第四幕

四、船大工潮五郎長屋の場


【誤解が増幅し、潮五郎は焦って帰宅します。例によって、お舟は筆を片手に歌をひねろうとしているところ。過去の文集なども借り本から参照し、古今や新古今などを見比べております】


お舟 〈世の中に たえてさくらのなかりせは 春の心は のとけからまし〉

潮五郎 〈やいやいやい、帰ったぞ。いるか?〉

お舟 〈袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つ今日の 風やとくらむ,〉

潮五郎 〈おい、いい加減にしやがれ〉

お舟 〈あら、帰ってきたのかい?早かったねえ〉

潮五郎 〈うるせえ。今な、講釈を聞いてきたんだ〉

お舟 〈この短い合間に、寄席でも行ってきたのかい?〉

潮五郎 〈大道だ、大道。今日は鉄砲洲稲荷様の縁日だろ?〉

お舟 〈そういえば、そうだったね〉

潮五郎 〈そこに詣でてきたんだが、そこで講釈師がいてだな〉

お舟 〈そうかい。あたしは和歌で、あんたは講釈、ってのもいいんじゃないのかねえ?〉

潮五郎 〈そんなことを言ってんじゃねえ。その講釈でな、いかに和歌っつううのが奈良や京の都で道ならぬ色恋沙汰に使われてたかを言ってたぜ〉

お舟 〈なんだい、そりゃ?藪から棒に〉

潮五郎 〈和歌とは、そんなものだったのか?ふざけるんじゃねえやい〉

お舟 〈ん、何を言ってるんだね?あたしの習ってるものとは、全然違うから困っちまうよお〉

潮五郎 〈どう違うって言うんだ?〉

お舟 〈馬鹿だね、お前さんは。何を勘違いしてるんだね?そもそも、いつの話をしてるんだね?〉

潮五郎 〈おう、なんだっけな、今の江戸じゃねえことは確かだ〉

お舟 〈要領を得ないねえ。この長屋の粗忽者といったらお前さんだよ。これだから、先生と違ってよくわからない人はわからないよ。おおかた、藤原時代とかなんかの物語を聞きかじりしたんだろう?〉

潮五郎 〈また言いやがった。うるせえ、光る云々たあ、覚えてら〉

お舟 〈ああ、かの有名な紫式部の物語だろ〉

潮五郎 〈どうだか知らねえが、何とかっつう巻のなかじゃ、何とかっつう和歌がとんでもねえ野郎と女の逢引きの手管になってやがった。おめえの習ってるのはそんないけすかねえものなのか?ええ、どうだ?〉

お舟 〈まったく、本当に困った人だね。何百年前の話だよ。ここはお江戸、場所も違うし時代も違うよ。今の世で、んなことありゃしないよ〉

潮五郎 〈安心できるか。和歌自体の意味は、所が変わろうが、時が変わろうが、変わりゃあしねえじゃねえか〉

お舟 〈でも人が変われば、使い方は変わるよ〉

潮五郎 〈嘘つけ。ついこないだからどうも怪しかったんだ。誰かとは違う、誰かとは違う、なんざ毎日言いやがって〉

お舟 〈どうすりゃ信じてもらえるのかね?馬鹿につける薬はありゃしないよ〉

潮五郎 〈そこまで言うなら、よし決めた、俺が実地に行って、確かめてきてやらあ〉

お舟 〈馬鹿だね、恥ずかしい。んなことするまでもないよ〉

潮五郎 〈やましいことがなきゃ別にいいだろうが〉

お舟 〈なくたって、んな馬鹿な真似させられるわけないだろ〉

潮五郎 〈いいや、こうなったら直談判しなきゃ気が済まねえ〉

お舟 〈やめておくれよ〉

潮五郎 〈止めるんじゃねえ。化けの皮、ひんむいてやらあ〉

お舟 〈待ちなよ、お前さん〉

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