第7話 二人目の魔法少女

「そろそろ二人目の魔法少女が登場してもいい頃じゃない?」

「今授業中なんだよ」


 五時間目の授業中だった。

 私の手を引いて廊下に出た湊先輩は、片頬を引きつらせた笑いを浮かべて腕組みをする。

 扉の窓から、人体と動物の絵が描かれた黒板が見えた。どうやら生物の授業をしていたらしい。

 先生がおどおどとした声で授業を再開する声が聞こえてくる。突然教室に飛び込んだ私に驚いていた彼らの顔を思い出して、思わず微笑んでしまう。

 そんな私に湊先輩は盛大な溜息を吐いた。


「何しにきたの?」

「魔法少女の二人目は、どんな子がふさわしいと思う? やっぱり熱い魂を持つ子がいいと思うの。明るく元気でお転婆な……」

「話聞いてる?」


 隣の教室からも授業を行っている声が聞こえる。声を聞くに、数学の時間だろう。窓の外からは綺麗な合唱の声が聞こえてくる。どのクラスも授業中だ。こうして廊下に出ているのは、私と先輩だけかもしれない。

 授業ちゃんと受けないと、と湊先輩は言った。私は微笑みでそれに答える。


「自慢じゃないけれど勉強には自信があるのよ」

「へぇ意外……。じゃあこの間の中間も、よかったんだ?」

「ふふん当然。先生からね、褒められちゃった」

「おっ」

「名前が丁寧に書けたねって」


 そっか、と湊先輩は微笑んで窓の外に目を向けた。つられて窓の外を見れば、綿菓子みたいな雲が浮かぶさっぱりとした青空が広がっていた。魔法少女日和ね、と視線を戻せば湊先輩は既に教室に戻ろうとしているところだった。


「お話をするのはいいけど、学校が終わってからにしてくれる?」

「あぁ! ……もうっ。絶対よ。放課後、一緒に魔法少女を探しに行くんだからねっ」

「早く教室戻ろうね」


 パタンと扉が閉まる。もう、と私は頬を膨らませてから、また空を見上げた。

 気持ちのいい空は。まるで、魔法少女のこれからを応援してくれているみたいだった。




 臨時休校が明けた。

 私はお休みの間中、ずっと、あの日死んでしまった人達のことを考えていた。

 私が魔法少女に変身したあの日。十八人もの人が死んでしまったらしい。理由は分からない。体育館で校長先生が伝えてくれた話も、ニュースも、教室でクラスメートが話していたことも、私はあまり聞いていなかったからだ。けれどきっと流れ星のせいだろう。

 そんなにたくさんの人が死んでしまったことに対して、私は張り裂けそうな心臓を押さえて涙を流すことに精一杯だった……。

 たくさんの人が亡くなった。もしも私がもっと早く力に目覚めていれば、救えたかもしれないのに!

 ふがいない自分が悔しい。だけど今の自分の力だけじゃ、これ以上どうすることもできないって分かってる。

 私にはまだ力が足りない。世界中の人々を救いたくても、私一人じゃ間に合わない。

 だから、もっと仲間を増やさなくちゃ。

 一緒に世界を救ってくれる。新しい仲間を。


「というわけで二人目を探そうって決めたのよ。五時間目にね」

「行動に移すまでが早すぎるんだよな」


 私は放課後早速、湊先輩の教室を訪れた。帰る準備をしていた彼の腕を引っ張って校舎を歩く。連れて行きたい場所があったのだ。

 廊下を通っていると、旧校舎とつながる渡り廊下の手前に立ち入り禁止のテープが張られていた。私は構わずそれをくぐる。ちょっと、と驚きの声をあげた湊先輩も少し考えてから渋々といった顔でテープをくぐった。

 二階の渡り廊下は左右がガラスの解放感ある作りになっている。けれど現在、そのガラスの半分は砕け、本当に解放されていた。

 すこしぬるい初夏の風が吹き込んでくる。床のあちこちにも穴が開き、うっかり足を滑らせれば下の渡り廊下まで落っこちてしまうだろう。

 旧校舎のあちこちにはまだ瓦礫や穴が残っている。新校舎の方も、まだ工事が手つかずなところは多い。

 臨時休校に対して、保護者からは毎日のように授業の遅れを不安視する声が噴き出していたらしい。試験に影響が出ないよう、元々予定していた休校期間は大幅に切り上げられた。

 流れ星で損壊した校舎の工事は急ピッチで進められた。それでも、まだボロボロの状態で残っている場所も多い。

 瓦礫をかきわけ、ときには乗り越えて先に進む。この道から行く方が近道なのだ。何か言いたげな顔をしながらついてきていた湊先輩も無言で私の後ろをついてきてくれる。


「本当に酷い惨状。湊先輩は、どうして学校がこんなに壊れてしまったのだと思う?」

「……………………君がへんし」

「そうね。流れ星のせいね」

「んっ。うぐ」

「あの日、降り落ちた星のせいで学校はめちゃくちゃになっちゃった。たくさんの人が死んでしまったわ……。もうあんな辛い思いはしたくないの」

「そ、そうだね…………」

「湊先輩もそうでしょう?」

「うん」

「ありすちゃん。もうすぐだよ!」


 不意に鞄の中からチョコが顔を覗かせた。もうすぐ? と辺りを見回した湊先輩は、ふっと鼻頭にしわを寄せ、怪訝な目で私を見つめる。


「実は二人目の子はもう検討がついているの」

「検討……どんな子なの?」

「前に一度だけお話ししたことがあるの。とても明るくて、元気な子よ」


 私は瓦礫を飛び越えながら言う。目的地が近付いてくるにつれて、足取りは軽くなっていった。反対に、湊先輩の足取りは少しずつ遅くなって、私との間に段々距離が開きはじめる。疲れているのかしら、と呟いた。君より年だからね、とチョコが言った。なるほど、と頷けば後ろからなるほどじゃないよ、と湊先輩の声がした。けれどその声には覇気がない。

 私は校舎の隅にある部室棟にやってきた。一つの部室の前に立てば、横に立った湊先輩が深い溜息を吐いて顔を覆う。


「凄く帰りたい」

「どうしたの湊先輩?」

「ここに二人目がいるの?」

「ええ」

「どんな子?」

「とても明るくて、元気で……」

「見た目はどんな?」

「うふふ。……実はね、二人目の魔法少女はイエローがいいなって思っていたの。赤だとピンクとちょっとかぶっちゃうでしょう?」

「ああ……うん。ちょっと分かるよ」

「でね。二人目の子は魔法少女イエローにぴったりな素質をもっているの」

「素質?」


 私は微笑んで扉に手を伸ばす。防音が聞いた部屋の中からは、微かな映画の音声が聞こえてくる。

 『映画研究部』と書かれたプレートが壁に貼られていた。


「なんと。髪がイエローなの!」

「ありすちゃん。それはね、金髪って言うんだよ」


 私は扉を開けようとした。鍵がかかっていたらしくガチャガチャと音がなるだけだった。構わずガチャガチャと扉を開けようとする私の横で、湊先輩はただ黙って項垂れた。

 部室の中から物音が聞こえた。誰かが大きく舌打ちをした音だ。誰かがこっちに来る。私はチョコにしばらく大人しく隠れているように言って、その人がやってくるのを待った。

 内側から鍵が開けられる。僅かな隙間が開いて、そこからガンガンに効いた冷房のひやりとした冷気があふれ出した。

 金色の髪が隙間から覗く。その下の、獣のように鋭い目が、私と湊先輩をギロリと睨みつけた。


「お前ら何?」


 私はその僅かな隙間に手を引っかける。その子はギョッと目を丸くして扉を閉めようとしたけれど、それより先に私は思いっきり扉を引っ張った。

 冷たい空気をまとったその子がつんのめって私の胸に飛び込んできた。金色の髪が日に照らされて、キラキラと輝く。

 宝石のように美しいわと私は思った。

 目を見開いて私を見つめる彼女は。前にこの部屋でコカインを吸っていた女の子だった。


「ねえあなた、魔法少女にならない?」




「まあソファーにでも座れよ。お茶くらい出してやるからよ」

「お、お構いなく」


 魔法少女にならない? 実はね、私は魔法少女なの。妖精さんの力を借りて、可愛い魔法少女に変身して世界を守っているの。今は二人目の仲間を探している最中。あなたが二人目にぴったりだと思ったからこうしてお誘いに来たのよ。ねえ、魔法少女にならない?

 扉を開けてすぐ矢継ぎ早に言った私に、最初は彼女も目を丸くして驚いていた。無理もないわ。だって女の子なら誰もが憧れていた魔法少女になれるかもしれないんだから。

 何度も繰り返し勧誘をしていると、彼女は苦い顔で笑って私達を部屋に入れてくれた。暗い部屋に映画の光源だけが光っている。他の部員の子は今日はいないみたいだ。

 流れているのは古いマフィア物の映画だった。渋い顔をしたおじさん達が刃のような目を向け合い、銃を構えている。

 夢中になってそれを見ていた私だが、ふと隣に座る湊先輩がまるで画面の向こうから本物の銃を向けられているような顔色をしていることに気が付く。膝が落ち着きなく床を叩いている。

 そんな彼を見つめていれば、視線に気が付いた彼がこちらを見下ろし、不可解そうに鼻を引くつかせた。


「知らないの?」

「?」

「この映画研究部の噂だよ」

「オバケでも出るの?」

「僕も又聞きしただけだから詳しくは知らないけどさ。なんでもここは、今年入った新入部員の子が……」


 湊先輩は途中で言葉を切り、何事もないような顔で正面に顔を戻す。同時に目の前のテーブルに紙コップが乱暴に置かれた。


「ありがたく飲めよ」


 彼女が私達の前に置いたコップと同じコップを持って、横の椅子に座る。

 紙コップを持ち上げればふわりと香ばしいコーヒーの香りがした。一口飲んで、強い苦みに口を窄める。慌ててミルク二つと角砂糖三つを入れればようやくおいしくなった。コーヒーを堪能する私を見てから、湊先輩もちろりと舐めるように一口飲む。


「お前確か前もここに来たな。えーっと、で? 宗教勧誘だっけ」

「違うわ。魔法少女のお話よ!」

「宗教勧誘ね」


 それで? と彼女は紙コップを揺らす。立ち上る白い湯気が、暗い部屋にふわりとのぼった。

 部屋の中は、コーヒーの香り以外にも、ちょっと不思議な甘い匂いもしていた。

 彼女はコーヒーを飲むと、椅子に深く背をもたらせ懐から煙草を取り出す。慣れた手つきで咥え火を付ければ、薄い紫煙がゆるりとコーヒーの香りを飲み込んだ。

 その仕草は映画の主人公のようにかっこいい。素敵ね、と隣の湊先輩に同意を求めるも、彼は苦い顔で彼女を見つめて、私のことなど見てもいない。


「魔法少女ってやつを聞かせてみろよ」


 私はニッコリと微笑んで口を開く。

 湊先輩は、今日何度目か分からない溜息を吐いた。



「ははは!」


 私が話し終えると彼女は大きな声で笑いだした。体が揺れ、長く伸びていた煙草の灰が床に落ちる。彼女は目尻にたまった涙を拭い、短くなった煙草を灰皿に押し付けた。たくさんの吸い殻が小さな山を成している。

 くつくつという彼女の笑いが部屋の中に軋んで響く。煙草のせいか、その声は色っぽく乾いていた。ザラリとした彼女の舌が唇を舐める。テレビの光に、ぼんやりと赤白い色が浮かぶ。


「なるほど? お前は魔法少女で、この間もナイフを持ったおかしな男から街の皆を守るために戦ったと。ヤクザの事務所に乗り込んで、魔法の力で全員ぶっ倒したと」

「そうよ。魔法少女はとっても強いの。それで」

「『あなたが次の魔法少女にふさわしい』?」

「その通り!」

「ふぅん」


 彼女はまた声をあげて笑う。そしてテーブルを勢いよく蹴飛ばした。

 テーブルに乗っていた灰皿が飛び跳ねる。山になっていた灰が湊先輩の膝に落ち、彼はうわっと声をあげて立ち上がった。


「ふざけてんのかよ」


 立ち上がった彼女は私の前に立ち、強く肩を突き飛ばした。そのまま胸倉を掴む。息苦しさに私は思わず咳き込んだ。顔を近付けた彼女の声が、耳の産毛をくすぐる。


「何が魔法少女だ?」

「い、痛いわ。やめてっ」

「前も同じこと言ってたよな。頭おかしいのかって、お前」

「やめてくれ」


 横から伸びた手が彼女の手首を掴んだ。湊先輩だ。

 彼はまっすぐ彼女を見つめ、手首を掴んだまま立ち上がる。ソファーに座る私は、パチクリと瞬きをして二人を見上げていた。


「お前もお前だよ。誰? 宗教勧誘部の部長?」

「僕は写真部。二年の、伊瀬湊だ。どうぞよろしく」

「よろしくする気はねえけど」

「僕もだよ」

「私は一年生の姫乃ありす。十五歳!」


 湊先輩は一度私を見て、困ったように笑って、それからすぐ視線を彼女に戻した。

 彼女は湊先輩をじろじろと見つめていた。ふと、その顔に笑みが浮かぶ。嫌らしい顔だった。ギクリと気圧された湊先輩が僅かに身を引く。けれど彼女はそれを許さず、彼にぐっと顔を近付けた。もう少し背伸びをすれば、キスをしてしまいそうなほどに。


「お前知ってるな?」

「何を」

「この映画研究部の噂だよ。そっちの奴と違って、まだまともな頭をしていそうだ」


 彼女は私をチラリと見る。手を振ったけれど、無視をされた。


「何も知らないよ」

「ここを出たらどこに行く? 職員室か? それとも交番?」

「まさか!」

「どうせ、入口の棚に置いてあった物も見たんだろ?」

「入口? いや、どこにも薬なんて置かれて…………」

「ほら知ってる」


 湊先輩はパッと大きな手で口を塞ぐ。けれどあまりに手遅れな反応に彼女は声をあげて笑った。

 映画の中から敵を撃った主人公の高笑いが聞こえる。二つの声は混ざり合い、どちらがどちらのものか分からなかった。


「ゲホッ!」


 湊先輩が咳き込んだ。彼女の靴が彼のお腹にめり込んだからだ。

 突然の暴力に彼の目が大きく見開かれる。眉間にしわを寄せ、腹部を押さえてよろめいた。


「映画研究部の噂って?」

「はは。おい、このイカレピンクにも教えてやれよ。ここのお話をさ。なぁ先輩?」


 湊先輩は黙っていた。けれど彼女がもう一度腹を蹴りつけると、ぐっと顔をしかめ、震える唇を開いた。

 張りつめた真剣な声が空気を揺らす。


「…………元々ここは普通の部活だった。純粋に映画を見て、ときには自分達で映画を撮る部活動だ。少なくとも去年まではそうだった」

「今年は?」

「今年の春に入った新入部員の子がいた。その子は最初こそ大人しくしていたものの、次第に部員達を支配するようになったそうだ。強い言葉で言うことを聞かせ、それでも抵抗した子には暴力までふるった。勿論たくさんの部員が辞めたさ。

 するとその子は更に猛威を振るった。堂々と煙草を吸って酒を飲んで、残り少ない部員にもそれを強制した。更に部員が辞めた。今はその子と、二人の先輩しか残っていないらしい」

「残った先輩達は、映画がとっても好きだったのね!」

「違う。その二人が残った理由はそんな簡単なものじゃない」

「じゃあ何故?」

「薬だ。二人ともその子に強制されて薬物中毒になってしまったんだ。部活をやめれば薬はもう手に入らなくなる。だからここに残るしかない。…………その噂は本当なのか? 犬飼いぬかい千紗ちささん」


 千紗、と私は彼女の名前を呟いた。当の彼女、千紗ちゃんは静かな笑みを浮かべて湊先輩を見つめている。

 彼女は新しい煙草を一本取り出して火を付けた。肺に取り込んだ青白い煙を湊先輩に向かって吹きかける。辛い煙が目に染みたのか、湊先輩は顔を背けて軽く咳き込んだ。黒い前髪が煙にぼやけた。


「名前まで知ってんだ。物知りだね」

「君は有名だから」

「あくまで噂でしかないってのに。そんなに失礼なこと言って、嘘だったらどうするんだ?」

「でもそれって本当のことでしょう? この間、ここであなた達がコカインを吸っているところを私は見たんだから」


湊先輩がギョッとした顔で私に振り返る。千紗ちゃんが眉間にしわを寄せて、キツイ目で私を睨みつけた。

 はじめて彼女と会った日のことを覚えているわ。二人の部員さんがお薬を飲んで床に倒れていたことも。


「お前そういうこと言っていいと思ってんの?」

「どうして嘘をつく必要があるの?」

「バレたら面倒だからだよ。煙草までならともかく、薬が見つかれば流石にアウトだってことくらいあたしも分かる」

「煙草はセーフなの?」

「……うぜえな」


 不思議だわ、と私は首を傾げて尋ね返す。湊先輩が焦った顔で、近付いてくる千紗ちゃんと私の間に割り込んだ。

 千紗ちゃんは大きな舌打ちをして、煙草の香りがする溜息を吐いた。


「噂はあくまで、どこまで行っても噂でしかない。証拠がなけりゃ教師だってさすがに警察沙汰にまではできない。お前達が、『映画研究部が薬物をやっています』って証拠を掴まない限りな。大方、魔法少女だとか嘘ついて、薬を探しに来たってのが正解だろ?」

「ううん? 私達はあなたに魔法少女になってほしくて……」

「ありすちゃん。ちょっと静かにしててくれる?」

「信じられねえな。だってお前、写真部なんだろ」


 湊先輩が押し黙る。とても写真が上手なの、と横から褒めても二人は何の反応も返してくれない。

 写真部ねぇ、と千紗ちゃんは繰り返して言った。写真かぁ、と。舐めるような声がじっとりと湊先輩に向けられる。彼は口内の唾をごくりと飲み込み、汗が滲む喉ぼとけを上下させた。


「写真部ならさぞかし綺麗な写真が撮れるんだろう」

「……………………」

「こんなに部屋が暗くたって、人間も映画の小道具もハッキリ撮れるんだろうな。パッケージに入った粉薬の白い色や、小瓶に入ったカラフルな錠剤も、クッキリ」

「……………………」

「でもなぁ。仮にだぜ? もし今お前達が職員室に行ったところで、まず叱られるのはお前達の方じゃないの」

「え?」


 千紗ちゃんはぐっと湊先輩のシャツを掴んだ。スン、と匂いを嗅ぎ、満足げな笑みを浮かべる。湊先輩は目を丸くし、唖然とその行為を見つめていた。


「超煙草臭い」


 湊先輩がハッとした顔で自分のシャツを嗅ぐ。そして、小さく舌打ちをした。

 私もスンスンと鼻を鳴らして彼のシャツを嗅いだ。苦い煙草の香りが鼻をつき、思わず顔を歪めてしまった。

 さっき灰皿が落ちたとき、煙草の灰は大分彼のシャツを汚してしまっていたのだ。


「換気してるっつってもこの部屋大分煙草臭いぞ? 二人とも体に臭いが染みついてるだろうな。それで職員室行ってみろよ。まず注意されるのは、そっちじゃね?」

「いやでも、君にされたことを言えば、説得だってできるだろう」

「お前達がここに来たことをなんて説明するんだ? 馬鹿正直に『魔法少女の勧誘に行って』なんていう気じゃないだろうな? その説明に時間をかけてる間に、あたしは余裕で逃げるけど」

「…………こ、ここに無理矢理引っ張って連れてくれば」

「コーヒーに何も入ってないと思った?」

「ゲホ」


 千紗ちゃんの唐突な言葉を聞いた湊先輩が咳き込む。私は目を丸くして湊先輩の背中を擦った。彼は愕然とした顔をして、テーブルの隅に置いていた紙コップを覗く。彼のコーヒーは半分がなくなっており、私のコーヒーは全てなくなっていた。

 みるみるうちに彼の顔が青くなる。震える指が唇を這う。まさか、と乾いた声が空気を震わせた。


「まさか僕達に、薬を……っ!」

「あは」


 千紗ちゃんは強気な顔で笑みを浮かべる。けれどすぐ、堪えきれなかった様子で噴き出し、腹を抱えて笑い声を爆発させた。

 あはあはと笑う彼女を私と湊先輩はポカンと見つめる。引きつったような笑い声は壁に響く。それでも左右の部室にはほとんど聞こえていないだろうと思った。防音材が声を吸収してくれるので。


「冗談だよ」


 千紗ちゃんが言った。湊先輩はそれでも険しい顔を崩さなかった。

 彼女は残っていた湊先輩のコーヒーを一気に飲み干し、赤い舌をべろりと出した。


「いいか? あたしのことを見誤るなよ。何も考えず馬鹿やってるわけじゃねえ。薬の隠し場所、部員の使い方、教師の使い方、悪行の隠蔽方法……これでも色々考えて動いてるんだ。ただ適当に遊んでるんだったらとっくに教師に薬も没収されて、退学どころか檻の中だよ。噂だけで済んでる。それがどれほどすげえことか理解できるか?

 やろうと思えばお前達の飲み物に薬を混ぜることもできた。今ここに部員を呼んで、お前達を痛めつけることもできる。学校外でも勿論。あたしは外の友人が多いんだよ。帰り道、いつだってお前達を背後から襲うこともできる。

 つまりあたしが言いたいのは一つだけ。どっちが上か、理解してから行動するんだな」


 千紗ちゃんが湊先輩の肩を叩く。彼は何か言いたげに千紗ちゃんを見下ろして、唇を強くかみしめた。

 部屋が暗くなる。映画のエンドロールが流れだした。

 湊先輩が私の手を引いて立ち上がる。きょとんとする私を連れて、彼は部室を出て行こうとした。


「帰ろう。ありすちゃん」

「どうして?」

「何でもいいから。ここには君の求めているような子はいないよ」

「…………そんなことないわっ!」


 私は湊先輩の手を振りほどいて踵を返す。目を丸くする千紗ちゃんの手を強く掴み、叫ぶように言った。


「私はあなたがいいのよ千紗ちゃん。あなたこそ、第二の魔法少女にふさわしいの!」

「は?」

「湊先輩とあなたが話していたことはちっとも分からないけれど。そんなに自分を卑下しないで。あなたは必ず魔法少女に変身できるのよ!」

「何言ってんの? ……マジで何言ってんの?」

「魔法少女イエローちゃんにふさわしい人はあなたしかいないの。だって、髪がイエローじゃない!」


 握る彼女の手がギクリと強張った。引きつった笑いを浮かべた彼女は、少し困った顔を湊先輩に向ける。湊先輩は険しかった表情を緩め、呆れたように肩を竦めた。

 千紗ちゃんが先輩と私を交互に見る。そして、キツイ表情が一瞬ふにゃりと緩んで、呆れた顔になった。


「本気で魔法少女探しに来てんの?」

「それ以外に何があって?」


 千紗ちゃんはわざとらしくよろめいて、後ろの椅子に倒れこむように座った。しばらく肩を震わせたかと思うと足をバタつかせて笑う。

 エンドロールが終わった。音楽も消え、部屋は真っ暗になる。

 部屋の中央に小さな火が燃えた。千紗ちゃんが付けたライターの火だ。それは煙草の先端に火を灯し、小さな光源を生み出す。

 千紗ちゃんはキッカリ一本煙草を吸った。その間ずっと笑いで肩が震えていた。煙草の火も消え、暗くなった部屋。立ち上がった彼女は明かりをつける。一瞬で明るくなった部屋に、私と湊先輩は瞼をぎゅっと閉じた。


「楽しそうじゃん」


 彼女は静かに言った。私はパッと顔を輝かせて立ち上がり、彼女に飛びつこうとする。それは簡単にかわされた。


「そうだなぁ。あたしの手伝いでもしてくれたら、考えてやらないでもない」

「お手伝い?」

「ちょっとした小遣い稼ぎさ」


 隣から湊先輩が私の肩を掴んだ。彼は鋭い目で私を見つめ首を振る。

 私の背中を押してくれているのだと思って、私は大きく頷いた。ちが、と彼が何かを言いかけた気がするけれど、それを割って告げた私の声の方が大きい。


「勿論。お手伝いするわ!」


 そうか、と千紗ちゃんが言った。

 込み上げる笑いを無理矢理潰したような低い声だった。

 後ろから湊先輩が呻く声が聞こえた。


 魔法少女のお仕事は世界を守ること。そして人々を笑顔にすること。

 人のお願いはどんどん叶えていかなくちゃ。

 私は拳を握り、千紗ちゃんのお手伝いとは一体何なのか、胸を期待に膨らませていた。

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