【落語台本】浮世舟(うきよぶね)
紀瀬川 沙
第一幕
一、竹屋の渡しの場
【ここは大川に設けられた渡し場の一つ、竹屋の渡し場であります。季節はちょうど師走の厳冬の頃、まさに寒極まると言った時分のこと。ここ竹屋の渡し場では、吉原と向島とを行き来する遊客が、あまた舟を乗り降りしております。吉原に通う遊客は、山谷堀を通る者以外は皆日本堤を、行きは浮き浮き、帰りは恋々と歩いてゆきます。そこへ、明け方から降り続く小雪の中、これもまた昨晩は夢一夜、豪勢に遊び呆けたと見えます遊客三人組が酔いながら、うち一人は早くも二日酔いへの向かい酒に泥酔の体で、日本堤をふらふらと蹌踉めき歩いて帰って参ります】
若旦那 〈(酔っ払って千鳥足で、横の二人に支えられながら)おっとっとっと、あれ、もうお帰りかあ?何だ、もう朝だったのか。ああ、おうい、お蝶、お蝶――、居るかぁ?私じゃ、才右衞門じゃ。また来るからナァ、待っててておくれぇ。ハァ・・・見返りゃ柳が袖を振る、ってかあ。あらら、柳、無い。大門も。どうした、どうした?あっ、寒い。なんじゃ、この寒さは?うぅん、お燗をくれ〉
悪友一 〈あぁああ、まったく。若旦那、しっかりしておくんなせえな。もう吉原は出たんですよ。柳も大門も見えませんぜ。ほら、今は堤にいるじゃありませんか。大丈夫ですかい?早く御店にお帰りになんねぇと。家の人に又叱られるかもしれませんよ。いや、叱られるだけならいい、今日という今日は、勘当かもしれませんぜ。そうなりゃ一緒に遊んでたこっちも寝覚めが悪ィや〉
若旦那 〈勘当はいやじゃあ。でも帰るのもいやじゃ。お蝶といるぅ、お蝶――〉
悪友一 〈ああ、どうしようもねぇな、こりゃ。おい、どうすっか?(ト悪友二へと訊ねる)〉
悪友二 〈(共に若旦那を支えながら)ううん、まったく若旦那にゃ困り果てたぜ。これで御家の方には病に伏せてる母親がいるって言うからな。でもマァ、昨日はこの御方が全部銭出してくれて、俺らはその相伴に与れたんだから、うっちゃって置く訳にもいかねぇだろ〉
悪友一 〈おうよ、義理ってもんがある。江戸っ子たるもの、そりゃあ出来ねえ算段だ。しょうがねえ、俺らが送り届けるか。おい、若旦あの御店は何処か手前知ってるか?〉
悪友二 〈たしか・・・えっと、日本橋の室町じゃなかったっけか?若旦那、あんた、御店は何処ですかい?今から送って行きますから〉
若旦那 〈ん、店?室町の菜種問屋は常州屋だが、それがどうした?あ、帰る気か?いやいや、帰りたくはないんじゃ〉
悪友二 〈そうだそうだ、室町は常州屋だ。昨夜何かそんなこと言ってたような気もするが、酔ってて覚えちゃいなかった。それにしても、室町の常州屋たぁ、びっくりだ。常州屋と言やあ、あの辺りを往来する皆が驚いて見上げる程高い棟の大店じゃねぇか〉
悪友一 〈なるほど、そりゃあ、あんな大盤振る舞い平気で出来るはずだ。病床のお袋さんにゃあ申し訳ねぇが、若旦那が遊び呆けていられることも納得が出来らぁ。とにかく、急ごうぜ。あわよくば謝礼かなんか頂けるかもしれネェ〉
若旦那 〈酒――、酒はあるかぁ?昨夜は呑みすぎた。咽が渇いて仕方がないんじゃ。おぉい、誰か〉
悪友一 〈はい、はい、若旦那、少しばかり辛抱しててくだせえな。そうだ、御屋敷に着いて、酔いが醒めた時にゃあ、俺らのこと忘れてもらっちゃあ嫌ですぜ(ト不敵な笑みを浮かべて言う)〉
【三人がかようなやりとりを繰り広げて日本堤をかなりの時間を掛けて歩き、ようやく大川の岸まで到りますと、先程までは三人の後方を歩いておりました一組の男女が既にすぐそばまで追い付いて来ておりました。その通り掛かりに、酔った若旦那が女の方を瞥見するに、これが若旦那の好みに上手く嵌った艶やかな女振りであります。酔っていた為に連れの男が目に入らなかった若旦那は、果敢にもその女に尾いてゆこうとします】
若旦那 〈あっ、美人、美人だぁ。綺麗だなぁ。私の一番好む顔をしとるよ。いいなぁ。あっ、一人で渡し舟に乗るつもりみたいだ。危ない危ない。おい、こら、二人、私らも行くぞぉ(ト船頭の待つ竹屋の渡し場へ酔った脚を向ける)〉
悪友一 〈駄目ですよ、若旦那。あの渡しは向島に行くんだから。俺らが帰るのは向島じゃありやせん、こっちこっち〉
若旦那 〈ええい、いいんじゃ。あの娘の身を心配して、ちょいと向島まで付き添ってやろうと言うに。ひっく、酒はまだか?お前さん達ぁ、昨夜一晩誰のおかげでいい夢見れたと思ってる?ええ?〉
悪友二 〈あ~あ、そう言われちゃ、こちとらぐうの音も出ねぇや。仕方がネェ、おい、兄弟、こうなったら若旦那にとことん付き合ってやろうじゃネェか〉
悪友一 〈本気か?しようがネェなぁ。はいはい、若旦那、それじゃ舟に乗りますよ。足許気をつけて下せぇな〉
船頭 〈へぇい、ありがとうごぜぇやす。この舟は向島の岸まで参りやすんで。お乗りになってお待ちくんなぁ〉
若旦那 〈はっはっは、どうせ行くんだ、向島じゃあ一つ、寒中の釣りとゆくか。おおい、今の時節、何が釣れるかな?〉
悪友一 〈若旦那、舟の中じゃ大人しくしといて下さいよ。酔って下手に暴れて、舟がひっくりけえってでもしてみろ、みんな一蓮托生だから。釣りですか?どうでしょうねぇ、ハゼくらいなら釣れるんじゃネェですか?〉
若旦那 〈そうじゃ、あの娘子はいづこ?おおい、おおい〉
娘 〈あら、これはこれは、先程渡し場にいらっしゃった御三方じゃございませんか。渡し舟でも御一緒とは、奇遇ですネェ〉
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