第2話 カメラマン
僕には夢がある。
「――――いいかね伊瀬くんッ! 君にどうしても撮ってもらいたい写真があるのだよ!」
「はぁ」
僕は部長を見つめ、何故この人は普通に喋ることができないのだろうか、と考えていた。
廊下の窓から吹き込む五月の風は、肌を心地良く撫でていく。だけど部長には少々物足りないようで、白くもっちりとした腕には大粒の汗が浮かんでいた。これから更に暑くなっていくというのに、今からそんな調子で大丈夫なのだろうか。
「本日、この東京都の空に流星群が流れるという噂を聞いてね」
「流星群?」
「知らないだろう? そりゃそうだ。俺がちょっとしたルートから仕入れた情報だからね。気象庁だって知らないさ……なんでもまだNASAの一部の人間にしか情報が伝わっていないらしい。極秘情報だぞ」
「へえ。凄いですね、はは」
「我が北高校写真部長である俺みずからが撮りたいと思っていたのだが、あいにく今日は用事があってね。伊瀬くんはどうだい? 空いているかな」
「いいですよ。ちょうど暇でしたし」
「や、本当かい。ありがたい!」
「どこで撮ろうかな。夜なら、家の近くの展望台とかかな」
「この辺りだと、校庭の隅の芝生あたりがちょうどいいと思うんだ。木々が生い茂っているがね、中央はちょうど木々が開けているのさ。そこから空を撮ると、周囲の緑と空の色が絶妙な色合いをかもしだして大層見事なのだよ。空を照らす星の煌めき、美しき光の瞬き!」
部長は興奮した様子で唾を飛ばす。顔中にびっしり汗が滲み、肉に埋もれる小さな眼鏡を曇らせた。
これほどの情熱をもって写真を撮る人間は、写真部の中でも部長しかいない。他の皆はなんとなく空を撮り、友人を撮り、上手に撮れたねと微笑んで終わる。ちょっとした趣味程度の部活をしているだけだから。
暑苦しい情熱を燃やす部長のことを面倒に思う部員も多いけれど。少なくとも僕は、この人のことが嫌いじゃない。彼の情熱が羨ましくさえある。
僕にだって、彼ほどの情熱をかけて撮りたい写真があるからだ。
まあその写真は、永遠に撮ることができない写真なのだけど。
「学校? 何時ぐらいに流れるんですか? あまり遅いと、警備員さんに帰されちゃうけど」
「案ずるな。大体夕刻、逢魔が時の空に星が泳ぐ、と聞いているよ」
夕方。まだ空も明るいだろう時間帯だが、星など見えるのだろうか。そう思いながらも僕は分かりましたと頷いた。部長は熱が入ると人の話をあまり聞かなくなるから。
校庭の隅。部長に教えられた場所に行き、芝に腰を下ろした。
周囲に木々は生い茂っているが、ちょうど中央のところが開けている。丸く切り取られた空にカメラを構え一枚写真を撮ると、木の葉の緑に夕焼けの赤が透き通る、なかなか雰囲気のある写真が撮れた。部長の言う通りだ。
校庭で部活をしている運動部をぼーっと眺め時間を潰す。たまに首から下げたカメラを向けて、走る彼らの姿を撮る。
動く被写体を撮るのは難しい。だが長年練習してきた僕は慣れている。撮れた写真は、躍動感にあふれた、青春を感じさせる一枚になった。
「人間を撮るのも好きだけどね」
僕は小さく呟いて溜息を吐いた。カメラの過去データを見返していく。生き物を撮るのが特に好きだ。友人や、散歩中に見かけた猫や犬や、動物園に行って撮った猛獣とか。
だけど本当はもっと違う生き物が撮りたいと思っている。
そう。もっと巨大で、獰猛で、迫力のある……。
「もう少しかな」
空が紫色に染まってきた。夜は近い。校庭の陸上部も片付けを始めている。
カメラを空に構えた。星が流れる前にもう一度、空を撮っておこうかと。
と、不意に背後から草を踏む音がして、僕はカメラを構えたまま振り向いた。
レンズいっぱいに巨大な目玉が映った。
「ヒュッ」
「なにを撮っているの?」
喉から奇妙な悲鳴を放ち、僕はそのまま仰け反って芝生に後頭部を打った。無様な僕を、ぬいぐるみを抱えた女の子が不思議そうな顔で見下ろしている。
いつの間にいたのだろう。そこには一人の女の子がいた。
僕の傍にしゃがみ込んだ彼女は、そのまま顔を覗き込んでくる。驚きにバクバクと跳ねていた心臓をなだめ、まじまじと彼女を見つめ返した。
そうするうち、僕はその子が一年生の生徒であることに気が付いた。リボンの色が一年生の指定色である赤色だったからだ。
一つ下か、とよれた青いネクタイを直しながら思う。
「なにを撮っているの?」
「…………空を撮っているんだ」
「どんな写真?」
僕は起き上がってカメラを彼女に見せた。
画面に表示されていく過去のデータを、隣に座った彼女がのぞき込む。髪の毛先が僕の頬をくすぐるくらい、距離が近かった。彼女は腕に抱えているピンクのぬいぐるみにも画面を見せるように、その体を持ち上げた。
晴れ渡った青空や、仄暗い薄曇りの空、星が輝く夜空が小さな画面に表示されていく。
彼女は凄いわ、と目を丸くして大きな声を弾ませた。
「とっても綺麗! あなた、写真を撮るのが上手なのね。空の専門家さん?」
「空以外も撮っているよ。ほら、こっちは校舎裏によく来る猫の写真。これは掃除した後のプールの写真で……」
勿論上手く撮れた写真だけでなく失敗した写真も多い。しかしどの写真を見ても彼女は純粋な声で、すごいわと褒めてくれた。
キャンディーのように甘く弾む声。おひさまのように眩しく輝く笑顔。
僕は彼女の横顔を見つめ、微笑みながら思った。
…………いや、この子誰だよ。
無言で彼女を見つめる。
肩にかかるセミロングのボブヘアーは、何とも驚くピンク色をしている。腕に抱えている小さな猫サイズのぬいぐるみも、少しくすんではいるが同じピンク色だ。学生鞄に下げて許されるレベルの大きさではない。というか何のぬいぐるみなんだろう。猫、いや犬? クマ? 長年の劣化か作り手の腕前なのか、溶けたモンスターのようにしか見えないそれは、お世辞にも可愛いとは言えなかった。
ぬいぐるみを抱えたピンク髪の女の子。こんな奇抜な姿の子、知り合いにはいないはずだ。
僕はさり気なく彼女から身を引いた。距離が近い。物理的にも、精神的にも。初対面の相手にこうもずいずい食い込んでくるものだろうか。
奇抜な容貌のせいもあるのだろう。何となく、この女の子に対して忌避感を抱いている自分がいることに僕は気が付いた。
適当に言い訳をして場所を変えようか。
思案していると、不意に彼女が言う。
「あなたこういう怪物が好きなの?」
ハッと僕は顔を上げる。彼女は一枚の写真を見ていた。
数日前に僕が撮ったフィギュアの写真だった。
彼女がついついと指を動かし他の写真も見ていくと、その怪物を撮った写真は随分……いやかなり量が多いことは一目瞭然だ。空や人間の写真が数枚程度なのに対して、その写真は十枚を軽く超えている。
ぶわ、と腕の毛穴が開く。一気に顔に血が溜まって、心臓が跳ねる。
それは巨大な羞恥によるものだ。
「このおもちゃを撮った写真、たくさんだわ。それに、他の怪物のおもちゃを撮ってる写真もいっぱい」
「あっ、や、それは」
「あなたが撮ったんでしょ? 違うの?」
「ちが、くないけど…………え、と」
どんどん顔が熱くなる。僕は狼狽えて、あらゆる方向に視線を泳がせた。
ただ一言、写真の練習だよ、とでも言えば良かったのかもしれない。だけど僕がここまで狼狽えているのは、「怪物が好きなの?」という彼女の言葉のせいだ。
僕は怪物が大好きだ。
幼い子がティラノサウルスに憧れるような、あの眩しい憧れ、情熱。そんな気持ちが高校生になったいまだ僕の胸にある。
今でもテレビで怪物が活躍する映画があれば齧り付くように見てしまうし、怪物の付録が気になって、小学生向けのヒーロー雑誌をそわそわしながらレジに持っていったこともある。
「はは…………子供っぽいだろ?」
僕はそれが恥ずかしかった。
高校生にもなってまだそんなのが好きなの?
そうクラスメートに言われたのは、ついこの間のことだ。
雑談の延長だった。話の流れの中で僕が怪物が好きだと話したとき。友人にそう言われたのだ。
別にいいだろと僕は答えて、ちょっとだけからかわれて、その話題自体数分ももたずに次の話題に移った、その程度の出来事。
だけど。そのときに浮かんだ微かな羞恥はまだ僕の心にくすぶっていた。
その思い出が今またよみがえり、僕はこれほどまでに狼狽えているのだ。
高校生にもなって子供っぽい、恥ずかしい。そう思われているんじゃないか。
僕は顔色を窺うように、写真を見つめる彼女を見た。
「素敵ね」
彼女はそう言った。
「とても魅力的な写真だわ。あなたの、このおもちゃが大好き! って気持ちがとっても伝わってくる」
ねえチョコ、見て。と彼女はぬいぐるみに話しかけるように言った。写真を見つめる大きな目は、キラキラと光を放って輝いている。
素敵、と何度も彼女は言った。聞かずとも、その言葉が本心から言った言葉なのだと、理解できた。
「あ、ありがとう」
ぽかんと惚けた声を出せば、心に渦巻いていたモヤが晴れていく。緊張に握り締めていた拳をゆるく開けば、汗ばんでいた手の平に風が通って、涼しかった。
僕はカメラを見て、彼女を見て、離していた体をまた彼女に近付けた。
「……好きなんだ、怪物。惹かれちゃうんだ。子供のときからずっと好きだった」
「怪物とかモンスターとかって、大きくて強くて、かっこいいものね」
「…………うん。かっこいいよ」
僕が情熱をかけて撮りたい写真。それは怪物の写真だ。
最初は子供のときに見たヒーロー物の番組。そこに出てくる怪物のおぞましさ、強さに、幼い僕の心は激しく打ち震えたのだ。
痺れるような感動が忘れられず、それからもヒーロー物や、怪物が主役のパニック映画などをいくつも見ては、怪物の圧倒的な存在に歓声をあげた。
巨大な体で、光線で、街を世界を蹂躙していく様は僕の心を酷く昂らせた。
怪物に会いにいこう。そして写真を一枚撮ってもらうんだ。
そう決めて押し入れの奥に眠っていた父の古いカメラを借り、何日も公園や原っぱに行って怪物を探した。朝から晩まで時間が許す限り。何度も門限を破っては母に叱られた。
恋焦がれていた。だから、見かねた母に「怪物はお話の中にしかいないのよ」と教えられたときはショックだった。翌日熱を出して寝込むくらいに。そんなショックを受けた息子を尻目に父は僕が撮った写真を見ながら、お前には写真の才能があるなぁ、なんて愉快そうに笑っていた。
父が言う通り、僕には写真の才能があったのかもしれない。現実を知ってからもなんとなくカメラを手に写真を撮り続けた。気が付けばそれは趣味の一つになっていて、中学生になって、高校生になって、そしてそのまま写真部に入った。
僕には夢がある。
一生かかったって叶わないことは分かっているけれど。
怪物の写真を撮ることが、僕の夢だ。
「君も写真に興味があるの?」
気恥ずかしさを誤魔化すように、僕は話題を変えて彼女に言った。カメラから顔を上げた彼女は大きなブラウンの目をパチパチと瞬かせてこちらをじっと見る。
「一年生だよね。よかったら写真部とか、どうかな? そんなに部員が多くなくてさ」
僕は、数分前まで彼女を拒絶していた自分を恥じていた。
なんだ。この子、とてもいい子じゃないか。人の気持ちを考えてくれる優しい子だ。見た目で判断するだなんて失礼なことをしてしまったな……。
もしかしたらカメラに興味があって話しかけてくれたのかもしれない。だとしたら写真部勧誘のチャンスではないか、と考える。
だけど彼女は肩を竦めて首を横に振った。
「残念だけど遠慮しておくわ。忙しくて」
「そっか。それは残念だな」
「魔法少女は多忙なの」
「うん…………ん? 魔法少女?」
「ええ、魔法少女」
僕は思わず笑った。彼女が冗談を言っていると思ったからだ。けれど、僕を見る彼女の顔は真剣そのもので、自分が浮かべている笑みが段々と強張っていくのを感じる。
彼女の顔が近付く。ふわりとピンク色の髪が揺れる。大きな目が、僕の目を覗き込む。
「私、魔法少女なの」
空はどんどん暗くなっていき、僕らの肌に冷たい影を落とす。部活中の生徒達を照らすための校庭のライトの残滓が、僕と彼女の足元をジジジと白く光らせる。手の平をくっ付けていた芝生から夕日のぬくもりは消え、乾燥した夜の冷たさをまとわせていた。
長い時間彼女は口を閉ざさなかった。
「――――だから宇宙からの侵略者にこの地球を奪わせないために、魔法少女という選ばれし存在が必要なの。星の力に目覚めた女の子が、この星を守るヒーローになるのよ。そしてその最も最初の戦士に選ばれるのが、この私なの!」
「んん……うん。そうなの…………そうなんだ」
「そうなの。お分かりかしら!」
僕はニコニコ微笑んで何度も頷いた。さっきまですぐ隣にいた彼女との距離は、間にもう一人は入れるくらいに開いていた。
つまり彼女の話を要約するとこういうことになる。
この地球は狙われている。
宇宙の遥か遠くに惑星Xという星が存在する。惑星Xは宇宙侵略を企てており、その中にはこの地球も含まれているらしい。
しかし地球も黙って侵略されるばかりではない。侵略者に対抗する力を持つ、特別な存在を生み出そうというのだ。
それが、魔法少女。
この惑星に生まれた少女達の中から選ばれた一握りが、魔法少女に変身できる力を与えられる。その力によって彼女達は変身し、この地球を守るのだ。
そしてその魔法少女に選ばれた最初の人間。
それが、今僕の隣に座っている、彼女だと言うのだ。
「……………………なるほどねぇ」
この子やばい子だ。
先週家にやって来た宗教のおばさん達を思い出す。うっかり対応に出てしまった僕に、神がどうだの信仰がどうだのマシンガンのように捲し立ててきたときのあのいやな笑顔。あの不快感。それと同様のものを今味わっている。
全身が警戒を発している。一刻も早くこの場から離れた方がいい、と心の中の僕が言っている。
チョコもそう思うわよね、なんて言いながら彼女はぬいぐるみに話しかけている。その姿さえもどうにも受け入れがたくなってしまった。
なんでぬいぐるみに話しかけているんだ。そもそも、学校に持ってくるサイズではないだろう。髪の色はどうした。高校デビューにもほどがあるぞ。校則って言葉を知ってるか?
「…………あっ。ああー、そうだ。一回部室に行かないといけないんだった。三脚を撮りに行かなきゃ」
「部室? 面白そう。私も一緒に行くわ。運ぶお手伝いしてあげる」
「えっ! いや、いいよ。僕一人で十分だから」
「だって写真部なんでしょ? いろんな写真がいっぱいありそうだもの。見てみたいわ」
遠回しに帰ってくれ、という意を込めたものの彼女にはちっとも響かなかったようだ。いきいきとした笑顔を浮かべる彼女にこっそり溜息を吐く。
部室が凄く汚くて。職員室に行く用事もあるから。など更に遠回しな言葉をかけてみても彼女はちっとも僕の真意を読み取ってはくれない。京都でぶぶ漬けを出されても笑顔で食べておかわりを要求する子だろうな、と感嘆さえ浮かんでくる。
「…………あのさ。魔法少女って言うけど。君、今ここで変身できるの?」
自分の言葉に棘が生えてきたのは分かっていたけれど、声を止めることはできなかった。
でたらめな話に、通じない会話。滲む不快感をやんわり受け流すだけの余裕を、残念ながら僕はまだ持ち合わせていない。
僕は彼女が唇を閉じ、顔を赤らめて、「いじわるね」と恥ずかしそうに立ち去っていく姿を期待していた。けれど彼女はキョトンとした顔をして、当たり前のように首を横に振った。
「まだできないわ。だって、まだ妖精さんに出会っていないもの」
「ああ……そっか。そういうアニメって、不思議な妖精に会って初めて変身できるようになるんだもんね」
「でももうすぐ妖精さんは私の元にやってくるはずよ。だって私もう高校生になったんだもの。主人公が変身できる歳はね、中学生から高校生くらいって相場が決まっているの」
そうかい、と僕は言った。突き放すような声だなと自分でも思った。
夢を馬鹿にされるのはとてもつらいことだと知っている。僕の夢を受け入れてくれた彼女のことをとても好ましいと思っていた。さっきまで。
だけど。これは何だか、そういうものとは違うんじゃないだろうか。だって彼女は本心から魔法少女になることを夢見ている。この世には本当に怪物がいて、未知の妖精が存在して、可愛い魔法を唱えれば自分は変身できると。本気で信じているのだ。
夢を見ることと、夢しか見られないということには、大きな違いがあるのに。
「妖精っていうのは、ピンチのときによく現れるものじゃなかったかい?」
「あら詳しいのね」
「僕もヒーロー物をよく見ていたからね。あれも、流れは似ているよ」
「ピンチ……。そうね、例えば学校にモンスターが現れて、拳で潰されそうになったり?」
「通り魔に刺されそうになったり、火事に巻き込まれたり、海で溺れそうになったりしてもね」
ふと、空にキラリと何かが光った。飛行機かと思ったが、また違う場所が光る。
流星群を撮りにきたんだ。と当初の目的を思い出す。早い時間から星が見えるのだろうかと思っていたが、夕方といえど空は大分暗く、流星も思っていたよりハッキリと目視することができた。
流れ星、と隣の彼女が声を上げる。女の子と二人で流れ星を見るという今の状況は青春というものなのかもしれない。彼女じゃなければドキドキしていたかもな、なんて邪険な思いを抱いてしまう。
カメラを空に構えながら、僕は笑った。
「例えばあの流れ星がこっちに降ってきたら、ピンチだよね」
シャッターを切る。レンズ越しに移る流星は結構大きく、綺麗だ。
流星は次々に流れていく。部活中の野球部が空を見上げて、星やべー、とはしゃいでいる声が聞こえた。
「流れ星にぶつかって覚醒するなんて、ちょっとロマンチックかもしれないな」
「それ、素敵ね。いい案だわ!」
「ははは…………うっ」
カメラ越しに白い光が輝いた。目を焼く光に、思わず瞼を閉じる。どこかのライトでも覗いてしまったのだろうかと目線を上げた。その瞬間、背後から凄まじい勢いでぶん殴られて、前に吹き飛んだ。
キィン。
訳も分からず地面を転がった。しばし呆然としていたものの、僕は呻き声を上げながら顔を上げて振り向いた。木が、メキメキと音を立てて倒れていくのが見える。
「は?」
何かが地面を抉って埋まり込んでいる。もうもうと立ち上がる白煙が風に揺れ、そこに埋まっている小さな石が見えた。
キィン。
黒い表面の隙間から、溶岩のように熱く燃える赤色が見える。猛烈な熱を放っている拳大のその石を、僕は呆然と眺めていた。ふと隣に彼女がいることに気が付いて、僕は彼女を見た。同じく謎の衝撃に吹き飛ばされたらしい。ぽかんとした顔を浮かべた彼女と僕は、揃って顔を校庭に向けた。
校庭が燃えていた。
「おわ」
現実を認識できない、気の抜けた声を出してしまう。
空から降ってくる流星がこちらに落下してくる。拳大から顔くらいまでの石は地面にぶつかると、キィンと金属を弾いたような音を立て、凄まじい衝撃を生み出して大地を揺らす。膨れた炎が周囲の芝に引火してたちまち小さな火の海が広がっていく。
隕石だ。と僕は呆然としたままの声で呟いた。
「うわぁ――――っ!」
野球部の誰かの叫び声に、唖然としていた僕達は我に返った。それを待っていたかのように流星が雨のように校庭に降り注いだ。
キィン。キィン。キィンキンキィン。キィ、キキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキキ。
一瞬で校庭はパニックに陥った。皆がその場から走り出すのを見て、僕もすぐさま走り出そうとした。だけど足が動かない。恐怖のせいで、ガクガクと痙攣したように震えている足を見下ろして、僕は恐怖の悲鳴を上げた。
全身を猛烈な勢いで血が駆け巡る。脈動一つがハッキリ聞こえるほど、一刻も早く逃げようと全神経が過敏になっている。だというのに、足だけが、どうしても、地に縫い付けられたように動かない。
は、と顔を上げたときにはもう遅い。眼前に迫る流星は、巨大に見えた。
あ。これ、死ぬ。
ガァン。と強烈に頭を地面にぶつけた。目の前に火花が散る。けれど頭に響く痛みは、地面に打ち付けたことによるものだけだ。その痛みより、背中に感じる誰かの体温の方に、僕の意識は持っていかれた。
ぬるりとした温かな液体が背中を這う。歯の根を鳴らしながらゆっくりと振り返った僕は、僕の背中に覆いかぶさっていた彼女を見て息を呑んだ。額から血が流れ、ピンクの髪が赤く染まっている。
彼女は瞬きをし、ぼんやりとした目を僕に向けた。見た目ほど酷い怪我ではなさそうだ。緊張と安堵が入り混じり、思わず怒鳴ってしまう。
「どうして庇った!」
彼女は僕の声には答えなかった。額に指を這わせ、血が付いた指を見て、痛い、と一言呟いてぽろぽろ涙を流す。血がまた流れて、ぬいぐるみのガラスの目玉に垂れた。
「早く逃げなきゃ駄目だろ! 僕のことなんてほうっておいて…………!」
こうして話している間にも流星はすぐ近くに降ってくる。彼女を抱えて逃げようとして、けれど手足が震えてすぐにしゃがんでしまった。
額にぷつぷつと汗が浮かぶ。体の内側が燃えるように熱かった。だけど指先は氷をくっ付けたみたいに冷たく、感覚さえおぼろげだ。
「ひ、ひ、避難訓練でも言われるだろ! とにかく自分の命を優先しろって! ……まだ、走れるかい? にげ、逃げてくれ。君一人で。ぼ、僕は足が……動かないから……早く…………」
目の前で血を見たからか、突然の出来事にパニックになってしまったのか。足の震えは次第に強くなり、最早立っていることもできなかった。
突如現れた死の恐怖に涙が滲む。情けない姿だ。だけど、なけなしの理性が僕を叱咤する。自分を庇ってくれた年下の女の子に対して、先輩であり男であり一人の人間である僕がすべきは、動けない自分を捨てて逃げろと告げることだ。
彼女が僕に手を伸ばした。温かな指先が、僕の涙をぬぐう。
唖然とする僕に彼女は微笑んだ。
「あなたを見捨てることなんてできないわ」
数メートル先に隕石が落ちた。弾けた火の粉が一瞬周囲を明るく照らす。汗と血に濡れたピンクの髪が爆風に揺れた。
「言ったじゃない。私、魔法少女なの」
「は…………」
「この世界を守るヒーローなのよ」
パチパチと視界に閃光が瞬いた。隕石の火の粉が熱く地面に弾けて、僅かな光を放っては消えていく。
僕は彼女に何かを言おうとして口を開いた。けれど出てきたのは悲鳴だった。
僕は見てしまったのだ。上空から降り注ぐ大量の流星を。
何十もの星が僕と彼女の頭めがけて降ってくる。今から逃げたって、到底助からない。
彼女は空を見て、一歩前に足を踏み出した。両手を胸の前で掲げまるで祈るようなポーズをとる。
逃げろと叫んだ。間に合わないことは分かっていたけれど、そう叫ばずにはいられなかった。
「大丈夫。死なないわ」
彼女は僕に振り返った。
彼女は笑っていた。
心から嬉しそうな顔で。頬を薔薇色に染め、両の目に光る涙をたたえ、感動的な声で笑っていた。
恐怖も絶望も、これっぽっちも浮かんでなんかいやしなかった。
「だってあなたが言ったんじゃない。流れ星にぶつかって覚醒したら、ロマンチックだなって!」
僕はその笑顔を見て、彼女の意図を悟る。
これは彼女にとって隕石じゃない。彼女の夢を叶えるための、美しいロマンチックな流れ星なのだ。
魔法少女に変身するための。
大量の流星が降る空の下。間近に迫った死の中で、彼女はただ、嬉しそうに笑って言った。
「私は、魔法少女なの!」
「このっ…………大馬鹿野郎!」
彼女は本物の馬鹿だった。
その瞬間を僕は見ていない。あまりの恐怖に目を瞑ってしまったから。
だから流れ星が当たった瞬間彼女に何が起こったのか、それはいまだに、よく分かっていない。
だけど一つだけ言えることは。
確かに。流れ星は彼女に不思議な力を与えたのだろうということと。
彼女は魔法少女にはなれなかった、ということだ。
死んだと思った。
僕の体は隕石に押し潰されて、消えてしまったのだと思った。
痛みはなかった。痛みを感じる前に死んでしまったのだなと、諦めに似た達観を抱きながら、僕は閉じたままだった瞼をゆっくりと開けた。きっと視界には死後の世界が広がっているのだうと思いながら。
だから。不思議な光に包まれて宙に浮いている彼女を見たときも。死後の世界ってやっぱり綺麗なんだなぁ、という間抜けな感想を抱いてしまったのだ。
「……………………」
ぼんやりと僕は空を見つめていた。そこに浮かぶ彼女が、虹の色をどれだけ組み合わせたって表現できないであろう、初めて見る色の光に包まれているのを見つめていた。
数秒もして、段々と思考がハッキリしてくると同時に、全身をびっしょりと汗が濡らしていくのが分かる。
なんだこれ。
乾いた舌に砂埃が入り込み、ジャリリと不快な音がしても、ぽかんと開いた口を閉じることができなかった。痛いほどに目を見開き、瞬きさえも忘れてその光景を見やる。
人が宙に浮かんで、光っている。
落ちてくる隕石はその光に触れると、存在ごと消滅したように砂となって消える。
「うそだろ」
乾いた笑い声は、本当にそれが自分の声なのかと疑うくらい、ガサガサに掠れていた。
光が徐々に形を変える。その中にいるであろう、彼女の姿ごと変えていく。
例えば、制服の袖が、フリルたっぷりの可愛い袖に変わるみたいに。
例えば、短かった髪の毛が、腰まで届く長さに変わるみたいに。
「まさか」
僕も知っている。その光景は、昔よくテレビで見ていたものとそっくりだった。怪物と戦うヒーローが変身する姿とそっくりだ。悪の組織と戦う女の子が魔法少女に変身するときの魔法とそっくりだ。
「まさか!」
諦めなければ夢は叶う。
魔法少女になりたかったちょっと変わった女の子は。
本当に、夢を叶えたのだろうか。
……………………でも。魔法少女って、こんなに体が大きいものだっただろうか。
光が弾ける。そこから『それ』が現れる。
『それ』の叫び声が、校庭中に響き渡った。
「縺薙?譏溘?逧??遘√′螳医k!」
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