第9話 ガールズ連続誘拐事件
「夜遊びでもしてんじゃないすか」
千紗ちゃんは笑って言った。だけど店長はちっとも笑わず、違うよ、とそれを否定した。
『ミユちゃんはいつもまっすぐ帰ってるよ。特に今日は具合も悪そうだったし、寄り道なんてありえないよ』
「なんでそこまで言い切れるんすか。盗撮でもしてんの? キモ」
『あの子はちゃんと帰宅メールを送ってくれるんだよ。君と違って!』
帰宅報告? と千紗ちゃんは首を傾げた。どうやら何も知らない様子だった。
ポテトを齧りながら彼女の話を聞いた。湊先輩も身を乗り出して、僅かに聞こえてくる会話に耳を澄ませている。
『先週朝礼で話したじゃない。最近物騒だから、帰宅したら必ず報告の連絡を入れること、って』
「そんな話あった?」
『あのねぇ。誘拐事件が頻発してるから気を付けてって言ったでしょ』
知らんし、と千紗ちゃんは苛立ちを言葉に乗せ、テーブルの上に足を投げ出した。
斜め前の席で食事をしていた人が目を丸くして千紗ちゃんを見た。彼女が睨むと、その人は明らかに顔を強張らせ、まだ残っていた食事を持って席を立つ。
「ミユは一緒じゃないすよ。どうせ途中で酔い潰れてんじゃない?」
そうだといいけど、と店長は言って、少し会話をした後に電話を切った。
千紗ちゃんは訝しげな顔で携帯を睨む。連絡先一覧からミユちゃんの番号を引っ張り出した彼女は、そこに電話をかけた。けれど留守電にしか繋がらなかったようで、彼女の口から出たのは舌打ちだけだ。
「誘拐事件?」
話を聞いていた先輩が携帯を取り出し、ニュースを検索する。私と千紗ちゃんは横からそれを覗き込んだ。
トップに表示されている「怪物がまた」「バケモノの襲来」「宇宙からの侵略者か」「SF映画の撮影か」などのよく分からないタイトルのものを無視してページをスクロールさせていた先輩の指が止まる。大分下の方に表示されていたニュースを叩く。
「『相次いで失踪する女達』。これ、かな」
それはここ最近、三人の女性が続けて失踪しているという内容のニュースだった。
サトウ アイカ十九歳、タカハシ ハル二十三歳、クボ アンナ二十歳。
三人の行方が分からなくなった日付はほとんど一致しており、警察は三人に何かしらの関係があったかも含めて調査を進めている……という短い内容のものだ。
千紗ちゃんはそのニュースを見て眉間にしわを寄せた。パッと彼女の目が見開かれる。何かを思い出したように携帯をいじった彼女は画面を私達に突き付けた。
「思い出した。このクボって奴。うちの姉妹店のスタッフだ」
千紗ちゃんの携帯にはあるガールズバーのホームページが表示されていた。
ガール、と表記されたページにずらりと女の子の写真が並んでいる。そのうちの一枚を見せられた。アンズ、という名前の女の子だ。湊先輩がクボアンナと調べて出てきた写真を横に並べる。二つの携帯に写っている顔は、どう見ても同一人物の写真だった。
「姉妹店なんてあるんだ」
「あっちもあっちで、ギリギリガールズバーってレベルの店だけどな」
違法ギリギリ、と千紗ちゃんは笑った。
湊先輩は顎に手を当てた。考え込むような仕草をしたあと、はたと彼は言う。
「もしかしてさ。サトウさんって子とタカハシさんって子も、知ってるガールズバーのスタッフだったりするの?」
「は?」
「いや、なんとなく思っただけだけどね」
彼はコーヒーを一口飲んで唇を湿らせた。
「君のところの店長さん、大分心配してたみたいだったし。系列店の子が一気にいなくなったのであればそりゃ心配するかなと思ってさ。クボさんだけじゃなくて、他の二人もそういうお店の子なんだとしたら……」
千紗ちゃんは肩を竦めた。先輩の考えを鼻で笑い、そうかもしれないねぇと軽い口ぶりで言ってまた店長に電話をかける。電話が通じてすぐ、彼女は単刀直入に言った。
「店長。サトウって奴とタカハシって奴、知ってる? 」
店長は言葉ではなく溜息で返事をした。当たりっぽい、と千紗ちゃんは私達に笑う。
『タカハシって子はうちから少し離れた所にあるバーの子。サトウちゃんは隣駅のキャバクラの子だよ。稼ぎ頭だったから、いなくなって店は大ダメージだって』
「へぇ。やっぱりそうなんだ。いなくなった三人全員がナイトワーク関係なんだ」
『違うよ。十人』
え、と千紗ちゃんは惚けた声を出した。
私と湊先輩は思わず顔を見合わせる。十人、という新たな数字が何なのか。一瞬理解が追い付かなかった。
『ニュースになっていたのは三人。だけど本当はもっといる。ここ最近、夜の街からいなくなった子は十人いるんだ。しかもそのうち数人が、怪しい車に乗り込むところを目撃されている。……そんなんだから朝礼で注意したんだろうに。もう、ちぃちゃんったらいつも人の話を聞かないんだから!』
千紗ちゃんと先輩は何も言わなかった。ただ、携帯を持つ彼女の手に浮かぶ血管がピクピクと動き、先輩の首筋に汗が滲んだ。
二人は黙り、店内に流れる音楽と携帯越しの店長の声だけが淡々と流れていく。
私は千紗ちゃんの持っていたコップを取り、残っていた水を全部飲み干して。どういうことかしら、と弾んだ声で店長に尋ねた。
「夜の連続誘拐事件」
湊先輩はコーヒーを飲み干して呟いた。空になったコップをくしゃりと握りつぶし、苦い溜息を吐く。
十人。それがこの半月の間に、夜の楽土町から姿を消した本当の数だと店長は言った。
十代半ばから四十代にかけて幅広い年代が消えている。男も、女も。年齢も性別もバラバラの彼らだが、今のところ共通しているのは彼らが全員夜の仕事をしている人達だということ。
「ガールズバーにキャバクラ、黒服、ピンサロとホテヘル……。なるほどね。そりゃ、ニュースにならないわけだな」
「何故? そういう仕事をしているからって、半月も行方不明になってニュースにならないのはおかしくないか?」
「こいつらの店、全部違法なんだよ」
千紗ちゃんは携帯を私達の前に突き出した。画面に表示されていた真っ裸の女性の写真が目に飛び込んでくる。湊先輩は顔を真っ赤にして顔を反らし、私はまぁ、と頬に両手を当てる。
化粧で顔をきれいに整えている。だけどどれだけ見たって、十八より上に見える顔ではない。年齢の欄に書かれた二十歳という文字を見て、私はしきりに首を傾げた。
「年齢詐称は勿論、ボッタクリや……はは! 性別詐称もある。こっちの店のナンバースリーは不法滞在している外国人だぜ? こっちは確か、入った子を無理矢理AVに出してるんだったかな。他にも……とか、…………も」
千紗ちゃんの話を聞く湊先輩の顔が段々苦いものになっていく。さっき飲んだコーヒーが苦かったのかもしれないわ、と私はカウンターに行ってお水と砂糖を二本もらってきた。砂糖を入れた水を先輩に渡すと、彼は一口それを飲んで、無言で私の前に返した。
「うちの店はまだ健全寄りだけど、この店は全部完全に違法。超ブラック。そりゃ警察にも大っぴらに言えないよ。言ったら営業停止だ。こんな所で働く奴らは大体訳ありだしな。親にも誰にも、連絡先を伝えない。だから行方不明になってもだれも気が付かない、通報もされない」
「酷い話だな…………」
「よくあることさ。あいつも、誘拐されたかね」
不意に千紗ちゃんが鞄を持って立ち上がる。帰る、と言った彼女の言葉に私は時計を見た。長いこと話していたらしい。いつの間にか始発が走り始める時間に変わっている。
湊先輩が慌てて彼女の裾を掴む。うんざりした顔が彼を見下ろした。
「待ってよ。それだけか? 友達が誘拐されたかもしれないっていうのに!」
「バイト先でよく話すってだけで、別に友達じゃねえよ」
「それでも誘拐されたっていうなら思うところがあるだろ」
千紗ちゃんはうんざりとした顔を崩さなかった。先輩は眉をしかめ、鋭い声で言う。
「通報されないっていうなら、僕が通報するよ。いなくなった女の子達の本名や仕事先の住所を、知っている範囲でいいから教えてほしい」
「は? 話聞いてなかったの。営業停止食らうって言ってるだろ。あたしは、金を稼げなくなると困るんだよ」
「だからって…………」
「姉妹店とか、オーナー同士が繋がっている店とかも結構多いんだ。繋がりがあるあたしの店にだって警察が事情聴取に来るに決まってる。そうなったら、年を誤魔化してるあたしは間違いなく店を辞めることになる」
「……ゆ、誘拐なんだぞ。命が危ないかもしれないんだ。それなのに、よくもまあそこまで自分勝手なことが言えるな! 金、金、金。そればっかりだ!」
先輩が声を荒げてテーブルを叩く。声は控えめにしたようだったけれど、あまり人がいない店内にはその音が響いた。周囲の人がこちらを見て、顔をしかめる。
「あのさ。そもそも怪しい車を見たからってなんで誘拐だと決めつける? 世の中、失踪も夜逃げもよくあることじゃんか。こういう仕事をしていれば特に。たまたま、十人が揃って逃亡しただけじゃねえの? 下手に通報して、恨まれたらどうするよ」
店長の話を聞く限り、失踪した子達は皆特に問題のない子達だったという。勤務態度はまじめ。お客さんとトラブルを抱えていたわけでも、借金を背負っているわけでもない。失踪するだけの表立った理由はない。
だから他者によって連れ去られた可能性が高いのだと言っていた。でもそれはあくまで彼の思いこみであって、彼らが千紗ちゃんの言う通り、自ら逃げ出した可能性だって残っているのだ。
面倒くせえ、と呟いて千紗ちゃんは先輩の手を払う。そして歩き出そうとした彼女は、また振り返って苛立った顔を浮かべ、裾を握る私を睨みつけた。
「お前らあたしの服を伸ばしたいのか!」
「魔法少女は、皆を救ってあげる存在なのよ」
彼女は虚を突かれたような顔をした。何を言っているのか、と言いたげに丸くなった目で瞬きを繰り返す。
「おまわりさんには言えない事件。でも放っておいたら、その子達の命が危ないのね。ならどうすればいいかはもう決まっていることだわ。私達で、その子達を救うのよ」
「なんでそうなるんだよ」
「言ったでしょ。魔法少女は、困っている人を助けるのがお仕事なの」
魔法少女、と呟いて千紗ちゃんは薄く微笑んだ。
「そういえばそんなことを言ってたな」
「そうよ。私は魔法少女ピンクちゃん、そしてあなたは魔法少女イエローちゃん」
「あたしが入ることは確定かよ?」
「ねえイエローちゃん。魔法少女として初めての協力よ。一緒に悪い奴と戦いましょう。二人なら、一人のときよりずっとずっと強くなれるわ。お願い、私を助けて?」
千紗ちゃんの手を取って握れば、彼女は振りほどかず、私を見て微笑んだ。肯定してくれたのかと嬉しくなる。けれど私が声をかけようとした瞬間、彼女の腕に力がこめられ、私の体がガクリと折れた。
体が回転し、背中が床に叩きつけられる。凄まじい音がして背中に熱い衝撃が走った。じわじわ滲む鈍痛に私はうめき声をあげる。
「魔法少女だなんだって話は聞いたけどさ。あたしは一言も、仲間になるなんて言った覚えはねえぞ。手伝ってくれとは言った。だけど、それと魔法少女だのは、何一つ関係ねえんだよ」
私を見下ろす彼女の目は氷のように冷めて、私の心臓をひやりと撫でた。
彼女の冷たい笑い声が私に落ちる。
「誰が助けるか。バァーカ」
ありすちゃん、と血相を変えた湊先輩の顔が目の前に現れて、千紗ちゃんの姿が隠れて見えなくなる。心配の声をかける彼の手を取って立ち上がった。二階の飲食スペースから階段を下りていく千紗ちゃんの姿が一瞬だけ見えて、すぐ消える。
湊先輩は頭を振って千紗ちゃんがいなくなった方を睨んだ。私は茫然としたまま彼を見て、声を震わせる。
「今の見た?」
「ああ。乱暴な子だな。やっぱりあの子を仲間にするのはやめた方がいいよ」
「魔法少女イエローの技は、絶対に格闘技で相手を倒すタイプよ。パワータイプってやつかしら。とっても楽しみね」
「君も懲りないよね、本当にさぁ」
先輩は大きな溜息を吐いて顔を手で覆う。私は砂糖で味付けをしたポテトとお水を食べながら、彼女が変身したときはどんなかっこいい子になるか、という話を空が明るくなるまで彼に話すことに決めた。
「魔法少女です。ちょっとお話を聞いてもよろしい?」
「は?」
受付に座っていた男性はテレビから顔をあげ、私達に不審そうな表情を浮かべた。野球中継が流れている。ボールがミットに吸い込まれる音や声援が、うっすらとこちらにも聞こえてきた。
壁に何人もの女の子の写真が貼られている。彼女達の顔がうごめき、早く助けて、という声が写真から聞こえてきた。
誘拐された子達を助けるにはとにかく情報が必要だ、と言ったのは湊先輩だった。せめて被害者達の交友関係や行動範囲を聞き出さなければどうすることもできないのだ、ということらしい。
だから私達は放課後、目ぼしいお店に行って聞き込みをすることにしたのだ。
警察のドラマを見るような高揚感があった。時間があれば警察手帳を手作りして、話を聞かせてもらおうか、と突き付けることができたのだけれど。
パパはそういうドラマが大好きで、よくお風呂上りにソファーに座ってニコニコ笑いながら見ている。私もよく隣に座って一緒に見ているのだ。もっと可愛いのを見せてよ、とママはいつも怒るのだけど。
「すみません違うんです、怪しい者ではないんです」
「冷やかしは困るな。カップルなら、もっと映画館とか水族館とかの方が楽しいだろうに」
最初に訪れたのは、年齢詐称をしていた女の子が働いていた風俗店だった。
歓楽街の路地裏にある小さなお店には他のお客さんの姿は見当たらない。受付の男はじろじろと不審そうに私達を眺めた。
「違うわ。私達、お話を聞きにきたのよ」
「ここ十八歳以下入店禁止なんだ。学生だろう? また数年後に来てよ」
「ねえ待って。話を聞かせてちょうだい」
「今は忙しいんだ」
「……ここに僕達と同じくらいの年の子が働いてませんでしたか。十六、十七とか、そのあたりの」
湊先輩の言葉に男ははたと言葉を止めた。その子いなくなったんじゃないですか、と先輩が続けると、男は何も言わずにじっと私達の顔を見つめる。
テレビの音がぼんやり響く。ツーアウト、満塁、背番号。賑やかな音声を横に、男はゆっくりと指を伸ばして、関節をパキリと鳴らした。
「知らないよそんな子。うちは全員成人済みだ」
「僕達同じ高校なんです。友達なんです。心配で……」
同じ高校だったの? と私は首を傾げた。先輩は無言で、受付の下に隠れた手で私の手を抓った。小さい痛みにぴょんと飛び上がる私と、真剣な顔の先輩を交互に見た男は、首を振ってテレビへと顔を戻してしまう。
「さぁね? 違う店の話じゃないか。知らないものは知らないよ」
でも、と続けて訴えようとした先輩の声は、ホームランを打つボールの音に掻き消される。先輩が眉間にしわを寄せて鋭い目で男を睨んでも男は何も反応しない。
入口のドアが開く。お客さんのおじさんが一人入ってきて、私と先輩を見て、戸惑ったように視線を泳がせる。
いらっしゃいませ、と受付の男が立ち上がって笑顔を浮かべた。その顔はもう私達を見てはいなかった。
蛾が飛んでいる。
点滅する蛍光灯にジ、ジ、と触れては離れ、鱗粉を飛ばす。
路上のコインロッカーに寄りかかった先輩は、コンビニで買ったフライドチキンに大口を開けて齧りつき、二口で食べてしまう。油で湿った指を舐め、不満の声をあげた。
「子供だからってなめやがって!」
「荒れているねぇ、湊くん」
「ここまで何も得られないなんて思ってなかった! そんなに僕は、子供に見えるのか?」
「どちらかと言えば大人っぽい顔をしているよ。でも、大人に見えるほどじゃない」
私の膝に座るチョコはそう言ってアメリカンドッグを頬張った。湊先輩は唇を尖らせ、トレンチコートにすればよかった、と制服の上に着たパーカーを引っ張りながら言う。
高校の制服を着たまま夜のお店に入るのは目立つ。だから私達は上着を着て誤魔化していた。けれど制服が見えなくなっても、高校生に見えることは変わらないらしい。いくつかの店を回ってみたものの、情報を得るどころか門前払いを食らうところも少なくなかった。
ありすちゃんもいるしねぇ、というチョコの言葉に先輩が私を見下ろした。地面に座って苺ミルクを飲んでいた私は、よく分からずに彼を見上げてこにこ微笑む。彼は苦笑して肩を竦める。
これから何をすればいいのだろうか。何一つ情報はなく、手がかりは掴めない。
考えながらストローを齧っていると、不意に目の前に誰かの足が映り、視界が暗くなった。
顔をあげた私に、そこに立っていた三人の男の子が笑いかけてくる。
「こんばんは、お姉ちゃん」
「こんばんは!」
私は元気に挨拶を返した。大学生くらいの彼らはお互いの顔を見合わせて、何やら話し始めた。
「この子で合ってる? このコインロッカーだっけ。もう少し先じゃなかった?」
「確かそうだって。えーっと、髪が派手め? 明るめ? で、女子高生くらいだったはず。確定だろ」
「そっか。なら違いないな。こーんばんは!」
彼らはもう一度挨拶をした。私もこーんばんは、と大きな声でもう一度返事をした。湊先輩が私の傍にやってこようとする気配があった。けれどその前に三人が私の左右を囲み、正面にもう一人がしゃがみこんだ。酷く黄ばんだ歯が満面の笑みを浮かべる。
「じゃ、お姉さん。お野菜ちょうだい」
「お野菜?」
「うん。あ、支払いが先? 大丈夫、全部本物のお札だから。偽物じゃないよ」
彼は財布からお札を取り出して私の前で振った。大量の一万円札だった。お金持ちね、と笑えば彼も笑う。ニチャニチャと歯と歯が糸を引き、苦いような甘いような不思議なにおいがした。
「ごめんなさい。私は八百屋さんじゃないの」
「え?」
「欲しいお野菜はなぁに? 大根、にんじん? たまねぎかしら?」
お野菜を買って彼らは何を作るのかしらと考える。野菜炒めかしら、それともお味噌汁かしら。ママが作ってくれるお野菜たっぷりのカレーを思い出して、お腹が鳴った。
三人の顔からだんだん笑みが消えていった。彼らの眉間にしわが寄り、その顔に苛立ちが浮かびだす。
そのとき、左側に座っていた男が大きな声をあげた。彼は携帯と私の顔を交互に見つめ、焦りの色を浮かべる。
「やべえ! やっぱり、場所間違ってる。二つ先のコインロッカーだよ。派手髪なんて書いてねえ。普通の金髪だってよ。こいつ、人違いだ!」
男達の顔が一瞬で青くなった。大丈夫? と聞こうとした。だけど突然後ろから腕を引っ張られた。同じように顔を真っ青にした先輩が、私とチョコを掴んで反対側の出口に走ろうとしていた。けれど途中で足を止めてしまう。私のもう一方の腕が、男に掴まれたから。
「どこ行くんだよ」
笑みを消した彼らの顔がコインロッカーの蛍光灯に照らされ、冷え冷えと暗闇に浮かんでいた。
湊先輩が男の手を乱暴に振りほどく。私の前に立った彼は鋭い目で彼らを睨んだ。点滅する光の中で、彼の頬に滲んだ一粒の汗が光っては消えた。
「人違いなんでしょう。僕達、もう行きますから」
「いやごめんけど、素直に帰すのはちょっとほら……マジごめんけど」
男が先輩に一歩近づき、申し訳なさそうな顔で笑う。直後に彼の力強い拳が湊先輩のみぞおちに叩きこまれた。
「キャアッ!」
私は悲鳴をあげてチョコを抱きしめた。小さく呻くチョコの手から、食べかけのアメリカンドッグが落ちる。
地面に倒れた先輩は声も出せずに悶えていた。苦しそうに震える彼の横腹を、別の男が蹴り上げる。
「がはっ!?」
「ごめんね……通報する? するよね? ごめんねぇー。困るんだよ。いや、ミスっちゃったな。だからちゃんと確認しろって言っ! た! だろッ!」
つま先が何度も湊先輩を蹴る。彼が苦しそうに身を丸めてもお構いなしだった。
私はたまらず飛び出して先輩の体に覆いかぶさった。暴力は一瞬やむ。一瞬だけだ。
髪を引っ張られ地面に倒された。男が今度は私を見下ろし、ごめんなごめんなと言いながら肩を殴る。痺れるような痛みが広がり、私は悲鳴を上げた。彼は今度は私の顔めがけて拳を振り上げる。
「やめろ!」
湊先輩が私の前に飛び込んできた。拳は彼の頬に直撃し、吹っ飛んだ体がロッカーに直撃して凄まじい音を立てる。倒れた先輩は苦しそうに咳き込んだ。前髪の隙間から滲んだ血が、鼻筋を流れていく。
チョコ、と私はチョコを抱きしめて叫んだ。生身じゃ勝てないし、逃げられない。だったら私が変身して、先輩を連れて逃げなければ、とそう思った。
「変身しちゃだめだ!」
だけど先輩はそう叫んだ。喉元まで出かかっていた言葉を思わず飲み込み、目を丸くして先輩を見つめる。彼は汗で顔をびっしょり濡らして、真剣な眼差しで私を睨んでいた。
変身だって、と男達のからかうような笑い声が近付く。伸びた腕がチョコを取り上げた。
あっ、と手を伸ばしても遅い。ぬいぐるみのフリをしたチョコは、彼らの手にゆらゆらと揺れていた。
「返して。お友達なのっ」
「お友達?」
男がチョコを放り投げた。私は悲鳴をあげる。チョコの体はぽぉんと空を飛んで、汚れた地面に転がって、ピンクの毛を黒く汚した。
頭が真っ白になった。私は苺ミルクのパックからストローを抜き取って立ち上がる。ストローを構える私に男達は馬鹿にするような笑い声をあげた。
「許せないわ!」
私は両頬を膨らませて男達にとびかかる。そして、まだ笑う一人の目にストローを突き刺した。
「あっ!?」
彼の体がビクンと跳ねた。バランスを崩し、彼は私を巻き込んで地面に倒れる。彼の瞼からストローが生えていた。彼は震える指先でストローにちょんと触れ、甲高い悲鳴をあげる。
地面に落ちていたアメリカンドッグを拾う。ソーセージから突き出した竹串を、もう一人の男に向かって振り下ろした。彼の頬に浅く串が刺さり、悲鳴があがった。
「先輩に謝って!」
「い、いっ……痛いっ。痛い!」
悪いことをしたらごめんなさいをしましょうね。って私は小さい頃にたくさん教えてもらった。でも彼らはなかなか謝ってくれない。目から生えたストローを怯えながら触ったり、頬に刺さった竹串を抜こうとしたりすることに必死だった。
「ご、め、ん、な、さ、い、は!?」
「待って! な、悪かったって。ごめんなさい! やめてくれ!」
私は竹串をもう一度振り上げて、今度は鼻に刺そうとした。けれど背後から残りの一人にそれを止められる。彼は青ざめた顔で私を見下ろし、がくがくと首を横に振っていた。
私が彼に振り向けば、彼は大きく肩を跳ねて私から距離を取る。ロッカーに背を付けた彼に近付き、その顔を下から覗き込んだ。
「お兄さん。ちゃんと反省してる?」
「してるしてる、してるって! …………容赦なく目かよ。やべえよっ」
「私とっても怒っているのよ!」
言いながらロッカーにささっていた鍵を抜き取り、先端を彼の目の前に突き出した。息をのんだ彼が後ずさろうとする。それ以上下がる余地は残っていないというのに。
「俺達が悪かったです。人違いをして喧嘩をしてしまって、ゴメンナサイ。……鍵を下ろしてくれると、嬉しいです」
「下ろしてほしいの?」
「はい、勿論」
私は頷いて鍵を下ろそうとした。だけどそのとき、妙案を思いついた。
目を輝かせて鍵の先端を彼の額に振り下ろす。ギャ、と短い悲鳴を上げた彼の鼻に、自分の鼻をくっつけた。輝きを放つ私の目が、涙を滲ませた彼の目を覗く。
「ならお願い。私達のお手伝いをしてほしいの」
「こいつなら前にクラブで話したことがあるよ。駅前にあるところだ」
「あ、これ俺の友達。一週間前から連絡つかないと思ってたけど……マジで誘拐されてんの?」
お友達なのね、と私は声を弾ませて、ストローをさしなおした苺ミルクを飲んだ。隣に座る湊先輩が、うげ、と嫌そうな声を出して私の飲む苺ミルクを見る。彼の頬には男達が買ってきた絆創膏が雑に貼られていた。勿論男達の目や顔にも絆創膏やガーゼが適当に貼られている。
三人は私達が調べている子達の情報をたくさん持っていた。話したことがある、友達、知り合い、バイト先にたまにくる人……。欲しかった情報がどんどん手に入る。どうやら嬉しいことに、被害者の多くは彼ら三人と知り合いの人間が多いらしかった。
「世間は狭いね」
私と同じことを思ったのか湊先輩が呟いた。
だけど、三人は顔を見合わせて首を横に振った。
「世間が狭いというより、こいつらの活動範囲が俺達と近いんだろうな」
「近い?」
今度は私と先輩が顔を見合わせた。男の黄ばんだ歯がニチャリと音を立てて笑みを浮かべる。
片方の目をガーゼで覆った彼は、残ったもう片方の目で私達を見下ろした。すっかり黄ばんだ白目に、濁った血管が浮いている。
思えば最初から彼は、こちらを見ているのに、焦点が合っていなかった。
「薬、薬、薬。こいつら全員、薬中さ」
男がポケットから取り出した何かを蛍光灯の光にかざす。
袋に入ったカラフルな錠剤が、キラキラと輝いた。
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