【落語台本】海松布(みるめ)

紀瀬川 沙

第一幕

一、鉄砲洲浜通り、髪結床の場


潮五郎 〈ふぁ~~、眠い眠い。春眠暁を覚えずってやつか。まだお天道様あかるい朝だってのに眠くてしようがねえや〉

髪結い 〈大きなあくびをなさって。まぁごゆっくりくつろいでくださいな。こざっぱりとした鯔背な格好、とまでいくかはわかりませんが、丁寧にオグシを整えますから〉

潮五郎 〈おう、やってくれ。それにしても、ここんとこ、猫も杓子も習い事習い事と騒ぎやがって。みんな、どんだけ暇があるんだろうなあ?〉

髪結い 〈習い事、ですか?そうですねえ。三味線やら謡やら、賑わってますよねえ。この辺でもちょっと血の気の多いやつぁ、おさむらいでもないのに剣術だ、などと言って、日がな一日えいやえいやとやってますぁ〉

潮五郎 〈そうかい。俺もひとつ、何かの道をきわめてみたいねえ。ふぁ~、眠い〉

髪結い 〈あくびと言えば、その角を曲がって稲荷町のほうへちょっと行きますとね、向かって左に物珍しい看板がつい最近あがりましてね。あくび指南、とか書いてあるんですよ。ありゃ、一体なんなんでしょうね?〉

髪結いの常連客 〈ああ、あれね。なんだか出ているね。それが毎朝門前に出てきて掃除している女が、またいい女なんだ〉

髪結い 〈へえ、そりゃあ人気がでそうな話ですねえ〉

潮五郎 〈あくびかい?何を教えるんだか。ああ、あくびか。今朝から俺も何度も、だ〉

髪結い 〈お客さんなら、ひょっとして達人になれるかもねえ〉

髪結いの常連客 〈私の家の者も、このところ琴に入れ込んじゃってて。よくわからん印が書いてある紙を後生大事に見てますよ〉

髪結い 〈琴ですか、ああ、あの八角院の門前の?〉

髪結いの常連客 〈そうそう〉

髪結い 〈近くを通るとね、いつもぽろんぽろんときれいな音色がこぼれていますよ。あのきれいな音色を弾いているとは、素晴らしい習い事ですね〉

髪結いの常連客 〈きれいなんだがうるさいんだか、わかりませんけどね〉

潮五郎 〈こう聞くと、やっぱり習い事の流行りは、このお江戸中なのかもわからねえな。俺のかかあでさえ、こないだから通ってるところがあるもんなあ〉

髪結い 〈小町と評判のあの?へえ、どちらへ?〉

潮五郎 〈けっ、俺みたいなのがこんなところで言うのも恥ずかしいがよ、和歌なんだよ、和歌。やまと歌、ってやつだ〉

髪結い 〈やまと歌っていうと、五七五七七、の?まあ一首も出てきやしませんが〉

髪結いの常連客 〈あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る。みるめ刈る かたやいづこぞ 棹さして 我に教へよ 海人の釣り舟。ですな?〉

髪結い 〈博識でいらっしゃる〉

潮五郎 〈音色はそんな感じだ〉

髪結いの常連客 〈古の万葉集や伊勢物語にある、貴人の詠んだ歌というやつですな〉

髪結い 〈平城平安の雅な世界なお残る、ですかな?〉

潮五郎 〈俺みたいな貧乏暮らしで貴人の遊びたぁ、勘弁してくれよ。その通ってるところってのも、下町暮らしの長屋風情にそぐわねえ、町内の一角に藤原堂なんて看板出してるところなんだ〉

髪結いの常連客 〈やまと歌で藤原とは、それらしいですな〉

潮五郎 〈その門からのぞく先生とやらの野郎の面もまた、青っ白い面してやがんだ。短冊と筆しか持てねえような細さだしな〉

髪結い 〈聞けば聞くほど、貴人然として、雅ですねえ〉

髪結いの常連客 〈しろたえの~〉

潮五郎 〈(さえぎって)川柳だか狂歌だか知らないが、うちのかかあの最近の口癖が「先生と違って」「先生と違って」ばっかりだ。ふざけんな、まったくよ。平安だか源氏だか竹取だが知らねえが、江戸に入りては江戸に従えだ〉

髪結い 〈ごもっともだねえ〉

潮五郎 〈おう、髪ももう仕上がったな。じゃあよ、これで俺ぁ戻るぜ〉

髪結い 〈ありがとうございました〉

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