどどうやら夢ではなかったみたい。千紗ちゃんは確かに、この人と楽しそうにお喋りをしていたわ。


 恥ずかしい、と男性は赤くなった顔を覆う。そんな彼の横腹をつつき、喉が渇いた、と千紗ちゃんは言った。照れ隠しをするように立ちあがった彼は早足でコンビニへと消えていく。

 千紗ちゃんは息を吐いて近くのベンチに腰かけた。私は早速隣に腰を下ろし、彼女へと身を乗り出す。


「ねえっ。あの人は彼氏さん? お名前は? 今はデート中なのかしら。大学生? どこで知り合ったの」

「うるさいな。なんだよ、関係ないだろ」

「関係あるわ。だって友達と恋バナなんてはじめてだもの!」

「お前が勝手に喋ってるだけじゃねえか」

「ねえねえ。いつ結婚式を挙げるの? いつから付き合っているの?」

「…………しつこい、うるさい! 二年前からだよ!」


 へぇ、と声をあげたのは湊先輩だった。彼はニヤリと妙な笑顔を浮かべ、千紗ちゃんの隣に座る。


「二年も続いてるのか。優しそうな人だったけど、やっぱりそこに惹かれたとか?」

「な、なんだよお前まで。気持ち悪い顔しやがって」

「僕だって健全な高校生だもの。お友達・・・の恋愛話にはとっても興味があるよ。なあ、どんな人なんだい?」

「この……仕返しのつもりか?」

「まさか。君に暴力を振るわれたことも、ろくに説明されなかったガールズバーで今月と来月分のお小遣いが消えたのも、ちっとも気にしちゃいないさ!」


 ニコニコ笑って先輩は彼女の顔を覗き込む。左右から顔を覗き込まれて、千紗ちゃんは黙って眉間にしわを寄せた。

 今の彼女の態度はこれまでと少し違う気がする。なんだか少し柔らかい。僅かな優しさが滲む彼女はとても愛らしい。恋する乙女ってこういうものなのね、と私は感動に胸を打ち震わせた。


「別にそんな大した理由で付き合ってるわけじゃねえよ。そこらのクラブとかどっかで知り合って、だらだら続いてるってだけだ」

「だらだら、二年間も?」

「これまで知り合ってきた奴と全然タイプが違うんだ。それが面白くて、飽きてないってだけだ。そろそろ次の相手を探してもいいかもしれねえな」

「うふふ」

「あ?」


 千紗ちゃんが鋭い眼光で私を睨む。だけど私は口を押えて、こみ上げる笑いに肩を揺らした。

 口ではぶっきらぼうなことを言っているけれど。彼女は気が付いていないのだろうか。


「千紗ちゃんは、彼のことをとても愛しているのね」

「はぁ!?」


 千紗ちゃんはギョッとした顔で私を見る。話を聞いていたのか、と怒鳴る彼女の横で、先輩もうんうんと深く頷いていた。


「意外だな。君、そんなにあの人のこと好きなんだ。なんだか僕までドキドキしてきた……」

「心から人を愛せることは、とても素晴らしいことだわ」

「……何言ってんだお前ら。遊びで付き合ってるだけって言っただろ」

「うそよ。だってあなた、とっても可愛い顔でお話ししてるんだもの」


 目を瞬かせる千紗ちゃんの前に、私は鞄から取り出した鏡を突き出した。

 鏡に千紗ちゃんの顔が写る。私は家の本棚に並ぶ少女漫画のワンシーンを思い出していた。好きな人を思うときの、胸がときめくヒロインの表情。それとそっくりな顔が鏡に写っている。

 千紗ちゃんの口角がひくりと痙攣する。みるみるうちにその顔は赤くなり、彼女は鏡を叩き落とした。誤解だ、と彼女は叫んだ。だけど私と先輩は揃って腕を組み、ただうんうんと頷く。


「犬飼さん、誰に対しても乱暴者ってわけじゃないんだね。誤解してたよ。ごめんね」

「だから、誤解だ!」

「暴れん坊な千紗ちゃんも、好きな人にだけはそんなに可愛い顔になってしまうのね。なんて可愛い恋なのかしら。私も、そういう恋がしてみたいわ!」

「っ、おま……クソッ…………。ああ、もう! 黙れ! そもそもお前ら、なんでこんなところにいるんだよ!」


 千紗ちゃんが犬歯を尖らせて吠える。

 と、それまで彼女の話を笑いながら聞いていた湊先輩の顔から笑みが消えた。彼はハッとしたように私を見て、みるみるその顔色を青くする。


「ああああっ!」


 叫んだ彼が立ち上がり、私の前にきて頬を掴んだ。

 至近距離から顔を覗き込まれる。黒い彼の前髪が私の額に触れた。


「あ、ありすちゃん。熱は? 吐き気とか、頭痛は!? おかしなものが見えたりはしないか!? あああ。騒がしかったせいですっかり忘れてた……」

「ちょ、ちょっとどうしたんだよ急に。顔こええよ」

「薬物を飲んだんだよ!」


 私は彼の問いに首を振る。熱も吐き気も頭痛もない。おかしなものと言ったって、私に見えているのは先輩と千紗ちゃんとチョコ、それから街ゆく人々の姿くらいなものだ。おかしなものって何だろう。オバケかしら。そんなおかしなものが見えたことなんて、これまでの人生で一度もないわ。


「見たところ異常はなさそうだけど……犬飼さん、薬って体にどんな不調があるんだよ。舌が痺れたり、眼球が膨らんだりするのか?」

「毒じゃねえか」

「実際毒だろ」

「人や薬によるところもあるけど、大半は感覚が鋭敏になったり、幻覚や幻聴を見るようになるってところだ。薬を飲んでも変わらないってことは偽物でも掴まされたんじゃねえの? もしくは、いつもラリってるから変わらないのかも」


 先輩の手が私の頬を撫でる。不安そうな彼を安心させようと、私は微笑んだ。どうしてだか分からないけれど、二人は私の体調を心配しているようだった。大丈夫よ。私はいつも元気だわ。


「あー……。でも本当に薬効きにくいのかもなお前。前にもうちのクッキー食べただろ」

「クッキー? ああ、映画研究部で食べたやつね」

「うちの部員の手作りだったんだよ。うまかった?」


 最初に千紗ちゃんと会ったあの映画研究部で、帰り際にクッキーを一枚もらったことを思い出す。緑色のクッキーはちょっと不思議な味がして、甘くておいしかった。

 おいしかったわ、と私は答えた。舌に感じた甘さを思い出し、ぺろりと唇を舐める。


「でもママの作るクッキーの方がもっと好き。ママのお菓子はおいしいの。今度、持ってきてあげるわ」


 私が言えば、千紗ちゃんは声をあげて笑った。


「ほら見ろよ。うちの手作りクッキーより、母親のクッキーだと! 今まであれを食べさせた奴は、全員また食べに来たっていうのになぁ。ヤミツキになる味なんだ」

「ヤミツキのクッキー? ……って、まさか、それ、た、大麻…………!」

「そうカッカすんなよ。ただのおやつだって。そんなに量も入ってねえしさ。とにかく、もう一度食べに来ないってことは、やっぱりこいつ、薬に対する耐性があるのかもしれねえな」


 千紗ちゃんは一度言葉を切って、訝しげに片眉をあげた。尖った鼻を引くつかせて、吐き捨てるような口調で言葉を流す。


「てか何で薬? もしかして、本当に誘拐事件を調べてるのか?」

「そうだ。君がこの件を放っておくというのなら、僕達が動かないと」

「探偵ごっこか。暇な奴らだよ」

「なんだよそれ。あのな、君だって危ないんだぞ。知ってるか、被害者達の共通点」

「共通点?」

「被害者は全員薬物使用者だ。無差別な誘拐じゃない。犯人にはきっと何か目的がある。薬物に関係した人間が犯人かもしれない。これからもし被害者が出るにしたって、君みたいに薬物を使用している人が…………」


 はた、と先輩は口を閉ざした。彼はまじまじと千紗ちゃんを見つめ、低い声で唸る。


「君も売人だったよな」


 千紗ちゃんが薄く笑った。疑っているのかよ、とその唇から言葉をこぼす。


「『本当に誘拐事件を調べてるのか』って……僕はまだ、この誘拐事件と薬物が関係しているなんて言ってなかっただろう。どうしてすぐその二つを結び付けた? まさか」

「勘違いするな。誘拐されたのが薬やってた奴だなんて、最初から知ってたよ。ほとんど、あたしが薬を売ってた人間だからな」

「知ってただって!? な、ならどうして言わないんだよ!」

「薬物をやってる奴らが誘拐されそうだ、って? 馬鹿か。お前、あたしが知ってるだけでこの街にどれだけ薬物やってる奴がいると思ってんだよ」

「…………十、いや二十人くらい?」

「百は超えてる」


 先輩が目を見開いた。嘘だろ、という驚愕の声に千紗ちゃんはただ頷く。


「それだけの数がいればもう共通点なんてものじゃない。わざわざ報告する必要もない。犯人を捜そうったって無理な話だよ。……誤解するな? あたしは犯人じゃない。あたしが薬を売る理由は、金がほしいからだ。金を毟れなくなるのに客を行方不明になんてするもんか」

「そんなに金がほしいのか……」

「元から、薬の売買なんて安定した収入は得られない。これ以上貴重な客は減らさねえよ。大体今夜だってあいつと遊ぶ前に、一件取り引きの予定があったんだぜ? なのにどれだけロッカー前で待ってても来やしねえ」


 私は二人の会話を聞きながら、千紗ちゃんの姿をじっと見つめた。

 黒のレザージャケットにデニムのショートパンツ、武骨なスニーカー。高そうではないね、と私の横でチョコがこっそりと囁いた。千紗ちゃんの服装は、お金を稼いでいるわりには、ブランド物というわけではなさそうだった。

 視線に気が付いた彼女が嫌そうな顔をしてこちらを見る。私は微笑みながら、その服は安物みたいね、と思っていたことを告げた。


「喧嘩売ってんのか」

「私はお金があったら、可愛いお洋服やアクセサリーを買うわ。甘いスイーツもいっぱい買うの。でも千紗ちゃんは服を買わないの?」

「服なんて着れればどうでもいい」

「じゃあ、何のためにお金を稼いでいるの?」

「自由さ」

「自由って、おいくら?」


 千紗ちゃんは私の言葉を鼻で笑った。その返答からするに、自由とはどうやらとんでもなく高いものらしい。千円や一万円じゃ足りないのだろう。十万円かしら……。


「あたしは、この街を出ていきたいんだ。もっと遠くの、楽しくて面白い街を探して、そこで自由気ままに暮らすのが夢なのさ」

「そのために金を集めてるってわけか? だけど、もっと普通の稼ぎ方があるだろう。バイトなんてたくさんあるんだから。頑張れば、卒業したときにはまとまった金ができてるんだろうに」

「誰が卒業まで待つって言った?」

「え?」


 足音が聞こえて私達は顔をあげる。コンビニ袋をさげた男性が笑顔でこちらにやってくるのが見えた。

 千紗ちゃんが目を細めた。鋭い眼光で私達を睨み、低い声で威圧する。


「…………余計なこと言うなよ。誘拐事件のことも、薬のことも、口にするな」

「恋人さんは君が売人だってことを知らないのか?」

「あいつは普通の大学生だ」


 レジが混んでてさ、と言いながら小走りでやってきた男性は、袋から取り出したオレンジジュースを千紗ちゃんに渡し、同じものを先輩と私にも渡した。


「奢り。このオレンジジュース、おいしいんだぁ。君達は千紗の友達? この子、ちょっとツンツンしてるから大変だと思うけど、本当は可愛い子だからさ。仲良くしてあげてよ」


 男性は千紗ちゃんの頭をぽんぽん叩きながら言った。千紗ちゃんはやめろよ、と文句を言うけれど、彼の手を払いのけようとはしなかった。

 濃いオレンジの味が口いっぱいに広がる。おいしい、と笑顔を浮かべる私達を見ながら、男性もふにゃふにゃとした笑顔を浮かべてオレンジジュースを吸った。


「そっか、友達かぁ。千紗に友達ができるなんて思わなかった。そっかぁ……部活か何か? 千紗、学校のことあんまり話してくれないからさ」

「ふふ。私達は、とても強い絆で結ばれた友達なの。魔法少女の仲間なんだから!」

「魔法少女?」

「ええ! この地球を支配しようとする悪者から、皆を守るために生まれた魔法しょう……あいたっ」


 千紗ちゃんが私の頭を叩く。彼女は酷く呆れた顔で、眉間にしわを寄せた。


「なぁにが魔法少女だ。馬鹿らしい」

「もう千紗ちゃんったら恥ずかしがっちゃって。子供の頃、魔法少女のテレビを見ていたのでしょう? だったらあなたも、いつか魔法少女になるって夢みたはずでしょう。その夢が叶うのだから。素直に喜ばなくちゃ」


 男性は私達の会話を聞いて笑った。


「夢か。うん、素敵なことだ。夢を持つことは素晴らしいことだよ」


 夢はいいものだ、と男性は繰り返し言って頷いた。

 その言葉が妙に優しいものだったから、私は嬉しくなって微笑む。


「そうよ。夢ってとても素敵なものなの。例えば湊先輩は怪物の写真を撮るのが夢なのよ!」

「ちょ……、急に話を振らないでくれよ!」


 急に話を振られた湊先輩は、目を丸くして慌てた。そんな彼に、ガキくせえの、と千紗ちゃんが笑う。

 湊先輩の顔がカッと赤くなる。ニヤニヤ笑う千紗ちゃんの頭を、男性がコツリと小突いた。こら、と柔らかい声で彼女を叱って、彼は先輩に微笑む。


「怪物っておもちゃの? それとも、特撮で使う着ぐるみとかかな」

「違うわ。彼は、ずっと本物が見たかったんですって」

「ありすちゃん!」

「本物! それは最高だ!」


 男性は笑って私と先輩の頭をくしゃくしゃ撫でた。乱れた髪で視界が覆われる。指で髪を払いのけながら前を向いたとき、彼のあたたかな笑顔が目の前にあった。


「夢は、諦めなければいずれ叶う。どんな夢でもね」

「…………ガキっぽい夢でもですか?」

「当然! ……それに怪物だったら、実際最近ニュースになっているしね」


 男性は声をあげて笑った。

 私と先輩は思わず互いの顔を見合わせた。先輩はきょとんとした顔をしていたけれど、その口元は緩く弧を描いている。

 なんて素敵な人なのかしら、と私は男性を見て思う。


 人の夢を応援できる人は本当に素敵だわ。

 一体この世でどれだけの人が、他人の夢を馬鹿にしないでいることができるだろう。

 そうよ。夢って、素敵なものよ。誰も馬鹿にする権利はないわ。

 誰だって夢があって。誰だって、それを叶えることができるのよ。


「…………ふぁ」


 私は大きなあくびをした。重い瞼を擦って、オレンジジュースで濡れた唇を舐める。ふと見れば、湊先輩もつられたようにあくびをして、目を瞬かせていた。なんだか急に、眠気が襲ってきた。

 そういえば昨日はろくに眠っていない。一晩中起きていたし、そのまま学校に向かったのだから。授業中はほとんど昼寝していたとしても、机じゃ上手く疲れは取れないわ。まだ重い眠気は体に残っているのだろうと思う。


「なんだか眠くなってきちゃったわ……」

「僕もだ…………」

「おい何寝ようとしてんだよ。寝たら、放りだすからな」

「だめだよ千紗。こんな夜に路上で寝るなんて、危ないよ」

「ママに電話しないと……。迎えに来てもらわないと…………」


 朝帰りをした私は、ママに泣きながら叱られた。ちゃんと連絡しなさい、心配したのよ、って涙を流して私を抱きしめるママに、何度も謝ったのだ。

 今日は早く帰らなくちゃいけないの。またママを泣かせちゃう。だめよ。電話しないと。

 パパはもうお仕事が終わっているはずだから。車で迎えに来てくれるはずだわ。パパにおねだりして、お土産を買って帰りましょう……。何がいいかしら。苺がたっぷりのショートケーキ……。モンブラン…………。でもやっぱり、ママの作るお菓子が……一番…………。


「ああ、もう……寝ちゃっ……」

「なんで二人共…………こっちまで……つられ……」

「千紗も……? いいよ……送ってあげ…………」

「……………………」

「千紗……?」

「……………………」

「…………ふふ……可愛い寝顔……」


 意識がまどろみ、もう目を開けていられなかった。

 眠りに落ちる寸前に、私は男性の優しい声を聞く。



「おやすみなさい。よい夢を」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る