第6話 逃げちゃだめ

***


 大量のミミズが体の下で蠢いている。そんな感触だった。

 ペットボトルほどの大きさのミミズから、ハリガネのように細い小さなミミズが、真っ黒な姿でのたうち回っている。粘つく粘液がゴポゴポと泡を立て、僕の指の隙間をおぞましく流れていく。


「あああああ! 止まれ、やめろ! 聞けよ!」


 『魔法少女』に変身した彼女は街を駆ける。

 自転車よりも、車よりも早く。巨大な体が踏む一歩は重く地面を揺らす。表皮からべちゃべちゃと触手が飛んで、周囲の建物を黒く汚していく。

 『彼女』が吠える。周囲の人がこちらを見る。その顔は一瞬で真っ白になって、皆は同じ言葉を叫んだ。


 化け物だ。


 悲鳴が、叫びが、連鎖して広がっていく。その悲鳴の中央をおぞましい姿の怪物が駆け抜ける。深く踏み込んだアスファルトの道路が砕け、破片が高く浮かんだ。

 高校で暴れたときと同じように、怪物が再び暴れている。

 ただ一つあのときと違うのは。僕が、怪物の背中にしがみ付いているということだろうか。


「あああああ! あああああっ!」


 悲鳴は、叫んだ傍から、遥か後ろに飛んでいく。吹き荒ぶ風が僕の髪を後ろになでつける。

 太い首に手を回し、振り落とされないように必死にしがみ付いていた。怪物の体はぬるりとした光沢のある黒色の皮膚で、僕の眼球のすぐ先に、触手が波打ちごぽりと泡が浮かんだ。


 何故僕はこんなところにいるのだろうか、とぼんやりと記憶を呼び起こす。

 ただ止めようと思って手を伸ばしただけだった。でも彼女の変身を止めるのは、間に合わなかった。どころか膨らんだ光に押し上げられたかと思うと、気が付けば僕は、変身した彼女の上に乗っていたのだ。


「頑張れ湊くん。落ちたら、痛いよ」

「お前止めろよ! 手伝え!」


 怪物の肩からチョコが僕を見下ろしている。たった数センチ先にいるのに、チョコは僕に手を差し伸べることも、怪物を止めることもしないで楽しそうに笑っている。

 伸びた触手が電柱をへし折った。信号機が道路に叩きつけられて、割れたレンズが散る。


「縺ゥ縺薙↑縺ョ」


 怪物は同じ単語を繰り返しては、周囲を見回していた。あの男を探しているのだ。

 怪物の一歩は人間の数倍進む。誰かを探すとき、それは確かに便利なのかもしれない。だけど体が大きくなった分、被害は圧倒的だった。

 怪物の蹴った瓦礫が猛スピードで飛んで、歩いていたおばさんの真横を通り過ぎた。軽く振った腕が電線に引っかかり、何本もの電線が引き千切られて道路の上でバチバチ踊る。


 前方では、怪物の出現に気が付いた人達がパニックになっていた。皆一目散に僕達から逃げていく。けれど一人、足が悪そうなおじいさんが取り残されていた。

 このまま怪物が進めば、確実にあの人を踏み潰す。


「止まれ!」


 僕は怒鳴った。だけど当然のように、僕の声は無視された。

 考えている時間はない。僕は怪物の体に爪を食い込ませて、その首に噛み付いた。


「逞帙>!」


 怪物が身を捩る。体が大きく左右に揺れ、僕の体が宙に浮く。決して落とされないようにと一層歯に力を込めた。口の中いっぱいに触手がうごめく。うじゅうじゅとした不快な感触に、酸っぱい唾が込み上げた。嫌悪感を喉の奥で堪える。

 痛みに震えた怪物は、身を捩った拍子にそのまま進行方向を変えた。右の狭い路地へと進む。やった、と僕は思わず声を上げた。口からべちゃりと触手が落ちて、怪物の皮膚の上で痙攣した。


「そうだよ、その調子で!」


 そうだ。こうなった以上、僕だってやれることはやってやる。上手く怪物をコントロールできるかもしれない。そうすれば、きっと前のような被害は出ないはずだ……。

 僕は笑顔を浮かべた。路地から怪物が飛び出す。そして、通りを歩いていた中学生を三人跳ね飛ばした。


「……………………」

「三ポイント!」


 チョコが、ゲームセンターでゾンビを倒したときと同じ声で言った。

 僕は呆然と空を見つめた。背後から何かが地面に落ちる音がした。ガクガクと震える手を、更に深く怪物に食い込ませた。


「ひっ」


 急に体が仰向けに倒れた。視界に曇天の空が広がり、雨が顔に叩き付ける。

 ■■株式会社、と書かれたビルの壁に怪物が手をかけていた。壁に直接手を食いこませ、無理矢理作った穴に指を引っ掻けて体を持ち上げる。持ち上げる間に、もう片方の手を同じように壁に埋める。まるで地面を走るようなスピードで、怪物は壁をのぼっていた。

 窓越しに社内の人がこちらを見ていた。唖然とした顔が恐怖に歪んでいき、それを見届ける前に怪物はまた上の階をのぼる。


 屋上に上がって、ようやく体の向きが通常に戻る。頭に血がのぼって眩暈がした。原因は、それだけじゃないかもしれないけれど。

 六階建ての建物はさほど高いとは言えないが、商店街の景色を見るには十分だった。商店や住居が見える。通りを歩く人、逃げる人、こちらを見上げて何かを叫んでいる人。

 突然怪物の胸が膨らんだ。僕はアッと声を上げて怪物の顔を見る。その頬が風船のように膨らんでいる。何をしようとしているのか察して、僕は耳を塞ごうとした。


「縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ!」


 空気が爆発した。

 ゴ、と巨大な音が耳元で弾ける。頭が後ろに吹っ飛ばされて、そのまま落ちる寸前でハッと我に返り、慌てて首に強くしがみ付く。一瞬、本当に意識が飛んだ。


「がえっ」


 心臓が激しく鼓動した。肺に激痛が走り、耳の奥が熱くなる。

 全身が苦しくなり、僕は咳き込む。少量の血がぱたぱたと手に飛んだ。至近距離からの咆哮に、体中が苦しかった。

 怪物の咆哮は雷に似ていた。風圧さえも凄まじく、ビルの地面が地震のように揺れる。大通りの街路樹が葉を散らし、折れた枝を飛ばす。

 開いた視界に映る、逃げる人々。その中の一人に怪物の視線が集中する。彼女が追っていた、あのサラリーマンのおじさんだ。

 僕が息を整える間も与えてくれない。怪物は唸り声を上げ、また走り出す。そのまま屋上の縁を蹴って、飛んだ。


「へ」


 ぶわ、と前髪が上に引っ張られる。胃が競り上がる。僕は怪物が六階の高さを落ちているのだと知った。

 恐怖の悲鳴が空をつんざく。手が汗と粘液で滑り、体がふわりと浮いた。もがいても空気しか掴めず、僕は何度目か分からぬ死を覚悟して、何度目か分からぬ走馬燈を頭によぎらせた。

 怪物が地面に着地する。アスファルトに覆われていた地面は砕け、深いクレーターを作った。僕も怪物の体に落下する。じゅぶ、とぬめる触手に顔が沈んだ。


 怪物は走る。大きく開けた口から、大声と涎を撒き散らして、商店街を破壊しながら駆け抜ける。

 僕はもう怪物の体から顔を上げなかった。強く目を瞑って、ただただ振り落とされないようにその体にしがみ付く。ずるりと体の周囲を這う触手が、いっそ僕の耳を塞いでくれればいいのにと思った。

 だって。辺りからは絶え間なく酷い悲鳴が聞こえてくるのだから。


「ママッ、ママッ」

「早く逃げて!」

「なにあれ……やだ。どうしよう…………」

「な、動画撮ってる? 絶対これ視聴率…………あ、やば! にげ。ッびぅ゜」

「包帯ください! 消毒液と、絆創膏も! 首が取れちゃったんです!」

「う、うで。腕知りませんか。わたしの、うで。う、う、腕…………」


 止まれよ、と僕は呟いた。少し口を開くだけで、おぞましい触手が歯をうじょうじょとなぞる。嫌悪感と恐怖が爆発して、僕は怒鳴った。


「止まれよぉっ!」


 そんな僕の思いが通じでもしたのだろうか。怪物が道を曲がった先に、必死に逃げるサラリーマンのおじさんの背中が見えた。

 怪物が吠え、足を止めた。あまりにも急だった。油断していた僕の体は投げ出され、ぽーんと宙を舞った。

 地面に体を強打する。勢いを殺せずそのまま数回転転がって、壁にぶつかって止まる。小さな痛みはじわじわと激痛へと変わっていき、僕は擦り傷だらけになった体を震わせた。何とか、呼吸をして痛みに堪えようと思いながら、目を開ける。包丁の切っ先が目に飛び込んできた。

 上擦った悲鳴を上げて、咄嗟に僕に包丁を振り下ろそうとしていたおじさんの腕を掴む。自分の反射神経に、涙したくなるくらいの感謝が浮かんだ。

 けれど、おじさんの力は強く、僕が全力で彼の腕を掴んでも、包丁の動きを止めることができない。さっきまで走っていたことや年齢を考えても、僕の方が有利であるというのに。


「は。は。は。は」


 おじさんの眼球はぐんと大きくせり出している。痙攣する鼻の穴から薄い赤色が混じった鼻水が垂れ、涎と混じったそれが僕の頬にぼたぼた落ちてくる。気持ち悪かった。拭いたかったけれど、そんな余裕はどこにもない。

 手が汗で滑る。おじさんの腕がゆっくりと近付いてくる。血まみれの包丁から血が垂れる。口内に落ちてきた血を、僕はたまった唾と一緒に飲み込んだ。


「ぐうううぅ…………」


 怪物の背にいるときの恐怖と、気が変なおじさんに殺されかけている恐怖。それは比べられるものじゃないけれど、死ぬほど怖いことは、どちらも一緒だ。

 死ぬ。僕はここで殺されるのか。頭のおかしいおじさんに、ただその場にいたっていうだけの理由で、簡単に殺されるのか!


「っ、だあぁっ!」


 沸き上がった怒りが僕を突き動かす。全力を込め、僕はおじさんの腹を蹴り上げた。膨らんだおじさんの口から涎がべちゃべちゃと降りかかる。

 立ち上がって距離を取る。血走ったおじさんの目が、僕を睨み付けた。そして、おじさんは横から飛んできた触手に薙ぎ払われて吹っ飛んだ。

 怪物が鳴く。伸びた触手が、おじさんの体を捕らえようとした。

 だけどおじさんは寸前のところで触手を避ける。そのまま奇声を発し、車が行き交う交差点へと飛び込んだ。

 激しいクラクションが鳴り響く。赤信号で止まろうとしていた車がおじさんにぶつかる。それでも彼は立ち止まらず、逃げ続ける。

 その背に怒鳴り付けようとした僕は、ふと頭上が暗くなったことに気が付いて、顔を上げた。

 怪物が宙を飛んでいた。


「縺ォ縺後&縺ェ縺?o」


 大きくジャンプした怪物は、そのまま交差点の中央に着地した。着地点に止まっていた一台の車がぺしゃんこに踏み潰された。

 怪物が走る。車がおもちゃみたいに呆気なく空を舞う。

 悲鳴が上がっても怪物は一度も振り返らず、そのままおじさんを追いかけていく。信号が青になった。だけど車は、一台も動かなかった。

 ハッとして、僕は交差点の中を走る。潰れた車にいた人を必死に救助しようとしている人や、ハンドルを握って呆然としている人を視界の端にとめながら、まっすぐ走る。


「すみません、通ります、すみませんっ」


 口から出る『すみません』が、どういう意味で言ったすみませんなのかは僕自身にも分からない。


 怪物は案外すぐ見つかった。十字路で、ぐるぐる首を回して唸り声を上げている。男を見失ったようだ。肩に乗っているチョコも、どこだどこだと言いながら同じように首をぐるぐると回していた。

 僕は振り返った。大きな赤い足跡が道路に点々と付いている。怪物の足にべっとりと付いている血の跡だ。それから周囲を見た僕は、近くの建物に目をとめた。

 小さな会社の建物だった。その裏口へ続く道に、濡れた足跡が点々と付いている。近付いた僕は頷いた。足跡の隣に小さな血の跡が付いていた。


 ガシャンと物音がして僕は振り向いた。怪物が門のところに頭をつっかえて、バタバタと暴れていた。こちらにやってこようとしてつっかえてしまったのだろう。馬鹿だなありすちゃんは、とチョコがその肩の上で笑っている。怪物は何度も頭を引っこ抜こうとして、失敗していた。

 サイレンの音がどこからか聞こえる。

 警察がやってきたら、どうなるだろうか。

 包丁を持った不審者も重大だが、それ以上に未知の怪物に目がいってしまうことは明らかだ。怪物もまたあのときのように暴れるだろう。その間におじさんが逃げてしまうかもしれない。包丁で新たな犠牲者が出るかもしれない。


「……………………」


 僕は拳を握って裏口へと走った。鍵は開いている。おじさんが近くにいないことを確認して、僕は素早く中に入った。

 入ってすぐ階段がある。上から、微かな人の声が聞こえてきた。おそるおそる階段をのぼる。廊下の一番手前にある部屋から、仕事をする人の声や、コピー機の音が聞こえてきた。どうやらこの建物に不審者が入ったことには誰も気が付いていないようだった。

 逃げてくださいと伝えよう。そう思い扉に手をかけた。そのとき。廊下の奥から、ガタンと大きな音がした。

 総毛立つ思いがした。指先がビリビリと緊張に震える。僕は今開けようとした部屋と、音が聞こえた方を交互に見て、そっと廊下の奥へと向かった。


 行けば、廊下の左右にいくつかの部屋があった。一番奥にあるのは非常口と書かれた扉だ。その下に脱げた靴が一足転がっている。その先に行ったのだろうか。

 向かおうとした僕は、ふと途中で足を止めた。横にある部屋から不思議な香りがしたからだ。

 見れば扉が薄く開いている。そこから香るのは、野菜のような青臭さ。雑草のような。スパイス、茶葉?

 何故だか妙にそのにおいが気になった。少しだけ覗いてみよう、と扉をそっと開けた僕の目を、オレンジ色の光が焼いた。


「うわ」


 部屋の中にはたくさんの植物が置かれていた。

 カーテンが閉め切られた部屋いっぱいに、バケツに入った植物が並んでいる。オレンジ色のライトが植物を明るく照らしていた。

 部屋の中は不思議な香りで満ちていた。植物の多さに圧倒され、僕は瞬きをしてぽかんと口を開ける。植物関連の会社なのかもしれない。花屋さんに品物として渡すような、そんな感じの。

 部屋一面の緑に意識を持っていかれた僕は、後ろの植物の葉がカサリと揺れた音に何も思わなかった。窓が閉まっているのだから風なんか吹くわけがないと、そう気が付いた瞬間、頭から血の気が引いた。


「ギャ――――ッ」

「うわあぁ――――!」


 扉の影から飛び出してきたおじさんが僕に包丁を振り下ろす。咄嗟に後ろに下がったけれど、切っ先がパーカーの端を引っ掻いて、布が長く裂けた。

 僕は絶叫しながら部屋の隅へと逃げる。植物の入っていたバケツを持ち上げ、男に投げ付けた。

 なんだ、という声が聞こえ、叫び声を聞いた会社の人達が集まってくる。僕はバケツを持ち上げたまま言った。


「逃げて! そいつ、包丁を持ってます!」


 咄嗟に言えたのはそんな台詞だ。

 彼らは包丁を持つおじさんを見た。僕は、彼らが悲鳴を上げて逃げると思っていた。だがその先頭にいた社長らしき男性が、おじさんを見て言った。


「お前、商品に手を出したな!」

「は?」


 社長が顔を真っ赤にしておじさんに近付き、その頭を引っ叩いた。おじさんは社長を見た途端に泣きそうな顔をして、呆気なくその場に蹲ってしまう。


「何だその血は。お前は営業に行ったんだろう。まさかお客様を刺してきたわけじゃないだろうな!」

「う、うぅーっ……。すみません社長、大変申し訳ございません。ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんね。許してぇ」

「勝手に商品を使った挙句事件を起こしたのか。警察に見つかるだろ。とんだ大事を引き起こしてくれたな!」


 社長が怒鳴り、蹲ったおじさんを何度も蹴った。その間に他の人達が酷く慌てて植物をどこかに運んでいく。警察が来る、早く地下室へ。換気扇回せ換気扇。そんな言葉が飛び交った。


「おいそこのガキ。窓から離れろ」


 カーテンに手をかけていた僕はその声に飛び上がった。じわじわ背中に流れる汗を感じながら言葉通り窓から離れ、ゆっくり振り返る。いつの間にか社長が取り出していたものを見て、ぶわぁと全身の毛穴が広がった。

 銃だ。銃口がこちらを、僕を、狙っている。


「誰だ」

「い、い、いせみ。伊瀬。み、湊。です」

「どこから入った。警察の仲間か」

「ちが。僕は……その人を追って……、き、危険だと、思って」


 舌がもつれる。言葉が出てこなくて、結局意味が分からない言葉しか出てこない。社長の苛立ちが銃口を震わせ、僕は恐怖に涙を浮かべた。

 おじさんがこの会社の社員であること。そして、この会社が健全な会社ではないことに、僕はようやく気が付いた。

 この部屋いっぱいの植物が大麻であると。ようやく気が付いた。


「お前ここのことを誰かに言うだろ」

「だ! 誰にも言いません! 僕は何も見ていません!」

「じゃあそのカメラは何だ」


 ヒュ、と息を呑んだ。首に下げたカメラを強く掴んだ。

 今日一日僕はずっとこのカメラを持っていた。ちょっとした目的があったから。だけど結局これを使うことはなく、僕自身すっかり忘れていた。

 薄くなっていたカメラの存在感が、今ずっしりと重く僕にのしかかる。


「それを渡せ」

「え…………」

「渡せっつってんだよ」


 社長がこちらにやってくる。僕は立ち竦んで、カメラを握った。

 背後から爆音がして、窓ガラスが盛大に割れた。

 衝撃に部屋中にいた人間の体が吹っ飛んだ。大量のガラス片が飛び散り、入ってきた強風でバケツがゴトゴト倒れていく。

 僕は倒れたまま窓を見た。

 怪物の顔が、そこから突き出していた。


「莠コ縺後>縺」縺ア縺?」


 怪物が腕を振る。近くにいた人間が二人、壁にぺしゃりと叩き付けられた。悲鳴と共に銃声が飛ぶ。銃弾が一つ触手を撃ち抜いて、怪物が吠え、部屋の中に飛び込んだ。

 銃声が、ガラスが、悲鳴が飛ぶ。恐怖と風圧に押し潰されて、ぼくはうつ伏せになったまま震えていた。背後から悲鳴が聞こえ、びしゃりと大量の血の雨が降る。

 頭の先からつま先まで血が降りかかった。鼻を手で覆う。この空気をまともに吸った瞬間、発狂してしまうと思った。


「シャッターチャンスじゃないの?」


 いつの間にか、目の前にチョコがいた。僕のカメラをつついて、顔を覗き込んでくる。カサカサのピンクの毛が僕の頬をくすぐった。


「で、できるわけ…………」

「でも君が今日カメラを持ってきたのは、今のありすちゃんを撮りたかったからじゃないの」

「……………………」

「怪物が好きなんだろ君」


 僕は返事ができなかった。

 図星だったからだ。


 僕が今日カメラを持ってきたのは、怪物に変身した彼女が撮れないかと、そう思ったからだった。

 家を出る直前までそんな考えは浮かんでいなかった。純粋に彼女と話をして、諭してやらなければと、そう思っていた。

 でもカメラを見てふと思ってしまった。

 また。ずっと叶わないと思っていた夢を、叶える瞬間がくるんじゃないだろうか。と。

 僕は彼女の罪を責めながら。自分でも意識しない心の奥で、彼女の変身を期待していた。


 もう一度あの怪物の姿が見たいと、そう思ってしまった。


「僕は…………」

「撮りたいほど好きなのに、いざ変身すると怖がるだなんて、君もなかなか変わった子だよね。ほら、撮ろうよ、……あ、見て見て。すっごいシャッターチャンス。ビームだ」


 チョコの言葉に寒気がして、僕は勢いよく顔を上げた。オレンジ色に満ちていた部屋の中が、青く光っていた。

 怪物が、その口に青い光を蓄え始めていた。


「やめろぉ!」


 僕は絶叫する。思い出すのは、学校で暴れた彼女が放った、青いビーム。

 あんなものをこんな狭い場所で放ったら、この部屋にいる全員が死ぬ、勿論僕も。あの熱は壁だって簡単に破壊するはずだ。建物が密集している商店街にビームが飛んだら。死者はきっと前回の比ではない。

 僕は怪物に駆け寄ってその皮膚を掴んだ。黒い皮膚に手の平が触れた瞬間、ジュ、と肉を焼く音がした。

 電気が走ったような痛みに手を離す。驚いて見れば、手の平は真っ赤になっていた。青い光が流れる怪物の表皮が、ボコボコと泡立っている。


「姫乃さん!」

「縺翫@縺翫″」

「やめろ、姫乃さん!」

「縺吶k繧上h」


 怪物が大きく口を開く。青い光が、輝いた。


「――――ありすちゃん!」


 僕は植物を持ち上げ、バケツごと彼女に投げ付けた。

 口に入ったバケツに驚いた怪物は、目を丸くして口を閉じた。バキバキとバケツが割れ、怪物の喉がごくりと嚥下する。


「正気に戻れよ! 君は、魔法少女なんだろ!?」


 世界を守る魔法少女なのよ。

 君はそう言っていたじゃないか。

 決して。人を傷付けるような化け物には、なりたくなかったはずだろう。


 怪物が自分の喉を引っ掻く。閉じた口の中で青い光がボン、ボン、と小さな爆発を繰り返した。牙の間から黒煙が勢いよく吹きだす。怪物の体表の触手が、苦しそうにのたうった。

 なんとか、止めることができただろうか。

 僕は二発目のバケツを掲げていた手を、ゆっくりと下す。最大の危機を免れることができた安堵に、ほっと息を吐こうとした。

 怪物の体が激しく震えた。のたうち回っていた触手がピタリと動きをやめた。怪物の体が、一気に膨らんだ。


 怪物の体から大量の黒い液体が飛び散った。壁から天井、その場の人達から転がる植物までを黒い液体が汚す。僕が反射的に顔を守った植物にもかかって、緑の葉が真っ黒に染まった。

 天井に張り付いた黒い液体が重力に従って落ちてくる。ぼたた、とゼリーのようなそれが雨みたいに降ってくる。

 突然、肩が燃えるように熱くなった。


「あっづ!?」


 火で炙られているような痛みに飛び上がる。驚いて肩を見た僕は、服に焦げた小さな穴が開いているのに気が付いた。

 パチパチという音に手元を見る。植物の葉が黒く焦げていた。


「え?」


 端から徐々に黒い焦げが広がっていく。焼けた葉はボロボロになって、僕の足元に落ちていく。葉から垂れた黒い液体が靴に落ちた。生地にジュ、と穴が開いて、肌にさっきと同じ痛みを感じる。

 怪物の体液って床も溶かすんだ。と、とろけていく床を見ながら、僕は唇を引き攣らせた。


「あああああああ」


 大勢の悲鳴が爆発した。

 部屋にいた人間が。この会社の人達が、苦痛の悲鳴をあげていた。顔や腕や腹を押さえ、悲鳴を上げて倒れていく。

 僕にかかるはずだった液体の大半を受け取った植物が、ぐずぐずに焼け溶けて異臭を放つ。震える手からバケツが滑り落ちた。床に散らばったバケツも土も植物も、原型をとどめないくらいに溶けていた。

 くるくる踊る誰かが僕の前にやってくる。さっきまで僕を撃とうとしていた社長だった。踊っている、と思ったのは、彼が痙攣する足をもつれさせながらよたよた歩いているせいだった。

 彼は顔を押さえて呻いていた。その手から、溶けて変形した銃が落ちる。拾おうとしたのか、力が抜けたのか、男は顔を覆っていた手をぶらりと下げた。


「おえ゛ぇっ!」


 僕は吐いた。胃の中のものが全て床に落ちる。社長の足がよろめいて、吐瀉物の上にベチンと倒れた。それきり彼は身動ぎもしなくなった。

 僕は震えながら顔を上げる。悲鳴を上げ悶える人々の中で、怪物だけが動かなかった。その鋭い爪の先に何かが刺さっている。包丁を持ったおじさんだった。

 おじさんはまだ生きていた。バタバタと手を揺らし、片方しか靴を履いていない足を震わせ、包丁をしっちゃかめっちゃかに振り回す。釣り上げたばかりの魚に動きが似ていた。

 助けて、助けて、とおじさんが叫んでいる。


「あ、ありずちゃ」


 掠れた声で彼女の名前を呼ぶ。怪物が一瞬、こちらを見た。

 僕を見て、唇で弧を描く。

 怪物は笑っていた。


「縺医>縺」」


 おじさんが怪物の手に握り潰された。

 あまりにも呆気なく人が死んだ。





 雨が降っている。

 目の前をパトカーと救急車が通り過ぎていく。

 怪我人だらけの商店街に戻った僕は、壊れた店の段差に腰かけて、救急車に乗せられていく怪我人をぼうっと見つめていた。

 救急隊員が、大丈夫ですか、と話しかけてくる。頷きを返せば比較的軽傷と判断されたらしく、その人はまた違う人に声をかけにいく。血まみれのパーカーも、この惨状の中ではちっとも目立たなかった。

 雨が前髪からしたたる。叩き付ける雨が、僕の血を洗い流す。不意に顔に影がかかって、隣に誰かが座った。


「傘を差さないと、濡れちゃうわ」

「……………………」


 チョコを腕に抱えた彼女が僕に微笑んだ。僕は何も言わず、その顔を見つめる。

 優しい笑顔を浮かべている彼女の後ろに、救急車が何台も止まっているのが見える。運び込まれるタンカに、泣き叫ぶ人が、暴れている人が、何も言わない人が乗って走り去る。

 パトカーがどこかへ飛んでいく。あの建物に向かうのだろうか。あの部屋の惨劇は、ニュースでどう報道されるのだろうかと、そんなことを考えた。


「ありすちゃん」

「わぁ。私のこと、ありすちゃんって呼んでくれるのね!」

「君は今日、何をした?」

「今日? えーっと、あなたとデートをして。それから、そう。悪いことをした人を追いかけたわ」

「それで?」

「可愛い魔法少女に変身した!」


 彼女は満面の笑顔を浮かべた。太陽みたいに眩しい笑顔だった。

 僕は笑った。それしかできなかった。

 あ、と不意に彼女が声を上げる。自分の手を見て、悲しそうな顔をする。


「指輪壊れちゃった」


 彼女の薬指にはまっていた指輪はいつの間にか千切れて、壊れていた。

 土砂降りの雨はちっともやみそうにない。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る