第二幕
二、船大工潮五郎長屋の場
お舟 〈しきたへの 枕の下に 海はあれど 人をみるめは 生ひずぞありける〉
潮五郎 〈おう、帰ったぞ〉
お舟 〈天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出し月かも〉
潮五郎 〈おおうい、帰ったぞ。習い事のおさらいもほどほどにしろ〉
お舟 〈あをによし 奈良の都は 咲く花の にほふがごとく 今さかりなり。あれ、お前さん、帰ってきてたのかい?〉
潮五郎 〈そうだよ。おめえが歌に夢中になっているところで気が付かなかったんだ。いいか、習い事っつうのは普段の暮らしをしながらやるものなんだ〉
お舟 〈なんだい、私が普段の暮らしをできてないって言うのかい?〉
潮五郎 〈そうじゃあねえが〉
お舟 〈だったらとやかく言ってほしくないねえ。お前さんだって、遊びばかり、年がら年中じゃないか〉
潮五郎 〈それとこれとは話は別でえ〉
お舟 〈どう別だって言うんだね?いつもそうさ、都合が悪くなると決まって〉
潮五郎 〈俺はそんな姑息な真似をした覚えはねえさ〉
お舟 〈これじゃ、いつまでたっても終わりゃあしないさ。それよりお前さん、どこかで硯を借りてきておくれよ〉
潮五郎 〈近所のご隠居んとこに行けばいいじゃねえか〉
お舟 〈それがなかなか、できないよ。あたしのご近所付き合いのことも、考えておくれよ〉
潮五郎 〈俺が行こうがお前が行こうが、大差ねえと思うがね〉
お舟 〈大違いさ〉
潮五郎 〈まあいいが、硯が届いたところで、どうせ今度は紙屑が増えるだけだろ?〉
お舟 〈なんだい、それは。歌は浮かんだときに書き留めないと、後ろ髪はないんだよ〉
潮五郎 〈よくわからねえな〉
お舟 〈先生と違って、趣きをわかってくれないねえ〉
潮五郎 〈悪かったな。そんなもん、わかりたくもねえ〉
お舟 〈お願いだよ。ちょっと行ってきておくれよ〉
潮五郎 〈めんどくせえ〉
お舟 〈そう言わずに〉
潮五郎 〈ったく、しょうがねえ。それまでに、その大事な歌を忘れないといいな〉
お舟 〈はあ、嫌なことを言うね、お前さんは。先生と違って〉
潮五郎 〈なんだと、さっきから繰り返し繰り返し〉
お舟 〈何だって言うんだい?〉
潮五郎 〈先生と違って、とは聞き捨てならねえんだ。なんだその言いぐされは?〉
お舟 〈だってそうだろう?いま町中で流行ってる習い事を、女房にも人並みにやらせてやろうって気にならないのかね?〉
潮五郎 〈なるよ。現にやってるじゃねえか〉
お舟 〈でもお前さん、お気に桑名の焼き蛤じゃないの〉
潮五郎 〈その習い事っつうのが、琴みたいな女師匠とのお茶飲みながらの遊びなら何も言わねえ。それが何だ、和歌だとか言って、青っ白い今にも死んじまいそうなひょろひょろの野郎とありがたく〉
お舟 〈先生に何てこと言うんだね。馬鹿らしい〉
潮五郎 〈まったく、これ以上はダメだ。ご隠居んとこで借りてきたら、ここに寄って、それからちょっくら外行ってくるぜ〉
お舟 〈最初から行ってくれればいいんだよ。わからない人だね〉
潮五郎 〈うるせえ。わかってたまるかよ〉
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