第三幕

三、室町菜種問屋常州屋座敷の場


母親 〈おぉい、ねぇ、才さん、才さん、起きとくれよ。才さん、おぉい〉

若旦那 〈(ようやく目を醒まして、なお寝惚けながら)フゥアァ・・・はい?あら、母様、どうした?あれ?私ァ寝ておったのかな?〉

母親 〈何を言ってんだい。朝になって帰って来たと思ったらすぐ倒れるように眠っちゃったんじゃないか。丁稚らにここまで運んで来てもらったんだよ。まったく、お前さんがしっかりしなくちゃ、丁稚や奉公人に示しが付かないんだからね〉

若旦那 〈朝帰り?ああ、そうだ、吉原からの帰りに舟に乗って・・・あれ?沈んだんだっけか?いやいや、それなら帰って来てる訳ないし・・・ん?夢だったのかな?ファァ、一等眠いことだけは確かだ〉

母親 〈まったく、寝惚けてんだねぇ。はい、起きた起きた〉

若旦那 〈うぅん、はいはい。マァとにかく、何か寝覚めの悪い、嫌な感じ・・・フアァ(ト大欠伸)

あっ、そう言えば、母様、今日はやけに体の具合が良さそうだのう。いつも床に寝てるのに、今日に限っては大丈夫なのかい?〉

母親 〈(急に表情を曇らせて)えっ、ええ、御蔭さんで、今日は何でかスッカリ良いんですよ。何ででしょうネェ・・・。そうだ、今御茶でも持って来ますからね〉

若旦那 〈いいよ、私も何か手伝いますよ。さて、と(ト座敷の襖を開けて出ようとする)〉

母親 〈いやいやいやいや、いいんだよ。お前さんはここに居なされ。母さんが全部やってあげるから(ト引き留める)〉

若旦那 〈ん?ああ、そうか。それならお願いしますよ〉


【座敷に一人ぽつねんと残された若旦那は、まだ眠い目を擦りながら火鉢にあたり、一つ眠る前の出来事を思い出してみようと努めます。かくする若旦那は、先程の母親の様子に何かギクシャクしたものを感じ不可解に思っております】


若旦那 〈(独り言で)アァ駄目だ。全然思い出せん・・・。仲へ行って、お蝶には逢ったか。うん、逢ったな、楽しかった。それから・・・朝になって日本堤を歩いて帰ったんだっけ。それから・・・ウゥン・・・何だっけ・・・アッ!そうだ、向島だ。向島に行こうと舟に乗ったんだ・・・でも、何で向島なんかに行こうとしたんだっけ?ウゥム、よく分からんな。アァ、あの二人の連れ聞いてみりゃあ良いんだ。マァしかし、向島に寄り道はしたが、何とか帰って来れたみたいだな。よかったよかった〉

母親 〈はい、お待ちどうさまでした。お寒いでしょう?熱い御茶を淹れて来ましたよ。サァお上がり(ト言いながら襖をピタリと閉め切る)〉

若旦那 〈ああ、母様ありがとう〉


【そこへ、座敷の外より、仏壇に向かい上げていると思われる法華経の題目が、『南無妙法蓮華経』と聞こえて参ります。若旦那は家の誰かが題目を唱えているのだと特に意にも介しませんが、母親の方は題目をかすかに聞いただけで突然、苦悶の色を滲ませます】


母親 〈うっ、ハァハァ・・・(ト息遣いが荒くなってゆく)〉

若旦那 〈母様、大丈夫か?やっぱり病気の方がまだ快くなってはいなかったんだな。ササ、早く薬を飲んだ方がいい(ト改めて出て行こうとする)〉

母親 〈うっ、苦しい・・・ハァハァ、襖を開けないでおくれ。グアァァア(ト尋常でない苦しみよう)〉

若旦那 〈こりゃあ、どうしたんだ?母様、我慢しててくれ。すぐに薬と水を持ってくるから(ト襖を開け放つ)〉


【若旦那が座敷を出て次の間へと進みますと、そこには仏壇があり、その前には家の者が揃ってさめざめと泣き暮れております】


父親 〈お前・・・どうしちまったんだい・・・(ト涙ぐんでいる)〉

弟達 〈母様・・・ウッウウ・・・(ト泣く)〉

妹達 〈ウワァァァン、ビエェェッェ(ト同じく泣く)〉

若旦那 〈(この様子を背後からうかがって)ん?みんな揃って、一体どうしたんだ?店の方はいいのかな?〉

弟  〈そういえば、才右衞門兄さんは?ウウッ・・・〉

父親 〈才右衞門の奴・・・こんな時にも外をほっつき歩いていやがって・・・〉

若旦那 〈(仏壇の方へと近付きながら)おいおい、俺ならここにいるじゃあないか。揃って悲しそうにして、どうかしたのかい?

(仏壇の見て驚き)えっ!おい・・・嘘・・・。何で母様がこんな・・・。だって、さっきまで(ト急いで座敷へと戻る)〉


【若旦那が元の座敷へと戻って参りますと、そこはまったくのもぬけの殻と言った有り様】


若旦那 〈(呆気に取られて)えっ?母様?居ない・・・・これは、どういう・・・。じゃあ、さっきまでのあれは・・・〉


【さすがの若旦那もサァーっと血の気が引いて、凍える冬の寒さとは異質の悪寒が背筋を走ります】


若旦那 〈ちょ、ちょっと、みなに聞いて来よう。お、おぉい〉


【そして若旦那が家族のもとへと走り寄ろうとした途中、先の悪友二人が店の方からぞんざいに居間の方へと、ふためきながら駆け込んで参りました】


悪友一 〈て、て、て、テェヘンだ、テェヘンだ。若旦那、いらっしゃいますか?〉

悪友二 〈ハァハァ、突然上がり込んじまいまして、相すみません。だがね、それほどの一大事なんですよ、若旦那ぁ〉

若旦那 〈一体全体、どうしました?ちょうどよかった、こっちも大変面妖なことがありましてね。昨夜から今朝にかけての、事の次第を聞きたいと思っていたところなんです〉

悪友一 〈マァ、仔細は後から詳しくお話ししますんで、まずは一緒に来ておくんせぇ(ト若旦那の手を無理矢理引いて家から連れ出す)〉

若旦那 〈ちょ、ちょっと、分かりました。分かりましたよ。行きます、行きます〉

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