第8話 ガールズバーと薬物と
「ほら、飲み物」
「ありがとう千紗ちゃん! とってもいい匂い。中身はなぁに?」
「コーラとウーロン茶と牛乳のミックス。砂糖三本追加」
彼女の手から受け取ったグラスに口を付ける。しゅわしゅわ弾ける炭酸が牛乳でまろやかな味になっていて、とても甘くておいしかった。
ありがとう、と言いながら同じくコップを受け取った湊先輩は、唇にちょんとコップをくっ付けると、鼻頭に深いしわを刻んでコップをテーブルに置いた。
私はクッションに背を沈ませ、機械を操作して曲を選んでいく。一曲目は何がいいかしら。やっぱり私の大好きな魔法少女のアニメの歌? それとも、別の魔法少女の歌がいいかしら。しっとりしたあの魔法少女の歌も素敵だわ。
「バイトって、カラオケで歌うことなの?」
先輩が前のめりになって、テーブルを挟んだ向こうに座る千紗ちゃんに話しかけた。
明るさを調整できる部屋の電気はほとんど付いていない。ほぼ真っ暗な部屋でテレビの画面だけが光っているのは、映画研究部の部室とよく似ていた。
ほんのりと光に照らされて、千紗ちゃんの顔が見える。彼女はほんの少し照れくさそうに眉を下げて、細い声で言った。
「…………実はさ。あたし、友達とカラオケってのに憧れてたんだ」
千紗ちゃんは落ち着きのない素振りで自分の指を揉む。視線を私達から逸らし、扉ばかりを見つめる。
「昔から友達が少なくてさ。だから、嘘の友達でもいいから一緒にカラオケに来てほしくて。迷惑、だったかな」
「い……いや。迷惑ではないけど」
先輩は目を丸くして千紗ちゃんに頷く。彼女はえへへと柔らかく微笑んだ。私は目を潤ませて、今にも涙が出そうなのを堪えた。
彼女の気持ちはよく分かる。私も、友達とカラオケに来たことは一度もなかった。今までパパとママとチョコの前でしか歌ったことがない。小学校の頃も中学校の頃も、クラスの子は皆恥ずかしがって私とカラオケに来てくれたことはなかったのだ。
だからこうしてきゃあきゃあ誰かとはしゃいで歌うなんて経験、はじめてだった。
「千紗ちゃん。今日はいっぱい歌いましょう!」
「あはっ、いいよ。どんどん歌ってよ。あたしは聞いている方が楽しいから。気にしないで、好きなの入れて」
私が入れた歌が流れ出す。千紗ちゃんが機械を取って、音量を上げていく。彼女は大きい音が好きなのかもしれない。ガンガンと鳴り響く轟音に、隣の湊先輩が顔をしかめて耳を塞いだ。
私はマイクを手にして立ち上がる。スポットライトが私に降り注ぎ、会場中から歓声が沸く。私はピンクの可愛いドレスをひるがえし、ステージから皆に向けてマイク越しの声を張った。
『それじゃあ、世界一のアイドルありすちゃんの歌、いっくわよー!』
「……で。ああ、そう…………早くしろよ。……もう来る? 分かっ…………うっるせえなぁこの部屋!」
電話しながら部屋に戻ってきた千紗ちゃんが、耳を塞いで怒鳴った。ちょうど十曲目の歌を歌い終わった私は、彼女にニコニコと笑いかける。次の曲は何にしようかと迷う私に、隣に腰かけた千紗ちゃんがうんざりした顔を浮かべた。
「何度も電話しているみたいだけど、誰と電話をしているの?」
「あ? あー、知り合いだよ。友達友達」
千紗ちゃんは私が一曲目を歌い始めた途端、ニコニコ笑顔を消して、電話を手にして外に出ていた。それから何度も部屋を出ては誰かと電話をしているようだ。部屋にいる時間はほとんどない。
千紗ちゃんは私の横に座る湊先輩を見た。最初は座って私の歌を聞いていた彼は、いつからかぐったりと疲れた顔をして、私の手から取ったチョコを耳当てにし横になっている。まだ動くなと彼に言われたチョコは、瞬きも身動ぎも一切しないから、勝手に耳当てにされたぬいぐるみにしか見えなかった。
「おいおいさっきからこいつばっか歌ってるじゃねえか。お前は歌わないのかよ」
「…………耳が痛いんだって」
「軟弱だなぁ」
「なんでこんなに大音量なんだよ。聞く気なんてないくせにさ。友達と遊んでみたい、なんてやっぱり僕達を逃がさないための嘘じゃないか」
「あー。次、お前ら二人でこれ歌えよ。同じようなアニメの曲ばっか飽きるんだよ。この歌なら、知ってるだろ?」
彼女が次の曲を入れる。画面に流れ出したのは、懐かしい童謡だった。先輩は渋々ながらもマイクを取る。そのとき、また千紗ちゃんの携帯が鳴った。
彼女は携帯の向こうの誰かに「304」とだけ告げて電話を切った。その数字は、このカラオケルームの番号と一致していた。
私と先輩が歌い出してすぐのことだった。扉が開き、誰かが入ってくる。店員さんかと思ったけれどそれは学生服を着た素朴な顔の中学生だった。彼は部屋を見渡し、私達の視線を受けておどおどとした様子で立ち竦んでいる。千紗ちゃんが彼に顎をしゃくった。
「おう。おせえよ」
「あ、あ。『首輪』さんですか……新鮮お野菜掲示板の……」
「そうだよ。で? 持ってきた?」
「は、はい。ちゃんと…………」
中学生が財布を取り出してお札を千紗ちゃんに渡した。先輩がギョッとしたようにマイクを下しかけたけれど、千紗ちゃんが続けろ、と手で合図をする。先輩はマイクを握る手に力を入れ、しきりに二人を気にしながらも歌う。
「こんだけ? 馬鹿か。この倍だよ」
「えっ! でも、前はこの値段で……」
「野菜なんだから値上がりすんだよ値上がり!」
中学生は萎縮したように肩を竦めた。千紗ちゃんが財布を奪い、中からお札とありったけの小銭を出す。それを自分のポケットに乱暴に詰め込んだ彼女は、ついでとばかりに学生証を抜き取って素早く写真を撮った。
中学生の顔が青ざめる。そんな彼の目の前に、千紗ちゃんは何かを取り出した。小さな袋に入った粉薬だ。
湊先輩が顔色を変える。彼はマイク越しに、ちょっと、と張り詰めた声を上げた。
「歌え!」
千紗ちゃんが怒鳴る。その声の威圧感は、マイク越しの声よりも大きく、威圧感があった。
歌えっつってんだろ、ともう一度彼女は吠えた。湊先輩は青ざめた顔をしかめ、震える唇にマイクを近付ける。
千紗ちゃんは中学生に向き直る。大量の汗を浮かべた額に自分の額をくっ付け、コンコンと小さな頭突きを繰り返した。
「なーあ。子供のつもりで、なめてるのか? おいおい。馬鹿にするなよ? これっぽちでお買い物ができると思うなよぉ?」
「ご、ごめんなさい。お金、もう持ってない……」
「嘘つき。もう一つ小さい財布隠してるだろ。いつカツアゲされてもいいように金を入れる財布は分けておけって、義務教育で習っただろ?」
「ごめんなさいっ! これは、弟の誕生日プレゼント用だから……っ!」
「あ、マジ? 本当にもう一つあるんだ!? 几帳面だなーお前! なら早く出せってほら」
歌う私の視界に、廊下を通り過ぎていく店員さんの姿が見えた。ジュースを持って隣の部屋に入ったその人は、すぐにまた廊下を戻っていく。
店員さんは私達の部屋を少しも見なかった。音が大きいから、千紗ちゃんの声が聞こえてないようだった。
明るく陽気な音楽が部屋に響く。中学生の子が千紗ちゃんに壁に叩きつけられる音も、掻き消された。
「た、助けてください」
中学生は鼻水を垂らしながら真っ赤な顔で言った。
千紗ちゃんは微笑んで、彼の前髪を乱暴に掴んだ。
「誰が助けるか。バァーカ!」
音楽が終わる。一瞬音が止んだ部屋の中に、中学生の子のしゃくりあげる声が響いた。
点数を確認する音が鳴る。画面に表示された得点を見て、私は両手を上げて飛び上がった。
誰もが黙り込んだ部屋に、私の声だけが響く。
「ねえ、見て。九十六点ですって!」
中学生をカラオケの外まで送り届けた湊先輩が戻って来た。彼は扉を閉めると、冷たい表情を浮かべたまま千紗ちゃんの席まで行き、彼女を見下ろした。
「なんだよ。怖い顔して」
「このために僕達を誘ったのか」
「このため?」
「ふざけるな!」
先輩は声を荒げて壁を殴った。力強い音に私は悲鳴を上げて飛び上がり、チョコを抱きしめた。
「『新鮮お野菜掲示板』? ……は。随分馬鹿馬鹿しい名前の掲示板だ。僕達がしたのは、薬物の売買の手伝いなんだろ。一人で取引をしていればバレやすい。僕達はカモフラージュのために呼ばれたんだ。騙して、犯罪の手伝いをさせたな!」
湊先輩が舌打ちをして千紗ちゃんを睨む。その顔は酷く険しいものだった。
だけど千紗ちゃんにはちっとも響いていないようだった。彼女は肩を揺らして笑い、先輩が手に持っている財布を見て、また笑う。
「あんたは優しいね。あの子にお金あげたんだ。それとも、カツアゲされたの?」
「誕生日プレゼント代まで毟り取らなくなっていいだろう。それから、これも」
先輩が何かを投げ渡す。千紗ちゃんは空中でそれを受け取って、手を開いた。さっき中学生が持っていった粉薬だった。
「取り返したのか?」
「当り前だ! まだ中学生なんだぞ!? こんなもの使わせるわけにはいかない!」
「でも、抵抗されただろ」
湊先輩が言葉を詰まらせる。苦い顔で千紗ちゃんを見た彼は、また舌打ちをしてソファーにどっかりと座り込んだ。
近くで彼の顔を見た私は、その頬に、薄い引っかき傷があることに気が付いた。赤い血がぽつぽつと浮かんでいる。
「…………悪いものだって分かっているくせに。大金だって騙し取られただろうに、なんで……」
「あいつにとっては悪いものじゃないからさ。これは初回じゃない。二回目だ。一回でやめられなかったのならもう駄目だね。今無理矢理薬を奪ったって、どうせまた連絡してくるよ。それにしても奪い取ってくるなんて。ははっ、儲かった。これでもう一回売れる」
「いい加減にしろよ!」
「言っとくけど、あたしはあのガキを騙してなんていないさ。掲示板を見てあたしに連絡してきたのはあっちの方だ。それに値段だって適切だぜ。つい最近、贔屓にしてた商人がいなくなってよ。より高額で、しかも少量しか売ってくれないところからもらうしかねえんだ。たまったもんじゃねえ」
「商人?」
「サラリーマンみたいなおっさんだったな。会社で、草を育ててるらしくてよ。そいつから仕入れてた。気が弱くて真面目な奴でさ。そんな仕事してるのに、自分のやってることに罪悪感ばっか感じてて」
「サラリーマン……」
「もう耐えきれないから普通の会社に転職するとか言ってよ。じゃあ最後に自社の商品試してみれば? って言ったんだよ。案外ハマって、抜け出せなくなるんじゃないかと思ってさ。だって値切りやすい奴だったんだ。いなくなられちゃ困る。でも結局いなくなった。しかもさぁ! 面白いんだ。ニュースに出ててよぉ。薬物で錯乱して、無差別に通行人を刺し殺したんだって! ほらこの間の。ニュース見た? 怪物がまた出たっていうニュースばっかりで、目立ってなかったけどさ」
私と湊先輩は思わず顔を見合わせた。ニュースを見たも何も、私達はそのおじさんらしき人を実際に見た。私のブラウスを汚す赤色を、いまだ鮮明に覚えている。
それなのに。結局おじさんがどうなったのか、私はあまり覚えていなかった。
電話が鳴った。退室十分前を知らせるものだった。私達は受付に行き会計をする。店員さんは事務的な笑顔で対応してくれた。部屋で起きていたことは、何も知らないようだった。
外に出ると、外はもう暗くなっていた。街の明かりがチカチカときらめき始めている。もう帰らなきゃ、と言った私の手を千紗ちゃんが掴んだ。
「何言ってんのさ。まだ手伝ってほしいことはあるんだぜ?」
「でももう帰らなきゃ。ママが心配しちゃう」
「ママ!」
千紗ちゃんは冗談を言ったみたいな顔で噴き出して、ママ、ママ、とその単語を繰り返した。
私が取り出した携帯を彼女が奪う。あっと思う間に、彼女は携帯を手に街の方へと駆けていく。慌てて彼女を追いかけた。湊先輩も、少し躊躇ってから私達を追いかけた。
「返してちょうだい!」
「夜の遊びは楽しいぜ?」
「でも夜になったらお家に帰らなくちゃ」
「いいじゃん。友達なんだから、もっと遊んでくれよ」
友達、と私は追いかける足を止めた。千紗ちゃんも思わず足を止める。その一瞬を狙って、私は大きく地面を蹴った。ぐんと体を突き出した私に、彼女が驚きの声を上げて足を滑らせる。
地面に倒れた彼女の上に私は飛び乗った。起き上がろうと私の胸を叩く腕を取って、輝く両目を近付ける。
「お友達!?」
「お…………おぅ……?」
私は喜びの声を上げて彼女に抱き着いた。彼女の後頭部が地面にぶつかり、呻き声が上がる。
呆れた表情で走ってきた先輩が倒れる私達に手を伸ばした。私はその手も取って、引っ張る。先輩もバランスを崩し、地面にガツンと顎をぶつけた。
「私達、お友達なのね!」
嬉しいわ、と私は二人に抱き着いた。通行人が足を止めて私達を見つめている。
千紗ちゃんが起き上がって私の頭を殴った。先輩も起き上がって、血が滲んだ顎を押さえ私をじとりと見つめる。
友達、という言葉がじわじわ私の心臓を侵食していく。この短い期間で、私には二人も友達ができたのだ。やっぱりこれは魔法少女になれたおかげだろうか。
嬉しさのあまり千紗ちゃんの頬にキスをする。彼女は微笑んで、私の顔を正面から殴った。
「次は何の犯罪の片棒を担ぐことになるんだ?」
「人聞きの悪い。今度こそ、ただのアルバイトだよ。あたしのアルバイトのお手伝いさ」
丸めたティッシュを私の鼻に押し込みながら湊先輩は首を傾げた。私も笑って首を傾げる。もう片方の鼻からも鼻血が垂れ、先輩が慌ててもう一本丸めたティッシュを突っ込んだ。
千紗ちゃんは何も言わず歩き出す。夜の街は、駅から離れるにつれ、次第に雰囲気を変えていく。たまにいくファッションビルや百貨店は見えなくなり、小さな建物ばかりが目立つ。蛍光カラーの眩しいライトがチカチカと瞬き、路地に散らばるゴミの量が多くなっていく。路地が狭い。看板が増える。アルコールのにおいと生ごみの臭いが強くなった。
「ここだよ」
千紗ちゃんが立ち止まったのは汚いビルだった。地下一階から六階まで、それぞれの階に何かしらのお店が入ったビルだ。エレベーターの前で彼女は三階を押す。その階にあるショップの名前を見た湊先輩の顔が、ギョッと歪んだ。
「ガールズバー『ラブドラッグ』……って、はぁ!? ガールズバー!?」
エレベーターが開く。戸惑う先輩の背中を押し、千紗ちゃんは私の手を引いて乗り込んだ。先輩が振り返ったとき、既にエレベーターの扉は閉まっていた。
今にも落ちるんじゃないかと思うほどの振動と共にエレベーターは上昇する。そして扉が開けば、見えたのはピンクのネオンライトに照らされた空間だった。
「おはざまーっす」
千紗ちゃんは私達を部屋に突き飛ばし、伸びた声で言った。私は少しよろけて前に進む。それから改めて部屋の内装を見て目を瞬かせた。
綺麗でオシャレな空間だった。ネオンライトで光る壁にずらりと並んだお酒の瓶。バーのような場所だ。けれどカウンターの中にいるのは、全員が女の子。バーと聞いて想像していたような、渋い顔のマスターはいなかった。
「ちょっと、ちぃちゃん。三十分遅刻だよ? 連絡してよ」
「同伴してたんすよ店長」
裏から顔を出したのは眠そうな顔をした髭がボサボサのおじさんだった。彼は千紗ちゃんの言葉に肩を竦め私達を見て、お客さん? と首を傾げる。
「制服姿じゃないの。まだ学生じゃん。困るよ、千紗ちゃん。一応ここは十八歳以下入店禁止なんだから」
「制服のコスプレが好きらしいんっすよ。この見た目で四十三歳ですって」
「無理しかないよ」
湊先輩が呆れた声で言った。四十三歳、と店長さんは間延びした声で繰り返して、なら大丈夫だね、とまた声を伸ばして言った。
「二名様ご来店ー」
千紗ちゃんが私達の腕を引き、店の一番奥側の席に座らせた。湊先輩は戸惑って出口に戻ろうとする。けれど彼女はそれを許さなかった。
「あたしの手伝いしてくれねえの?」
「手伝いって何だよ。こんな所に連れてきて、何をさせる気だ? ここでも薬を売るのか?」
「あたしには薬しかないとでも? ちげえよ。ここで働いてるんだよ。お前達には、あたしのお客さんになってもらいたいんだ」
「働いて……って、ガールズバーで? こういうところって、十八歳以下は働けないんじゃ?」
「最近法律が変わって、十六歳からでも働けるようになったんだ」
嘘だよ、とカウンターから別の女の子の声が飛ぶ。千紗ちゃんがそれに悪態をつき、笑い声が上がる。
私と先輩を置いて、千紗ちゃんは裏へと消えてしまった。何をすればいいか分からず内装をぼんやり観察していると、目の前に黒い液体の入ったグラスが置かれた。
「あなた達、ちぃちゃんに無理矢理連れてこられたんでしょ?」
カウンターの向こうに女の子が立っている。茶色いロングヘアーの、大人っぽい女の子だ。赤い口紅を塗った唇に笑みを浮かべ、彼女はカウンターに置いたグラスを長い爪でそっと私達に差し出す。
礼を述べグラスを受け取る私の横で、先輩はやけに言葉をもごもごと口の中でまごつかせ、挙動不審にグラスを取る。耳が茹でたタコみたいに真っ赤だ。私は先輩がしきりに壁や天井に目を向け、決して女の子の方を見ないようにしていることに首を傾げた。
改めて女の子を見る。千紗ちゃんと違い、十八歳は超えているだろう見た目の彼女は、その大人びた魅力を最大限に活かした服を着ていた。胸を大きく開いた薄いシャツ一枚と、そこから見えるセクシーなデザインの下着姿。豊満な胸の肌色が大きく露出する。私は瞬きをして、カウンターに立つ他の女の子を見た。彼女達も皆同じような過激な服装をしていた。
「皆おっぱいまるだし!」
「ありすちゃん!」
湊先輩が裏返った大声を上げた。笑う女の子をまじまじと見ながら、私はグラスを傾ける。コーラかと思ったけれど、何だか不思議な味がする飲み物だった。
「ちぃちゃん、たまにこうして無理矢理お客さん連れてくるから。ガールズバーは初めて?」
「初めても何も、まだ入っちゃいけない年齢なんですけど……」
「そっかぁ。まだ高校生だもんねぇ。ふふ、今日は内緒にしておいてあげるから。いっぱい楽しんで。わたしはミユっていうの。よろしくね」
ミユちゃんはニコニコ笑って湊先輩の手を握る。先輩は顔を真っ赤にしながらも、どうも、と微笑んで握手を返した。
「『ちぃ』でぇーす。よろしくー」
裏から出てきた千紗ちゃんが、笑いながらミユちゃんの隣に立った。彼女も着替えて他の子達と同じ格好になっている。明らかに目を逸らす湊先輩の両耳を掴んで、自分の方に向けさせる。
「顔やば。うける」
「し、仕方ないだろ。こんな所初めて来たんだ!」
「ねえ喉乾いた。何か飲ませてよ」
「え? 別に、飲めばいいだろ?」
ちげえよ、と千紗ちゃんは顔をしかめた。彼女はメニュー表を開く。ファミレスのドリンクメニューみたいだ。ウーロン茶やジンジャーエルなどの欄をくるくる指で差して、彼女は意味深な目で先輩を見た。
先輩は眉間にしわを寄せ、まるで意図を掴めないといった顔で首を傾げる。好きなの飲めばいいんじゃないの、と彼が言った途端、千紗ちゃんは目を輝かせて裏に向かって叫ぶ。
「ちぃとミユ、ドリンクいただきましたー! ジントニックお願いしまぁす」
裏からそれに応える声が聞こえ、少しすると店長さんが顔を出して、ちぃちゃんとミユちゃんに小さいグラスを渡す。しゅわしゅわと泡をたてる中にライムが沈んだドリンクは、とてもオシャレな飲み物だった。
乾杯、と威勢良くグラスをぶつける彼女を、先輩がじっとりした目で睨み、溜息を吐いた。
「酒じゃん、って文句を言わないんだな」
「何だかもう、それくらいなら、なんて思っちゃうんだよ」
「はは。いい調子じゃん」
「何がいい調子…………酒じゃん!」
湊先輩は疲れたようにグラスを煽り、中身を盛大に吹きだした。ゲホゲホと咳き込む彼は目を白黒させて私を見る。どうしたのかしら、と思いながら私は飲み終えたグラスをテーブルに置いた。
千紗ちゃんとミユちゃんが笑い声を上げてハイタッチをした。うける、とテーブルを叩いて爆笑する彼女達の視線が私に向いた。
「な。それ変な味だなって思わなかった?」
「ちょっと不思議な味がしたわ。新発売のコーラなのかしら。喉がカッと熱くなる飲み物なんて、はじめて。とっても面白いわね!」
「酒だよ! 何でそこまで分かっててコーラだと思い込めるんだよ君は!」
もう一杯いかが、とミユちゃんに言われて私は頷いた。駄目だよ、と横から先輩が言ってきたけれど、千紗ちゃんが彼の口に飲み残しのグラスを押し付けた。
「情けねえの。これくらいも飲めないのか」
「そういう問題じゃなくて、そもそも飲んだらいけないだろ……」
「誰も責めねえよ。ここがそういう場所に見えるか? ほら、見てみろよあっち」
千紗ちゃんが遠くを指差す。私と先輩はつられてそちらを見て、わっと声を上げた。
カウンターに立つ女の子が、シャツを脱いで下着一枚の姿になっている。露わになった胸の間に挟んでいるのは、ストローが刺さったお客さん用のドリンクだ。お客さんはニコニコと笑顔を浮かべてドリンクを飲んでいる。
「が、ガールズバーってあんなこともするのか……」
「流石にしないよ。この店は、ちょっと色々緩いの。営業時間とかスタッフの年齢とかもね」
ミユちゃんの言葉に湊先輩は、違法じゃないか、と呟く。千紗ちゃんとミユちゃんは少し笑ったけれど、それに言葉は返さない。
千紗ちゃんが無理矢理グラスを傾けていく。そのままだと中身が零れてしまうだろう。焦った湊先輩が咄嗟にグラスに口を付け、ボタボタ垂れる中身で口を汚しながら、喉仏を上下させた。うぇ、と舌を出し苦い顔をする。
「気に入らなかった? じゃあ別のも試してみろよ。モヒートはどうだ?」
湊先輩の返事を待たず千紗ちゃんはまたお酒を頼む。運ばれてきたグラスを受け取った湊先輩は、長い溜息を吐いて、黙ってグラスを傾けた。もういいよ、と諦めた声で言いながら。
私も運ばれてきた新しいお酒を飲んだ。これがお酒の味なのね、と心を弾ませる。不思議な味だ。とても楽しい。お友達って、こうしてお酒を飲み合って楽しむものなのね、と思った。
二杯目も瞬く間に空になる。
「えっと、君大丈夫? 大分飲んでるけど」
「とても楽しいわ! お酒って、こんなに種類豊富なの? 全部制覇するのに何日かかるかしら」
「楽しんでるならいいけど……本当に大丈夫?」
私が笑顔で頷くと、店長さんはそうなの、と感心したように言ってミユちゃんが吐いたゲロを片付けた。
床に倒れていたミユちゃんが立ちあがって、ふらふらしながら湊先輩のグラスにお酒を注ごうとする。けれど元々半分以上お酒が残っていたグラスはたちまち酒を溢れさせ、テーブルに流れていく。ケタケタ笑うミユちゃんに店長さんはもう帰りな、と言った。
私はテーブルに突っ伏して動かない湊先輩の肩を揺すった。千紗ちゃんはいない。先輩がテーブルに突っ伏したあたりで、別のお客さんの所へ行ってしまったからだ。私一人だけというのはとても寂しい。
「先輩。起きて、お話ししましょうよ」
「なんだよ……僕だって頑張ってるんだよ…………何でまともな子が一人もいないんだ……畜生…………」
ほぼ夢の世界に入っている先輩は、ぐずぐずと独り言を吐いて、結局目を覚まさない。仕方なく私は先輩のグラスを取って残っていたお酒を飲む。
時間が過ぎるのは早い。気が付けば時刻はもう夜中の一時を回っていた。こんな夜中まで起きていることはなかなかないから、ちょっとわくわくしちゃう。でもやっぱり、一人で起きているのは寂しいわ。
お店はまだ賑やかだった。色んなお客さんが入れ替わり立ち代わりやってくる。アルコールと香水のにおいが混じった店内に、煙草の紫煙がくらりと揺れる。
私は部屋の隅にある席を見た。カウンターの奥には、少しだけボックス席もあるらしい。今そこを使っているのは一組だけだ。
大学生くらいの男性と千紗ちゃんが話している。私達と同じだ。だけど千紗ちゃんの雰囲気が違う。彼女は男性の一言一言に相槌を打って笑顔を返していた。柔らかいその表情はさっき私達の前にいたときとはまるで違う。
恋人なのかしら。と私は呟いた。そのとき、私に応えるように二人が動いた。たった一瞬だけ顔を近付けて、その唇を触れ合わせたかと思うと、パッと顔を離す。
きゃあ、と私は椅子の上で飛び上がった。バランスを崩して床に落ちた。店長さんや他の女の子が心配そうに私に駆け寄ってきてくれる中、私は椅子の下敷きになったまま、ニコニコ笑って千紗ちゃんを見る。
呆れた顔で私を見ていた彼女は、ニヤリと笑って中指を立ててきた。私は嬉しくて、彼女に手を振り返した。
キスをしたときの千紗ちゃんの顔は、とても幸せそうな笑顔だったわ。
「あ、あ、頭。痛い。死ぬ」
「水飲んで寝りゃ治る」
千紗ちゃんが仕事を終えたのは午前三時だった。本当はもう少し働く予定だったらしいけど、私達が心配になった店長さんが、送ってあげてと彼女に頼んだのだ。
と言っても電車はとっくに終わっているし、タクシーを使うのはお金がもったいない。私達は二十四時間営業のハンバーガーショップで始発までの時間を潰すことにした。
普段はとっくに寝ている時間だけど、友達と夜更かし、という状況が楽しくって全然眠気がやってこない。けれどたくさんお話をしましょう、とはりきる私の前で、千紗ちゃんと湊先輩はぐったり机に突っ伏すばかりだった。
「これじゃ、家に帰れないな。体中酒臭いよ」
「じゃあシャワーで臭いを落としに行くか? この近くにおすすめのホテルがあるんだ」
「いいね…………いや、待って。ホテルって何ホテル……」
「ラブホテ」
「最後まで言わなくていい」
二人とも声に覇気がなかった。コーヒーをちびちび啜り溜息を吐く先輩と、無料の水を啜って息を吐く千紗ちゃん。私は大きなハンバーガーに齧り付いて、疲れた二人を見つめていた。
「お前、一番酒飲んだくせに元気だな。羨ましいよ」
「だってとっても楽しかったんだもの! お酒もはじめて飲んだけど、色んな味があって楽しかったわ」
「普通はあれだけ酒を飲んだら、元気ではいられないもんだよ」
「そうなの? じゃあ、ミユちゃんも大丈夫かしら。心配ね」
「ゲロ吐いてたしなぁ」
千紗ちゃんが肩を揺らして笑う。と、ちょうどそのとき彼女の携帯が鳴った。
画面を見た彼女は意味深な顔で私に微笑む。『ラブドラッグ』と表示された名前はさっきのガールズバーだった。
噂をすれば、と言って千紗ちゃんは携帯を耳に当てる。だが彼女が言葉を発するより早く、向こうから聞こえてきた店長の声が私にも聞こえた。
『ああ、ちぃちゃん? よかった。今いいかな』
「いいっすけど。何すか? シフト?」
『違うよ。ねえ、今ミユちゃんと一緒だったりする?』
「ミユ?」
千紗ちゃんは首を振って、否定の言葉を告げる。携帯から聞こえてきた落胆の溜息に彼女は眉をしかめる。
「何かあったんすか」
一拍の間を置いて。店長の低くなった声が、携帯から聞こえた。
『連絡がつかないんだよ。帰ったはずのミユちゃんが、家に帰っていないんだ』
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます