第二幕

二、渡し舟舟中の場


【かくて吉原からの帰途、三人は酔った若旦那の気紛れから、帰路ではないはずの向島へと赴くことになりました。娘さんをお目当てに、竹屋の渡し場から一葉の小舟に同乗しつつ、大川の川波にユラリユラリと揺られながら進んでゆきます。悪友二人は漫ろ櫂の雫を見守っておりましたが、若旦那はと言うと、娘さんを繁繁と見詰めて今にも酔いに委せてちょっかいを出しそうな勢い。若旦那は、娘さんの連れの三度笠を目深に被った如何にも怪しげな男の存在にはまったく意識が行き届いて無い模様で、いよいよ危なっかしくなって参りました】


娘  〈(若旦那との御喋りの末)おほほ、面白うございますわぁ。マァ、お上手ですこと〉

若旦那 〈あっはっはっは、いやいや、何も冗談で言ってる訳じゃあないんですぁ。こんな所で、まさか今小町に出くわすとは、浮世はいかばかりか狭いんでしょうナァ〉

連れの男 〈・・・・・・・・・(ト目深に被った三度笠の中から三人へ鋭い眼光を向けている)〉

娘  〈(連れの男の素振りを気にして)マァ、御世辞の言い合いっこはここまでに致しましょうか。もうすぐ向島ですよ〉

若旦那 〈えぇ、まだいいじゃないですか。そうだ、向島に着いてからはどうするんだい?どっか行く所があるんですかな?〉

娘  〈え、おほほ、そりゃあ、まあ・・・(ト応答を渋る)〉

連れの男 〈・・・・・・・(ト船底を一つ大きく踏み鳴らす)〉

若旦那 〈(酔いに加え舟の揺れも相待って、吐き気を催し)うっぷ・・・〉

悪友一 〈マァマァ、若旦那、もういい加減お引きなすった方がいいかと思いますよ。ほら、隣の連れの男の様子を見て御覧なせぇ。今にもこちらへ躍り掛かって来そうな気色ですぜ(ト小声で囁く)〉

悪友二 〈ありゃあ只事じゃあありやせん。きっと、この娘と何か訳有りですぁ。関わり合いにならないのが身のためですぜ。ささ、こちらへ〉

若旦那 〈うるさい、うるさい。ねぇねぇ、若しよかったら、百花園にでも御一緒しませんか?こんなところで逢ったのも合縁奇縁の類だとは思いませんか?ははは〉

娘  〈ははは、ありがたいお話ですが、ちょっと・・・ネェ〉

若旦那 〈そうだ、あなた、お名前は何とおっしゃるのですか?〉

娘  〈えっ・・・名前・・・ですか?(ト連れの男をうかがう)〉

連れの男 〈・・・・・〉

娘  〈ああ、私は・・・えっと、私は・・・弁天とでも、マァ名のって置かせて貰いましょうか。ほほほ(ト嫣然としてごまかす)〉

若旦那 〈いやいや、私に非礼が無いようにして逃げようったって、逃がしゃあしませんよ〉

悪友一・二 〈ちょっと、若旦那。あんまり おふざけが過ぎるとよくないですぜ〉

娘  〈あっ、いや(トもたれ掛かろうとしてくる若旦那に閉口の体)〉


【ここまで若旦那の傍若無人ぶりに黙っていた連れの男が、いよいよ業を煮やしまして、突如三人に向き直って凄みますことには】


連れの男 〈(ガバと向き直り)おいおい、手前ら、何を目の前で人の女にちょっかいを出しやがる。黙ってきたが、もういい加減、我慢ならネェ。これ以上なめた真似すんなら、まとめて叩っ殺すぞ、エェ?〉


【こう言って目深に被っていた三度笠を脱ぎますれば、男の額から頬にかけては藪睨みの右目を割るように残る刀傷がくっきりと見えます。そして男が羽織る褞袍の広袖をグイとまくると、その露わになった腕には今日の雪の中でも花盛りの桜花の刺青が咲いております。そのなりは一見してすぐに、男が世に言うやくざ者であると分かるような風体であります。そして男は次いで、若旦那を充分どすの利いた声で威嚇しますと、その若旦那は】


若旦那 〈ウワァ・・・まさかお連れの御方がいらっしゃいましたとは・・・。あわわ、相すみませんでした・・・・(トにわかに萎み込んで二人の悪友の背後に隠れる)〉

連れの男 〈おう、分かったか?あんまりいい気になると容赦しねぇぞ(ト船縁を強く敲いて怒鳴る)〉

船頭 〈あのう、あんまり暴れて貰っちゃうと、舟の方が持たないんでね。いい加減のところで勘弁してくだせぇな〉

娘  〈そうだよ、あんた。もういいじゃないか〉


【この連れの男の一喝で、若旦那の方は大人しくなりましたが、ここまで喧嘩腰に言われて黙っちゃいられなくなったのが血気逸る二人の悪友であります。彼らも町内では札付きの悪として評判の者。最初のうちはこちらの非を認めておりましたが、ある所で堪忍袋の緒が切れたと見えて、突如売られた喧嘩を買うような威勢に変じまして】


悪友二 〈おいおい、ちょっと待ちやがれ。そりゃあ何でも言い過ぎじゃありやせんかね?そこまで居丈高に怒鳴りつけられて、黙ってられるか、なあ兄弟?〉

悪友一 〈おう、そりゃ無理だぜ、兄弟。こっちぁ根っからの江戸っ子は神田っ子だ。どこぞの田舎村から洟垂れながら出稼ぎに来た野郎とは違ェや、畜生め〉

連れの男 〈何だと?そんな口を利いてただで済まされると思うなよ(ト掴み掛かる)〉

悪友二 〈そりゃこっちのセリフだ。おい、来た。やるぜ〉

悪友一 〈合点承知、そらよっと〉

船頭 〈お客さん達、本当に落ち着いてくんねぇ。舟がひっくりけえっちまうよぉ〉

娘  〈ちょっと、あんた、やめてよ(ト連れの男を制止しようと試みる)〉

若旦那 〈あわわ、危ない、危ない(ト小舟の揺れに右往左往する)〉

悪友二 〈痛ェ、やりやがったな〉

連れの男 〈おうよ、まだまだ〉

船頭 〈ああ、駄目だ。櫂や楫の棒っきれじゃ支え切れん。冬の大川に投げ出されるぞ。俺ぁ知らねぇ〉

娘  〈きゃ、きゃぁぁ〉

若旦那 〈うわ、うわ、うわぁぁ〉


【渡し舟に乗り合わせていた客から船頭に至るまで、皆の悲鳴が寒中の大川の水面に谺します。叫び声と舟の転覆する音の中、うやむやに場面転換。気が付くと、若旦那は自分の店の奥座敷で目を醒まします。これまでの顛末が、果たして現実であったのか、はたまた夢であったのかも判別が付かないでおります】

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