黒衣を纏い

「うおおおおお!!あんな可愛い女の子と握手しちゃったんだよな。いや、確かに機械だけど、手の感触とかめちゃくちゃ柔らかかったし、女の子に変わりはないよな」


 俺は着替えるために、一人廃ビルの影に隠れていた。きっとその必要はなかったのだろうが、他人の眼があるのはやはり落ち着かない。


 一人になった途端、得も言われぬ嬉しさが込み上げてきて思わず声を上げて喜んでしまう。女の子の柔肌に触れるなど、記憶のある内には経験していないのだから。


 それにアザミは見た目に関してはかなりの美少女なのだ。あんな美少女の手に触れられれば誰だって手放しで喜ぶだろう。


 あの感情の色の無い声と以前の戦闘の光景を目にしていなければ、俺はたぶん彼女に一瞬で惚れていたと思う。


「それにしても、なんかエヴァに乗せられっぱなしな気がするけど、本当に大丈夫なのか……。敵と戦う前に殺されたりしないだろうか……?」


 俺は肌に張り付くようなピチピチのパワードスーツを身に纏いながら、数日前の光景を思い出す。


 彼女はまるで海を泳ぐように空を舞い、虫でも潰すかのような勢いで敵を薙ぎ倒していった。


 その光景は俺にはあまりにも非現実で、夢を見ているとしか思えなかった。けれどあれは目の前で起きていた現実で、あそこにあったのは紛れもない戦争だったのだ。


 ただ俺は、そんな戦場を駆け抜けた彼女とこれから戦わなければならないのだ。


 そんなの自殺行為も甚だしい。正直、このスーツを着てどこかに逃げたいというのが正直なところだ。


「まあ、逃げても死因が変わるだけだろうな……」


 逃げたいという思いとは裏腹に、ここを出ても生きていける気がしないという気持ちもある。ここから逃げ出しても、俺は行く宛もないだろうし、頼る相手もいない。


 感情のある人間がいるのならまだしも、どこかに行きついたとしても、そこにいるのは頭の中で行われた計算結果に従って行動するアンドロイドたちだけ。


 そんな者たちに頼っても、俺はきっと誰にも助けてはもらえないだろう。


 どちらにしろ死んでしまうなら、覚悟を決めたことに全力で立ち向かって死んだ方がマシだ。それが、俺が人間として出した、何の根拠もない答え。


 でもそれが、この機会で埋め尽くされた世界で、俺を人間たらしめてくれる。


「覚悟を決めろ五十嵐 亜希斗。これまで野球で鍛えてきた往生際の悪さを、今活かさないでいつ活かすってんだ」


 俺は自らの両の掌で頬を叩きながら気合いを入れ直す。


 足掻いて、足掻いて、それでも駄目だったらそのときに考える。そう、自分の心に誓ったから。


 人間には心がある。機械が埋め込まれた演算子に頼るように、俺は心に従ってこの世界を生きていくのだ。それが人間としての在り方だから。


 俺は気持ちを奮い立たせて、一歩前に踏み出す。自らの心に導かれるままに……。


「待たせたな!!」


 俺はしっかりとスーツを着こなして、そのスーツ姿を見せつけるかのように彼女たちの前に姿を表す。


 俺だってこの人生、常に運動を続けてきた男だ。こういうピタッとした素材は存外映えるはずだ。それが黒色ともなれば、そこそこカッコいいだろうと、この時の俺は思っていた。


 だが彼女たちは、相変わらず何の感情もなくこちらを眺めていた。それはもう、何も思うところは無いというように……。


「ぐっ…………」


 自分があまりにも滑稽に思えた。苦しかった。辛かった。


 あまりの恥ずかしさに胸を押さえつけ、倒れそうになるのを俺は必死に堪えていた。


 まあ、エヴァに関しては、必死に笑いを堪えているように見えたが。というか、めちゃくちゃ楽しそうだな、おいっ!!


 俺は期待一割くらいで出ていったつもりだったが、やはりこの反応は心を抉られる。


「では、戦闘訓練を始めます」


 俺のそんな心の中の葛藤はどこ吹く風というように、アザミが一歩前に出て俺に地獄への導きを告げる。感情の色がない、その声音で……。


 その瞬間に俺の表情筋が一気に引き締まるのを感じる。表情筋だけではない。身体中の筋肉という筋肉が俺の意思とは無関係に、目の前の美少女に怯え、硬直する。


「ああ……」


 なんとか絞り出せたのは、言葉とも言えない相槌のような返事だけ。


 目の前の美少女を凝視しながら、俺の身体は無意識の内に震え始める。この先に待ち受けるであろう地獄に対して。


「では、まずはその掌で、私の身体のどこでもいいので触れてみて下さい」


「へっ?」


 俺の緊張など知る由もなく、告げられたのはただ美少女の身体を触るという内容のものだった。なんかこれだけ聞いたら、卑猥な妄想しかできないような……。


「ですから、どこでも構いませんので、貴方の掌で私の身体に触れてみて下さい。遠慮はいりません」


 俺の顔が一気に熱を帯びて火照るのを感じる。やっぱり機械だから羞恥心というものがないのだろうか。


 しかし、それならば好都合だ。相手の了承のもと、男の欲望を叶えられるとは。


 俺は拳を強く握りしめると、アザミを真っ直ぐに見据える。そして、ビシッと効果音が聞こえてきそうなほど、真っ直ぐに突き立てられた人差し指をアザミへと向ける。


「言ったからな。どこに触ろうが、文句言うんじゃねえぞ」


 何とも大人気ないというか、節操がない。視界の端で、エヴァが深い溜め息をついているのが 見えたが、気がつかない振りをして俺はアザミを凝視し続けた。


「はい、構いません。では、始めます。どこからでも掛かって来て下さい」


 そんな俺の視線を受けてもアザミは構えようとすらしない。直立したままの格好で、俺から動くのを待っている。


「後悔させてやるからな……」


 何だか舐められているような気がして、多少腹が立ってきて、俺は自分にしか聞こえない声でそんなことを呟いた。


 少し考えれば、相手はアンドロイドなのだから、男とか女とかいう性別は見た目だけで、中身は何も変わらないはずなのに、俺は馬鹿みたいなことを口走っていた。


「男を舐めんじゃねえぞ!!」


 俺は空回りした気持ちと異様なやる気を抱えたまま、今度こそ地獄の特訓は幕を開けた……。

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