第5話 土砂降りデート

 デート日和の素敵な土砂降りだった。

 レースをあしらったお気に入りの傘に雨粒が当たり、布を滑って滴る。

 タイルを叩くパンプスの爪先に雨粒が一つ落ちた。ふと足を止め顔を上げる。商店街の服屋さんのショーウィンドウに映る、自分の姿を見た。

 お砂糖で作ったみたいな、白くて甘いブラウスと、素敵なピンク色のスカート。くるりとその場で一回転して、私は呟いた。


「デートってこういう服でいいのかしら」


 ほぅ、と息を吐いて頬に手を当てる。吐息は熱っぽく、頬も焼きリンゴのようにぽてぽてあたたかかった。


「なんだかとってもドキドキするの。どうしてだか分かる、チョコ?」

「不整脈かな」

「そうよ。男の子とお出かけなんてはじめてだから、緊張しているの」


 私は腕に抱えたチョコをぎゅうっと強く抱き締めて、大きな水たまりをジャンプで飛び越えた。


 君と話がしたい。

 そう彼に言われたのは、彼が退院するときのこと、目覚めた彼と私がお話しした日の昼のことだった。

 私と彼はどうやら軽傷のようで、その日のうちに退院が決まっていた。あの後彼は私がいくら話しかけてもぼんやりとカメラをいじるばかりで何も答えてはくれなかった。ようやく口を開いてくれたのは彼が病院を出るときのこと。荷物をまとめながら、彼は固い声で私にそう言ったのだ。

 今度、会えないかな。君とちゃんと話がしたいんだ。

 まあ、デートのお誘い? 嬉しいわ。

 ただ話がしたいだけだよ。

 そう言って窓を開けた彼の黒い髪が、ふわふわと風に揺れていた光景を思い出す。流れた風が部屋の中に爽やかな空気を運んできた。だけど部屋の中にこもった、血と薬品が混ざったような臭いは、なかなか消えてくれなかったっけ。

 彼と約束した日はそれから数日後のこと。今日だ。


 駅の西口を出てすぐの場所に広場がある。裸の女性の銅像の下で、傘を差した人々が恋人や友人と待ち合わせをしていた。

 傘で顔が隠れて誰が誰だか分からない。けれど私はそのうちの一人を見かけると、笑顔で駆け寄って肩を叩いた。


「待たせちゃったかしら?」

「…………今来たところだよ」


 首からカメラを下げていたその人は、溜息を吐くような声で言って傘を上げた。隠れていた顔が私を見下ろして、微かな微笑みを浮かべた。

 恋人みたいな会話だと思った。弾む思いのままに、私は彼に一歩近付いてその顔を覗き込む。すると彼は驚いたように肩を強張らせ、一歩後退って私から顔を背けた。


「じゃあ早速、デートをしましょうか」

「そうだね。デートじゃなくて、ちょっとお話しがしたいだけだけど」

「カフェに行きましょう。オシャレなカフェは、デートの定番だってママが言っていたわ」

「デートじゃないけど」


 彼の指先に小指を絡ませた。彼は手を繋ぎ返さず、微笑みながら自分の傘を両手で持った。

 恥ずかしがり屋さんなのね、と私は小さく微笑んだ。



 雨音を音楽に聞く喫茶店は、とても居心地がいい。

 商店街の中の、ひっそりとした喫茶店で私達はお茶をしていた。店内には常連らしきおばちゃんが数人カウンターに座るばかり、唯一の店員であるマスターもおばちゃん達との会話に夢中で、奥の席にいる私達のことはほとんど気にかけていない。

 静かなジャズの音楽がおばちゃん達の大きな話し声に掻き消される。私と彼の会話も。

 向かいに座る彼が一口分に切ったガトーショコラを口に運ぶ。彼が着ているのは制服でも、病衣でもない。シンプルなパーカーという私服だった。


 平日の午後一時。本来ならば授業を受けている時間だけれど、私達はこの一週間学校には行っていない。他の生徒達もだ。

 校舎が壊れたことによる臨時休校は今も続いている。再開の目途は今のところ立っていない。校舎の修繕やら保護者への説明会やら……なんだかよく分からないことに先生達は大慌てみたいだった。連日ニュースで校長先生の顔を見かける。その顔は全校朝会で見るときより、随分やつれていた。

 突然の自宅待機命令。素直に従う生徒なんて一割もいなかった。ほとんどの子は休暇に大はしゃぎで、友達と街に出ては遊びまくっている。

 私もその一人。せっかくのお休みなんだからたくさん楽しいことがしたいわ。そんなことを思いながら、甘いホットココアを口に含む。


「君の名前は?」


 彼がアイスティーを飲んで言った。グラスについた水滴が細い彼の指を濡らす。

 私はココアを飲み干して、空になったマグカップをテーブルに置いた。


「私は姫乃ありす。十五歳の、世界一可愛い女の子よ」

「僕は伊瀬湊。二年生だから、君の一つ上だ」

「みーちゃんって呼んでもいいかしら?」

「はは。先輩って呼んでほしいな、姫乃さん」

「私のことはありすちゃんって呼んでちょうだい」

「…………それはちょっと恥ずかしいかな」


 ええ、と私は頬を膨らませる。湊先輩は小さく肩を竦めて苦笑した。


「それで。今日僕が君を呼んだのは、君に言いたいことがあるからだ」

「ふふ、このショートケーキとってもおいしいわ。一口いかが? あーん」

「いらないよ」

「それじゃあチョコは? ケーキ食べる?」

「わぁい。ぼく、甘いのだぁいすき!」


 鞄から飛び出したチョコがテーブルに飛び上がった。その瞬間、湊先輩は椅子ごと思いっきり後ろに下がり、壁に後頭部をぶつけた。

 後頭部を押さえながら先輩は目を見開く。口中を生クリームでベタベタにしてケーキを頬張るチョコを、震える指で指差した。


「や、やっぱり。悪夢じゃないんだ。ぬいぐるみが動いてる……」

「まだ言うのかい?」

「…………大丈夫だ。何日もかけてイメージトレーニングをしたんだ。大丈夫。これはぬいぐるみに見える生き物。ちょっと新種なだけ。可愛い喋る生き物。わあかわい…………うっ。ぬいぐるみの感触なのに、なまあたたか……う。でかいネズミみたいで、うわあぁ…………」


 先輩はぶつぶつ言いながらチョコを抱き上げ、すぐにテーブルに下ろした。ぶつぶつと腕に鳥肌がたっている。

 彼は項垂れる。顔を覆う手の隙間から、深い溜息が零れた。しばらくの沈黙の後、彼は意を決した様子で顔を上げて、私に言った。


「君は、一体何者なんだ」


 窓ガラスを雨が叩く。パンプスの爪先で床をなぞれば、薄い水の跡がそこにつく。まだ乾ききってはいないのだ。

 私は困って首を傾げた。髪の先端が肩に乗る。お気に入りのバニラの香水が甘く香った。


「何者だって言われても。私はただの魔法少女よ」

「ただの魔法少女? ……はは。本気で言っているのか君は。自分を人間だと思っているんだな」

「どういうことかしら?」

「確かに君は変身したさ。でもね」


 彼は私にカメラを突き付けた。撮られた写真が大きく表示されている。

 そこには、学校で暴■る■■が写っていた。


「…………?」

「僕は今日君とデートをしにきたわけじゃない。君の話が聞きたかった。そして、君を止めたいんだ」

「……………………」

「十八人だ。十八人が死んだ。君が殺したんだ。■■に変身して暴れたせいで。そのことを君は分かっているのか? そうやって頭がおかしいフリをして、逃げるのはやめてくれ。ちゃんと向き合わなくちゃ。君は鬲疲ウ募ー大・ウに変身なんかしちゃいない。諤ェ迚ゥに変身したんだ」


 私は微笑んでカップを持ち上げた。湯気をたてるココアが茶色い水面を揺らしている。カップに口を付けようとして、そういえばさっき飲み干していた気がするわともう一度カップを見れば、そこには何も入っていなかった。

 湊先輩の声にときどきノイズが走る。彼の飲んでいるアイスティーが緑色に変わる。先輩の声は徐々に聞こえなくなっていく。彼の声が砂漠の砂を鍋で沸騰させたように、ザラリ、ゴポゴポと泡立った。


「自首しよう。僕もついていくから。話を信じてもらうことは難しいかもしれないけれど、実際に怪物の存在はニュースで皆が知っているんだから。あれが君の変身した姿だという証拠も僕は持っている。ほら、この写真。半分は黒い怪■の姿だ■ど、もう半■■分はキ縺阪∩ミだろう。真ん中が溶■■■くっついている。君が■■■に■■という■■■も■■■■■■■■。■■■■■■。■■…………だ、大丈夫?」

「なぁに?」


 グラス、と彼は指を差す。ふと私は自分が水を飲もうとして、グラスの中身を全て服に注いでいたことに気が付いた。

 先輩が立ち上がる。マスターがようやくこちらに気が付いて、慌ててタオルを持ってくる。


「大丈夫ですかお客様?」

「ええ。平気よ、ありがとう」

「もう数枚タオルを持ってまいりますね。早く乾かさないと、お寒いでしょう」

「ぼくが拭いてあげ」

「あーっと。すみません、お気遣いどうも!」


 立ち上がりかけたチョコの頭を先輩が鷲掴みにして、ゴシゴシと私の服をチョコで拭いた。いやどうもと視線を泳がせて、彼はチョコを私の膝にぎゅうぎゅうと押し付けた。

 マスターから新しいタオルを受け取って湊先輩は私にそれを渡す。解放されたチョコは、酷いじゃないか! と可愛く唇を尖らせて、テーブルの上に座った。


「口の生クリームが取れて、お顔が綺麗になったわね、チョコ」

「ありすちゃん。もう一度よく見てごらん、この写真。君には何が見える?」


 チョコの言葉に私はもう一度写真を見た。落ち着いて見れば、そこに何が写っているのかだんだんと脳が理解する。

 学校で暴れる…………怪物。

 と、それと戦う、魔法少女の、私。

 悲鳴を上げそうになった。咄嗟に口を押えて、悲鳴を呑み込む。指先を震わせて、私は涙を両目に浮かべた。


「こ、怖いわ。この怪物は何? 私、これと戦っていたの? 恐ろしいわ……」


 恐怖に涙が零れた。縋るように先輩を見れば、彼は怪訝そうに眉間にしわを寄せて私を見つめている。


「こんなに怖い怪物が暴れて……ああ、だから学校がボロボロになっちゃったの? 私はこんな恐ろしいものと戦っていたのね。ほら、この写真。私が怪物と戦っている。きっととても怖かったのよ。戦っているときの記憶がないわ」

「い、いや……怪物は僕にも見えるけれど、魔法少女なんて。君が指差しているところには何も写ってない……」

「ありすちゃんは夢見る子なんだ」


 チョコが言った。ぐっしょりと濡れたピンクの毛が、テーブルにぽたぽたと水滴を落とす。

 チョコの濡れた手が先輩の手を掴んだ。先輩の肩が強張った。


「記憶は都合よく改変される。実際に目にした光景も、彼女の脳味噌に届くまでの間に魔法の力が働いて、違う光景に映る。彼女の持つ能力『夢見る力』だよ」

「本当に精神病じゃないかっ」


 湊先輩が力強く私の手を掴んだ。彼の手は熱かった。痛いくらいの力強さに私は彼を見つめる。真剣な眼差しが私を見つめているものだから、ドキリと胸が震えた。


「病院に行こう」

「病院?」

「ああ。そもそも人間が怪■に変身するなんておかしな話なんだ。体のどこかが壊れているとか、未知の生命体に寄生されたとか、それで精神がおかしくなってしまったのかもしれないし……」


 とにかく一度検査してもらおう、と彼は言う。


「結果によっては情状酌量の余地があると認めてもらえるかもしれない。僕だって君を殺人犯として責めたいわけじゃない。ただ罪を認識してほしいからってだけで、本当はこんなことをするのも心苦しいんだ」

「病院って注射をさしたりするんでしょう? 行ったことがないからよく分からないけれど。痛いのは嫌よ」

「行ったことがない? 病院に? 一度も風邪を引いたりしなかったのか」

「いつも元気な子だってママが褒めてくれたわ」

「……素敵な体をお持ちのようで」


 先輩は肩を落として長い溜息を吐いた。私の手を握る手が、少し震えていた。

 彼はもう片方の手で、ショートケーキが乗っていた皿を舐めるチョコの頭を掴んだ。かけら一つ落ちていない綺麗になった皿を抱えて、チョコが彼に振り返る。

 お前もだぞ、と湊先輩は低い声で言った。チョコは無邪気な子供っぽい顔で笑った。


「病院は後でもいいじゃない。それよりデートを楽しみましょうよ。ねえ、これからどこに行く?」


 私は微笑んで彼の手を握り返す。顔を上げた彼は、乾いた笑顔を浮かべた。


「だから、デートじゃないけどね」





「おおおおおお! 死ね、死ね、全員死ね!」


 飛び出す弾丸がゾンビを粉々にしていく。体をまるごと使って銃を操作しているチョコは、口から唾を飛ばして叫び続けていた。

 ラスボスを倒した途端GAME CLEARという文字が画面に流れた。スコアが表示され、ランキング一位、という金色の文字が躍る。私とチョコは飛び上がって両手を上げて喜びの声を上げた。


「やったあ! 一番よ。チョコ凄い!」

「うおおおお! うおおおおお!」

「うるさっ……ちょ、静かにして…………」


 キャッキャとはしゃぎながら箱型のホラーゲームから出た私とチョコは、次は何のゲームをしましょうかと店内を見て言った。

 クレーンゲーム、アーケードゲーム、プリクラ。ゲームがいっぱい並んだ店内は耳がいたくなるくらいうるさくて、とっても面白かった。

 特に一番喜んでいるのはチョコだ。さっきから私の腕の中で、あれがやりたい、これがやりたいとゲームをプレイしては高い得点を叩き出して叫んでいる。

 私はクレーンゲームの前で足を止めた。ボールプールに乗ったもふもふのぬいぐるみが、とても可愛かったのだ。隣にきた先輩もそれを見る。灰色の鳥さんみたいな仮面と黒いシルクハットをかぶって、ローブで体をおおったぬいぐるみ。


「面白いぬいぐるみだね。ええと、なんだっけあの仮面。ペストマスクってやつだったっけ」

「とっても可愛いぬいぐるみね!」


 可愛いかな、と苦笑して先輩がお金を投入する。けれど三回やってもぬいぐるみはすぐアームから落ちてしまう。私も挑戦してみたけれど、全然うまくいかない。


「ダメだなぁ、コツがあるんだよ、こういうのは」


 チョコが先輩から百円をもらい、ボタンを押す。アームが上手い具合に箱に引っかかり、あっさりとぬいぐるみは取り出し口に落ちてきた。

 凄い、と私と湊先輩の声が揃う。ガハハ、とチョコは笑って、取り出したぬいぐるみの背中をバシバシと叩いた。

 ゲームが昔から大好きなんだ、とチョコは言った。それから思い出したように、えへへ、と可愛い声で笑った。


「ねえ、皆でプリクラを撮りましょうよ!」


 プリクラコーナーにはあまり人がいなかった。ちょうどいいわ、と私は一番最初に目に付いた箱の中に先輩を押し込む。

 撮影人数やモードを選ぶ私の後ろで、先輩とチョコは落ち着かない様子で天井や緑の壁を眺めていた。慣れていないのだろう。撮影のときも二人はあわあわしながらポーズを決めるものだから、可笑しくて笑ってしまった。


「うわ、顔が小さい。肌が白くてツヤツヤだ。最近のプリクラって凄いな」

「メイクだってできるのよ。ほら……ね、赤い口紅がとっても素敵よ!」

「ん、ふふっ。待って僕の顔やばい。流石慣れてるね。友達とよく撮るんだ?」

「いつも一人で撮っているわ」

「凄いな」

「クラスの子、皆忙しいみたいでなかなか一緒に遊べないの。話しかけても、用事があるからってどこかに行っちゃうの」


 夏休みになったら遊べるといいわ、と言って私は彼の頬にスタンプを押した。

 湊先輩は言葉を止めて、カカカカと画面いっぱいにスタンプの落書きをしているチョコを見下ろした。


「ところで。チョコのことだけど、人前でお喋りしたり動いたりするのはやめた方がいいんじゃないか」


 私とチョコは揃って彼を見る。だって、と少し言葉をもごつかせながら彼は言う。


「ぬいぐるみが喋るなんておかしいだろ。今日だって、人の少ない喫茶店やゲームセンターにいるから、それに僕や君の体で上手く隠せているからまだ気付かれていないだけだ。バレたら絶対にパニックになる」

「でもチョコは妖精さんよ。妖精さんならお喋りができたって、変じゃないわ」

「……君が好きな魔法少女のアニメだって、妖精さんは周りに気が付かれないように頑張っていただろう」


 彼の言葉にハッとする。私が毎日のように見ている魔法少女のアニメでは、確かに妖精さんは周りの子達に気が付かれないように、ぬいぐるみのフリをして誤魔化していたっけ。

 私はチョコを見下ろして、真面目な顔で言う。


「チョコ。あなたがお喋りできるってことは、私達だけの秘密よ。絶対にバレないように、他の人の前ではぬいぐるみのフリをして動かないで」

「えぇー、面倒だなぁ」

「息もしちゃ駄目」

「酷なことだなぁ」


 それは許してあげて、と先輩が言うから、私は仕方なくチョコに呼吸の許可を出してあげる。チョコは明らかにガッカリした様子で肩を落とした。


「プリクラ、そろそろ出てくるかしら」


 落書きコーナーを出て、取り出し口から出てきたプリクラを彼に渡す。顔が小さく、肌も白く綺麗になった私は、いつもの可愛さが更に倍増している。

 カップルみたい、と私はプリクラを見つめて笑った。先輩もちょっと笑って、プリクラを鞄にしまった。


「次はお洋服が見たいわ。新しい靴も欲しいし、バッグも見たいの」


 私達は商店街を歩く。通りの左右にあるお店を見て、店頭に並ぶお洋服や靴を見てはその生地に触れて手触りやデザインを楽しむ。

 どれもとても素敵なお洋服だった。おばさま向けのヒョウ柄のシャツは見ていて面白い。老店の作業着は大きくて重くて、触るのが楽しい。

 数メートルを進むだけでも十分以上がかかっている。私はふと振り返って、湊先輩がぼんやりとした顔で空を見つめていることに気が付いた。


「つまらない?」

「あっ、いや、そんなことはないよ」

「だってパパと同じ顔をしているんだもの。家族でおでかけするとき、パパはいつもそんな顔をしているのよ」

「ごめん。気にしないで。好きな所を好きなだけ見なよ」


 彼はニコニコと笑いながら言った。そう、と頷いて隣の店に入ろうとしたとき、ふと彼の視線が一瞬違う方向に向けられたことに気が付く。

 つられて見れば、そちらにあったのは小さなおもちゃ屋さんだった。青い蛍光灯が光る店内に、ギュウギュウにおもちゃが並んでいるのがここからも見える。


「あっちに行きましょう」

「えっ」


 私はくるりと方向を変え、おもちゃ屋さんの方に向かう。迷うことなく店内に入った私を慌てて先輩も追ってきた。


「おもちゃが見たいの? 服じゃなかったの」

「だって、あなたが気になってたみたいだから」

「い、いいよ。君の好きそうなものはないだろう」


 おもちゃ屋さんと言っても並んでいるおもちゃはプラモデルやモデルガンばかりで、私が好きな魔法少女のステッキやおままごとセットなんてものは置いてなさそうだった。確かにつまらないわ、と私は言う。カウンターで新聞を読んでいた店主らしき男性が大きく咳払いをした。

 でも、と私は店内の一角を見る。戦隊ヒーローのフィギュアの横に、ずらりと並ぶ怪物のフィギュア。さっきから湊先輩の視線がそちらに集中しているのなんて、誰が見ても分かることだった。


「デートって、二人で楽しむものでしょう?」


 湊先輩の肩を押す。戸惑った表情だった先輩の顔が、ぎこちなくはにかんだ。

 ありがとう、と小さな声で先輩が言った。私は何も言わず、胸に浮かぶ喜びに笑みを浮かべた。



「買いすぎた」


 店から出たとき、湊先輩は両手にどっさりと大荷物を下げていた。

 おもちゃ屋さんでの彼のはしゃぎっぷりといったら。思い出すだけで微笑ましさに笑ってしまう。目をキラキラ輝かせて値段も見ずにカゴにおもちゃをつっこんで、財布の大半のお金がなくなったというのに満面の笑顔を浮かべていたのだから。

 うふふ、と私とチョコの笑い声が重なる。先輩は顔を真っ赤にして、恥ずかしそうにそっぽを向いた。

 彼の次は私の番だ。商店街の端の方に、可愛いお洋服屋さんがある。

 虹色パステルカラーのTシャツや、フリルたっぷりのワンピースが可愛くて、私はたくさんお洋服を持って試着室に入る。


「お姫様みたい、素敵! とっても可愛い。私に似合っているかしら?」


 お似合いです、と紫色の髪をした店員さんが甘い声で褒めてくれる。私は嬉しくなってたくさんお洋服をカゴに入れた。

 お会計をしているときにふと視線が横にいった。そこに置かれている指輪を見て、可愛い、と声を上げる。ハートの宝石が付いた小さな指輪に私は目を奪われてしまった。


「一昨日入荷したばかりの新作なんですよ。可愛いでしょ。付けてみます?」

「…………わぁ、ピッタリ。とても綺麗な宝石ね」

「お買いになります?」


 ううん、と私は唇を尖らせる。指輪の値段はほんの数千円。だけど服を買いすぎたせいで、財布にはもう指輪を買うだけの余裕は残っていなかった。

 お洋服を少し諦めようかしら。でも、全部可愛くて諦めきれないわ。残念だけど、今度ママとお出かけしたときに買ってもらいましょう。


「これもください」


 横から伸びた手が、トレーにお金を置いた。私は驚いて横に立つ湊先輩を見る。彼は少し照れたように微笑んだ。


「さっき僕の買い物に付き合ってくれたお礼だよ」

「素敵な彼氏さんですね!」

「あ、そういうんじゃないです」


 店員さんの言葉に彼は勢いよく首を横に振った。

 私は嬉しくて、指輪をギュッと握り締めて目を閉じた。

 学校が始まったら。早速これを付けて登校しようかしら、と思う。




 楽しい時間はあっという間にすぎるものだ。

 商店街の時計が示す時刻は午後六時。シンデレラよりも子供の私は、ずっと早い時間にお家に帰らなければ、ママが心配しちゃう。

 土砂降りはまだやまない。傘に叩き付ける雨は、朝よりもずっと酷くなっていた。


「今日はとても楽しかったわ」

「そうだね。僕も楽しかったよ」

「また遊びましょうね。次はどこに行こうかしら」

「…………それで、さ。最初にした話を覚えてる?」


 私は傘をあげて横を見た。同じく傘をあげてこちらを見る彼と、視線が合う。

 空は曇天のせいで暗い。彼の顔は影にかかって、冷たい色をして見えた。


「最後にもう一つだけ付き合ってほしいんだ」

「もう一つって、どこに?」

「…………びょうい」


 ありすちゃん、とチョコが叫んだ。

 誰かが私の背中にぶつかった。悲鳴を上げてよろけた私に、危ない、と湊先輩が手を伸ばす。

 私達は足を絡ませて地面に倒れてしまった。地面の水で、服がびっしょりと濡れてしまう。

 傘が転がって、車のライトに照らされる。雨が直に私達に降り注ぐ。

 大丈夫? と私は下敷きになった先輩に声をかけた。全身を水たまりで濡らした彼は、大丈夫、と前髪をかきあげながら苦笑して、そしてすぐにその目を見開いた。


「姫乃さん!」


 切羽詰まった声で彼は私のブラウスを引っ張った。私は彼の手を見て固まる。彼が掴んだブラウスが真っ赤に染まっていたからだ。

 私の悲鳴が周囲に響き渡った。歩いていた人達が私を見て、怪訝な顔をする。近くの店からおじいさんが出てきて、私の血に濡れたブラウスを見て驚きの声を上げた。


「うぅっ」


 呻き声が聞こえて私達は振り返る。倒れている人がいた。私にぶつかった人だろう。

 スーツを着たサラリーマン風のおじさんだった。腕まくりをしたシャツを着たその人は、よろけながら立ち上がる。その拍子に腕に抱えていた上着が地面に落ちた。

 カラン。

 服が落ちた音ではない音が、そこから聞こえる。

 おじさんは素早く上着を拾った。だけど上手く掴めなかったのか、上着から何かが滑り落ちて、また地面に落ちる。

 それは血まみれの包丁だった。


「わぁっ、わああっ!」


 悲鳴が上がる。だけどそれは、少し離れたところから響いた悲鳴だった。

 声が聞こえた方に人だかりができていた。隙間から、そこに何があるのかが見える。

 誰かが、胸から血を流して倒れていた。


「人が刺されたぞ――――っ!」


 その絶叫を聞いた瞬間、周囲の空気が一瞬で凍り付いたのを私は気が付いた。

 時間が凍った空間の中で、おじさんだけが動く。彼はナイフを拾うと、雄叫びを上げてその場から走り去った。

 走り去る際に見えた彼のシャツは、そのお腹の部分が血でベッタリと汚れていた。


「姫乃さん、大丈夫か!?」

「あ、あ、私、あ、血が……ブラウスが…………」


 私は震える指でブラウスを握る。先輩が必死に私を呼んでいるけれど、返事をすることができなかった。

 血は雨に濡れて、じわりと白いブラウスに広がっていく。頬を流れる雨粒に私の涙が混じる。私はたまらなくなって、大きな声で叫んだ。


「このお洋服、もう着れないじゃない! お気に入りだったのに!」

「は?」


 立ち上がった私を、唖然と先輩が見上げる。私は怒りに顔を真っ赤に染めて、おじさんが立ち去った方向を睨んだ。まだ遠くに背中が見える。私は拳を握って走り出した。

 痛みはなかった。これは全部返り血だ。ぶつかったときに、血が付いてしまったのだろう。


「ちょ、ちょっと。姫乃さん? 何してるの!」

「追いかけるのよっ」

「はあぁ!?」

「弁償してもらうんだから!」


 一歩踏み出せば深い水たまりにパンプスが沈む。私は構わず、全力でおじさんを追いかけた。

 だけどどうにも距離が縮まらない。ばかりか、みるみるうちにその背中はどこかに消えてしまった。


「警察に任せなよ。無茶だって!」


 後ろから追いかけてきた先輩が、私に並走しながら叫んだ。


「人にぶつかっておいて謝りもしないなんて。一体、どんな教育を受けたのかしら!」

「刃物を持った男を追いかけるなんて、君はどういう教育を受けたのかな!」

「ああ、もうっ。このままじゃ逃げられるわ」


 私は苛立ちの声を上げて立ち止まる。そして空を見上げて、サッと手を上空に掲げた。

 湊先輩が顔色を青くする。待って、と叫びながら彼は周囲に視線を巡らせた。商店街の大通りのど真ん中。先輩は悲鳴を上げて、私を近くの狭い路地に押し込んだ。


「待って。まさかここで」

「いくわよ、チョコ!」

「待って待って待って! 嘘だろ、やめ」

「変身!」


 視界に映っていた商店街の景色が消える。眩しい光が私を包み込む。

 やめろと叫ぶ先輩の声が聞こえた。泣いているように聞こえたのは、きっと気のせいね。

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